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発達障がいの労働者が安心して働ける職場は、すべての労働者がそうできる職場
2012/10/30(Tue)
 10月30日(火)

 10月17日、労働科学研究所主催のセミナー 「発達障害とメンタルヘルス」 が開催されました。対象は、人事担当者や保健室の看護師・保健師、当該労働者などです。講師の星野仁彦福島学院大学大学院・教授は、アメリカ留学時の経験を含めて日本で最も早くに発達障がい問題に取り組んだ方です。
 講演内容は医学的説明も盛り込まれていましたが、配布された資料から医学的部分を割愛し、口頭での補足説明を追加して報告します。

 「発達障害」 という言葉は1980年にアメリカの精神医学が使用を始めました。
 日本での取り組みはアメリカに比べると40年遅れています。2005年にやっと 「発達障害支援法」 が成立し、地方自治体には相談窓口が設置されたりしています。
 しかしいい言葉ではありません。星野教授は 「アンバランス症候群」 が正しいのではないかと言っていました。

 発達障がいとはどういう症状を指すのでしょうか。
 星野教授は、「発達障がいとは、注意力に欠け、落ち着きがなく、ときに衝動的な行動をとるADHD、対人スキルや社会性に問題のある自閉症やアスペルガー症候群(AS)などを含む広汎性発達障がい(PDD)、読む・書く・計算など特定の能力の習得に難がある学習障がい(LD)などの総称である」 と言います。
 どのような発達障がいか、それらは症状なのか個人の特性・性格なのかわかりにくいです。また年齢や発達段階によって状態像が大きく変化します。思春期以降に種々の2次障がい・合併症を示し、元来の発達障がいが隠れて見えにくくなっています。いくつかの症状が重なっている 「重ね着症候群」 です。合併症としてはうつ病、不安障害、社会的引きこもり、パーソナリティ障がい、依存症・嗜癖行動などです。
 大人が合併症を併発する理由は、小児の頃から周りの評価が低かったり、親・教師からの叱責・注意が多く、他児からいじめられやすいため、自己評価・自尊心が低くなっていたりするからです。また家庭環境のなかで基本的信頼関係や安心感を得られにくかった場合もあります。
 そのため、診断する医師は主訴と外来での面接内容と面接時の行動を慎重に検討し、成育歴を詳細に聴取する必要があると言います。

 発達障がいがなぜ重視されるようになったのでしょうか。軽度(高機能)まで含めれば出現率が予想以上に高いこと(10%以上)が挙げられます。ストレス耐性が低く、思春期以降の様々な2次障害や合併症を示しやすいことがあります。 「発達障がいは万病のもと」 と言われます。また、学歴が高くても就労と社会適用性に困難なことが多くあります。特に自閉症とアスペルガーは就職が難しい状況にあります。職場で一番大切なコミュニケーションをとるのが難しいからです。

 ADHDの診断基準は11項目あります。
 1、過去の成果に関わらず力が出しきれない。目標に達していないと感じる。(不適応感)
 2、何事にも計画性がない。(金銭、時間、書類、身辺の整理など)
 3、物事をだらだらと先送りしたり、仕事に取り掛かるのが困難。(先延ばし傾向)
 4、たくさんの計画が同時進行し、完成しない。
 5、タイミングや場所や状況を考えず、頭に浮かんだことをぱっという傾向。
 6、常に強い刺激を追い求める。(新奇追及傾向)
 7、退屈さに耐えられず飽きっぽい。
 8、すぐに気が散り、集中力がない。読書や会話の集中に心が留守になる。興味のあることは非常に集
   中できる。
 9、しばしば創造的、直感的かつ知識が広い。ひらめきがある。
 10、決められたやり方や「適切な」手順に従うのが苦手。
 11、短気で、ストレスや欲求不満に耐えられない。
 12、衝動的または攻撃的。
 13、必要もないのに際限なく心配する傾向。
 14、何事も不安が強い。
 15、気分が変わりやすい。
 16、気ぜわしい、せっかち。
 17、耽溺の傾向。(アルコール・薬物・ギャンブル・異性関係など)とマニアックな傾向。
 18、慢性的なセルフ・エスティーム(自尊心)の低さ。
 19、不正確な自己認識(認知)。
 20、ADHDまたは衝動や気分を自分でコントロールしにくいなどの家族歴がある。
    ・小児期にADHDだった。
    ・他の精神障害あるいは疾患で説明のつかない状態にある。

 さらに
 1.対人関係(社会性)の未熟 =そもそも友達を作る意欲がない。
 2.言語コミュニケーションの欠如 =会話のキャッチボールができない。相手に思いを伝えることができ
   ない。
 3.こだわり・興味限局傾向 =1つのことに異常なまでに興味を示す。
 4.感覚・知覚の異常 =味覚や臭覚、触覚と聴覚の過敏。
 5.協調運動の不器用さ =スポーツや手先の運動が上手にできない。
の症状があると 「アスペルガー症候群」 と呼びます。

 ADHDの人たちは、社会に適応して成功している人たちがいる一方、定職に就けない人もいます。重要な要因は 「その人にあった適職に着けたかどうか」 です。
 苦手な分野や適応性が困難な職種もありますが、特定の分野へのこだわり、興味限局傾向とひらめきを有効に生かせば、水を得た魚のように才能を開花させる可能性があります。まさに 「磨かれていない原石」 です。適性を発見し、そのための就労支援をきちんと進めていく必要があります。

 発達障がいの人たちが、日々の生活でできる工夫があります。
 1.まずやるべきことをやる → 一覧表を作って優先順位の高い順に順序立てて実行する。
 2.自分だけの時間と場所を作る → 「クールダウン」することが重要
 3.便利なものは何でも活用する → ハイテク機器の活用で家事の負担を軽減する。
 4.社交の場での振る舞い方の工夫 → ハンディーはちょっとしたテクニックでカバーできる。
 5.職場の人間関係の改善 → 対人スキルを身に着ける
 6.感情や衝動性のセルフコントロール → 自覚することが大切
 7.働き過ぎに注意する → バリバリ働く人ほど依存症に注意
 8.家族団らんの時間を持つ → オンとオフを切り替えて意識的に遊ぶ
 9.自分にあった仕事を選ぶ → キャリア・ガイダンスの重要性
です。

 職場では上司や同僚からの協力はどのようにして得たらいいのでしょうか。
 1.できれば信頼できる上司や同僚の1人以上に自分が発達障がいであることをカミングアウトして理解
   と協力を得る。
 2.できれば発達障がいの特徴や、自分の能力にむいている職場に配置転換してもらう。
 3.パニック、不安発作をおこしそうな時は1人になって冷静に考えられるクールダウンタイムとスペース
   を準備してもらう。
 4.パニック、不安発作を起こしそうな時のために発達障がいを理解してくれる人とホットラインを作っても
   らう。
 5.特に月経の前はいらいら・不機嫌・不眠・頭痛・過食・食欲不振などのPMDDになりやすいことを理解
   してもらう。
 6.仕事・作業は得意なことと不得意なことがアンバランスなので、上司、同僚との役割分担をしてもらう。
 7.その日、その週、その月の予定、スケジュールを机の上やノート、壁に貼ってもらう。(視覚的構造化)
 8.自分は大きな声や人の避難、叱責に弱いこともカミングアウトして、理解と協力を得る。
 9.非常に気が散りやすく、集中できないので働くオフィスは比較的視覚刺激が少ない静かな部屋にして
   もらう。
 10.期限が守れず先延ばし傾向があるので、レポート書類は期限前に催促してもらう。
です。

 では周囲の人たちはどう接すればいいのでしょうか。
 1.見かけによらず非常にストレスに弱く、心配性で不安が強いので、決して避難したり大きな声で叱った
   りしない。
 2.不安が強いので、予定・スケジュールはあらかじめ渡しておく。
 3.本人なりのこだわっているパターン、ルールがあるのでそれを認めてあげる(許容範囲で)
 4.レポート書類等の期限が守れないので、あらかじめ何日か前に催促しておく。
 5.人の長い話は聞けないので、メールやファクスなど後に記録に残るものを送る。
 6.できるだけほめることを多く、叱責、ちゅういすることは少なく。(ピクマリオン効果)
 7.本人の特異なことを見つけて伸ばしてあげる。不得意なことは無理をさせない。
 8.焦って不機嫌になりそうな時はゆっくり1人になれる時間と場所を与える。(クールダウンタイムとスペ
   ース)
 9.本人の言い分をまず十分に聞いてあげる。一方的に指示しない。
 10.本人がキレたり癇癪を起した時は、冷静に対応する。一緒に感情的にならない。
 11.いつも何かあったら相談できる体制(ホットライン)を作っておく。
 12.学校や職場で不適応を示していれば、専門医への受信をすすめる。
です。

 発達障がいの労働者が安心して働けるお互いの人格と業務内容を理解して協力し合い、コミュニケーションを取り合う職場は、すべての労働者がそうできる職場です。 


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「女川の町は流されてなんかいません」
2012/10/26(Fri)
 10月26日(金)

 映画 『生き抜く 南三陸町 人々の1年』 を観ました。
 JNN系列テレビ局は、緊急時には指示がなくても各放送局が応援体制をとることを確認しています。大阪・毎日放送のクルーは震災が起きるとすぐに宮城県南三陸町に向かいました。翌日には近くまでは到着しましたが瓦礫で道路は遮断されていました。その時からの1年間、被災者を追いかけたドキュメンタリーです。

 以前、街があったあたりの道路は整備され、橋が架けかえられると大型車両も通れるようになります。バスが通れるようになると、新しい生活をもとめて街を離れていく人たちが乗りました。

 あの職員が住民に避難を呼びかける放送を続けた防災センターで娘を亡くした父親は、まだ遺体を見つけだせていません。たびたび鉄骨だけになった防災センターを訪れて手を合わせます。その前に鉄骨を棒切れで叩きます。娘に会いに来たことを知らせるためでしょうか、やるせない気持ちを晴らすためでしょうか。
 父親は誰よりも早く漁に出ます。魚を採るだけが目的ではありません。娘が陸では見つからないなら海で網にかかって欲しいという思いでした。

 津波は漁民の生活の糧である船と養殖設備を奪いました。16人の漁民は岸壁の整備、湾内の瓦礫を撤去して海に出る準備をします。
 定置網漁を始めようとする時、船が3人に1艘しかありません。個人で操業するか共同でするかで議論をします。また操業しても確実に収穫があるという保証はありません。議論の結果は共同でということになりました。
 収穫の保証はなくても漁師が海に出るときの表情は喜びにあふれていました。
 収穫はありました。喜びが共有されました。
 岸壁を破壊し、川の上流までさかのぼっていった津波が引くときに自然界や上流から運ばれたプランクトンが近海で繁殖し、昨年収穫したわかめは良質でした。

 あれほどの津波ではなかったら避難場所にもなった、海からは距離がある小高い丘に建つ老人ホームでは多くの入所者と職員が津波に巻き込まれました。
 そこで働いていた2人が結婚し、子どもも成長し、幸せな家庭を築いていました。しかし妻が仕事中に津波に襲われて亡くなります。
 夫はもう海は見たくないと隣町に住居を移します。遺骨を納骨することができませんでした。震災から1年目を迎える頃やっと決断します。その日を結婚記念日にしました。
 このホームに、昨年7月に行きました。1階の床は一面ヘドロのままです。ベットや器具の散乱は津波の脅威を物語ります。しかし少し高いところに飾ってある絵画は無事です。津波が、せめてあと2メートル低かったらこのホームは助かったのかもしれないという思いに駆られました。

 それぞれの3月11日との向き合い方があります。しかしみな、前を見るのは難しくても後ろを向いていません。

 ドキュメンタリー映画ですがナレーションはありません。そのほうが製作者の思いが伝わってきます。
 スタッフたちは「記録とは冷徹な傍観者の営みではなく、記録とは寄り添い続けること」と体感していったとパンフレットに書いています。


 10月20日、日比谷公園で 「おながわ秋刀魚収穫祭 in 日比谷」 が開催されました。チラシには 「女川町の瓦礫10万トンの処理を受け入れてくれた東京都への感謝の気持ちを10トンのさんまでお返し!!」 と書かれています。5.000尾は炭火で焼いてそこで食べてもらう、すり身を汁にして10,000杯を食べてもらう、10尾入りパックを3.000人にプレゼントするという企画です。
 主催者は現地を19日夕方6時に出発、真夜中1時に公園に着き、車で仮眠をとって6時から準備を開始して10時からのスタートに間に合わせたということです。みな、秋刀魚の収穫ができるまで復興したことを知ってもらいたい、支援してもらった人たちにお礼をしたいという思いの笑顔があふれていました。東京からのボランティアスタッフがたくさん参加していました。
 秋刀魚の焼き場は噴水の前に50メートルの長さで設置されました。受け取るのに長い行列ができています。
 女川のためには何もしていないので遠慮して眺めていたら引換券を渡されました。 「何もしてないから」 と遠慮すると 「この後見守ってください。それも支援です」 と言われたので並んでいただきました。新鮮な秋刀魚の炭火焼きは本当においしい味でした。

 お礼に物産展示即売会で買い物をしました。「がんばっぺ女川! 大漁」 と染め抜かれたタオルを買って事務所に飾りました。
 書籍コーナーもあり、『女川一中生の句 あの日から』 が並んでいました。
 女川第一中学校は生徒数205人でした。1人が死亡、1人が行方不明です。震災後の5月と11月に全校あげて国語の授業で俳句づくりをしました。
  『本』 は、俳句を先生から見せられた朝日新聞社の記者が生徒たちを取材して編集しました。5月と11月の句が並べて紹介されています。
 句の背景には、家族や親せきを失った、家を失った、両方失った、両方無事だったなど、それぞれの事情があります。それぞれが他者を思いやって感情を表に出しません。しかし俳句では個人の思いを表現しています。
 5月には震災の悲惨さには直接触れようとしない 「前向き」 の作品が多くありましたが、11月になると感情が出てきます。

 母親と祖母を亡くした生徒の作品です。
   グランドに 光り輝く 笑顔と絆 (5月)
   今伝える 今まで本当に ありがとう (11月)

 自宅を失った生徒の作品です。
   そばにいる 仲間がずっと そばにいる (5月)
     友達が転校していっても電話やメールでは繋がることができるという確信を込めたといいます。
   星の数 みんなの思い 光ってる (11月)
     支援してくれた世界中の人たちへの感謝を込めたと言います。

 自宅を失った生徒の作品です。
   春風が 背中を押して ふいていく (5月)
   止まってた おながわの時間 動き出す (11月)
     静まり返っていた街に人々が戻ってきたのを見て 「動き出す」 という言葉が浮かんだと言います。

   昼飯を 楽しみにしても 同じだよ (5月)
     開き直りの気合を込めたと言います。
   あの頃は なんでも食えた くさっても (11月)
     何でも口にした震災後の奮闘を思えばこの先も乗り越えられるという思いを込めたと言います。
     ホタテ養殖にたずさわっていた父親は船も車も機械もすべて失いました。養殖を続けるか転職す
     るか迷っている父親から 「この先、おまえもやりたいか」 と聞かれると 「ん、いいよ」 と答えまし
     た。その返事が父親の背中を押したと言います。

   戻ってこい 秋刀魚の背中に のってこい (11月)
     運動部の練習を一緒にした他校の選手の無念を詠んだと言います。

 母を亡くした生徒です。
   逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて

 指導する先生も小学生の子供を亡くしていました。

 2012年3月の卒業式で、校長先生はあいさつの中に卒業生全員の俳句を盛り込みました。

 卒業生代表の答辞です。

 あの日はみんなで卒業式の準備をしていました。
 体育館にはたくさんの椅子が並び、紅白幕で囲まれ、赤いじゅうたんがまっすぐ敷かれていました。冷たい雪が降る寒い日でした。
 あれから1年。今、私たちは卒業証書を手に、ここにいます。
 1人ひとりが個性的で純粋で、どんなことにも本気で、本当の優しさをぶつけてきてくれる最高の仲間と、あと1年、今まで通り楽しく過ごすだけだと思っていました。
 本当に突然のことでした。大切なものを失い、厳しい現実を見せつけられ、どうすることも出来ずにいました。何のために、何に頼って、何を信じて生きればいいのか、わかりませんでした。
 その暗闇で立ち上がり、光を追いかけ始めることができたのは、私たちを応援してくれる人が、支えてくれる人が、同じ壁にぶつかった仲間がいたおかげです。
 苦しいけど、怖いけど、つらいけど、あきらめるわけにはいきませんでした。
 確かに、十分な環境ではありませんでしたが、誰も不満を口にすることはありませんでした。目の前にある小さな幸せへの感謝が、大きな力になり、一生懸命頑張る姿が、だれかをがんばらせる力になることを知りました。
 私たちも何かの力になれるかもしれない。そんなことを思うようになったのは、無理だと思っていた部活動が始まった5月ごろでした。
 生徒総会、全校合唱、中総体、修学旅行、運動会、駅伝、文化祭、すべて、あきらめかけていたものでした。こうして前を向いて進んできましたが、忘れてしまいたい過去がいつも重くのしかかっているのも事実です。でも、今の自分がいるのは、今まで生きてきた過去のおかげです。
 悲しい思い出が、急な別れが、悔しい結果が、厳しい現実が、私たちを強くしてくれました。
 そして、仲間の絆に、背中を押してくれた先生に、心配してくれる家族に、世界中からの支援に助けられて、支えられて、私たちは今を生きています。
 過去はどうやったって変えることはできません。少しでも前に進めるよう、後悔なんかしないよう、すべてを受け止めて今を生きていきましょう。
 これから私たちが歩んでいくのは、同じ道ではありません。それが卒業です。
 偶然なのか運命なのか、わかりませんが、奇跡のように出会った私たちの別れの時が来ました。くだらない話で盛り上がったり、盛り上がりすぎて怒られたり、みんなで笑ったり、泣いたりする姿がみられなくなると思うと、寂しいです。夢のような3年間でした。
 今日で私たちの中学校生活は終わり、今日から私たちの新しい日々が始まります。どの道も長く、険しいものばかりです。寄り道はあっても、近道はありません。一歩ずつ強く歩んでいきましょう。
 ここにいる方々、そして、私たちを支えてくださった世界中のみなさんに感謝します。本当にありがとうございました。
 後輩のみなさん、これからの女川第一中学校をみなさんに任せます。同じ道を歩んできた仲間や新たに入学する1年生と力を合わせて、これからも前を向いて進んでいってもらいたいです。
 この町の高台の熊野神社から、女川の町と海が見渡せます。私はその景色が大好きでした。その景色は、1年前とまったく違います。何もなくなって、がれきだらけです。でも、空が広がっていて、海が輝いています。
 この町は、流されてなんかいません。どうなったって、私たちの故郷は女川です。この町で生きてきたことを誇りに思います。いつかまた、この町で合いましょう。


 中学生の俳句に負けずに小学生は詩を書いていました。

   女川は流されたのではない
   新しい女川に生まれ変わるんだ
   人々は負けずに待ち続ける
   新しい女川に住む喜びを感じるために 
 

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「下り」 列車を走らせる東京駅
2012/10/23(Tue)
 10月23日(火)

 IMCの事務所は四谷にあります。
 来所した方が「四ツ谷界隈は最初の山の手だったんですよ」と教えてくれました。言われるとそうでした。
 山の手は、江戸時代の高台の武家地域に対する呼称です。
 通常、山の手とはどこを指したかというと今の山手線の内側です。山手線の東側から隅田川までが下町。隅田川に架かる両国橋は江戸初期に2つの国を結んだことに由来し、隅田川の東は武蔵です。ですからスカイツリーの高さは634メートル(ム・サ・シ)にしたと言われています。山手線の北も武蔵、西は多摩と呼ばれました。中野駅近くにある警察学校は中野刑務所の跡地です。古い名称は豊多摩監獄です。
 江戸時代までの庶民の生活地は品川、新橋、東京、上野を結ぶラインの東側にありました。江戸城は庶民にとっては西方に位置していました。

 「明治維新期における東京の市街地は、現在の山手線のほぼ内側におさまっていた。逆に表現すれば、現在の山手線が当時の東京市街地のほぼ外周に相当していたということである。大雑把に言えば、東の境界は隅田川に、西の境界は新宿付近にあったと考えられる。南は東海道53次の第一宿のある品川を中心とした街道筋の街並みが、北は浅草を出発する日光街道沿いの千住、中山道第一宿の板橋あたりがすでに境界の外側に位置していた。」(小俣和一郎著『精神病院の起源近代篇』)
 明治維新以降、東京は皇居の西に建物が建設されていきます。1878年、市ヶ谷に陸軍士官学校が開校します。国会議事堂は南西(今の日比谷公園)に建てられます。
 丸の内は軍用地でしたが「三菱村」と呼ばれるように、三菱が買い取ります。明治初期には軍用地以外に司法省、大審院、軽罪始審裁判所、重罪裁判所、警視庁、東京監獄などがありました。東京駅の建設計画が明らかになるにつれて霞が関に移転していきます。


 この秋、東京駅が建設当時の3階建てで復活したと騒がれています。
 建設開始が1911年で、開業式は1914年12月18日です。あくまでも開業で完成ではありません。
 なぜこの日に式典がもたれたのでしょうか。第一次大戦が始まっていたこの年の10月31日に日本軍はドイツ軍が占領していた青島(チンタオ)を攻撃し、一週間後に陥落させます。その立役者の中将らを東京駅に凱旋させ、祝賀ムードを盛り上げることを企画したからです。開業式典が1時間で終了すると続いて凱旋歓迎会が開催されます。中将らは到着すると駅前広場から馬車に乗りまっすぐ皇居に向かいました。

 時代をさかのぼります。
 東京駅が皇居の東側への建設計画が発表されたのは1907年です。その頃は、国会議事堂など他にも大きな建築物の建設計画が進んでいました。
 1906年、全国の主要な鉄道は国有化されました。朝鮮半島を縦貫する京城・釜山間の鉄道は1904年に完成しました。「日韓併合」が1910年です。日本は事実上管理下に置いていました。京城・義洲間の京義鉄道も全通していていました。ポーツマス条約によって中国東北部の鉄道も支配下に置きました。そのなかで中央停車場・東京駅をシンボルにしようと考えられます。
 1910年は大逆事件が仕組まれました。人びとを恐怖が支配し、閉塞感が漂いました。そのなかで東京駅の建設が続けられました。鉄道網は中央集権の意識を作り出し、そこから全国・朝鮮半島、中国北東部に「下り」列車が走りました。

   こころざしを 果たして
   いつの日にか 帰らん
   山は青き 故郷
   水は清き 故郷

 小学校唱歌「故郷」が作られたのが東京駅開業の年です。
 庶民にとっての東京駅は、立身出世をして故郷に錦を飾る時の「下り」列車乗車駅です。

 1920年には当時の市街地の西端に明治神宮や神宮外苑などが作られました。
 25年、東海道線、東北本線と分断されていた山手線が、上野―神田間の高架線が開通して環状線となります。山手線は、皇居を東京の中心とみなす新しい考え方を生み出します。
 23年の関東大震災は、住宅街がさらに西側に延びるのに拍車をかけました。「1920年から1930年までの10年間に、中央本線では、高円寺駅8倍、阿佐ヶ谷13倍、荻窪10倍に利用者が増加したといわれる」(原田勝正著『日本の国鉄』)
 そして山手線から分岐する私鉄が外に向かって放射線上に形成されていきます。「さながら郊外からやって来る私鉄の線路の侵入を食い止める城壁(「万里の長城」と呼ばれたこともある)の役割を果たすことになったのである」(原武史著『「民都」大阪対「帝都」東京』)
 山手線の内側は帝都となりました。(実際は、京王鉄道は山手線の内側まで、現在の新宿御苑近くまで地上を走っていました。)
 1900年頃になると「帝都」にも労働者が増えると民営の市街電車が登場します。運賃値上げ反対闘争が起きますが12年に東京市が買収して市電になります。
 この年は、各地に市街電車が登場します。ちょうど100年前です

 大阪はどうでしょうか。鉄道の位置付けが大きく違います。
 1906年に箕面有馬電気鉄道の新会社が設立され、08年までに梅田と箕面、宝塚間の工事が始まります。創業者の小林一三は、沿線に大都市やめぼしい観光地がなくても、沿線の駅前に郊外住宅を多数分譲し、軌道に乗って大阪まで通勤する乗客を獲得したら採算が取れるということを確信していました。
 池田町(現在の池田市)には「碁盤の目のような道路に百坪単位の家が200戸、規則正しく配置されている。わが国初めての本格的な分譲住宅地だった。」
 「沿線の住宅地には、すでに伝統的な職住一体の空間である『家』とは区別された、近代的な職住分離の空間である『家庭』の礎が築かれるなど、後に大きく発展することになる『阪急文化圏』の原型が形成されたのである。」
 「池田駅前に広がる室町の分譲住宅地が、……2割の頭金に10年ローンを組み、1か月につき24円ずつ払えばよいという、今日すっかり定着しているシステムを初めて取り入れたこともあって、ほとんどが売れたのであった」(『「民都」大阪対「帝都」東京』)
 そして電軌の沿線には、開業早々から宝塚新温泉、宝塚唱歌隊(後の宝塚歌劇団)など次々と新しい行楽施設や文化施設が作られました。

 梅田はかつて東海道線の上を私鉄が走っていました。「国」の上に「民」があったのです。34年、国鉄の線路を地上から高架へ、阪急の線路を高架から地上へ移し変える工事が行われ「国」と「民」が逆転しました。


 戦前に国家の中枢・「帝都」から全国に権威を垂れ流し、権力を振るう全国に拠点だった東京駅は、戦後には情報や文化を発信する拠点になりました。
 数日前の新聞によると戦後最初に東京駅と大阪駅間を走った特急の名称は「平和」号だそうです。しかしすぐに変えられました。
 今年の8月3日の「活動報告」に書きましたが、原水禁運動が盛り上がった時、広島と長崎を拠点に夜行列車は「原爆を許すまじ」の歌を全国に運びました。
 そのような面影は消えてしまいました。
 新幹線の開設は、地方の支庁、支社・関連会社を日帰りで管理する手段になってしまいました。時間短縮の裏側に過労死が発生しています。便利と危険はコインの裏表です。

 新しい東京駅が2階建てから3階建てに高くなったこともあり、以前と比べると見栄えがします。
 しかし全国に「下り」列車を走らせる拠点をだまって「仰ぎ見」ていると危険に曝されます。
 

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いじめはどこでも起こるという認識が欠如している
2012/10/18(Thu)
 10月18日(木)

 大津市の「いじめ」事件について、朝日新聞社大津総局長の講演を聞く機会がありました。
 今、警察が捜査を行っています。いじめの被害者、加害者双方が訴訟を起こしています。事件は少年事件なので警察は情報を漏らしません。このような事情から講演内容は規制があります。しかし明らかになっていることだけからでも、たくさんの教訓を含んでいました。

 昨年10月11日に被害者の少年が飛び降り自殺をします。
 しかし凄惨ないじめがあったかというとそうではありません。いじめ行為そのものは特殊ではありません。どこででも起きえることが起きていました。
 ではなぜ大きな騒ぎになったのでしょうか。
 1つは、生徒がアンケートに窓から落ちるふりをさせられたと書いていました。「自殺の練習」 があったという言葉によるショッキングが一人歩きしました。
 2つ目は、自殺後の学校の対応のお粗末さがあります。
 「自殺の練習」があったと16人の生徒がアンケートに書いています。しかし伝聞がほとんどです。実際に見た生徒は書いていませんでした。この生徒は、どうせ学校は何もしてくれないと諦めて白紙で提出しました。
 市長と教育委員会が対立します。市長は教育委員会に不信感を抱いて裁判での和解を宣言します。
 3つ目は、県警が学校と教育委員会を家宅捜査しました。学校と警察は協力関係にありません。警察が家宅捜査をした理由には、以前被害者の父親が被害届を提出したにも関わらず不受理にし、捜査を見送ったことへの名誉挽回のために主導権を握ろうとしたことがあります。
 この3点で報道は過熱しました。

 大津のいじめの特徴はどのようなことがあるでしょうか。
 1つに、仲良かった4人の生徒の中で短期間に、急速に行為をエスカレートさせていきました。
 2つ目に、集団的暴力です。身体的暴力がほとんどです。つまり外部に見えやすい事件です。しかし見過ごしました。
 3つ目は、保護者がいじめがあったことを認識していませんでした。被害者は1人で耐え忍んでいました。

 なぜいじめが自殺に至ったのでしょうか。
 加害者と被害者は仲良しグループでした。被害者は 「いじられキャラ」 で加害者の中心は目立ちたがり屋でした。そのなかで被害者はいじめられたままでいました。
 2学期になって急激に暴力的に発展します。
 しかし周囲からスピード感のある対応がありませんでした。予想出来なかったということがあります。半分は嘘、半分は違うという受け止め方をします。

 しかし教師には最悪を予見する義務、未然に防ぐ義務があります。
 チャンスは2回ありました。
 体育大会の翌日、被害者が後ろ手に縛られていたのを一部の教師と生徒が目撃しています。10月5日にトイレで殴る蹴るの暴力を受けた後に担任が聞くと 「大丈夫」 と答えました。
 被害者は教師に本当のことを言いません。そこに見過ごしてしまう落とし穴があります。その結果保護者を巻き込んで相談することがありませんでした。
 一方、保護者は金使いが荒くなった、生活態度が乱れたと気付いています。しかしいじめがあったことは知りませんでした。
 被害者は最後まで孤独感を深めていました。

  この話を聞きながら、10月5日の 「活動報告」 に書いた 「暴力を受けるより、もっとつらいのが、捨てられ
 孤立することだという。だれひとりわれわれを助けてくれないという絶望感だ。」 という光景を思い出してい
 ました。

 では今回のいじめの本質は何でしょうか。
 学校が学校という密室空間で問題を解決しようとしたことです。学校には事なかれ主義と隠蔽体質があります。
 いじめはどこでも起こるという認識が欠如しています。だから未然に防ぐという対策がありません。あるのは 「いじめはあって欲しくない」 という願望です。だから絶対的力関係があるにもかかわらず喧嘩ではないと片づけました。
 問題を大きくしても解決しようという心掛けが欠けていました。だから保護者を巻き込んで解決を探るということがありませんでした。
 教師の中にもいじめと捉えた者が3人いました。しかし自殺の数日前の職員会議では、「いじめではないのでもう少し様子を見よう」 という結論になります。つまりは外部に相談することはしないで身内だけで見守ろうと決定したのです。
 いじめの情報を聞きながら放置したことは、傍観者としていじめに加担したといわれてもしょうがありません
 外部から閉鎖されているから陰湿ないじめが起きます。

 今後は、どの時点でいじめが黙殺されたのかを検証する必要があります。
 大津のいじめ事件では被害者以外にも新たに被害者が生まれました。一般の生徒です。学校や教育委員会、教師に対して不信感が生まれました。
 この事件の後でも、兵庫県川西市の自殺事件で学校は 「不慮の事故」 にしてほしいと事実を隠そうとします。
 真実を隠しては教訓を引き出せません。しかし同じことが繰り返されています。
 滋賀県では最近、学校が些細なことでも警察に相談するとい傾向になっているといいます。今度は事なかれ主義です。事件の本質がまったく検証されていません
 きちんと取り組まないとやる気がある教師の意欲を潰してしまいます


 この後、他のパネラーや会場からの発言がありました。
 その中で繰り返されたのが学校の閉鎖性です。教育内容も活動も社会から隔離されています。
 パネラーが指摘しました。同じ思いを抱いていました。
 昨年10月11日に自殺したということは、東日本大震災から7か月目です。当時は死者・行方不明者の数が3万人に近づきつつありました。(その後減少します)。仮設住宅で我慢している被災者の姿が連日報道されていました。“命の大切さ” や “絆” が叫ばれている時、「自殺の練習」 のいじめが行われていたのです。社会の出来事を自分らに引き付けて捉える思考が育まれていないのです。同じく学校で、他者の痛みを感じとるという交流が行われていないのです
 教師にとって、生徒にとって、東日本大震災はどのような出来事だったのでしょうか。
 「人権は会社の門前で立ち止まる」 と言われ続けていますが学校の門前でも立ち止まっています。そこから社会に、会社に巣立っていくのです。

 いじめと遊びのじゃれ合いは紙一重です。遊びが人を苦しめていることもあります。最初は遊びでも、相手が我慢したり、周囲が放置したりして容認されるといじめにエスカレートしていきます。人を苦しめていることに気が付く感受性を身に着ける必要があります。感受性は、集団の中での人間関係から育まれます。

 現場の教師から経験が語られました。
 閉鎖社会のなかで、教師は学校にはいじめがあってはならないと思っているから問題にしない。いじめがあることを前提にした共通認識がないから予防ができない。結局何の対応策もとろうとしません。大津の中学校の状況そのものです。
 教師は忙しいと言い訳けしながら、問題が発覚したら拡大し、自分たちで忙しくする方法を選択しているのです。

 被害者側の生徒はいじめられていると認めません。「こんなはずがない、相手はいじめているのではない」 と理解できないでいます。またいじめを認めると 「弱い自分」 にプライドが傷つくのです。チクッたということの報復も予想します。加害者からも仲間外れにはされたくないのです。
 このような場合どうしたらいいか。
 いじめの存在に気付いたら加害者に、他者が傷つくこと、傷ついていることを認識させて、してはいけないことと自覚させることです。そして被害者に行った行為はいじめであると認めさせることです。
 加害者はいじめではないと主張します。いじめだ、いじめでないという議論ではなく、いじめという言葉を使用しないで、1つひとつの具体的行為が他者にどのような結果をもたらしたかを認識させる、またはもたらすかを想像させることから行為の是非を自覚させます。
 加害者にはいじめにはしる理由があります。その問題を探り、加害者が抱えている問題に教師や仲間が一緒に向き合おうという姿勢を示すことが必要です。

 大津の問題を、それぞれが自分に引き寄せて捉えかえしをし、教訓としないと悲劇は何度も繰り返されます。  

  
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協同組合は「個人の力を合わせて以て社会の改良を行ふべき道」
2012/10/15(Mon)
 10月15日(月)

 今年は「国際協同組合年」なのだそうです。新聞に一面広告が載っていました。どうして今年かというと、2009年12月の国連総会で2012年を国際協同組合年とすることを宣言したからです。よくある○○から△△年目というようなことではありません。
 秋には各地で催し物が計画されています。

 協同組合と言ってもさまざまです。以前ほどではありませんが農業協同組合は農家の末端管理機構です。ほとんどの生活協同組合はスーパーや商店街の競合相手でしかありません。各地の商店街をシャッター街にした原因の中には生協もあります。地域と共存しないのが生協です。共済は助け合いの精神を持続しています。1年間病気に罹らなかったから掛け金を返せと言う人はいません。
 しかしどのような理由付けからであろうと、生産・流通・消費の流れ、横の繋がりを見直そう、お互いを理解し合おうというきっかけになるなら大歓迎です。

 協同組合は、上からではなく、下から作られた経緯があります。人びとは合理性を求めて協同を進め、そこから互助になり、安定をもたらすことを経験的に習得し、発展させていきました。
 日本での協同の歴史は江戸時代の職人たちのギルドにさかのぼるようですが幕府からは弾圧されます。 
 鉱山には江戸時代中期から「友子制度」が成立してきました。作業が熟練を中心に共同で進められる、危険が伴うということが基盤にあります。
 発展経緯がありますが、職親について一定期間就業をし、一定の技能をもつと認定された手掘り坑夫の職能集団組織です。坑夫たちが労災である「けい肺」、いわゆる「よろけ」になった親方やその家族、仲間の面倒を見、葬式、墓石の建立などもおこなう共済制度でもありました。互助組織と解釈されてきましたが、最近は労働組合に代るような機能も果たしていたという研究も深められています。
 日本で労働者が横の繋がりをもった最初のものです。

 栃木県足尾には、旧古河鉱業の精錬所と渡良瀬川をはさんだ山のふもとの龍蔵寺に友子が建てたお墓が残っていて、近くに説明板が立てられています。何度か作り変えられていますが、以前お寺が立てたのには次のようにありました。
 「……毎日馴れぬ坑内で恐ろしくて泣きながら働いた。新しく坑夫になるためには、親分を決め、自分は子分として、親分、子分の盃を取りかわす。これを取り立て式といい、こうして友子組合に加入したのである。親分の下で、自分は新大工として3年3月10日の間坑内作業や友子つき合い(交際)など修業見習期間ののち1人前の坑夫と認められる。友子制度(友子組合)には全国的なひろがりをもつ坑夫の相互共済の機能があり、現代の共済組合的要素を持っている家族的結び付きであり、戦前(昭和20年以前)、友子組合の果した役割は大きい。坑夫がいったん病気、負傷などになると、米あるいは金銭による適当な救済が講ぜられ、さらに死亡した場合は墓石の建立、供養・遺族の世話をするなど行きとどいた救いの手が差し伸べられた。また一生治ゆの見込みのない『けい肺病(俗にヨロケといわれた。)』などになった者は奉願帳を持って、全国の鉱山を渡り歩き、一宿一飯の仁義と金銭の救済を受けることが出来た。……」

 作家の立松和平の曽祖父は、1877年に古河市兵衛が足尾銅山を手に入れ、抗夫を募集したとき生野鉱山から応じて足尾に渡ってきました。資料を下地にして、小説『恩寵の谷』に足尾での「友子同盟」の儀式の様子を描いています。
 「亀吉親分や立会人は黒い羽織袴をきちんと着こなしていたが、この日1人前になる3人は帯を結ぶことを許されなかった。新しく坑夫となってこの世に生まれ出るのだから、赤ん坊と同じことである。赤ん坊が出やすいように、帯を締めないのだ。……
 親分が……腕を伸ばし、箸をつかんだ。親分の前の大皿には、尾頭付きの大鯛が二匹腹をあわせて横たえてあった。親分は箸の先でちょんちょんと鯛を突つき、その箸を酒のはいった徳利の中にいれる。それから小皿に盛ってある塩を一摘み、徳利に落とす。もう一度鯛の腹に触れた箸で徳利の中をかきまぜる。これで酒は血のようになまぐさくなった……。
 亀吉親分のもとで、3人は3年3月10日の間終業したのだ。……
 親分は徳利から人数分の盃に酒をついでいる。……世話役が1人1人の前に盃を運んでくる。……親分が声をだし、盃を持ち上げる。同時に、半分だけ酒を飲む。塩辛くて微かになまぐさい血の代わりの酒が、舌の上から喉にはいっていくのを感じながら、残った酒を隣りの光太郎の頭にかけた。……『これで坑夫取立式はつつがなく終了いたしました』」
 このようにして「血を分けた」関係となったのです。
 この新たな親分たちが「よろけ」にかかって動けなくなった頃の1907年、「渡り坑夫」の指導で坑夫たちは団結し、足尾暴動を起こします。


 新聞の一面広告は、左上でロバート・オーエンが麦を持っています。右上で二宮尊徳が稲を持っています。
 二宮尊徳は幼名が金次郎。ある程度の年齢の人たちならば、学校に薪を背負いながら本を読んでいる銅像が建っていた人物ことぐらいは知っています。では何をした人なのというとあまりわかりませんでした。
 最近は「協同組合」の勉強会で歴史について触れられる時、最初に登場します。
 「弱者の協同の経済活動という点で見るなら、日本におけるその源流は、江戸時代の末、19世紀前半にさかのぼることができます。
 ……金次郎という名前でも有名な二宮尊徳が、今の神奈川県の小田原につくった小田原仕法組合です。その設立は、ロッチデール組合の設立の前年1843年(天保14年)のことでした。(小田原報徳社の前身)。これは小田原藩の下級武士の相互扶助組織で、尊徳が出した160両という基金をもとにして貧乏な藩士たちの間に無利子の貸付などをして助け合いを進めました。この組合は、のちに各地につくられた報徳社という組織に発展していきました」(協同組合経営研究所発行『入門協同組合』)

 明治維新直後に、主な輸出商品だったお茶や生糸などの産地では協同組合的な組織が生まれました。農業技術の共同開発、肥料などの共同購入も進められました。その自立した活動が「民権運動」として各地に登場します。
 「民権結社はたいがい学習結社を核としているが、その前に、政治結社でもあった。ただ、生まれながらに選択の余地のないものとして与えられた血縁同族集団や、地縁的、運命的な共同体からはいったん切れたところで、あらためて意識的、自覚的につくられた組織であった。……古いものから脱却して新しく自由でありたいという願望とそれへの強い意志が働いている結社なのである。つまり理想主義的で、未来志向型である。」(色川大吉著『自由民権』岩波新書)

 『入門協同組合』は労働者の運動に続きます。
 「消費組合としては、1879年(明治12年)に、東京で知識人の手によって共立商社がつくられ、同じような系統の組合が3つできています。これらは、いずれも数年で消滅してしまいましたが、消費組合、今日の生協の前身といえます。また、日清戦争(1894年~95年)前後に日本の資本主義がほぼ確立しますが、それにともなって40万人以上に増えた労働者の中からも一種の消費組合がつくられて生きます。その最初は、1898年(明治31年)、東京砲兵工廠の職工たちの組合である矯正会の各支部に作られたものでした。」

 高野房太郎の登場です。
 アメリカに出稼ぎに行っていた高野らは帰国し、1897年7月、労働組合の奨励と結成のために「労働組合期成会」を設立します。労働組合のあり方は、AFL(アメリカ労働総同盟)に倣った職業別組合(Craft Union)で、性格は「産業の発展は資本と労働の並進に求むべく、其の調和によりて振興するを得べし」です。期成会の主たる活動は演説会でした。
 12月、日本で最初の近代的労働組合である鉄工組合が砲兵工廠の職工を中心に結成され、さらに翌年に日本鉄道の機関手・火夫らによって日鉄矯正会、活版工組合などが結成されていった。会員は99年末には5.700人におよび、そのうち鉄工組合が多くを占めました。

 消費組合が労働組合運動の一環として作られます。高野は創設に奔走します。日本の情況をアメリカに報告した97年6月16日の「通信」に書いています。
 「どこの国でも、労働運動がまだ幼く、働く人々の知的水準が低いところでは、労働組合の通常の機能は大多数の労働者にとって、かならずしも興味のあるものとはなりません。たとえば、団体行動によって高賃金を獲得するといったことは問題になりません。そうした企てを実行するには、あまり組織的に弱体ですから。
 組合の共済機能も、健康な人たちを組合活動に熱心にさせることは役立ちません。労働組合が提供する教育機能を喜ぶ労働者は、ごく少数です。要するに、こうした国で労働組合を成功させるには、組合に参加する人びとに直接的な利益を提供することが重要なのです。その意味で、生活協同組合こそ、労働組合を補助して、こうした要求をもっともよく満たすものです」(高野房太郎著『明治日本労働通信』)

 購買組合と一緒に共済制度も実施されます。
 例えば鉄工組合では、火災にあった組合員、業務で負傷したり病気になった組合員に救済金、死亡した時の葬式費、遺族への見舞金の贈与が行われました。組合員の間で急速に人気を得て組合は発展をとげます。
 しかしAFLの統計を参考にはじめた制度は、脚気などの疾病・死亡率がアメリカよりはるかに高く、財政的にすぐ行き詰まって救済金額を削減せざるを得ず、そのことが組織の衰退を招く原因になってしまいました。
共済制度は日鉄矯正会でも実施されます。

 1900年治安警察法が制定され労働運動は抑え込まれていきます。
 1906年全国の鉄道を国有にする法律が制定されました。翌年、帝国鉄道庁は事業体による全員加盟の共済組合として帝国鉄道庁職員救済組合を官業では最初に発足させます。内容は日鉄矯正会に似ています。労働運動を防止するための政策でした。
 国鉄は共済制度が完備し、それが「国鉄一家」の意識を作っているといわれましたが、きっかけはここに遡るのかもしれません。「国鉄一家」意識は労働組合においても企業内組合として、今JRになっても労使の中に色濃く残っています。

 1900年に産業組合法が制定されます。ちょうどこの年農商務省に就職した柳田国男の職務は産業組合の普及でした。彼は協同組合に強い関心を示し、必要性を訴えて解説書の作成などもします。
 「自由主義の新法制は……未だ必しも凡ての国民の幸福を進捗するに足らざることは、所謂労働者問題の実例に由りて夙に之を證せられたり、自由競争の下に於ては、人は急激に零落し又急激に富を増加せり、集積せる資本の力は、法律の掩護(えんご)を須(ま)たずして、自由契約の名を以って他の資本無き人民を圧迫することを得たり」(『定本柳田国男集』、岩本由輝著『柳田国男と天皇制』から孫引き)
 「柳田にとって、要するに福祉は他力救済ではなく自力救済でなければならなかったのであり、産業組合こそがその自力救済のための機関であると目されたのである」とし、「自由競争の弊害」のための除去のためには産業組合が有効であり「個人の力を合わせて以て社会の改良を行ふべき道」(『柳田国男と天皇制』)と説いています。

 しかし社会はそれまでの横のつながりが切断され、「国権」による縦型社会が作られていきました。労働組合も企業別の“縦の組合”が登場します。
 これを助長したのが日清戦争の賠償金で充実させた学校教育と、鉄道を媒介とした中央からの、1914年に完成した東京駅から「下り」方面に向けての指示、情報の流布です。

 柳田の情況分析は1世紀を経た現在に似ています。「自由契約の名を以って他の資本無き人民を圧迫することを得たり」はまさにその通りです。
 もう一度、横から、下から「協同」で自力救済を見直すことは意味があります。
 

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