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メーデーに時短と労働安全のスローガンを
2012/04/27(Fri)
 4月27日(金)

 5月1日はメーデーです。1886年5月1日にアメリカ・シカゴの労働者が8時間労働制を要求して統一ストライキを行ったのが起源と言われます。
 その後、労働者は時間短縮、8時間労働を勝ち取ります。しかしまた世界的に労働時間が増加する傾向にあります。
 とはいっても日本は例外が続いています。厚生労働省のデータは正規労働者と短時間労働者を合わせた平均を発表して時間短縮が進んでいるかのようにごまかしています。実態は、労働基準法36条の例外規定がまかり通り、過労死が起きています。

 日本の労働者は本当に働くのが好きなのでしょうか。
 橋本毅彦+栗山茂久著 『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』 (三元社刊) は明治維新後の労働時間を、工場などの資料から取り出して紹介しています。

 1875年8月の東京・築地にあった海軍兵器局の工房規定です。
 各種工作業時間は、春分より秋分迄は午前7時30分より午後5時迄、秋分より春分迄は7時30分より午後4時迄と定められていました。ただし定時に作業開始ができるように6時30分まで工場に到着することを要求され、これを過ぎると減給、7時過ぎに出勤すると就労できませんでした。
 1883年7月の東京・赤羽の海軍兵器局の工房規定は変化しています。
 執業時間は1日9時間。12月、1月、2月の3か月間は8時間30分。ただし昼休みは30分間です。
 起業は3月より11月までは午前7時、12月、1月、2月は7時30分、終業は1年を通して午後4時です。朝の待ち時間はなくなりました。
 1886年12月の兵器製造職工規程です。
 執業時間は1日10時間。1月、2月、3月、11月、12月は9時間30分です。止業時間が4時から5時に繰り下がります。
 門扉は起業前15分に開き、出門警鐘と同時に閉まります。つまり早出残業も通常の残業もありません。
 管理者は起業時間に一斉に作業を開始するために遅刻の取り締まりが課題でした。一方、労働者も労働時間の認識を持ち始めます。

 時代が遡りますが1865年の横須賀造船所の就業時間は、夏季6時半起業5時半退場の11時間、冬期は7時起業5時退場の10時間でした。これはフランス人の技術指導のもとにあったので 「就業時間は1日西洋辰儀10時間たるべし」 によるといいます。さらに 「御定め賃銀1日銀7匁8分づつのところ、右は朝5つ時頃より夕7時までの賃銀にて、大早出、大居残り仕り候へば、右賃銀の倍増相渡し候儀にこれあり」 というように、時間外労働についてはちゃんと賃金が、支払われていました。
 労働時間についての考え方は、「都市におけるギルド的慣行」 があったといいます。
 1878年1月実施の横須賀造船所の規程は、職工の残業について現在確認できる最初のものなのだそうです。1時間分の賃金を基準として残業1時間につきその1.5倍、午後10時から午前4時は2倍支給するとあります。1884年3月からは海軍の工場すべてで停業から7時までは1倍、午後7時から10時と午前4時から起業時が1.5倍、午後10時から午前4時は2倍に変更されました。この頃は残業が常態化したことを物語ります。

 1884年頃は、明治政府は朝鮮半島への侵略を画策し、海軍の強化をはかります。そして1894年の日清韓戦争 (日清戦争) が始まると残業は増大します。清国からの賠償金2億3千万両 (テール)(3億6千万円) の大部分が八幡製鉄所の建設、軍直轄の砲兵工場、海軍工廠、造船所などの軍備拡張にあてられました。
 その一方、例えば鉄工は 「若し世人と等しき労働時間にては、彼等は到底1家族数人の糊口だも能はざるなり、其の工場労働者一般夜業を喜び、常に労働時間の長きを取るもの多き、亦た故ありといふべし」 (横山源之助 『日本の下層社会』) という労働者の実態がありました。低賃金が残業手当を期待させました。

 1872年に開業した富岡製糸場は、「平生毎日、日出より始め日没に終る」 でした。製糸は細かい作業なので日照りがなくてはできません。
 1900年に三井に払い下げました。富岡製糸所営業概要は次のようにあります。
 「冬は短く夏は長きこと年中日の長短に随ひ時々変更す。最も長きは6月中旬にして12時55分間、短きは12月中旬にして9時55分間なり。昨今は5時55分に始まり、夕4時55分に終る、昼食時間40分を与ふ」 とあります。
 実労働時間は約10時間から13時間でした。当初より長くなっています。都市職人型労働時間に代わって 「農村地帯における手工業あるいはマニュファクチュア奉公人の労働態様」 があったといいます。
 この農村型は 「女工哀史」 や 「あゝ野麦峠」 に繋がるのでしょうか。


 1919年9月、米騒動をきっかけに神戸・川崎造船所で争議がおきます。労働者はサボタージュ戦術をとり、労働時間8時間制を獲得します。労働時間は短縮されても賃金は変わりません。争議は9月27日解決に至ります。その結果出勤率が上がり、労働意欲が高まって生産性も向上したといいます。
 日本で最初の8時間労働の実現です
 この争議で 「サボる」 という言葉が流行しました。サボタージュは、20世紀初め、フランスの労働者がサボ (木靴) で機械を蹴飛ばして壊した戦術に由来します。

 第一次世界大戦を経て、1918年にベルサイユ講和会議において国際連盟の創設がうたわれました。さらに1919年1月25日、ベルサイユ講和会議は 「国際的立場から労働条件を調査し、及び国際連盟と協力しかつその指示の下に右の調査及び考慮を係属すべき常設機構の形式を勧告する」 と国際労働法制委員会設置を決議します。
 委員会は35回開かれ、労働者の代表を交えた労働問題に対応する国際労働機関 (ILO) の創設と 「国際労働規約」 に盛り込む社会正義のための 「一般原則」 を決定しました。その第一は 「締結国は現に労働が単なる商品と見なさるべきものに非ずと認めるが故に労働条件を規律する方法及原則にして……」 と 「労働非商品」 をうたっています。さらに団結権の保障、最低賃金制、1日8時間・週48時間、毎週1回の休日、年少労働禁止、男女同一労働同一賃金、移民の自由、労働保護監督制度の9原則をうたいました。この委員会に日本代表として途中から友愛会の鈴木文治が参加しています。
 6月28日、ILOが創設されました。
 
 1920年3月の恐慌は、それまでの労使関係を一変させます。さらにワシントンで開かれていた軍縮会議は22年2月、「海軍軍事制限条約」 を調印、造船、鉄鋼業などが深刻な打撃をうけました。
 1920年、日本で最初の大衆的メーデーが開催されます。
 それまで日本の労働運動を個別に切り開いてきた鉄鋼、繊維、炭鉱などの労働者郡が情勢のなかで共通した認識に到達し、共同の行動をとるに至って実現しました。

 21年春先から関西では争議が相次ぎます。
 川崎造船所の労働者は、不況で賃金が下がり、解雇への不安が出てくると会社に企業別組合ではなく産業別組合である 「横断組合への加入の自由」 などの要求書を提出。
 そのようななかで解雇と下請け人夫の職工襲撃事件がおきると事態は急変しました。
 組合は、「私達は要求を貫徹するまで、各、其部署につき工場の仕事をみんなで管理し、工場を進めることに致します」 と 「工場管理宣言」 を発表します。
 6月25日、(神戸の) 三菱内燃機工場の労働者は 「賃上げ」 「横断組合への加入の自由」 「8時間労働制」 など9項目の嘆願書を会社に提出。発動機工場、機械工場、艤装工場の労働者たちもこれに呼応してサボに入り、友愛会に加盟します。会社側は首謀者の解雇をもって対抗。
 この情勢はただちに同地区の川崎造船所の労働者たちを起ち上がらせ、7月8日、2つの争議団は合併し、三菱・川崎争議団を結成します。
 7月10日には、神戸労働組合連合団主催のもとに、三菱・川崎の両造船所工員約3万人を中心とし、神戸印刷工組合、東神鉄工組合、その他友愛会所属組合員あわせて3万7千人が神戸の町全体をおおう大示威行動を展開しました。神戸製鋼所は半怠業状態となります。市民は争議団に同情を示していました。
 警察側は川崎造船所の 「工場管理宣言」 を強奪ととらえて硬化し、市中デモを禁止し、知事は姫路師団の出動を要請します。
 両社とも大量馘首を発表すると、争議団の資金は枯渇してきて組合員が脱退しだし、当の三菱・川崎の組合員の間にも疲れがみえはじめます。
 7月28日、市内デモを禁じられた組合員1万は野倉万治を先頭に湊川神社に結集。
 29日夕刻、警察は三菱・川崎の両争議団本部、友愛会神戸連合会を急襲、賀川豊彦、久留弘三、野倉万治その他200人余の指導者を検束。検束されたものは700人以上にものぼり、解雇者は増え、切崩がはげしくなります。
 8月9日、闘争団は一切の仲裁を断り、涙をのんでこの際は無条件降伏を行い、「他日の再起を期する態度をえらぶことを決定し」、「惨敗宣言」 を発します。
 争議をとおして川崎造船所で505人、三菱造船所で571人、神戸製鋼所で30人におよぶ解雇者がでました。しかし解雇者はその後、各地で組合結成の活動を展開していきます。
 「このような 『惨敗』 は、労働者を合法主義的闘争から実力行動へ追いやったことはたしかだった。サンジカリズム的な暴力と 『直接行動』 の方が労働者に何かをあたえてくれるだろうとかれらは期待するようになった。力のミュトス、それが普選絶望と三菱・川崎両造船スト惨敗が労働者にのこした教訓だった。」 (大河内一男著 『暗い谷間の労働運動』)

 労働者の8時間労働要求の闘いは中断します。そして大正デモクラシーは終焉します。さらに戦時体制に突入していきます。
 その後、時間短縮を目指す労働者の 『直接行動』 は見当たりません。

 戦前と比較しても現在の労働時間は長すぎます。しかもサービス残業が登場しました。
 メーデーは、賃上げ等の権利紛争だけでなく、時短、労働安全などの利益紛争のスローガンをもっと声高に掲げられる必要があります。 


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フランス  失業者と低賃金労働者では「期待」が違う
2012/04/24(Tue)
 4月24日(火)

 4月23日、フランス大統領選挙第1回投票の結果が発表されました。社会党のフランソワ・オランド氏28.63%、現職で民衆運動連合のニコラ・サルコジ氏27.18%、極右・国民戦線のマリーヌ・ルペン氏17.90%、左翼戦線のメランション氏11.11%の得票で、5月6日の決選投票に持ち込まれました。

 労働者は誰に投票したのでしょうか。
 候補者の主張です。
 オランドは、年収100万ユーロ(約1億1千万円)を超える富裕層への超過分への75%の課税強化を発表しました。年収150万ユーロ以上の所得者は約1000人います。また教職員の6万人増員や若者雇用の支援策を公約に掲げました。年金受給開始年齢を一部の人たちには60歳に戻します。景気刺激策としては欧州中央銀行の役割拡大を訴え、経済のグローバル化を支持しました。
 サルコジは「公共支出という麻薬を拒み、将来の投資に備えるため財政の規律を守る」、金融緩和や国債の買い入れなどで景気を刺激することを主張し、国民の緊縮への不満をかわしました。
 ルペンは、脱ユーロ、「ユーロは産業の空洞化と賃下げの元凶」「大量の移民がフランス人の職を奪っている」と移民規制を訴えて経済的に苦しい立場の人たちに浸透しました。ルペンへの投票者は「失業者のためになってくれそう」と語ったといいます。
 メランションは、「欧州委員会や国際通貨基金(IMF)が押しつける財政の緊縮策をたたきつぶせ」と最低賃金の2割増を訴えて緊縮市場経済を批判し、雇用不安を抱く人々の支持を集めました。
 オランドとサルコジの政策の違いははっきりしません。EUhへの依存度を強めています。与党と野党の違いがなくなっているのはフランスだけではありません。アメリカも日本もです。つまりは局地的、地域的ではなく世界的です。2008年9月15日のリーマンショック以降の傾向です。
 そのかなでルペンはフランスの一国主義を訴え、メランションは労働者の権利拡大を訴えています。

 5年前のサルコジの勝利で終わった大統領選を報じた2007年5月8日の『朝日新聞』は、現地の声を紹介していました。
 争点の1つは雇用問題で、サルコジ氏は「より働けば、より稼げる」のスローガンを掲げ、「改革派の女性」ロワイヤル氏をかわした。「彼女は失業者と生活保護で暮らす人に語りかけた。でもサルコジ氏は低賃金で働く者に語りかけた」
 出口調査では、働き盛りで安定した職に就いた人が多い35歳~59歳ではロワイヤル氏がやや優性か互角。だが不安定な雇用にさらされ、現状脱出を望む25歳~34歳と、治安の悪化に不安を抱く60歳以上の高齢層がどっとサルコジ氏に流れた。
 サルコジは、低賃金の若年労働者からも支持をえました。社会の底辺階層に置かれている労働者は必ずしも「改革派」に投票しませんでした。失業者と生活保護で暮らす人と、低賃金労働者とでは「期待」が違っています。

 この違いは、労働者がオランドとサルコジの政策には違いがない、そして具体的解決先がないと行けとめた時、主張が明快なルペンとメランションに吸引されました。「極左」「極右」とも前回より支持を伸ばしています。
 アメリカでは「ティーパーティ」と「オキュパイ」が登場しました。
 日本の「維新の会」などはルペンに似ています。一方、日本にはメランションが登場しません。
 これらの動向をポピュリズムと評価して済ませることはできません。


 労働政策研究・研修機構の「メールマガジン労働情報」3月7日号の「海外労働情報」は、1月18日にサルコジ大統領が労働組合代表、使用者団体代表をエリゼ宮(大統領官邸)に集めた会合で発表した長期失業者に対する職業訓練の充実などを柱とする4.3億ユーロ規模の雇用対策案と、29日に打ち出した国際競争力向上策を紹介しています。
 サルコジを支持するわけではありませんが、フランスの雇用の状況が見えてきますのでピックアップして紹介します。日本の雇用問題を捉えるときの参考にもなります。

 「雇用対策案」です。
 (1)「部分的就業(activite professionnelle)」の促進
 景気の悪化など経済的な理由により、事業活動の縮小を余儀なくされた事業主が、その従業員を一時的に休業(「部分的失業(chomage partiel)」)させる場合、事業主はその休業期間中、賃金の一定割合を支給しなくてはならない。その際事業主は、一定期間の雇用継続などを条件に、支給する賃金の一部の補助を受けることができる。すなわち、日本の雇用調整助成金に近い。
 対策では、この「部分的失業」に対する助成金支給の決定を迅速化すると共に、休業中の職業訓練受講を促進させることとした。つまり完全な失業者の増加を防ぐために「部分的失業」を促進させる。(1.0億ユーロ)

 失業問題は、日本以外では不就労の人数、時間数について国としてのリスク管理の観点から対策が取られます。日本は経済界、使用者のリスク管理しか問題にされません。 

 (2)「解雇よりも職業訓練 ( former plutot que licencier)」政策の促進
 産業構造の変化などにより衰退傾向にある地域や業種で、企業の近代化やそれに伴う労働者の職業訓練を促進することも、今回の雇用対策に盛り込まれた。これは、産業や労働者を育成することで、解雇を避けることを目的とした政策である。(0.4億ユーロ)

 労働者の異業種への配置転換、転職には職業訓練は不可欠です。しかし日本ではさほど問題にされていません。労働者の自己責任になっています。また異業種への配置転換、転職は、労働者の意向に関係なくサービス業に押し出されています。 

 (3)零細企業に採用された若者の社会保険料使用者負担完全免除
 従業員数10人未満の企業で、26歳未満の若年者を最低賃金(SMIC)で採用した場合、1年間にわたり社会保険料の使用者負担分を完全に免除する(SMIC以上の賃金の場合は、SMICの1.6倍の賃金まで賃金額に応じて一部免除)。これは、1月18日以降6カ月間に、無期雇用契約か雇用期間1カ月以上の有期雇用契約で採用した場合に限られる。(1.0億ユーロ)

 (4)求職者の職業訓練促進
 失業者(求職者)への職業訓練促進も盛り込まれた。特に、失業期間が2年を超える長期失業者に対して職業訓練の受講や特殊雇用契約による就業を促すなど、公共職業安定所(Pole emploi)での再就職支援を強化することとなった。(1.5億ユーロ)
 (5)公共職業安定所の職員増員
 失業者数の急増による業務の増加で、全国の公共職業安定所は人員不足に陥っている。そのため、急遽、全国で1000人を有期雇用契約で追加採用することとした。
 これらの措置は、緊急措置として順次実行に移されている。また、財政悪化を防ぐため、財源のための新たな国債発行などは行わず、予算の組み替えなどにより調達するとしている。

 雇用対策を充実させるなら従事する労働者数を増員するのは当りまえのことです。しかし、日本では業務は増やしながら労働者数を削減させています。このことは雇用問題にまじめに取り組もうとしないことの表明です。労働者数の削減は使用者の違法行為等を放置することに繋がっています。

 「国際競争力向上策」です。
 (1)労務コスト軽減のための消費税率引き上げ
 生産に要するコストを企業が削減し、国内・国際市場での価格を低下させるために、家族手当に関する保険料使用者負担を軽減し、企業の労務コストを軽減する。
 具体的には、最低賃金(SMIC)の2.1倍未満の賃金(手取り月額賃金で2300ユーロ未満)には、家族手当に対する保険料使用者負担分が課されなくなる。また、SMICの2.1倍から2.4倍(2650ユーロ)までの賃金に対しては、同保険料の使用者負担分が免除とはならないが、保険料率は現行より引き下げられる。SMICの2.4倍以上の場合は、保険料率は現行のまま据え置かれることとなる。

 労務コストの引き下げで、国内製品の価格は下落し、製造業の事業所の国外移転の動きを阻止する狙いもあるといいます。製造業では80%の賃金労働者がSMICの2.4倍未満の賃金で就業しています。ただし、SMICの1.6倍までの賃金に対しては、各種社会保険料使用者負担分の減免制度がすでに存在しており、従ってこの措置は、既存の低賃金労働者に対する社会保険料使用者負担分減免策を、中間所得者層にまで拡大したものとも言えるのだそうです。

 フランスでは、家族手当公庫(caisses d’Allocations familiales) が、こども手当や生活保護(RSA)、住宅手当など総額で738億ユーロ(2010年)に上る諸手当を支給している。その最大の財源は、使用者が拠出する社会保険料で、およそ45%を占めている(家族手当制度に関しては、労働者負担の保険料はない)。他の財源としては、一般福祉税などの租税(21.6%)、諸手当に対する国及び県の負担金(21.0%)などが挙げられる。この家族手当制度にかかる使用者負担の保険料率は5.4%である。

 この措置により、年間でおよそ130億ユーロの財源が減少する見込みであるが、家族手当制度の諸手当の給付は見直されないこととなった。そのため、財源不足分を、消費税(付加価値税)と一般福祉税(CSG:Contribution Sociale Generalisee)の一部の税率を引き上げることで補うとしている。具体的には、現在19.6%の消費税率を1.6ポイント引き上げ、21.2%とし、106億ユーロを確保する(7.0%、5.5%、2.1%の軽減税率は現行のまま)。
 これらの社会保険料使用者負担分の引き下げ及び消費税率・一般福祉税率の引き上げの実施は、今年の10月1日を予定している。

 日本では、福祉政策のほとんどが雇用主の責務になっています。そのため失業と同時に衣食住の問題に直面します。フランスでは、衣食住は国家によって保障されています。そのベースには「平等」「博愛」という思想があり、「人権」が保障されています。 (2)競争力をつけるための労使交渉の促進
 フランスでは、就労形態、労働時間、賃金などが産業別の協定に縛られ、企業活動の繁閑に応じて柔軟に対応することが難しい。そこで、労働条件を柔軟に変更出来るようにするため、企業の競争力や雇用に問題が生じた場合、企業内で労使交渉を行い、個々の企業の状況に応じて、労働条件を決定することが出来るようにする方針が明らかにされた。雇用契約上の規定の一時的変更を可能とすることが狙い。

 これまでの産業別労働組合による交渉ではなく企業内での労使交渉が開始されます。日本的労使関係の開始、労働者の忍従と屈伏、そして諸権利の放棄に繋がらないよう注意が必要です。

 (3)研修生や見習いの促進
 若年者の職業スキルの向上を目指し、研修生や見習いの受け入れを企業に促すことも決まった。フランスでは、従業員数250人以上の企業では、従業員総数の4%以上の研修生や見習い(教育機関や職業訓練センターにおける職業訓練と並行して、企業内での就業を通じた実地訓練を受ける者)を受け入れる義務がある。
 しかしながら、現在、従業員数250人以上の企業で実地訓練を受ける者は、同企業で就労する者の1.6%に過ぎない。また、研修生や見習いの比率が1%未満の企業は半数を超えている。これら研修生・見習い受け入れの義務に違反している企業に対しては制裁金が課せられている。
 今回の政府の発表によると、研修生や見習いの受け入れを企業に促すため、受け入れ義務比率を5%とすると共に、研修生や見習いの比率がそれに満たない企業に対する制裁金を順次引き上げることとなった。

 受け入れられた研修生や見習いのその後はどうなるのでしょうか。日本でも開始された「お試し雇用」は即戦力を要求されたのちに使い捨てされるなどさまざまな問題が起きています。
 研修生や見習いが即戦力ではなくきちんとした指導や教育が行われるなら、教育訓練の一環として位置付けられることになります。


 またこの他にも、中小企業の金融支援を強化することや、金融取引に課税する制度を今年8月から導入すること、不動産価格の高騰と住宅不足を解消するための措置などが、今回の国際競争力向上策に盛り込まれている。


 雇用政策に日本とフランスとでは大きな違いがあります。
 フランスは政策を「政・労・使」で検討します。日本は「学者・労・使」で検討しますが「学者」は「使」と一体です。そして「労」はまったく政策提言能力がなく「使」に迎合しています。
 日本に「メランション」の登場が期待されます。 


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安全衛生政策は労働者の要求で
2012/04/20(Fri)
 4月20日(金)

 「安全第一」10回連載の続きです。
 連載7は産業医を取り上げています。
 1人の産業医の発言です。
 「医者は目の前の患者を診る。産業医は集団を診る」。仕事や職場に潜む病気の原因を追及することが、産業医の役割だといいます。
 「産業医は診断書をうのみにしない。原因を分析するのが仕事だから、ゼネラリストでなければならない」働く人と会社の利益がぶつかることもある。元の職場では働けない。主治医と相談し、労働条件を示して人事担当者と受け入れ先を考えた。快復して仕事を再開するなら、その人が働ける環境を考える。それも仕事だという。
 もう1人の産業医の発言です。
 「病医で待っているだけでは駄目。わかっている人が見て回れば、職場も健康もすぐによくなる」
 産業医がみなこのように任務を果たしているということではありません。ごく少数派です。(2011年11月4日の『活動報告』参照)

 むしろ産業医に対する労働者の不信感は大きいと言えます。
 1つの理由は、産業医は企業から雇われています。雇用関係を維持するためには企業の意向に逆らえません。労働者の思いが受け止められません。
 2つ目の理由は、産業医は企業の現場の実態を知りません。特に非常勤の場合はそうです。労働問題、労使関係を知りません。労働者が改善を要望しても個人的問題と対処されます。集団をちゃんと見えません。
 3つ目の理由は、それぞれの専門以外の症状については自信もなく、企業の意向に従います。専門家の任務を果たしません。
 では企業の意向はどのようなものでしょうか。
 長期的ビジョンがないその瞬間の利益追求です。労働者の職場環境を考慮していたら、業績は滞るという発想です。労働者を企業の財産というような捉え方はしません。代りはいくらでもいるという発想です。
 この発想は、まさしく原子力発電の再稼働問題で、電力不足に陥ると経済が停滞するという恫喝で再開を強行しようとする政府や経済界の姿勢と同じです。住民の生命の安全は顧みられません。福島原発事故を経験ても長期的リスク管理が行われていません。
 これが日本において安全問題を捉える時の実態です。

 最近あった相談です。
 IT関係の会社では毎月100時間を超える時間外労働が続きます。
 労働安全衛生法に基づき、会社の産業医は労働者全員に1か月1回定期的に健康診断を実施します。結果は全員「大丈夫」です。みんなが時間外労働をしている中で1人だけきついと言うことができません。
 その結果はどうなるのでしょうか。体調不良者が出た場合、「先月までは大丈夫だった」と会社の安全配慮義務は果たされていたことになります。原因は体調不良者個人的資質の問題に帰せられます。裁判になった場合そう主張します。
 産業医は、会社の100時間を超える時間外労働を加重労働とは捉えません。会社は産業医のお墨付きをもらっています。
 このようなことが日本の労働法制では合法なのです。
 さらに今、定期健康診断などに際してメンタルヘルスのチェックを義務付ける、いわゆる「新たな枠組み」が法制化されようとしています。チェックの前に時間外労働の規制が必要です。

 『朝日新聞』が「安全第一」をテーマに取り上げるきっかけは、日本の働く現場で安全衛生運動が始まって1世紀経ったということのようです。
 1世紀前に何があったのか。第一次世界大戦で軍艦の部品の発注が大きく伸びると、現場での怪我も増えます。住金の前身・住友伸銅所の三村起一がアメリカの例を参考にして工場内で対策を取り始めます。
 しかし、これが本当に日本の安全衛生運動の始まりでしょうか。鉱山や紡績工場、そしてそこで働く労働者の自主的な運動は忘れられているか無視されています。

 連載8に大原社研労働科学研究室の暉峻義等が3行だけ取り上げられています。

 1889年(明治22年)、倉敷紡績が創立。社長は大原孝四郎です。
 その息子が孫三郎です。
 1900年、孫三郎は上京して東京専門学校での学生時代、社会問題に関心を持ち、「貧民窟」に出かけたり、足尾鉱毒問題に関心を持って足尾現地まで出かけていったりします。
 1904年12月、足尾の鉱毒が渡良瀬川を流れて運ばれた谷中村の買収を栃木県議会は採択します。田中正造は村民とともに谷中村の救済の闘いをはじめます。東京の学生たちはで現地を訪れ、その状況を東京に戻って演説で報告しました。それが現在も続くサークル雄弁会の設立の契機になりました。孫三郎はその前に出かけています。
 しかし勉学をまったく放棄していたことがばれて田舎につれ戻されます。
 孫三郎は倉敷紡績の役員に就任します。女工だけで1.000人を超す会社になっていました。
 孫太郎は理想の現実に取り掛かります。
 まず、工場内に職工教育部を作り、初等教育も十分に受けていない工員たちのために、学校教育に見合う勉強ができるようにしました。次に、大部屋式の寄宿舎は人道的でないと改善のための増改築にかかります。
 1906年、数え27歳で社長に就任します。
 当時、紡績会社は工員たちの三食の食事を飯場に請け負わせ、飯場は食事内容を落とすことで荒稼ぎをしていました。飯場の親方は、女子工員のための日用品を扱う売店経営も兼ね、独占的な立場を悪用して儲けていました。さらに工員募集などの口入れ業をやり、会社と工員の双方から手数料や紹介料を取っていました。
 孫三郎にとって立場の弱い働く人々を手玉に取る飯場は明らかに「人道に反する」もので許せない存在でした。飯場を廃止します。
 労働環境の改善にも取り組みます。
 倉敷工場では、真夏の暑さが少しでも減るようにと工場の煉瓦塀に蔦を這わせたり、井戸水を循環させる冷房装置を取り入れるなどします。万寿工場の換気をよくするため、大きな換気塔・「塵突」を建てました

 1918年、米騒動が全国各地で起きます。孫三郎は、米騒動に見られるような社会問題、労働問題を解決するには科学的研究が必要であると考えて大阪に大原社会問題研究会を設立します。19年、研究員には経済学者、社会学者以外で医学士暉峻義等が入所しました。孫三郎は対処療法だけでは満足せず、研究所の中に疲労生理実験室を設けました。その担当者が暉峻です。
 孫三郎は暉峻を倉敷に呼びます。
 「自ら万寿工場の中を案内して回り、綿ぼこりの舞う中、目を赤くしながら働く女工たちの姿を見せ
 た。……
  そのうえで孫三郎が暉峻に言った。
  『きみ、どうです、この不健康な有様は。女の子がかわいそうです。しかし私1人じゃ、倉敷だけじゃ、ど
 うにもできん。女工たちがもっと明るく強く、より働き、幸せな生活ができるよう、工場へ来て研究してもら
 いたいんだが」 
  暉峻がこれに応じた上で、希望というか条件として、
  『この倉敷に、それも工場の中の、あの綿ぼこりと騒音のすぐ横に、研究室を建てて下さい』」(城山三
 郎著『わしの眼は10年先が見える』)
 21年7月、倉識紡績万寿工場の敷地内に医学と心理学を主軸とする生物学的研究という内容を示す名称として大原社研労働科学研究室が開設されます。日本での労働衛生の最初の研究機関です。
 さらに倉敷紡績では法制定に先立って深夜業を廃止します。

 労働者の安全衛生は、孫三郎が捉えたように対処療法だけでは不充分です。
 2005年4月25日年に起きたJR福知山線の尼崎事故の運転手も「指さし」点呼をしていました。しかし職場には「日勤教育」という名目のいじめがはびこっていいました。労働者は恐怖のなかで業務に従事していました。それが事故の一因です。
 今労働者は精神的にゆとりがない状況におかれています。原因は様々あります。最も深刻なのが過重な、そして長時間労働です。
 労働安全衛生は、安全・安心して働き続けて賃金を得るための労働条件です。しかし多くの労働組合は賃金アップなどの利益紛争の小さな成果も難しくなるなかで、権利紛争は忘れ去られて久しい状態にあります。
 産業医の対応に見られるように、安全衛生政策の推進は使用者に期待できません。労働者が要求をし、実行させる取り組みが必要です。そして規制強化を厚労省に迫っていかなければなりません。 


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「安全第一」をすべての労働者の常識に
2012/04/17(Tue)
 4月17日(火)

 3月下旬から『朝日新聞』夕刊一面の「ニッポン人・脈・記」欄で「安全第一」のテーマが10回連載されました。労働現場でのさまざまな安全衛生の取り組みとそれにまつわるエピソードが紹介されています。つくづく古くて新しい問題だということが実感されます。

 安全衛生は、小さな工夫から始まります。
 連載は「指さし」呼称を何度も取り上げています。鉄道の世界では古くからおこなわれていました。「能動的に考え、手を動かし、声を出すことで注意力を高め、確認もより正確になる。あわてて間違った動作をすることも予防できる」といいます。
 「指さし」呼称は、64年に発足した中央労働災害防止協会が産業界に広めたのだそうです。
 64年ということ引っ掛かります。
 60年の三池闘争を経た63年11月9日、三池炭鉱三川抗で炭塵爆発事故が起き、458人の死亡者と839人のCO(一酸化炭素)中毒患者を出しました。爆発事故の原因をめぐって会社と労働組合は真っ向から対立します。その翌年です。
 三川抗での事故後も続発する炭塵爆発事故のなかで、総評は労災問題に本格的に取り組むことを決定し、67年10月に他の労働団体にも呼びかけて「日本労働安全センター」(現在の全国労働安全センターとは違います)を設置します。

 三池炭鉱が閉山する1か月前に現地を訪問しました。夜の交流の時、三井三池炭塵訴訟原告の遠藤長市さんが三池労組の保安闘争の教訓を切々と語ってくれました。
 三池労組は、炭労の他の労働組合が戦後まもなくから活発な活動を開始する中にあって労使協調の活動を展開します。しかし職場に根を張る活動を続け、力をつけると炭労の他の労組を牽引する位置を占めます。
 三井鉱山では労使間の話し合いで、坑内の保安点検をする「安全委員」制度に労組からも委員を出すことを決定します。遠藤さんも委員になりました。他の炭鉱の事故調査に参加することもあります。事故の原因をうやむやにしたい会社側からは嫌がられたり、買収まがいのこともあったといいます。保安問題で会社に譲歩しない遠藤さんは業務を止めることもあったといいます。
 三井鉱山は57年から労務政策を大きく変更し、遠藤さんらや三池労組の活動を「業務阻害」だと主張し、59年に遠藤さんを見せしめ解雇、60年に労組の中心的活動家の指名解雇を行います。

 1941年5月、三井炭鉱に三井産業医学研究所が創立されました。戦時中、生産増強が至上命令となるなかで労働力確保のための研究機関が必要になりました。研究員は、中国人労働者の栄養失調症の報告などもしています。
 研究所は、常時構内の粉塵などの測定を行っていました。しかし59年6月30日に閉鎖されます。不採算部門の切り捨てを含む一連の企業合理化の一環です。
 合理化は労働安全衛生政策の切り捨てと併せて進められたのです。
 三池闘争が敗北し、労働が強化されると事故は多発します。『三池炭坑殉職者名簿』によると61年から63年10月までに47人が死亡。内訳は三池労組員が20人、三池新労が25人、下請け組夫が2人です。そして多くの「黒い肺」の塵肺患者が増えています。
 事故は会社が起こしたのです。

 話が少しだけ脱線します。
 精神科医は戦時中もてはやされました。企業に乞われて精神衛生管理を行います。
 「それは主として飛行機や船舶や兵器などの製造工場でであった。戦力補充のため、おびただしい数の若い工員を、ほとんど無選択に徴用していたが、これらは全くの玉石混交で、多くの不良工員のために、職場の協調は乱される、不良製品は出る、無断欠勤などが多くて増産の効果はあがらぬという始末。困り果てた企業体は、精神医学の面での協力をわれられに依頼してきたのである。……
 研究は、企業に入り、優良工員の問題、問題工員の問題、災害頻発者の調査、神経症の問題、適性検査など多方面にわたった調査をおこなったが、その結果2つの点が特に印象的であった。……
 第2の点は、だれしも予想通り、不良工員の問題である。……
 そこで、われわれは、あれこれ試みた結果、まず、これらの者を正常工員の職場から離して、その職場の受ける妨害的作用を取り除き、次に、不良工員だけのグループを作って、特別の量で、特別の管理者のもとに、適当のリクレーションを交えた規則正しい生活をおこなわせるようにした。そして独立した工場で、彼らだけの作業に従事させるとともに、このグループの作業成績がすぐれているときには、適当に褒賞するようにしたのである。
 これらの措置は、すこぶる効果を上げたが、これは当然予測できることであった。」(内村祐之著『わが歩みし精神医学の道』)
 今、労働現場では業績を要求して一方的に扇動したり、労働者を表面的な評価で安易に切り捨て、排除することがはびこっています。対応を見習う必要があります。

 内村医師は、63年の三池炭鉱三川抗の爆発事故の1か月後、政府派遣の医療調査団の団長として現地に入り、CO中毒後遺症の患者を診断しました。
 「三池のほとんどすべての患者に共通していたのは、失語症のような、側頭脳から前方の症状がなくて、側頭脳から後頭脳にかけての症状、すなわち認識と行為の障害があることであった……。それゆえ、一見して、それほどの重症とも思われぬ患者が、実は生物としての基本的な機能を強く侵されていたのである。」(『わが歩みし精神医学の道』)
 事故は、一瞬にしてたくさんの人命と人生を奪い、その家族の生活を大きく変貌させます。

 「安全第一」の連載8は、国鉄に安全政策がなかったことを紹介しています。
 69年、国鉄ではディーゼル機関車や電気機関車の助手を廃止して1人乗務にするという提案が問題になっていました。労使が対立したため、有識者による委員会がつくられました。その委員会の下に2つの調査班が設置され、国鉄の鉄道労働科学研究所の2人の研究員がそれぞれ責任者になりました。
 しかし調査班の最終報告書がまとまる前に委員会は「1人乗務に問題なし」の結論を出し、解散してしまいました。委員会に抗議もできない2人は記者会見という強硬手段に打って出ました。すると職場で徹底的に無視されたといいます。
 やはり合理化と安全衛生の無視は同時に進められます。
 専門的機関である調査班の無視。最近、安全性を巡るどこかの問題で似たようなことがありました。
 この頃、国鉄当局は国鉄労働組合所属の組合員の脱退をさまざまな手段を使って画策し、第二組合を育成していました。合理化を推し進めるために国労の弱体化を画策したのです。

 「安全第一」の連載9は、関西労働安全センターの片岡事務局次長を紹介しています。片岡さんが学生時代活動していた京大安全センターの学生たちは、鉄道の保線現場で作業員がじん肺になった問題で、労組の要請で計測器を持ち込み、実態を調べたといいます。
 この頃、関西で新幹線の保線現場で働いていた労働者の報告が『朝日ジャーナル』74年1月4日、11日号に載っています。(たまたま持っていました)
 そのなかに「(新幹線総局大阪保線所)分会では、専門家の力を借りて独自の粉じん、騒音、CO調査を何回となく実施し、大阪労働基準局とも交渉をおこない、現場調査やすべての労働者の特別健康診断を行わせた。その結果……の発生が確認された。
 こういう事態をふまえて保線所分会は、大阪保線当局と交渉を行い、本工・下請けを問わず患者、被疑者の救済、粉じん抑制措置が取られるまで、すべての粉じん保線作業を中止するという確認をとった。」とあります。
 この専門家とは京大安全センターなのではないでしょうか。
 三池闘争の前まで、三井鉱山と労働組合との間で団体交渉権をそれぞれの職場ごとに確立していた「現場協議制」の成果の具体的例です。今では想像すらできなくなっています。

 『朝日ジャーナル』は、国鉄の保線現場の状況を報告しています。
 保線の本格的な作業は、最終列車が通った後から始発列車が走り始めるまでの深夜、短期間に集中して行います。大阪保線所で保線作業に直接従事する国鉄労働者は340人。それに月間延べ1万1千人を超える外注の下請け労働者による人海戦術で作業は進みます。国鉄労働者の仕事の分担は、下請け労働者の保線作業の監視・指導、立ち会い、企画設計、一部重機械の運転です。
 「大型機械の導入によって、労働者の作業環境がいちじるしく悪化してきた側面も見逃せない。例えばマルタイと呼ばれる大型自動つき固め機から発生する耳をつんざくような騒音と、もうもうと舞いあがるパラストの粉じんは、まさに想像を絶する。とくに風通しの悪いトンネル内という閉鎖空間でのマルタイ作業などは、労働者の聴力障害、じん肺をひきおこす最大の原因とみてまちがいない。」
 新幹線ですので線路の25%がトンネルです。このような状況下での作業でした。
 新幹線は事故が起きていないといわれる運行の裏側で、労働者が身体を壊し続けていたのです。

 下請け労働者は、具体的には第4次下請けの労働者です。
 「国鉄労働者と下請け労働者の関係は、単なる違和感というものではない。労働を監視するものと、看視されるものとの関係であり、監視される側からみれば、私たちもまさに敵対者ということになる。」
 「下請け労働者がそういう(国鉄職員に対する敵意に近い)気持ちを持っているという事態こそ、私たち国鉄労働者がこれまで冒してきた誤りではないだろうか。単に、本工と下請けの区別をするなというスローガンだけでは、私たちの職場では済まされない。私たちが下請け労働者に押し付けていった労働を、私たち自らがやるということ、国鉄労働者に保線の直接労働の仕事をよこせという要求、運動が、組合活動家を中心に芽生えつつある。」
人間らしい作業環境、労働節度、労働条件が確保できないところで、乗客列車の安全がどうして保障できようか。」

 国鉄分割民営化反対闘争の中で国労組合員の解雇問題は大きく取り上げられましたが下請け労働者の処遇についてはほとんど取り上げられませんでした。
 そしてこの報告と原発現場で働く労働者の状況が重なります。
 「安全第一」は労働現場で働くすべての労働者の常識にしなければなりません。
 

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“震災に負けない” とは労働者が尊重される社会を創ること
2012/04/13(Fri)
 4月13日(金)

 東日本大震災における地元公務労働者の救助活動、救援活動は、自分自身が被災者でありながら、周囲に安心と希望をもたらしました。
 その一方で、活動のなかで受けたストレスも大きいものでした。
 自治体職員、教員、消防士、医療関係者などのそれぞれの団体や労働組合、そして大学病院などが調査を続けていまがすどれも深刻です。
 さらに、災害等の救助活動参加者は2年後、3年後に体調不良が発症すると言われています。これからの取り組みも重要となります。

 4月5日付の 『河北新報』 に 「職員9割がストレス自覚 仙台市、震災初期対応で健康調査」 の記事が載りました。
 仙台市は昨年6~7月、東日本大震災の初期対応をめぐり、市長部局や行政委員会、教育局 (学校を除く) などの正職員と再任用職員計6.399人を対象に心身の健康状態を聞いたアンケート調査を行い、1.368人 (21.4%) から回答を得ました。
 その結果、震災後、業務でストレスを感じることが 「あった」 と答えた職員は45.4%、「少しあった」 は42.8%で、計88.2%に上ります。「なかった」 は9.9%です。
 ストレスを感じた理由 (複数回答) は「業務量の増加」 が50.5%で最多。「担当したことがない業務への対応」 (46.3%)、「市民対応」 (43.1%)、「家族や家の心配」 (41.3%) と続きました。
 精神健康度を一般的な手法で調べた結果、54.7%が抑うつ状態の可能性がある基準点を超えました。市は昨年8月、ストレスが大きいとみられる82人の個別相談を実施しました。
 部局別では、罹災証明の発行に当たった財政局のほか、環境局や健康福祉局、各区役所など震災関連業務に忙殺された部局が他より悪い数値を示しました。
 役職や年代、性別で見ると、「主査以下」 「40代」 「女性」 が相対的に芳しくない傾向が出ました。あわせて質問した肉体的な疲労蓄積度と精神健康度が、全体として相関関係にあることも判明しました。
 親や子、同居の家族が死亡した職員は50人 (3.7%) で、4~5月の超過勤務時間がともに80時間を上回った職員は223人 (16.3%)。消防局職員を対象とした惨事ストレスの調査では、31人 (16.0%) が心的外傷後ストレス障害 (PTSD) の危険性が高いとされる目安を超えています。
 震災前後の健康状態を聞くと、震災前に28.1%だった 「よかった」 は震災後、15.0%に半減。「あまりよくなかった」 は11.0%から25.0%に倍増しています。
 市厚生課は 「震災対応に追われ、疲弊していた状況が個別に把握できた。業務遂行のため、無理に残業していた例も散見される。過重労働にならない配慮と対策に取り組みたい」 と話しています。
 今年3月に2回目のアンケートを行うなど、定期的なメンタルヘルスケアを続けているといいます。

 公務労働者は未曽有の惨事の中で、長時間労働を続けました。(仙台市以外の状況は、2011年8月10日、2012年2月24日の 『活動報告』 参照)
 そこ状況は現在も続いています。
 今被災地の各自治体は土木、建設関係の職員不足が深刻で、インフラ整備に手が付けられないでいるといいます。専門家、担当者がいない中で、地元の事情を知らない都会のンサルタントが住民の高台移転など画一的なプランを勝手に持ってきて提案しています。しかし住民にとっては自治体の計画も知らされず、議論する資料もないという状況です。
 国の管轄部門は国土交通省が進めていますが、自治体と国の進行状況には大きな差が出ています。
 それが復興が遅れている原因の1つになっています。

 震災直後から、全国各地から多くの公務労働者が被災地に赴きました。今も続いています。
 被災地を離れ、時間が経過して周囲の同僚の関心も薄れた頃に体調不良が発症する危険性があります。派遣した自治体はフォローを続ける必要があります。「災害は忘れた頃にやってくる」 を肝に銘じなければなりません。

 同時に被災地以外の残された公務労働者の状況も気になります。
 4月3日付の 『河北新報』 に 「岩手、宮城、福島の3県と被災地の47市町村は新年度、他の自治体から計約1.300人の応援を受ける」 の記事が載りました。
 35人の派遣職員を受け入れる岩手県釜石市で北九州市の6人が辞令を受けました。両市はともに 「鉄の町」 で、以前から交流が深いのだそうです。岩手県大槌町は43人、宮城県山元町は44人の派遣職員を受け入れました。
 全国から派遣される職員の内訳は、宮城が県と15市町で計約620人、岩手が県と11市町村で計約370人、福島が県と21市町村で計約340人。職種は公共施設の復旧や復興計画を担当する技術職、会計処理に従事する事務職、教員や埋蔵文化財調査員など多岐にわたるといいます。

 職員を派遣した自治体は人員にゆとりがあるわけではありません。被災地・被災者に思いを寄せて無理をしてやりくりをしています。
 しかし、この思いに水を差すのが政府の公務員数削減方針です。
 政府は4月3日、2013年度の国家公務員の新規採用数を2019年度比で56%減の3.780人に抑える方針を決定しました。この決定は国家公務員に限定されるわけではなく波及します。被災地・被災者のためにと無理をしている自治体はさらなる無理を強いられます。そうでなければ派遣職員の引き上げです。
 「小さな政府」 が震災の被害を大きくしました。政府の方針は、今後被災地に3次被害・4次被害をもたらします。
 国家公務員の新規採用数削減は若者の雇用問題に深刻な影響をもたらすという主張で反対意見が展開されること事態、震災が忘れられ、公務労働が顧みられていない状況を示します。

 仙台市が行ったアンケート調査でもう1つ気になることがあります。
 消防局職員を対象とした惨事ストレスの調査で、31人 (16.0%) が心的外傷後ストレス障害 (PTSD) の危険性が高いとされる目安を超えているということです。
 惨事ストレスに強いパーソナリティは存在しません。しかしこの数値は高すぎます。
 消防庁は、阪神大震災の経験から他の組織・機関に先駆けて参事ストレス対策に取り組んでいます。その成果は大きいものがあります。(2011年9月30日、10月21日の 『活動報告』 参照)
 しかし数年前の消防庁の調査結果は、取り組み状況に都道府県で大きなばらつきがあることが明らかになりました。災害を経験した都道府県と “他人事” ととらえていたところでの違いです。
 これまで災害に遭遇しなかったことはいいことです。しかし応援対応を含めて経験は共有され、被害をより小さくするための取り組みが必要でした。
 そして取り組みが明らかに遅れている自衛隊や警察から派遣された隊員や職員の健康状態も、隠されていますが仙台市の消防局職員と同じ状況だと推測されます。(2012年3月30日の 『活動報告』 参照)

 “震災に負けない” ということは、働く者すべてが大切にされ、お互いの思いが伝わり、尊重される社会を創り上げていくことです。 


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