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「原爆は威力として知られたか 人間的悲劇として知られたか」
2012/02/28(Tue)
2月28日(火)

 3月4日 (日) 19時54分から、テレビ東京でドラマ 「『明日をあきらめない・・・がれきの中の新聞社』 ~河北新報のいちばん長い日~」 が放映されます。
 河北新報社著 『河北新報のいちばん長い日』 (文芸春秋刊) のドラマ化です。

 2011年3月11日の河北新報社の状況を 『本』 を引用して紹介するのはドラマをつまらなくしますので、朝日新聞社刊の 『Journalism』 2011.6号に載っている寺島英弥編集委員の報告から引用します。
 「地震直後から仙台市内は大規模な停電になり、本社と同市泉区にある印刷工場は自家発電に切り替
 えられました。印刷工場は免震構造のため被災を免れました。しかし、本社内にある新聞制作システム
 の組版基本サーバーが横倒しになり、編集局は11日夜の新聞制作が困難と判断し、昨年システム災
 害協定を結んだばかりの新潟日報に紙面整理を委託しました。
  取材した原稿、写真を新潟新報に送信し、整理部からもデスクら2人を陸路、新潟に派遣。できあがっ
 た紙面のデータを共同通信社の回線を使って送信、同夜7時前に2ページの号外を河北新報の印刷工
 場で刷り、無事1万部を発行しました。」
 報道部は、3月22日朝刊から 「ふんばる」 というシリーズを連載します。
 「東北の人々の命や暮らし、古里の街を奪った東日本大地震。今も多くの人が行方不明の肉親を探し、
 避難所で寒さや疲れに耐え、ライフラインの復旧を待つ。今日を生き抜くこと、希望を取り戻すこと、そし
 て再び立ち上がること。そんな思いで支え合い、動き始めた人々を被災地の様々な場所で見つめる。」
 被災した当事者として、地元の新聞社の 「宿命」 を背負って今も闘い続けています。

 新聞販売店、配達員も犠牲になりました。
 その中で、気仙沼市の藤田新聞店は、被災を免れた本店で 『ふれあい交差点』 というミニコミ紙 (B4判2ページ) の 「災害特集号」 をほぼ毎日作成し、新聞に折り込んで配達しました。住民の安否や行政・生活・普及支援の情報、伝言板や流れた車の持ち主さがしなどさまざまな記事を載せました。

 寺島編集委員は、「被災地の新聞として失ったものも大きいけど、地域の人々とつながるメディアの生き方を私たちは手にしました。」 と書いています。

 3月6日 (火) 21時から、日本テレビでドキュメンタリードラマ 『3・11その日、石巻で何が起きたのか ~ 6枚の壁新聞』 が放映されます。
 宮城県石巻市の地元紙 『石巻日日新聞』 は、社屋が浸水し、輪転機が水没するなど新聞印刷は不可能になりました。しかし12日から17日までの6日間、懐中電灯の明かりを頼りに新聞用紙にフェルトペンで記事を書いた 「壁新聞」 を作成し、避難所やコンビニに張り出します。被害情報や行政からの情報、全国からの支援の様子などを伝えました。
 市の中心部は1メートルともいわれる地盤沈下が起きたため津波が引いても海水は引きませんでした。そのなかで記者たちは “泳いで” 取材に出かけ、“泳いで” 記事を届けながら 「壁新聞」 の作成を続けました。
 「新聞」 は反響を呼び、各地で展示もされ、米ワシントンにある報道博物館 「NEWSEUM (ニュージアム)」 に収蔵されることになりました。
 しかし社員たちは、「当たり前のことをやっただけ」 という意識だそうです。 
 ドラマには石巻市の隣、女川町出身の中村雅俊が出演します。

 昨年3月22日の 「活動報告」 の再録です。
「1954年3月1日、アメリカがマーシャル群島ビキニ環礁で行った水爆実験で静岡県焼津港のマグロ船第五福竜丸が死の灰をあびて帰港しました。それを契機に原子力兵器の製造・使用・実験の禁止を求める署名運動が展開されていきます。
 東京・杉並区では鮮魚店連合が展開していた水爆禁止の署名運動をヒントに 「杉並アピール」 が発表されました。署名数は、8月に広島と長崎で開催された原水爆禁止世界大会までに900万筆に達しました。
 この時、焼津港と似た漁港を持つ、今回の震災で今も多くの行方不明者がいる石巻市は地域を挙げて取り組みました。船主は資金を出し、製紙工場は紙を拠出し、地方新聞社石巻日日新聞は文書作成と印刷を担当し、市民は市内の隅々にまで署名用紙を持ってまわりました。世界から称賛されました。
 今回この地域の震災による犠牲はあまりにも大きすぎるものがあります。しかしかつて世界から称賛されたように、市民の力を寄せ集めて、必ずや街を復興させることでしょう。
 石巻日日新聞は今回、避難所に毎日マジックで手書きの壁新聞を張り出しています。」
 
 実は、幼い時の、この署名運動の記憶があります。
 町内会の世話役の人が署名要請に来ました。魚が食べられないという会話の中で、家族が署名をしていました。
 その時から、ヒロシマ、ナガサキ、ビキニにこだわっています。

 だからということではありませんが、またヒロシマの話をします。
 1945年8月6日8時15分、アメリカは広島に原爆を投下しました。
 中国新聞社は、流川町に、今の三越デパートの位置に3階建の旧館と7階建ての新館がありました。爆心地からは約900メートルの距離です。
 一瞬にして、外郭だけを残して窓ガラスが割れ、物品は飛び散り、設備機能はすべて焼失しました。間もなく4階の製版部の倉庫で、アルコール などの可燃性薬品が原爆の高熱から発火し、火は全館に延焼して1階の輪転機も焼けただれました。
 113人の社員が奪われました。当時の従業員の3分の1にあたります。
 当時は38万部を発行していました。
 すでに輪転機1台と付属設備を近郊の温品に疎開させてはいましたが動力線を引く工事はまだでした。
 6日のうちに軍を経由して大阪朝日、九州毎日、島根新聞社に相互援助契約による代行印刷を依頼し、各新聞社は了承しました。
 9日から、大阪の朝日、九州の毎日、そして島根新聞から新聞が届けられます。しかし、代行印刷は1か月の期限です。

 7日、新聞社に特高課長が 「知事布告」 を出したいということで協力要請に来ます。特高課長の口述を原稿にし、印刷屋を探してタブロイド判の大きさで60枚印刷、市内各所に掲示しました。布告は、「我らはあくまでも最後の戦勝を信じあらゆる艱苦 (かんく) を克服して大皇戦に挺身せん」 と結ばれていました。これが被爆後、中国新聞社が行った報道活動の第1号です。
 これを機会に業務が再開されます。
 中国新聞と題字をつけたダブロイド版の壁新聞が発行され続けます。飛び込みニュース程度のものを2、3本書き込み、焼け跡の電柱、塀、駅前などに貼ります。
 さらにメガホン隊を編成し、焦土の中で市民に罹災者の応急救済方針、臨時傷病者の収容所、救援食糧、被害の状況などの情報を、罹災者の集合場所や焼け残った郊外住宅地などに分散して伝達していきます。情報に飢えている被災者には結構喜ばれました。最後には 「決して心配はありません」 と結びます。
 しかし内務省の規制は厳しく、戦争が終わるまで原子爆弾の表現は禁止されました。

 8月20日、温品の疎開工場に200ボルトの動力線が引かれ、試し印刷を経て9月3日、印刷に成功しました。
 しかし9月17日、九州に上陸した枕崎台風が広島を直撃します。
 9月18日付の新聞は書いています。
 「8月の末からまるで梅雨のように執拗に降りつづいた雨は、17日朝になってとうとう豪雨になっ
 た。……昼ごろからは風を伴うにつれて、ますます降りしきり、本格的台風になった。8月6日には原子
 爆弾という 『火』 の試練を受けた広島市民は、今度は 『水』 だ。……
  だが、火に生き抜いてきた市民は敢然と、この天の猛威と戦った。暗夜に不断の警戒がつづけられた。
 かくして夜半ようやく雨は止んだ。やがて風もおさまった。被害は県下一円に相当あるらしい。だが新
 しい日本建設にたくましく進む更生県民には、これしき何ぞ。苦難を乗り越えて起き上がるだろう」
 この記事を載せた新聞の印刷終了後、「水だ!」 と叫ぶ声が響きました。輪転機が水浸しとなりの県道へ通じる橋が流出してしまいました。
 新聞発行はまた不能になり、再び朝日と毎日の代行印刷となります。しかし今度は県内で鉄道が被害を受けていたため遠距離からの運送には困難をきたしました。
 幹部会議は、この際温品工場の輪転機を焼け跡の本社に復帰させる決定をします。
 
 20日、社員は再びこんにゃく版刷りの壁新聞 「特報第1号」 を発行します。
 社員の本社への早期移転・復帰の決意は強まります。
 社員の1人が日記に書いています。
  「9月29日 (土) 晴れ、のち曇り。
  ここ1週間『中国新聞特集』の壁新聞をまた発行する。同盟や県庁だねを中心に数項目ずつをガリ版で
 刷り、それを販売部員が広島駅、横川、己斐、宇品、向洋など市内の要所に貼り出すほか、社員や県庁
 員に頼んで鉄道沿線の各駅に掲示してもらうものだが、見出しを長くした程度の内容で果たして何人の
 市民が見てくれるか。しかしわが社はピカドンにもめげずにまだ生きていることを宣伝するのには役立っ
 ている。」

 10月1日、本社移転に漕ぎ着けました。
 11月4日、本社での印刷がスタートします。記者はやっと本格的な記事が書けることになりました。
 自力印刷第1号の1面トップは4段見出しで 「復職者対策の 対象人員6百万 解雇抑制等を応急措置」 です。2面は、11月初めの広島の姿を 「あれから3月 まだこの姿」 を主題として、行政、住宅、電力乗り物など8項目に分けて現状を報告しています。

 中国新聞の基本的な論調は 「広島の復興」 でした。
 しかし報道統制が解除になっても原爆被害の実態や悲惨さを伝える記事は多くありませんでした。
 この状況を変えさせたのが54年3月1日のビキニ環礁での第5福竜丸が死の灰を浴びた事件です。原水爆禁止運動が盛り上がります。
 金井利博論説委員は、原爆を落とされた側の広島が人類に与えることができるのは、落とされた現実の報告とそれに基づく忠告であるという視点から紙面づくりを始めます。金井論説委員の指導を受けた後輩記者も様々な視点から原爆被害の記事を書き続けます

 1964年に開催された分裂ぶくみの第10回原水爆禁止世界大会で金井論説委員は呼びかけを行います。対立は、ソビエト・中国の核兵器への評価です。絶対悪の主張と、アメリカ帝国主義の核所有に対する抑止力として必要という主張です。
 「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。……
  世界に知られているヒロシマ、ナガサキは、原爆の威力についてであり、原爆の被害の人間的悲惨に
 ついてではない。……
  平和の敵を明らかにする論争のなかで、まず被爆の原体験を国際的に告知する基礎的な努力がなお
 ざりにされてはいないか……
  今、広島、長崎の被爆者が、その死亡者と生存者とを含めて心から願うことは、その原爆の威力につい
 てではなく、その被災の人間的悲惨について、世界中の人に周知徹底させることである


 「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」
 原爆被害を被爆者の立場に立って捉えなおそうというこの呼びかけは、その後の中国新聞の報道姿勢になっています。

 しかし中国新聞社の姿勢とは裏腹に、「原爆は威力として」、原子力・原発をエネルギーとして受け入れて戦後の高度成長と人びとの生活 「向上」 は維持されてきました。
 開沼博著 『「フクシマ」論』 の通りです。
 「人間的悲惨」 を訴えることが 「おざなりに」 なり、訴える者は少数派になってしまっていました。
 その結果が 「フクシマ」 です。

 原爆・原発問題、災害復興の中での新聞の立ち位置は? 読者の立ち位置は? 人びとの生活は? それぞれの関係性は?
 東日本大震災の被災地の復興に向けてだけでなく、大きな犠牲の上にどのような自分たちの社会を創るのかのを議論するなかで捉え直しが必要です。

 3月1日は 「ビキニデー」 です。 
 

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「自治体職員も感情や心を持った人間です」
2012/02/24(Fri)
2月24日(金)

 2月1日付の 『朝日新聞』 “社説余滴” は 「東北の被災地で働く公務員の、心と体が心配だ」 で始まります。そして 「『3.11』 のその時から、自分たちのことは後回しにして、被災住民のために働いてきた。その張りつめた心が、被災1年や年度末という節目で、ぽっきりと折れてしまわないか。そんな懸念が関係者の間で広がりつつある。」 と書いています。
 具体的には、「被災者と直接向き合う自治体職員は、不満やイライラのはけ口になりやすい。」 「仮設で暮らす職員たちの多くは、いつの間にか 『苦情窓口』 になってしま」っているといいます。
 しかし宮城県南三陸町の職員は 「ここで逃げたら、職員として人生が終わってしまう。病院で診断書を書いてもらえば仕事は休めるけど、それは出来ない」。
 「復興庁の支所が地元にできるなら、職員をケアする窓口もつくって」 と訴えています。

 『月刊自治研』 の昨年8月号は 「東日本大震災の現場は今」 を特集していて、震災から3か月が過ぎた頃の状況が報告されています。
 石巻市のルポによると、石巻市役所の職員は計48人が犠牲になっています。
 海沿いの支所の職員は、「家族が集まれる家も失ってしまい、拠り所がなくなってしまった。ぐっすり眠れる場所がない。喪失感は日に日に高まる」 と言っています。また 「最近は家という安らげる場所を失った自分と、戻る家のある同僚との意識の差にも悩むようになった。『記憶力が低下して、いつもボーっとしている感じがするのです。だから余計に焦ってしまって……』。
 このようななかで、「市の職員として線を引く部分と、牡鹿の職員として地元に溶け込む部分を、うまく使い分けなければならないと必死だ」、「職員はどこまで被災者の顔をしてはならないのだろう」 と自問自答しています。

 宮古市職員労働組合の三役が、6月20日に座談会形式でインタビューに答えています。
 宮古市は、災害時、本庁舎に全員集合、全員待機することになっています。合併前の田老町は職員が90人から100人いたのですが、今回田老地区で避難所の運営にあたったのは30人程度だったといいます。「ある意味、ぼくは見放されたと思っている」と捉え、「合併後もそれぞれの地区に支所的な機能を最低限設けることが必要ですね」 と語っています。
 そのような中で、職員は 「指示を待つというより自分たちで行動していましたね」 といいます。
 職員も、住民も 「小さな政府」 の犠牲者です。

 自分自身も被災者でありながら、どのような思いで仕事に向き合ってきたのかの質問にそれぞれが答えています。
 「一言で言うなら、『これが仕事なんだろう』 という感じでいた。……2か月近く (避難所で生活をして家に) 戻らず、子どもにも迷惑かけたと思うんですが、子どもも、まあそういうもんだということで理解をしてくれていたようです。同じような仕事をしている妻にも 『体を壊さない程度に働いてね』 と言ってもらいました。その意味で、私は恵まれているのかなと。職場を離れられない生活をしてきましたが、心も折れずになんとか今日までやってこられました。」
 「その日の夜には家族が生存していると分かっていましたし、それに家がもう流されてしまっていたので、変な話、割り切って仕事に集中できた。……それまでの事務仕事と違って道路開通の仕事はやりがいがありました。結果が目に見えるし、住民の方に、おかげで助かった、きれいになったと言われるのは、仕事として面白いですよね。今は皆さん、結構わがままになってきて、最初の頃のことを忘れて文句言ってくる人もいますけどね (笑)。」
 「家族の安否さえ確認できれば、あとは睡眠時間がいくら少なかろうが、休みがあろうがなかろうが、それはそれでやっていけるし当たり前だと思っていました。私も、運よく家だけが流されて、親も家族も無事でしたから。」
 「同僚の中には、家族が亡くなったり行方不明になった人もいます。その人たちはすごく辛かったんじゃないかなと思いますよ。毎日毎日、親を探しながら行政の仕事をしなくちゃならない。」
 この頃は、緊急対応の業務が目の前に山積みしている中で、使命感で無我夢中で頑張っている時期だと思われます。頭が下がります。しかしそのことが問題を見えにくくもしています。
 対応・対策に変化が出てきて、住民も多少の落ち着きが生まれてくると心身に変調が出てきたりします。

 間もなく3.11から1年を迎えます。被災地の自治体職員にとってはどのような1年だったのでしょうか。
 『連合総研レポート』 2012年2月号は 「震災と組合・職場のケア」 を特集しています。
 そこに西田一美 (自治労総合企画総務局長) さんが 「被災自治体職員に対するメンタルケア 激務のなかでのメンタルダウンを防げ」 を寄稿しています。
 かいつまんで紹介します。
 「被災自治体の職員は、グラッと揺れた瞬間から数ヵ月はまさに不眠不休で働き続けている。……東日本大震災規模では当然、被災自治体の職員は総動員体制で災害対策にかかわった。」
 「1 ~ 2 ヵ月経過後からは、それまで連帯感があった被災者は、プライバシーのない避難所での生活でストレスが増大し、また、家族全員の無事が確認された人、家族すべて行方不明の人、全員の遺体が確認された人、家の全壊・半壊等の状況の違いによって自治体へのニーズが変化してきた。……自治体における職務は増大の一途をたどった。そのひとつひとつに被災者の納得のための説明も必要である。時には号泣する被災者や激高する被災者の対応も自治体職員の仕事である。ここに記したのは被災自治体職員の行っている仕事のごく一部である。もちろん、被災者のケアは第一の仕事であるし、当然のことである。しかし、忘れてほしくないのは自治体職員も 『被災者』 なのである。」

 一人の被災自治体男性職員は、児休暇中の妻と生まれたばかりの赤ちゃんの二人を大津波にのまれてしまいました。
 「赤ちゃんの遺体は数日後、妻の遺体は数ヵ月後に発見された。その間も男性職員は不眠不休で職務についていた。その時に彼が市役所玄関に設置されたメッセージボードに被災者に向けてメッセージを届けた。『最愛の妻と、生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。いつまでも二人にとって、誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。被災されたみなさん、苦しいけど負けないで』。当時は、現地の新聞やテレビニュースにも報道されていた。彼は、折れそうな自分の心に対しても 『負けないで』 と言いたかったのだろう。」
 たしか、宮城県名取市の職員の方でした。メッセージが写真で載りました。被災者である彼の思いは、同じ被災者に語りかけることでも少しは癒されたのでしょうか。

 「全国各地から寄せられる救援物資の仕分けや被災者への配布も、大切な職務のひとつであった。職員も家が流されたり着の身着のままである、しかし救援物資は職員には回らない。自治労の支援先の、宮城県のある自治体の職員は、救援物資の賞味期限切れの冷たいおにぎりやパン、即席ラーメンを昼ごはんや、夕ごはん等に充てていた。『一度、野菜が食べたい』 と言った言葉は忘れられない。
 そして、今回の未曾有の大災害では、多くの遺体とかかわる職務も自治体職員に課せられ、そのことが彼ら彼女らの心に大きな影響を与えた。もともと、身元不明の遺体にかかわることは自治体の職務とされているが、こんなに多くの悲惨な遺体にかかわることは想定されていない。……遺体安置所に、昨日まで一緒に働いていた上司や、親族の遺体が運ばれてきたということもあった。遺体安置所で一日中、複数の遺体を目の当たりにし毎日 『死』 と向き合っていなければならない状況でも、自分自身の感情やつらさを押し込んで、不眠不休で働き続けてきたのだ。
 福島の自治体職員は、今もなお被ばくの恐怖と闘っており、『怖い』 とも言葉に出せない状況がさらに心を追いつめる。そんな中で、時には被災者の激しい怒りを真正面から受け止めなければならないこともある。被災者も自治体職員にしかぶつけられない、それをわかっているからこそ、なおさらつらい。もちろん、消防士、警察官、自衛隊の活躍があったことは確かであるし、彼ら彼女らも惨事ストレスに苦しんでいるだろう。ただ、自治体職員も苦しんでいることを忘れないでほしい。」
 「野菜が食べたい」 という言葉は、阪神淡路大震災の時に被災者から聞きました。配給される食事は遠隔地で大量に作られ、届くときは冷えきって固くなっています。職員はさらにその残り物を食べていたのです。温かいもの、汁物は期待出来ません。
 遺体安置所は “におい” との戦いでもありました。

 「自治労では、4月10日、最初の支援者の派遣時から心のケアに取り組んだ。実は、1995年の阪神・淡路大震災のときも、……震災から時間が経ち、少し落ち着いたと思った頃に、被災自治体の職員の中から自殺者がでたというニュースがあった。そういったことを教訓とし、『精神的なケアは後からでは遅い。今すぐに動かなければ』 という強い思いがあって取り組んだ。3月時点では、医師やカウンセラーなどの専門家を含むサポートチームを長期的に派遣することも考えたが、すぐにできる対策として、被災自治体の職員向けと、支援に入るボランティア向けに、メンタル面の注意を促す冊子を作成し配布した。どちらも心身の休養を取ることの重要性や、特に被災自治体では、「1,000時間」 (=約1ヵ月半) を過ぎる頃からのリスクについて呼びかける内容とした。(『冊子』 は、「いじめ メンタルヘルス労働者支援センター」 のホームページ ⇒ 「心のケア」 ⇒ 「惨事ストレス」 ⇒ 「自治体職員の惨事ストレス」 に掲載しています。)
 こういった取り組みもあって、派遣した支援者の中からメンタルダウンしたという事例は現時点では報告がない。自治労で行った支援者へのメンタルチェック集計でもそういった重大な結果は出ていない。
 しかし、被災自治体の職員は発災害数ヵ月経過した頃から少しずつメンタルダウンの兆候が現れ、現在では長期休暇に入っているという報告がされている。」(詳細は、2011年8月10日と12月9日の 「活動報告」 参照)

 「現在では行政支援として派遣された他の自治体の職員が支援を行っている。行政支援の職員も慣れない自治体での支援業務、慣れない地域での生活に精神的にも精いっぱいの状況と聞く。『被災しながら働いている現地の職員さんに比べれば、私たちはマシ』 『支援にきたのだから、頑張らないと』 と、休むことができずに、地元に戻ってからダウンするケースもある。また、年度末に行政支援派遣も終了する自治体も多く、今後被災自治体業務が回らなくなることも予想される。その分の業務は被災自治体職員に戻ってくることになる。」
 「震災前の地方公務員人員は、2005年集中改革プラン以降減り続け、2005年に約328万人いた地方公務員が2010年には約281万人と14%以上も減少している。被災自治体も、もちろん例外ではない。こういった状況――日常の通常業務も回っていかない人員――であった、そんな中の大震災である。大震災対応の中で、もちろん通常業務もこなしていかねばならない状態である。自治体職員は本当に心身ともにギリギリの状態であり、いつ誰が倒れても不思議ではない状態である
 こういった大震災の時には、『こんなときだから』 と何でもありになり、『しんどい』 『疲れた』 と言えなくなってしまう。そのことがさらに自分を追いつめてしまうことになる。」
 「阪神・淡路大震災以降、厚生労働省に 『心のケアチーム』 が組織され、こういった災害時には医師や看護師で組織されたチームが派遣され、自治体職員も含むメンタルケアが実施されている。しかし、実際は自治体職員が優先的にケアを受けることはなかなか容易ではない。日常から批判の対象とされている自治体職員だが、『公務員バッシング』 とも言われるものは、非常時でも止むことはなく、むしろ強くなっている。『私たちは家も仕事も失っているのに、あなたたちは給料をもらうのか!』 という被災者の言動も飲み込まなくてはならない。」
 阪神淡路大震災の時、自治体職員、教員の精神的体調不良の発症は数年後に現れました。継続した対応が必要です。

 最後は、次のように締めくくられています。
 「批判しても何も変わらないし、生産がない。自治体職員を賛美してほしいとは思わない、自治体職員も感情や心を持った人間であり傷つくこともあれば、泣きたくなることもある。何の根拠もない生産のない批判はやめてほしい。できれば、批判ではなく、アドバイスや提言としての表現を・・・心からお願いしたい。本格復興のために。」
 復興は 「生き残った者」 全員が参加して以前よりいいものを作っていくことです。そこに自治体労働者が行政として、住民として参加していかなければよりいいものを作ることはできません。
 
 「公務員バッシング」 は目暗ましです。その裏で何かが策動しています。それこそが本当の労働者、住民、市民への攻撃です。騙されることなく本質を見極め対応していく必要があります。 


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ヒロシマと水
2012/02/21(Tue)
2月21日(火)

 新聞の訃報欄に、広島市の宇根利枝さんが2月10日に亡くなったと載っていました。93歳でした。
 宇根さんと聞いてもどういう方なのかわからない人が多いと思われますが、毎年8月6日に開催される広島市主催の平和祈念式典に先立ち、慰霊碑への献水の儀式を行う方です。

 数年前の8月6日に、平和公園で宇根さんにお会いすることがありました。被爆の体験を聞き、質問にも答えてもらうと、いつも持ち歩いているショッピングカーから宇根さんの活動を題材にした鈴木ゆき江著の本 『夏の花たち』 を取り出していただきました。「またいつでもいいから連絡をください」 と言っていただいたので楽しみにしていました。

 45年8月6日午前8時15分、宇根さんは爆心地から南東に2.7メートル離れた、現在の南区霞にあった陸軍兵器補給廠 (現在の広島大学医学部) の託児所で保母として働いていました。
 子供等を遊ばせながらオヤツの支度に取りかかっていた時に爆風で飛ばされましたが軽い怪我ですみました。
 子供たちも大丈夫でした。しかし走り回って外に出ている間に7、8人の子供が見えなくなりました。子供が何時も行く防空壕に行っていると思って入り口まで行くと人があふれていました。見たところ子供らしい姿が見当たらないので帰りかけたら、負傷者が何か言いながら追ってきます。
 「何ですか。どうしたんですか。」 と聞くと、手を口にもっていく様子から水を欲しがっているように見えます。
 「あ、水? 水が欲しいんでしょう。わかった。持って来てあげるからこの場からはなれんで待っとってね。」 と言って歩きかけました。そうしたら、血は流れているけれどやや言葉のわかる人が追ってきて、「水を飲ませたらすぐ死んでしまうぞ。そしたらあんたが殺したことになる。」 と言われて恐ろしくなり、その場を振り切って走って職場に帰りました。
 
 宇根さんは、被爆から10年経った時、広島市西区己斐の大茶臼岳(だいちゃうすだけ)の山腹を趣味の山歩きしている途中、清水の湧く滝を見つけました。
 「清らかな滝の流れに見入るうちに 『水、水をちょうだい…。』 とたくさんの瀕死の怪我人に頼まれたのに、あげることができなかった辛い思いが胸一杯に拡がった。ああ、この清らかな水を飲ませてあげたい」 と思ったといいます。
 それから1人で原爆慰霊碑への 「献水行脚」 を始めます。
 たくさんの被爆者が水を求めながら死んでいきました。ですからたくさんの慰霊碑が建っています。宇根さんの 「献水行脚」 は広島市内や郊外の120箇所におよびます。毎年6月になると始めます。
 献水のとき、宇根さんは声を出して祈ります。
 「あの日、一瞬に命をたたれたあなたたち、悔しかったでしょう。残念だったでしょう。できることなら、どうか、もう一度、広島に生まれて来て、命の続きをして欲しいの、お願いします。」

 86年に広島市は全国の 「名水百選」 に選ばれた市町村に献水のための水の提供を呼びかけたら、各地から続々と名水が届きました。宇根さんの思いは全国に広がりました。
 宇根さんは証言活動もしています。東京・拝島から修学旅行で来た高校生に献水の話をしました。
 後日その高校から、感想文を寄せた文集とペットボトルに入った水が届き、担任の先生の手紙が添えられていました。
 「さて、ビンの中の水の件ですが、宇根様の献水運動に加えていただきたいと思いみんなで汲んだ水です。我々の学ぶこの拝島の地には今でも静冽な湧水が随所に見られます。宇根様が日本各地の名水を取り寄せて慰霊碑に献水していらっしゃる話を伺った時、小生はぜひ拝島の水も、と思いました。このことを生徒に話しましたら、1人ひとりが手で汲んで集めようという運びになってしまいました。
 その結果、手の汚れたものがいたのか多少うす汚れた拝島の水となってしまいましたが、おそらく1人ひとりの思いのこもった水であると考えます。御面倒かと思いますが機会がありましたら慰霊碑に献水していただきたく思います。」

 宇根さんと一緒に献水供養をする 「後継ぎさん」 も生まれています。
 『夏の花たち』 に、宇根さんと知り合い、一緒に献水供養を続けた中学生の少女が書いた詩が載っています。

    「一滴(ひとしずく)の水に」

                野中ゆき

    どうぞ お水を 飲んでください
    今なら お水が飲めますか、
    今からでも お水が 飲めますか
 
    どうぞ お水を 飲んでください
    真っ赤に焼けた 裸の赤ん坊をかき抱き
    焼け爛れた乳房を含ませていた 若いお母さん
    どうぞ お水を飲んでください
    服も下着も はぎ取られ
    よりそい しっかりと手をつなぎ
    力つきていった 仲良しの 女学生 中学生
    そして先生たちよ

    あの日 
    火の海に呑まれていった
    子どもたちに 母たちに 父たちに
    その 魂の一つ ひとつに 捧げます
    お水を

    誓いましょう 
    この一滴の水に
    あの日のことを 決して 忘れません…と

    伝えつづけましょう
    子どもたちに 母たちに 父たちに
    むかし 
    人間が犯した 過ちを 悲しみを

    話しましょう
    あの日 焼け野原となった 灰色の土の下から
    ほんとうの平和が 生まれるのだと
    平和への願いの 希望をかかげて
    世界に
    この一滴の水に託して

 宇根さん、長い間お疲れ様でした。
 今頃は、毎年美味しい水を飲ませてもらったたくさんの被爆者から感謝されていることでしょう。


 広島と水についての別の話です。
 広島市の水道は、明治32年の給水開始から今まで 「不断水記録」 を更新しています。
 原爆が投下された街で、破裂した水道管から水が溢れ、水溜りが出来ていたという話をたくさん聞きます。
 原爆投下後も、爆心地から北に2.5キロメートル離れた太田川上流の牛田(うした)町にあった浄水場からの給水は続けられたのです。
 浄水場はさいわい火災からは免れましたが、送水ポンプ室、内燃機関室などのレンガ造りの建物は鉄骨屋根や扉、窓枠などが爆破され、木造建物は全壊、送・配電設備も破壊され停電してしまいました。そのため無事だった電動の送水ポンプは停まってしまいました。貯水層の自動式給水装置も壊れました。ですから裏山中腹の配水池に貯められた満杯の水が配水されたら断水します。濾過池から揚水しなければ、午後1時ごろには尽きてしまうことが予想されました。

 浄水場に勤務していた技手(ぎて)の堀野九郎(くろう)(当時51歳)さんは非番でした。外出していて被爆し、左半身にやけどを負いました。
 昼過ぎ何とか浄水場にたどり着きます。
 経験豊な職員の経験からの感で、ポンプを調べてみると水がないので迎え水を入れ、ポンプ運転ができないので自家用発電機を運転して取水ポンプを動かします。そして焼け野原となった市内に 「命の水」 の給水は続けることができたのです。

 かろうじて断水は免れたものの、全市にわたって各地の水道管は破裂し水が吹き出しています。そのため、いくら給水しても追いつかない状況で、水圧も下がっていました。
 生き残った職員は、昼は炎天下を歩き回って漏水箇所を探し、夜は漏水を止めるため管に打ち付ける木製の栓を作る作業をして復旧に尽力しました。
 木製の栓を打ち付けて漏水を止めても、少し水圧が上がると、今度は栓がポンと飛び出してしまいます。そこで応急措置として、鉛の漏水管は金槌でつぶし、鉄の管はキャップをすることにしました。

 11月になっても、まだ給水量の85%が漏水している状況でした。
 しかし水道局職員は 「水がのうては市民は生活ができん。食料をはじめ諸物資が不足している折から、……。せめて水だけでも充分市民に飲んでもらおうじゃないか。」 と奮闘を続けます
 市周辺の末端まで水が届くようになったのは翌年の4月上旬です。

 被爆者は 「水をください」 と乞い、水を飲んで多くが死んでいきました。被爆者にとって水は死期を早めるものでした。
 一方、水が多くの生命を救いました。そして市民の生きる希望をつなぎました。
 「命の水」 を給水したのは堀野さんをはじめとする多くの労働者の使命感と職能です。
 忘れてはいけないことです。 


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ストレッサーの除去なしにストレスの軽減はできない
2012/02/17(Fri)
 2月17日(金)

 「心の病」の予防のために職場で求められる取組みについての続きです。
 
 日本では、労働者の健康問題は個人の健康管理の問題、脆弱性の問題として捉えられています。
特に精神疾患の問題はそうです。労災申請・認定もハードルが高く、認定されないと私傷病扱いです。
 労働者が体調を崩したと訴えた時、周囲にも体調不良に陥っている者が多くいるのが実態です。しかしそう訴えると「負け組」になってしまうから我慢して隠しています。
 一方、使用者のメンタルヘルス対策は、上司の「気づき」・監視が中心です。部下は大丈夫だというチェックです。使用者が裁判を起こされた時に反論するための証拠作りです。過重労働を強いていながら「○月○月まで異常は発見されなかった」と報告ができるようにします。そして「周囲の他の社員は体調不良に陥っていない」と主張します。
 労働者の体調不良が発覚すると私傷病として傷病休暇制度に追い込みます。傷病給付金は健保組合の負担です。そのため現在健保組合の8割以上が赤字になっています。最近は傷病休暇制度の期間満了を理由に退職を強要している使用者が増えています。
 労働者の健康問題はいつの間にかあらゆる面で「事後処理」の問題になっています。
 さらに昨今、厚労省と使用者は、定期検診などにスクリーニングなどの定期的「点検」を行うことが「使用者の安全配慮義務」と勘違いしています。労働者は定期的に体調不良に陥るわけではありません。

 使用者は労働者の身体、生活を心配していません。労働力はいくらでも取り換えが聞くと捉えています。
 せっかく育てた人材・労働力が損失するという視点はありません。会社のリスク管理の視点がありません。そもそも人財育成をしていないからです。
 この点がEUとは違います。働かない(働けない)労働者への生活補償は社会的機構のどこかが行わなければなりません。社会的損失と捉えて減らす方向で対策を立てます。

 最近の使用者の傾向として、職場の紛争や問題を労使間で平和的に解決するのではなく、代理人弁護士を前面に押し立ててきます。また第三者機関や裁判で解決しようとします。労使関係が信頼関係ではなく法律になっています。使用者は「違法ではない」行為はすべて許されるのです。
 使用者でも労働組合でも、代理人や第三者機関、裁判への依存は解決からの逃亡、敗北宣言です。裁判は確かに何時かは終了します。しかし裁判での和解や判決は紛争の終了ではあっても解決ではありません。安易な解決方法です。
 使用者がトラブル解決経験の蓄積をしないとまた起きます。
 個人加盟のユニオンに「労働組合は助けてくれない」と訴える相談が来ます。
 労働者の健康状態について個人情報だから介入しないと主張する労働組合が多くあります。労働者が労働現場で起きた体調不良は個人情報ではありません。職場環境の問題です。
 多くの労働組合は職場の労働安全衛生を放棄しています。
 個人情報として対応しないのは、評価制度に対する姿勢と同じです。評価制度は就業規則の一部です。

 現在の労働安全衛生の状況を語っているような本を紹介します。
 「命綱やガードレールなどの本当の役割は、実際に転落しそうになった人をそこで引き(押し)とどめるのでは、おそらくない。もちろんそういう役割を果たせるように、強度を計算して、材質や形が決められ、つくられているのだろうとは思う。だけど、命綱やガードレールが実際に物理的効力を発揮する機会はない。そこにそういうものがあるから大丈夫だと安心することで、平常心を保つことができる。本来の力を発揮し、ものごとを遂行することができる。たいていは、そのためにこそ役立っていると思うのだ。」(『傷を愛せるか』 宮地 尚子著 (大月書店 2010年))
 日常生活において、ガードレールの向こう側が危険だと判断したら、ガードレールまでは安全だとわかってもそこまで近づかずにその手前で行動して安全を確保します。
 しかし日本の労働者に対する安全基準と使用者の業務指示は、ガードレールに縋りながら危険な向こう側に身を乗り出しての行動をさせてもまだ安全だと主張します。
 長時間労働、ノルマ、過重労働などがそうです。
 労働者が声を上げにくい状況があるのは確かです。

 同じ本です。
 「学会では米国の専門家による招待講演もあり、イラク戦争に参加した米兵のPTSD研究の紹介がされていた。講演を聞きながらわたしは、『トラウマ研究は何時から、戦っても傷つかない人間をふやすための学問になったのだろう』と思った。潤沢な予算がPTSDの予防や治療の研究につぎ込まれることと、平然と戦地へ兵士を送り出すことは、米国では矛盾しない。米兵のPTSDの有無や危険因子は調査され、発症予防や周期回復のための対策は練られるか、派兵をやめようという提案にはならない。イラクの人たちのPTSDについては調査どころか、言及さえない。そのことに違和感をもつ人はいないのだろうかと周囲を見回すが、みんな熱心に講演に聞き入っている。孤立感を覚える。
 メンタルヘルスケア対策は何時から、過重労働やいじめに遭っても傷つかない労働者をふやすための対策になったのだろう。」
 安全衛生は事後対応から、さらに労働者がストレスに対する抵抗力を強化するための政策、労働者の「主体」の問題、「自己責任」になっています。
 抵抗力強化のために外部のカウンセリングなどの紹介が行われたりします。カウンセラーは職場の状況を知りません。そこでは人格を否定されたりしています。怖いことです。

 この状況を変えなければなりません。
 ストレッサーの除去なしにストレスの軽減はできません。
 本来の安全衛生は、安全に、安心して働き続けるようにするための予防・防止の対策です。
 労働現場は、経営者や上司が代わったりすると突然悪化したりします。また気が付かない間に、誰も声を上げない中で徐々に悪化が進行していたことに後で気が付くということもあります。
 「犯罪というものは、どんな場合でもすべて社会科学で説明できるものではありません。しかし、思い上がりかもしれませんが、心理学よりも労働問題研究のほうがもっと犯罪を理解できるのではないかと私は自負します。若者に限らず、およそ犯罪の動機の下半身は、現代日本の労働の深刻な状況に浸されているかにみえます。」熊沢誠著『格差社会ニッポン働くということ』(岩波書店)
 労働者が労働現場を一番よく知っています。だから雰囲気も、1人ひとりの労働者の変化にも早くに気が付くはずです。
 安全衛生の予防・防止のためには、まず、仲間の異変に気が付くような職場の人間関係の構築、日常的に労働者同士が声をかけ合う職場環境が必要です。この職場環境作りは労働組合の任務です。
 労働者の体調不良は、異常な事態への正常な反応です。自分に対する危険信号です
 この危険信号を、労働者個人の特異な出来事としないで職場で起きた出来事として早期に対応しなければなりません。

 ストレスなどによる精神的不調はまず身体にあらわれます。しかしなかなか仲間に対しても話せません。 だから周囲の労働者が日常的な変化からその不調に気づき、体調について問いかけをします。身体の聞き取りから精神状態を聞き出すことも可能になります。「心の辛さはぜいたく品」ではありません。
 「安全配慮義務」は使用者の責任ですが、労働者の点検、指摘、告発、提案、要請なしには維持できません。これが「予防」「防止」につなげる労働組合の役割です。問題が発生してから指摘しても遅いです。労働組合としての取り組みの中から労働条件改善、職場環境の改善を進めていく必要があります。
 解決に向けての対応は、カウンセラーや産業医などに任せても解決しません。

 阪神淡路大震災の時、行政の被災者への対応は遅々として進みませんでした。住民は我慢を続けます。支援に来ていたボランティアが帰り際、「このままいたら殺されるよ」と一言漏らしたと言います。それをきっかけに住民は我慢をしないで声を上げました。行政闘争で街作りの政策提案をしました。その結果「自分たちの街」を作ることができました。
 今、東日本大震災の被災地で「仮設住宅は隣が遠くなった」ということで孤独死が問題になっています。阪神淡路大震災の時も深刻でした。
 街づくりは自分たちの要望を取り入れてより住みやすいものを創り上げていく必要があります。そのためには要求を出す、みんなで協議する、そのような場を設定することが必要です。
 労働者の人間関係も同じです。
  
 人間関係は、物理的に遠くなっても、心理的に近い関係が存在すると安心できます。
 ましてや労働者同士はすぐ近くにいます。労働者同士孤立させるのは使用者の政策です。
 人間関係は労働者が希求する最大の労働条件です。しかし与えられるものではありません。自分で作るものです。(10.11.3と10.12.1の「活動報告」)
 隣人に関心を持つ、適当なおせっかいをやく、干渉が必要です。自分に対してではなくても理不尽なことには声を上げることが必要です。「俺が嫌なことは他の人も嫌なはず」です。信頼関係が構築されている中でのこのような行為は迷惑ではありません。愚痴を言える、弱音を吐ける関係が必要です。それが本当の職場の「仲間」です。 
 このような関係構築のなかに労働組合は介在し、みんなで解決する方向性を示す必要があります。
 これが労働者にとっては最善の安全衛生の予防・防止対策です。 


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労働基準法の「基準」が「標準」になってしまった
2012/02/14(Tue)
2月14日(火)
 
 「心の病」 の予防のために職場で求められる取組みについての話の続きです。

 戦前の工場法は、長時間労働で健康を害した女工らの健康を守るために設けられました。
 戦後の労働基準法制定における1日8時間労働は、健康確保ではなく 「余暇を確保しその文化生活を保障するため」 のものでした。確かに法制定時は民間も公務員も1日の労働時間は8時間に至っていません。戦時中はさておき、戦前と比較してもかなり短い状態がずっと維持されると推定されました。
 そのため残業についての規制を設けなかったことが後の無制限を許してしまうことになります。
 48年になると、週休1日制で週労働が48時間を超える状況、つまり残業が恒常化するに至ります。
 第36条は当初、平常化することを防ぐために規則で「3か月の期間を超えて定めてはならない」と謳っていました。しかし54年の法改正では、「有効期間の定をするものとする」となってしまいました。
 年間総実労働時間は、60年の2.432時間まで増加を続け、その後は第一次オイルショックまで減少を続けて横這いになります。所定内労働時間も同じ傾向を示します。
 労働基準法における労働時間は、最長を定めた 「基準」 と例外規定から、「標準」 になってしまいます。 「基準」 と 「標準」 が日本とEUの大きな違いです。

 戦後におよんでも労働時間短縮は日本だけの問題ではありませんでした。
 60年代にはいりILO総会で論議が進められますが、日本政府は反対の論陣を張ります。その理由は、労働者の生活条件を改善するには労働時間と賃金の2つが問題になるが、どちらを優先するかはその国の社会的・経済的条件によって異なる、時短は団体交渉の課題で国際労働基準によって規律されるものではない、そして被占領期間中のアメリカからの援助の返済、旧占領国への賠償、破壊された都市の建設など戦後処理が終っていないからハードワークはまだ必要ということです。労働者の健康問題は出てきません。
 62年、第116号時間短縮の勧告は圧倒的多数で採択されました。

 この日本政府の主張は正当性があるでしょうか。
 労使関係はその後変遷を遂げます。
 もう1つ、戦後処理については、例えばドイツと比較してどうでしょうか。
 2度の敗戦を経験したドイツは第二次世界大戦後、ヒットラーを許した「過去を克服」するためにすでに1,200億マルク以上の賠償金を支払いながら時短問題もきちんとと取り組みました。日本はまだ戦後処理を終わっていません。

 憲法第27条は [勤労の権利と義務] として 「①すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。②賃金、就労時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。③児童は、これを酷使してはならない。」と謳っています。
 47年7月1日から施行された労働基準法は、憲法第27条に謳われている項目とともに、第5章 安全及び衛生で使用者に安全・衛生のための措置を義務付け、第8章 災害補償で災害補償を使用者に義務付けていました。被災した労働者の生活確保を保障することを目的にしました。
 64年、政府は 「労働災害防止団体等に関する法律」 を制定します。
 この法律は経営団体による自主活動によって安全・衛生対策を行わせるもので、労働基準法による安全・衛生行政を後退させるものでした。
 65年に労働者災害補償保険法が改訂され、労災補償は事業主が積み立てた災害補償金から国の責任において支払われるようになりました。保険という方法によって、個別使用者が負担する責任を各企業に分散させて企業を防衛します。被災した労働者の生活確保を保障ということでは安定した制度になりました。しかし個別使用者の災害補償の責任を直接的には消失させています。
 72年は、労基法第5章安全及び衛生 (第42条から55条まで) は削除され労働安全衛生法が新たに制定されました。

 労働基準法の改定が行われ、変形労働制や裁量労働制が導入されていきます。
 この改定作業においては、総労働時間や時間外労働に対する賃金支払いについては議論になりましたが労働者の生活スタイルが変更になることや健康問題についてはさほど問題にされることはありませんでした。
 年少者と女性労働者の保護から始まり、「余暇」 の問題だった時間規制の法制化は、いつの間にか時間外労働に対して賃金を支払うかどうかの問題にすり替えられてしまいました
 97年の労基法改正で女性労働者の保護規定が削除されました。今捉え返すと、この時に女性労働者と同じような男性労働者の労働時間規制を主張すべきでした。
 労働時間については規制が撤廃されたと言える状況になりました。使用者はやり放題です。この中で労働者に成果主義賃金制度、ノルマ・評価制度が導入されます。
 ホワイトカラーエグゼンプションはサービス残業、過労死と発生させるものとして反対運動が展開されましたが、未払い賃金の解消ではなく、長時間労働の解消に問題は設定すべきでした。
 過労死、自殺問題の根本原因はここにあります。

 79年3月、ECは日本を「うさぎ小屋とあまり変わらない住宅に住んでいる仕事中毒 (workaholics)」 と非公式報告し、「日本は長時間労働で失業までも輸出している」 と非難しました。
 確かに78年は、日本の製造業・生産労働者の年間実労働時間は2.137時間で、アメリカの1.924時間、イギリスの1.955時間を約200時間上回り、さらに旧西ドイツの1.719時間、フランスの1.772時間を約400時間も上回っています。
 「失業までも輸出」 した原因がもうひとつあります。
 「1980年代末、ドイツの三洋電機の工場で聞き取り調査をしたことがあります。そのとき、実に率直な性格の日本人社長は言っておりました――男性の正社員で比べたら人件費は日本のほうがドイツよりも高いと思う。しかし、日本はなんといってもパートさんと下請けがありますからね。パートタイマーの活用と下請け利用によって、日本企業は人件費を断然安くしているというのです。」 (熊沢誠著 『各差社会ニッポンで働くということ』 岩波書店刊)
 貿易摩擦の原因は長時間労働以外にもパート労働と下請けの存在がありました。
 国内ではプラザ合意後、円高が進み、名目賃金水準も上昇したが購買力は上昇しませんでした。理由は、消費者物価が低下しない、住居費や教育費が異常に高い、生活不安や老後不安から家計貯蓄を増やしたことなどでした。
 労働者は残業をいとわず、使用者は残業を景気動向による雇用の調整弁にしていました。

 EU (イギリスを除く) の労働時間指令は、労働者の健康と安全の保護を目的としています。そこでは週労働時間の上限は48時間とされています。しかし恒常的に48時間働いているという労働者はいません。例えば、ドイツの場合、1日当たりの労働時間は8時間を超えてはならないとなっているが、6か月間の平均で8時間を超えなければ1日の労働時間を10時間まで延長できるということを含めてです。
 そしてEU指令は1日につき最低連続11時間の休息期間を求めています。さらに1週間ごとに最低24時間の絶対休日を求めています。
 日本の労基法36条は悪法です。
 

 82年2月9日、日本航空の福岡発東京行便が羽田空港沖に墜落する事故が発生し、乗客24名が死亡、乗務員を含む149名が重軽傷を負いました。
 原因は機長が心神喪失の状態にあって、エンジン4基のうち2基の逆噴射装置を作動させる操作を行ったためでした。事故後 「逆噴射」 という言葉が流行しました。
 機長は心身症の治療中でした。
 これを契機に職場の安全衛生が問題になります。しかし日本では場あたり的で、時間の流れとともに関心はうすれていきます。
 西欧で同じようなことが起きたなら、労働法制の抜本的改革が行われます。しかし日本の労働現場では労働者個人に責任のすべてが集約されます。
  
 過労死の問題が噴出します。
 1991年、電通で過労死自殺した社員の親族が 「会社は社員の安全配慮義務を怠った」 として、電通相手に損害賠償請求訴訟を提訴します。いわゆる 「電通過労自殺事件」 です。代理人は藤本弁護士1人。「労災研究会」 に参加していた弁護士は、自殺問題は勝訴の見込みがないという当時の状況から、止めるよう説得したと言います。
 親族と弁護士の二人三脚で闘いは開始されます。
96年3月、一審は 「常軌を逸した長時間労働が自殺の原因。会社は社員の健康に配慮する義務を尽くしていなかった」 として社員の自殺に企業の賠償責任を初めて認めました。しかし原告は容認額が低いと控訴。被告も控訴します。
 97年9月、控訴審判決がありまし。会社側の過失は認めたものの、個人の性格と両親が同居していながら息子の勤務状況を改善する措置をとらなかった、つまり両親の監督不行届として賠償額を減額しました。双方上告します。
 2000年3月、最高裁は 「使用者は業務の遂行に伴う疲労や心理的負担が過度に蓄積して、労働者の心身の健康を損ないことがないよう注意する義務を負う」 という判断を示し長時間労働が自殺に追いやったと明確に指摘したうえで電通側の上告を棄却、高裁に差し戻します。
 2000年6月、提訴から7年半におよぶ闘いに電通側が謝罪、遺族側全面勝利のかたちで和解します。過労自殺について会社の責任を最高裁が認めた訴訟は、他の同じ訴訟に大きな影響をもたらしました。

 裁判の途中から、労働省は労災認定基準の見直しを始めます。
 1999年に「「心理的負荷による精神障害の労災認定基準」の通達が出されます。
 しかし見ておかなければならないのは、労災認定基準を前進させたのは、労働者ではなく家族の闘いだと言うことです。 
             (以下、次回) 


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