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頼もしい東京消防庁
2011/09/30(Fri)
9月30日(金)

 9月25日、宮城県気仙沼・本吉地区広域行政事務組合消防本部主催で、震災で殉職した10人の消防士の合同慰霊祭がとりおこなわれました。住民の避難誘導などをしていて津波にのみ込まれた方々です。

 この気仙沼・本吉地区に、震災直後に東京消防局から派遣された消防士の体験談を聞くのと記録班が撮ったスライドを見る機会がありました。
 東京消防局は、地震発生直後に状況掌握のためのヘリコプターを飛ばしています。そして12日の3時45分に第一次陸上消火部隊184名を送り出しました。
 隊員らは現地に着いても地理が不案内です。しかも道路がふさがれています。情報収集・指揮命令のための活動拠点がありません。自分たちがどこにいるかもわかりません。そのなかで他道府県との連携した活動を展開しました。日頃の訓練なくしてはできないことです。
 消火活動は、水道栓が破壊したのでホースをかなりの長距離間つながらなければならなかったようです。また瓦礫の中にホースを這わせると破損することもあったといいます。瓦礫を踏みしめ続けて靴底に尖ったものが突き刺さって水が漏り、凍傷に罹った隊員もいたといいます。水嚢を背負っての消火もありました。
 このような活動で10日後ぐらいにほぼ鎮火させることができました。
 消火活動と並行して捜索活動が行われました。焼け崩れた家屋の下に焼死体というよりは焦げた遺体があります。焼けた家具と判別がつかない遺体があります。そこから探し出すのはプロの経験と勘です。数日後ですでに頭蓋骨になっている遺体もありました。
 遺体を踏みつけないように慎重に活動を続けます。生存者がいる場合は救助、遺体を発見した場合は目印を付けておいて警察の活動に委ねます。
 遺体には毛布を掛けて人目に触れないようにします。せめてそれくらいしかできませんが尊厳への配慮です。
 どこに行っても油のにおいが立ち込めていたと言います。
 このような中で3日間は不眠不休だったといいます。4日目に交代部隊がきて休息がとれましたが、体育館にシュラフで寝ます。水も電気もありません。3月中旬の東北です。

 東京消防局は、被災地に震災直後から6月6日まで、地上部隊を473隊2974人派遣しました。そのほかに航空部隊を41隊269人派遣しています。
 さらに同じ時期に福島原発事故の放水活動にハイパーレスキュー隊139名を派遣しました。他のどの部隊よりも的確な活動を展開しました。上司は最も危険な持ち場に立って隊員にきびきびした指揮を執っていた光景がテレビから映し出されました。上司は部下の生命を預かっていたのです

 救援部隊は 「要救助者が不安になるので苦しい顔を一切するな」 が心構えになっています。
 体験談を語ってくれた消防士にストレスを感じませんでしたかと質問しました。「ああ、惨事ストレスのことですね」 と即座に受け止められ 「東京消防庁はきちっと対応しています」 と回答が返ってきました。
 被災地から帰った隊員にはちゃんと専門家が体験したことを語らせ、体験交流をしてストレスを解消させているということでした。隊員1人ひとりに「ちゃんと吐かせます」と語っていました。
 派遣された3000人以上の隊員から体調不良者は出ていないということです。
 話を聞いて改めて安心できました。頼もしく感じました。
 
 東京消防庁は、消防士の健康管理のため、消防署ごとに精神科の医師やカウンセラーを派遣しています。悲惨な事故現場に出動した消防士には、ストレス障害などに関する相談を義務づけている。
 東京消防庁のきちんとした対応は状況の節々に現れています。4月7日 (木) に書いた、阪神大震災の経験・教訓等がちゃんと生かされています。
 まず、現場の隊員が 「惨事ストレス」 というものがあるということを理解しています。
 消防士は日常的な訓練の積み重ねによる自信が適確な判断能力を体得します。地理が不案内なところでの未曽有の出来事への対応はそうでなければできません。
 遺体を発見した時は誰も “まとも” ではいられなかったはずです。慣れなどはありません。そのなかで遺体に毛布を掛けるという行為は、死者の尊厳の弔いです。おそらくその場を去る時はみなで手を合わせたことでしょう。遺体をその場に残すということは役割分担の中でそうしたことで、自分たちの任務はちゃんと果たしたのです
 そして上司の行動と指揮への信頼感が恐怖を克服させ安心感をもたらします。そのようななかで活動していました。日常的な訓練は信頼関係を強めます。

 任務が終了した隊員のケアを単に慰労だけではなく、異常な状況を目撃、体験した後の心的負荷が大きいということを理解する人がいて対応しています。そこでは何でも話せます。正直に 「嫌だった」 「怖かった」 と 「吐く」 こともできます。
 そして東京消防庁が行ったことではありませんが、残念ながら亡くなった隊員への慰霊は残された隊員にとって大きな意味を持ちます。慰霊は、残された者にとっては悲しみを封じ込めない行為です。そして自分たちの活動が組織内部だけでなく外部の人たちからも感謝され、亡くなったことを惜しまれていることを目の当たりにすることは、日々危険と隣り合わせで活動している隊員たちにとっては自己の使命感を再確認することができます。活動の満足感と誇りを獲得することができます。
 「惨事ストレス」 は誰にでも発症するということを前提にした、事前・事後の組織的対応が必要です。

 震災から3が月後、これとは全く逆のニュースが流れていました。
 宮城県内にある陸上自衛隊基地は、救助活動に参加する隊員のために 「心のケア相談室」 を設置しました。3か月間に相談者は1人いたということです。
 その状況を管理職は 「うちの隊員は強固な者が集まっていますから」 と語っていました。
 未曽有の出来事に対応するのに最初から精神的に強固な者などいません。隊員は相談室に行けない雰囲気があったのです。このような対応のままだったら、残念ながらおそらく多数の体調不良者が続出していると思われます。隊員がかわいそうです。
 これでは隊は守れません。隊員を守れません。社会を守れません。「国」 を守れません。

 日本での 「惨事ストレス」 の理解はまだまだ進んでいません。
 

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東北は 半歩 歩き出す
2011/09/27(Tue)
9月27日(火)

 22日と23日、「第7回ふるさと回帰フェア2011」が開催されました。会場が別のイベントと重なっていましたが、別のイベントは東北の被災地から借りてきた120枚の大漁旗を会場を囲むフェンスと路上に飾っていました。
 41都道府県が出店しましたが、今年はやはりみな東北の復興に期待を寄せています。風評被害に困惑する福島県下の市町村からはたくさんの農産物や特産品の販売出店が並び元気な呼び込みが行われていました。風評被害を押し返すパワーがみなぎっています。遠くから眺めている限りでも売上は上々だったと思います。

 福島県からはいわき市の『フラガール』も登場して会場を盛り上げました。
 常磐炭鉱は茨城県と福島県にまたがる太平洋岸に位置していました。
 国策としてエネルギー源が石炭から石油に転換されるなかで100年続いた炭坑は76年に閉山に追い込まれます。しかし炭鉱を所有する常磐興産は、閉山前の66年から、炭鉱の斜陽化による収益の悪化を坑道から湧き出る温泉を利用して観光業に転換することで生き残りを図ります。
 炭鉱労働者はハワイの雰囲気あふれる温泉・ハワイアンセンターに転職し、地元の女性たちもそこのダンサーになって町おこしを始めます。映画『フラガール』のモデルです。

 終戦によって炭鉱から「勤労報国隊」が引き揚げ、強制連行された朝鮮人・中国人、そして俘虜などが解放されると労働力は激減しました。
 GHQ(連合軍総司令部)と政府は、エネルギーの供給がなければ、経済再建と活性化はないと電力、鉄道、鉄鋼そしてGHQ用の暖房のため石炭の増産政策を打ち出します。
 政府は46年12月24日の閣議で「鉄鋼、石炭の超重点的増産の経済危機突破方針」、いわゆる「傾斜生産方式」を決定しました。経済復興のために生産システムを鉄と石炭に傾斜せよという有沢克巳東大教授の提言に基づいた政策です。
 GHQもラジオや新聞などでの石炭増産のキャンペーンを奨励します。そのテーマソングのひとつが三池炭鉱を歌った『炭鉱節』です。今も夏祭りや盆踊りで流れている歌です。おそらく戦後最初に広く歌われた労働歌ではないでしょうか。
 しかし『炭鉱節』の元歌は三池炭鉱ではなく、福岡県田川市の「伊田の炭鉱」の歌です。
 なぜ歌詞が三池炭鉱になったのか。
 三井系列鉱山のなかでは採炭量が多かったからと言います。なおかつ各地の炭鉱で労働争議が起こる中で、終戦直後に産業報告会を基盤に結成された三池労組は労使協調の活動を展開します。三池労組は「三井王国」内の中立系組織として模範生でした。このような職場だから選ばれました。

 「石炭の傾斜生産を始めたときに、東大の理学部に茅(誠司)さんがいた、それから嵯峨根遼吉さんがいた。僕を理学部に呼び出して、君らはいま傾斜産業とかいうものをやって日本の経済再建をやろうとしているそうだ、われわれも何か働くことができないか……。
 理学士が働くといっても大したことはできない。そこで僕が考えたのは炭住(炭鉱住宅)のラジオが故障してよく聞こえない、君たちは技術者だから、ラジオの修理ならできるだろうといった。そうしたら、できますという。
 その理学士たちは自分のポケットマネーを出して部品を買って、それで常磐へ行ったんだ。それで片っ端から直した。そうすると炭鉱の連中は、とにかく理学士様が来てわれわれのラジオを直してくれた、よく聞こえるようになった。それというのも石炭を掘ることが大事だということで、そんなにまで政府は目を配ってくれているのか、大いに働かなければいかんということで、そのときに急に常磐炭鉱は、それまでは月に10トン足らずしか出ない炭鉱が、その次になってから15トンになった」(『有澤廣巳 戦後経済を語る』東大出版会)
 復興のための学者のボランティア活動です。

 「ふるさと回帰フェア2011」に宮城県からの物販出店はありません。地元はそれどころではないのでしょう。
 その代りではないですが、別のイベントが、昨年宮城県内各地でロケが行われた映画『エクレール お菓子放浪記』の上映を企画していました。映画は今年3月完成しましたが全国での上映開始直前に大震災が起きました。
 『お菓子放浪記』は戦時中、孤児の少年が小学校の先生からフランス菓子の作り方が載っている本をもらうのと一緒に『お菓子と娘』の歌を教えてもらったことをきっかけに将来お菓子職人になる夢を抱くというストーリーです。
 少年は『お菓子と娘』を上手に歌います。

   お菓子のすきなパリ娘
   2人そろえばいそいそと
   角の菓子屋へボンジュール……

 ロケ地が震災にあいました。主人公の少年が通う小学校のシーンは、「宮城県の明治村」登米市にある「旧登米高等尋常小学校」です。震災で痛みがでたため、現在は見学を一部に制限しています。登米市は内陸から気仙沼市や南三陸町にボランティア行く時に通ります。今も被災地への水などの供給拠点になっています。葦が生い茂る川を小舟で渡るシーンは北上川の、あの大川小学校のもう少し上流です。エキストラの船頭さんが亡くなりました。映画館のシーンは、石巻市内の橋のたもとに建っていた本物の映画館「岡田劇場」でした。しかし津波に襲われ廃業になりました。上野公園でののど自慢のシーンは石巻市の日和山公園です。市民が津波とその後に襲った火事を逃れて避難し、眼下にその恐ろしさを見のあたりにしたところです。桜やツツジの名所で、今年の5月も見事な花をさかせ市民を和ませました。映画の最後には数百人のエキストラの名前が映し出されました。自分が映る映画を観ることなく亡くなった人もたくさんいると聞きます。

 8月27日付『朝日新聞』の「Be」欄に『お菓子と娘』のことが載っていました。
 この歌を、沖縄戦が始まる直前の45年3月、看護要員として動員されたひめゆり学徒隊の引率教師が南風原陸軍病院壕建設作業の時に歌っていたのだそうです。当時、この歌の歌詞は「非国民」です。しかし生徒たちは壕を掘る手を休めて聞き入ったといいます。

 少年の明るい歌声を聞きながら映し出されるロケ地に被災地を重ねると複雑な思いに駆られますが、ほのかな希望も湧いてきます。ひめゆり学徒隊もいっときはそうだったのでしょう。
 ロケ地に、被災地に、真から明るい歌声が響く日をなるべく早くに引き寄せたいものです。

 岩手県も物販出店を出していました。間もなく発売されるDVD「復活にかける岩手県人のヒューマン・ドキュメント」のチラシがありました。タイトルは『岩手は 半歩 歩き出す』です。


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労災制度を前進させたのは家族や遺族
2011/09/22(Thu)
9月16日(金)

 三井三池炭鉱におけるCO中毒患者への労災補償要求闘争のつづきです。
 労災認定期限が切れる3年目が近づくと、三池労組と患者家族会は労災認定期間の延長と特措法制定運動を開始します。
 しかし特措法が成立したという話を聞いてもうわの空の重症患者もたくさんいました。家族にとっては労災補償制度も特措法も満足いくものではありません。1日中世話を続けなければならない苦労は困難を極めました。
 責任追及のための刑事告訴も不起訴処分になります。労災制度が事故を起こした会社の責任を追及するものではないことにも不満を抱いていました。
 しかし、労組は、組合員やその家族から「他に方法はないのか」と問われると「ない」と答え、会社に対する損害賠償請求訴訟の方針は出しませんでした。

 松尾修さんの妻恵紅さんは水俣病訴訟を支援し、交流をしていました。労組に水俣訴訟の話を出して会社への責任追及をせまる損害賠償の裁判闘争を働きかけました。しかし「裁判闘争は物取り主義だ。水俣の闘争は労働運動ではない」という回答が返ってきました。
 事故から10年目、松尾さん夫妻ともう1家族は損害賠償訴訟を起こします。すると労組は松尾さんたちを除名処分にしました。
 さらに2家族が裁判に踏み切ると、労組も訴訟を起こすことを決定します。しかし遺族の訴訟は時効が過ぎていました。
 なぜ労組は訴訟に積極的でなかったのでしょうか。
 当時の労組役員の方に聞いてみました。
 「三池労組は全国の方々から支援を受けた。その恩を、労災制度を前進させることで返そうとした」
 本当でしょうか。
 確かに当時労災で損害賠償訴訟を起こすことはあまりありませんでした。
 労組は、損害賠償訴訟で会社が負けたら潰れるか、閉山決定をする、そうしたら労組も消滅するという判断が働いていたのではないでしょうか。労組は現役労働者の、本工労働者中心の企業内組合になっていたのではないでしょうか。

 CO中毒患者と水俣病の双方にかかわってきた原田助教授が書いています。
 「労働災害による人間の破壊と公害におけるそれとは、その根本においては、まったく同じ資本(企業)の論理が存在する。ややもすると絶望的になろうとする気持ちに抵抗して多くの医師が神経精神障害の患者の治療に取り組んでいるとき、なぜ、水俣で、三池で、このように大量の神経精神障害患者を発生させなくてはならないのか、その病根は何なのかを深く考えさせられたのであった。……
 しかし三池の場合、労働災害法というもののもつ性格から、これらの後遺症を巡るその後の闘争のありかたにはいくつかの矛盾があった。
 医学の最終目的はやはり職場復帰であるから、そのために、どれくらいの後遺症が残っていても安全なのか、労働や日常生活の上で支障がないかどうか、症状には変動がないかどうか、そのような個々の問題を解決するためにできるかぎり症状は詳細にとりあげられたのであった。しかし組合は、有症状イコール職場復帰不能、労災等級引上げ、という一連の闘争を展開してきたのである。その闘争は一定の成果をあげたとはいえ、労働災害法という、見方によっては企業の防衛手段にすぎない法律をたてに、その枠のなかだけで闘ったことは、かなり無理を生じたことは否定できない。
 労災法による補償とは、人間をまったく働く機械と見なし、その欠損した部分に対して一定の補償を試みるものである。対象を、精神を持った一個の人間としてとらえてはいないのだから、精神的な苦痛や、ましていわんやその家族、それに伴って起こってきた家庭の破壊などは、しょせんこの法の対象とはならないというのは、決まりきったことである。労災法があるために、企業の責任はむしろあいまいにされている。」(原田正純著『水俣病』岩波新書)

 三池争議における法的対応とCO中毒患者の損害賠償訴訟を担ったのが新鋭の藤本正弁護士です。
 藤本弁護士は、68年に若手弁護士と「労災研究会」を作ります。そして労災問題を労働現場で起きている問題、労働組合が取り組むべき問題としてアピールしました。しかしいつの間にか労災問題は疾病問題になってしまったといいます。
 そのあと過労死の問題が噴出します。
 そして1991年、電通で過労死自殺した社員の親族が「会社は社員の安全配慮義務を怠った」として、電通相手に損害賠償請求訴訟を起こします。いわゆる「電通過労自殺事件」です。代理人は藤本弁護士1人です。

 83年に上野駅の地下駅開発の設計技術者が常磐線に飛び込んで自殺未遂をしました。
 労働省はこの事件を例外中の例外として「業務上」で心因性精神障害に罹患して自殺未遂をしたと認めました。
 あわせて84年2月14日付で「事務連絡」を出します。労働省が精神障害に罹患した労働者を「業務上」と認める基準は①「心因性精神障害を発病するに足りる十分な強度の精神的負荷が業務に関連して認められ」、②「当該疾病の有力な発病原因となるような業務以外の心理的負荷」がなく、③「精神障害の既往歴がないこと等当該疾病の有力な発病原因となるような固体要因がないこと」が「十分な資料等によって認められることが必要」としました。
 ハードルが高すぎます。その後96年まで、心因性精神障害とその自殺について労働省が労災と認めた事例は一件もありません。自殺は個人の問題と処理されました。

 このような状況だったので藤本弁護士が「電通過労自殺事件」を受任すると周囲の弁護士に話をすると、みな負けるから止めた方がいいと説得したといいます。しかし提訴し、遺族の父親との二人三脚の闘争で最終的には勝利的和解になりました。
 96年3月の一審判決の頃には労働省も精神障害の労災認定基準の基準作りの作業を開始します。そして99年7月14日に「心理的負荷による精神障害等に関わる業務上の判断指針について」の通達を出します。

 何度も繰り返しますが、労働者の安全衛生を巡る問題を前進させたのは、残念ながら労働者や労働組合ではなく遺族の闘いです。
 安全衛生は、労働者と労働組合がもっともっと積極的に取り組むべき課題です。

 
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消費者の社会は幸せではない
2011/09/20(Tue)
9月20日(火)

 9月16日、東京都主催の講演とシンポジウム「いのち支える全国キャラバンin東京 東日本大震災 闇の中に光を見出す ~『3.11後の東京』をどう生きるか~」が開催されました。
 シンポジウムは自殺対策支援センター・ライフリンクの清水康之さんの司会進行で、パネリストは精神科医の香山リカさん、内閣府社会的包摂推進室長の湯浅誠さんです。
 震災を経て改めて考えたことというテーマで湯浅さんは、これまでの任務に重ねて震災への対応が加わったが、これまで関係を持ってきた人たちからは「置き去りにされた」「忘れられてしまった気がする」という声がでたと報告しました。多忙な中で本来の業務は「ちょっと置いておく」ことしかできませんでした。しかし納得されません。
 震災は社会的弱者全体に問題が大きく降りかかったと指摘しました。
 香山さんは、人によって重要事項が違う、それぞれの地域で悩んでいる人がいる、被災者を比べることはできないと問題の多様性を指摘しました。
 清水さんは、社会的弱者は声をあげられない、情報弱者は支援策も知らないし辿り着けずに置き去りにされることを実感したと語りました。
 湯浅さんが室長に就任した内閣府社会的包摂推進室は昨年12月に立ち上げられました。
 「無縁社会」などの言葉が語られ始めた頃です。「無縁社会」をカバーして行けるように社会そのものの仕組みを変えていくことを目指しています。そのために社会参加できるいろいろな人を確保しておくという構想です。
 例えば今回の震災でも発達障害の者がいる家族は避難所を離れて壊れた家や車で生活しています。周囲が対応方法を知らないからです。しかしこれは現在の日本社会においてはどこでも同じです。それでは社会は回っていきません。「巡り巡って社会を支える」関係を作り上げる必要があります。
 清水さんは、健常者を基準に物事を進めると、それ以外の人の選択肢が狭められ、委縮させられる、選択肢を増やしていこうと提案しました。
 香山さんは、今まではそのための最低限の条件も整っていなかったと指摘しました。

 テーマは現在の社会状況に移りました。震災がもたらした問題には原発事故も含みます。
 湯浅さんは、経済問題で選択肢を考える時、「消費者としての選択肢」と「生活者としての選択肢」を分けて考えた方がいいと提案しました。
 確かに消費者としての選択肢が経済成長を推し進めてきました。しかし無駄もあります。一方、生活者としての選択肢の幅が制限されている人たちがいます。格差が拡大しています。生活者の選択肢が増えるような底上げが必要です。
 清水さんは、消費者としての選択肢がけん引してきた結果が世界屈指の経済大国になったが一方では自殺大国にもなったと指摘しました。
 震災前後に内閣府が行った幸福度調査があります。震災後の方が幸福度が増えたという結果がでています。調査で「人生で最も幸せと感じる時はどんな時ですか」の質問に、老若男女「大切な人と食事をしている時」の回答が一位でした。
 清水さんは、震災後の変化として、それぞれが消費者と生活者の区別ができるようになってきたと、期待を込めて語りました。
 湯浅さんは、経済成長やGDPに一喜一憂する社会は決して豊かな社会ではない、だから自殺大国になっていると指摘しました。
 香山さんは、リッチがコンプレックスを解消する手段になると手放すことができなくなると指摘しました。それを受けて湯浅さんは、そのことがアイデンティティーの喪失となるって自殺につながっていく、2つは背中合わせの関係にあると指摘しました。

 この後、J‐POPグループ・ワカバが登場して自作の歌『あかり』を披露しました。
 『あかり』は、内閣府「いのち支える(自殺対策)プロジェクト」キャンペーンソングになっています。「ワカバ/あかり」でダウンロードすると聴くことができます。

 湯浅さんの、消費者としての選択肢と生活者の選択肢を分けて考えたほうがいいという主張はその通りです。
 労働者は、どのような労働がみんなの豊かさや幸せに繋がるのかをもう一度自分に引き寄せて考える必要があります。
 1956年の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と書きました。
 1950年代後半から、新しい生活の象徴として白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』として喧伝されました。娯楽と家事労働の軽減に画期的な変化をもたらしました。
 1960年代半ばの“いざなぎ景気”の時代には、カラーテレビ(Color television)、クーラー (Cooler)、自動車(Car)の3Cが『新・三種の神器』として喧伝されました。しかしこれらは生活必需品ではありません。
 その後、この3Cを収めるマイホームを建てることがステータス・シンボルになっていきます。
 マイホームと住宅は違います。マイホームは労働者が閉じこもるスペースで、社会や地域の共同体との関係性を遮断し、疎遠になっていきました。
 労働者をこの方向性に向かわせたのが職場における管理・支配体制の転換です。産業再編に伴う作業の合理化、単純化、流れ作業、一方でのQC運動、職能・職階制度の導入などによる競争・分断支配です。
 戦後の労働組合運動も転換を迫られました。「合理化反対」というだけでは青年労働者の意識を掴むことができませんでした。
 労働者が、仕事がつまらないということだけでなく「職場がつまらない」という意識に襲われた時、生活の充実感を追求する軸足をマイホーム・家庭に変えていったのです。
 そしてマイホームという外見は、実は多額のローンを抱えながら、競争の結果を外部に表明するものになっていきました。
 労働者の人間関係が乾いた中での労働の疎外感が家庭での物的満足感に移行していったのです。

 福島原発の1号機の設置許可申請書は1966年6月1日に提出されています。
 職場の人間関係の崩壊が消費財の購入に走らせ、電力消費を増大させ、原発建設を促進させたのです。その原発が労働者の生活と地域を破壊してしまいました。
 原発反対の声は、生活スタイルと労働スタイルの捉え返し、そのなかでの人間関系の再構築を進めながら挙げていく必要があります。
 1人だけが(少数だけが)独占する豊かさは、「リッチがコンプレックスを解消する手段」で、つまらないものです。共同して作る人間の豊かさと安定こそがやはり労働者がもとめる幸せです。


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三池における労災闘争
2011/09/16(Fri)
9月16日 (金)

 今年のミュニティ・ユニオン全国交流集会は、10月1日と2日に熊本県阿蘇市で開催されます。2日目には、「水俣学と労働運動」 の分科会も設定されていて原田正純前熊本大学医学部助教授が報告します。
 原田教授は水俣病の問題を当初から告発し続けてきましたが、さらに三井三池炭鉱など炭鉱のCO (一酸化炭素) 中毒の問題に取り組んできました。そのため教授にはなれませんでした。
 三井三池炭鉱は福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがっているので熊本大学は地元ということで昔から関係がありました。

 日本で “よろけ” の問題が登場する最古の文献は天保時代の佐渡鉱山を取り上げたものだと思われますが、塵肺の問題は明治初期から指摘されています。
 明治初期、鉱山などは囚人を労働力として酷使しました。三池炭鉱、幌内炭鉱、別子銅山、横須賀造船所などがそうです。
 三池炭鉱では明治19年から10年間に700人近くが死亡していますが、事故死以外は呼吸器疾患が多いです。
 熊本医学校は熊本監獄の病囚の遺体を研究材料に使っていました。調査のなかでは三池炭鉱に労働力として送られた5人の坑夫うち4人までが 「病囚の肺患は真の肺労 (肺結核) にあらずして単に炭粉刺激に原由する慢性肺炎即ちアントラコージス (所謂坑夫肺労) なると判然たり」と報告しています。(沢田猛著 『黒い肺』 から孫引)
 同じころ、三池集治監の医師・菊池常喜が囚徒使役の廃止を要求する 『意見書』 を提出しています。
 「人若し人命を救うの術を知りて之を黙せんか、其之を死に至らしめたるものと何ぞ択ばん。余坑内圧死の検視に臨み、坑夫性肺労患者の枕頭に立ち、常に此の感なき能わず。余己に之を救うの方法を知る。若し之を等閑に附せんか、余は年々数十の人命を虐殺せるものにして国家の大罪人たるを免れさるなり。是れ余が採炭業の囚人課役として不適当なるを絶叫し、速やかに之れが全廃を希望してやまざる所以なり」 (井上佳子著 『三池炭鉱の 「月の記憶」』 から孫引)
 しかし対策は取られませんでした。その状況は続きます。
 労働者の悲惨な状況は、足尾銅山の坑夫からの聞き書きを題材にした夏目漱石の小説 『坑夫』 からもうかがうことができます。
 対策が開始されるのは戦後になってからです。

 三井三池闘争が敗北した後の63年11月9日、三川鉱で炭塵爆発事故が発生し、458人の死亡者と839人のCO中毒患者を出しました。爆発は保安を手抜きした結果起きた人災です。犠牲者を組織別にみると、三池労組163名、三池闘争の最中に三池労組から分裂して結成された新労 (第二組合) 242名、職員組合25名、組夫28名です。

 三池労組の闘いはCO中毒患者への補償を要求するCO特別法の制定に移っていきます。
 67年6月23日から法案審議がまず参議院で始まります。CO中毒被災者・家族は労働省前などで座り込み、ハンストなどを開始します。
 そして7月14日、法案成立を要求してCO患者の家族ら75人は三川坑坑口から1800メートルの坑底に座り込みを開始します。
 この時の様子を、上野英信さんは聞き取りをして 『燃やしつくす日日』 に書いています。
 「こうして1週間にわたる地底の籠城が開始されたわけであるが、昇坑の意思なしとみた会社側の圧力と妨害は、日1日と狂暴の度を加えるばかりであった。坑外との電話連絡は遮断され、入昇坑者との接触を防ぐための警戒と監視はまったく刑務所なみの厳重さとなった。彼らが兵糧攻めの作戦にでたことはあきらかだ。しかし、三池労組に属する労働者たちは、きびしい検身の目をかすめて、せっせと食糧の補給をつづけた。……
 三池労組員ばかりではない。分裂した新労組員や下請けの組夫たちの中からも、ひそかな協力者があらわれはじめた。ある者は自分の水筒を三池労組委員に託し、ある者は弁当を運ぶための道具袋を2つ肩にさげた三池労組員に対して、『あんたが2つもさげていくと坑口であやしまれる。おれに1つもたせんな』 と申しでる。三池労組のストライキの日になると、こっそり坑内でビニール袋に水をつめて、昇坑の途中で主婦たちのそばを通るさい、監視の目を盗んですばやく投げ込んでゆく者もあった。……
 7月20日、もはや体力の限界だと判断した三池労組三川支部長は、4時間にわたって昇坑の説得をし、主婦たちもようやくこれをうけいれて、午後7時半から人車で地上へとのぼった。……
 坑底座りこみでえた最大のものは? わたしたちのたたかいが決して孤立したものではないという確信。たとえ会社から組織的には分裂させられていても、労働者としての深い連帯性はぜったいに断ち切られるものではないという確信。それがいちばん大きな喜びだった、と主婦たちはいう。」
 差し入れは食糧だけではありません。緑がないからと青葉、化粧品もありました。子供たちが書いた手紙が届けられ、その返事もちゃんと家に届けられました。
 このようにして主婦たちは、1週間145時間、最後まで66人が座り込みました。
 座り込み最終日となった7月21日、CO特別法案は成立しました。しかし当初の要求は明文化されず、解雇制限などは行政指導に委ねられてあいまいなもので、障害認定については労災法の枠を出るものではありませんでした。

 67年9月28日、三川坑でまた爆発事故があり、7人の死者と数百人のCO中毒患者を出しました。
「坑内の火が、まだ燃えさかっている9月29日朝、三川坑の繰込場で、異常な事態が起った。それは、これまで従順だと思われていた新労の組合員が、突然、会社の指示にさからい、消化作業の入坑を拒否し、あわせて説得にかけつけた組合幹部に激しく抵抗したのである。
 『安全がされたんか、証拠をみせろ』
 『坑内におりるのはオレたちぞ。いけというならお前らも一緒にこい』
 『お前ら、オレたちの気持ちがわかっとんのか。今度は、違うぞ』
 身の危険を眼前にして、新労組合員も黙ってはいられなくなったようだ。この光景を目撃した人は『とうとう、爆発したか』とささやいたという。このように新労の下部に不満がうっ積していることを、地元の人々もうすうす感じてはいたらしいが、それにしても、新労が分裂いらい労使一体となって生産体制を築いてきたことを知るものにとって予想外の出来事だったようである。むろん、新労幹部にとっても、会社側にとっても。」 (『朝日ジャーナル』 1967.10.29号)
 会社は三井三池闘争の最中に新労結成を誘導し、分裂後は組合間格差を設けたりしましたが決して優しくはありませんでした。死者の数からもそうだし、事故への補償においてもそうです。

 この三池の労働者の闘争に昨今のさまざまな問題が重なってきます。
 現在、精神障害の労災認定基準改正のための専門検討会か開催されています。論議では 「長時間労働と体調不良の関係はエビデンスがない」 という主張がまかり通っています。しかし塵肺問題ではエビデンスがあっても問題が取り上げられるまでにかなりの年月を要しました。水俣病の問題ではエビデンスが無視され続けました。
 つまりはエビデンスがなければ実態があっても問題は取り上げられず、あるとエビデンスは排除されるのです。
 CO中毒を巡る問題では、労災補償の問題と労働安全衛生の確保は労働者全体の切実な問題であり、その力の結集がより良い成果を獲得できるということです。
 新労幹部と組合員のやり取りは、現在の福島原発の事故処理現場でそのまま政府、東電幹部にぶつけてやりたい思いに駆られます。
 福島原発の事故処理に従事している労働者に接点は作れませんが、遠くから感謝の意を表するとともに安全と健康を祈ります。
 

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