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漁協は甘言に釣られない
2011/07/29(Fri)
7月28日(木)

 すこし古い話ですが、7月5日、松本龍震災復興担当大臣が辞任しました。村井宮城県知事との対談での発言内容が問題とされました。
 応接室に知事が後から入ってきたことに対する大臣の「お客さんが来る時は、自分が入ってから呼べ」といった発言です。報道ではこの場面が繰り返し流されました。
 しかし大臣はもうひとつ重要な発言をしています。被災した漁協と知事との対立についてです。「県でちゃんとコンセンサスを得ろよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」。
 この発言は的を得ています。しかしあまり流されませんでした。

 現在、漁業権は漁協に優先して与えられています。
 これに対し村井知事は民間企業が漁業に参入できる特区を作るという案を発表しています。復興構想会議も特区導入を提言に盛り込んでいます。
 多くの漁協は反対の意思を表明しています。
 この状況に大臣は「県でちゃんとコンセンサスを得ろよ」と言ったのです。
 漁協組合員は「海はいい時もあるけど悪い時もある。だから楽しい」と語ります。だから「悪い時」でも海から離れません。いつまでも海と共生します。しかし企業は「いい時を追求し、さらにいいことを追求する」利益追求団体です。悪い時は被雇用者を酷使して乱獲し、それでもダメなら海を捨てます。
 両者はここが大きく違います。

 1900年9月、大学を卒業して農商務省に入省した柳田国男は、官僚として1900年3月に公布された産業組合法の普及と、同法に基づく産業組合作りを担当させられました。農協、漁協、生協等のルーツです。
 農業経営について柳田は、ちょうど寄生地主制の確立期ですが、耕地の所有は在村農民に帰すべきであると主張します。そして「国民全体の幸福である福祉」は自力救済でなされるものであり、他力救済であってはならない、産業組合は自力救済のための機関であると説明します。
 産業組合を「個人の力を合わせて以て社会の改良を行ふべき道」と捉え、資本融通の道に乏しく労働が困難で利益が少ない農業の発展に向けて活用しようとしました。農業の経営規模を大きくし、農民を農業だけで食える中農に育成することを目指します。
 さらに「『生産費ノ現象ハ同時ニ生産者ノ消費者トシテノ利益ニシテ且ツ消費者ノ生産者トシテノ利益』であるから、『生産費ノ減少』こそが農業政策の『最モ力ヲ用ヰ』る必要のある『題目』であると断じている。」(岩本由輝著『柳田民俗学と天皇制』 吉川弘文館)
 生産者と消費者の連携を重視します。だから柳田は購買組合も奨励します。
 しかし当時の学界・官界から黙殺されます。
 この後柳田は外交官を経て民俗学に没頭します。

 「消費組合としては、1879年(明治12年)に、東京で知識人の手によって共立商社がつくられ、同じような系統の組合が3つできています。これらは、いずれも数年で消滅してしまいましたが、消費組合、今日の生協の前身といえます。また、日清戦争(1894年~95年)前後に日本の資本主義がほぼ確立しますが、それにともなって40万人以上に増えた労働者の中からも一種の消費組合がつくられて生きます。その最初は、1898年(明治31年)、東京砲兵工廠の職工たちの組合である矯正会の各支部に作られたものでした」(協同組合経営研究所発行『入門協同組合』)

 高野房太郎は1897年7月、労働組合の奨励と結成のために「労働組合期成会」を設立しました。12月、日本で最初の近代的労働組合である鉄工組合が結成され、さらに翌年日本鉄道の機関手・火夫らによって日鉄矯正会、活版工組合などが結成されていきます。
 消費組合は労働組合運動の一環として作られました。高野は労働組合を成功させるには、直接的な利益の提供が重要と捉え、創設に奔走しました。
 高野が、日本の情況を1898年6月16日の「通信」でアメリカに報告しています。
 「どこの国でも、労働運動がまだ幼く、働く人々の知的水準が低いところでは、労働組合の通常の機能は大多数の労働者にとって、かならずしも興味のあるものとはなりません。たとえば、団体行動によって高賃金を獲得するといったことは問題になりません。そうした企てを実行するには、あまり組織的に弱体ですから。
 組合の共済機能も、健康な人たちを組合活動に熱心にさせることは役立ちません。労働組合が提供する教育機能を喜ぶ労働者は、ごく少数です。要するに、こうした国で労働組合を成功させるには、組合に参加する人びとに直接的な利益を提供することが重要なのです。その意味で、生活協同組合こそ、労働組合を補助して、こうした要求をもっともよく満たすものです」(高野房太郎著『明治日本労働通信』)

 1906年全国の鉄道を国有にする法律が制定されました。翌年、内容は日鉄矯正会に似ているが事業体による、官業では最初の全員加盟の共済組合として帝国鉄道庁職員救済組合が発足しました。労働運動を防止するための政策でした。
 国鉄は共済制度が完備し、それが「国鉄一家」の意識をつくっているといわれています。そのきっかけはここに遡るのかもしれません。その「国鉄一家」意識は今のJRになっても労使の中に企業内組合として色濃く残っています。

 柳田も高野も、農民・労働者たちの自力救済に期待を寄せていました。「国民全体の幸福である福祉」の実現です。それが農民・労働者たちの心を豊かにし、未来を豊かにします。経済成長を示す数字が幸福のバロメーターではないことを私たちは実感しています。
 他力救済は、農民・労働者をダメにします。
 漁協の組合員がどのような甘言と餌を与えられても釣られまいとする思いは充分に理解できます。


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原爆も原発も、これ以上過ちを繰り返させてはいけない
2011/07/26(Tue)
 7月26日(火)

 毎年8月6日午前10時半から、爆心地から北東に約1.5キロ離れた東白島公園に国鉄労働組合が建てた国鉄原爆死没者慰霊之碑の前で、国労主催の国鉄原爆被害者の追悼集会が開催されます。
 集会の最後は 『機関車のうた』 の歌の合唱です。

   1.朝日を浴び 夕日を受けて
     地平線を切り開き走る
     ほどばしる汗の中に
     親父の顔がのぞく
     青い旗 赤い旗
     油まみれの黒い旗
     長い歴史を刻み込んで走り続けた
     *あの日 焼け跡の中から
      一番列車を走らせた俺たち
      それは使命 それは愛
      俺たちは機関車 俺たちは機関車
   2.星空の夜も 夜明けに向けて
     暮らし運ぶ 機関車走る
     ほどばしる汗の中の
     おふくろの顔がのぞく
     こみあげるこの思い
     悲しみこらえ 走らせる
     ふるさと愛する心で 走り続けた
     * (くりかえし)

     鉄路は誰のもの ふるさとは誰のもの
     涙を怒りに変えよう
     涙を怒りに変えよう
     友よ闘おう 友よ闘おう
     町から町 海から山 国中の大地から
     ひたむきに走れ機関車
     号笛よ響け 鉄路よ歌え あー

 この歌は、83年に国労横浜・鶴見支部で生まれました。
 被爆した先輩車掌から聞いた体験談をもとに若い組合員たちが作り、歌い継いでいます。

 歌詞の 「あの日」 についてです。
 碑が建つ公園の東側は京橋川が流れ、公園をたもとにする饒津 (にぎつ) 陸橋を山陽本線が走っています。
 原爆が投下されたとき、この陸橋を49両の貨物列車が走っていました。瞬間列車は脱線転覆、枕木ごと燃え出しました。乗車していた2人の機関士は無事でした。
 鉄路はあちこちで線路が切断されました。しかし鉄道に従事する者たちはすぐに復旧活動を開始しました。なかでも多くが15歳から17歳の鉄道教習所の生徒たちの献身性は偉大なものがあります。原爆投下直後から連日、まともな食糧もないなかで、熱気に抗して水をあびながら作業を続けます。時間が経つにつれて下痢をするものが続出しましたが、それでも作業をやめませんでした。
 このようにして、爆心地から約2キロ離れた広島駅構内から原爆投下4時間後に、逆行の機関車に4輌の客車を接続して200人の被災者をのせた 「救援列車1号」 を上り西条方面に走らせたのです。
 そして2日後の8日午後3時30分、この鉄橋を復旧させ、発車の汽笛を鳴らして 「復旧1号列車」 を走らせたのです。
 その音は広島の人達に、廃墟の中から立ち上がる勇気をあたえてくれました。まさしく “出発の合図” です。
 鉄道に従事する者たちの使命感が、生き延びたたくさんの人たちの命を救ったのです。彼らは残留放射能をあびました。いまでこそ放射能の影響は知られていますが、当時は想像だにできないことでした。

   『芽だち』

            峡 草夫

   3人写っている中で
   真中に威張っているのが 生きている俺
   右と左にかわいらしいくるくる頭で立っているのが
   死んだ2人の友
   まだ20前の俺を挟んで
   懸命にすましこんでいる
   俺より4つ年下の2人の友
   1945年春の写真。
   その1945年に2人は死んだ
   1人は8月9日に
   1人は10日後に。
   8月9日に死んだ1人を
   10日後に死んだ1人が
   泣きながらかついで来た
   8月9日。
   親もとにいて徴用されるよりましだろうと
   まだのびきっていない柔らかな手を
   懸命に力ませながら
   機関車の掃除をしていた2人。
   300キロもはなれた親もとに
   毎日手紙を書いていた
   まだ数え年16歳だった彼ら。
   弾丸と兵隊ばかりを牽いて
   地ひびきを立てて走っていた機関車
   徴用がこわいばっかりに その機関車を磨いていた
   かわいらしいくるくる坊主頭の2人。

   8月9日に死んだ1人を
   10日後に死んだ1人と俺が
   呆うけたようにうろうろと
   運んで焼いた屍の街
   そして
   10日後に死んだ1人を 俺1人が
   よろよろと運んで焼いた
   灰色の街。
   1945年の写真。
   1945年に死んだ 俺より4つ年下の写真。
   彼らを俺が焼いた 屍の街の灰色の記憶
   俺が焼いた 彼らの骨の色のような
   灰色の記憶。
   しかし さようなら 俺より4つ年下の
   写真の中の2人
   俺はお前たちに
   俺の 「決心」 をおくろう
   それは
   お前たちを殺した灰色のような
   その記憶をくり返さぬためにする
   俺の唯一つの決心。
   さようなら
   2人の俺の友だち
          (1954・8)

 生き残った人たちに廃墟の中から立ち上がる勇気をあたえてくれた鉄路は、その後に原水爆禁止運動が始まると大勢の集会参加者を運んできて、送りました。夜行列車での行き帰りはさながら参加者の貸切りのような状態でした。片隅から起こった歌声は列車中に拡がりました。

    故郷の街焼かれ
    身寄りの骨 埋めし焼け土に
    今は白い花咲く
    ああ 許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を
    我らの街に……

 鉄路は平和の歌を全国の隅々に運びました。

 今年もまもなく8月6日のヒロシマ、8月9日のナガサキを迎えます。
 今年の原水禁大会は、3月11日の東日本大震災の地震と津波と福島原発事故爆発と風評被害の4重苦にあえぐ被災地福島でも開催されます。福島は世界のフクシマになりました。

    はらからのたえまなく
    労働に築きあく 富と幸
    今はすべて ついえさらん
    ああ 許すまじ原爆を 三度許すまじ原爆を
    我らの街に……

 「ピカドンは人が落とさにゃ落ちてこん」 (丸木 俊)
 原爆被害は人災です。原発被害も人災です。
 原爆投下後の鉄道労働者のように、原発事故の改修作業に日々奮闘している労働者に感謝します。東京電力には彼らへの安全の保障と生活の保障を要求します。
 原爆も原発も、もうこれ以上過ちを繰り返させることはできません。
 

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河童の正体は 「大和民族」?
2011/07/22(Fri)
7月22日 (金)

 柳田国男の 『遠野物語』 は次のように始まります。
 「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より初めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思ふに遠野郷には此種の物語猶数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。……願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ……」
 岩本由輝著 『柳田民俗学と天皇制』 (吉川弘文館) の解説です。
 「『遠野物語』 の序には 『鏡石君は話上手……書きたり』 というくだりがある。佐々木の話を忠実に記録したように読めるが、『加減ぜず』 は実はプラスマイナスせずではなく、『手加減せず』 の意である。
 だから、自分が聞いて感じたことを文章化するとき、一字一句をもおろそかにせず、十分に推敲したといっていると解すべきである。その証拠に、佐々木の話を水野と柳田とが同時に聞いて、ともに文書化したものを比べれば、柳田の細工のあとは歴然としている。
 つまり 『遠野物語』 は遠野の現実そのものではなく、柳田のイメージにある山人の世界を佐々木の話を媒介に描いた作品なのである。『遠野物語』 を民俗学における聞き取りの模範とみる向きもあるが、柳田自身、後年 『ほとんど文学作品といってよい』 と作為を認めている」
 水野とは、柳田のもとに佐々木を連れてきた歌人・詩人・小説家の水野葉舟。

 今度は中生勝美編 『植民地人類学の展望』 (風響社刊) からの引用です。
 「戦時中の民族学は、戦争遂行のための基礎学問として、あらゆる国で利用された。」
 「戦略展開地域での現地事情、とりわけ原住民の状況、社会組織、政治形態は、戦争遂行のための兵要地誌作成に必要最低条件として求められる情報である。これらは民族誌作成の必要項目と重複し、その意味で兵要地誌作成のための基礎学問として 『民族学』 が重視されていたのである。」
 「日本でも、戦時中に 『民俗研究』 の必要性が軍部から提起され、文部省から支援されて、民俗研究所が設立された。また太平洋戦争が勃発すると、東南アジアの占領地を統合するため、統合調査が実施されたように、部分的にせよ、民俗調査が軍事行動と直接結びつく 『有用な学問』 として支援されたのである」

 柳田が言う 「山人」 は 「我々社会以外の住民、即ち、我々と異なった生活をして居る民族」、平地に居住する 『日本人』 = 「大和民族」 に先行し、やがて 「帰順」 した人びとです。
 歴史を遡ると、8世紀末に征夷大将軍 (東夷を 「征討」 する将軍) の坂上田村麻呂が 「征伐」 した蝦夷地に住む人びとです。(東北地方では、学校教育以外では 「蝦夷征伐」 などとは言いません) そして最近、世界遺産と認定された中尊寺を建立した藤原清衡が参戦した 「前九年の役」 や 「後三年の役」 で 「大和民族」 と戦争をした他民族です。
 柳田が言う 「山人」 は結局、平地人= 「大和民族」 に征服された 「東北人」 を指します。
 中尊寺は勝利した 「大和民族」 の支配者の砦です。侵略者の砦が世界遺産になりました。
 柳田は民俗学を 「新たなる国学」 と捉えていました。明治維新が、江戸時代の賀茂真淵―本居宣長―平田篤胤の流れをくむ 「国学」 による政権の統一を目指したように、「新たなる国学」 で、日本列島の諸民族の 「同化」 の経緯を探り、その手法を農商務省の役人、外交官、そして民俗学者として朝鮮、台湾の植民地経営に加勢していきます。
 『遠野物語』 が刊行された1910年は奇しくも大逆事件がでっち上げられ、日韓併合が行われた年です。

 井上ひさしの 『新釈遠野物語』 は、柳田の書き出しを紹介した後に次のように続きます。
 「柳田国男にならってぼくもこの 『新釈遠野物語』 を以下の如き書き出しで始めようと思う。
 『これから何回かにわたって語られるおはなしすべて、遠野近くの人、犬伏太吉老人から聞いたものである。昭和二十八年十月頃から、折々、犬伏老人の岩屋を訪ねて筆記したものである。犬伏老人は話し上手だが、ずいぶんいんちき臭いところがあり、ぼくもまた多少の誇大壁があるので、一字一句あてにならぬことばかりあると思われる。考えるに遠野の近くには、この手の物語がなお数百件あることだろう。ぼくとしてはあんまりそれらを聞きたくはないのであるが、山神山人のこの手のはなしは、平地人の腹の皮をすこしはよじらせる働きをするだろう』」
 東北出身者、そして岩手・釜石に住んだことのある井上の柳田への批判が込められています。

 2つの 『遠野物語』 に河童やキツネが登場します。井上の河童は 「そのままの姿形では決して人前にあらわれません。」 「水中ではくらげの如くすき透っていて人の目には見えず、陸上では子どもや旅人に化けるので、これも河童とわからず、山中では猿や雉に化けていることが多いので、ここでも見分けがつかないのだそうである。しかも彼等は姿形を変えるだけではなく、その大きさも自由に変える術を心得ており、馬蹄の跡に雨が降って出来た小さな水溜りにも千匹ぐらい隠れていることがあるという。」 という代物です。
 山人の近くにいて人間の素振りをしてだまくらかす。もしかしたら、遠野地方の人びとが語る河童は実は侵略者 「大和民族」 で、その蛮行を遠巻きに語り継いできたのかもしれません。

 今回の災害復興においては、大手資本が復興支援の名のもとに利権あさりを企んでいます。『遠野物語』 の河童のように化けた 「大和民族」 の行為には監視が必要です。
 それでも横暴が続くなら東北人は 『吉里吉里人』 のように独立の権利を持ちます。


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時間外労働における 「特別条項」 はザル規定
2011/07/20(Wed)
7月20日(水)

 7月16日、「ゆったり働くためのシンポジウム」 が開催されました。
 88年4月、大阪で弁護士有志が開設したホットライン 「過労死110番」 に尽力し、その後過労死問題に積極的に取り組んできた過労死弁護団全国連絡会議代表幹事の松丸正弁護士が 「訴訟を通して見える過重労働の現状」 について問題提起をしました。

 東証一部上場の大庄が経営する日本海庄やの新入社員は入社4か月後に急性心不全で亡くなりました。
 最低支給額という名目の賃金は194,500円です。内訳は基本給が123,200円、役割給が71,300円です。ただし時間外が80時間に満たない場合は勤怠控除の名目で減額されます。つまり会社は月80時間以上の時間外労働を 「期待」 し、賃金体系で強制していたのです。
 会社は従業員代表と 「特別条項付き協定」 の36協定を締結し、労働基準監督署は受理しています。

 時間外労働について労働省は1998年12月28日に 「労働基準法第36条1項の協定で定める労働時間の延長の限度等に関する基準」 (労働省告示第154号) を出し、そこで 「限度時間」 を謳っています。
  期間が1週間では限度時間15時間
  期間が2週間では限度時間27時間
  期間が4週間では限度時間43時間
  期間が1か月では限度時間45時間
  期間が2か月では限度時間81時間
  期間が3か月では限度時間120時間
  期間が1年間では限度時間360時間
です。
 しかし厚労省は2003年10月22日に労基法36条の運用に関する 「通達」 (基発第1022003号) を出しました。そこには 「特別条項付き協定」 があります。
 「労使当事者は、……『限度時間』 以内の時間を一定期間についての延長時間の原則として定めた上で、『限度時間』 を超えて労働時間を延長しなければならない 『特別の事情』 が生じたときに限り、一定期間として協定されている期間ごとに、労使当事者間において定める手続を経て、『限度時間』を超える一定の時間まで労働時間を延長することができる旨を協定すれば、当該一定期間についての延長時間は 『限度時間』 を超える時間とすることができることとされているところである。」
 具体的には 「特別の事情」 がある場合は 「1日を超え3箇月以内の一定期間について、原則となる延長時間を超え、特別延長時間まで労働時間を延長することができる回数を協定するものと取り扱うこととし、当該回数については、特定の労働者についての特別条項付き協定の適用が1年のうち半分を超えないものとすること」 です。
 要するに、「特別条項付き協定」 を結べば、限度時間を超える時間を延長時間とすることができます。その運用 (悪用) 次第では労働時間の上限はないともいえるものになります。
 労働時間についての規制は使用者の都合だけが配慮され、労働者の健康問題は後付けになりました。
 さらに 「協定」 ということで労使双方に責任を課しています。

 大庄での協定は、「1か月100時間、(回数6回) 1年については750時間を限度といて延期することができる」 となっています。実際は臨時的ではなく恒常化しています。
 遺族は 「大庄」 と社長ら役員4人に損害賠償を求めて提訴しました。1審は過労死訴訟で初めて大手企業トップの個人責任を認定。2審も同様に 「過労の実情を放置し、何ら改善策を取らなかった」 として 「悪意または重大な過失が認められる」 と指摘しました。

 控訴審で会社側は、月100時間までの残業を認めた労使協定があり、「外食産業では一般的」 と主張して14社18店の36協定届を出してきました。
 スイートスタイル月間135時間・年間1080時間、ワタミフードサービス120時間・950時間、バケット100時間・870時間、サンマルクカフェ100時間・870時間、モンテローザ75時間・700時間などです。しかもその協定さえ守られていません。
 他社もしているから許されるということではありません。「みんなで渡れば怖くない」 が労働者を不幸に落とし込めているのです。
 ここには労働基準監督署の怠慢もあります。大庄における 「1か月100時間、(回数6回) 1年については750時間を限度といて延期することができる」は毎年更新の時、前年度の実態はどうだったのか、タイムカード等の提出を求めるなどして調査することができるはずです。しかし36協定の届け出で受理で終わっています。

 もうひとつ36協定をめぐる話がありました。
 日本経団連の会長・副会長を出している16社中13社が80時間を越える協定を締結しているとのことです。会長・副会長を出している大企業に膨大な数の組合員を抱える労働組合があります。その労組がこのような協定を締結しているのです。
 「36協定」 の 「期間が1か月では限度時間45時間」 は 「過労死ライン」です。これを上回る協定を締結している企業はせめて事業場名を公表させる必要があります。

 日本では、時間外労働時間をめぐる基準として労働基準法36条と付随する 「通達」、厚労省が2006年3月に策定した 「過重労働による健康障害防止のための総合対策」、労災認定における認定基準があります。これらはみなばらばらで整合性がありません。なおかつ前記2つには罰則規定が実質的にありません。これでは使用者のやりたい放題です。
 しかも民主党政権になった昨年6月18日付の閣議決定 「『成長戦略』 『元気な日本』 復活のシナリオ~」 には 【2020年までの目標】 として 『年次有給休暇取得率70%、週労働時間60時間以上の雇用者の割合5割減』 とあります。9年後の2020 年にも 「週労働時間60時間」 つまり月間残業時間80時間が存在することが前提の目標となっています。この 「成長戦略」 は労使のリーダー、有識者の参加の下で政労使の合意を得て決定されたという断りがあります。
 過労死問題を巡っては、制度の制定・運用において政労使は共犯者です。職場の労使関係をめぐっては労基署も労働組合も共犯者です。


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満洲移民をしなかった田老地区
2011/07/15(Fri)
7月15日(金)

 宮古市田老地区は、今回の震災時には約4.400人が暮らしていました。日本で一番強固といわれる防潮堤が築かれていました。防潮堤は海寄りと内寄りと二重に張り巡らされ、海面から10、45メートルの高さ、上辺の幅約3メートル、延長2.433メートルで集落を囲み、「田老万里の長城」 と呼ばれていました。
 1933年の昭和三陸津波による町の壊滅的な被害を受けて建設が開始されたものです。

 1896年の明治三陸津波では死者1.859人、流失家屋285戸、漁船流失540隻の被害を出しました。1933年3月3日の昭和三陸津波では、559戸中500戸が流失、被害地人口2.773人中、死者911人、一家全滅が66戸、漁船流失990隻の被害を出しました。
 しかし60年のチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出ましたが、田老地区ではを出しませんでした。
 今回の巨大津波は防潮堤を軽々越えてしまいました。現時点で死者420人、行方不明者170人です。しかしなかったらもっとひどい被害があったと思われます。

 昭和三陸津波の頃は、29年のウォール街の株の暴落をきっかけに始まった世界大恐慌の影響による30年以来の大不況に加えて、31 年の東北・北海道の凶作、32年の不作と続いていました。
 田老村にも満洲への開拓移民の話が持ち上がったといいます。しかし生き残った村民は今度こそ末永く安住できる田老村にするための津波対策を考え、住居の高台への異動と防潮堤の建造を開始します。

 「世界恐慌による糸価の暴落で農業経済は打撃をこうむりました。そうしたなかで、30年代半ばから、養蚕から他の作物への転業がうまくすすんだ村では、移民が少なかったことが検証されています。転業がうまく進まなかった村というのは、平坦な土地が狭く、山がちの地域が多かったのですが、そのような地域では、国や農林省などが1938年から推進する、満州分村移民の募集に積極的に応募する、というよりは、応募させられてしまうのですね。……
 32年ぐらいから試験的な移民は始まっていたのですが、……厳寒の生活は日本人には向いていないのだとの実情が村の人々に語られはじめ、移民に応募する人々は38年ぐらいから減ってしまった。そこで、国や県は、ある村が村ぐるみで満州に移民すれば、これこれの特別助成金、別途助成金を、村の道路整備や産業振興のためにあげますよ、という政策を打ち出します。」 (加藤陽子著 『それでも、日本人は 「戦争」 を選んだ』 朝日出版社)
 31年8月、第63回臨時帝国議会で 「農村経済更生に関する経費」 が予算に追加計上され、疲弊した農村や漁村の救済運動が具体化されます。更生計画を資本金不足などのために十分に推進できない町村に対して、特別に助成金を交付するという制度が設けられました。
 しかし、経済更生村指定に際しては詳細に規定された 「経済更生計画樹立上留意スベキ事項」 が付け加えられており、その最後には 「当該村ノ更生上移住ヲ為スヲ必要トスルモノニ付イテハ移住計画 (内地、朝鮮、満州等) ヲ立ツルコト」 とあります。
 移民政策の推進は、移民をする人の生活維持のためではなく、移民しないで残る人のためにおこなわれました。

 満洲移民は、関東軍の案で20カ年100万戸送出計画を立てていました。
 移民は侵略と略奪の片棒を担ぐものであり、「片手に鍬、片手に武器」 を持って開拓と 「北からの守り」 を兼ねた役割を担っていました。
 45年になると関東軍は住民に極秘に移動を開始します。合わせて政府高官、満鉄社員と家族は日本に戻ります。
 日本の敗戦が濃厚になるとやっと住民は避難を開始しますが同時に 「集団自決」 に至ります。

 田老村の人たちも、満洲に移民していたら同じ 「運命」 に遭遇していたと想定されます。行かなくてよかった。
 行かないで復興に力を注いだからこそ2.773人中、死者911人を出した漁村を、しかも過疎化が続いた地方の中にあって約4.400人が暮らす地区まで立ち直させたのです。

 今、岩手県は宮城県とは違い、すべての漁港の再建を漁協 (漁業協同組合) を中心にして進める方針を立てています。
 先人の英知と努力で守られてきた田老地区を、今度は生き残った者たちが留まって 「地震に負けない」 ために再建し、後世に教訓とともに残していくことでしょう。
 その姿は、たくさんの人たちの希望でもあります。
 そのためにはたくさんの、そして長期に支援が必要です。
 

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