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みたび 『蟹工船』 ?
2011/06/30(Thu)
 6月30日(木)

 農林水産省は、28日、東日本大震災で被害を受けた水産業の復興策として、「水産復興特区」 に民間企業の参入を促す 「水産復興マスタープラン」 を発表しました。現在の漁業法は漁協に漁業権があります。それを変更します。
 宮城県知事はその旗振り役です。現在の漁港を統合して大型化し、小さな漁港は切り捨てるとまで言い切っています。
 構造改革、行政改革によって推進された 「民間主導」 の結果は震災においてどうだったでしょうか。「民間」 の頑張る姿はまったく見えません。残されたのは、役所機能の対応能力不足、病院の受け入れ態勢不足等の 「小さな政府」 です。
 このプランが進行したらどうなるのでしょうか。海と共存してきた “漁村の共同体” が破壊されます。
 漁民と関連事業関係者はどうなるでしょうか。『蟹工船』 になるのではないでしょうか。
 「復興」 利得あさりでしかありません。

 数年前、貧困問題が深刻化する中で、過重労働の実態として小林多喜二の 『蟹工船』 がブームになりました。文学作品としては文章表現、構成ががさつで、ルポとしては漁夫の出身地、前職歴などの記載に精密さを欠く小説です。それでもドキュメントとしては当時の社会状況をうかがい知ることができます。
 1920年代末の北海・カムチャッカ沖の蟹工船での日雇い労働者の話。船は漁場拡大、乱穫を進めてソビエトの海域にもおよびます。それを保護するのが帝国海軍艦艇。
 船に乗せられたら逃亡できないたこ部屋労働。過酷と表現してもまだいい足りない奴隷労働のなかでも漁夫、雑役夫などが団結を広め、船の最高責任者である監督を追い詰めます。しかし時すでに監督は無線で海軍艦艇に鎮圧を要請していました。海軍艦艇が敵か味方か区別がつかなかった労働者は簡単に敗北します。
 鎮圧後、労働者は 「献上品」 の缶詰を製造することになります。そのとき誰かが 「石ころでもいれておけ」 と言います。本当に石の入った缶詰がつくられたのか、「かの人」 に届いたのか。

 多喜二は 『蟹工船』 のノート原稿に 「これは航海が本職でないんだから、船齢無視の老朽船を手に入れる。船齢20年なんて上の部 ((!!)) で、ヒドイのになると、日露戦争の病院船を、ノコノコと引っ張り出しているものもあるそうだ。――何んだってかまわないんだ」 と書いています。日露戦争の病院船とはおそらく笠戸丸のことを言うのでしょう。
 笠戸丸は日露戦争でのロシアの病院船 「カザン」。旅順港に投錨中被弾、港内に着底していたのを日本海軍が接収します。海軍省から東洋汽船が借り受け、極東~南米西岸航路に使用していました。
 笠戸丸はこの時で船齢はたしかに29歳だがそれでは老朽船にはなりません。イギリスの造船所で進水、6000トン以上あるので遠洋航海ができ、病院船はベッド数が多く、大きな人員収容力を持っていました。
 笠戸丸。歴史好きな人なら言われるとそうだと気が付きますが、1908年の第一回ブラジル移民781人を乗せた船です。このことを笠戸丸の名誉のために付け加えます。
 ちなみに多喜二の船は3000トン近くでしかありませんでした。

 『蟹工船』 で見過ごしてならないのは、職を失った労働者や農民が騙され、流されて辿り着いた職場だったということです。故郷は東北や北陸の寒村からが多いです。
 ブラジル移民は、日露戦争後の帰還兵の失業対策と南米移民の先兵とした国策でした。関東大震災の後には、政府は罹災者救済として補助金を与えて移民として送り出しました。
 『蟹工船』 の後、33年から、政府は満州移民計画大綱を発表し、“余剰労働者” は満州への移民となりました。

 今回のプランが進行したら、海と漁村を資本の理論が席巻します。資本は海と共存しません。その指揮下に漁民と関連企業労働者は置かれます。横の人間関係が崩され、縦の関係に再編されます。
 その姿は、時代は違いますが 『蟹工船』 の労働者と重なります。拒否したら故郷を離れなければならなくなります。移民としての追い出しです。

 復興とは、経済がはじき出す数字ではありません。
 繰り返しになりますが、女川町出身の俳優中村雅俊は、地元の商工会議所の仲間と 「小さいけど ピカピカ光る女川をつくろう」 と立ち上がっています。
 漁民は、守るべき宝物= “共同体” を維持しながら、自分たちで再興する知恵と力、そして“希望”、“夢“ を持っています。足りないものをサポートするのが本物の支援です。
 それを否定する権利は誰も持っていません。


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炭鉱労働者の喜怒哀楽
2011/06/28(Tue)
6月28日(火)

 福岡・筑豊炭鉱の労働者だった山本作兵衛(1892年~1984年)さんが描いた600点近くの炭坑画や原稿などがユネスコの世界記憶遺産に登録されました。
 山本さんは63歳まで坑夫として働いていました。その後本格的に描き始めたといいます。対象は明治、大正時代の炭坑労働や機械・工具、出来事、行事・お祭りなどや生活の様子、口承伝承など様々。まさしく炭坑文化の記録です。
 絵は『山本作兵衛追追悼録 オロシ底から吹いてくる風は』(葦書房)などに収められています。
 絵には説明文が付いています。例えば、掘った石炭をトロッコで運ぶ作業場面には「明治 スラを曳く后山(アトヤマ)も傾斜(バンガヤリ)廿度近くになるとウケて下る 石炭を二百キロ三百斤以上積む 頭でウケ手で梶 足は一歩づゝコロを踏んで下がる 足を踏み外すと大変で共同カイロだから他人にもケガさせる 途中は狭くてヨケ場もない」とあります。
 撰炭作業の場面では「大正の初めには中小ヤマにも撰炭機が登場し中塊も水洗機にかけた。其后粉炭も水洗して遠賀川の清流までまっ黒に染めた それでも大塊の必要もあるので撰炭夫(婦)の姿は消えず。塊炭を流す鉄板ベルト式はヨロイと言うていたがバンドとも云う。ながさ10メートル内外で巾1.2メートル位あって、40センチ位の鉄板が重なって走る如くに見える 速度は人の歩行位である 両方に炭 中の区切りに撰ったボタを流す 二号炭は足もとの板ばりに一じ置く」とあります。

 『本』には、沢山の方が絵にまつわるエピソードを寄せています。
 「『7つ8つからカンテラ下げて……』作兵衛さんの唄声が今も聞こえて来そうです。その通りの人生を歩き、今の子ども達からすれば地獄としか言いようのない生活を強いられて、それでも尚そこからはい上ろうとして努力した精神力。
 そして誰も語ることのなかった暗闇に沈んだ地底の生活を、どうしても書き残しておきたいとかりたてたエネルギーは、作兵衛さんのみならず、多くの同じような運命を共有した仲間の叫び、うめきであったような気がします。」(元三池労組書記)
 「蔵内峰地炭坑で米騒動がおこったのは8月17日、三菱方城、貝島、三菱鯰田、古河目尾、日鉄二瀬、麻生上三尾炭鉱へと次々に広がり、9月17日、明治炭鉱で筑豊の米騒動は静まった。
 作兵衛はその頃、麻生山内炭鉱の機会工場で働いていた。そのときの坑夫の悲惨な情況は『炭鉱に生きる』に次のように記されている。『A系統のヤマは、坑外の固定日給者の場合ですら勤労者の一番疲労する夏季、ほとんど十二時間勤務で約半年は日が永いとて使用しており、冬季だけ二か月十時間位で、平均すれば十一時間働かせておった。その上給料は日本一低給であったのである』と。……
 『前途は真っ暗闇、なんとも心細い限りでありました。ですから、豊前の峰地炭鉱に暴動がおこったということを新聞で知ったときには、とうとうやったかと痛快に思ったものです』とも言っている。
 正直なところ、峰地炭鉱の米騒動を知って痛快に思って感激したのは、一人作兵衛だけではあるまい。
 ……ダイナマイト一発で、山内炭鉱の待遇が改善されたことで、その威力に感心したという。
 上三緒炭鉱のダイナマイト事件は八月三十一日、その翌日、作兵衛翁の兄山本五郎さんが警察に逮捕され、治安維持法違反で懲役二カ月、執行猶予三年の刑をうけた。ところが、それを知った他のヤマの坑夫たちが同情して、競って差し入れを始め、福岡の未決監を出たときは栄養がつきすぎて丸々と太っていたといって作兵衛は語るのであった。」(作家林えいだい)

 作家の上野英信さんは『地の底の笑い話』(岩波新書)に山本さんの絵を盛り込んでいます。文と絵が一体になっています。
 「テボという竹籠を背にして石炭を運びだす労働についてである。私はやがてこのテボからいの坑夫たちが膝の関節をやられ、つづいて心臓をやられて廃人同様になってゆくことの恐怖について書いた。ところがこれに対して現場の労働者たちは、「苦しいということばかり書いてあって、嬉しいことはちっとも書かなかったのはどういうわけだ」と批判してきた。……だが、彼らが熱心に説明してくれたところによれば、テボを背負って急傾斜の坑道を全速力で一気に駆け上がり、また駆けおりる間だけは、係員も会社もくそもない。押しのけ撥ねとばして突進する。たしかに一番苦しい恐ろしい仕事であるが、同時に一番愉快な瞬間でもある。そこのところを書いてくれなければ、俺たちの労働を書いたことにならではないかというわけである。」
 坑夫たちは肉体的にきつい労働においても、精神的な楽しみ方を知っていました。

 山本さんの絵の中には「ケツワリ」をテーマにしたものも多くあります。
 「ケツワリとは逃亡・脱走の意であり、動詞としてはケツをワルというふうに用いられている。ケツワリ坑夫といえば脱走坑夫のことになる。よく尻割りという感じが宛てられるけれど、これはバケツを馬穴と書くのとおなじく、まったくの宛字にすぎない。もともと脱走を意味する朝鮮語の「ケッチョガリ」の転訛であることは明らかだ。係員のことをヤンバンといったり、飯をくえというところをパンモグラといったり、炭坑で日常用語と化した朝鮮語がすこぶる多いが、これはすでに明治時代からかなり多くの朝鮮人移民が炭鉱に流れこんできているためである。たとえそれが不幸な出会いであるにせよ、地の底における日本人と朝鮮人との結びつきは歴史的に深い。そしていつとなくキリハの暗闇に根をおろした朝鮮語は、それぞれにもっとも過酷な運命を背負った者たちが先山となり後山となって働くなかで、なによりもそれが必要だったからである。恐ろしいやつがきたといえばヤンバン、もうふらふらで動けないといえばパンモグラ、殺されそうだといえばケッチョガリと、民族をこえ国境をこえて労働者の生活と直接的な関係のある言葉だけが、共通の呻きとなって、一つ、また一つと、互いの肉体にしみこんでゆく。都会のインテリが自己の優越を誇示しエリート意識を満足させるために、むやみやたらに外国語を使うとは根本的にちがうのだ。」
 このように見てくると、以前書いた「炭鉱で爆発事故があっても、炭鉱労働者は『ヤマがあるかぎりヤマで働きたい』……。石炭産業がどんなに不安定な産業であったとしても、なおひきつけるものがここにはある。……早くヤマに見切りをつけたいという声は意外にもまったくなかった。その理由として彼らがあげたものを整理すれば、稼ぎがいい、暮らしやすい、人間関係がいい、の3点になるだろう。」が理解できる気持ちになります。

 炭鉱は国の政策として閉山させられ、労働者は職場を追われました。代わりに石油エネルギー、そして原子力を登場させました。石炭を知らない世代も登場しています。同時に強制連行の事実も過去に追いやられようとしています。山本さんの絵はそのことを忘れてはならないと訴えてもいます。
 その原子力が事故を起こしました。無理に推し進められた政策は結局無理をきたしました。


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「山死して 国栄え  山死して 村滅ぶ」
2011/06/23(Thu)
 6月23日(木)

 6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。
 66年前のこの日、20万人以上の死者を出して沖縄での集団的戦闘は終わりました。
 3月26日に沖縄・慶良間諸島への米軍の上陸で始まった3か月間近くのいわゆる沖縄戦は、第二次世界大戦のなかではどのように位置づけられるのでしょうか。
 沖縄戦と他との違いにいわゆる「集団自決」があります。
 渡嘉敷島の「集団自決」で母親と弟、妹に手をかけた当時16歳の金城重明さんから話を伺ったことがあります。
 「人間は死の恐怖に直面したとき“生きたい”という生への本能的欲望が強烈に働きます。しかし、生がより恐ろしい容貌を帯びてくるとき、死に救いを求めます。」「混乱と絶望の中にも、幼い者・女性・老人など、自らは死ねない弱い者、幼い者の命を先に処理してから男たちは死んで行く。……愛する者を放置しておくということは、彼らを、最も恐れていた『鬼畜米英』の手に委ねて惨殺させることを意味していたからです。」
 愛する者を、愛する故に殺したのです。
 「集団自決」の内実は、このように教え込まれた皇民化教育と皇軍つまり日本軍の圧力による集団死で、自発的死ではありません。国が国民を殺したのです。

 大江健三郎著「沖縄ノート」(岩波新書)の「集団自決」記述を巡って裁判が起こされました。日本軍指揮官の遺族は自決を強いたとする記載で名誉を傷つけられたと主張しました。今年4月21日、最高裁第一小法廷は遺族の訴えを退け、大江側の勝訴が確定しました。
 確かに直接的に命令は下していません。むしろ、同じように「集団自決」が起きた満州でもそうですが、軍隊は住民よりひと足もふた足も早く逃走しています。「軍隊は住民を守らなかった」のです。
 だからといって関与していなかったということではありません。

 沖縄は“捨て石”でした。沖縄が一日戦争を延ばせば、本土決戦が一日延びる、このような作戦が実行されました。
 その後も沖縄は「やまと」から捨てられました。復帰後は米軍基地が集中させられました。
 犠牲を強いられ続ける沖縄。今盛んに叫ばれている「日本は一つ」には違和感があります。そのスローガンには怖さがあります。

 「軍隊は住民を守らなかった」島に辺野古基地建設計画があります。“捨てられても”戦火をくぐって命だけは助かり、海を生活の糧にしてきた住民から海を取り上げる計画に反対運動が続くのは当然のことです。
 普天間基地は「撤去」が決定されているのであって「移設」が決定されたのではありません。
 20年前、『朝日歌壇』に載った短歌です。

    沖縄に生れしものに 戦前も戦後もなかり 時計草咲く

 今の状況もそのままです。

 20年前、沖縄本島中部に位置する恩納村に米軍が都市型戦闘訓練施設を建設しようとした時、喜瀬武原区民と安富祖区民は反対運動を展開しました。

  「山は心のささえ
   山死なば 村も死す
   山死なば 我が身諸共
   我が身死すとも 山守れ
   我心の富士 恩納岳
   山青き 水清き
   心のふるさと 恩納岳
   見殺すな 恩納岳
   戦世の思い 忘れるな
   山死して 国栄え
   山死して 村滅ぶ
   許すまじ 国の横暴」

 団結小屋のむしろに墨で大書きして吊るしてありました。

 今、原子力発電所被害を見ていると
  「山死して 国栄え
   山死して 村滅ぶ」
が重なります。経済成長のために、この後も「村滅ぶ」が続くことを認めろというのでしょうか。
 
 沖縄戦を生き延びてきた住民の思い「命どぅ宝」(命こそ宝)は、今回、築き上げた財産を一瞬にして奪われた地震・津波の被災者のものにもなっています。
 一番に大切にしたいものです。


   
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労働者が忘れかけているもの
2011/06/21(Tue)
 6月21日(火)

 19日、東日本大震災の被災地・三陸海岸に炊き出しのボランティアに行ってきました。
 復興計画の目途が立っていない、がれき撤去も進んでいない被災地にある高台の120人が住む避難所と隣接する50戸の仮設住宅は陸の孤島です。
 “住民”には笑顔がありました。沈んでいません。沈んでいられません。
 1960年5月23日のチリ地震津波に遭遇し、今回は津波に追いかけられても逃げおおせたというおばあちゃんと話をしました。「神戸は阪神大震災に襲われたけど16年後は立派に立ち直っています。三陸は16年は無理でも20年後は立派になっているからそれまで長生きしなくてはね」というと頷いてくれました。

 報道機関などでよく東北の被災地の人たちは”辛抱強い”と言われます。なぜそうなのでしょうか。
 辛抱は、個人でするか共同体でするかでちがいます。「遠くの親戚よりも近くの他人」という諺があります。遠くにしか見えない総理大臣や知事より近所の人たちの方が頼りになります。実際に助け合っています。“絆”です。

 5月24日付の『毎日新聞』に「『海女文化』を世界遺産に」(石原義剛 「海の博物館」館長)の見出し記事が載りました。
 「アワビ、サザエ、海藻などはいつも乱獲の可能性がある。過去には水中メガネとウェットスーツを海女が使い出した時、乱獲が起こった。そこで資源を枯渇させないために穀長や漁獲期間、潜水時間の制限を厳しくして、持続的な漁獲資源の維持にあたってきたのだ。
 海女は競争心は強いが、相手を傷つけてまで優劣を求めたり、仲間割れしたりはしない。海女が集まると荒っぽい声も飛び交うが、後には大きな笑いの渦に巻き込まれる。陰気なけんかの世界とは無縁である。天真らんまん、人間本性の純粋さを今も失っていない。海女とはいうが、海女「業」とは言わない。職業とは違うからだ。彼女たちは四季の海で働きながら、子らを育て、共同体を男とともに築き、現代社会にのみ込まれることなく、海の自然とともに生きるたくましい母の群像だ。」
 今、宮城県知事は漁業の復興に向けて大きな資本を導入しようとしています。しかしこの構想は、漁民の意気込みとは違う、「蟹工船」の再来をもたらします。
 女だけでなく男も語っています。
 「海は儲かるときもあるけど儲からない時もある。だから面白い」海と共存する姿です。そこには利己的な個人は存在しません。だから楽なのです。

 農村の話です。
 大正初期から戦後まで入会権の紛争に捲き込まれた岩手県二戸郡小繋(こつなぎ)村の農民たちの生き様が戒能通孝著『小繋事件』(岩波新書)で紹介されています。
 利権者を名乗る者が現れ、突然山への立ち入りを禁止された農民のなかには、いっそのこと山に火を付けようという意見も出てきます。しかしそのようなことはしません。
 「人間は山の主人公だが、山は人間の主人ではない。利権者は山に使われたが小繋部落の人々は山には使われず山を使っていたし、またいるのである。」
 戦後になってからの裁判所の調停において、調停委員の1人だった岩手県の「農民知事」は「百姓に山を預けるとすぐ坊主にしてしまう、それより大きな事業家に任せた方がよいだろう」と公言しました。
 さらに入会権を主張する農民を警察官が襲います。「入会権がなくなり、生活が苦しいというのなら、山に入らずに生活保護に頼ったらよい」という意見も一部から出されました。しかし「生活保護を受けて暮らすより働いて食べる方がよいことだと考える勤労的農民大衆には通じなかった。」と言います。
 そして闘争終結後は賛成派も反対派も統一して桑畑を開き、かつては不毛の地であった小繋山の山裾を協力して開墾していったといいます。
 百姓は山を坊主にしませんでした。共同で生活の糧にしました。

 今度はヤマの話です。
 鉱山・炭鉱で働く労働者は互助組織「友子制度」を作りました。ヨロケ(じん肺)やケガによる廃疾者が出た場合は、全国の各鉱山で共済しようと奉願帳を回したりしました。
 この制度を最初に作ったのは、江戸時代の秋田・阿仁鉱山の坑夫たちです。
 そのような人間関係の伝統を受け継いだ炭鉱での状況が後藤正治著『はたらく若者たち1979~81』(岩波現代文庫)で紹介されています。
 「炭鉱で爆発事故があっても、炭鉱労働者は『ヤマがあるかぎりヤマで働きたい』……。石炭産業がどんなに不安定な産業であったとしても、なおひきつけるものがここにはある。……早くヤマに見切りをつけたいという声は意外にもまったくなかった。その理由として彼らがあげたものを整理すれば、稼ぎがいい、暮らしやすい、人間関係がいい、の3点になるだろう。」

 東北地方は、かつては7年おきに冷害が襲いました。最近は台風が上陸します。猫の目農政、切り捨て農政が続いています。
 それでもそこを離れなかった人たちが今回被災しました。しかし立ち止まっていません。
 女川町出身の俳優中村雅俊は、地元の商工会議所の仲間と「小さいけど ピカピカ光る女川をつくろう」と立ち上がりました。

 そこには現在の労働現場を見た時に、労働者が忘れかけていること、失ってしまったものがあります。
 稼ぎがいい、暮らしやすい、人間関係がいい。このような中で生活する人たちを、逆に羨ましく思います。


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職場環境の悪化を物語る「精神障害等に係る労災補償状況」
2011/06/17(Fri)
6月17日(金)

 14日、厚生労働省は2010年度の「脳・心臓疾患及び精神障害等に係る労災補償状況」を発表しました。
 「精神障害等に係る労災補償状況」についてみてみます。
 請求件数は前年度比45件増の1.181件でしたが決定件数は209件増の1.061件でした。09年は請求件数が前年度と比べて209件増えていました。
 決定件数における支給決定件数は74件増の308件(31%増)です。認定率は2006年33.8%、07年33.0%、08年31.2%、09年27.5%、10年29.0%です。06年と比べると4.8%低くなっています。
 業種別支給決定件数の前年度比較は、教育・学習活動4件が11件(275%増)、情報通信業12件が22件(100%増)、医療・福祉21件が41件(95%増)、運輸業・郵便業23件から33件(43%増)、製造業43件が50件(16%増)です。上位3業種は正規労働者が長時間労働になっています。
 職種別支給決定件数の前年度比較は、サービス職業従事者14件が35(250%増)件、事務従事者40件が61件(52%増)、販売従事者32件が44件(37%増)、専門的・技術的職業従事者65件が73件(12%増)です。
 年齢別支給決定件数の前年度比較は、50代38件が54件(42%増)、20代55件が74件(35%増)、40代57件が76件(33%増)、30代75件が88件(17%増)です。20代の決定件数のうち自殺によるもの8件が16件に急増しています。
 2007年度から、1か月平均の時間外労働時間別での支給決定件数が発表されています。
 時間区分では、20時間未満16件が56件、20時間以上40時間未満6件が13件、40時間以上60時間未満5件が18件、60時間以上80時間未満8件が11件、80時間以上100時間未満12件が27件と短時間での決定が激増しています。100時間未満の合計は115件で、100時間以上は100件です。
 2009年度から、精神障害等の出来事別決定件数が発表されています。多い順では、「仕事内容・仕事量の大きな変化を生じさせる出来事があった」(心理的負荷強度Ⅱ)55件が41件、「ひどい嫌がらせ、いじめ、又は暴行を受けた」(Ⅲ)16件が39件、「悲惨な事故や災害の体験(目撃)をした」(Ⅱ)37件が32件、「勤務・拘束時間が長時間化する出来事が生じた」(Ⅱ)25件が25件、「上司とトラブルがあった」(Ⅱ)17件、「重度の病気やケガをした」(Ⅲ)16件が16件となっています。
 この中から時間外労働時間には関係ない職場のストレスの状況が浮かび上がってきます。また心理的負荷強度Ⅱが支給決定になっているということは、「出来事」の中味が悪質になっているか複数あって総合判断が行われたということです。

 もうひとつ、都道府県ごとの決定件数を見てみます。
 急激に増えたのが北海道、06年10件、07年10件、08年17件、09年11件が10年には28件になっています。同じく茨城は3件、2件、6件、3件が13件になっています。
 不可思議な県があります。愛知県は7件、6件、10件、14件、5件です。
 10年度の決定件数のうちの支給決定件数を比べてみると、北海道58件が28件(48%)、埼玉25件が5 件(20%)、千葉43件が15件(34%)、東京185件が40件(21%)、神奈川82件が19件(23%)、京都42件が12件(28%)、大阪135件が21件(15%)、広島29件が5件(17%)、福岡23県が8件(34%)です。全国平均は29.0%です。そのなかで愛知は70件が5件(7%)です。
 これは偶然でしょうか。

 「判断指針」ができた当初とは状況が大きく変わっています。現在進んでいる改定検討会に積極的発言をし、よりよい報告書を出させなければなりません。
 1か月平均の時間外労働時間が60時間でも80時間でも、長時間労働を強いている会社の労災申請を受理したら、労働基準監督署は縦割り行政などと言い訳しないで、36協定の確認と、時間短縮に向けた是正勧告をすべきです。そうすると過労死は減少に向かいます。

   
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