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「こうしていじめを減らそうという労使の努力項目を」
2011/03/30(Wed)
3月30日(水)

 3月28日、いじめ メンタルヘルス労働者支援センターと全国労働安全衛生センター連絡会議メンタルヘルス・ハラスメント対策局は厚生労働省と交渉を行いました。
 事前に提出していた事項は、
 1 いわゆる「新たな枠組み」について
 2 職場のいじめ、いやがらせ(パワーハラスメント)を防止する施策への早急な着手について
 3 いじめやメンタルヘルスの労働者向けの相談窓口について
 4 労働基準監督署の対応について
 5 「精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会」における山口発言ついて
です。

 1 は、昨年12月22日に労働政策審議会安全衛生分科会が提出した「今後の職場における安全衛生対策について」の建議についてです。
 その中の「職場におけるメンタルヘルス対策の推進」に「医師が労働者のストレスに関連する症状・不調を確認し、その結果を受けた労働者が事業者に対し医師による面接の申し出を行った場合には、現行の長時間労働者に対する医師による面接指導制度と同様に、事業者が医師による面接指導及び医師からの意見聴取等を行うことを事業者の義務とする」という「新たな枠組み」がありました。
 厚労省は自殺防止対策を含めての一次予防として、労働者にストレスの“きずき”を促す方法で職場環境改善の第一歩だと説明しました。
 果たしてその効果はいい方向に出てくるでしょうか。労働者は“きずかされ”ても、会社に面接指導を要請することがリストラに繋がると思ったら行いません。だから労働安全衛生総合研究所の長時間労働者に対する医師の面接指導制度の調査でも申し出はかなり低率だったのです。このような現実的問題を政策審議会も厚労省も理解していません。ましてや労働安全衛生法の改正案に盛り込むなどということは時期尚早です。まずはもっと関係諸団体の意見聴取を行うべきです。

2 については、対策のために来年度の予算化されたので、4月1日以降の早くに議論の場を設定することで準備しているとの回答でした。それが審議会か勉強会になるかはわからないが、現場で携わっている人たちの話を聞くようにしたいとのことでした。
 参加者からは、禁止項目羅列だけのガイドラインではなく、こうしていじめを減らそうという労使の努力項目を作成してはどうかとの提案がありました。

3 は、事業主や管理者向けに都道府県ごとにメンタルヘルス対策支援センターが設けられたように、労働者のための同種センターを作れと要求しました。
 残念ながら現在は、労働者が相談できる期間がありません。労働者が利用できる、しやすい、そして機能する機関が早急に必要です。

4 については、現在、労働基準監督署がどのように機能しているかの具体例を挙げてあげて改善を求めました。実際に監督官が削減され、そのために機能できていないことは理解することもできます。しかしそのなかで労働者の切実な問題が解決されないという事態が生まれています。
 たとえば、監督官が裁判を起こせと助言することがありますが、それは諦めろということに同じです。また未払い賃金の問題は早急な対応がないと、例えば非正規労働者の場合は、請求に時間をかけるよりも働いて収入を得なければならない状況に置かれています。
 未払い賃金相談についての専門窓口の設定を要求しました。
 人員削減が行われていることについては組織の効率化で対応したいという回答がありました。しかしそれでは間に合いません。

5 は、第3回の検討会での山口浩一郎委員の発言です。
 以前報告したメモをもう一度再録します。山口委員は確かに「地方公務員の判断指針は緩くできている。なぜなら地方公務員は残業しないから、5時で帰るから、該当者がいないから基準が緩くてもいいんだ」と発言をしました。それを受けて織委員は、「長時間労働でも週休2日ならば個人的自由があるということでふるい落とすことができる」と発言しました。
 現在の基準にはそもそも根拠がなく、ふるい落とすことだけを考えているのです。
 このような委員たちに基準云々の検討をしてほしくありません。
 この発言が議事録から消えています。誰の判断なのでしょうか。
 厚労省は、明らかに言い間違いと思われる言葉などは訂正したり、発言をわかりやすく修正することがあると説明しました。
 しかし山口発言は、そのようなものではありません。誰が消すことを指示したのかとの質問にも答えられませんでした。
 録音テープを保存することを要求し、今後改めて要請することを通告してその場は終了しました。

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災害派遣とPTSD
2011/03/24(Thu)
3月24日 (木)

 精神医療と心理学の研究は戦時に推進され、利用されました。特に第一次世界大戦中の発展はすさまじいものがありました。兵士の鼓舞、相定外の体調不良兵士の続出への対応、組織統制、軍需産業の生産性向上、国民の精神昂揚などのためです。
 戦時中ではなく、研究が進められた契機があります。戦争の後遺症への対応です。ドイツにおけるナチスのアウシェビッツ投獄者の治療、アメリカのベトナム帰還兵の生活破綻への対応などにおいてです。
 日本でも戦争被害への対応要求はありました。
 被爆者は、家族や友人を失い、家や職場を焼かれ、みずからも傷つきました。生活が少しは安定しても、恐怖の記憶は消すことができず、健康不安とともに心には大きな傷を負ったままでした。医学的には解明されない後遺症の疲れやすい、精神的作業が苦痛、忘れっぽい、めまい、精神不安定、頭痛などは外見からはわからない症状で 「ぶらぶら病」 とよばれ、周辺の者は怠けていると文句を言いました。
 職場の労働者は 「ぶらぶらさせているのは原爆のせいだ」 と仲間のために声を上げました。なかでも国鉄労働組合は当局と交渉し、被爆者の傷病やけがを業務上の公傷とおなじ扱いにさせ、原爆医療法による治療に必要な時間を特別休暇とさせるなどの取組みを他より早くに行いました。
 敗戦後10年が経った頃被爆者団体協議会の伊東荘やユンク、R・J・リフトンらは、原爆によって被爆者の心は著しい傷害を受け、通常の心理とは異なってしまっている点を指摘しました。しかし解決課題として取り上げられることはありませんでした。
 
 岩手県の農村の 「戦争未亡人たち」 の生きてきた記録である 『あの人は帰ってこなかった』 (1964年刊 岩波新書) には次のような証言があります。
「オレは思うマス。役場でもいいし、警察でもいいから、未亡人の人達、いつでも何もいわれることなど無く、どんな相談にものってくれる人を定めておいてほしいもんだ、とナス。そしてその人には何相談しても、誰も笑ったり、指ささしたりしないことだ、とナス。」
 働き頭の戦死、経済的困窮、子育て、舅・姑との関係、女性の1人暮らしへのからかいなど生活は悲惨を極めました。その一方 「靖国の家」 と監視されました。多くの人はこの箇所を見過ごしたと思われます。
 被爆者や空襲によるPTSDが問題にされ始めたのはやっと数年前からです。
 日本のこのような戦争被害の放置は、戦後補償の放置と同じ理由です

 震災などによる災害ストレス・PTSDが問題として取り上げられるようになったのは阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件以降の時からです。
 震災復興に携わった消防士や看護師などの業務上ストレスや健康状態は問題にされてきませんでした。取り上げられたのはここ5年ほど前からです。さらに地域が限定されています。そこには切実な問題が存在します。ボランティアや職場からの派遣支援で現地に駆けつけた者たちにも同じ問題が生じます。

 通常では経験することのない恐怖に直面すると後遺症にさいなまれ、精神的回復は簡単ではありません。その対応策を、被爆体験とその支援から探ってみます。
 『戦争と民衆 戦争体験を問い直す』 (旬報社刊) に収録されている直野章子論文 「原爆体験」 を紹介します。
「トラウマの生存者は、過去の記憶と共に生きているのではない。終わることのない、完了することがない <出来事> と共にあるのだ。生存者にとってその <出来事> は今も続いている。トラウマは、あらゆる意味で現在進行形のものなのだ。」
「トラウマは、発せられた言葉だけでなく、語られた越えた領域――沈黙――に耳を澄ますことを私たちに迫る。もし、生存者を痛みから解き放ち共に生きようとするのであれば。
 ホロコースト生存者の語りと沈黙を聞いてきたD・ローブは、体験者が 『証言者』 としてトラウマから旅立つためには、『真摯に耳を傾ける聴き手が、証言者が語りかける相手』 が必要だと強調する。『証言は独り言ではない。それは孤独のなかでは生まれてこない。生き残った者は誰かに語りかけているのだ。長い間待ち続けた誰かに』
 ……トラウマから回復するには、他者の存在が重要だと指摘する。
 心的外傷の体験の中核は何であろうか。それは、無力化 (disempowerment) と他者からの離断 (disconnection) である。だからこそ、回復の基礎はその後を生きる者に有力化 (empowerment) を行い、他者との新しい結びつきを創る (creation of connections) ことにある。回復は人間関係の網の目を背景にしてはじめて起こり、孤立状態においては起こらない。生存者は心的外傷体験によって損なわれ歪められた心的能力を他の人との関係が新しく蘇るなかで創り直すものである。」
 人格の回復、人間としての尊厳の獲得、そのことを実感できる状況の実現です。

 証言活動をしている被爆者がいます。
「『原爆被害者証言の集い』 はカウンセラーの組織と密接なつながりがあることから、証言には心理療法的な意義が付与されてきた。生存者自身はそのことを意識していなかったかもしれないが、医療ケースワーカーやソーシャルワーカーたちは、多くの生存者が後悔、孤独感、恐れ、悲しみ、罪責感、憤り/恨みといった要素が複雑に入り乱れた感情とともに生きていることを頻繁に述べている。ある者は、子どもたちや家族を失ったことで自分自身を責め、ある者は級友、生徒、部下の死に対して責任を感じ続けている。また別の者は、あの短い瞬間の記憶、他人を犠牲にして自分が生き残ってしまったその短い瞬間の記憶にさいなまれて生きつづけている。さらに、多くのものは放射能とその後の障害という拭い去ることのできない不安感のなかで生きている。被爆者が財政的負担や、雇用、結婚、その他の状況での差別、そしてまた原爆後に経験した別の数え切れないほどの困難に苦しんでいたことを考慮すれば、生存者の多くは生き残ったことがはたして幸せだったのかとさえ疑ってきた。
 ソーシャルワーカーをはじめとするカウンセラーたちは、こういった日々の問題に直面していた生存者にとって証言活動に心理療法の効果があると結論づけていた。カウンセラーたちが望んだのは、語りという形での想起/回想を通じて生存者が自身の矛盾した考えや感情をつなぎあわせ、そこに意味のある秩序を見つけ出すことができるのではないかということである。」 (米山リサ著 『広島 記憶のポリティクス』 岩波書店刊)
 人は、他者に話しかけることで共感者を獲得し、安心感を得て自分自身を回復することができます。

 ボランティアで、職場からの派遣支援で、親戚や知人を探してなどたくさんの人たちが被災現地に馳せ参じ、惨状を目撃しました。福島原発事故に対しては東電社員や関連社員、消防士などが現場で対応に当たりました。彼らは異常事態に、生死を分けるような緊急事態に対応しました。時には自分の判断が大きな結果もたらすことを踏まえて決断をしました。そのようななかで踏みとどまって活動を続けました。
 対応の全部を自分の責務と捉え、頑張りすぎて燃え尽きてしまうことがあります。悲惨な状況が続くのは自分の頑張りが足りないからだととらえています。
 彼らが戻った時は、まずは温かいところでゆっくりと休ませることが必要です。自分自身を異常事態から少しずつ平時のリズムにあわせた生活に慣れさせ、安心を取り戻させることが必要です。こころの整理には相当の時間が必要です。
 異常事態体験の報告書(復命書)を通常のフォーマットで作成させることは感情を無視することです。まず怖かったこと、苦しかったこと、辛かったことなどを感じたままに、感情を抑えないで語る場を保証することが必要です。そして成功したこと、うまくいかなかったことを聞きながら労をねぎらうことが必要です。うまくいかなかったことがあったとしても、それしかないベスト判断だったはずだと評価することが必要です。
 労働社会学者の熊沢誠は 『格差社会ニッポンで働くということ』 (岩波書店) で、「犯罪と言うものはどんな場合でもすべて社会科学で説明できるものではありません。しかし、思い上がりかもしれませんが、心理学よりも労働問題研究の方がもっと犯罪を理解できるのではないかと私は自負します。若者に限らず、およそ犯罪の動機の下半身は、現代日本の労働の深刻な状況に侵されているかに見えます。」
 地震も原発事故も “科学的には説明できない” ことが起こました。“心のケア” も専門家の範疇を超えたことが起きています。

 爆笑問題の太田光は 「何もできないと思うことは、思うことで支援をしている」 と言っていました。 “心のケア” は、寄り添うことから始まります。そこに集まった大きな力こそ何よりも大きな解決力です。

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弔い
2011/03/22(Tue)
3月22日(火)

 目の前で家族・知人が津波に連れ去られて行くのを助けられなかった。身体が不自由な家族を置き去りにした。他人をかき分けて逃げたら、自分だけが助かっていた。職務分担の決定が同僚を海に近い部署に就かせてしまっていた。
 このような思いから、自分を責め続けたり無力感に陥っている被災者がいます。
 早稲田大学競走部には福島県出身の選手が2人います。2人とも 「部員日誌」 を書きました。1人は現地から聞いた情報を報告しています。
 もう1人は翌日に家族の無事を確認できてほっとし、一安心したと書いています。そのあとに原発被害のため避難するとの連絡があったということです。
 彼は 「多くの被災者の方々の不幸を知りつつも自分の家族だけの無事だけを喜び、少なからず安心している自分に罪悪感・後ろめたさを感じています」 と書いています。
 
 人は、人との繋がりの中で生きています。名前も知らないたくさんの人とも繋がっています。その誰1人をも失いたくありません。
 だから引き裂かれることを目の前で強制された時、偶然の判断によって最悪の結果がもたらされた時も、テレビに映される光景を見ても、「失わせてしまった」 の意識が支配し、自己を責めます。
 誰にも1つしかない、蘇ることのない 「命」 が奪われたからです。
 しかし、偶然であれ助かった 「命」 も代りのない大切な 「命」 です。だからこそその 「命」 は大切にされなければなりません。その 「命」 で、亡くなった者にいつか 「謝ろう」 という思いを抱き続けましょう。抱き続けることは忘れないということです。亡くなった者が抱いていた夢を、だからこそ果たせなかった無念を受け継ぐことが出来るのです。喜怒哀楽を共にした、「命」 ある者にしかできません。それを弔うといいます。
 生き延びた者の 「生」 を喜ぶのは自然のことです。身近な人をならなおさらです。苦しんでいる人がいる一方での喜び、それは関係性の距離が違うのです。逆に、喜びを確認できても喜べないとしたら、すべてが悲しいことになってしまいます。喜べるからこそ、遠くの人に対しても本心から悲しむこともできるのです。

 1945年8月6日の広島から生き延びた倉知和明の詩です。

       『黙祷』

    碑のまえで
    目蓋をかたく閉じた祈りは
    やがて 歩きはじめます
    一つの言葉を抱いて
    一つの希いを背負って
    とおい道を歩きはじめます
    かつて閃光を浴びて悶死した街をあとに
    歩きはじめます
    人々の心の扉を叩きながら
    人々の瞳の窓をみつめながら
    たった一つの希いで手をとり合いながら
    たった一つの祈りで励まし合いながら
    歩きはじめる わたしたち
    あなたのあし音のすぐ隣りに
    わたしのあし音があり
    わたしの言葉の上に
    あなたの声が重なり合って
    平和
    心を寄せ合った一つの祈りを
    両手にかざして歩きます
    呟やきは死んだ人の名を呼んで
    指先は強ばった皮膚を温め合って
    明日にむかって歩き続ける
    あし音は
    わたしとあなた
    世界の人よ
    科学が人間を虐げることのないように
    にんげんが にんげんを
    追い払うことのないように
    わたしたちは歩きます
    朝から欺かれる一日に
    出会ったとしても
    わたしたちの無言の約束は
    一日を刻み続けて
    一つの祈りを彫り続けて 歩きます
    百万屯の兵器で国境が守られることよりも
    たった一つの言葉を 信じ合えること
    軍服を記章で飾ることよりも
    信じ合える言葉を 磨きあげること
    そのことが あし音のなかの
    わたしの希いです
    わたしたちの祈りです

 1954年3月1日、アメリカがマーシャル群島ビキニ環礁で行った水爆実験で静岡県焼津港のマグロ船第五福竜丸が死の灰をあびて帰港しました。それを契機に原子力兵器の製造・使用・実験の禁止を求める署名運動が展開されていきます。
 東京・杉並区では鮮魚店連合が展開していた水爆禁止の署名運動をヒントに 「杉並アピール」 が発表されました。署名数は、8月に広島と長崎で開催された原水爆禁止世界大会までに900万筆に達しました。
 この時、焼津港と似た漁港を持つ、今回の震災で今も多くの行方不明者がいる石巻市は地域を挙げて取り組みました。船主は資金を出し、製紙工場は紙を拠出し、地方新聞社石巻日日新聞は文書作成と印刷を担当し、市民は市内の隅々にまで署名用紙を持ってまわりました。世界から称賛されました。
 今回この地域の震災による犠牲はあまりにも大きすぎるものがあります。しかしかつて世界から称賛されたように、市民の力を寄せ集めて、必ずや街を復興させることでしょう。石巻日日新聞は今回、避難所に毎日マジックで手書きの壁新聞を張り出しています。
 復興とは、人々が “普通の生活” を取り戻すことと “安心・安全を保障する街作り・社会建設” です。
 それに向けての挑戦が、亡くなった者たちへの何よりの弔いです。 
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被災者は語れない
2011/03/21(Mon)
3月21日(月)


 観客は、素晴らしい演奏を聴いたり、演劇を鑑賞した後に、しばし感激のために発する言葉を失うことがあります。感動する試合を見終わった時、その感動に浸っている時間を必要とします。
 その逆に、前代未聞の事態に遭遇したり、自分では解決できない状況に陥った時、思考が停止して言葉を失います。
 大澤真幸著『不可能性の時代』(岩波新書)はアガンベン・ジョルジョ著の『アウシュヴィッツの残したもの』を引用しています。 「収容所のあまりに過酷な環境の中で、人間性の零度にまで到達してしまったユダヤ人たち(ムーゼルマン)は、気力も体力も完全に失い、一切の人間的な反応を示さなくなった。」真の恐怖は、恐ろしいと感じる感覚さえも麻痺させてしまいます。“人間の破局”です。
 そして「ナチスの収容所の現実について証言することができるのは、まさにその恐怖に立会い、生き残ったムーゼルマンだけだが、しかしまさにそれがゆえに、彼は何ごとも語ることができない。」“証言の不可能性”です。
 
 東北関東大地震でも、被災者はこのような状況下からしばらくは抜け出せず、自分の言葉を語れません。支援者は語られない状況の中で、語ることを見つけられなくても寄り添うことが必要です。
 避難所では子供たちが泣き叫んだり、親元から離れない状況が続いています。
 子どもにとってのこれまでの社会は、大変だった時、怖かった時、短時間の間に必ず誰かが助けに来てくれました。親だったり、ウルトラマンだったり。だから防御の手段を得ることや耐えることを考えないで済んできました。
 しかし今回の津波ではそれまでの日常を怪獣が奪って行ったままです。ウルトラマンからも見放されました。目の前の想像できない状況はパニックに陥るしかありません。感情を失ってただ怖がります。我慢していても夜になると悪夢にうなされます。
 もう1つの恐怖を大きく感じる原因にデジタルゲームの影響があるのだそうです。ゲームは負けても何度も挑戦しているといつかは勝つことができます。常に自分が制覇することに慣れてしまっています。そうすると自分が制覇出来ない出来事に直面した時、我慢する力がそぐわず、恐怖感に支配されてしまいます。人格が変わったような不可解な行動をとったりします。
 このような時は、親がウルトラマンのように強くならなければなりません。抑えつけないで、感情を発散させることが必要です。そして「怖かったね」という思いを共有し、誰にも渡さないで守るという思いを伝えるために強く抱きしめることが必要です。その腕の強さ、温もりが伝わった時に安心感を獲得していきます。
 親も怖いなら、誰かに助けを求めればいいです。
 避難所はこれまでとは別世界です。集団生活は、勝者が自由に振舞う空間はなく煩わしいです。しかし周囲の人たちは怪獣ではありません。社会は勝つこと、負けることの他に助け合いがあり、人は共存・共生して生きているんだと感じ取った時、視野が広がります。そのなかで子どもは強く成長します。

 問題解決における他力本願、負けた体験がないことでの思考停止は、最近、大人社会でも起きています。
 その逆に、今回の高齢の被災者の方々の耐えている姿を見た時に、その人生をなぞらざるを得ません。
 戦争と身近な人の戦死、しばしばあった災害、冷害、時化そして過疎化……。その中を耐え抜いて生きてきた終局を、さらに耐えろと震災が襲いました。「天罰」でしょうか。
 本当の最後は、「生きていてよかった」という思いで送らせたいです。

 情報は安心感をもたらしますが、そのビジュアル化はフラッシュバックを加速します。被災地以外での人たちにとってもそうです。

 TBSラジオの「永六輔の土曜ワイドラジオ東京」は、北山修が定期的に出演します。かつてはフォークシンガー、作詞家。そして昨年までは九州大学教養部で心理学の教授。「最後の授業」はテレビ放映され、そのままのタイトルで本にもなっています。作詞家で精神科医ということで言葉が人の精神状態に及ぼす影響、その関係性が専門です。
 3月19日にも出演し、震災で必要になっている「心のケア」についてアドバイスをしていました。
 人が大変なことを経験した時、頑張ろうと思うのは“こころの凍結”です。その結果がPTSDになります。
 そのことを解消してくれるのが話すことです。そのためにはよい聴き手にめぐまれなければなりません。相手はいい聴き手にならなければなりません。そうでないと言わなければよかったということになります。だれも石原慎太郎に打ち明けようとは思いません。辛い思いの戦争体験などもそうです。
 今回の被災者の行動に外国ではパニックが起きなかったと驚いています。
 日本人には裏と表があります。頭に来ると血圧が上がったり胃が痛んだりします。しかし表面は澄ましています。昔はコミュニティーや共同体がその受け皿になっていましたが今はなくなりました。
 不通だった交通手段を開通させたように、支援者・聞き手は「心の道路」を開通させなければなりません。

 阪神淡路大震災の1年後の神戸・三の宮駅前。旧神戸新聞社の社屋から、前年の「愛」をテーマにした「日本一短い手紙」への阪神からの応募作が大書きして5首垂らされていました。その中の1つが

    地震さん 愛を忘れかけていた おろかな私たちを もうしからないで

でした。
 未曾有の震災にあった被災者にたくさんの「愛」が届けられています。
 復興は、被災者、支援者の関係性をなくした人の輪を力とバネにして強く進められて行きます。
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ボランティアとは「共に歩む」こと
2011/03/16(Wed)
3月16日(水)

 計画停電初日の14日夕方、事務所との往来で利用するJR「四ツ谷」駅のホームで、なかなか来ない列車を待っていると、もう一本のホームで女学生らしい人が大きな声で歌を繰り返し繰り返し歌っていました。

    負けないで もう少し
    最後まで 走り抜けて
    どんなに 離れてても
    心は そばにいるわ
    追いかけて 遙かな夢を

 ZARDの『負けないで』です。  
 みんな、東日本大地震の被災者に思いを寄せています。

 この後、多くの人たちがボランティアに駆けつけるでしょう。
 悲惨な状況を目撃します。そのことによって、せっかくの行為が自分の体調を崩すことになる危険性もありますので気を付けなければなりません。
 危険性を防止するための参考に、2008年末に開設された日比谷派遣村に参加されたボランティアの人たちに向けてホームページに載った「お願い」を再掲載します。

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     「派遣テント村のボランティアに参加された皆さんへ」

 派遣テント村ボランティアに参加された皆さん、お疲れ様でした。派遣村が閉村して1週間が経ちましたが、その後どう過ごしているでしょうか。テント村で風邪を引かれた方もいるのではないでしょうか。様々な思いを抱いて帰路に着かれたと思います。

 いろんな方が参加しました。参加の契機は、皆さんそれぞれです。
 テント村には私たちのこれまでの日常とは違う状況がありました。しかしこれも1つの現実です。真面目に働いていても突然仕事を奪われ、住居を奪われる現実が私たちのすぐ隣りにあるのです。

 私は、まもなく14年目を迎える阪神淡路大震災の時に、避難所にボランティアとして参加しました。その経験から皆さんにいくつかお願いしたいことがあります。
 ます、見た現実を、ありのままを身近な多くの人に話してください。疑問に感じたこと、不満に思ったことも率直に話してください。話を聞いて様々な反応が返ってくると思います。あなたの思いに対する反対意見も真摯に聞いてください。そして討論をしてください。
 それが派遣村を開設せざるを得なかった問題の解決を推し進める1歩になります。

 疑問に感じたこと、不満に思ったことを自分の中だけにしまっておくとストレスが募ります。そして体調を壊すことにもなりかねません。その解決策は、自分の中だけにしまわないで、誰かに話をすることです。
 実際、参加しても仕事がなかったという感想も聞きます。しかし仕事をすることだけがボランティアではありません。逆に「村民」をさておいて活動するのは自立を妨げるという意見もあるのですから。
 参加して何もできなかったといっても、テント村に来たあなたの存在それだけでボランティアだったのです。大勢の人が駆けつけてくれたということが、真面目に働いてきても突然契約解除になった派遣労働者に、この問題は個人の問題ではない、自分だけのせいではないという思いに至らせ、勇気と自信を取り戻させました。
 勇気と自信を取り戻させたのはボランティア参加者の数ではありません。同じ思いの、同じ目線での1人ひとりの顔と顔の交差です。

 阪神大震災のとき、少し落ち着いてきた頃、ボランティアの活動は減りました。「もう僕らはいらないね」と言うと、住民からは「いやいやいてくるだけで心強いんだよ」と言われました。
 ボランティアの最大の役割は「思いの共有」です。参加するだけで、その役割は充分に果たしたのです。みんなみんな必要な存在だったのです。
 地方で駆けつけることができない人は物資やカンパを送ってくれました。カンパをおくることができない人はメッセージを送ってくれました。それぞれができることをする、これがボランティアです。

 テント村の状況を見てショックを受けた方もいると思います。そのような方は、そのショックを受け入れてくれる誰かに話をしてください。それをしないとPTSD(Post Traumatic Stress Disorder・心的外傷後ストレス障害)におちいる危険性もあります。

 「村民」は契約解除で生活を破壊され、テント村に来ても不安のなかで右往左往していたことでしょう。実行委員会も始めての体験、さらに想定以上の状況になり、多忙と混乱の連続だったと思われます。そのなかでボランティアへの指示にも混乱があったかと思います。しかしそれは止むを得ませんでした。
 このような状況に対する経験を何回もしていることのほうが不幸なことなのです。

 しかしボランティアの皆さんの活動が素晴らしいものであることは、全国の多くの方が認めています。ボランティアなしには村の運営はできませんでした。厚生労働省を動かすことはできませんでした。
 みんなが一体となった活動だったのです。そのことは参加した皆さんで確認できると思います。

 今回の体験を単なるエピソードにしないよう、それぞれのところで頑張っていきましょう。それが社会を動かす、小さいながらも第一歩になります。

 私が阪神大震災の時ボランティアで行った避難所に聾唖者の人がいました。彼は怖かった体験を誰にも伝えられません。ストレスがたまったと思います。不安を伝えられません。情報が入りません。この後どうしたらいいか相談できません。私も何もできませんでした。
 その代わり、私は帰った後手話の勉強をはじめました。
 手話でボランティアをどう表現するか。「一緒」プラス「歩く」です。何かをしてあげるのではなく、「共に歩む」がボランティアです。
 
 
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