2010/10 ≪  2010/11 123456789101112131415161718192021222324252627282930  ≫ 2010/12
会社が「身に危険を感じないか」と脅す
2010/11/26(Fri)
11月25日(木)

 東京地裁に、アクサ生命から懲戒解雇を受けた社員の証人調を傍聴しました。
 アクサ生命のトップは、代理店が違法な募集活動をして多大な利益を得ていたこと、アクサ生命としては損害を受けていらことを黙認していました。というより営業数字を上げるために「行け行けどんどん」で煽っていました。

 しかし一昨年秋、代理店が倒産し、金融庁から指摘を受け、そのことが新聞などで報道されると、代理店との窓口担当者がきちんと報告しなかったので気が付かなかった言い訳をし、担当者を急きょ懲戒解雇しました。
 その処分に至る経緯は恐ろしいものです。
 ある日突然人事部から呼び出され、名乗らない外部調査会社に引き渡されました。4時間に及ぶ尋問では「身に危険を感じないか」とまで脅されました。その結果、恐怖の余り出社拒否症に陥ってしまいました。今も通院しています。
 尋問の直後に解雇通知が届けられました。弁明書の提出期限は24時間の余裕もありませんでした。弁明書を提出したその日のうちに最終処分をしてきました。
 懲戒解雇は「行け行けどんどん」を煽ったトップの保身のためのトカゲの尻尾切りです。
 事件が公然となった後、関係したトップ連中は高額の退職金を受け取り、関連会社に「天下り」ならぬ「天上り」をしていきました。
 証人尋問では、このような事実関係が明らかにされました。
 「身に危険を感じないか」と脅して労働者の心身を破壊してまでも自分らだけは肥え太ろうとする、そして居直る経営陣。「いじめ」などというものではありません。
 オトシマエはしっかりと取ってもらいます。


  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 裁判・労災 | TB(0) | ▲ top
厚労省が「精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会」開催
2010/11/22(Mon)
11月22日(月)

 「厚生労働省は精神障害の労災認定の基準に関する専門検討会」の議事録が公開されましたという情報がありました。それを読むと、メンタル不調者の把握を労務管理に使う主張が多数のようで、修正案が出ているということです。
 資料2に「ストレス症状を有する者への面接指導制度(案)-労働者の意向を尊重しつつ労務管理が可能な仕組み-」が提案され、修正案として、「メンタル不調を確認した医師は、労働者に医師との面接を通知し、労働者が事業者に面接を申し出て、その後は事業者が医師による面接、医師からの意見聴取等を行う仕組み」が提案されています。つまり、現在の長時間労働に従事した労働者の面接制度と同じにしようというものです。
 
 労働者の健康情報はプライバシーです。一方使用者は「安全配慮義務」「環境整備義務」があります。この関係性の整理が必要ですが、その前に、体調を崩しても働き続けなければならない労働者の置かれている状況と、現在の長時間、過重労働の労働実態の規制が必要です。そうでないと体調を崩した労働者は使用者の一方的手続きで休職・退職勧奨・解雇にいたる危険性が出てきます。  次回の審議会は12月13日(月)午後2時からです。


  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 厚労省 交渉・審議会 | TB(0) | ▲ top
早稲田大学の斎藤佑樹主将と仲間
2010/11/03(Wed)
11月3日(水・祝)

 事務所に行っても何もできないので隣の駅の神宮球場へ。東京6大学優勝決定戦です。
 優勝した早稲田大学の斎藤佑樹主将のインタビュー。
 てらいもなく 「斎藤は何かを持っていると言われました。それは何なのか今日確信しました。それは仲間です」 と答えました。
 その瞬間、球場全体からウワーという歓声と拍手が起きました。
 
 「仲間」 の意味を探してスポーツ新聞を読みあさりました。
 3年生の時、斎藤主将は不調でした。ストレスから筋肉が固くなりフォームが崩れているのをみてお父さんが注意し、怒りました。「だれもオレの見方をする人がいない」 と漏らしたといいます。1人で悩んでいました。
 秋のリーグ戦が終了し、主将に選ばれると、その日から3年生 (最高学年) の部員28人で 「交換日記」 を始めます。毎日1人が1ページ分、自分の思い、チームへの思いを書きます。1年間1日も途絶えることなく続いているといいます。
 そのなかでそれぞれがチームメイトへの信頼感、自分を客観的に捉える力を養い、チームの1員としての存在と役割を確認していきました。会社でいうなら自主的中間管理職研修をしていたのです。
 
 「交換日記」 は、レギュラーではなく3年生というところが味噌です。補欠選手も含めて下級生の模範となる行動を自覚しました。監督の目に触れることはないので、監督の選手起用、采配には関連しません。
 その結果として優勝。「仲間」 という言葉は優勝決定の直前に自然に浮かんできたといいます。
 発言を詳しく紹介すると、「仲間」 とは「支えてくれたチームの仲間、そして慶応大学という素晴らしいライバル」 です。パレード後の優勝報告会では 「応援してくれた学友、学校、そして六大学野球を支えてくれた人たち」 が含まれました。
 
 優勝報告会での他の選手の挨拶も紹介します。自分の役割を認識した発言が続きました。
 打線の中心だった山田選手は 「慶応との第一戦、第二戦に負けた後は本当に苦しかった」 といって言葉を詰まらせました。0対2で負けた試合は投手だけの責任ではなく打線の責任もあります。誰も打線を責めませんが山田選手は責任を重く感じていたのです。3年生の市丸捕手は、自分が試合に集中できたのは控えの4年生白石捕手がいたからと言って白石捕手にマイクを譲りました。控えの捕手はリリーフ投手を調整し、情報を正捕手に伝達してピンチの場面に送り出します。
 その白石捕手の発言がすごかった。「自分は練習を重ねて正捕手として試合に出たい。今後も頑張ります。」 この時点で残された試合は大学野球日本一を決定する神宮大会の最多3試合です。会社で言ったら、定年を数か月後に控えた雇用延長がない課長補佐が残り期間に課長就任への挑戦を堂々と宣言したのです。
 みんなチームメートを信頼し、その中で自分の役割をしっかり自覚してチームに貢献したい、より多く試合を続けたいという思いで野球を楽しんでいます。

 「交換日記」 のことは球場で買った 「早稲田スポーツ」 10月30日号に 「約束のノート」 というタイトルで載っていました。
 この号の1面編集責任者は斎藤投手と同じ早稲田実業高校出身の2年生です。彼が書いています。
  「わたしには斎藤祐樹に借りがある。彼が全国制覇を成し遂げたあの夏、日本中は熱狂に包まれた。
  それはわたしの人生にも大きな影響を与えた ▼わたしは小学校から高校まで軟式野球を続けてきた。
  だが、野球が下手くそだった。うまくなりたくて必死に練習したが下手くそだった。……高校ではランナ
  ーコーチとしての居場所を確立していた ▼わたしにとってその役職は残酷だった。選手である以上、当
  然ながら試合に出たい。しかし、チームが試合に勝つためにコーチャーズボックスから的確な指示を出
  さねばならない。個人での欲求と、チームの一員としての欲求は必ずしも一致しなかった ▼わたしはこ
  の葛藤を抱え、「自分は本当にチームに必要なのか」 と悩み、退部することも考えた。それでも野球を
  続けたのは斎藤がもたらしたあの夏があったから。優勝が決まった瞬間、レギュラーも控えもベンチ外
  の選手も全員の思いが一つになった。早実生だったわたしはあの瞬間にあこがれた。そして野球を辞
  めるどころか、今まで以上に野球を好きになった ▼大学入学後、わたしは早スポに入る。そして借りを
  返すために、斎藤にとって最後の早慶戦を最高に盛り上げるために、この一面を作った。野球の素晴ら
  しさを教えてくれた彼に、また、このようなかたちで恩がえしをさせてくれた早スポの仲間たちに感謝
  している ▼……最高の晴れ舞台である早慶戦を、そして野球を、全力で楽しんでほしいのだ。読者の
  皆さんにも、斎藤祐樹にも――」
 かつて喜怒哀楽を共有した仲間が、その後道は分かれても自分の立ち位置をしっかり固めて今かつての仲間の応援を楽しんでいます。仲間とは本当にチームメイトだけではないのです。

 斎藤主将たちから教えられることは、「仲間」 「コミュニケーション」 は与えられるものでも、降ってくるものでもなく、作るものだということです。 

 よく相談者が 「話し相手がいません」 「理解してくれる人は誰もいません」 と言います。しかし会社や職場環境だけが悪いとは限らないと思われることがしばしばあります。
 繰り返しますが 「仲間」 は作るものです。 
この記事のURL | 仲間・連帯・団結 | TB(0) | ▲ top
全国安全センター第21回総会報告
2010/11/01(Mon)
11月1日 (月)

 10月30日 (土 )~31日 (日)、全国安全センター第21回総会が愛媛県道後温泉で開催されました。
 1日目はメンタルヘルスケアのテーマで集中討論が行われました。
 厚生労働省がこの春から6回にわたって開催した 「職場におけるメンタルヘルス対策検討会」 の経過と報告書の分析が詳しく行われました。
 この間、厚労省ではメンタルヘルスに関連する審議会等がいくつか開催されています。政策の見直しが必要だと考えているようです。出席している各委員も色々な観点から問題指摘、提起をしています。しかし論議に労働者からの声はなかなか届きません。厚労省は労働現場の声を聞く努力をすべきです。
 総会ではセンター構想も報告され了解されました。

 2日目は、アスベストと振動病の分科会に分かれて討論が行われました。
 日本の労働安全衛生の対策はほんとうに遅れています。
 実態が目の前にあるにもかかわらず認めません。やる気のない予算に合わせて基準が作成されています。

 道後温泉のある松山市は夏目漱石の 「坊ちゃん」 の舞台となったところです。
 漱石は 「神経衰弱」 だったが、病気は日清・日露など戦争のときに悪化したと長女はかたっています。
 日清戦争開始まえ、漱石は北海道に籍を移して徴兵を逃れました。「送籍」 したのだといいます。
 そして1895年4月、松山へもに教職の道をみつけて逃避で赴任しました。そのときのことを後に 『坊ちゃん』 に書きました。
 最近出版された水川隆夫著 『夏目漱石と戦争』 (平凡社新書) で著者は、漱石は政治的発言はしていないが、小説の中の漱石は反戦主義者の 「非国民」 だと言っています。

 漱石が赴任した時、松山の瀬戸内海をはさんだ向かいの広島で、正岡子規は従軍記者の許可証発行を待っていました。数日後、子規は宇品港から出航し、遼東半島に33日間滞在します。
 日清戦争を詠んだ句があります。

   生きて帰れ 露の命と言ひながら

 ここには庶民の戦争観が見えます。

 その後、漱石は文部省の英語留学生第1号として2年間ロンドンに滞在します。帰国すると帝大の講師となります。
 日露戦争中の1905年、病が重くなり、気分転換のために書いたのが 『我輩は猫である』 です。
 戦争は人を病に落とし込めます。


 松山市は、2日前のドラフト会議で広島カープから指名を受けた福井優也投手の母校済美高校があります。街で何人かに福井投手の話をしましたが余り関心がないようでした。しかしさすが 「正岡子規記念館」 はベースボールコーナーもあるだけあって話題に花を咲かせることができました。

   当センター「いじめ・メンタルヘルス労働者支援センター」のホームページ・ご相談はこちらから 

この記事のURL | 交流会・集会 | ▲ top
| メイン |