2018/05 ≪  2018/06 123456789101112131415161718192021222324252627282930  ≫ 2018/07
終わっていない光州蜂起
2018/05/18(Fri)
 5月18日 (金)

 映画 『タクシー運転手 約束は海を越えて』 を観に行きました。
 1980年5月18日からの 「光州事件で起きていること」 を取材するため現場に向かおうとするドイツ人記者をソウルのタクシードライバーが載せるというところからストーリーは始まります。実話をベースにしています。記者が収めたフィルムは無事世界に発信されました。
 映画のストーリーを細かく解説してはこの後観にいく人たちをつまらなくさせますのでやめます。
 ただ実話として、300台のタクシードライバーたちや大型バスが市内をデモし、さらに軍が襲ってくるときのためのバリケードになるなど市民の側にたって闘いました。
 光州蜂起とはどのようなことがあったのでしょうか。


  「祖国が僕らを呼んでいるんです」
   ― 学帽と学生服と鞄  鞄を銃にかえて―

 1980年5月18日、突然戒厳軍が僕らの街 “光州” を襲いました。

 全南大学で 「戒厳令を撤廃せよ」 と叫ぶ兄さんたち学生を、
 空挺特戦団が棍棒で殴りかかって排除しました。
 学生たちは市民に事態を触れ回り、
 駅前や道庁前の噴水前広場で集会をもちました。
 「集まろう!」 僕らも誘い合いました。

 19日、
 兄さんたちが掲げたスローガンを僕らも叫びます。
 僕らが高校の前の路上をデモしていると、
 戒厳軍は装甲車の上から眼前のデモ隊に発砲し、
 学友の首を貫通させました。
 もう怒りを抑えることができません。

 20日、
 戒厳軍は、駅前で無差別に市民を虐殺しました。
 しかし市民は戒厳軍を恐れません。
 かえって市街地に押し出してきます。
 錦南路を埋めつくした市民は座り込んで合唱。
 「闘いの歌」 に続けた民謡 「アリラン」 の時、
 みんなみんな肩を震わせながら歌いました。
 そして心がひとつになっていったのです。
 沢山のバスとタクシーが車両デモを展開し、
 戒厳軍からの盾になっています。
 深夜、駅前に集まった市民に戒厳軍は連発射撃をしました。
 「われわれも銃を持たなければならない」
 誰からともなく声が上がります。

 21日明け方、
 駅前に建つKBS放送局が焼かれました。
 すでにMBC放送局も焼かれています。
 放送局は真実を伝えず、戒厳軍の蛮行を隠し続けるからです。

  「オモニ(お母さん)! 祖国が僕らを呼んでいるんです。
   僕は行かなければなりません。」

 武装したデモ隊は 「市民軍」 と呼ばれます。
 家族や友人が殺された怒をもって参加した人たちもいます。
 教練服を着た高校生もいます。
 午後、「市民軍」 は戒厳軍が占拠する郡庁への攻撃を開始。
 郡庁は、夜には市民のものになりました。

 22日、
 朝から市民は道庁を目指し、
 そして歓声を上げています。
 みんなの力で “自由光州” を勝ち取ったのです。
 店はいつものようにシャッターを開いています。
 病院が怪我人で溢れています。
 家族が捜しあて、友人が再会。
 生きていることを確め合いました。
 献血に高校生やお年寄りが押し寄せます。
 しかし、傷つけられた遺体に縋りつき、
 泣き叫んでいる家族もたくさんいます。

 23日、
 街中に引き千切られた服や靴が散らばっています。
 街路樹の銀杏の葉は催涙ガスで落ちてしまいました。
 僕たちはバリケードの残骸を片付けながら街を清掃。
 シャッターや電柱やアスファルトに付いた血糊を洗い流しました。
 “自由光州” 取り戻した市民はゆっくりとデモをしました。
 スローガンを叫び、「アリラン」 を笑顔で合唱しました。
 いつ戒厳軍が攻めてきても腹ごしらえができるようにと、
 オモニたちは道端で炊き出しをしています。

 24日午後から、
 道庁前を埋め尽くして
 民主守護全市民決起集会が開かれました。
 雨が降ってきました。
 司会者が語りかけます。
 「この雨は恨みを抱いて死んだ民主英霊が
  眼を閉じられずに流している涙です」
 みなが涙を流し、激しく降り注ぐ雨に打たれても動きません。
 遺体が納められている尚武館前では
 絶え間なく焼香が続いています。
 
 25日、
 戒厳軍の襲撃が予想されます。
 「市民軍」 が再編されました。
 高校生は集めてきた食料や飲料水を 「市民軍」 に差し入れました。
 コンスン (女子工員) さんたちが、炊き出し、連絡係、看護隊と忙しく動きまわっています。
 夜、最後まで闘争するための指導部が編成されました。

 26日、
 噴水台前広場での決起集会を終えると、
 僕ら高校生を先頭に大勢が市内を一周するデモ行進をしました。
 午後の決起集会中、戒厳軍が襲ってくるという報告がありました。
 「われわれは闘いを止めることはできない」
 集会が終わっても、誰も立ち上がりません。

 僕は、道庁の屋上から市街地を眺めました。
 無等山を眺めました。
 僕の光州をしっかりと目に焼きつけました。

 夜、サンウォン(尹祥源) さんが泣きながら僕らを説得します。
 「高校生は先に銃を捨てて投降しなさい、
  どんなことがあっても生き残らなければならい、
  そして歴史の証人にならなければならない」
 でも僕は、僕の “自由光州” を衛ります。

 27日、
 暗闇の中から轟音が聞こえます。
 道庁に近づいてきます。
 僕は銃を取ってここに留まります。
 僕は、僕らの “自由光州” を衛ることを誇りに思います。


 政府・軍は自分たちが光州での蛮行をひた隠しにしようとしました。しかしドイツ人ジャーナリストのように伝えることの義務を自覚した人たちの奮闘が続きます。真実を伝える文書が海外に送られます。日本でも発刊されました。
 学生たちの闘いは続いていました
 5月18日のハンギョレ新聞です。
「1980年5・18光州民主化運動が起きた時、クォン・スンヒョン氏は慶北大歴史教育科の80年度新入生だった。彼は大邱 (テグ) で先輩たちと共に5・18の真実を知らせる印刷物を作り配布した。」
「大邱で5・18の真実を知らせたために連行されたクォン・スンヒョン氏は、拷問の後遺症で生涯精神疾患を病み、今年3月一人さびしく亡くなった。
 7月には全斗煥政権退陣などを要求してデモをして、大学から無期停学処分を受けた。その年の11月には対共分室に連行され、1981年4月には軍に強制徴集された。軍でも保安隊に引っ張り回され常習暴行にあった。相次ぐ拷問と暴行のために精神異常症状が悪化すると、1983年6月結局病気のために除隊した。
 大邱東区の古い住宅を借りて一人で暮らした。結婚と職場生活の機会は閉ざされていた。お金が必要になると、時々職業斡旋所に出かけて行って金を稼いだ。隣人たちはクォン氏を 『話すこともなく、夏でもドアを閉ざして閉じこもっていたが、優しそうに見えた』 と記憶した。クォン氏の兄が時々訪ねてきたが 『会いたくない』 と言ってドアを開けない時もあった。クォン氏は一人で部屋に閉じこもり詩を書いていたという。光州による傷を抱いて、大邱で暮らす人生は孤独だった。」
 恐怖からのPTSDと拘禁性のノイローゼを発症した症状です。


 2010年5月、光州蜂起から30周年の時、光州を訪問しました。その時、丸2日間付きっ切りで案内をしてくれたのは、当時高校生だった方です。戒厳軍が襲ってくる直前に道庁を離れたようです。その後日本に留学していたということで日本語は流暢です。各所を丁寧に説明をしてもらいました。しかし自分の体験については聞いても首を振って一言も語りませんでした。恐怖を思いださせてはいけないと思い、途中からは個人的体験を尋ねることは慎みました。
 仲間と一緒の時はいろいろと語り合うようになってきているということです。


 映画では、ドイツ人ジャーナリストは悲惨な現場の取材だけでなく、自らも戒厳軍に追跡され続けます。観ながらPTSDにり患しなかったのだろうかろかというと思いに駆られました。

 少し古いですが2012年7月4日のハンギョレ新聞です。
 ソウル中浪区 (チュンナング) 面牧洞 (ミョンモクトン) のアナパ医院院長カン・ヨンジュ氏は7月末に開院する国内初の公立の光州トラウマセンター長に就任します。
 高校3年の時5・18に市民軍として参加し、鎮圧の前日に道庁を抜け出したのが傷となって残りました。「生き残った者の恥ずかしさのために一層激しく独裁と闘おうとしました。光州・望月洞 (マンウォルトン) の5・18墓地に行けば今でも平常心を失といいます。
 全南 (チョンナム) 大の医学部生だった1985年、安全企画部が発表したいわゆる 「欧米留学生スパイ集団事件」 に連累され無期懲役を宣告されました。ソウル南山 (ナムサン) 安全企画部別館に引っぱられて行き60日間拷問にあったあげく嘘の自白をしてしまい、一枚の転向書を書くことを拒否して14年閉じ込められていた。
 そうするうちに拷問で 「ごみ箱に捨てられた私の魂」 を見て傷つきもしたが、内面の傷に対面することで自ら治癒しました。
 1999年復学して2004年卒業し、家庭医学専門医になった2008年、精神科 医師であるチョン・ヘシン博士とともに拷問治癒の会 <真実の力> を設けて現在まで拷問被 害者治癒の会の活動に精を尽くしています。
 就任に際して 「私の国家暴力被害経験を昇華させて5・18光州民主化抗争でトラウマを体験している人々の治癒に取り組む」 と語っています。「5・18光州虐殺や拷問のような国家暴力の被害者は、数十年が過ぎたけれどもいまだに怒り、酒を飲み、事故を起こし、うつ病になります。性格の問題ではないのに個人の責任のようにされてきました。」 国家暴力被害者の精神は傷つけられたその瞬間をほんの一寸も抜け出せないまま、さ迷い徘徊しているといいます。
 「5・18被害者らと家族が体験している苦しみの原因が国家暴力であるということを分からせ、治癒の道を助けたい」 「5・18が他の国の民主主義の手本となったように、 光州がアジアのトラウマ治癒のハブの役割をしなければならい」 と語ります。
 しかし 「今でも “南山” に行けば息がぐっと詰まってしまう。脈拍がはやくなって不安になる。」 “南山” は 「飛ぶ鳥も落とす」 という情報機関の別称です。

 2009年の統計を見ると、5・18の負傷後遺症死亡者380余名のうち自殺者が41名 (10.8%) でした。経済協力開発機構 (OECD) 会員国の平均自殺率0.02%より300倍も高いです。

 5・18民主有功者遺族会が調査した5・18生存者の自殺者統計によると、2000年代になると増えています。2004年20人、05年23人、06年25人、09年31人、20年36人、21年、38人、12年42人です。現在も120人が精神疾患に苦しめられています。以前は明らかにされなかったが、少しづつ公表されるようになったという事情があったと思われます。実際の数はもっと多いです。
 特に、5・18の時に行われた性的暴力被害者たちの多くは、被害の事実も隠して精神治療も受けなかったものと推定されます。光州トラウマセンターを訪ねる女性の多くは、子どもを亡くした母親たちです。


 5月18日のハンギョレ新聞です。
 光州民主化運動当時、戒厳軍や捜査官に性的暴行やセクハラを受けた事例はいくつか報告されています。しかし、光州抗争当時の女性に対する性暴力や拷問などの全体の被害状況は、まだ把握されていません。女性たちはおぞましい性暴力の記憶はもちろん、被害を隠そうとする家庭と社会の抑圧の中で二重三重の傷と後遺症に耐えてきました。
 最近、MeToo運動が起こした変化でかろうじて勇気を出した彼女らの証言や、ハンギョレの連続報道を通じて、当時光州で戒厳軍と捜査官たちから性的暴行やセクハラを受けたという証言が相次いで出たことを受け、国会には真相究明の範囲に 「性暴力」 を含む 「5・18民主化運動の真相究明のための特別法」 改正案が発議されました。女性に対する人権蹂躪と反人道的な犯罪は時効にこだわる問題ではないという点を明確にしなければならないと主張されています。


 これまで光州抗争で女性は 「街頭放送」 と 「おにぎり」 だけに象徴されてきたということがあります。実際はどうだったでしょうか。
 「市民学生闘争委員会」 のスポークスマンだった尹祥源 (ユン・サンウォン) さん (映画 『光州5・18』 の主人公のモデル) は、ソウルに出て働いていた時、平和市場で焼身自殺をした全泰壹のオモニ李小仙さんが開設した労働者のための夜間学校の手伝いをしていました。光州にもどって 「野火夜学」 を開設します。その時に一緒に手伝いをしていたのが朴棋順 (パク・キスン) さんです。朴棋順さんは 「労働者の永遠の姉」 と慕われていました。しかし78年冬、練炭ガス中毒ガスで亡くなりました。
 25日に戒厳軍の襲撃が予想された “自由光州” の道庁では、学生たちにまじって、工順 (コンスン・女子工員) たちが炊き出し、連絡係、看護隊、放送担当と忙しく活動しました。「野火夜学」 の 「生徒たち」 です。
 尹祥源さんは立て籠もっていた道庁での銃撃戦で亡くなります。

 1982年2月20日、尹祥源さんと朴棋順さんの 「霊魂結婚」 式 (死んだ後に行われる結婚式) が生き残った仲間たちによって執り行われました。仲間たちは 『イムのための行進曲』 を2人に捧げます。作詞は作家の黄ソギョン、作曲は金ジョンニュル。

  愛も名誉も 名も残さずに
  命かけようと 誓いは燃える
  同士は倒れて 旗のみなびく
  やがて来る日まで ひるむことなく

  時はゆくとも 山河に響け
  我らの叫び 尽きない喚声
  立ち上がれ友よ かばねを越えて
  いざ前に進まん かばねを越えて


 今も5・18記念公園に建つたくさんの墓石のどこかで、誰かが歌っています。

 「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | その他 | ▲ top
「済州島4.3の名誉回復は和解と相生、                                 平和と人権に向かう私たちの未来です。」
2018/04/20(Fri)
 4月20日(金)

 4月2日から5日と、韓国・済州島に行ってきました。「済州4.3事件」70周年の式典に参加するためです。関東からは150人、関西から80人、沖縄から40人、そして台湾から40人とたくさんの人たちが参加しました。関東からの参加者は、半分くらいが在日韓国人の人たちです。
 済州島訪問は、4・3事件60周年、65周年についで3回目です。

 では、「済州4.3事件」とはどのような事件だったのでしょうか。
 事件と表現しますがあいまいです。事件にどのような立場でかかわったかで名称は変わってきます。さらにまだまだ解明されない出来事がたくさんあります。

 18年4月4日のハンギョレ新聞です。長いです。 
「済州市(チェジュシ)奉蓋洞(ポンゲドン)の済州4・3平和記念館。うす暗い第1館『歴史の洞窟』に入れば、鳥の声がしばし聞こえ、両壁には欠けた水瓶と壷が置かれている。天井からしたたり落ちるような水音は、そこが洞窟の中であることを感じさせる。済州4・3当時、済州島に散在している自然洞窟は、済州の人々の避難所だった。その洞窟の終点には白い大理石の碑石が横たわっている。碑石は、円筒形の柱を通じて来る日光を受けて輝く。

  抗争・暴動・虐殺など
 7年7カ月間、絡まり合った事件…
 政府報告書には事件の定義だけ…

 2014年国家追悼日には指定されたが
 歴史的評価は後世の役割に残し
 70周年迎え正名運動が始まった

 国家は50年間「暴動」とし
 進歩史学界は「抗争」とした
 最近15年間、虐殺糾明に焦点
 「統一国家に向けた闘争」談論喪失
 抗争性など歴史的大義に再照明
 多様な性格を包括した「正名」見つけるべき

 ■名付けることすらできなかった歴史
 碑石の表面には何の字も彫られていなかった。いわゆる“白碑”だ。説明文には「4・3白碑、名付けることもできなかった歴史」と記されている。名もなく立てることもできなかった。白碑は、事件発生から70年が経っても名付けることもできなかった4・3の現住所を見せる象徴物だ。

 2003年10月、韓国政府の「済州4.3事件真相調査報告書」(政府報告書)が確定して、大統領が謝罪し国家追悼日に指定されたが、依然として4・3は“名付けることもできなかった歴史”として残っている。当時の政府報告書は、事件の定義はしたが、性格規定は先送りした。2003年10月、国務総理室傘下の『済州(チェジュ)4・3事件真相究明および犠牲者名誉回復委員会』(済州4.3委員会)が確定した政府報告書の序文で、当時コ・ゴン国務総理は『報告書は事件の真相究明と犠牲者・遺族の名誉回復に重点を置いて作成され、4・3事件の全体に対する性格や歴史的評価は下さなかった。これは後世史家の役割と考える』と明らかにした。
 現代史の大きな事件の中で、4・19革命はすでに法・制度的公認がなされ、釜馬(釜山・馬山)抗争、5・18民主化運動、6・10抗争は文在寅(ムン・ジェイン)大統領が用意した改憲案前文に明示されるほどに民主化運動として公認された。これとは違い『済州4・3』は単に『4・3』だ。発端から終結まで一カ月前後だった他の懸案と比べて、4・3は7年7カ月にわたり、性格規定が難しくなった。分断と冷戦初期の展開過程で起きた済州4・3は、米軍の直接・間接的な介入と鎮圧に出た軍・警と西北青年団などの反倫理的な残虐行為が絡まり合いながら拡大した。……
 ■済州4・3とは
 与野党合意で2000年1月に制定された『済州4・3真相究明および犠牲者の名誉回復に関する特別法』(済州4・3特別法)には『済州4・3事件』の定義を『1947年3月1日を基点とし1948年4月3日に発生した騒擾事態および1954年9月21日まで済州島で発生した武力衝突とその鎮圧過程で住民が犠牲になった事件』と規定している。
 政府報告書によれば、済州4・3は米軍政時期の1947年3月1日、警察の発砲で『3.1節28周年記念大会』参加者の街頭行進を見物していた小学生と若い女性を含め6人が亡くなったのに、警察は発砲責任者の処罰どころか正当防衛だと主張して、大々的な検挙旋風が吹き荒れて始まった。その後1948年3月まで2500人余りが検挙され、拷問を受けたり裁判に付された。また、極右性向のユ・ヘジン道知事の独断的行政行為、極右勢力である西北青年団の済州島民に対する苛酷行為と、1948年3月の警察による2件の拷問致死事件を契機に、南朝鮮労働党(南労党)済州島委員会が1948年4月3日『弾圧には抗争だ』として、5・10単独選挙反対などを名分に武装蜂起を起こした。4・3は、米軍政下で起き朝鮮戦争が終わった翌年の1954年9月に漢拏山(ハルラサン)入山統制区域が解除される時まで、7年7カ月にかけて展開された。

 一部の保守団体は、南労党の武装蜂起と『5・10選挙反対』などを挙げて、4・3を相変らず『共産主義の暴動』であり『反乱』と見ている。
 しかし、済州4・3時期に武装隊の民間人虐殺や放火はあったが、多くの集団虐殺と無差別的放火が軍・警などの公権力によってなされたことは否めない。済州4・3委員会が犠牲者と遺族を最後に審査した昨年7月25日現在、犠牲者は1万4232人(死亡1万244人、行方不明3576人、後遺障害164人、受刑人248人)、遺族は5万9426人だ。犠牲者全体のうち、10歳以下は5.4%(772人)、11~20歳は17.3%(2464人)で、全体の22.7%が20歳以下だ。また61歳以上は6.3%(900人)を占めた。このような犠牲者比率は、当時済州島民が老若男女の別なく無差別に犠牲になったことを意味する。政府報告書は犠牲者数を2万5千~3万人と推定している。

 ■なぜ正名運動が展開されるのか
 済州4・3 70周年汎国民委員会は今年70周年をむかえ『4・3に定義を、歴史に正名を』をスローガンに掲げた。政治を任されたら何からするかという問いに孔子が『名を正す(正名)』と答えたという話から正名が出てきた。パク・チャンシク4・3汎国民委運営委員長は『公式的な歴史になるまでには多くの社会的討論と合意の過程が必要だが、正名問題をずっと先送りすることはできない。70周年に国家的な次元で公式正名がなされることは難しくとも、4・3の主体的な側面に光を当て、評価する部分は本格的に始めなければならない。正名運動の本格的な出発だ』と話した。彼は『4・3が特別法の制定などで制度化され、国家暴力による犠牲、大量虐殺などのフレームに閉じ込められた側面がある。当時、島民たちは単純に犠牲と抑圧のオブジェクトとしてのみ存在したわけではなく、歴史の主体であった。解放空間で近代国民国家を形成していく主体として、統一された国を建設するための努力と闘争があったが、(政府報告書以後の)過去15年間、談論の中で失踪した側面があった』として、正名運動の背景を説明した。

 済州4・3はこれまで暴動、抗争、虐殺などの名で呼ばれてきた。『暴動』は事件以後50年近く国家の公認された認識であったし、今も一部の保守勢力は4・3の性格を『暴動』で規定している。彼らは、討伐は正当だったし、鎮圧過程で一部の罪のない者の犠牲があったという見解だ。進歩歴史学界などは外勢の不当な弾圧に抗して分断に反対した『抗争』と規定する。またもう一つは、4・3の真実を糾明し傷を治癒するために、4・3は国家暴力による『民間人虐殺』と見たりもする。最近では、4・3の発生原因を分析し、外部の不正と不義などの不当な弾圧に抗して島の共同体を守るために起きた『正義』の闘争と見る研究者もいる。
 こうした多様な見解により、研究者は済州4・3は長期にわたって展開されたため正名に対する合意は容易でないと口をそろえる。ヤン・ジョフン済州4・3平和財団理事長は『正名問題に関する限り、現場と研究者の間に乖離がある。学者の立場から見れば、4・3は『抗争』だ。解放空間から48年の状況までを見れば抗争だ。しかし、その後54年までの期間は抗争でもなく、生存のための殺す側と殺される側との戦いだった』として『そのために正名には時間が必要だ。白碑は余韻を残すものだ』と話した。
 キム・ジョンミン元4・3専門委員は『犠牲者全体の10%未満と考えられる武装隊による犠牲者の遺族の気持ちも共に推し量らなければならない。比率が少ないからと言っても武装隊の誤りも確実にある。東学のように100年あまりの歳月が流れた後に、4・3を個人史や家族史ではなく歴史の目で見る時に初めて正名できることになるようだ、しかし、研究者が抗争と表現する分には反対しない』と話した。歴史学者であるパク・チャンシク済州学研究センター長は『個人の意見と公的領域で扱われるのは別の次元だ。公的な領域において正名運動は4・3 70周年をむかえて掲げたスローガンであり、積極的に推進しなければならないのは明らかだ。しかし、正名運動で国民的追認を受けることは相当に難しい過程を踏まなければならないだろう。東学運動も最初は東学の乱から始まり、東学革命を経て、東学農民戦争で定説化されたが、100年近い時間を経て正名化された』と見通した。

 韓国現代史研究の権威者であるソ・ジュンソク成均館大学名誉教授は、4・3の『抗争的』側面を強調する。彼はハンギョレとの電話インタビューで『4・3事件という名前をつけるだけでは、4・3を完全に理解することはできない。これまでは政治的な理由で4・3の抗争的な面を浮き彫りにすることが困難で、ただ4・3特別法にあるとおりにしようと適当にやり過ごしてきた面がある。正名を見つけるための積極的な努力があったとは見難い』と指摘した。彼は『4・3の勃発原因がきわめて重要だ。政府報告書にもあるが、特に3.1節記念大会以後に済州島に押し寄せてきた内地の人々の横暴や米軍政の実情、解放から2~3年が過ぎても統一独立国家を成し遂げられなかったことに対する絶望、こういうものが結局は4・3で爆発した。西北青年団などにやられたという強い被害者意識も作用した。そうした面で抗争的な性格を持っている。また、4・3は他の事件とは異なり、非常に長く続いた。抗争的な性格が強く入っていなければ、それほど長くは続かない。今までは真相究明と名誉回復に焦点を合わせざるをえなかったが、これからは一段階さらに(研究が)前に出て行かなければならない』と話した。」


 4月3日、漢拏(ハルラ)山の麓にある「4.3平和公園」で「第70周年 済州島4.3犠牲者追念式」が開催されました。
 式典では、小説家・玄基栄(ヒョン・ギヨン)氏が追悼辞を述べました。玄基栄氏は事件から30年後の1978年に「4.3」で最大の 被害を受けた村の一つ「北村里」での虐殺をテーマに、朴正煕大統領政権の時、4.3事件をどう捉えるのかを問う小説『順伊(スニ)おばさん』を著し「4.3」の実情を世間に知らしめました。しかし逮捕されて拷問を受け、本は発売禁止になりました。内容が“過激”だからではありません。事件を抹殺しようとしたのです。
 
 玄氏の追悼辞です。
「4.3で犠牲になった方々の悲しい魂は今、春の野原に黄色い菜の花として群れをなして咲いている。喊声のように一斉に咲いた菜の花を見ながら、私たちは南北分断の単独政府を反対し、統一国家を叫んだ70年前の喊声を聞いている」
「4.3の英霊たちは私たちに『哀悼だけに、4.3の悲しみだけにとどまるな』、『4.3の悲しい経験が生産的な動力になるようにせよ』、『その犠牲を無駄なものにするな』と語りかけている」
「3万という莫大な死は私たちに『人間とはいったい何で、国家とはいったい何であるか』を深く考えさせる。死ではなく生命を、戦争ではない平和を教えてくれている。4.3の魂たちは朝鮮半島の南北間に憎悪の言葉と身振りを止め、和解と相生、平和の道に進むよう、私たちの背中を押している」
 そして犠牲者たちに「朝鮮半島に平和が訪れるよう力を貸してほしい」と呼びかけました。

 4日、小説の舞台となった「北村里」を訪れました。

  朝天面北村里 (プクチョンリ) の国民学校と順伊 (スニ) おばさんの記念碑を巡る。
  49年1月17日の北村里は冷たい風が切りつけていた。
  部落の者たちは軍人たちの命令で国民学校に集められ、
  無差別に銃を撃ちまくられ、300人が虐殺された。
  北村里は 「無男村」 と呼ばれ家門が絶えた家も多い。
  しかし掠り傷1つ負わなかった順伊 (スニ) おばさん。

  順伊 (スニ) おばさんは、警察に夫の行方を白状しろと拷問を受けた。
  殻竿で頭が割れるまで殴打された。
  その恐怖の体験は、いつもいつも怯えさせる。
  軍人、巡警の影に怯えてしまう。
  神経衰弱は、幻聴症状を伴い、極端な潔癖症になった。
  苦痛は、
  56才の生涯に耕し続けた畑で、
  かつて銃が撃ちまくられた畑で、
  自の命を絶たせた。

 「怖かった」 と事実を、心象を誰にも語れなかった順伊 (スニ) おばさんは生涯、心傷性ストレス障害・PTSDから解放されることはありませんでした。


 式典には、大統領としては12年ぶりの参加となる文在寅(ムン・ジェイン)大統領が参加しました。文在寅大統領の「4・3犠牲者追念日 追念辞」です。

 4.3生存犠牲者とご遺族の皆さん、済州島民の皆さん、
 石垣ひとつ、落ちた椿の花ひとつ、痛哭の歳月を受け止めた済州で
 「この地に春はあるのか?」と皆さんは70年間、尋ね続けてきました。
 私は今日、皆さんに済州の春を知らせたく思います。
 悲劇は長く、風が吹くだけで涙が出るほど悲しみは深かったですが
 菜の花のように満開に済州の春は咲きほこるでしょう。
 皆さんが4.3を忘れずに
 皆さんと共に、痛みを分かち合った方たちがいたからこそ、
 今日、私たちは沈黙の歳月を乗り越えこのように集まることができました。
 渾身の力を振り絞り、4.3の痛恨と苦痛、真実を知らせてきた
 生存犠牲者とご遺族、済州島民の方たちに
 大統領として深い慰労と感謝の言葉を捧げます。
 尊敬する済州島民の皆さん、国民の皆さん、
 70年前、ここ済州で無辜の良民たちが理念の名前で犠牲になりました。
 理念というものを知らなくとも
 泥棒がいない、乞食がいない、門も無く共に幸せだった罪のない良民たちが
 訳も分からないまま虐殺に遭いました。
 1948年11月17日、済州島に戒厳令が宣布され、
 中山間(山のふもと)の村を中心に「焦土化作戦」が展開されました。
 家族のうち、一人でもいなければ「逃避者家族」という理由で殺されました。
 中山間の村の95%以上が焼けて無くなり村の住民全体が虐殺された所もあります。
 1947年から54年まで
 当時、済州の人口の10分の1、3万人が亡くなったと推定されます。
 理念が分けた生と死の境界線は虐殺の場だけにあったのではありません。
 一度に家族を亡くしても「暴徒の家族」という言葉を聞きたくないがために
 息を殺して生きなければなりませんでした。
 苦痛は連座制として次世代に受け継がれもしました。
 軍人になり、公務員になり、国のために働こうとする子どもたちの熱望を
 済州の父母たちは自らの手で折らなければなりませんでした。
 4.3は済州のあらゆる場所に染み込んでいる苦痛ですが、
 済州は生き残るために記憶を消さなければならない島になりました。
 しかし、言葉にできない歳月のあいだ
 済州島民たちの心の中から真実は消え去りませんでした。
 4.3を歴史の場に正しく打ち立てるための涙ぐましい努力も
 途絶えることはありませんでした。
 1960年4月27日、観徳亭の広場で、
 「忘れろ、じっとしていろ」と強要する不義の権力に立ち向かい
 済州の青年学生たちが立ち上がりました。
 済州の中学高校生1500人が
 3.15不正選挙の糾弾とともに、4.3の現実を叫びました。
 その年、4月の春はいくらも経たずに
 5.16軍部の勢力に捻じ曲げられましたが
 真実を知らせようとする勇気は消え去りませんでした。
 数多くの4.3団体たちが
 記憶の外にあった4.3を絶え間なく呼び起こしました。
 済州4.3研究所、済州4.3道民連帯、済州民芸総など
 多くの団体が4.3を抱き続けました。
 4.3を記憶することが禁忌であり語ること自体が不穏に見られた時節、
 4.3の苦痛を作品に刻み込み
 忘却から私たちを呼び覚ました方たちもいました。
 維新独裁の頂点であった1978年に発表した、
 小説家、玄基栄(ヒョン・ギヨン)の「順伊おばさん」
 金石範(キム・ソクボム)作家の「鴉の死」と「火山島」、
 イ・サナ詩人の長編叙事詩、「ハルラ山」
 3年間、50編の「4.3連作」を完成させた
 カン・ヨベ画伯の「椿の花が散った」
 4.3を扱ったはじめてのドキュメンタリ−映画
 チョ・ソンボン監督の「レッドハント」
 オ・ミョル監督の映画「チスル」
 イム・フンスン監督の「悲念」とキム・ドンマン監督の「タランシ窟の悲しい歌」
 故キム・ギョンユル監督の「終わらない歳月」
 歌手アン・チファンの歌「眠らない南道」
 時には逮捕と投獄につながった芸術家たちの努力は
 4.3がただ過去の不幸な事件ではなく
 今を生きる私たちの話であることを知らせてくれました。

 ついに私たちは4.3の真実と記憶を、明らかにすることが
 民主主義と平和、人権の道を開く課程であることを知りました。
 済州島民と共に長いあいだ4.3の痛みを
 記憶し知らせてくれた方たちがいたからこそ、4.3は起き上がりました。
 国家の暴力が起こしたあらゆる苦痛と努力に対し
 大統領として、もう一度深く謝罪し、また、深く感謝いたします。
 4.3生存犠牲者と遺家族の皆さん、国民の皆さん、
 民主主義の勝利が真実に進む道を開きました。
 2000年、金大中政府は4.3真相究明特別法を制定し、
 4.3委員会を作りました。
 盧武鉉大統領は大統領としてはじめて4.3に対する国家の責任を認め、
 慰霊祭に参席し、犠牲者と遺族、済州島民に謝罪しました。
 私は今日、その土台の上に4.3の完全な解決を目指し
 揺らぎなく進むことを約束します。
 これ以上4.3の真相究明と名誉回復が
 中断したり、後退することは無いでしょう。
 それと共に4.3の真実はどんな勢力も否定することのできない
 明らかな歴史の事実として、位置付けられたことを宣言します。
 国家権力が加えた暴力の真実をきちんと明らかにし
 犠牲となった方たちの怒りを解き名著を回復するようにします。
 このために遺骸の発掘事業も悔いが残らないよう
 最後まで続けて行きます。
 遺族たちと生存犠牲者たちの傷と痛みを治癒するための
 政府としての措置に最善を尽くす反面、
 賠償・補償と国家トラウマセンターの建設など立法が必要な事項は
 国会と積極的に協議いたします。
 4.3の完全な解決こそが済州島民と国民の皆が望む
 和解と統合、平和と人権の確固とした土台になるでしょう。
 済州島民の皆さん、国民の皆さん、
 今、済州島はその全ての痛みを乗り越え
 平和と生命の地として復活しています。
 私たちは今日、4.3の英霊たちの前で平和と相生は理念ではない、
 ただ真実の上だけで正しく立つことできるという事実を
 ふたたび確認しています。
 左と右の激烈な対立が残酷な歴史の悲劇を生みましたが
 4.3犠牲者たちと済州島民たちは
 理念が作り出した不信と憎悪を乗り越えました。
 故オ・チャンギさんは、4.3当時、軍警により銃傷を受けましたが
 朝鮮戦争が起きるや「海兵隊3期」に志願入隊し
 仁川上陸作戦に参戦しました。
 妻と父母、義母と義妹をすべて失った故キム・テセンさんは
 愛国の血書をしたため軍隊に志願しました。
 4.3で「アカ」とされた青年たちが死を覚悟し祖国を守りました。
 理念はただ、虐殺を正当化する名分に過ぎませんでした。
 済州島民たちは和解と容赦で理念が作り出した悲劇を勝ち抜きました。
 済州のハギ里では護国英霊碑と4.3犠牲者の慰霊碑を一箇所に集め
 慰霊壇を作りあげました。
 「皆が犠牲者であるから、皆を容赦するという気持ち」で碑を建てました。
 2013年には最も葛藤が深かった4.3遺族会と済州警友会が
 条件無しの和解を宣言しました。
 済州島民が始めた和解の手は
 これからは全ての国民のものにならなければなりません。
 私は今日この場所で、国民の皆さんに呼びかけたいです。
 未だに4.3の真実を無視する人々がいます。
 未だに古い理念の屈折した目で4.3を眺める人々がいます。
 未だに韓国の古い理念が作り出した憎悪と敵対の言葉が溢れています。
 もう私たちは痛みの歴史を直視できなければなりません。
 不幸な歴史を直視することは
 国と国のあいだでだけ必要なことではありません。
 私たち自らも4.3を直視できなければなりません。
 古い理念の枠に考えを閉じ込めることから逃れなければなりません。

 これからの韓国は
 正義にかなった保守と、正義にかなった進歩が
 「正義」で競争する国にならなければなりません。
 公正な保守と公正な進歩が「公正」で評価される時代でなければなりません。
 正義にかなわず、公正で無いならば、保守であろうと進歩であろうと、
 どんな旗でも国民のためになることはできないでしょう。
 生活のあらゆる場から理念が投げかけた敵対の影を取り除き
 人間の尊厳を咲かせられるように、皆が共に努力していきましょう。
 それが今日、済州の山々が私たちに聞かせてくれるお話です。
 4.3生存犠牲者とご遺族の皆さん、国民の皆さん、
 4.3の真相究明は地域を越え
 不幸な過去を反省し、人類の普遍価値を取り戻すことです。
 4.3の名誉回復は和解と相生、平和と人権に向かう
 私たちの未来です。
 済州は深い傷跡の中でも
 過去70年間、平和と人権の価値を叫んできました。
 これからその価値は、朝鮮半島の平和と共存につながり、
 人類全体に向かう平和のメッセージとして伝わることでしょう。
 恒久的な平和と人権に向かう4.3の熱望は決して眠ることはないでしょう。
 それは大統領である私に与えられた歴史的な責務でもあります。
 今日の追念式が4.3の英霊たちと犠牲者たちに慰安となり、
 わが国民たちにとっては新しい歴史の出発点になることを願います。
 皆さん、
 「済州に春が来ています」
 ありがとうございます。
            2018年4月3日
            大韓民国大統領 文在寅


 これ以上付け加えることはありません。

 「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | その他 | ▲ top
明治維新からの150年を科学技術の視点から捉えると
2018/03/27(Tue)
 3月27日 (火)

 今年は明治維新から150年にあたるのだそうです。出版界などではその特集がおこなわれています。NHKの大型ドラマも西郷隆盛です。しかし西郷は明治政府にとっては国賊です。ですから靖国神社には祀られていません。これを機会に祀られることになるのでしょうか。
 これまで、歴史の多くは人文科学、社会科学の分野から語られてきました。今般、山本義隆著 『近代日本150年 ―科学技術総力戦体制の破綻』 (岩波新書) を読みました。自然科学の視点からの歴史です。具体的には、技術、軍事などの分野を中心に国の政策、そこから派生した公害、原子力の問題、それをもたらした科学信仰、それらに関わった科学者の姿勢などをおりまぜて現在の問題を提起しています。
 歴史学者の歴史ではない150年はあらためて発見することも多くありました。


 1853年、ペリーの黒船は沖縄経由で浦賀にきます。黒船は帆船ではなく蒸気動力です。幕府への献上品は蒸気機関車の模型と有線電話の装置一式でした。これを契機に人力・畜力・水力・風力から動力革命、エネルギー革命が進みます。
 そして幕末1862年の薩英戦争、63年・64年に長州藩とイギリス・フランス・オランダ・ アメリカの列強四国との間に起きた下関戦争における敗北を踏まえ、幕府は国防の必要性を増強させます。幕府は国防教育と情報収集が急務となります。その認識はその後、現在に至るまで踏襲されているといえます。
 これまでの近代科学は 「医師の蘭学」 でしたが、「武士の洋学」 にとって代わります。幕府等から派遣された使節団も鉄を使用した製造工場の機械化と石炭を使った蒸気機関の動力革命による産業革命、それによって達成された強力な経済力を目の当たりにしてあせります。

 1969年に築地―横浜間に電信線が架設され、72年に新橋―横浜間に鉄道が開通し、富岡に完全蒸気動力の製糸場が建設され日本の近代化は始まります。
「明治の初めに新生日本の針路としてたんなる開国をこえる 『文明開化』 をもっとも明確に揚言したのは福沢諭吉であった。幕末の1866年に 『西洋事情』 で 『歴史を察するに、人生の始は莽昧 (もうまい) にして、次第に文明開化に赴くものなり』 と語り、『文明開化』 という言葉を世に定着させた福沢は、『概略』 で 『人間の目的は唯文明に達するの一事あるのみ』、『文明は人間の約束なれば、之を達すること固より人間の目的なり』 と言いきっている。
 単純化して言えば、人類は 『野蛮』 → 『半開』 → 『文明』 という一方向に進歩していくというのが福沢の歴史哲学であって、アフリカは 『野蛮』、アジアの国々は 『半開』、そして大多数の欧米諸国は 『文明』 の状態にある、というのがその現状認識である。すなわち 『西洋諸国は文明にして、わが日本は未だ文明に至らざる』。そこから導かれる結論は、現時点での最高の文明段階にある西欧文化を目標として日本は 『文明化』 を進め、欧米諸国にならぶかたちでの独立を達成すべきということになる。その 『文明化』 とは、つまるところ工業と商業の発展にほかならなかった」

 ここから福沢のアジア観が登場します。
 福沢は、1882年に 『朝鮮の交際を論ず』 を著します。
「日本はすでに文明に進て、朝鮮は尚未開なり、・・・彼の国勢果たして未開ならば、之を誘ふて之を導く可し」

「1885年の 『脱亜論』 では 『我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其国民の精神は、既に亜細亜の固陋 (ころう) を脱して、西欧の文明に移りたり』 と現状をとらえ、みずからを 『文明』 サイドに置き、そのうえで支那 (ママ しな) と朝鮮は 『古風旧慣に恋々する』 ばかりと決めつけ、文字通り上から目線で 『吾輩を以て此の二国を視れば、今の文明東漸 (とうぜん) の風潮に際し、迚 (とて) もその独立を維持するの道ある可らず』 と断定している。
 この時点で福沢は、中国・朝鮮の近代化に見切りをつけたのである。自他についてのその現状認識から導かれる結論が 『脱亜入欧』 であった。」
 福沢の 『脱亜論』 です。
「左れば今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を持て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其俉を脱し西欧の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接する法も、隣国なるが故にとて特別の解釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従って処分する可きのみ」
 これが国家の意思となり日韓併合へと突き進んでいきます。


 今は科学技術とひとつのくくりで語られますが、科学と技術は違います。科学は大学アカデミズムの内部で論じられる哲学ないし思想としての思想感のことであり、実践の学としての医学をのぞいては実践的応用を意図していません。他方、技術は長年にわたる膨大な経験の蓄積をとおして形成されたもので、力学理論や科学理論にうらづけられていたわけではありません。技術の知識は理論化されることもなく、徒弟就業による実施訓練で伝承されてきました。
 例えば、イギリスの産業革命の過程での蒸気機関の発展をもたらしたジェームス・ワット、蒸気機関車を実用化したジョージ・スチーブンソンらは高等教育とは無縁でした。日本における豊田式汽力織機などたくさんの発明をした豊田佐吉もそうです。

 日本の文明化においては科学と技術が同時に取り入れられ、カデミズムのもとに研究開発がすすめられます。東京帝国大学を頂点にして、産・軍の研究が進みます。そして国家意識の涵養を目的とする教育が始まります。
さらに、
「結局、日本における明治期の機械工業の発展は、一方では、軍の近代化に牽引されるとともに、他方では、輸入された最新鋭プラントの裾野に、在来の意欲的な職人たちが、輸入機会をモデルにして人力や水力駆動の、木製ないし一部金属製の比較的安価で在来職人にとっても使い勝手の良い和洋折衷の機械、あるいは比較的単純で小型化された模倣品を作り出し、そのような国産機械の製造あるいは輸入機械の部品製造を手掛ける中小規模の企業が地方都市にいくつも生まれることで達成されたのである」


「10世紀の科学技術は、人間が自然より優位にあるという立場の近代科学にもとづいているのであり、ここから技術によって自然を人間に奉仕させる、技術によって自然を征服する、技術によって自然から収奪するという観念が生まれてきた。技術が科学技術になることによって、技術観そのものが変わってしまったのである。」
 日本においては、科学技術の進歩に対する無批判な信頼と無条件の礼賛は、階級的立場を問わず、思想信条を問わずに疑われることはありませんでした。その結果は、公害を垂れ流す結果になり、被害を顧みなり原子核開発の推進に至ります。
 この思想は、第二次世界大戦後においては、「神風神話」 に取りつかれたから敗けた、「科学戦の敗北」 「科学の立ち遅れ」 と盛んに主張されることになります。そして再度、自然科学だけでなく、社会科学、人文科学の分野においても 「科学的」 思考がもてはやされました。
 

 福沢諭吉の1993年の 『実践論』 によると、「蚕糸及び蚕綿類」 の総額と日本の輸出総額に対する割合は、1883年に約1900万円で5割強、92年には約4000万円で約4割5分で 「生糸は日本の外国貿易の収支均衡を支える存在」 でした。

 1903年に農商務省が出版した 『職工事情』 です。
「労働時間を夜間に延長する所あり。・・・この方法を行ふときには毎日の労働時間は決して十三・四時間を下らざるべし。・・・〔好況時には〕 十八時間に達すること、しばしこれあり」とあります。
 この状況を福沢はどう見ていたのでしょうか。
「〔紡績〕 工場の秩序事務の整理は、我国人の最も重んずる所にして、次第に慣るるに従って次第に緒に就き、之を英国の工場に比して大なる相違なき上に、我国特有の利益は、工場の事業に昼夜を徹して器械の運転を中止することなきこと、職工の指端機敏にして能く工事に適すること、之に加うるに賃金の安きと、この三箇条は英国の日本に及ばざるところなり。彼国の工場にて、作業時間は毎日十時間にして、彼は器械の運転を止め職工も十時間を働くのみ。日本は昼夜二十時間打通しに器械を運転して、其間凡そ二時間を休み、正味に十二時間を二分して職工の就業は十一時間なり、故に紡錘一本に附き、一年の綿花消費高に大なる差を見る可し」
 この思想は国家有りて国民なしです。多くの女工が肺病にり患し、遺骨となったりしながら故郷に戻りした。
 現在の日本の状況を述べていると錯覚してしまいます。労働者や人びとの生存権に国家が優先するという関係は100年経っても根本的には問い直されていません。

 1923年に鐘淵紡績神戸工場を見学した駐日フランス大使ポール・クローデルの報告です。
「昼夜二交代制で各チームが十ないし十一時間働くのです。食事に三十分、そして三時間半ごとに十五分の休憩があります」
「産業の分野であれ、教育の分野であれ、日本は一所懸命やっているのですが、うまくいっていません。恐ろしいほどの犠牲を払い、みずからの血肉を削って、かろうじて西欧との僅差を保つことができているのです。夏の猛烈に暑い夜を徹して、年端のいかない娘たちがまるで夢遊病者のようにミュール精紡機の動きに合わせ、休むことなく前に行ったり後ろに戻ったりして体を動かしているのを見たフランス人の私は、深い同情を禁じ得ません」
 国民性、感性の違いというだけではありません。西欧に追いつけ追い越いこせを煽る福沢のなかに、戦中の精神主義・ 「大和魂」 を想起させます。まさしく非科学的です。

 
 「生糸、米穀と並んで1880年代に輸入が大きく伸びたのは銅と石炭です。」
 1885年~95年、栃木県足尾銅山は国内の銅の4割以上を生産していました。同時に近郊の村を破壊し、労働者の身体を破壊しました。そして渡良瀬川流域の住民に鉱毒をまき散らしました。これに対する住民の反対運動、請願が繰り返されます。
 これに対し、1905年1月23日、農商務省鉱山局長・田中隆三は衆議員鉱業法案委員会で明言します。
「鉱業と云うものは、其国家の一つの公益事業と認めている、随って其事業の結果として、他の人が多少の迷惑を受けるということは仕方がない」
 そして1907年、矢中村は村民の抵抗もむなしく滅亡させられます。
 おなじようなことが水俣でも起こります。公害が戦後復興の象徴のようにいわれた時期がありました。
 現在の、福島原発の被災者を連想させます。


 戦後、さまざまな分野で戦争責任が追及されました。しかし自然科学者と技術者だけはどこからも責任を問われませんでした。「国策大学」 は維持されます。
 1942年に極秘の原爆製造計画マンハッタン計画がスタートします。計画は、現在の日本円にして約2兆円以上を要し、13万人を投入しました。45年7月16日、ニューメキシコの砂漠で実験が成功し、8月6日に広島にウラン爆弾、8月9日にプルトニウム爆弾が投下されます。
 広島に投下された16時間後米国大統領トルーマンは 「将来、原子力は現在の石炭・石油・水力を補う動力源となるだろう」 と声明を発表します。
 原爆投下直後の広島に、大本営調査団として現地調査をした理化学研究所の仁科芳雄は日本陸軍の原爆開発啓発の中心人物です。仁科が、原爆投下を知って直後に語ったことは、物理学者がかくも破壊的な兵器を生み出したことにたいする畏怖の念ではなく、自分たちがなしえなかった原爆製造に米国の学者たちが成功したことの無念さであり、日本国家に対する申し訳なさでした。
 そして 「科学が現代の戦争といはず文化といはず、凡ての人類の活動上、如何に有力なものであるのかということを示す一例である」 との理解を示し、「原子爆弾は有力な技術力、豊富な経済力の偉大な所産である」 と結んでいます。
 ここから原子力の 「軍事利用」 と 「平和利用」 の二分法がでてきます。

 中曽根康弘は、1955年の原子力基本法をめぐる国会の議論で 「日本の現在の国際的地位は戦争に負けて以来非常に低い」 という認識を踏まえて語っています。
「われわれが国際的地位を回復し、日本の科学技術の水準を上げるということは、原子力や科学によって可能であると思うのであります。・・・日本の国際的地位を回復するという意味におきましても、原子力基本政策を確立することは、歴史的意義を有することと思うのであります。」

 中曽根の思いは福沢に遡るといえないでしょうか。その意味では150年間に一貫性があります。
 明治維新以降の日本における科学技術の発展は、人びとの生活のためではなく、軍事力の強化が最優先でした。その最たるものが現在にもおける原子力への固執です。
 明治維新以降の150年の歴史はその視点からの捉え返しが必要です。

  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | その他 | ▲ top
秩父の子 金子兜太
2018/02/27(Tue)
 2月27日 (火)

 「アベ政治を許さない」 を揮毫した俳人の金子兜太さんが2月20日に亡くなりました。
 「安倍」 では安心や安寧が倍になるからいやだと 「アベ」 にしたのだそうです。反骨精神は旺盛でした。それは自らの戦争体験に基づくもので、戦争反対の主張を貫きました。
 作品も社会性がにじんだのがおおく、しかも上から目線ではなく、地べたからの声を詠みました。選定に際してもそうでした。そして形式にこだわらない、季語を重視しないで、それぞれの思いを深く詠んだ作品を選んでいました。
 最近は俳句ブームが起きています。金子さんが選者をつとめ、毎週月曜日に掲載される 『朝日俳壇』 は楽しみにしている人たちもたくさんいました。

  〈曼珠沙華 どれも腹出し 秩父の子〉

 金子さんは秩父・皆野町出身です。晩年は熊谷市に住んでいましたが、句会を開催する別荘は秩父の山ろくでした。地べたからのこえが聞こえる感性は、秩父の山ろくで磨かれたものかもしれません。
 72年10月末から、金子さんは朝日新聞に 「秩父困民党」 を4回連載します。そのために事件に関する資料を調べ、事件の足跡をたどります。
 秩父困民党とは、1884年 (明治17年) 11月1日に秩父・下吉田村の椋神社に結集した数千名の秩父の農民たちはことです。農民たちは規律を持って行動し、高利貸しなどを襲い、大宮郷 (現秩父市) 郡役所を占拠し、さらに軍と対峙するなどの闘いを展開します。しかし9日に壊滅します。後の裁判では7人が死刑判決を受け、執行されます。

 秩父事件を研究する1つの潮流の人たちは、事件は自由民権運動の影響をうけ、指導部にも党員が多いと解説します。しかし金子さんはちがう見方をします。
「蜂起農民の大方が、かなり自覚的に、『自由党』 を受け入れていた。尋問調書などには、『借金党』 『負債延期党』 とともに、『自由党ニシテ貧民党ヲ合シテ』 とか、『自由困民党』 の呼称がみられる。『板垣さんの世直し』 への期待と同調の意識もかなりあったようだ。軍組織や動員力など、自由党員なしには考えられないことだし、現に秩父自由党の半数程度が参加している。
 にもかかわらず、板垣退助監修 『自由党史』 は、自由民権運動末期の一連の放棄を記述するとき、この事件を 『埼玉の暴動』 として、異質視している。博徒や猟夫、不平農民の類いの集団だという歪曲さえ見える。」
「結論的にいえば、これは単なる百姓一揆でもなく、自由党蹶起事件でもない。もっとユニークなものということである。借金農民の抵抗活動が、おのずから生み出した 〈党行動〉 ―いわば、同じ目的で集り、相談しつつ行動するうちに形成された組織的集団であって、自由党的組織・行動論は、そのなかに吸収され、有効性を発揮した、ということである。」

 記録の表面だけを読むのではなく、農民たちの心情の奥まで読み取っています。これこそ俳人の感性なのでしょうか。
 では実際に自由党員はどれくらいいたのでしょうか。蜂起に際して名前を記載したものがありますが正式な入党届とはいえません。いわば連判状のようなものと捉えた方が無難です。そして 「秩父自由党の半数程度が参加」 という人たちのほとんどは、蜂起のかなり前に逮捕されたり、逃亡しています。しかし自由民権運動の影響をうけたと主張する研究者たちは蜂起のかなり前からを秩父事件として括ります。
 実際は、自由党との関係が絶たれていたから、蜂起にむかう計画が自由党にも警察権力にも漏れなかったので成功したのです。板垣退助監修の 『自由党史』 の方が正しい評価だと思います。


「この農民蜂起が、かなり明確な軍組織をもっていたこととともに、上武信国境地帯にひろがり、参加人員1万名、『その規模において西南の役に次ぐ公判件数といわれ、死刑者7名を出す明治政府へ抵抗する最後の大がかりな暴動』 (重松一義) とされる、その規模の大きさに注目されなければならない。これは困民党の動員力の根強さの証左ともみられるからである。むろん、駆り出された者や野次馬も多いのだが、軍規にさほどの乱れがなかった点、そればかりとはいえまい。
 しかも重松一義氏は、熊谷、浦和両裁判所処断の重罪者中、前科者は1%にも達していないと指摘して、困民党は賭博集団という一部世評の誤りを正している。また参加層 (職業) は広く、熊谷監獄支署未決者581名中には、医師、角力取各1名が含まれており、7割までが中年の妻帯者だったという。まこと、生活要求的日常性に富んでいた、ということであろう。」
 自由民権の政治的主張に裏付けされた行動とはいえません。そうとらえると逆に農民たちの生活実態と要求、そして行動力が見えなくなります。


 では当時の農民がおかれた状況はどうだったのでしょうか。
「養蚕への依存は特に横浜開港以来は、商品経済丸浸りを意味する。いざり機で織っていた白絹は良質の生糸が輸出用として買いとられてゆくようになると、織れなくなった。屑糸で太織をやるしかない。生糸は生糸で、水力や蒸気を使う機械製糸に吸収されてゆく。結局は繭のまま売るしかないから、その値段が彼らの首根っこを押えることになった。繭仲買人が動きまわる。
 その状態の上で、明治15年まで、3回の糸価好調を体験したが、それから2年間で、生糸も米も半値になってしまう。諸物価も西南の役勃発前の水準に戻る。大蔵卿・松方正義の、不換紙幣鎖却を狙う強引な財政政策が実効をあげたわけだが、国税、地方税は増徴され、農家と中小業者の苦渋は著しかった。いわゆる資本の原始的蓄積の強行である。
 それも、好不況に交互に揺さぶられては、たまったものではない。農家は高利貸しに頼り、しかもデフレの進行は、その実質負債を高めた。そこへもってきて、利息制限法違反承知で 『切金貸 (きりかねがし) 月しばり』 という過酷な貸付方法がとられた。」

 思い起こすと金子さんは日銀で働いていました。経済分析は他の歴史書や解説書よりもわかりやすく説得力があります。
 そして俳人でした。
「私は山形情念ということばで、山国住民の内ふかく蟠 (わだかま) る、暗鬱で粘着的な実態を窺 (うかが) うのだが、それはだから、光には敏感だった。開明の空気は、内なる暗と外なる明の対象をより鮮やかにしていったから、見えてきた光 (外からの、あるいは外への) が理不尽に閉ざされたときの暗部の激発は、誰も防げるものではなかったのだ。しかし日頃は、わずかな光でも、遠い峠の上の薄明かりを望むように、それを頼りに耐えるしかなかった。粘り強く、剛気に。」

「11月9日早暁、蜂起農民は鎮台兵の襲撃を受けて潰走 (かいそう) する。困民党は掃蕩 (そうとう) され、その後の取り調べは埼玉、群馬、長野、山梨、東京の一府四県にわたって行われた。埼玉には、大宮 (いまの秩父市)、小鹿野、熊谷、八幡山の4カ所に、暴徒糾問所が設けられた。……
 この厳しさは、警官の恐怖心と苛ら立ちを反映している面もあるが、それだけのことではない。官側は、この蜂起が単なる百姓一揆と違うことを重視し、東京に近い事件であることを警戒した。鎮台兵一コ中隊、憲兵三コ小隊の投入も並みのことではない。事件の影響力を削るために、一部不逞の徒の使嗾 (しそう) による地方的事件という印象を打ち出そうとしたのもそのためで、幹部は重刑、他は軽くの方針を実行した。」

 事件後の現地はどうでしょうか。
「そうした大騒ぎにもかかわらず、事件の基因は改善されなかった。……山地農民の貧窮は一向に軽減されなかった。」
「それらが反感と嫉視を生んで、相互監視的になった。そして、暗い沈黙が広がる。批判は冗談口で語られ、郡長の逃げっぷりを茶化すていどになる。早めに離脱した幹部への不信感がくすぶり、無力感が加わる。……無力感の一方に事大主義が育ち、気に全体の暗い成行きの中で権威追随的になる。祖父たちのことは遠のき、時代も記憶の維持をさまたげていた。戦時中は、秩父事件のことを口にすることも禁じられていたといわれる。」

「しかし、光は消えない。……
 その見事な集約を、私は、(佐久) 東馬流 (ひがしまながし) にたつ 『秩父暴徒戦死者之墓』 に見る。農民の戦死者13名のうち、佐久地方の4名は遺骸を引きとられたが、残る9名は引き取り手がないままに、地元の人によって、鎮守の社前に葬られた。……
 そのそば、……大きな墓が建っていた。……
 墓は片側に 『昭和八年十一月九日菊池貫平孫共建之』 と刻まれ、他の側に 『明治十七年十一月九日朝戦没』 とある。これ以外にはなにもない、まことに簡潔な墓碑銘だが、これらのことばから私には、3つのことが読めた。1つは、『暴徒』 の 『戦死者』 たること、2つは、建てたのが貫平の 『孫共 (ども)』 であること、第三は、碑ではなく、『墓』 であること。
 この墓が建てられた昭和八年 (一九三三年) は、国連脱退の都市で、満州事変勃発して二年になる。……秩父暴徒と刻むしかない時代だった。しかし戦死者ということばには、強盗狡猾敵日常レベルの暴徒ではなく、国事犯たる暴徒という断定がこめられている。大事業をなしたる暴徒なり、の理解だ。そして、その大事業といういいかたは、組織された農民蜂起としてのそれ以後の民衆運動に対しても先駆性についてもいえる。しかも、その組織を、明治政府の圧力と自由党の強い不快感のなかで、自由党左派の協力を吸収しつつ自力で実現し、独自の党への展望までも示しえたことが評価される。むろん先駆行動のもつ未熟と問題を、十分にかかえているわけだが、それだけにかえって、現在の民衆運動と民衆の党のありかた、その関わりかたへの示唆は大きい。
 そして、これを建てたのは貫平の 『孫共』 だった。この無名の人たちがきいているものは、これまた無名の農民たちの、切なる声だ。自力で立たざるをえなかった借金農民の、やむにやまれぬ声がきこえないものに、この事件の一かけらもわかることはない。その声は、理想の旗越しに禺民を見下ろしているものの声ではない。地べたからの声なのだ。
そして、碑ではなく 『墓』 だ。顕賞や顕示ではなく、祈りなのだ。」

 「暴徒戦死者」 の墓を建てること自体国家への反逆です。しかし忘れてはならない人びとの叫びを無駄にしないで継承する必要があるというもう一つの叫びがありました。
 農民は後に暴徒といわれようと、自分たちの思いを行動に変えたのです。「先駆行動のもつ未熟と問題」 は、その思いを今に照らして継承しようとする者たちへの課題です。


 2004年に秩父事件を取り上げた映画 「草の乱」 が完成します。秩父での撮影には 「暴徒」 の子孫の人たちもエキストラとして参加しました。地元で上映されると、映りだされる先祖たちの姿を観てあらためて誇りをもつことができるようになりました。事件から120年後に 「暴徒」 の汚名は返上され、名誉ある称号になりました。
 金子さんはもちろん観たと思われますが、感慨深かったものだったでしょう。


   「活動報告」17.11.14
   「活動報告」16.11.2
   「活動報告」15.11.5
  「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」 ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | その他 | ▲ top
湯川秀樹と原子力
2017/12/22(Fri)
 12月22日 (金)

 12月21日、マスコミ各紙は、京都大学が公表した1949年に日本人初のノーベル賞 (物理学賞) を受賞した湯川秀樹の終戦前後の日記について紙面を大きく割きました。

 日記には、45年2・3月の硫黄島の闘い、4~6月の沖縄戦について戦況を詳しく記録、7月5日は各地の空襲被害状況、7月28日には降伏を迫るポツダム宣言の詳細を記しているといいます。新聞記事などを写したとみられるといいます。ただ、直接的な感想などは書かれていません。
 8月6日の広島原爆の投下直後については、軍は新型爆弾と発表したが、8月7日付は 「新聞等より広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」 とあり、原子物理学者として投下されたのが原爆と知っていました。
 8月15日は 「朝散髪し身じまいする。正午より聖上陛下の御放送あり ポツダム宣言御受諾の已むなきことを御諭しあり。大東亜戦争は遂に終結」 と記しています。

 湯川は 「F研究」 と呼ばれる京都帝国大での原爆研究に関わっていました。Fはfission (核分裂) の頭文字です。戦況を打開する手段として、海軍が研究を本格化させたのは43年ごろ。京都大学は委託を受け、44年10月には、大阪・中之島の海軍士官クラブ 「水交社」 で京大と海軍による初会合が開かれました。原爆製造に欠かせないウランの濃縮計画の報告があり、湯川も核分裂の連鎖反応について報告しました。
 45年2月3日付の日記には「午後 三氏と会合 F研究相談」とあるように 「F研究相談」 「F研究 打合せ会」 といった記述が45年2~7月に計4回登場します。5月28日の日記には、F研究 「決定の通知あり」 の記述があります。研究は極秘で進められました。
 日本の原爆研究はF研究と、旧陸軍の委託で理化学研究所 (東京) が行った 「ニ号研究」 があります。

 9月15日の日記には、「午前十時 学士試験 その最中に米士官二名教室へ来たので直ちに面会」、10月4日にも 「朝早く登校、部長室にて米第六軍士官四名と会見。理学部の研究につき質問を受ける」 とあります。F研究について戦後、連合国軍総司令部 (GHQ) から数回取り調べを受けました。
 後に明らかになったGHQの文書は 「湯川はプロジェクトの理論にわずかしか関与していない」 と報告しています。
 10月17日の日記には 「(西谷啓治氏らと) 科学と思想の問題を中心として論議」 とあります。


 戦後の湯川や科学者たちの動向を、山本昭宏著 『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 (人文書院) から探ってみます。
 湯川は敗戦後の数カ月、外部への沈黙を続ける日々を送りました。そして 「週刊朝日」 45年10・11月号に 「静かに思う」 という文章を寄稿します。(ただしこの文章は後に本人が何回か手を加えたものです)
「わが国からはこれに比肩すべき新兵器はついに現れなかった。総力戦の一環としての科学戦においても残念ながら敗北を期したのである。もちろんこれは多くの理由があるであろう。例えば原子爆弾の場合においても、人的、および物的資源の不足、工業力、経済力の貧困等を挙げることはできるであろう。一言にしていえば、彼我の国力の大きな差異が物を言ったのである。敗北の原因が人々によって色々と挙げられているが、全ては結局彼我国力が懸絶していたことに帰着するのであって、最高指導者がこの点を無視したこと自身が最も非科学的であったといわねばならぬ」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』から孫引き)
 科学戦の敗北だと語ります。

 戦後、なぜ日本が戦争に敗北したかを問う時に 「科学戦の敗北」 と理解されました。「大和魂」 や 「神風が吹く」 のような非科学的な思考と体制否定の裏返しでもありました。
 そして科学は 「新しい日本」 の 「民主主義」 や 「平和」 の源と位置づけられました。科学には原子爆弾も含まれていました。これは、湯川の思考でもありました。
 アメリカはフャシズムを倒した、原爆使用は戦争の終結を早めた平和勢力という評価が登場します。

 原子爆弾について、科学者の手による最初の解説論文は理化学研究所所長の仁科芳雄の46年3月に 「世界」 に載った 「原子爆弾」 でした。仁科は45年8月8日に広島に投下された爆弾は原爆だと直感して被爆地調査を行っています。
「今日原子爆弾を製造しうるのはアメリカだけである。そしてこの国は平和を愛し、侵略を否定する国である。こんな国が原子力の秘密を独占しうる間は、侵略行為は不可能であり、従って世界平和は保持せらるることになるであろう。即ちアメリカは世界の警察国として、原子爆弾の威力の裏付けによって国家の不正行為を押え、国際平和を維持しうる能力を有していたのである」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 アメリカを世界の警察官と捉えます。その認識の背景には、46年に創設された国連原子力委員会と、アメリカが提案していた原子力国際管理の存在がありました。
 その後の47年、仁科の主張は、アメリカという認識に代わって平和をもたらす 「世界国家」 という言葉が登場します。原子爆弾は世界の警察となるべき 「世界国家」 が戦争抑止のために保有すべきだと考えます。

 物理学者の武谷三男も、原子爆弾の製造に重要な役割を果たしたボーアやフェルミがそれぞれドイツとイタリアからの亡命者であることを挙げ 「原子爆弾は最初から反ファッショ科学としての性格を強く持っていたのである」 と指摘しました。さらには、原子爆弾の 「技術論的意義」 として、アメリカの工業力だけでではなく、アメリカの労働者の 「民主主義的原動力」 を高く評価していました。このように武谷は戦後民主主義の価値観に合致するものとして原子爆弾を位置づけていました。
 原子爆弾は平和と結びつけられていました。

 「世界の警察官」 のアメリカの独占所有により、世界の平和は維持されるという世論が支配します。そして原子力については国際管理を行って平和利用を進めるという主張です。


 さらに47年にトルーマンが放射性アイソトープを医学研究のために海外の研究所に提供することを申し出ると、原子力研究は 「平和的利用」 と肯定的に捉えられられます。
 48年の湯川の文書 「知と愛について」 です。
「このようにして見出された自然の新しい性格は、私どもにそれが物質とエネルギーの両面にわたるほとんど無尽蔵ともいうべき資源として、将来活用され得るものであるという大きな希望を与えることになった。原子爆弾の成功はこの希望の実現へ向かっての第一歩であった。今後における原子力の平和的活用が人間の福祉にどんなに大きな貢献をするか、おそらく私どもの想像以上であろう」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 物理学者たちは 「原子力の夢」 を披歴していました。
 この頃は、「軍事利用」 と 「平和利用」 は必ずしも区別されていたわけではありません。

 49年11月、湯川はノーベル物理学賞を受賞します。
 科学・原子力への期待は高まります。


 しかし国際的緊張は高まります。49年9月、ソ連は原爆保有を公表します。アメリカの独占は崩れます。10月1日、中華人民共和国が成立します。「東西冷戦構造」 が緊張度を増していきます。
 緊張が高まる中、仁科芳雄は戦争防止のために科学者は世論を喚起させなければならないと説きます。
「現在までのところでは、原子力の応用は一般人に対して原子力爆弾ほど目覚ましいものは見られない。その結果として科学を呪う声も聞かれるのである。原子力の国際管理さえ実現できない今日の国際情勢に於いては、正に科学の進歩が早過ぎたという憾みのあることは拒み得ない事実である。(中略) 今日のような原子力の恐怖時代をもたらせたことに対して科学者はその責任の一端を免れることはできない。その罪亡ぼしとして科学者は戦争を再び起こらないようにする努力をせねばならぬ。これはわれわれの義務である。」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 「科学者の責任」 の言葉が登場します。


 49年4月、パリとプラハで開催された平和擁護世界大会は、原爆の制限と国際管理を求め、これに呼応かたちで10月2日、広島で平和擁護広島大会が開催されます。
 そして50年3月、平和擁護世界大会委員会がスウェーデンのストックホルムで開催され、大会は核兵器廃絶に向けた 「ストックホルム・アピール」 を採択します。そこには 「原子爆弾を使用する政府は人類に対する犯罪人として取り扱う」 などの項目がありました。
 呼びかけに呼応して8月6日から署名運動が開始されます。世界から4億8200万人の署名が集まりました。日本においてもGHQの支配下、朝鮮戦争のさなかに署名運動が展開され、645万筆が集まりました。(17年9月26日の 「活動報告」 参照)
 原爆被害の実態を訴える活動などを通して原子力による平和の主張に抵抗する運動が登場してきます。
 しかし原子爆弾反対と原子力の平和利用は共存していました。


 50年6月、朝鮮戦争が勃発します。11月、トルーマン大統領は、朝鮮戦争で原爆使用を示唆します。しかし反対の世論のなかで使用はできませんでした。
 53年7月23日、アメリカが初めて勝てなかった戦争・朝鮮戦争が休戦協定を締結します。アメリカの覇権が揺らぎます。

 54年3月1日、ビキニ珊礁での米軍の水爆実験で第五福竜丸が被爆します。
 湯川は54年6月号の 『婦人公論』 に文章を寄せます。
「原子力は確かに恐るべき威力を持っている。しかしそれは天然現象ではない。人間の獲得した科学的知識に基づいて、人間のつくりだした仕掛けによってしか、原子力はその威力を発現しないのである。天然現象ならば、人間の力ではどうにでもできない場合もある。しかし原子力は人間の頭脳の中から生まれてきたものである。人間の力で原子力の狂暴性のはつげんを抑え、更に進んでそれを人間のための力として利用することができないはずはない。
 もちろん、原子力が平和的にだけ利用されたからといって、危険が全然なくなるわけではない。原子動力の向上では多量の放射性物質が同時に作り出されるのを避けることができない。それが人間に被害を及ぼさないようにするためには、周到な注意が必要である。そればかりではない。放射性物質がいろいろな形で、今までよりももっと広く人間社会に利用されるようになるに違いない。それに伴って起り得る災害をなくすためにも、細心の注意が必要であろう。しかし、原子力に対する単なる恐怖心によってではなく、一般社会の人びとが原子力や放射性物質に対する一通りの常識を持つことによって、この種の災害は避け得るはずである」(『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 科学の進歩の無謬性に対する疑義が生まれ始めていますが、社会の成長などで乗り越えられると捉えていたと思われます。この捉え方は、のちに原子力発電所建設へと進みます。

 第五福竜丸事件を機に原水爆禁止署名運動が展開されます。しかし 「広島・長崎。ビキニ」 を並置しながら、アピールにおいて広島・長崎の被爆者援護の問題を取り上げなかったように具体的政治目標は掲げませんでした。
 署名運動の広がりを受け、ひろしまの被爆者団体が、被爆者問題の重要性を訴え始めていました。

 湯川は、第五福竜丸事件を機に平和運動に尽力します。科学の平和利用を訴えた 「ラッセル・アインシュタイン宣言」 の共同署名者となりました。
 ラッセル=アインシュタイン宣言は、54年12月23日にラッセルが行ったBBCクリスマス放送での演説 「人類の危機」 を要約したもので、55年4月11日に発表されます。
 演説の抜粋です。
「……
 私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、即ち、“ヒト” という “種” の一員としてである。世界は紛争に満ちている。そうして、全ての小規模な紛争に影を投げかけているのは、共産主義と反共産主義との巨大な戦いである。
 政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題のいずれかに強い感情を抱いている。しかしできるならば、そのような感情から離れて、すばらしい歴史を持ち、私たちの誰一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員としてよく考えていただきたい。
 私たちは、一方の陣営に対し、他の陣営に対するよりも強く訴えるような言葉は、一言も使わないように心がけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もしこの危機が理解されれば、全ての陣営がその危険を回避する望みがある。」
 今に通じる内容です。
 宣言に湯川は名を連ねます。
 そして、宣言に基づき、1957年にカナダのパグウォッシュ (Pugwash) で開催された各国の科学者が軍縮・平和問題を討議する国際会議 「科学と国際問題に関する会議」 (「パグウォッシュ会議」) にも参加し核なき世界の実現を訴えました。


 科学の無謬性に対する疑義が人びとを捉えて広がるのは、公害問題間からだといわれます。足尾鉱毒事件、水俣、大気汚染などの問題をとおして原子力発電の問題の捉え返しが行われはじめました。
 捉え返しての運動が展開される最中の2011年3月、取り返しのつかない東日本大震災で福島原発事故が発生します。

   「活動報告」17.9.726
   「活動報告」17.8.4
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | その他 | ▲ top
| メイン | 次ページ