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湯川秀樹と原子力
2017/12/22(Fri)
 12月22日 (金)

 12月21日、マスコミ各紙は、京都大学が公表した1949年に日本人初のノーベル賞 (物理学賞) を受賞した湯川秀樹の終戦前後の日記について紙面を大きく割きました。

 日記には、45年2・3月の硫黄島の闘い、4~6月の沖縄戦について戦況を詳しく記録、7月5日は各地の空襲被害状況、7月28日には降伏を迫るポツダム宣言の詳細を記しているといいます。新聞記事などを写したとみられるといいます。ただ、直接的な感想などは書かれていません。
 8月6日の広島原爆の投下直後については、軍は新型爆弾と発表したが、8月7日付は 「新聞等より広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」 とあり、原子物理学者として投下されたのが原爆と知っていました。
 8月15日は 「朝散髪し身じまいする。正午より聖上陛下の御放送あり ポツダム宣言御受諾の已むなきことを御諭しあり。大東亜戦争は遂に終結」 と記しています。

 湯川は 「F研究」 と呼ばれる京都帝国大での原爆研究に関わっていました。Fはfission (核分裂) の頭文字です。戦況を打開する手段として、海軍が研究を本格化させたのは43年ごろ。京都大学は委託を受け、44年10月には、大阪・中之島の海軍士官クラブ 「水交社」 で京大と海軍による初会合が開かれました。原爆製造に欠かせないウランの濃縮計画の報告があり、湯川も核分裂の連鎖反応について報告しました。
 45年2月3日付の日記には「午後 三氏と会合 F研究相談」とあるように 「F研究相談」 「F研究 打合せ会」 といった記述が45年2~7月に計4回登場します。5月28日の日記には、F研究 「決定の通知あり」 の記述があります。研究は極秘で進められました。
 日本の原爆研究はF研究と、旧陸軍の委託で理化学研究所 (東京) が行った 「ニ号研究」 があります。

 9月15日の日記には、「午前十時 学士試験 その最中に米士官二名教室へ来たので直ちに面会」、10月4日にも 「朝早く登校、部長室にて米第六軍士官四名と会見。理学部の研究につき質問を受ける」 とあります。F研究について戦後、連合国軍総司令部 (GHQ) から数回取り調べを受けました。
 後に明らかになったGHQの文書は 「湯川はプロジェクトの理論にわずかしか関与していない」 と報告しています。
 10月17日の日記には 「(西谷啓治氏らと) 科学と思想の問題を中心として論議」 とあります。


 戦後の湯川や科学者たちの動向を、山本昭宏著 『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 (人文書院) から探ってみます。
 湯川は敗戦後の数カ月、外部への沈黙を続ける日々を送りました。そして 「週刊朝日」 45年10・11月号に 「静かに思う」 という文章を寄稿します。(ただしこの文章は後に本人が何回か手を加えたものです)
「わが国からはこれに比肩すべき新兵器はついに現れなかった。総力戦の一環としての科学戦においても残念ながら敗北を期したのである。もちろんこれは多くの理由があるであろう。例えば原子爆弾の場合においても、人的、および物的資源の不足、工業力、経済力の貧困等を挙げることはできるであろう。一言にしていえば、彼我の国力の大きな差異が物を言ったのである。敗北の原因が人々によって色々と挙げられているが、全ては結局彼我国力が懸絶していたことに帰着するのであって、最高指導者がこの点を無視したこと自身が最も非科学的であったといわねばならぬ」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』から孫引き)
 科学戦の敗北だと語ります。

 戦後、なぜ日本が戦争に敗北したかを問う時に 「科学戦の敗北」 と理解されました。「大和魂」 や 「神風が吹く」 のような非科学的な思考と体制否定の裏返しでもありました。
 そして科学は 「新しい日本」 の 「民主主義」 や 「平和」 の源と位置づけられました。科学には原子爆弾も含まれていました。これは、湯川の思考でもありました。
 アメリカはフャシズムを倒した、原爆使用は戦争の終結を早めた平和勢力という評価が登場します。

 原子爆弾について、科学者の手による最初の解説論文は理化学研究所所長の仁科芳雄の46年3月に 「世界」 に載った 「原子爆弾」 でした。仁科は45年8月8日に広島に投下された爆弾は原爆だと直感して被爆地調査を行っています。
「今日原子爆弾を製造しうるのはアメリカだけである。そしてこの国は平和を愛し、侵略を否定する国である。こんな国が原子力の秘密を独占しうる間は、侵略行為は不可能であり、従って世界平和は保持せらるることになるであろう。即ちアメリカは世界の警察国として、原子爆弾の威力の裏付けによって国家の不正行為を押え、国際平和を維持しうる能力を有していたのである」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 アメリカを世界の警察官と捉えます。その認識の背景には、46年に創設された国連原子力委員会と、アメリカが提案していた原子力国際管理の存在がありました。
 その後の47年、仁科の主張は、アメリカという認識に代わって平和をもたらす 「世界国家」 という言葉が登場します。原子爆弾は世界の警察となるべき 「世界国家」 が戦争抑止のために保有すべきだと考えます。

 物理学者の武谷三男も、原子爆弾の製造に重要な役割を果たしたボーアやフェルミがそれぞれドイツとイタリアからの亡命者であることを挙げ 「原子爆弾は最初から反ファッショ科学としての性格を強く持っていたのである」 と指摘しました。さらには、原子爆弾の 「技術論的意義」 として、アメリカの工業力だけでではなく、アメリカの労働者の 「民主主義的原動力」 を高く評価していました。このように武谷は戦後民主主義の価値観に合致するものとして原子爆弾を位置づけていました。
 原子爆弾は平和と結びつけられていました。

 「世界の警察官」 のアメリカの独占所有により、世界の平和は維持されるという世論が支配します。そして原子力については国際管理を行って平和利用を進めるという主張です。


 さらに47年にトルーマンが放射性アイソトープを医学研究のために海外の研究所に提供することを申し出ると、原子力研究は 「平和的利用」 と肯定的に捉えられられます。
 48年の湯川の文書 「知と愛について」 です。
「このようにして見出された自然の新しい性格は、私どもにそれが物質とエネルギーの両面にわたるほとんど無尽蔵ともいうべき資源として、将来活用され得るものであるという大きな希望を与えることになった。原子爆弾の成功はこの希望の実現へ向かっての第一歩であった。今後における原子力の平和的活用が人間の福祉にどんなに大きな貢献をするか、おそらく私どもの想像以上であろう」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 物理学者たちは 「原子力の夢」 を披歴していました。
 この頃は、「軍事利用」 と 「平和利用」 は必ずしも区別されていたわけではありません。

 49年11月、湯川はノーベル物理学賞を受賞します。
 科学・原子力への期待は高まります。


 しかし国際的緊張は高まります。49年9月、ソ連は原爆保有を公表します。アメリカの独占は崩れます。10月1日、中華人民共和国が成立します。「東西冷戦構造」 が緊張度を増していきます。
 緊張が高まる中、仁科芳雄は戦争防止のために科学者は世論を喚起させなければならないと説きます。
「現在までのところでは、原子力の応用は一般人に対して原子力爆弾ほど目覚ましいものは見られない。その結果として科学を呪う声も聞かれるのである。原子力の国際管理さえ実現できない今日の国際情勢に於いては、正に科学の進歩が早過ぎたという憾みのあることは拒み得ない事実である。(中略) 今日のような原子力の恐怖時代をもたらせたことに対して科学者はその責任の一端を免れることはできない。その罪亡ぼしとして科学者は戦争を再び起こらないようにする努力をせねばならぬ。これはわれわれの義務である。」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 「科学者の責任」 の言葉が登場します。


 49年4月、パリとプラハで開催された平和擁護世界大会は、原爆の制限と国際管理を求め、これに呼応かたちで10月2日、広島で平和擁護広島大会が開催されます。
 そして50年3月、平和擁護世界大会委員会がスウェーデンのストックホルムで開催され、大会は核兵器廃絶に向けた 「ストックホルム・アピール」 を採択します。そこには 「原子爆弾を使用する政府は人類に対する犯罪人として取り扱う」 などの項目がありました。
 呼びかけに呼応して8月6日から署名運動が開始されます。世界から4億8200万人の署名が集まりました。日本においてもGHQの支配下、朝鮮戦争のさなかに署名運動が展開され、645万筆が集まりました。(17年9月26日の 「活動報告」 参照)
 原爆被害の実態を訴える活動などを通して原子力による平和の主張に抵抗する運動が登場してきます。
 しかし原子爆弾反対と原子力の平和利用は共存していました。


 50年6月、朝鮮戦争が勃発します。11月、トルーマン大統領は、朝鮮戦争で原爆使用を示唆します。しかし反対の世論のなかで使用はできませんでした。
 53年7月23日、アメリカが初めて勝てなかった戦争・朝鮮戦争が休戦協定を締結します。アメリカの覇権が揺らぎます。

 54年3月1日、ビキニ珊礁での米軍の水爆実験で第五福竜丸が被爆します。
 湯川は54年6月号の 『婦人公論』 に文章を寄せます。
「原子力は確かに恐るべき威力を持っている。しかしそれは天然現象ではない。人間の獲得した科学的知識に基づいて、人間のつくりだした仕掛けによってしか、原子力はその威力を発現しないのである。天然現象ならば、人間の力ではどうにでもできない場合もある。しかし原子力は人間の頭脳の中から生まれてきたものである。人間の力で原子力の狂暴性のはつげんを抑え、更に進んでそれを人間のための力として利用することができないはずはない。
 もちろん、原子力が平和的にだけ利用されたからといって、危険が全然なくなるわけではない。原子動力の向上では多量の放射性物質が同時に作り出されるのを避けることができない。それが人間に被害を及ぼさないようにするためには、周到な注意が必要である。そればかりではない。放射性物質がいろいろな形で、今までよりももっと広く人間社会に利用されるようになるに違いない。それに伴って起り得る災害をなくすためにも、細心の注意が必要であろう。しかし、原子力に対する単なる恐怖心によってではなく、一般社会の人びとが原子力や放射性物質に対する一通りの常識を持つことによって、この種の災害は避け得るはずである」(『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 科学の進歩の無謬性に対する疑義が生まれ始めていますが、社会の成長などで乗り越えられると捉えていたと思われます。この捉え方は、のちに原子力発電所建設へと進みます。

 第五福竜丸事件を機に原水爆禁止署名運動が展開されます。しかし 「広島・長崎。ビキニ」 を並置しながら、アピールにおいて広島・長崎の被爆者援護の問題を取り上げなかったように具体的政治目標は掲げませんでした。
 署名運動の広がりを受け、ひろしまの被爆者団体が、被爆者問題の重要性を訴え始めていました。

 湯川は、第五福竜丸事件を機に平和運動に尽力します。科学の平和利用を訴えた 「ラッセル・アインシュタイン宣言」 の共同署名者となりました。
 ラッセル=アインシュタイン宣言は、54年12月23日にラッセルが行ったBBCクリスマス放送での演説 「人類の危機」 を要約したもので、55年4月11日に発表されます。
 演説の抜粋です。
「……
 私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、即ち、“ヒト” という “種” の一員としてである。世界は紛争に満ちている。そうして、全ての小規模な紛争に影を投げかけているのは、共産主義と反共産主義との巨大な戦いである。
 政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題のいずれかに強い感情を抱いている。しかしできるならば、そのような感情から離れて、すばらしい歴史を持ち、私たちの誰一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員としてよく考えていただきたい。
 私たちは、一方の陣営に対し、他の陣営に対するよりも強く訴えるような言葉は、一言も使わないように心がけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もしこの危機が理解されれば、全ての陣営がその危険を回避する望みがある。」
 今に通じる内容です。
 宣言に湯川は名を連ねます。
 そして、宣言に基づき、1957年にカナダのパグウォッシュ (Pugwash) で開催された各国の科学者が軍縮・平和問題を討議する国際会議 「科学と国際問題に関する会議」 (「パグウォッシュ会議」) にも参加し核なき世界の実現を訴えました。


 科学の無謬性に対する疑義が人びとを捉えて広がるのは、公害問題間からだといわれます。足尾鉱毒事件、水俣、大気汚染などの問題をとおして原子力発電の問題の捉え返しが行われはじめました。
 捉え返しての運動が展開される最中の2011年3月、取り返しのつかない東日本大震災で福島原発事故が発生します。

   「活動報告」17.9.726
   「活動報告」17.8.4
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フォーククルセダーズと時代
2017/12/08(Fri)
 12月8日 (金)

 フォークシンガーのはしだのりひこが12月2日に亡くなりました。
 1967年、加藤和彦、きたやまおさむとグループ・フォーククルセダーズを組み、レコードを早回しさせた曲 「帰って来たヨッパライ」 をアングラソングとして発表し、テレビにも登場しました。大ヒットすると、次に発表した曲が 「イムジン河」 です。加藤和彦が、友人が歌っていたのを採譜しました。元歌は一番だけですが、フォークルが二番・三番の歌詞を書き加えました。

  イムジン河 水清く とうとうと流る
  水鳥自由に むらがり飛びかうよ
  我が祖国 南の地 思いははるか
  イムジン河 水清く とうとうと流る

  北の大地から 南の空へ
  飛び立つ鳥よ 自由の使者よ
  誰が祖国を 二つに分けてしまったの
  誰が祖国を 分けてしまったの

  イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
  河よ 思いを伝えておくれ
  ふるさとはいつまでも 忘れはしない
  イムジン河 水清く とうとうと流る

 しかしラジオで流れ、レコードが発売されるとまもなく中止になります。
 政治的圧力、自主規制等と噂されましたが、朝鮮総連から作詞・作曲者は実在するので著作権を無視して勝手に歌うなというクレームが寄せられたのが実情のようです。


 加藤和彦の友人は映画 『パッチギ』 (井筒和幸監督) の主人公です。
 映画のストーリーです。
 舞台は68年の京都。主人公は朝鮮人家族が花見をしている公園に行って 『イムジン河』 を歌います。それを近くでラジオ局のディレクターが聞いていて、生番組のオーディションに参加するよう勧めます。本番中プロヂューサーはディレクターに 「危ない歌」 だから止めるよう指示します。しかしディレクターは聞き入れず強行し 「イムジン河」 がラジオから流れます。

 西村秀樹著 『大阪で闘った朝鮮戦争 “吹田枚方事件の青春群像”』 (岩波書店刊) によれば、実はこのディレクターは、吹田・枚方事件の被告でした。
 52年6月25日、大阪・吹田で朝鮮戦争に反対する労働者・学生・朝鮮人約3.000人は 「伊丹基地粉砕・反戦・独立の夕べ」 を開催します。その後参加者は吹田操車場に向い、軍需列車運行を阻止し、さらに大阪駅に向かって御堂筋でデモ行進を予定していました。
 当時伊丹基地にはアメリカ軍が進駐し、連夜朝鮮半島に向けて爆撃機が飛んでいました。また吹田操車場からも軍事物資を載せた列車が走り、神戸港から朝鮮半島に送られていました。
 途中で警官隊と衝突、火炎瓶が投げられ、騒擾罪と威力業務妨害が適用されて250人近くが検挙され、111人が騒擾罪で起訴されます。
 裁判で、被告団長はずっと沈黙をまもってきましたが 「転向」 します。その内心は、自分1人ですべての罪をかぶり他の被告を無罪にするためでした。
 しかし裁判闘争は、そのような方法でではなくて、一部の被告人は威力業務妨害罪で有罪となりましたが、一審から三審まで騒擾罪の成立を認めさせませんでした。

 朝鮮半島は、45年8月15日の解放もつかの間、内乱状態になり、連合軍にかこつけたアメリカ軍が上陸します。
 1950年6月25日、勃発した朝鮮戦争は、日本が後方基地となります。レッドパージ、破防法制定が行なわれた。8月、自衛隊の前身警察予備隊が発足しました。

 朝鮮戦争は戦後社会を大きく変えました。
 戦争関連産業の金ヘン・糸ヘン景気が起き、失業者は基地関連施設に雇用されていきます。
 朝鮮問題研究家の平林久枝さんは、朝鮮戦争中の『神 奈川新聞』 から県内の相模原基地や横須賀港の記事を調べて 『在日朝鮮人研究』 (84.11号) で報告しました。
「(50年) 7月8日・日本の企業は敗戦後慢性的に続いていた不況から一気に米軍の軍需好景気にみまわれ息をふき返した。……先日の初旬までは毎日職業安定所に 『職よこせ』 のデモがひっきりなしだったのに昨今は好景気であぶれるものがいない。……
 一方朝鮮人は 『はじめはそんなに故国のことを考えなかったが、こんな状態がつづけば国はめちゃくちゃになってしまう。戦争は断じてやめるべきだ』 と故国を心配している。……
 『神奈川新聞』 には連日のように 『連合軍要員緊急募集』 の広告が掲載されている。例えば横浜公共職業安定所渉外職業課では 『化学建築電機造船関係原価計算担当降級顧問・生産検査能率顧問・検査技師・BM電気計算機操作係・海務工・電気計器・電池各修理工・フォークリフト各運転手・ボイラーマン (要免許2級以上)』また、横須賀公共職業安定所では 『通訳・クラークタイピスト・ (男女40ワード以上) 各種研磨工・精密中グリ工・鍛冶工・ターレット工・ブローチ工・ミーリング工・プレス工・機械修理工・車体修理工 (電気熔接可能) 板金工・冷間機打工・鋳型工・グレンカー運転手・材料検査工 (専卒以上英解) 以上50歳迄経験5年以上』 あるいは川崎職安や相模原職安でも同様な広告がしばしば掲載されている。」

 このような中で朝鮮戦争に反対する闘いが各地で展開されます。強制連行され、戦後帰国できなかった・しなかった朝鮮・韓国出身の人たちにとっては他人事ではなく積極的に朝鮮戦争反対の闘争に参加していきます。大量にビラが撒かれました。逮捕されると軍事裁判でスピード判決が出されました。外国人登録令違反の一斉検挙なども行なわれました。

 50年3月、平和擁護世界大会委員会がスウェーデンのストックホルムで開催され、大会は核兵器廃絶に向けた 「ストックホルム・アピール」 を採択します。呼びかけに呼応して8月6日から署名運動が開始されます。
 一方、50年11月、トルーマン大統領は、朝鮮戦争で原爆使用を示唆します。
 署名は世界から4億8200万人分集まりました。日本においても645万筆が集まりました。在日朝鮮・韓国人の人たちは必至で署名を呼びかけて回りました。
 反対の世界的世論のなかでアメリカは使用できませんでした。


 さて、『イムジン河』 が歌われ始めた頃の日本の状況はどうだったでしょう。
 68年2月20日、在日二世の韓国人金嬉老が、静岡県・清水市で暴力団員を殺し、寸又峡に立て篭もる事件が発生しました。裁判では著名な文化人が支援運動の呼びかけ人になり、特別弁護人になります。
 70年10月6日、父親が帰化をした早稲田大学の学生・梁政明 (山村政明) が、「被植民地支配下の異民族の末えいとして、この国の社会の最底辺で25年間うごめき続けてきた者の、現代日本に対するささやかな抗議でもあります。」 という 「抗議・嘆願書」 を残して焼身自殺をしました。そこには 「一、金嬉老同胞の法廷闘争断固支持!」 も書かれています。

 彼の日記が 『いのち燃えつきるとも』 (大和書房 1971年) と題して出版されました。
「日本人の友へ 日本には現在、約60万人の在日朝鮮人が居住している。どうか彼らに理解と友情の心を向けて欲しい。
 彼らは何も好きこのんで異郷の地で、みじめな生活をすることを選んだのではない。多くの日本人は簡単に言う。馬鹿にされるのがいやならば自分の国に帰ればいいじゃないかと。けれども彼らは日本にのみ生活の基盤を持ち、純粋な民族性をも剥奪されてしまっているのだ。さらに日帝の植民地支配の後、祖国は東西の対立ために分断と同民族相撃つ戦乱の憂き目をみた。祖国の政情は未だ不穏であり、生活の条件はきびしい。……
 私は敢えて言おう。あなたたち日本人の多くは、戦争をただ過去のものとし、経済的な繁栄を謳歌しているが、アジアの多くの国では、あなたたちの残虐な侵略による傷痕の故に、今もなお多くの人が苦しんでいることを思い起して欲しい。」

「民族の宿命 ぼくはこんな国で生まれたくはなかった。どんなに貧しくとも祖国朝鮮で生きたかった。……
 父母は苦心の末、この国の市民権を取得した。ぼくたちは法的には日本人になったのである。しかし、本質的平等はたんに法によって保障されはしないのだ。
 ぼくが9歳の少年でなかったら、国籍帰化を拒んだろう。父母はぼくたち子供の将来、進学、就職等の不利を免れるためにというが、ただそれのみで、自らの祖国を棄てることができたのか?」
 金嬉老の暴力という手段での訴え、梁政明の抗議自殺という手段での訴え。その訴えは、在日朝鮮・韓国人問題が未処理のままあることを明らかにしました。

 「パッチギ」 の最後は、鴨川のなかでの日本人高校生と朝鮮人高校生の乱闘です。映画を観ながら監督はどちらに勝たせるのかなと考えていました。結局は中止されます。
 双方から流された血は混じり合いながら流れていきます。監督の期待と受けとめました。

 朝鮮戦争から70年近く、フォーククルセダーズが 「イムジン河」 を発表してから50年、日本と朝鮮半島の政治情勢、日本社会における在日韓国・朝鮮の人たちがおかれている状況は、本質的にどこまで変わったといえるのでしょうか。いわゆる “戦後処理” はちゃんと済んだといえるのでしょうか。
 乱闘では血は混じり合いましたが、一方では分離したまま流れています。


 フォーククルセダーズの 「イムジン河」 が発売禁止、放送中止になった次に発表したのが 「悲しくてやりきれない」 です。聞き方によっては抗議の歌にも聞こえました。

   胸にしみる 空のかがやき
   今日も遠くながめ 涙をながす
   悲しくて 悲しくて 
   とれもやりきれない
   このやるせない モヤモヤを
   だれかに告げようか

 映画 『この世界の片隅に』 の冒頭で、主人公が歌います。
 モヤモヤした今の人びとの心境を歌っているようにも聞こえてきます。

 あらためて、フォーククルセダーズが存在した意義とその音楽家としての偉大さを実感させられます。

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 「9条が 実は頼りの 自衛官」
2017/12/01(Fri)
 12月1日 (金)

 あるユニオンの合宿で、非核市民宣言運動・ヨコスカ ヨコスカ平和船団の新倉裕史さんの 「自衛隊員の実態」 についての講演がありました。講演の報告です

 安保関連法で自衛隊はどう変わったのでしょうか。
 以前は、自衛隊法第3条は 「自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略と間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の維持に当るもの当たるものとする。」 でした。
 この中の 「直接侵略と間接侵略に対し」 が削除されました。
 そして第76条 (防衛出動) に二が追加されました。
「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から脅かされる明白な危険がある事態」
 「他国に対する武力攻撃」 にも出動可能となりました。
 自衛隊が活動できる場所は、1997年のガイドラインでは非戦闘地域で、戦闘が予測される場所は含みませんでした。しかし2015年のガイドラインは現に戦闘が行われていない地域 (明日は行われるかもしれない地域) が含まれます。
 「国際平和協力法」 では国会の事前承認が義務付けられていましたが、「重要影響事態法」 には後方支援の抜け道があります。

 17年5月1日から3日、初めての 「米艦防護」 訓練が四国沖で行われました。米国補給艦 「リチャード・E・バード」 を日本のヘリ搭載護衛艦 「いずも」 (横須賀) と護衛艦 「さざなみ」 (呉) が参加しました。
 「米艦防護」 の法的根拠は、「安保関連法」 によって改訂された自衛隊法95条です。
 自衛隊法95条は 「現場の自衛官の判断で武器等を守るための武器の使用」、2項では 「現場の自衛官の判断で外国軍の武器等を守るための武器の使用」 が可能になりました。
 自衛隊は、国会決議不要、防衛大臣の発令不要、原則非公開の使い勝手のいい 「法的根拠」 を手に入れました。
 「武器等防護」 の範囲は、説明の仕方によって異なります。
 防衛官僚だった柳沢協二氏は、「私は、今度の新安保法制のなかで、日本にとって危険になる可能性が一番なのは、この問題 (武器等防護) だと思っています。」 と述べています
 17年5月2日の朝日新聞で政府関係者も 「自衛隊の現場ににとって、安全保障関連法の肝は米艦防護だ」 と語っていたと紹介しています。


 自衛隊の構造的門題についてです。
 自衛官の階級構成は、定員は、幹部45396人 (18.4%)、准尉4877人 (2.6%)、曹148461人 (56.8%)、士56426人 (22.8%) です。充足率は全体で91.7%、士では74.6%です。
 2014年7月1日の集団的自衛権行使を容認する閣議決定以降志願者は減少しています。
 自衛隊内部の自衛官募集に関する会議では、集団的自衛権行使容認の閣議決定が志願者の減少に影響していることが報告されています。
 また不祥事や懲戒処分が目立っています。


 兵士たちの戦争後遺症についてです。
 アメリカは徴兵制から志願兵にかえました。
 以前の選抜懲役法は29歳から26歳が対象でしたが69年に18歳から35歳に拡大されます。ただし、大学院生、科学者、教育、重要産業の技術者は徴兵猶予になりました。ベトナム戦争の時、徴兵拒否で起訴された者が25,000人いました。脱走兵は30,000人です。
 そこで73年1月に志願兵に切り換えます。志願理由の1位は奨学金、2位は医療保険です。
 イラク戦争は貧しい人々やマイノリティーに対する 「死」 の課税です。戦死者は黒人とヒスパニック系の比較が多く、彼らの多くは経済的困難から脱出するために入隊しています。(チャールズ・ランゲル下院議員)
 志願兵は不平等だと 「一般的兵役法案」 や 「徴兵制復活法案」 が出されましたが否決されました。
 2010年の兵士の自殺者は6,500人を超えました。2001年以降のイラク・アフガン戦争の戦場で死亡した兵士の数を上回ります。
 アメリカで自殺する元兵士は毎日18人です。(ニューズ・ウィーク2012.11.23日) また、毎日22人という主張もあります。(反戦イラク帰還兵の会発表 2014.11.11)

 自衛隊についてです。
 2002年5月8日、インド洋で海上自衛官が1か月143時間の残業で心筋梗塞で過労死しています。公務災害認定されました。
 インド洋・イラク派遣に関わる自衛官の死者数は、自殺56人、病死45人、事故死21人、不明2人で合計124人です。

 すでに自衛官の抵抗が始まっています。
 自衛隊の中途値職者 (依願退職者) の推移は、2004年1月の陸上自衛隊と航空自衛隊のイラク派遣前は3,000人台半ばでしたが、04年には4,000人を超え、05年5,000人弱、06年5,000人中半、06年7月に陸上自衛隊が撤退した後の07年には5,000人後半になっています。
 インド洋・イラク派遣に関わる自衛官の休職・依願退職者数は、精神疾患による休職は67人依願退職者791人です。

 2001年に海上自衛隊護衛艦がインド洋に派遣される時、自衛官やその家族からは 「戦争に参加するために自衛隊に入ったんじゃない」 という声が起こりました。
 インド洋派遣が命じられた自衛官は配置転換 (補職替え) を希望し、2004年の今村参議院議員への国会答弁では52人が補職替えをしていました。派遣された隊員は5,630人です。

 任期制隊員 (男子) の志願理由です。(複数回答)
 2009年、リーマンショック後です。
 1位 自分の能力や適性が活かせる、2位 他に適当な仕事がない、3位 興味や好みに合っている 4位 心身の鍛練ができる、5位 技術の習得ができる、6位 給与、退職金がいい、 7位 国の平和に貢献したい (13%)、8位 災害派遣で貢献したい、の順でした。
 2014年です。
 1位 自分の能力や適性が生かせる、2位 国の平和に貢献したい(28%)、3位 興味や好みに合っている 4位 災害派遣で貢献したい、5位 国家公務員で安定している、6位 心身の鍛練ができる、7位 技術の習得ができる、8位 給与、退職金がいい、です。
 海外派兵に同意することが目的ではありません。「憲法9条があるから自衛隊に入ったという人は、かなりいます。」

 志願のきっかけは、広報官等による個別募集48%、自主志願24%、学校を通じて23%です。2012年は4割の高校、7割の大学・短大で学校説明会が実施されています。


 では市民に何ができるでしょうか。
 戦争後遺症の原因に、モラルインジャリー (良心の呵責障害) やPTSD (心的外傷ストレス障害) などがあります。
 モラルインジャリーは、自分の道徳心に反したことをしたときに起こる障害です。戦争の過ちに気づいたときに生まれる苦しみです。軍病院の医師やカウンセラーは、戦争や軍の作戦の過ちを認めることはないから治療は困難です。この苦しみは 「償い」 をすることでしか回復しません。ここに平和運動が果たしうる役割があります。
 11年1月28日、海上自衛隊の護衛艦 「たちかぜ」 の乗務員が “いじめ” が原因で自殺しました。海上自衛隊横須賀地方総監部は、乗員190人に艦内でのいじめについて尋ねる 「艦内生活実態アンケート」 を実施しました。そしていじめはなかったと結論づけます。
 裁判でアンケートの存在を聞かれると 「破棄した」 と説明していました。一審裁判で遺族は敗訴しました。遺族は控訴しました。
 12年、1、2月頃、訴訟を担当する総監部法務係員の2尉がアンケートなど関連資料を見つけました。すると元指定代理人の3等海佐が、アンケートは存在すると原告弁護団に連絡をとりました。
 そのことを報じた新聞の見出しは 「元指定代理人現役自衛官が内部告発」 「文書隠し実態証言」 「『にうそつけない』 隠蔽体質、改善求め・・・」 です。モラルインジャリーからの 「償い」 による回復です。
 PTSDは、死を意識するような強い体験によって心理的なトラウマ (外傷)が 生じ、特有な症状を生じる障害です。

 ヨコスカ ヨコスカ平和船団は、母艦の近くに船を出して大きくホットラインの番号をかかげて相談を呼びかける活動を続けています。
 全国の他の団体もイラク派兵の時など、何度かホットラインを開設しています。
 2015年に北海道で開設したホットラインには80数件の相談が寄せられました。
 横須賀では2015年8月から9月に第4次自衛隊―家族アンケートを実施しました。(17.11.1の 「活動報告」 参照)
 14年5月12日の朝日新聞の川柳欄に載った句です。
    9条が 実は頼りの 自衛官
 これが本音だと思います。

 では自衛隊をどうするか。
 内閣府の自衛隊・防衛問題に関する世論調査の自衛隊が存在する目的については、災害派遣と国防の比較では、一貫して災害派兵が上回っています。(2015年は災害派遣81.9%、国防74.3%)
 自衛隊が今後力を入れていく面においても同じです。(2015年は災害派遣72.6%、国防69.6%)

 自衛官は入隊に際して自衛官の服務の宣誓をおこないます。
「私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の指名を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います。」
 ではどれくらい国のために闘う意思があるのでしょうか。
 2014年のギャラップ調査です。
 日本 ある10%、ない43%、わからない47%、ドイツ ある18%、ない62%、わからない21%、イギリス 27%、ない51%、わからない22%、フランス ある27%、ない44%、わからない27%、韓国 ある42%、ない50%、わからない8%、アメリカ ある44%、ない31%、わからない25%、ロシア ある59%、ない20%、わからない22%、中国 ある71%、ない23%、わからない6%でした。
 日本の わからない47%に何を語ているでしょうか。
 憲法9条が自衛官を守っています。だから憲法9条を変える必要はありません。


 後日、「日本国憲法と昭和天皇」 の講座に参加しました。
 配布された資料に詩が載っていました。

  骨のうたう
            竹内浩三

  戦死やあわれ
  兵隊の死ぬるやあわれ
  とおい他国で ひょんと死ぬるや
  だまって だれもいないところで
  ひょんと死ぬるや
  ふるさとの風や
  こいびとの眼や
  ひょんと消ゆるや
  国のため
  大君のため
  死んでしまうや
  その心や

  苔いじらしや あわれや兵隊の死ぬるや
  こらえきれないさびしさや
  なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ
  白い箱にて 故国をながめる
  音もなく なにもない 骨
  帰っては きましたけれど
  故国の人のよそよそしさや
  自分の事務や 女のみだしなみが大切で
  骨を愛する人もなし
  骨は骨として 勲章をもらい
  高く崇められ ほまれは高し
  なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
  絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
  それはなかった
  がらがらどんどん事務と常識が流れていた
  骨は骨として崇められた
  骨は チンチン音を立てて粉になった

  ああ 戦場やあわれ
  故国の風は 骨を吹きとばした
  故国は発展にいそがしかった
  女は 化粧にいそがしかった
  なんにもないところで
  骨は なんにもなしになった

   「軍隊の惨事ストレス対策」
   「活動報告」 2017.11.1
   「活動報告」 2012..7.13
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近代日本をどう捉えるか
2017/11/14(Tue)
 11月14日 (火)

 歴史の教科書から坂本竜馬や吉田松陰、上杉謙信、武田信玄などの人物や、四日市憲法などの項目が消えるといいます。
 歴史書は政権をとった者がその経過を記述させて残します。それは現代においてもです。歴史教科書は政権に都合がいいように編集され、新たな項目が盛り込まれたり、消されたりします。そのたびに議論が繰り返されてきました。
 1960年代には、家永三郎が編集した高校の教科書が不採用になり裁判闘争になりました。

 81年の文部省検定で高校教科書 「現代社会」 から丸木位里・俊さんが描いた 「原爆の図」 は、それまで何度も採用されていましたが、「悲惨すぎる」 という理由で削除指示をうけました。
 8月5日、俊さんは文部省教科書検定課長に抗議にいきました。そのやり取りです。
 俊 「削った理由を直接聞きにきました」
 課長 「極端に悲惨なものは除くのが前々からの方針です」
 俊 「合格した教科書の中には、『原爆の図』 が載っているものもあります」
 課長 「(削除させた) この口絵は、色が原画にちかく、生なましくて、悲惨すぎます」
 俊 「悲惨といっても、これは、たかが絵です。私は、本当のヒロシマを知っている。ハエがわき、
  しかばねをを焼くにおいを覚えています。私どもは、ハエもにおいも描いていません。現実は、
  もっと悲惨ですよ」
 課長 「いや、やはり、この絵は悲惨です」
 俊 「あなたは、自分の子どもに、戦争は何だと教えますか」
 課長 「戦争とは、人を殺すことで、いけないことと教えます」
 俊 「戦争は、悲惨でしょう」
 課長 「悲惨です。極端に、極端に悲惨です」
 俊 「悲惨な戦争だから、悲惨なものを除け、というのは 『悲惨でない戦争』 を教えろと
  いうことですか」
 課長「高校生といっても発達段階というものがあり、まだ未成年です。従って、極端に
  悲惨なものは遠慮してもらっている」
 ・・・


 今回は項目が大幅に削除されるといいます。理由は、これまでの歴史教育は、歴史認識ではなく、項目を説明できるように暗記することや、その逆の事態・状況を何と呼ぶかということが主要でした。ですから歴史解釈は皆同じになってしまいます。歴史観の押しつけで、歴史に流れがありません。
 これに対して教育方法の変更を目指すといいます。
 さらに、最近は小説やドラマなどでフィクションが加えられた歴史上の人物が捏造されて登場し、項目がどんどん増えていました。
 坂本龍馬は教科書に載っていなかったので受験勉強で暗記した記憶がありません。しかし今では日本の近代をつくった中心的人物に祭り上げられています。
 吉田松陰については 「征韓論の先駆者」 という史実が隠されています。
 でも吉田松陰は教科書から消えないでしょう。なぜなら、安倍首相と同じ長州藩だからです。なんだかんだと言っていても 「忖度」 されます。

 四日市憲法については、当時すでに共和制を謳っていた、人権を盛り込んでいた、編者たちはあの時代に西欧の政治思想を先取的に享受していたなどの評価があります。しかしそこには、西欧の政治思想・体制は優れている、それに比べて日本は劣っていていたという価値観が根底にあります。このような評価は、コンプレックスとなって明治維新以降今日に至るまでずっと存在します。満州侵略から第二次世界大戦に突入する原因にもなりました。

 西欧の政治思想を学習していたのは四日市憲法の編者たちだけではありません。江戸末期、幕府は多くの人材を派遣していたし、明治政府はかなりの書物を取り寄せて翻訳をしています。そして市井にはそれらが出回っていて人びとの知識欲を満たしていました。そのなかから自分たちが作り上げたい体制を模索して憲法として作成していきました。人びとは国家、体制は遠くの存在ではないと捉えて理想と期待を盛り込みました。
 しかし現実との落差は大きいものがありました。


 例えば、秩父困民党が明治17年に蜂起した埼玉県下吉田村の隣に位置する街道として栄えていた小鹿野町は、(当時県内に町は川越町と2つしかなかった) 定期市がたち、小説ですが、そこではルソーの 「契約論」 も売られていて、困民党の党員は買って読んでいたといいます。困民党は国家・天朝様との 「契約」 を問い直して蜂起の必要性を確信します。
 信州から駆け付けた井出為吉の生家には今でも 「仏蘭西革命論」 などたくさんの書物が保存されています。
 困民党は 「恐れながら 天朝さまに敵対するから加勢しろ」 といって農民をオルグして回りました。
 
 秩父困民党は目標を掲げました。
 一.高利貸しのため身代を傾け生計に苦しむもの多し、よって債主に迫り一〇か年据え
   置き四〇か年賦に延期を乞うこと
 一.学校費を省くため三か年間休校を県庁へ迫ること
 一.雑収税の減少を内務省に迫ること
 一.村費の減少を村吏に迫ること
 行動を起こすにあたっての軍律五か条です。蜂起直前に読みあげられました。
 第一条.私に金円を掠奪する者は斬
 第二条.女色を侵す者は斬
 第三条.酒宴をなしたる者は斬
 第四条.私の怨恨を以て放火その他乱暴をなしたる者は斬
 第五条.指揮者の命令に違反し、私に事をなしたる者は斬
 これらの要求項目や行動規律は、空想的政治展望ではなく、人びとにとっては切羽詰まった状況に実行を迫るものでした。

 明治時代は江戸末期から連なっていきます。政権が交代したからといって人びとの生活がすぐに変わりません。
「村の家々は5戸前後がまとまって5人組をつくり、相互に助け会うとともに、年貢収入などのさいには連隊責任を負った。5人組は、領主が、百姓同氏を相互に監視させ、また連隊責任によって年貢を確実に徴収するためにつくらせた組織だが、いったんできると、今度は百姓たちの互助扶助組織として重要な役割を果たした。」 (渡辺尚志著 『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』 草思社)
 江戸時代にも近代国家の基礎となる税制度を遵守する制度は確立していました。そして生活安定のための互助扶助組織も確立していました。しかし経済発展のなかで村のなかにも格差が拡大し崩れていきます。さらに明治13・4年の松方財政は互助組織を崩壊させるとともに、秩父事件のような困民党を登場させます。
 また共同組合のルーツとしての互助組織は江戸末期から流通経済が進むと共同事業が開始され、輸出が始まるとお茶や生糸などの協同組合的な組織は生まれました。農業技術の共同開発、肥料などの共同購入も進められました。人びとの知恵と努力で経済活動は発達していました。

「名主は村運営の最高責任者、組頭はその補佐役であり、百姓代は名主・組頭の監視・補佐を主な職務としていた。名主は世襲で人気がないこともあれば、任期制のこともあった。前者の場合は、村内で特定の有力な家の当主が、代々名主を世襲した。後者の場合には、入札 (いれふだ・投票) で後任を選ぶこともあった。江戸時代から、選挙で代表者を決めていた村もあったのである。」
 明治憲法が制定されて国会が解説され、議員が選挙されても、県知事、郡長は任命制です。そして官僚制の確立とともに任命制をとおして地域の共同体を破壊していきました。江戸時代の方よほど民主的でした。

 江戸時代においても農民や商人は頻繁に訴訟を起こしていました。彼らやその子弟の多く は寺子屋に通い、読み書きができ、相当の知識も習得していました。また有力藩は藩校を創設し、留学生なども送り出しています。
 百姓たちは訴えたいことがあると、幕府領なら自分の住む村を管轄する代官所、大名領なら藩の代官所や郡奉行所、領主が異なる場合は幕府に訴えます。基本的には一審制で非公開でした。裁判にあたる役人は法律や判例に依拠して判決を下していました。
 名奉行も生まれました。名奉行は時には 「法」 を曲げても 「道理」 に基づいて裁判を行い人びとの共感を得ました。


 来年は、明治維新から150年を迎えます。さまざまな行事が計画されています。
 明治維新は、武士階級の崩壊、幕府の政権の行き詰まり、地方武士や商人の台頭、幕府に代わる朝廷の祭り上げ、外国からの開港要請などさまざまな要素が複合的に入り組んでいます。
 しかしそれらを見ながら人びとは連綿と生活を持続させてきました。

 天皇制が日本の近代国家の中心的支柱であったという評価があります。
 近代において敗戦国で王室や元首が残ったのは戦後の日本の天皇制だけです。その理由はなぜなのかを現在に引き付けて問い直してみることが必要です。
 はたして150年で、戦後75年で日本の民主主義、人権意識はどこまで確立されたでしょうか。
 歴史を人びとのもとに取り戻し、今に活かしてかなめればなりません。


 11月初め、20回目の秩父困民党の足跡を追うたびに行ってきました。
 第一回は1992年、PKO法が成立し、自衛隊の海外派兵が始まった年です。それまでも戦後政治の転換がいわれ続けていましたが、さらに大きく転換しました。仲間うちで学校の歴史教育の視点からではなく自分たちで歴史を見直そうと大それました。
 蜂起の中で倒れた人びと、いきばてになった人びと、死刑になって処刑された人びとのお墓参りをしてきました。
 彼らも現在日本の礎を築いたと深く確信すると同時に、今と重ねても無念さを共有してしまいます。

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「STOP THE KILLING!」
2017/11/01(Wed)
 11月1日 (水)

 10月28日、講演会 「“愛国的脱走兵” が語る非戦- 『イントレピットの4人』 から50年-」 が開催されました。
 ベトナム戦争最中の1967年10月23日、横須賀基地に停泊中の米空母イントレピッド号から4人の米兵が脱走しました。20歳が1人と19歳が3人です。
 脱走を支援し、4人をかくまったのはベ平連 (ベトナムに平和を! 市民連合) です。記者会見を行って 「イントレピッドの4人の愛国脱走兵」 の共同声明文を公表します。

 講演会では、その共同声明を執筆したクレイグ・アンダーソンさんが講演をおこないました。
 ベトナムに向かうに際して、自分の役目はなんだろかと考えました。ベトナムについては何の情報もありませんでした。
  脱走は臆病者がすることと思っていましたが、政府が間違ったことをしたら立ち上がろうとも思っていました。だから 「愛国的脱走兵」 と呼んでいます。
 67年10月23日、横須賀基地に停留中、自分の良心を裏切るのをやめて、3人と一緒にその夜は艦に戻らないことを決めました。「これからは、誰も殺さないし、無辜なベトナム人を殺したくない」
 当時、日本は戦後22年経っていましたが日本人は幸せには見えませんでした。アメリカが原爆を落としたからです。そういうこともあって、脱走後は公園で寝たりしました。

 ベトナムで米兵は5万8千人が死んだと発表しています。しかしベトナム人を150万人虐殺しています。トンキン湾事件などは報道がなければ知りえません。メディアはフィルターをかけて報道していました。政府にコントロールされていました。
 世界中に米軍基地は今も173あります。アメリカの歴史はこれらを使いながら帝国を築いてきました。

 ベトナム戦争に反対しているものは敵か。そうではありません。ジェンフォンダは反戦運動に参加していました。
 キング牧師は67年4月に反戦演説 「ベトナムを超えて」 をおこないます。
「沈黙が裏切りになる時があります。今その時が訪れました。ベトナムとの関係において・・・」 「我々は今、黒人と白人の若者が一緒に殺人を犯し死んで行くという残酷な皮肉に直面しています。現在戦われている戦争を無視してアメリカの誠実さを語ることはできないのです。」

 4月末にボクシングのヘビー級チャンピョンのカシアス・クレイ (モハメッド・アリ) が徴兵に応じることを拒否して記者の質問に答えます。
「おれは自分の良心に従い、おれの兄弟や肌の黒い人、泥の中に暮らす貧しくて飢えた人を、でっかくて強いアメリカのために決して撃たない。いったいなんのために彼らを撃つんだ。彼らはおれをニガーと呼んだことはないし、リンチしたこともない。おれに犬をけしかけたこともない。おれの国籍を奪ったこともない。おれの母親と父親を強姦しても殺してもいないんだ」

 日本からスウェーデンに渡り、カナダ経由でアメリカに帰ります。72年、FBIに逮捕され軍法会議にかけられますが、懲戒除隊処分をうけて釈放されます。アメリカは、ベトナム戦争を開始するのに議会を通していませんでした。宣戦布告もしていません。このことを訴えました。
 アメリカは、ベトナム戦争後は後ろを振り返ってばかりいます。


 当時、脱走を支援し、脱走兵をかくまったのがベ平連です。かつてのべ平連の人たちも参加していて、講演の後、さまざまなエピソードを披露しました。
 ベ平連は、それ以前からベトナム戦争反対の運動を展開していました。1965年11月16日のニューヨークタイムス紙にカンパを集めて 「STOP THE KILLING! STOP THE VIETNAM WAR!」 の意見広告を載せます。カンパは止みません。知識人たちも数寄屋橋公園に立ってカンパを呼びかけ、67年にもう一度載せます。

 ベ平連とは何か。当日配布された資料に簡単な説明文が載っていました。
「反戦・平和が日本において主要な争点だったのは、それだけ戦争体験が影を落としていましたが、戦争体験のない若者も自発的に参加していました。若者たちは、戦争体験もないのに、かた直接に被害を受けている体験もないのに、ベトナム戦争に反対の声を次々にあげるようになりました。その中心のひとつが、『ベ平連』 (ベトナムに平和を!市民連合)」 でした。『べ平連』 は、アメリカの新聞への反戦広告掲載、国際反戦集会の開催、脱走兵支援、定例デモの継続、大阪万博への反対、反戦喫茶の開設など、斬新な企画を次から次へと実現してきました。そしてベトナム戦争に反対する人びとは自分たちを 『べ平連』 であると名乗り、ベトナム戦争に反対の声をあげたのは、なぜなのでしょうか」
「地域べ平連は発足当時から、地域とベトナム戦争との具体的なつながりを明確に意識していたわけではなく、運動の中で 『地域の中のベトナム戦争』 を発見していったことです。また、反戦運動から派生した地域の多様な諸課題も発見されていきます。たとえば、千葉べ平連の 『三里塚は 『ベトナムより遠い』 ものであった』 の証言は、ベトナム反戦運動が三里塚闘争への参加の回路を開いていったことを物語っています」


 非核市民宣言運動・ヨコスカ/平和船団の新倉さんが横須賀の運動を紹介しました。
 横須賀でも68年にべ平連が発足します。その後、運動は 「ヨコスカ市民グループ」 に発展していきますが、一貫して米兵、自衛隊へのさまざまな働きかけを続けています。今年の10月で毎月1回行っている定例デモは500回を数えました。
 2015年8月、横須賀市内の1334戸の自衛隊官舎にアンケートのお願いを返信用封筒を添えて投函しました。12月30日までに22通の返信がありました。13通が自衛隊、9通が家族です。
 質問は5項目です。
1、安保法制の審議で、自衛官や家族の気持ちや現場の事情が考慮されていると思いますか。
 ①考慮されている 自衛官本人4、家族1
 ②十分に考慮されているとはいえない 自衛官本人6、家族2
 ③まったく考慮されていない 自衛官本人1、家族4
 ④その他 自衛官本人1、家族2 「しかたがない」 「国防優先」 「考慮に必要ない」 です。

2、新たな安保法制では、自衛隊の任務が拡大されます。あなたが自衛隊に入った時、日本の防衛
 ではなく、外国の軍隊の支援で海外に行くことを想定していましたか。(自衛官のみの回答)
 ①想定していた 6
 ②想定していない 6
 ③その他 1

3、あなたが自衛官になった目的は何ですか。(複数回答可)
 入隊目的はひとつだけという方は少数でした。「国土防衛」 7件、「国民を守る」 と 「やりがいを
 求めて」 が6件、「国際協力」 5件、「災害救援」 4件、「たまたま」 と 「社会的安定」 が1件でした。

4、「自民党改憲草案」 には、自衛隊を国防軍にするとあります。あなたは自衛隊が国防軍になることを望みますか。
 ①望む 自衛官本人7、家族2
 ②望まない 自衛官本人4、家族4
 ③どちらともいえない 自衛官本人1、家族3

5、憲法9条が自衛官の命を守っていると思いますか。
 ①思う 自衛官本人2、家族3
 ②思わない 自衛官本人7、家族4
 ③いわれてみればそうかもしれない 自衛官本人0、家族2
 ④わからない 自衛官本人2、家族0
 設問者は 「思わない」 の理由が 「自衛官を守る必要がない」 ということなのか、9条に
 「守る力がない」 ということなのか判断が難しいと、後でコメントしています。

 自衛官から返信が届くということだけでも驚きです。長年の運動が信頼関係を獲得しています。

 アンダーソンさんは来日する前のインタビューで、過去への郷愁ではなく現代への問いかけをしています。
「ベトナム戦争は終わったが、あの戦争を支えた軍事の構造や日米の共犯関係は現在も存在しつづけている。かつてベトナム戦争に立ち上がった日本人が今何を考えているのか知りたいし、今後どうすればいいのか、特に若い世代と議論をしたい」
 韓国からは良心的徴兵拒否運動の若者5人が挨拶をしました。
 安保関連法が軒並み成立し、自衛隊の海外派兵も進んでいます。自衛隊は強化されています。それはその分危険に曝されているということでもあります。
 戦争反対と叫ぶとき、平和とは何かと考える時、現に存在する自衛隊・自衛官を抜きにすることはできません。
 自衛官に人を殺させてはいけません。人を殺してはいけないと語りかける必要があります。その時に、ベ平連運動やヨコスカの経験を共有し、どう力にしていくかが課題になっていきます。
 憲法に自衛隊を盛り込む策動に対しては、あらゆる手段を行使して止めさせなければなりません。

   「活動報告」 2017.9.12
   「活動報告」 2017.1.12
   「活動報告」 2014.171
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