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オリンピックは誰のため
2017/09/01(Fri)
 9月1日 (金)

 今年の夏は異常気候が続き、東京は雨続きでしたが晴れた時はかなり暑かったです。秋が例年より早いです
 この時期に2020年は東京オリンピックが開催されます。炎天下や異常気象が想定されるなかでの競技は選手の虐待です。誰が設定したのでしょうか。そして国立競技場の建設現場では、労働者が長時間労働の犠牲者になっています。
 まだ間に合うので東京オリンピックはこれ以上犠牲者を出さないためにも中止したほうがいいいう思いに駆られます。その勇気が必要です。

 この時期を選んだ事情は、放映権と放映時間等からきています。つまりは主催者の営業上の設定です。開催地の誘致においては主催者にかなりの裏金が動いたこと明らかになっています。運営については電通等がうごめいています。競技場建設では暴露されたように利権がうごめいています。オリンピックはどす黒い祭典です。そして政治的です。
 パラリンピックが取り上げられるようになりました。しかし昨年のリオデジャネイロ開催の時、オリンピックは深夜もテレビ中継がされましたがパラリンピックの中継はまったくありませんでした。スポンサーがつきませんでした。それでも不満の声は上がりませんでした。 
 そもそも障碍者が競技に参加することに意義はあっても、勝たせることにどんな意味があるのでしょうか。競技に参加しても勝つことを目指すことに苦痛を感じる障碍者も大勢います。パラリンピックは健常者の大会運営委員が引き回しているのではないでしょうか。

 オリンピックは政治的祭典です。それは、モスクワオリンピック等の記憶が残っている人たちは実感したことです。
 昨年のリオデジャネイロのオリンピックは開会式が8月6日でした。当初、演出を手掛けた映画監督のフェルナンド・メイレレスは広島に原爆が投下された8時15分に合わせて1分間の黙祷を提案ました。しかし、開会式にはいかなる国の扱いにも差があってはいけないというルールがあるのと、政治的行動にあたるとの判断から、IOC側から反対されたといいます。
 原爆投下は一国の問題なのでしょうか。原爆被害者への黙とうは政治的なのでしょうか。
 昨年5月27日のオバマ米国大統領の広島訪問を思い出します。
 オバマ大統領は、「安らかにお眠りください 過ちは繰り返しませぬから」 の慰霊碑に献花し、近くにいた被爆者の方たちに近づいて握手を交わしました。しかし記念撮影の段階になると慰霊碑から離れて、バックに原爆ドームが写る場所に異動して応じたといわれます。原爆ドームはアメリカ大統領にとっては軍の戦果です。あえてそのように演出したのです。「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」 は消えてしまいました。
 これらの流れとつなげて今年7月の国連での核兵器禁止条約採択に核保有国と日本が不参加だったことを捉えることはうがった見方でしょうか。
 政治的というのなら、ウサイン・ボルトはいつも左腕に 「グローバルな貧困根絶キャンペーン」 のホワイトバンドをはめています。これは政治的といえないのでしょうか。


 12年8月31日の 「活動報告」 の再録です。
 7月29日、オリンピックが開催されているロンドンで、元サッカー選手の中田英寿や元陸上選手の為末大らが実行委員となって、世界の人たちに東日本大震災の支援に感謝の気持ちを伝えるイベント 「ARIGATO in London」 が開催されました。日本の文化を紹介するコーナーも設けられました。そして 「ありがとう」 の文字が83か国の言葉で次々と現れる映像も流されました。
 テレビ、新聞などが連日、これでもかこれでもかとナショナリズムを煽り続ける陰での目立たないイベントでした。
 中田選手、為末選手、本当に 「ARIGATO」 「ありがとう」 ございます。

 このイベントに日本の関係者は何人が顔を出したのでしょうか。
 中田選手、為末選手は日本のスポーツ界では異端児です。本来のオリンピックはこのような精神を掲げていました。選手たちが政治的中立などのポーズをとって 「国民」 の期待に応えようとすること自体が政治的です。
 いっそのこと変なポーズを取らないでオリンピックは終了してもいいのではないでしょうか。開催に立候補する都市もなくなりつつあります。


 異端児の為末選手のブログや発言はいつも面白いです。東京オリンピック開催に反対はしていません。
 現代ビジネス (講談社) の16年1月22日のインタビュー記事 「東京五輪っていったい何のためにやるんですか?」 からの抜粋です。

 2015年は東京五輪に関してエンブレムや新国立競技場が話題となりましたが、新国立競技場の第三者委員会の経験を振り返ると、実際に会った人はみんな一生懸命にやっている印象を持っています。
 しかし、そこには 「何に向かってやるのか」 ということがありませんでした。報告書にも書かれていますが、たとえば 「上限がいくらなのか」 については全員に共有されていませんでした。みんながバラバラの数字を頭に浮かべ、お互いに慮り合い、ふわっとした空気ができあがっていました。
 だから、いまはオリンピック・パラリンピック全体が不安定というか大丈夫なのかどうかと思ってしまうんです。ぼくは、五輪開催の明確な目的が決まっていないんじゃないかと考えています。
 もちろん、「全員が自己ベスト」 「多様性と調和」 「未来への継承」 といったコンセプトは公開されていますが、具体的なアプローチは見えてきません。どうしてもすべての課題をただ盛り込んでいるだけのように感じます。

 五輪について、ぼくはパラリンピックに注力することを決めているので、選手の強化や義足の製作などを通じて応援・貢献していきたいです。パラリンピックを開催することで、高齢化社会に向けた解決の糸口が見えたらいいなと思っています。
 わかりやすいところでいえば、パラリンピアンたちが街を点検して、都市計画に反映する。そうすれば、高齢化社会でもバリアフリーになり、みんなが自由に移動できる社会ができると思っています。

 東京五輪でも、渋谷区の 「同性パートナーシップ証明書」 交付の話でも、「ダイバーシティ」 という言葉をよく聞くようになりました。
 ダイバーシティは端的に 「マイノリティを支援しよう」 ということかもしれませんが、本質論でいえば 「マイノリティのエネルギーをうまく使おう」 ということだと思います。マイノリティが困る社会ではなく、マイノリティが価値を生み出せる社会です。
 好きな話に、全盲の選手と車いすの選手が一緒に移動する、というものがあります――。
 どうやるかというと、車いすの選手が方向を指示して、全盲の選手が車いすを押すんです。とてもシンプルですが、現状の障害者の支援というと、全盲と車いすの方のどちらにも支援するとなりがちです。でも、本来は双方のもつ価値や役割を提供し合うことが大事だと思います。

 これからの少子高齢化社会、労働人口は減り、障害者や認知症をもつ人は増えるでしょう。人の障害はますます多様になり、年の取り方も多様になるため、それぞれがまんべんなく、もっているものを分配することがカギになります。そのことが、ダイバーシティの本質だと思うんです。
 現代社会では人の役割が決まりすぎている気がするので、高齢者でも働いたり、賢い人がどんどん意思決定に関わったり、障害者同士が価値を提供し合ったり……。それらの資産が東京五輪後に見えてくるといいなと思います。

 先ほどパラリンピックに注力するといいましたが、いくつも課題はあります。たとえば、盛り上がりの違い。これを解消するには、遠慮なくいえば、おもしろくするほかありません。「パラリンピックを応援しましょう」 と言っているのは、野球でいえば 「好きな球団を応援しましょう」 と言っているようなものです。
 でも、よく考えてみると、ふつうは 「応援しましょう」 と言われて応援しているのではなくて、「応援したくてしている」 だけです。パラリンピックは社会的にすばらしいかどうかを喧伝するのではなく、おもしろくすることが先決だと考えています。
 おもしろいものを見たいのは、人間の欲求の本質だと思います。東京五輪を真面目かつ正しい路線で攻めてしまうと、その正しさは2020年で終わってしまうのではないかとやや不安です。

 スポーツ界だけを見ていれば、東京五輪の成功がゴールなのかもしれないですが、社会のほうを向くと五輪後の社会――これまで隠れていた問題の表面化とそれに対するアプローチ――を真剣に考えなければいけません。
 今年の春にはXiborgの新義足が完成予定です。実際の競技にも利用できるので、2016年リオ五輪に出場するような選手を輩出できればと思います。
 ただ、障害者スポーツの世界では、障害の種類が多いことから、競技数も多く、コーチが圧倒的に不足しているんです。善意での活動や専門ではない場合も多いので、各コーチがさまざまな情報にアクセスでき、レベルアップできるシステムが必要でしょう。
 ぼくはそもそも競技数を減らしたほうがいいと思っています。健常者よりも選手数が少ないのに、種目数が多いために多数の選手が出場できてしまう状況です。これでは競争があまりないので、スポーツとして健全ではないと考えています。2020年まであと5年、多くの人にパラリンピックはおもしろいと思ってもらえるように、さまざまなところでかかわっていきたいです。

 これからの少子高齢化の時代、いうまでもなくヘルスケアが重要になります。だからこそ、社会全体で健康になれるように、週に1回だけ一駅歩いてみるとか自転車で走りやすい道をつくるとか、そういう部分を促進できるような活動・事業をおこなっていきたいです。
 いまや健康や運動に関する有益な情報はたくさんありますが、みんなが唯一できていないのは実行・継続することです。
 だからこそ、日本陸上競技連盟や全国の陸上競技協会などスポーツに関する組織・団体はチャンピオンを生み出すよりも、健康と余暇の領域でバリューを発揮すべきだと思います。
 特に30~80歳くらいの人たちが、スポーツをはじめやすい環境をつくることが大事です。なぜなら、日本の課題はどう考えても、メダルの獲得よりも、医療費の抑制だからです。そこに対して、責任を取る協会が出てくると未来が少し明るくなると思います。

 東京五輪の招致に成功したからよかったけれど、仮に来なかったとしたら何をしなければいけなかったのか――。そのことを考えるべきです。2020年に祭典があっても、たった一瞬の気分が変わるだけで、本質的な解決は果たせないでしょう。五輪が来なかったときの気分や時代を想像しつつ、特に興味のある高齢化にアプローチしていけたらと思います。


 為末選手の提言は政治的です。このように政治的なオリンピック・パラリンピックなら国別は無視して少しは応援しようとかおもうのですが・・・。

   「活動報告」 2017.1.28
   「活動報告」 2014.2.21
   「活動報告」 2012.8.31
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「忘れまじ6.15」
2017/06/16(Fri)
 6月16日 (金)

 6月15日、参議院で 「共謀罪」 が可決・成立しました。採決に至る経過がおかしいのは今更いうまでもありません。連日、多くの市民が反対して国会周辺におしかけ、各地でも反対の集会やデモがおこなわれました。
 政府はオリンピックを前にしたテロ対策といいます。しかし国連からも批判の声が上がりました。
 国連人権理事会の特別報告者ケナタッチ氏は日本政府に、法案にある 「計画」 や 「準備行為」 の定義があいまいで、恣意的に適用される可能性があると指摘し、「プライバシーや表現の自由を不当に制約する恐れがある」 と記した書簡を送りました。反対する人たちが危惧していることと同じです。
 これに対して日本政府は抗議したといいます。国連と日本は人格の尊厳や人権の概念がちがいます。そして日本は歴史の教訓を活かそうとしません。逆に繰り返そうとしています。
 共謀罪は誰が対象になるのでしょうか。何もしていない人は関係ないのでしょうか。対象を決めるのは警察権力であって自分ではありません。しかも行為ではなく 「心の中まで監視」 されてです。つまりは相手のやりたい放題です。

 13年12月成立の特定秘密保護法、15年7月成立の安保関連法、そして共謀罪とi立て続けです。軍事力強化から治安管理に移っています。これらに合わせてマイナンバー制度の開始、個人情報保護法の改正、ストレスチェック制度の導入がありました。現在の政府が目指す国家像が見えてきます。
 共謀罪を反対する意見に 「心の中まで監視される」 というのがありましたが、ストレスチェック制度もそうです。基本的人権が脅かされます。世界では他に存在しない治安法です。
 さまざまに監視され情報が集中して集められた中で、20年のオリンピックの観戦はマイナンバーカードを提示しないと会場に入れなくされるとささやかれています。マイナンバーに収められた情報の中には個人情報保護法の緩和で集めた情報や “どこからか流出した” ストレスチェックの情報も含まれています。これもテロ対策です。


 特定秘密保護法、安保関連法、そして共謀罪・・・。戦後の日本が大きく変えられていきます。
 その助走となったのが憲法違反の自衛隊を海外に派遣することを “合法” にしたPKO (国際連合の国連平和維持活動 Peace Keeping Operation) 法だという意見があります。
 PKO法は1992年6月15日に成立しました。
 PKO法案阻止に向けて、社会党などは採決に際して連日 「牛歩戦術」 を行使し、会期期限切れ廃案を目指しました。採決中は議場閉鎖です。トイレにも行けません。女性議員は紙おむつをはいていたといわれます。水をひかえていた男性議員は脱水症状になってしまい棄権せざるを得ませんでした。国会周辺にはデモ隊が押し寄せ、国会内と外がひとつになって頑張りました。
 徹夜でテレビ中継がおこなわれていました。国会前に駆けつけられなかった人たちはテレビにくぎ付けでした。ある人は、採決を遅らせ、廃案に追い込もうとしている牛歩は、次にいつの日か登場させてくるであろう徴兵令を1秒、1分遅らせることになると確信していたといいます。
 しかし可決されました。
 数日後、日比谷野外音楽堂でPKO法案を認めない集会が開催されました。当時、社民連代表だった江田五月議員 (前参議院議長) は壇上で 『忘れまじ6.15』 の歌を涙ながらに歌い決意を語りました。『忘れまじ6.15』 は60年安保闘争で亡くなった樺美智子さんを弔う歌です。
 PKO法は憲法9条をないがしろにしました。法案が成立すると政治再編が加速しました。


 60年安保闘争の時の首相は岸信介、安倍晋三の御祖父です。岸は安保条約締結に反対する人たちを気にしながら 「声なき声は私を支持している」 と豪語しました。しかし 「声なき声も安保条約に反対している」 という声があがり、反対運動はさらに盛り上がりました。これが日本における市民運動の登場になりました。そして政権は倒れます。
 「共謀罪」 が成立したのは6月15日です。首相は安倍晋三です。くり返される 「忘れまじ6.15」 です。
 「共謀罪」 は安倍政権を揺さぶっています。


 共謀罪は2020年の東京オリンピックを口実にされます。
 では、この前の東京オリンピックはどのような状況下で開催されたのでしょうか。
「1960年代は、日本の高度経済成長期にあたり、また一方では日本が大きく変貌していった時期でもあった。そしてこの歴史や戦争についての見方のも、微妙な変化がみられるようになった。毎年8月15日には政府主催の 「全国戦没者追悼式」 がおこなわれるが、それが始まったのは、1963年のことである。それまでは、戦争の性格もあってか、戦没者を政府が公式に追悼することは控えていたと考えられる。
 また、千円札の肖像が 『聖徳太子』 から 『伊藤博文』 に代わったのも、1963年11月のことである。日本では、特に話題にもならなかったが、たとえば、あるソウル特派員は韓国の大学生から、つぎのような疑問をぶつけられている。
 『・・・あなたは、その人物が何をした人か知っていますか。初代の朝鮮総督です。日本の植民地侵略の原動力となった人です。・・・』 ・・・
 『戦没者叙勲』 が再開されたのは、1964年4月29日 (天皇誕生日) である。時の池田勇人首相は、戦没者に対する叙勲は 『国として感謝の誠を捧げ、その生前の功績を顕彰する趣旨のもの』 と談話を発表した。
 1964年の 『東京オリンピック』 や70年の大阪 『万国博覧会』 は、この時期を象徴するイベントである。東海道新幹線の開通が64年10月、名神高速道路の全通が65年7月、東名高速道路の全通が69年5月などもこの時期に重なり、さらに64年4月からは一般海外渡航が自由化される。」 (田中伸尚他 『遺族と戦後』 岩波新書)

 1963年の 「全国戦没者追悼式」 の後の10月に 「第18回全国戦没者遺族大会」 が開催されます。そこで靖国神社の国家護持の要望が決議されます。その後、「靖国神社法案」 は5回国会上程されましたがその都度廃案になりました。
 「戦没者に対する叙勲は今次の戦において、祖国のために尊い命を捧げた方々に対して国として感謝の誠を捧げ、その生前の功績を顕彰する」 もので、『生前の功績』 は、「よく戦ったことであり、それを国家が評価するわけである。たんに 『国のために死んだ』 というだけが叙勲の対象ではないのである。・・・勲章の授与者は天皇だった」 のです。
 戦没者のなかに差別が持ち込まれました。
 そしてこの頃に各地でせんぶとしゃの慰霊碑 (塔) の建立が始まります。
 沖縄には都道府県の慰霊碑が建立されていますが多くがこの頃のものです。
 終戦後、人びとの意識に強くあった戦争反対の意識は少しづつ崩されていきます。
 その一方で 「教育勅語」 の評価が変えられようとしています。

 1965年に 「日韓条約」 が締結されます。韓国との戦後補償は終了したことになります。
「政府は、毎年15日に、東京の日本武道館で 『全国戦没者追悼式』 を開催し、天皇・皇后も出席する。
 1990年からその 『政府広報』 が一般紙に載るが、そこには 『内外地を通じて死没された300余万の方々』 とある。この 『300余万』 とは日本側の死者のみを意味することはいうまでもない。」
 同追悼式における歴代首相の 『式辞』 にも、この 『300余万』 が登場する。ちなみに、1992年の宮沢首相、93年の細川首相、94年の村山首相のそれぞれを読みくらべてみた。
 あとの2人は 『300万余』 のほかに、宮沢首相と違って、『アジア近隣諸国をはじめ全世界すべての戦争犠牲者とその遺族に対し、国境を越えて謹んで哀悼の意を表する』 (細川首相)、または 『アジアをはじめとする世界の多くの人びとに、筆舌に尽くし難い悲惨なぎせいをもたらし』 (村山首相) と述べ、若干の変化が見られた、なお、土井たか子衆議院議長は、『300余万』 を使わず、『痛ましい犠牲となられた彼我幾千万の人びと』 (1993年) という表現を使っている」
 「彼我幾千万の人びと」 はまた強制的に忘れさせられようとしています。


 20年の東京オリンピックは世界に何を誇示し、国内の人びとをどのように誘導しようとするのでしょうか。
 誇示する前に、戦争被害にあわせたアジアの人たちにたいしてそれを認めて謝罪が必要です。政府は従軍慰安婦問題を、まもなく当事者がいなくなったらすべて解決するととらえています。しかし歴史を力でくつがえすことはできません。
 政府は、強固に完備した軍事力のもとで経済力を誇示します。そしてそれに反対したり、格差社会を拡大する経済政策優先に抵抗・抵抗しようとする人びとを監視し管理する体制を作り上げようとしています。それが 「強い国家」 づくりだと思い込ませられています。
 「強い国家」 は権力を握る少数の者が人びとを巻き込んだときに成立します。その手段にオリンピックが利用されています。強い国家と、オリンピックに選ばれる強い選手・チームの発想は繋がります。あらゆるスポーツがそこに向けて 「日の丸」 「君が代」 を掲げて動員されます。
 オリンピックに踊らされることは危険です。浮かれてはいられません。

 軍事力を背景に経済格差を拡大し、人びとを監視・支配する社会はけっして 「強い国家」 ではありません。そこから取り残された人たちのなかからテロが生まれます。
 本気でテロ対策をおこなうのならその逆を追究する必要があります。
 誰をも弾圧、強迫しない、差別しない 「弱い国」 のほうが人びとは生きやすいです。

   「活動報告」 2017.5.12
   「活動報告」 2017.4.11
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安倍政権の働きかた改革は、戦中の産報の手法
2017/05/12(Fri)
 5月12日 (金)

 今年は、日本国憲法が施行され70年を迎えます。5月3日の憲法記念の日は各地でさまざまな集会が開催されました。
 「守り抜こう! 憲法9条 不戦の誓い・・・戦争を許さない! みんなの声と力をあつめて」 集会に参加して毎日新聞特別編集委員の岸井成格さんの講演を聞きました。
 岸井さんは、メディアにたずさわる者として、そして戦中生まれの肌感覚で現在の安倍政権について大きな危機感をおぼえると具体例をあげながら訴えました。
 
 集団的自衛権は事実上の改憲ですが手続きが閣議決定だけでおこなわれました。歴代内閣ができなかったことです。憲法が 「壊憲」 されています。機密保護法は説明が秘密です。
 メディアが安保法制のなかで記事のなかで 「武器」 という言葉を使用しなくなっています。代わって 「防衛装備」 です。
 日本の基本路線は、憲法ではなく日米同盟です。抑止力の強化と説明しますが、不遜の事態はそこから出てきたのが歴史です。全体から見えてくるのは戦時体制です。

 安倍政権は4つの政策を転換しようとしています。
 1つは憲法です。
 2つ目は日教組対策です。
 3つ目は労働組合対策です。
 4つ目はメディア対策です。

 今、日本のメディアはバラバラです。権力を監視していません。外国人特派員は日本のメディアの姿勢に驚いています。ワシントンポストの社説は 「安倍政権にひれ伏すメディア」 と書きました。「忖度」 は自粛しているということです。
 揺さぶられて分断させられています。それは野党の分断、世論の分断にもおよんでいます。ある新聞社は両論併記の気づかいをしています。株主は株主総会でスポンサーになっていることを攻撃します。
 各社が足並みをそろえて圧力を阻止するために動かないとだめです。

 政権とメディアが癒着しています。
 岸井さんは若いころ先輩から 「弱みをもってはいかん。借りをつくってはいかん。その代わり貸しはつくれ」 と教えられたといいます。権力側が記者を取り込むための手法は、カネ、異性関係、不正など記者の弱みを握ることです。
 毎日新聞は、71年の沖縄返還協定の核疑惑をスクープしますが、情報をえた手法だけがスキャンダルだけが話題になりました。
 貸しをつくれというのは、知識です。政治家から聞かれた時に教えてあげることです。
 多くの報道関係社の社長が首相と食事をしていますが、TBSの社長はしていません。
 岸井さんに何らかの圧力があったということはないといいます。あったら番組で暴露されるのでできません。

 今の内閣は600人の官僚の人事権を握っています。官僚は上しか見ない 「ひらめ」 になっています。国会議員についてもスキャンダルを探して握られています。


 岸井さんから、全体から見えてくる戦時体制への政策転換のなかに労働組合対策という指摘がありました。安倍政権がすすめる 「働きかた改革」 は、「政」 ・ 「労」 ・ 「使」 の政からの一方的改革です。
 「改革」 はあまりにも労がだらしがないということがありますが、使に対する統制もあります。そうすると労働者にとっては政がありがたく見え取り込まれていきます。ますます労働組合離れは進みます。
 しかし、政は改革を労働者のことを考えて行っているのではなく、労働組合のさらなる弱体化攻撃であることもきちんとおさえておくことが必要です。


 戦前の戦時体制への流れを、アンドルー・ゴートン著 『日本の200年 徳川時代から現代まで』 (みすず書房) からみてみます。

 日本は満州事変をへて、15年戦争に突入していきます。侵略を推し進めて植民地を拡大し、支配を強化するためには国内外において新しい体制・秩序が必要という意見が官僚、軍人、政治活動家、知識人たちから登場します。「八紘一宇」 などのスローガンが登場します。産業においても統制が必要と主張します。
 新体制建設のスローガンは、第一次近衛内閣時代の1938年には広く流布するようになります。そして軍の主導に移っていきます。

「新経済体制は、商工省と企画院を中心とする『経済官僚』および軍人たちのアイデアがもとになってつくられた。……指導的な役割を担った官僚の1人は、当時は商工省の官僚で、戦時中は東条内閣の商工相をつとめた (そして商工省が軍需省に改組されてからは軍需次官をつとめ、戦後の1950年代後半には首相をつとめることになる) 岸信介だった。
 経済体制を構想した者たちは、乱雑な競争や利潤追求の代わりに、『合理的な』 産業統制を実施すべきだと考えた。産業は資本の私的な目標に仕えるのではなく、国家の 『公の』 目標に仕えるべきだ、というのがその理由だ。かれらは、自由市場経済では恐怖や社会紛争が起こり、国力の低下を招くのは避けられないのにたいし、国家統制型の資本主義においてのみ、慢性的な紛争や危機は解決可能だと主張した。」
 岸信介はいわずもがな安倍晋三の祖父です。
 ドイツ、イタリアがとった手法とにています。

 日本軍は中国大陸でのはげしい抵抗にあい、予定していた資源を獲得できなくなります。さらに多くの兵士にも多くの犠牲が出ました。
「近衛内閣は1941年に国家総動員法をもちいて、経済体制の総仕上げをおこなった。すなわち、重要産業団体令を公布することによって、統制会というシステムを導入した。重要産業団体令は、各産業ごとに 『統制会』 と呼ばれる巨大カルテルをつくる権限を商工省に付与するものだった。
 統制会は、それぞれの産業内で、原料と資本の分配を決定し、価格を設定し、各企業に生産シェアと市場シェアを割り当てる権限をもった。実際には、各統制会の理事に名を連ねたのは、財閥系企業の社長たちと官僚たちだった。国家と協力することによって大企業は、これらのカルテルと統制会の運営について大きな影響力をもちゃっかりと保持した。」

 政府は戦争に反対する潮流、とりわけ労働組合の抵抗をおそれました。そのためにさまざまな懐柔をすすめながら一方で徹底した弾圧を行ないます。
「経済効率を高めて社会秩序を確立するにはトップダウンの動員にかぎる、と主張する者たちは、こうした経済面の改革と平行して労働新体制の整備も推進した。1930年代のなかば以降、内務官僚と警察官僚たちは、労働者側と経営者側の代表で構成する懇談会の設置を工場ごとに義務づけ、個々の懇談会を地域連合、さらに全国連合へとピラミッド方式で組み入れる、という構想を練っていた。
 1938年7月、内務省と厚生省は、産業報国連盟 (略称産報) という表向きは独立した自主的な労働組織だが、実態としては官製の労働組織を発足させた。残っていたごく少数の労働組合の大半は、すでに戦争を支持し、経営者に協力的な態度をとっていたが、これらの組合は産報とひっそりと共存した。多くの大企業は、1920年代に組合に代わるものとして発足させていた既存の職場懇談会の名称を変更して、単位産報組織へと再編した。……
 1940年、第二次近衛内閣は産報を再編し、政府直轄の大日本産業報国会を創設した。政府は、まだ存続していた500の組合 (組合員36万人) を解散させ、新たな産業組織に参加させたほか、全国のすべての向上に産報懇談会の設置を義務づけた。1942年には、工場レベルの産報組織は約8万7000人を数え、合計約600万人の労働者を擁するまでになった。
 産報運動の推進者たちは、産報の末端組織として工場ごとの懇談会が経営者と従業員の士気を高め、双方の連帯感を育むと同時に、アジアにおける『聖戦』のための生産拡大に寄与するものと期待していた。……
 しかしながら、産報が、ホワイトカラーとブルーカラーの従業員がともに加入する職場組織の先例を打ち立てた、ということは少なからぬ意味をもった。産報は、あらゆる従業員が国にとっても、企業にとっても重要なメンバーだとする見方に、公式に、しかも明確なかたちでお墨つきをあたえたのである。やがて戦後の労働組合運動は、この戦時中の先例を基礎として出発し、先例を転換しながら展開していくことになる。」

 産報は、労働者にとっては自分らも参加している組織です。そこでの処遇は、ホワイトカラーとブルーカラーは同じです。そして聖戦の勝利を訴えて我慢を強い、不満を 「貧しさの平等」 で解消していきます。

 実際の体制はどうだったでしょうか。
「全体としてみれば、国家の動員計画は、計画が掲げていた国家の 『改造』 というもっと野心的で、全体主義的とさえいえる目標には到達しなかった。限定されていたとはいえ、かなりの多元主義が存続しつづけた。経済体制も、産業報国連盟も、大政翼賛会も、日本の臣民を国家の全面的な支配下に置いたわけではなかった。しかし、社会を戦争に向けて動員し、その過程で社会を変革する、というこの運動が、国家と、社会と、個人のあいだの関係を変えたことは確かである。国会は周縁的な機関に成り下がった。」
 多くの人びとに犠牲を強いながら財閥の資本家はさらに大きな富を築いていました。


 安倍政権は戦時体制に向けて、憲法改正と同時に国家機密法と攻撃をかけてきています。今国会で争点になっている共謀罪は、監視社会を強め、まさしく 「国家と、社会と、個人のあいだの関係を変える」 ことを狙っています。
 官製春闘がいわれても労働組合団体ははずかしいという意識も失っています。つづけて政府は 「同一労働・同一賃金」 を登場させました。
 労働組合団体のだらしなさは、非正規労働者の不満を政府や社会からそらして、会社と労働組合に向かわせ、正規労働者と対峙させます。

 政府の掲げる 「働きかた改革」 は政府の統制による 「働かせかた改革」 です。
 労働者と労働組合は目先のことだけでなく、「生きかた改革」 の視野から自分たちの 「働きかた改革」 を主張し、監視しながら進めていくことが必要です。

   「活動報告」 2017.4.11
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加害と被害を併せ持つ満蒙開拓
2017/04/21(Fri)
 4月21日 (金)

 4月中旬、長野県下伊那郡阿智村にある 「満蒙開拓平和記念館」 を訪れました。
 阿智村は日本一美しい星空の村です。そして花桃の里です。旧暦のひな祭りの少しあとが真っ盛りと聞いていました。
 開館は2013年4月です。全国で唯一の満蒙開拓団に特化した記念館で、民間によって運営されています。4年近くになりますが来館者は10万人を超えています。
 開館に至る経緯です。
 2006年5月の南信州新聞に、開拓2世であり、現副館長の寺沢秀文さんの投稿 「この飯伊 (飯田・伊那地方) にこそ満蒙開拓記念館を」 が掲載されます。それを受け、7月の飯田日中友好協会の定期大会で事業取り組みが採択され、建設計画が始まりました。
 建設候補地は、できれば飯田市内でと選定していましたがなかなか進みません。3年が過ぎた頃、阿智村村長らから 「ならば阿智村のなかでやってみないか」 という提案があり、村有地を無償貸与してもらうことになりました。


 全国からは27万人の開拓団が送られました。満州への開拓団は国家と村による追い出し・棄民政策です。現地における苦闘、そして終戦時における集団自決や逃避行、さらにその後には 「残留孤児」 の問題が発生します。無事故郷に戻ってきた後には各地に開拓団として送られます。
 しかし真実は歴史の片隅に追いやられたままでした。
 祈念館を訪れるに際して、事前の勉強会を開催しました。その時のレジュメの抜粋です。

0.満蒙開拓団の悲劇は5つに区分けされる
 1期 日本での棄民
 2期 満州 “開拓” 時代
 3期 1945年8月
 4期 残留孤児・婦人
 5期 帰国、開拓入植

1.日本での棄民
 (1)15年戦争
 「15年戦争」 という言葉を最初に使用したのは鶴見俊輔。
 1931年から45年を鶴見俊輔著 『戦時期日本の精神史』 から簡単に見てみる。
「31年9月18日、関東軍内部の参謀将校数人がひそかに中国北東部の柳条溝で、満州鉄道の線路を爆破する計画をたてて実行します。しかし中国人がしたことと報道されます。日本軍は 「報復」 作戦に移り、宣戦布告がないまま戦闘状態に至ります。そして事態を既成事実として認めるよう陸軍参謀本部に強制します。「満州事変」 です。満州事変はまさに軍部の独走で始められました。作戦計画の裏には石原莞爾中佐がいました。
 目的は、日本軍が満州に軍事上の砦を作り、西欧諸国との戦闘の準備をするというものです。そして32年に 「満州国」 を作り、国際連盟から脱退します。国連は満州国を承認せず。
 37年7月7日に北京の西南方向盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍との衝突事件が起きます。宣戦布告がないままで戦闘が続きます。当時の政府は 「北支事変」 と呼びました。日本軍は宣戦布告がないままで既成事実を積み上げていきます。
 41年12月8日、日本はアメリカに宣戦布告します。9日、蒋介石の重慶政府は日本に宣戦布告をします。日本政府はこの戦争を何と呼ぶか決めかねていました。いくつかの名前が挙げられます。たとえば太平洋戦争、対英米戦争などです。最後に選ばれたのが 「大東亜戦争」 です。太平洋戦争、対英米戦争では、中国との間で続いている戦闘状態を含まなくなるからです。
 42年6月5日、日本軍は中央太平洋ミッドウェー海戦で敗北、43年2月7日はガダルカナル島を撤収します。43年5月29日、北太平洋のアリューシャン列島アッツ島が米軍支配になり、その後も次々に玉砕が続きます。戦時状況は、本土の視点からずらして見ると日本軍の敗戦はかなり前から明らかでした。」
 満州侵略は、政府や軍部だけでなく日本社会を襲っていた閉塞感から脱出させる役割を果たした。
 満州侵略の前史として、日露戦争・ポーツマス条約 (05年) で日本は長春-大連-旅順間の鉄道および支配を獲得し、その付属地である撫順、煙台、その他の炭鉱も支配下におく。06年 「南満州鉄道株式会社」 設立。

2.満蒙“開拓”
 日本軍は満州を侵略すると同時に約155万人の日本人を送りこむ。そのうちの27万人が開拓民。
(1)31年8月、第63回臨時帝国議会で 「農村経済更生に関する経費」 が予算に追加計上され、疲弊した農村や漁村の救済運動が具体化される。更生計画を資本金不足などのために十分に推進できない町村に対して、特別に助成金を交付するという制度が設けられる。
 しかし、経済更生村指定に際しては詳細に規定された 「経済更生計画樹立上留意スベキ事項」 が付け加えられており、その最後には 「当該村ノ更生上移住ヲ為スヲ必要トスルモノニ付イテハ移住計画 (内地、朝鮮、満州等) ヲ立ツルコト」 とある。
 移民政策の推進は、移民する人の生活維持のためではなく、残る人のためにおこなわれた。「棄民」。

(2)移民は侵略と略奪の片棒を担ぐものであり、「片手に鍬、片手に武器」 を持って開拓と 「北からの守り」 を兼ねた役割を担っていた。
「国家によって満蒙開拓団から与えられた役割は、ソ連と対峙する関東軍への食糧補給、圧倒的に少ない日本人比率の拡大による治安維持、軍ではできない民間レベルでの現地民への影響拡大など、日本による満州支配の補強、人的根拠の確立であった。」
 明治維新の北海道の屯田兵に似ている。

 32年8月、満州への農業移民計画が議会を通過。
 募集資格は 「農村出身者ニシテ多年農業ニ従事シ経験ヲ有スル既教育軍人」
 10月に第一次移民団423人が弥栄村に入植。武装移民。ソビエトに対する第一線兵力の扶植の役割。
 33年夏に第二次移民団455人が千振村に入植。武装移民
 団の中から不満続出 「だまされた」
 民族独立運動組織・反満抗日パルチザンからの襲撃をうける。
  34年2月、土龍山事件。1万人の農兵を率いて十数日間蜂起。関東軍の連隊長以下20人を殺害。
 第一次移民団からは百数十人の退団・帰国者、第二次移民団からも数十人の落伍者がでる。

(3)屯墾病
 ストレス。
 ホームシック
 実際はPTSD

(4)分村移民
 開拓団の募集方法は個々の開拓志望者を対象。
 36年、政府は関東軍の案で満州農業移民計画大綱を発表し20カ年100万戸送出計画を立てる。町村を主地として一定の戸数を送り出す方法に。=分村移民。分村は定着率がいい。
 38年に送り出した長野県大日向村の開拓団は満州への分村移民第1号と言われている。大日向村の分村移民は、映画、小説、講談になって全国に宣伝された。
 移民が多い順に、長野県、山形県、東北がつづく。

(5) 「新天地」 で 「五族協和」、「民族協和」、「王道楽土」 建設、20町歩の地主の呼びかけ
「日清、日露、第一次世界大戦と軍事力による派遣が常態化した世の中に生まれ育ち、徹底した天皇国家主義教育の洗礼を受けた若者たちは、国策と自分の生き方を重ねることで、純粋に新国家建設の役に立ちたいと海を渡った。彼らはスローガンに内包する日本の優越性、侵略性を見破るには余りにもナイーブ過ぎた。今の私たちには想像できないほど徹底した国家による臣民教育、情報操作が行われ、戦勝の躁状態のなかで、大部分の若者たちは国を 『疑う』 という生き方があることを考えつかなかった。彼らの中では内発的な思考とその体現として満州への入植を実行に移していったのだろう。しかし、結果的には若者特有の理想主義が時代に絡め取られていったとしか言いようがない。」 (『東京満蒙開拓団』)
 41年、熊本県菊鹿郷開拓団が送り出された。その中に全国でただ1か所だけの被差別部落からの分村開拓団・来民開拓団が含まれていた。「満州に行けば差別されずにすむ」 という思い。入植地はハルピンの南西部。入植戸数は82戸316人。被差別部落出身以外も3割。
 しかし終戦時のソ連軍の侵攻後、275人が 「集団自決」 に到る。1人が名簿を地元に届けるため先に脱出。「身内殺しの部落民」 の嘲笑をうける。

(6)移民拒否
(7)満蒙開拓青少年義勇軍
 32年7月7日、盧溝橋事件から12月、南京占領までに陸海軍で戦死者1万8千、戦傷者5万2千人。予備役、後備役招集に。
 37年11月3日 (明治節) 「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」。加藤完治
 目的は 「将来の移民地を確保し、あるいは交通線を確保し、一朝有事の際においては、現地後方兵站の万全を資する」
 11月30日 「満州に対する青年移民送出に関する件」 を閣議決定。38年に設立
 応募資格――数え歳16歳から19歳までの者。尋常小学校を終了した者。人物考査と厳重な身体検査委。健康問題については厳しい。
 38年1月の第一次募集5千人に9950人応募。定員を変更して7700人に。
 茨城県内原に訓練所。3か月 その後、現地訓練所で3か年訓練
 45年まで86530人を送り出す。(内原訓練所送出名簿)

(8)大陸の花嫁
 39年暮、「満州開拓政策基本要綱」 付属の 「参考資料」 に 「女子指導訓練施設に関する件」 に 「満州開拓民の伴侶として確固たる信念を有する女子の育成」 のために 「学校または農業道場の施設を拡充して女子訓練所を設置」
 役割は 「開拓民の定着」 と 「民族資源の量的確保と共に大和民族の純血を保持すること」 「日本婦道を大陸に移植し満州新文化を創建すること」 「民族協和の達成上女子の協力を必要とする部面の多いこと」
 日本国内と満州両方に大陸派花嫁養成所――満州女塾

(9)満州映画撮影所の理事長は甘粕正彦
 関東大震災の時、大杉栄ら3人を虐殺した憲兵大尉。
 宣伝映画作成

3.1945年8月
 満州に145万人の在留邦人が放置された。そのうち農業移民関係者27万人。
 混乱のなかで全体で17万6千人死亡。開拓団関係7万8500人。死者のうち、戦死又は自決11520人。
 8月13日未明、皇帝溥儀と后妃秋鴻、政府高官、要人一行が首都新京から特別列車で通化の東方、臨江県の大栗子に向かった。
 8月18日午後1時、皇帝溥儀は仮宮廷で退位式。満州国は13年と5カ月存在。
 その後、列車で逃亡。日本への亡命を希望。しかし奉天飛行場でソ連軍に逮捕拉致

(1)8月前
 現地関東軍の一部はソ連参戦を45年夏秋と見通し。
 戦時中、済州島と沖縄は大本営の本土防衛のために要塞化された。45年初め、満州から軍の主力は沖縄、台湾に移動。大本営は45年2月の段階で満州を放棄した。
 45年7月5日、「敵の前進阻止遅滞のため特に一部の玉砕的敢闘を予期し」、その間に主力は後退して 「適宜連京線以東、京図線以南の山地に集約し敵の侵攻を誘致粉砕し」、長期持久戦をもって選挙区を有利にする。(「関東軍対露作戦計画」)
 開拓団は関東軍の防衛ラインの外側に。
 軍の上層部、満鉄の本社社員、官庁の官吏とその家族は日本にこっそりと帰っていた。だから 「満州残留孤児」 のなかにこの関係家族はいない。


(2) 「集団自決」
 満州で、軍隊は民衆を守らなかった。満州から移動していった沖縄でも軍隊は民衆を守らなかった。それどころか虐殺を繰り返した。
 軍隊が先に逃げたこの2つの戦場で共通して起きたのが、いわゆる 「集団自決」 ・いま言い直された 「軍の命令による集団自殺」。サイパンでも。
 軍が先に逃げたのは広島でも。軍隊は民衆を守らない。

(3)帰国
 46年5月、引き上げが開始される。
 53年3月、「北京協定」 集団引揚げ再開。
 56年、「天津協定」。夫や子供のために引き上げることが出来ない女性たちに一時帰国の道。民間団体の努力。
 58年の岸信介首相の中国敵視発言のために打ち切られる。
 72年、国交回復
 93年9月5日、12人の「中国残留婦人」が帰国、成田空港のロビーで籠城。旗に 「細川総理様、私たちを祖国で死なせて下さい 中国残留婦人」 「私たちを祖国に帰してください」
 94年、「中国残留邦人支援法」 公布
 93年までは10年に1回、1人2回まで一時帰国を認める。
 95年4月、国費で毎年帰国可能に。

4.残留孤児・婦人
 日本に戻れない中国残留邦人のうち、終戦当時13歳未満を 「残留孤児」、13歳以上を 「残留婦人等」 と呼ぶ。13歳以上はほとんどが女性だから。13歳以上は自分で判断して行動できたという区分けで、「自己責任」 といわれる。

5.帰国、開拓入植
 戦災者、海外からの引揚者、復員軍人、離職者等の失業者は700万人といわれた。
 45年11月9日、「緊急開拓事業実施要項」 が閣議決定。
 帰国後、地元にはとどまれないに。各地の開墾に入る。
 Cf. 北那須の開拓地には約700戸が入植。最初の住まいは雑木を切ってきて萱で葺いて雨露をしのぐにたりる掘立小屋。
 Cf. 百里基地反対同盟委員長だった宮沢さんは満蒙開拓青少年義勇軍。
 Cf. 熊谷達也の小説 「光降る丘」 (角川書店 2012刊) は宮城県栗原郡頌栄集落・栗駒山の麓の
  開拓集落が舞台。電気が通ったのは1964年4月。
「福島県農地開拓課の 『福島県戦後開拓史』 によると、全農家のうち、旧津島村は50.7%、葛尾村は50.1%、飯舘村は34.7%が戦後の入植だった。県全体の比率は5%なので非常に高い。
 現在、そこは全て避難区域となった。開拓者の魂が放射能に古里を奪われ、さまよう。」
 13年2月25日から3月1日の 『河北新報』 に 「再び流民となりて 旧満州移民と原発避難」 が連載された。福島県阿武隈の山里・浪江町津島に入植、そして原発事故で非難を余儀なくさせられた佐藤常義さん語っている。
「日本はいつもこうだった。戦争、公害、原発…。発展のために無理をして誰かが犠牲になる。二度あることは三度あるぞ。」


 なぜ長野県からの開拓団が多いのでしょうか。夜の交流会では何人からも疑問が寄せられました。
「長野県歴史教育者協議会編 『満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』 には昭和15年の長野県の義勇軍志願の動機を調べるアンケート表が載っているが、それによると本人希望が49.4%、教師の勧め42.1%、家族の勧め5.4%、その他2.9%になっている。昭和16年になると本人希望の数値がなぜか空白だが、教師の勧めが81.4%で圧倒的に多くなっているのは、拓務省からの割り当てによる強引な勧誘が原因のようだ。
 14、5歳の少年たちを遠い満州にやるにはいくら本人が希望しても両親、とりわけ母親の反対を押し切る必要がある。戦前から教育県として名高い長野県は 『信濃教育会』 が中心になって興亜教育といわれる、欧米に対抗したアジア侵出のイデオロギー教育を熱心にやっていた。教師は親の反対で迷う子供たちにあの手この手で口説き落とした。その結果が日本一の 『義勇軍』 送出人数として現れた。」

 伊那市内の伊那公園に建てられている満蒙開拓青少年義勇軍物故者等を祀る 『少年の塔』 の碑文 「オレたちは、決して忘れない」 が、田端恵美子著 『語り継ぐ満州の悲しみ~山峡に響く平和の鐘』 (サンパウロ発行) に載っています。
 
  「未墾の荒野を 開拓するのだ」 といわれ
  ふるさとに別れを告げたあの日
  「満蒙」 の地はあまりにも大きく
  おおかみの遠吠えにおびえ
  「夜警」 に立つ その銃はふるえた

  「将来は十町歩の土地もちだ」 といわれ
  「お国のために」 命を捧げんとし
  入植した 「開拓地」 で鍬とを握った
  そこが 「略奪の地」 であることも知らずに
  「弾よけのための棄民」 だとも知らずに

  「興亜教育」 に洗脳され 「内原」 で鍛えられ
  「満蒙は日本の生命線」 という響きの中で
  「行け若人 開け満蒙」 の声にのせられ
  「動くトーチカ」 にされて連日の軍事訓練
  関東軍は先に逃げオレたちは置き去りにされた

  飢えと血けむりと驚愕の生き地獄の中で
  現地の人々の怒りと悲しみがからみあい
  死線をさまよい 戦火をくぐりぬけ
  ふる里にたどりついた 「九死に一生」
  だが 曠野で死んだ友の遺骨は帰らない

  戦後慰霊碑は建てられても 生命は還らない
  供養は行われても その声は空しい
  厳冬の針のような風の中で耐えぬいた教練
  厳寒の栄養失調のまま頑張った強制労働
  今は美化され再び戦火のにおいがただよう

  先生たちはあんなにオレたちを送り出しても
  「国や県の政策に応じてやっただけ」 だという
  オレたち 「義勇軍」 を全国一送出したのに
  謝罪も責任の告白も一度だって聞かれない
  みんなが忘れてもオレたちは決して忘れない

 今問題になっている 「教育勅語」 の問題があります。


 調布市の延浄寺の門をくぐると目の前に 「不忘の碑」 が建っています。碑の下段に 「国に従って 国に棄てられた人びとを 忘れず ふたたび 同じ道を歩まぬための 道しるべに」 と彫られています。横に建立に至る説明を記した碑文が建っています。
「一九三〇-四〇年代、『満蒙開拓』 の国策によって、『東洋平和のため、王道楽土を築くため』を名目に、『お国のために、天皇陛下のために』 と、『満州』 (中国東北地方) に送り込まれた人たちがいた。
 しかし、一九四五年日本敗戦時の混乱の中置き去りにされ、多数の死者を出す苛酷な逃避行を強いられた。
 中国人に救われて死を免れた人たちも、帰国の道を閉ざされ、国に見棄てられたまま、長い歳月が過ぎた。
 碑文の鈴木則子 (一九二八年生れ) もその一人。(東京・京橋から一家は転業開拓団に)
 鈴木がようやく帰国できたのは、戦後すでに三三年を経た一九七八年。四年後、中国帰国者の会を起こす。
 『中国残留婦人、残留孤児』 らの帰国の援助、帰国後の生活相談・日本語教育、行政への働きかけ等々の活動を展開。国家賠償を求めて提訴も。
 鈴木則子さんは言います。
『私たちのような 〝中国残留婦人、残留孤児〟 などと呼ばれる存在は、二度と、生み出されてはなりません。
 もう決して、このようなことがくり返されないために、私たちの体験・事実を伝えたい』 と。
 そして 『知ってほしいのは、悲惨な体験をしたことだけではなく、権力に対して疑問や批判をもたない危なさ・怖さです』 と訴えます。
 『騙されないように、流されないように』 との鈴木さんの呼びかけは、時代を超える大事なメッセージです。
この歴史的な経験を忘れず、ふたたび同じ道を歩まぬための、私たちみんなの <道しるべ> にすべく、此処に、不忘 (わすれず) の碑は立っています。」

   「活動報告」 2017.3.28
   「活動報告」 2013.3.8
   「活動報告」 2012.11.9
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戦争と平和はいつも押しくらまんじゅう
2017/04/11(Tue)
 4月11日(火)

 3月4日の毎日新聞・ 「時の在りか」 の冒頭です。

 訪米から帰国した週の金曜日、報道発表によると、安倍晋三首相は午後7時4分に公邸に引っ込んだきり、終夜 「来客なし」 となっている。実際は公邸に 「安倍応援団」 のジャーナリストらがひそかに招かれ、「訪米大成功祝勝会だ」 と盛り上がった (私は招かれていません、念のため)。
 関係者によると、今やトランプ米、プーチン露両大統領とも 「互角に渡り合う世界のアベ」 をたたえて意気上がる面々が、一転してまゆを曇らせたのは、話題が草の根右翼組織 「日本会議」 に移ってからだという。元々は安倍政治の確信的な支持層だったはずが、どうも最近は足を引っ張ることが多い。……
 国有地払い下げ疑惑を追及され、学校法人経営にアベ夫妻を利用していた 「森友学園」 理事長は、日本会議大阪の幹部だった。

 「安倍応援団」 のジャーナリストが政府に招かれていますなどということをきくと、戦中の大政翼賛会を連想させます。
 以前、政府の官房機密費が政治評論家に配られているということが明らかになりました。マスコミが政府のふところに入って世論を 「誘導」 しています。権力を監視する役割を持つ彼らに恥というものがないのでしょうか。
 「森友学園」 問題での疑惑追及は教育勅語にまで及びましたが、政府は 「憲法や教育基本法に反しないような形でなら教材使用を否定しない」 と閣議決定をおこないました。以前なら即閣僚辞任になるような発言が、逆に市民権を付与する契機に代わっていきます。
 親を大切にすることを学校でわざわざ教えなければならないなどということは国として恥ずかしいことです。郷土を愛することを強いるということは社会が乱れている証拠です。


 今、政府の思うとおりの政治がすすめられています。
 その一方で、機密保護法、マイカード制度、「共謀罪」 がさまざまな口実をもとに推し進められています。
 じわじわと人びとの監視がすすみ、抵抗が弱められています。
 共謀罪は、治安維持法を連想させて語られます。治安維持法で死刑になった日本人はいません。朝鮮で1人います。容疑の段階での取り調べで拷問・虐殺がおこなわれたのは周知のことです。その効力は分断と監視を強め、人びとの間に疑心暗鬼を持ち込み、行動を委縮させるだけでも大きいものがありました。
 歴史として習ったことと似たような状況がひたひたと押し寄せているような気がしてきます。


 4月6日の朝日新聞・オピニオン&フォーラムにドイツの現代史研究所副所長マグヌス・ブレヒトケンさん (専門はドイツ近現代史。比較政治論) へのインタビュー 「ポピュリズムの行方」 が載りました。
 インタビューの意図は、「欧州各国で、排外主義を掲げ、欧州統合にも批判的な右派ポピュリスト政党が伸長している。トランプ米大統領を生んだ米国を含め、世界の民主主義はどこに向かおうとしているのか。ナチスが台頭した戦前との違いは何か。」 です。その中のナチスの台頭についての箇所を抜粋します。

 ――英国のログイン前の続き欧州連合 (EU) 離脱、米大統領選など直接的な投票で、世界が大きく動いています。ナチスドイツも1930年代、4度の国民投票で台頭しました。
「30年代の国民投票と現代を比較することは非常に慎重であるべきだと思います。ヒトラーが権力を掌握した33年 (1月) 以降、特に2月の国会議事堂放火事件 (共産主義者の犯行と断定して共産党を弾圧) を経て、法の支配は事実上廃止されました。ワイマール憲法の48条が発動され、同憲法が保障していたほぼすべての基本的な権利は完全に廃止されたのです」
 ――48条は 「憲法停止の非常大権」 を定めた緊急条項ですね。
「憲法に何が書かれていても権力者のやりたいことができる。憲法に憲法を棚に上げる規定があったのです。それをヒトラーが利用した。(憲法という) 法的側面だけでなく、政治的、社会的な弾圧も強まりました。突撃隊 (ナチスの準軍事組織、SA) を使って社会民主主義者や共産主義者などあらゆる政敵に対する暴力が行使されるようになる。そうなると、普通の政治状況や自由選挙といった選択肢はもうありません。33年3月の総選挙は暴力と脅しが広がるなかで実施されたのです」
 ――その総選挙を経て、議会制民主主義を否定する勢力が議会で多数派を握りました。
「ナチスの国家社会主義ドイツ労働者党は44%の得票でしたが、民主主義を否定する右派政党DNVP (ドイツ国家人民党) も8%を得た。つまり右側だけで議会を否定する勢力が過半数を占めた。一方、共産党の選挙前の支持は17% (選挙では12%) あった。彼らも議会を否定する勢力だった。つまり当時は左右合わせて約3分の2の議会勢力が反民主主義的、議会否定派の政党だったのです」

 ――日本でも大規模な自然災害やテロなど、非常時に政府権限を強める 「緊急事態条項」 を憲法に盛り込むべきかどうかが、改憲論議の焦点の一つになっています。
「こうした条項は、民主主義の安定にとって、極めて危険です。各国とも何らかの規定はありますが、ナチスの経験から導き得るのは、権力を握ったものがそれをどう運用するかわからないということなのです。(ワイマール共和国の大統領) ヒンデンブルクは、この条項を発動したとき、どのような結果をもたらすか、理解していなかったのでしょう。権力の集中はいつでも極めて危険なのです。ドイツ新憲法でも68年に導入されていますが、極めて限定的なもので議会の同意も必要です」
 ――ただ、ナチスの台頭も、既成政治への不満が発端でした。
「その通りです。ただ、政治的な環境は全く異なります。30年代前半の有権者の多くは (第1次大戦まで続いた) 帝政ドイツの専制主義的で非民主主義的な時代に生きてきた人たちです。ワイマール共和国下での12年間の民主主義を経験していましたが、それは大戦の敗戦によってもたらされたものという意識だった。敗戦はドイツ帝国や王政のせいではなく、ドイツ革命や社会民主主義者のせいだと考えた。つまり、敗北感と民主主義とが結びついていたのです。専制主義の伝統に慣れた33年当時の有権者は、議会制民主主義が機能していないと感じた。だからこそ、既成政治を打破し、国家の安定と国力を回復し、解決策を示すと訴えたヒトラーのような人物にひかれたのです」
 ――ヒトラーは巨額の赤字国債によって軍事的な支出を増やし、人気を高めていきます。
「数年後に戦争や周辺国の占領で賄えるという前提だったのでしょう。35年の再軍備宣言 (ベルサイユ条約の破棄)、徴兵制の復活は極めて高い支持を得た。新たな体制と党による全体主義、専制主義的な圧力だけでなく、人々がそれに慣れ、そうした政治的変化を国家にとっての成功だと信じていた。仮に38年のドイツで自由選挙が実施されていたとしてもヒトラーは過半数を得ていたでしょう」

 ―― 「過去」 を美化しようとする動きにドイツではどう向き合っているのですか。
「ドイツでも40~50年代、過去に触れることを好まない時期がありました。多くの人は、ナチスの暴力や特にホロコースト (ユダヤ人大虐殺) について触れることに不快感を覚えていた。しかし自己批判的であることが常に求められるなかで、時間はかかったものの社会に変化を及ぼしたのです」
 ――歴史的にみて、政治や社会の安定を保つうえで必要なのは何なのでしょうか。
「こういう時代だからこそ、議会や法治主義といった安定的なシステムによって揺れを吸収していくことが重要です。そのために自分自身、何ができるか。何をすべきか。同僚ともよく議論しています。過激なものからの脅威に対して、社会の安定のために自分たちの持っているものを活用することは歴史家としての責務だと考えています。書斎にこもるのではなく、外に出なければなりません」
「(ドイツの反イスラム運動) ペギーダは 『我々こそが人民の声だ』 と叫びますが、そうではありません。彼らの票は抗議の票であって、有権者は極右、極左が志向する社会を望んでいるわけではない。AfDの政治家も時に人種差別的なコメントを投げかけ、社会の反応を試そうとします。そういう試みを成功させないようにするのが我々の責務です。暴力は暴力的な言葉から始まる。政治的な立場や考えが異なる相手に対して決して個人的な攻撃や人格否定をすべきではない。他人への敬意を持ち、合理的な方法で批判するのが基本原則です。この原則を超える言葉遣いを認めてはならない。ドイツで技術と社会がともに発展したのはこのためだと私は思います。少なくともドイツでは、社会の安定が必要だと確信する人の方が極右、極左の動きよりも活発だと私は信じたい」

 ナチズムは人びとの不満の中から台頭してきます。身近に敵を発見します。


 戦後40年に当る1985年5月8日 (ドイツが無条件降伏した日)、西ドイツのワイツゼッカー大統領は、連邦議会で演説を行ないました。有名な 「荒れ野の40年」 です。その抜粋です。
「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。」

 ドイツと日本では歴史への向い方が違っています。日本は過去に目を閉ざしています。従軍慰安婦問題などの戦後補償、ヘイトスピーチ、沖縄問題などはまさしくそうです。
 福島原発事故も過去にさせられつつあります。原発事故の避難者に 「自己責任」 の言葉が発せられました。
 教育勅語を発した方の最後の公的発言は 「耐えがたきをたえ、忍び難きを忍び、もって万世の為に太平を開かんと欲す」 です。いい換えるなら 「自己責任」 です。今は人びとの 「自己責任」 が太平の国家をつくるということのようです。そのような社会は、為政者にとっては太平でも人びとにとっては暗黒です。

 耐えがたきをたえない、忍び難きを忍ばないで、声をあげ、行動を起こしていく必要があります。そして対局を築くことがナチズムを防止します。
 戦争と平和は、いつも押しくらまんじゅうをしています。

   「活動報告」 2014.3.12
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