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チビチリガマ  死者は3度殺された
2017/09/15(Fri)
 9月15日 (金)

 沖縄・読谷村波平のチビチリガマが何者かに荒らされました。
 1945年3月26日、米軍は沖縄・慶良間諸島に上陸、4月1日に本島の北谷・読谷に上陸します。住民140人はチビチリガマに避難します。そのうち82人が2日に 「集団自決」 します。47人が子どもたちです。

 1980年代半ば、チビチリガマを初めて訪れました。
 道路から急な階段を降りた谷間の草むらを歩いた先に入口がありました。
 その後に訪れた時はコンクリートで階段が作られていました。入口手前の右わきに彫刻家金城実さんと住民の合作 「世代を結ぶ平和の像」 が設置されていました。87年4月に完成しました。2階造りになっている像には82人の姿が盛り込まれていました。
 上の段に腰を掛けて頭を抱えている姿があります。このモデルになった人がいます。
 戦時中徴兵にとられて読谷を離れていましたが無事に戻ってきます。しかし残っていた妻子4人はチビチリガマでて 「自決」 していました。
 その方は、いつもは気丈夫なのですが集落の催し物などで酒が入ると暴れ出し、みんなから嫌われ、早く帰ることを促されます。あるとき、集落のひとが後をつけていくとチビチリガマに降り、 「なんで自決なんかしたんだ」 と泣きながら語りかけていました。
 遺族は口を閉ざしていましたが、このことを機会にチビチリガマと集団自決が明らかになりました。
 青年団を中心に村で戦時中におきた出来事の掘り起こしが始まります。戦後38年後のことでした。

 沖縄は戦後米軍の支配になります。「復帰」 闘争が続けられますが、72年の 「復帰」 は期待したものにはなりませんでした。そのような中で、人びとはもう一度現実を見つめ直し、米軍基地撤去の闘いと合わせて沖縄戦の捉えかえしを始めます。各地で戦跡の発掘や証言の収録が開始されます。
 チビチリガマと集団自決問題の掘り起こしが始まったのもこのころです。

 像が87年11月に壊されました。壊したのは地元の右翼でした。右翼は戦争の犠牲者を追悼しているものには手をかけることはしません。この右翼は本土の右翼から叱られ解散させられました。ですから今回も、右翼が壊したということは想定できません。
 壊された像は、しばらくはシートで覆われていました。しかし壊されたのも事実といういうことでシートははがされました。3回目に訪れた時見ました。無残としかいい表せません。82人については姿が消えたり、金網や針金の祖型があらわになったものもありました。
 95年、新しい像が設置されました。それが今回壊されました。

 頭を少し屈めながらチビチリガマに入るとすぐに、ベニヤ板に書かれた金城実さんの詩が立てかけてあります。

   チビチリガマの歌
  1、戦世ぬ哀り 物語てたぼり
    イクサユヌアワリ ムヌガタテタボリ
    童御孫世に 語てたぼり
    ワラビンマガユニ カタリテタボリ
  2、波平チビチリや 私達沖縄世ぬ
    ハンザチビチリヤ ワンタウチナユヌ
    心肝痛ち 泣くさ沖縄
    ククルチムヤマム ナチュサウチナ
  3、泣くなチビチリよ 平和世願て
    ナチヌサチビチリヨ ミクルユニガテ
    物知らし所 チビチリよ
    ムヌシラシドコロ チビチリヨ

 今回、荒らした者たちはこれを見ながら奥に入っていきました。
 「戦世ぬ哀り・・・」 とはどういうことかと思いは巡らなかったのでしょうか。

 チビチリガマは大きくありません。
 今は自由に中にはいれませんが、かつてはできました。少し行くと屈まないと奥には進めません。端の方に当時の遺品が集められています。ビン、茶碗、包丁、入れ歯、メガネ・・・。茶色になった骨もあります。地面の土は湿っぽいというよりは油っぽいです。
 鎌を手に取ってみました。この鎌で避難していた住民は家族を殺しました。
 案内してくれた人が語ります。
「集団自決といわれますが1歳や2歳の子供が自分の意思で死ぬことができますか。殺されたのです」

 米軍は住民に出てくることを呼びかけます。しかし聞き入れません。
 竹槍をもって突っ込んでいった2人が銃で虐殺されます。
 家族はなぜ手をかけたのでしょうか。愛するゆえです。
 愛する者が米兵によって辱めを受けないために、虐待されないためにそうしたのです。
 そして教育がありました。「生きて虜囚の辱を受けず」 の戦陣訓がたたき込まれていました。
 看護師がいました。彼女は毒薬注射をそこにいた人たちにうちに打ち始めます。
 石油ランプに火を放って身体の近くで倒したり、近くにある布団などに延焼させます。煙に巻かれて窒息した者もいました。

 中国に派遣されていた従軍看護師がいました、南方から帰って来た兵士がいました。その人たちが自分の体験を話します。日本軍も現地住民にひどいことをした、ましてや米軍は何をするかわからない、死ぬ方が楽だ、と。
 死にきれない人たちがいました。傷つけた身体でガマを出ていきました。

 1995年6月、沖縄・摩文仁の丘に 「平和の礎」 が除幕されました。「平和の礎」 には沖縄戦で亡くなった1人ひとりの名前が刻まれています。
 名前を刻むに際して市町村でもう一度亡くなった方がたの確認をしました。そうしたらチビチリガマでもう1人亡くなっていたことがわかりました。
 今、谷間に建てられている碑には83名と刻まれ、裏側に21世帯、85人の名前が刻まれています。


 毎年4月1日、チビチリガマで遺族会主催の慰霊祭が行われています。
 今年の4月2日の沖縄タイムスの記事です。見出しは 「『うその教育で…』 沖縄戦 『集団自決』 遺族が語る危機感 読谷・チビチリガマで慰霊祭」。
「母方の祖父母ら5人を亡くした遺族会の與那覇徳雄会長 (62) は 『生き残った人は 「あの時、本当のことが分かっていれば」 「 うその教育を押しつけられなければ」 と口々に叫んでいた』 と指摘。『もう一度しっかり足元を見つめ、二度とチビチリガマの悲劇を起こさせてはいけない』 と語った。」
 もう1本の見出しは 「『痛い痛い』 暗闇に響く声、毒の注射器に行列… 8才の少女が目撃したチビチリガマの 『集団自決』」。
「『ここは毒が入った注射を打つための列』 『あそこでは、お母さんに背中を包丁で刺された子どもが痛い痛いと泣いていた』 -。8歳の時にチビチリガマで 『集団自決 (強制集団死)』 を目の当たりにした上原豊子さん (80)。当時のガマの中の状況を語ってくれた。
 避難していた家族は艦砲射撃で負傷した祖父と母、4人きょうだいの計6人。うち祖父が亡くなった。
 4月2日の朝。上半身裸の米兵が投降の呼び掛けに現れた。水も食料もあると言う。だが、周囲からは 『だまされるな』 との声が上がった。その後、次々と自ら命を絶つ惨状が始まった。『痛いよ』 とうめく子どもの声が今も耳にこびり付く。
 子どもに布団をかぶせて火をつける母親、毒が入った注射器を看護師に打ってもらおうと列をつくる住民…。煙が充満する中で、上原さんの母は子ども4人を引き連れて出口に向かった。『真っ暗な中から家族が出たら、光が素晴らしく感じた』 と振り返る。
 ガマの中に設けられた祭壇に、丁寧に手を合わせた上原さん。『天国にいる魂が慰められるよう、平和な世の中になるよう願いました』 と話した。」

 遺族らの願いはかないませんでした。ガマは荒らされました。死者は3度殺されました。


  泣くなチビチリよ 平和世願て
  ナチヌサチビチリヨ ミクルユニガテ

 それでもチビチリガマは語りつづけます。語りつづけなければならないのです。
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「軍隊は住民を守らなかった」                          移転ではなく 「基地はいらない」
2017/05/26(Fri)
 5月26日 (金)

 朝日新聞社は、数年前からタブロイド判16ページの教育特集 「知る原爆」 「知る沖縄戦」 を発行しています。「知る原爆」 は小学生向け、「知る沖縄戦」 は中学生向けです。希望すると無料で送ってもらえます。労働組合の学習会用にもぴったりです。

 「知る沖縄戦」 を紹介します。
 1面は、1945年3月26日に米軍が上陸し、住民が 「集団自決」 をした慶良間諸島の青い海の写真です。ここから沖縄戦が始まりました。
 モデルの知花くららさんの祖父はこの時15歳でした。慶良間諸島・慶留間島でのことです。
「当時15歳の祖父は姉と2人、『自決』 を決め、3つ上の姉の首をしめかかった。自分は、ヤシの葉をヒモ代わりにして首をつろうとした。でも2人とも死にきれなかった。
 米軍の捕虜になれば、目はえぐられ、耳はそぎ落とされる。捕まる前に死ななければいけない――そう信じ込んでいた、と。
 それから60年以上たって起きた教科書問題。沖縄戦の事実が書きかえられようとしている、という危機感から祖父は話すことを決めたそうです。そして 『生き残っているのが申し訳ない』 と、涙を流しました。……
 祖父は、死にきれずに助かり、捕虜になって食べたチョコレートの味が忘れられないと言いました。ついさっきまで生きていた親戚や友だちにも味わわせてやりたかった、と」

 慶良間諸島・慶留間島にいた当時16歳だった金城重明さんの話です。
「島のあちこちに隠れていた住民に対し、日本軍から、軍の陣地近くに集まれと命令がありました。戦うのは軍人であり、住民は安全な場所へ避難させるのが当たり前なのに、です。軍から手投げ弾を渡されていた住民がいました。……
 大人のやることをじっと見ていました。妻、子どもに木を振り下ろす人。かま、こん棒、石を使う人。地獄としかいいようがない光景です。
 わたしたちは、『生き残る』 ことが何よりも恐ろしかったのです。
 わたしは石で、母親を殴りつけました。兄とともに9歳の妹、6歳の弟を手にかけてしまったのです。自ら死にきれずに死を求めている人にも手をかしました。
 わたしたちは、『皇民化教育』 や日本軍によって、『洗脳』 されていました。」
 軍は住民を守りませんでした。渡嘉敷島では300人が亡くなりました。
 金城さんの話は20年以上前に沖縄を訪問した時に伺いました。その時の録音テープを今も持っています。

 沖縄戦がいつから始まったのかについては議論があります。
 1944年8月21日夜、対馬丸は児童ら1788人を乗せて那覇港を出発し、長崎を目指します。いわゆる学童疎開です。
 22日午後10時12分、鹿児島県・トカラ列島付近の海で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、10分ほどで沈没します。数日間の漂流の末に助かった人もいますが、名前が判明しているだけで、780人の児童を含む1485人が犠牲になりました。
 対馬丸は他の疎開船2隻と護衛艦、駆逐艦の合計5隻で船団を組んで出発しました。
 護衛艦と駆逐艦は撃沈を確認後、漂流する人たちを放置して逃走しました。そして日本軍はこの撃沈と犠牲を遺族にも隠し続けます。救助された人々には箝口令がしかれました。
 対馬丸に乗っていて助かった当時国民学校4年生の平良啓子さんの話です。
「翌日の夜、。家族はひとかたまりになって座り、わたしと (隣に住んでいた同い年のいとこ) 時子は祖母のひざを枕にしてぐっすり眠っていました。
 ボーン、という大きな音で目が覚めました。まわりを見渡しても、家族がみあたりません。船は燃えあがっています。……
 沈む船から海に飛び込みました。波をかぶり、失神しそうななかで、時子に会いました。小さなしょうゆだるに2人でつかまって、一生懸命励ましあっていましたが、大きな波がきて、時子の手は樽から離れてしまいました。
 その後、何とかいかだに泳ぎ着き、しがみつきました。2畳分くらいのいかだに何十人もの人がつかまろうとしては、海の中に消えていきました。翌朝、いかだに残っていたのは10人になっていました。それから6日間、ずっと海の上を漂うことになりました。……
 6日目、奄美大島の無人島に流れ着きました。やっとたどりついたのに、上陸する直前に、7歳の女の子も亡くなりました。生き残ったのは4人だけでした。
 沖縄に戻ることができたのは、よく45年2月。……
 時子のお母さんはわたしにこう言いました。
『あなたは生きて帰ってきたのねえ。時子は海に置いてきたの』」

 対馬丸事件から60年後の2004年8月22日、那覇市若狭に対馬丸祈念館が開設しました。
 昨年5月祈念館を訪れました。展示物のなかには遺品がありません。遺品は今も奄美大島沖合いの海底にあるからです。かわって生き残った人たちの証言コーナーや模型がおかれ、絵や写真で説明が行なわれています。


 「沖縄戦Q&A」 が10項目あります。
Q.なぜ沖縄が戦場になったの? です。
「みんなのお父さんとお母さんが生まれるすっと前、日本は米やイギリスとセンスしたんだ。太平洋戦争だ。米国は沖縄を占領して日本本土を攻めるための前哨基地として使おうと考えた。これに対して日本は、日本本土に攻め込まれたら困ると考えて、沖縄になるべく米軍をひきとめて時間をかせぐ『持久戦』の作戦をたてた。」

Q.住民はどうしたの?
「戦争はふつう、軍隊と軍隊、軍人と軍人が戦うものだが、沖縄戦は、子どもも含む住民が、足りない軍人の代わりや手伝いをさせられたりした。軍人も住民も、まぜこぜになったまま地上戦がつづいた。日本軍が南部に追い詰められてからは特に、米軍の無差別な攻撃に、軍人も、住民も次々と命を奪われていったんだ。……
 沖縄戦の教訓として 『軍隊は住民を守らなかった』 と語りつがれている。日本兵に命を助けられた人はもちろんいる。でも、日本兵に命を脅かされたり、スパイとみなされ、実際に命を奪われたりした人たちがたくさんいる。」

Q.歴史教科書で問題になったの?
「住民の 『集団自決』 については高校の歴史教科書を更新するときに、文部科学省と教科書をつくっている会社とのやりとりで 『日本軍が強制した』 という記述が削除されたことがある。それに対して 『集団自決』 を体験したり、体験を聞いたりしてきた沖縄県のたくさんの人たちが、大切な歴史を消さないで、と声をあげた。結果、『軍によって集団自決に追い込まれた住民も出た』 『軍により集団自決を強いられた』 といった表現が復活して盛り込まれていたんだ。……
 (裁判で) 日本軍が 『集団自決』 を命じた、という本の記述について、当事者の元軍人らが命じていないと訴えたんだ。結果的には、最高裁判所が、個々の元軍人が直接命じたという証明はないと判断する一方で、『軍官民共生共死の一体化』 の大方針の下で日本軍が深くかかわていることは否定できないと結論を出した。全体として、日本軍の強制や命令とする見方もありえる、ともいっている。」

Q.その後の沖縄はどうなったの?
「米軍は日本全体を占領し、基地を各地につくった。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立したんだけど、沖縄は切り離され、72年の本土復帰まで米軍統治下におかれた。その間、日本各地の米軍基地はどんどん減らされたけど、沖縄ではあらたにつくられたり、広げられたりした。その結果、日本にある米軍専用基地のほとんどが沖縄に集中している。……
 米軍基地もたくさんある。『まだ戦は終わっていない』 という人が多い理由はこうしたことにあるんだ。トラウマといって、何十年たっても、米軍機をみたり、戦争のニュースを聞いたりすると怖い体験を思い出して眠れなくなったり、気分が落ち込んでしまったりする人もいる。


 最後のページは「沖縄のいま」です。
「沖縄戦がおわった。
 米国は全国に米軍基地をつくった。
 多くはなくなったが、
 おきなわにはたくさん残された。
 7割が沖縄にある。」

 3つの基地について写真とともに説明があります。
「普天間基地
 宜野湾市の真ん中に位置し、まわりに学校や住宅、病院がある。『世界一危険』 といわれ、日米は1996年、県内の別の場所に移すことを条件に、住民に返すと決めたが進んでいない。2004年には隣の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した。広さは東京ディズニーランド (TDL) 9個分。オスプレイも配備されている。沖縄戦までは、住民が暮らしていた。基地内には墓が残り、許可をもらって墓参りをする住民も。佐喜間美術館は、沖縄戦を描いた有名な絵を展示するため、反ってきた基地の土地に建てたものだ。」

「嘉手納基地
 沖縄市、嘉手納町、北谷町にまたがり、広さはTUL39個分ほど。2本の滑走路に米軍の飛行機約100機が飛び交っている。騒音は沖縄で最も大きく、住民がおこした裁判では、騒音が違法だとして国に損害賠償が命じられている。沖縄戦の前年、日本軍が住民の土地に飛行場を造り、沖縄戦で奪い取った米軍が大きくした。基地の内外で墜落事故がなんどもあり、住民も亡くなっている。児童ら17人が死亡した1959年の事故も、嘉手納を飛び立った米軍機だ。北側の 「道の駅かでな」 ではこうした歴史を学べる。」

「キャンプ・シュワブ
 沖縄に数ある米軍の基地。キャンプ・ハンセン。キャンプ・フォスター。キャンプ・シュワブ・・・。キャンプは基地とほぼ同義、その後に続くのは沖縄戦で活躍し、戦死した米兵の名前だ。シュワブは、本物の弾を撃つ訓練場で、住宅地に銃声がひびく・広さはTDL40個分。同じ訓練場で隣のハンセンは100個分だ。日米両政府は、キャンプ・シュワブ沿岸の海を埋め立てて新しい基地をつくり、普天間飛行場の引っ越し先にしようとしている。でも、名護市長や知事をはじめ反対する住民が多く、今後は見通せない。」


 「新しい基地をつくり」 が辺野古基地です。普天間飛行場の引っ越し先は口実で新たな基地建設です。
 どこに移すかの問題ではありません。沖縄戦を体験し、伝承する沖縄の人たちにとって基地はいらない、です。
 反対する住民のゲート前での座り込みは4月1日で1000日を迎えました。今も連日反対闘争は続いています。
 しかし政府は4月25日午前、辺野古沿岸部で埋め立て工事に着手しました。
 これに対して翁長雄志知事は、3月末に期限が切れた埋め立て工事に必要な 「岩礁破砕許可」 を得ないまま政府が工事を進めていると主張し、工事差し止め訴訟を提起しました。


  平和のためというのなら
   平和のためになおさらに
    土地は放すな 村人よ

 1954年、基地建設のための農地収奪に抵抗する沖縄・伊江島の農民は、同じく基地建設反対闘争を闘っている小録村 (現在の那覇市小録 現在は商店街) の農民と交流しました。その時、小録の農民が琉歌を詠って伊江島で闘っている農民たちに贈りました。(阿波根昌鴻著『米軍と農民 -沖縄県伊江島-』 岩波新書)

   「活動報告」 2017.4.18
   「活動報告」 2016.5.20
   「活動報告」 2015.9.15
   「活動報告」 2015.6.26
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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沖縄は今日まで自ら基地を提供したことは一度としてありません
2017/04/18(Tue)
 4月18日 (火)

 4月1日で、沖縄・辺野古にある米軍キャンプ・シュワブ前での辺野古基地建設に反対する座り込みが1000日になりました。

 1995年の沖縄米兵少女暴行事件を契機に、沖縄の米軍基地に反対する運動や普天間基地の返還要求をする運動が起こります。その結果、96年4月、日米政府は普天間基地を移設条件付きで返還が合意されました。その後、代替地の話がでてき、97年に名護市辺野古付近に固まっていきます。
 辺野古の話がでると地元の人たちは海辺の近くに小屋を立てて座り込みを開始します。この小屋には何度か訪れました。小屋のとなりに 「2000年 基地と金がやってきた。数年後 金はなくなった。そして・・・基地だけが残った」 の大きな看板が掲げられていました。あちこちに 「沖縄県民をなめるな! 名護市民を見くびるな! 」 のプラカードを打ち付けた杭が立てられていました。
 まだ決定でされていませんが、現地では大成建設の青写真ができていると公言されていました。
 座り込みをしているおばあたちと交流しました。
 「基地建設が始まったらどうなさいますか」 誰かが聞きました。「海に座るさー」 という答が返ってきました。「戦時中も、戦後の何もない時も、子供たちに食べ物をくれた海だもの。守っていくさー。そうすれば食う心配はないよー」
 小屋から見渡せる海は、表現方法が見つからないくらいきれいでした。
 辺野古基地建設が本決まりになると座り込みは2014年7月からキャンプ・シュワブ変わります。


 沖縄県は辺野古基地建設に反対です。
 県は最近、『沖縄から伝えたい。米軍基地の話。 Q&A BooK』 を作成しました。21のQに図解入りで分かりやすく答えています。いくつかを紹介します。

Q2 何もなかったところに米軍基地ができて、その周りに人が住んだのではないですか。
 それは、誤った認識です。
 たとえば、米軍上陸前年に宜野湾村には多くの集落が存在し、約1万4千人の住民がいましたが、沖縄に上陸した米軍は普天間飛行場建設のために宜野湾、神山、新城、中原の4つの集落を中心に広い範囲を強制接収しました。
 なかでも、普天間飛行場が建設される前の当時の宜野湾村の中心は字宜野湾という場所で、現在の普天間飛行場のなかにありました。そこは、もともと役場や国民学校、郵便局、病院、旅館、雑貨店がならび、いくつもの集落が点在する地域でした。
 また、字普天間には、沖縄県庁中頭郡地方事務所や県立農事試験場など官公庁が設置され、沖縄本島中部の中心地でした。
 住民が避難したり収容所に入れられている間に、米軍が利用価値の高い土地を強制的に収容したため、戻ってきた住民は自分の故郷に帰りたくても帰れず、その周辺に住むしかないという状況でした。


 13年6月25日の 「活動日記」 の再録です。
 沖縄戦が始まるまでは、首里から普天間まで真っ直ぐな街道が走っていて両側に3000本の琉球松が生い茂っていました。沖縄戦で一番の激戦だった嘉数高地の戦闘で街道が廃墟になると、そこに米軍は普天間飛行場を建設します。朝鮮戦争で重要性が認識され、強化されていきます。基地建設で追い出された住民はその周囲に住居を建てていきました。
 普天間基地周辺は、沖縄では珍しく平地が広がっています。そこの真ん中に基地が居座っています。
 宜野湾市は 「アンパン」 だといわれました。市街地の真ん中のおいしいアンの部分を基地が占め、周囲の皮の部分に住民がへばりついています。基地は市を東西に分断し、学校は日常的に戦闘機の騒音に苦しめられています。それだけではなく振動被害もあります。そして事故があります。
 普天間基地撤去の運動が強まり、そして基地機能を果すには手狭になったということでの移設計画が辺野古基地建設です。基地機能の拡大強化、機能集中化です。
 やはり米軍は黙って撤退しません。


Q4 沖縄にはどれだけの米軍基地があるのですか。
 沖縄には、31の米軍専用施設があり、その面積は1万8,609ヘクタール、本件の総面積の約8%、人口の9割以上が居住する沖縄本島では約15%の面積を占めます。
 その規模は、東京23区のうち13区 (千代田区を中心に取り巻く区) を覆ってしまうほどの広大な面積です。
 沖縄が本土に復帰した昭和47年 (1972年) 当時、全国の米軍専用施設面積に占める沖縄県の割合は約58.7%でしたが、本土では米軍機との整理・縮小が沖縄県よりも進んだ結果、現在では、国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.6%が集中しています。
 また、陸上だけでなく、沖縄県及びその周辺には、水域27カ所と空域20カ所が訓練区域として米軍管理下に置かれ、漁業への制限や航空経路への制限等があります。またその規模は、水域が約54.938㎢で九州の約1.3倍、空域がやく95.416㎢で北海道の約1.1倍の広大なものになっています。米軍専用施設面積の割合は、沖縄県70.7%で2位は青森県の9.9%、神奈川県5.6%の順です。

Q11 沖縄県の経済は米軍基地経済に大きく依存しているのではないですか。
 沖縄の本土復帰 (昭和47年) 時の昭和40年代と現在を比べると、沖縄経済における基地関連収入 (軍用地料、軍雇用者所得、米軍等への財・サービスの提供) 割合は大幅に低下しています。
 本土復帰前の沖縄経済は、軍用施政権の下、高度経済成長下における我が国の経済発展の過程から切り離されていたことなどもあり、総じて製造業が振るわず、基地依存型の経済構造が形成されたため、経済全体に占める基地関連収入の割合が高い時期がありました。
 しかし、復帰後の沖縄経済については、3次にわたる沖縄振興開発計画とその後の沖縄振興計画に基づく取り組みにより、道路や港湾、空港などの社会資本の整備に加え、就業者数の増加や観光、情報通信産業等の成長など、着実に発展してきました。
 基地収入が県民総所得に占める割合は、復帰前の昭和40年度には30.4%でしたが、復帰直後の昭和47年度には15.5%、平成26年度には5.7% (2.426億円) まで大幅に低下しており、基地関連収入が件経済へ与える影響は限定的なものとなっています。

Q16 なぜ普天間基地を辺野古に移設することに反対なのですか。
 戦後71年をすぎても日本の国土面積約0.6%の粋な和犬に、たく70.6%もの米軍専用施設が存在し続け、状況が改善されない中で、今後100年、200年も使われるであろう辺野古新基地ができることは、沖縄県に対し、過重な基地負担や基地負担の格差を固定化するものであり、到底容認できるものではありません。
 沖縄は今日まで自ら基地を提供したことは一度としてありません。戦後の米軍占領下、住民が収容所に隔離されている間に無断で集落や畑がつぶされ、日本独立後も武装兵らによる 「銃剣とブルドーザー」 で居住地などが強制収容されて、住民の意思とは関わりなく、基地が次々と建設されました。
 土地を奪って、きょうまで住民に大きな苦しみを与えておきながら、基地がろうきゅうかしたから、世界一危険だから、普天間飛行場の移設は辺野古が唯一の解決策だから沖縄が基地を負担しろというのは、理不尽です。
 一方、辺野古新基地が造られようとしている辺野古・大浦湾周辺の海域は、ジュゴンをはじめとする絶滅危惧種262種を含む5.800種以上の生物が確認され、生物種の数は国内の世界自然遺産地域を上まわるもので、子や孫に誇りある豊かな自然を残すことは我々の責任です。 
 また、5.800種のうち、約1.300種は分類されていない生物であり、種が同定されると多くは新種の可能性があります。新基地建設は、貴重な生物多様性を失わせ、これらかけがえのない生物の存在をおびやかすものなのです。
 さらに、平成26年の名護市長選挙、沖縄県知事選挙、衆議員議員選挙、平成28年の県議会議員選挙、参議院議員選挙では、辺野古移設に反対する県民の意思が示されています。沖縄県は日米安全保障体制の重要性は理解していますが、県民の理解の得られない辺野古移設を強行すると、日米安全保障体制に大きな禍根を残すことになります。
 沖縄県は、これらのことから辺野古への移設に反対しており、今後とも辺野古に新吉は作らせないということを県政運営の柱にし、普天間飛行場の県外移設を求めていきます。

Q18 沖縄県が、辺野古への移設を反対すると、普天間飛行場の危険が放置されるのではないですか。
 政府は、沖縄県が辺野古新基地建設に協力しなければ、普天間飛行場は固定化されるとしています。
 沖縄県は、世界一危険とも言われる普天間飛行場の固定化は絶対に許されないと考えています。
 米軍占領下での強制収容によって住民の土地を奪って、今日まで住民に大きな苦しみを与えておきながら、基地が老朽化したから、世界一危険だから、普天間飛行場の移設は辺野古が唯一の解決策だから沖縄が基地を負担しろというのは、理不尽です。
 政府が普天間飛行場周辺住民の生命・財産を守ることを最優先にするのであれば、辺野古への移設に関わりなく、同飛行場の5年以内運転停止を実現するべきであり、普天間飛行場の固定化を絶対に避けて、積極的に県外移設に取り組むべきであると考えます。
 沖縄県としては、普天間飛行場の閉鎖撤去、県外移設を求めていますが、同飛行場が返還されるまでの間においても、危険性を放置することはできないことから、一日も早く普天間飛行場で航空機が飛ばない状況を実現し、危険性を除去していただきたいと求めています。

Q21 沖縄県は最高裁で敗訴したのだから、辺野古移設を認めるべきではないのでしょうか。
 平成28年12月20日、最高裁判所は、福岡高等裁判所那覇支部の下した 「沖縄県知事が公有水面埋立法42条1項に基づく埋立承認を取り消した処分を取り消さないことが違法であることを確認する。」 との判決が正しいと認めました。
 この訴訟では、前知事の埋立承認処分が適法であり、現知事がその承認を取り消した処分が違法であることは確認されましたが、この判決が確定したからといって、辺野古に新基地を造るかどうか、普天間飛行場を辺野古に移設するかどうかといった大きな課題に決着がついたわけではありません。
 この最高裁判決は、数ある知事権限の一つについて判断が示されたに過ぎません。辺野古新基地建設に関する知事の権限は、その他にもいくつもあり、今回の最高裁判決は、それら権限にまで効力を及ぼすわけではないのです。
 最高裁の判決をもって辺野古の新基地建設問題が全て決着したといえるものではなく、裁判の確定判決後も、「辺野古に新基地を造らせない」 との知事の立場は今までどおり変わりません。
 政府が辺野古の新基地建設を進めるためには、公有水面埋立法や沖縄県漁業調整規則に基づく手続等、今後もさまざまな知事の権限に関わる手続きを経る必要があります。
 今後、これらの手続きが申請された場合は、沖縄県は法令に則って適正に審査を行い、対応していきます。

 政府の強権と世論誘導にきちんと反論し、県としての反対の姿勢を明らかにしています。


 2月20日の朝日新聞・短歌時評のタイトルは 「沖縄をどう詠むか」 でした。沖縄の基地負担をおもわせる作品が紹介されていました。

    次々と仲間に鞄持たされて
     途方に暮るる生徒 沖縄

 現実は、生徒ではなく大人の世界でのことです。

 1月23日の 「朝日歌壇」 に本土の方の投稿が載っていました。

    沖縄の悲劇を語る先生の
     風邪か涙かわからない声

 沖縄が抱えている問題は、沖縄だけが当事者ではありません。

   「活動報告」 2016.10.21
   「活動報告」 2015.9.15
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沖縄問題  他人に対する不寛容が政府の政策を支えている
2017/02/28(Tue)
 2月28日 (火)

 沖縄から写真雑誌 「ぬじゅん (NUJUN)」 創刊号が郵送されてきました。編集は沖縄で活躍する写真家たちの集まり 「まぶいぐみ」 実行委員会です。実行委員会は2015年に発足し、昨年は東京でも 「コザ暴動プロジェクト」 で当時の写真展とシンポジウムを開催しました。(2016年5月10日の 「活動報告」 参照) ぬじゅんとは、沖縄の言葉で 「抜く」 「撮る」 という意味なのだそうです。
 発刊のあいさつ文です。
「2017年、『まぶいぐみ』 は、ギャラリーからもう一歩外に出て、沖縄をとりまく現状、現場そのものに身を投じ、写真の力を発揮していこうと思います。
 辺野古基地、高江ヘリパットの建設強行に代表されるように、沖縄の軍事基地化は、民意を無視する形で進んでいます。墜落したオスプレイも原因究明のなされぬままに沖縄住民の頭上に飛行を再開しました。1972年日本復帰前後の激動の沖縄と、現状はまったく変わらないどころか、ますます悪化しているとも言えるでしょう。……
 沖縄が続けてきた平和を求める 『闘争』 の現場に、いま、写真が何かの力を与えることができないか。東京や大阪で開催した 『コザ暴動プロジェクト』 の会場でも、もっと沖縄の 『現場』 を写真で伝えてほしいという声がありました。
 『まぶみぐみ』 は、沖縄の 『いまここ』 で起こっていることを記録し発信し、写真の力を沖縄の力に変えていくアクションとして 『ドキュメント ぬじゅん (NUJUN) -沖縄写真・まぶいぐみ』 を刊行します。」

 創刊号には2カ所の現場写真が載っています。
 1つは、昨年12月13日に名護市安部ギミ崎に墜落したオスプレイの残骸です。地上に近いところでの事故は、一歩間違ったら住民が生活している頭上に落ちたかもしれないという思いにかられました。
 テレビや新聞などでは海上にただよう破壊されたパーツが映し出されていましたが、写真は海中からのものです。無残に散在しています。あらためてこれが地上で起きた事故だったらと想定すると戦慄します。
 沖縄の海中は澄み切ってきれいです。軍事に占領されるのはもったいないです。
 もうひとつは東村高江のドキュメントです。オスプレイパット建設現場で住民が 「やんばるの森を壊すな!」 「ヘリパット工事を中止せよ!」 のプラカードを掲げて抗議をしています。排除する機動隊の制服の肩に 「8」 とありますので本土・警視庁の機動隊だと思われます。
 やんばるは沖縄の人たちにとっては水瓶です。そこが壊されています。住民は日々爆音に晒されることになります。(2016年5月20日の 「活動報告」 参照)

 撮った方たちも身体をはって闘っています。写真には迫力があります。
 沖縄はいつまで生命が脅かされ続けるのでしょうか。そこに新たな施設が作られようとしています。


 沖縄の現実が黙殺されています。
 その一方、告発、問題提起もつづいています。
 2月15日の朝日新聞の文化・文芸欄は、沖縄の風俗業界で働く女性たちの生き方をインタビュー調査した上間陽子著 『裸足で逃げる』 を紹介しています。
「女性の多くに共通しるのは 『社会に対する信頼感の低さ』 だという。
 『手を差し伸べてもらえないことを悟っているから助けも求めない。同じ境遇の他者に対しても、「自己責任だ」 という冷たい視線を向けるし、他人に対しても不寛容。(上が下に強いるのではなく) 下からの自己責任とでもいうべきことが、社会の一番厳しい層で起きていることを、私たちは黙殺し続けている』
 こうした厳しい現実は、けっして日常とかけ離れたところにあるわけではない。沖縄の外の人たちが思い描く、美しい自然と穏やかな人たちに象徴される 『のんきな沖縄』 の内部に入り込んでいるという。……
 こうした黙殺という 『暴力』 が分断を生み出す構造は、そのまま本土と沖縄の関係にも重なる。米軍による女性への事件が相次いでなお、沖縄から基地をなくす動きは本土では本格化せず、被害者側の 『落ち度』 を非難する声があとを絶たない。」
「基地がらみで痛ましい事件が起これば、メディアも世論も一定の同情を示す。しかし、ひとたび沖縄が 『基地受け入れは嫌だ』 と反発を強めようものなら、困り顔をし、時に厳しい攻撃を表出する。……
 与えられた境遇を黙って引き受けていればいいが、拒絶した瞬間に攻撃される。いやしているうちだけ可愛がられる。上間さんは 『沖縄は言ってみれば、日本社会における女性のポジションに置かれている。』 いつまでも一人前ではない他者扱いだ、と。
 見たい沖縄だけを見る、その視線の中に日本社会の無自覚な暴力が含まれている。」

 「社会に対する信頼感の低さ」 の状況におかれた人たちは、同じ境遇の他者に対しても不寛容になっています。その他の困難に追いやられている人たちに対しても 「自己責任」 をの眼差しを向けます。
 自己の生活防衛にあくせくしている人たちは政治に積極的に関心を示すゆとりがありません。政府の政策に抵抗する人たちの姿も、自分に期待感がないだけ共感しません。そのような関係性は人びとに無力化・無関心をあおります。
 政治との距離が生まれます。そして政府の強引な政策を間接的に容認している状況を作り出し、積極的に抵抗するもの以外は 「味方」 にしてしまいます。沖縄に基地を押し付けているのは政府や政治家だけではありません。
 沖縄の基地問題は沖縄の内でも外でもそのような状況におかれています。


 2月25日の毎日新聞の 「北田暁大が聞く 危機の20年」 は、井上寿一学習院大学学長と対談しています。抜粋です。
「井上 『安倍政権を倒せ』 だけでは有権者が付いて行くのは無理です。多くの有権者にとって、安保法制や憲法改正は優先順位が低い。有権者は、日米安保と憲法の両輪で戦後の平和と安定が維持されてきたと考えていて、『どちらも改正の必要なし』 が多数派だと思います。
北田 安保と9条のセットという矛盾した 『護憲』 ですね。左派は、この矛盾がいかに強固な安心感を人々に与えているかを軽視しすぎ。かつ、この両輪の下に、米軍基地での沖縄の犠牲がある。有権者の漠然としつつも複雑な安保、憲法観に向き合わないと、野党は、沖縄の問題でも説得力のある提起はできないはず。逆に、自民党はこの有権者意識をうまくコントロールしすぎている。
井上 沖縄に対する本土の保守は主権概念に強くこだわるので、他国軍隊の自国領土駐留はもっとも怒るべき事態のはずです。他方で本土の平均的な国民意識からすれば、中国の軍事的膨張が怖いので 『米軍基地をなくす』 と言われても不安です。……」

 日米安保と憲法の両輪で戦後の平和と安定が維持されてきたと考えていている 「護憲」 は自己の生活の現状維持が目的になり、沖縄に関心が向きません。日米安保と憲法が相反するものであるという主張を受け入れません。
 「戦争は絶対ダメ」 と訴える人たちの中には憲法9条が変節してきたという実態を認めようとしない人たちがいます。まだ憲法9条は金科玉条です。そのなかでも沖縄の基地の存在は見捨てられています。沖縄そのものが見捨てられているのです。


 2月24日、米軍嘉手納爆音訴訟の地裁判決がありました。原告住民の訴えは騒音ではなく爆音です。騒音は我慢できる限界をこえて違法だと国が敗訴しました。賠償金はどこが負担するかはわかりません。
 しかし将来分の賠償請求と飛行差し止め請求は退けられました。理由は、日本政府には米軍の行動を制約する権限はないとするまたしても 「第三者行為論」 です。「第三者行為論」 とは何でしょうか。日本政府から当事者意識を奪い、司法は政府に免罪符を与えているということです。いい換えるなら、司法が政府に屈服し、政府はアメリカに屈服しているということです。その中で住民の訴えは無駄ですよという通告です。「復帰」 後、沖縄に米軍基地が集中して移転がすすめられたという理由が浮かび上がってきます。犠牲が集中されたのです。


 これの問題提起に共通点があります。
 沖縄の現実を憂い、ちゃんと捉え返そうとしている人たちも少なくいるということがあります。議論がもっともっと進むことを期待します。
 人びとと沖縄問題の距離の開きは、同時に政府と人びとの距離でもあるという指摘です。格差社会の別な姿でもあります。そして人々にも、政府の姿勢には沖縄の歴史、沖縄とヤマトの関係が捨象されているということです。
 
 
 それぞれのおかれている分断させられている構造、自分も他者にも 「自己責任」 と抑制している意識からの脱出し、自己を見直して大切にしたり、他者の痛みに共感し、思いをよせるゆとりを獲得したいものです。自己責任への埋没から他者への思いやりに転化したなら、その意識を大きく発展させていったら 「壁」 も軍事力なども必要なくなります。
 それを期待するように 「ぬじゅん (NUJUN)」 が発刊されました。

   「活動報告」 2016.5.20
   「活動報告」 2016.5.10
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「土人」 発言は土壌があって発せられた
2016/10/21(Fri)
 10月21日 (金)

 沖縄・東村高江での米軍の米軍北部訓練場ヘリパッド移設工事現場で、警備していた大阪府警の機動隊員がフェンスをつかんで抗議していた反対派住民に 「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、土人が」 と発言したことが報道されました。当該の機動隊員も認めています。
 これに対して大阪府の松井知事はツイッターに 「ネットで映像を見ましたが、表現が不適切だったとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたことがわかりました。出張ご苦労様。」 と書き込みました。
 機動隊の発言は人権感覚をうかがいますが、知事の書き込みは人権という意識そのものがありません。

 以前は 「現地で抗議をしているのはよそから来た活動家」 という報道が行なわれ、地元の住民は反対していないという世論が作られようとしていました。
 大阪県警の機動隊は地元の人たちが抵抗しているということをはっきりと認識しています。そのうえで沖縄で、沖縄の住民に対して発せられました。単なるネガティブなトーンの発言ではありません。「おまえらには反対する権利などないんだ、国の政策に黙って従え、撤退しろ」 という思いが込められています。
 物理的力の行使のエスカレート予測させるものではありません。しかし相手の確信、正義感をえぐり、意欲を削ぎ、後退させる目的で発したのです。だから差別なのです。差別は本物の刃物より鋭いです
 機動隊員はその効果があると思うから発したのです。そして自分らの行為の正当性を確信しようとしたのです。

 「土人」 という発言には、前提として本土と沖縄には主従の関係が存在しています。なぜ従わなければならないのか。理由は沖縄だから、沖縄で生まれ育った住民だからです。それ以外の理由はありません。
 沖縄で生まれ育った人びとはそれ自身がアイデンティティーです。それを変えなければならない理由は何もないし、変わることもできません。人間が努力しても変えることができないことを否定して攻撃する行為は差別です
 しかし 「私の目の前で差別発言をした人たちの共通点は 『これっぽっちも罪悪感を感じていなかった』 という点だった。」 (浦本誉至史著 『江戸・東京の被差別部落の歴史』 明石書店) のです。これが本土と沖縄の本質的関係です。だから無意識に潜在的に持っている意識が吐かれるのです。

 松井知事の書きこみのような 「表現が不適切」 という問題ではありません。
 なおかつ知事は府警を統括する立場にあります。このような発言が機動隊員から発せられたということは、組織とし職員・隊員への人権教育が不充分だったということです。その認識に至らなかったということ自体が問題です。やはり、本土の政治・支配におとなしく従うべきだ、権力に逆らう権利はないという意思がストレートに表明されたのだと思います。
 だから記者会見では、住民の側だって乱暴な発言をしていると相殺してで許されるような発言をしたのです。


 問題の発端はどこにあったのでしょうか。
 この間、沖縄におけるさまざまな選挙で基地建設反対派が勝利をおさめています。議会制民主主義における民意です。しかし政府・防衛庁は選挙で示された民意を無視して辺野古基地建設を強行してきました。
 高江でのヘリパッド移設工事は、7月10日に投票が行なわれた参議院選挙の翌日から開始されました。沖縄選挙区では、基地建設反対派が有利という状況分析のなかで準備されてきました。政府が議会制民主主義に暴力を対峙してきました。住民に対する問答無用の姿勢の表明です。これは日本政府、米国政府の一貫した姿勢です。差別発言はそのような状況が言わせました。

 選挙で表明した民意を拒否された住民は、生活手段を守るため、沖縄戦の経験を持つ人たちが殺人を目的とする基地の建設を止めさせるため、計画決定のプロセスに納得いかないと主張するのにはあとどのような手段があるでしょうか。座り込んで工事車両を止めるという直接行動しか残っていません。
 
 今年5月中旬、高江に行きました。
 建設予定地に通じる道路の入り口に反対運動の理念を書いた看板が立ててありました。

 「座り込みガイドライン
  私たちは非暴力です。コトバの暴力も含め 誰もキズつけたくありません。
  自分の意思で座り込みに参加しています。
  誰かに何かを強いられることはありません。
  自分の体調や気持ちを大切に
  トイレや食事などではなれる時は
  周りの人にひと声かけてください。
  トランシーバーやケイタイなど活用して ムリのないように!
  いつでも愛とユーモアを」

 抗議行動をつづける住民はこのガイドラインを守っていました。しかし座り込み、説得、抗議が無視され、機動隊によって阻止戦が張られたり、排除されることが繰り返される中で、抗議の声が荒くなったということはあったと思います。住民にも感情があります。エスカレートさせた原因はどこにあるのか。そこにこそ問題の本質があります。
 しかし住民の側から人を傷つける暴言はないと思われます。「何しに来たんだ、帰れ」 「お前の顔はしっかり覚えておくからな」 は暴言ではありません。「お前の家族や親戚が同じ目にあっても排除するのか」 と迫るのは具体的説得活動です。少なくとも差別発言ではありません。

 機動隊員から 「シナ人」 という差別発言も発せられました。
 差別意識は歴史的に作りあげられます。
 歴史認識が薄いというよりは歪曲された歴史を教え込まれた結果としての排外主義丸出しです。
 最近、憲法学者らが 『ヘイトスピーチはどこまで許されるのか』 という本を出しました。許されるヘイトスピーチなどありません。このような痛みを知らない者の感性が社会を支配しています。


 日本には、1997年まで法律の中に 「土人」 の言葉は生きていました。
 1899年3月に制定された 「北海道旧土人保護法」 は、1997年7月1日に 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」 が成立するまで存続していました。
 北海道旧土人保護法は、アイヌ民族に対する保護を名目として制定されましたが、実際はアイヌの共有財産は北海道庁長官が管理する、自由な土地売買や永小作権設定の禁止などが定められ、アイヌの財産を収奪し、内地への同化政策を推進するための法的根拠として活用されました。具体的には、
 1.アイヌの土地の没収
 2.収入源である漁業・狩猟の禁止
 3.アイヌ固有の習慣風習の禁止
 4.日本語使用の義務
 5.日本風氏名への改名による戸籍への編入
等々が実行に移されました。

 同化政策は、アイヌの人たちのアイデンティティーを劣るものとして否定し、内地の価値観を押し付けて支配・被支配の関係性を作ります。 
 1997年までこのような名称の法律を存在させてきたこと自体が、政府を含めた内地の人びとの人権意識の鈍感さの表れです。
 具体的に実行された内容の 「アイヌ」 を 「沖縄」 といいかえたら、明治維新以降のヤマトの沖縄に対する政策そのものではないでしょうか。人権意識の鈍感さは沖縄に対しても同じです。


 沖縄への差別は、あらためていうまでもなくヤマトが歴史的に作ってきました。外交・防衛、経済成長のために犠牲にしてきました。アメとムチのアメの行使に際しては 「沖縄の振興のために」 と発言します。しかし沖縄の振興のための最大の足かせが基地の存在です。
 沖縄の人たちはその主張をしているのです。
 「沖縄から東京が見える」 と最初に言ったのは永六輔だと言われています。しかし見ようとしなかったら見えません。一方、東京からでも見ようとするとよく見えます。
 普天間、辺野古、高江、伊江島の問題を自分に引き寄せて考えてみる必要があります。


   「活動報告」 2016.7.27
   「活動報告」 2016.5.20
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