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いま改めて 対馬丸沈没から75年
2019/08/23(Fri)
 8月23日 (金)

 75年前の8月22日夜、沖縄・那覇港から長崎にむかっていた学童疎開など1788人が載っていた対馬丸が悪石島沖で米軍の魚雷攻撃で攻撃を受け沈没しました。氏名が判明しただけでも1484人 (18年8月時点) に上る犠牲者を出した対馬丸事件とは何だったのでしょうか。

 かつてもかつて、対馬丸を取り上げたアニメ映画を観たあと、対馬丸が出港した那覇市若狭の海岸に行ってみたい衝動にかられ1人で行きました。ただ何事もなかったような海岸でした。
 近くの 「小桜の塔」 に行きました。塔は那覇港に向かって建っています。周囲には悪石島の小石が霊石として敷き詰められています。
 説明版があります。
「小桜の塔建立について
 愛知県丹陽村の 『すずしろ子供会』 会長川井桂氏は戦争の犠牲となった子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂え、昭和二十八年護国寺の名幸芳章住職を通じて対馬丸遭難者遺族会に建立の意志を申し出た。河合氏を始め関係者は愛知県の児童に広く一円募金を呼びかけて二十余円の浄財及び資材を集めるに至り、同年五月五日小桜の塔が建立された。」
 現在とは違う場所に沖縄戦で亡くなった全ての子どもたちを弔うためのものとして建てられました。その後、移転されましたが対馬丸犠牲者の遺族が集まるきっかけとなりました。
 その後、沖縄県立第二高等女学校跡地、今は松山公園に建つ 「白梅の乙女たち像」、そして平和大通りを歩きました。このあたりは1944年10月10日の、いわゆる 「10・10」 空襲で全滅したところです。


 2001年 「9・11」 の半年後、10数人での沖縄平和ツアーを企画しました。
 全国で、アメリカの反撃を止めさせる世論を巻き起こす一環として、1月11日11時11分に、それぞれがその時に居るところで音を出そうと呼びかけられていました。
 ちょうど伊江島から本部港への船に載っている時間です。前の晩にみんなで歌をうたうことに決め練習しました。歌は小学生が作った詩に曲をつけて歌い継がれている 「タンポポ」 です。当日はデッキで他の方たちにも呼びかけました。繰り返しているうちに賛同してくれる方も増えて大合唱になりました。

  金網の向こうに 小さな春を つくってるタンポポ
  金網の外にも 小さな春を つくってるタンポポ
  光色のタンポポは
  金網があっても 金網がなくても
  沖縄中に春を ふりまいたでしょう

  デモ隊の足元に 光の花を 咲かそうとタンポポ
  米兵に踏まれても それでも花を 咲かそうとタンポポ
  強く生き抜くタンポポを
  金網のない平和な 緑の沖縄に
  みんなの思いを込めて 咲かせてあげたい

 金網の向こうとは米軍基地です。
 その後、小桜の塔を訪れました。そこでもう一度歌いました。


 この話を東京にもどってしていると 「俺の従兄も対馬丸で2人亡くなっている」 と話してくれた方がいました。対馬丸といっても誰も関心がないので口外することはなかったが、親はちゃんと話をしてくれたていたといいます。沖縄から父親の田舎である熊本に疎開するために載ったのが対馬丸でした。しかし消息はまったく何もありません。

 2004年8月、「対馬丸記念館」 が開館しました。
 訪れました。遺品等は決して多くはありません。それがまた隠されて来た史実を物語っています。対馬丸はいまだ海底に眠っています。


 沖縄戦とはいつから始まったのでしょうか。議論が分かれます。
 沖縄に日本軍が基地建設を始めたときから。そして対馬丸が米軍の魚雷攻撃で沈められた時から、10・10空襲などがあげられます。

 1943年7月、奄美大島、徳之島、沖縄の非戦闘員を島外に避難させる命令が出されます。軍の食料を確保するのがおもな目的です。
 そのなかで44年8月21日、那覇港から長崎に向けて学童疎開の児童など1.661人、船員86人、船舶砲兵隊員41人を載せた対馬丸は、他の疎開船2隻と護衛艦、駆逐艦の合計5隻で船団を組んで出発しました。
 8月22日午後10時過ぎ、5隻が鹿児島県・悪石島の北西約10キロを通過していた時、対馬丸は米潜水艦に撃沈されます。ほとんどが船倉に取り残されました。学童775人、訓導・世話人29人、船舶砲兵隊員21人の合計1.418人が犠牲になりました。生存者は漁船や哨戒艇に救助された疎開者177人、船員・砲兵82人、奄美大島に漂流した者21人です。
 護衛艦と駆逐艦は撃沈を確認後、漂流する人たちを放置して逃走しました。そして日本軍はこの撃沈と犠牲を遺族にも隠し続けます。救助された人々には箝口令がしかれました。
 8月23日、パトロール中の陸上攻撃機が漂流している人たちを発見、漁をしていた漁船に通信筒を落して知らせ、現場に誘導します。救助に向かった漁船に中に、操業中だった鹿児島県山川町 (現指宿市) のカツオ漁船 「開洋丸」 がいました。

 2014年5月12日付の毎日新聞に 「対馬丸遭難:救助に当たった漁船員の手記 記念館に寄贈」 の見出し記事が載りました。開洋丸の当時16歳の甲板員がその時の様子を便箋3枚に書いた手記が遺品の中から見つかり、5月11日に遺族から対馬丸記念館に寄贈されました。
 手記によると、遭難現場に到着したのは8月23日午後2時ごろ。「裸になり、ロープを腰にくくり海中に飛び込み、遭難者に接近、ロープをイカダに結びつけ、再三繰り返しながら、50、60人救助した」 「約15時間近くも泳いでいる者、救命胴衣着用したままボートの下敷きになり、死亡している方がたくさんいた」 「四方八方いかだの上で必死に助けを求めているものの、小生たちの船はそれ以上救助は無理」 などと記されています。最後は 「救助者の氏名すら一人として分からぬまま別れた。今どこでどうして生きているものか知りたい」 と結んでいます。

 脱線ですが悪石島は小説 『沖縄島』 にも登場します。


 歴史は常にとらえ返しされて前進します。
 沖縄の人びとは、沖縄の 「本土復帰」 が、期待したものでなかったと実感すると、戦前、沖縄戦にさかのぼって自分たちが強いられてきた歴史をみつめ直します。埋もれていた、隠されてきた戦時中の虐殺、集団自決等の事実を掘り起こして現在と対置します。
 米軍が事故を起こして居直ると、なぜ沖縄に基地があるのか問い直していきます。
 沖縄には沖縄の人たちが建設した基地はありません。常に外からきた者たちが強引に建設していすわっています。
 辺野古基地が進むと基地建設はだれのためのものかを明らかを見極めていきます。そして改めて反対の意思を固めていきます。今はそのような時です。


 8月下旬になると沖縄の地元紙は対馬丸を特集しています。そこにあるのは、関係者はいまだ口を閉ざしている事実です。それだけでも戦争がどんなに悲惨なものか、人間関係を壊していくものかが伝わってきます。

 8月20日の沖縄タイムスです。
  一人息子を乗せた船が撃沈 うわさ聞き探し回ると 「非国民」
  義母の体験 次代に残すため語り部に

 遺族の戦後 対馬丸撃沈75年 (3) 謝花奈津子さん
 体験していないからこそ 「一緒に思いをはせよう」 と呼び掛けることができるのではないか。そんな思いを胸に、ことし、語り部としての活動を始めた遺族がいる。謝花奈津子さん (68) =那覇市。75年前、夫の母の弟、我喜屋哲一さんが対馬丸に乗り亡くなった。哲一さんは天妃国民学校5年生の11歳だった。

 ことし6月の天妃小学校。子どもたちの前で語る奈津子さんの姿があった。「みんなのお母さんも、みんなが夜遅くまで帰って来なかったら、心配するでしょう。生きるか死ぬかのことで、カマドおばあさんも必死に哲一おじさんを探し回ったの」
 哲一さんは女きょうだいに囲まれた一人息子。家族は跡取りとして大切だからこそ学童疎開を選んだという。しかし出航から数日後、対馬丸が沈められたらしいとのうわさが親族たちの間に流れ始めた。哲一さんの母カマドさんは息子の消息を求め懸命に那覇の街を尋ねて回った。
 当時、沈没のことは語ってはいけないとされ、住民たちにはかん口令が敷かれていた。息子の消息を尋ね回るカマドさんは「流言飛語を流す非国民」として、憲兵に捕まり留置場に一晩入れられた。

 哲一さんが亡くなったことがはっきりしたのは終戦後だが、以降、カマドさんは哲一さんのことをほとんど口にしなかったという。
 「あまりの悲しみで話せなかったんだと思う」。カマドさんが亡くなったとき、たんすからは風呂敷に丁寧に包んだ哲一さんの着物が出てきた。奈津子さんは 「着物にはカマドさんの苦しみや後悔や愛情などすべてが詰められていた」 と振り返る。

 奈津子さんがそんな家族の歴史を知ったのは対馬丸記念館が開館した15年前のことだ。夫の寛営さん (68) が同館の役員として関わったのを機に、関係者から当時のことを聞き取るようになった。その同館からの依頼で語り部としての活動を始めた。
 哲一さんの疎開先を、本土か、姉のいた台湾かで悩んだこと。「哲ちゃんが行くなら自分も行く」 と乗船した叔父の同級生がいたこと-。聞き取りを通して奈津子さんは 「子どもたちを乗船させた家族は被害者なのに、加害者のような責めまで負わざるを得なかったことを知った」 と話す。
 体験者が少なくなった今「聞いたことを伝えることで子どもたちの知識に血が通うようになってほしい」と願う。対馬丸の体験を聞いた者として、バトンを渡すことが役割だと考えている。

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本島北部の沖縄戦
2018/10/23(Tue)
 10月23日 (金)

「第二次世界大戦末期、米軍が上陸し、民間人を含む24万人余りが死亡した沖縄戦。
 第32軍・牛島満司令官が降伏する1945年6月23日までが 『表の戦争』 なら、北部ではゲリラ戦やスパイ戦など 『裏の戦争』 が続いた。作戦に動員され、故郷の山に籠って米兵たちを翻弄したのは、まだ10代半ばの少年たち。彼らを 『護郷隊』 として組織し、『秘密戦』 のスキルを仕込んだのが日本軍の特務機関、あの 『陸軍中野学校』 出身のエリート青年将校たちだった。
 1944年の晩夏、大本営が下した遊撃隊の編成命令を受け、42名の 『陸軍中野学校』 出身者が沖縄に渡った。ある者は偽名を使い、学校の教員として離島に配置された。身分を隠し、沖縄の各地に潜伏していた彼らの真の狙いとは、そして彼らがもたらした惨劇とは・・・」
 今年製作され、今各地で上映されている映画 『沖縄スパイ戦史』 のチラシです。取材を続けながらカメラを回したのは2人のジャーナリストです。


 沖縄戦については、本島南部の惨禍は語られてきましたが、本島北部については調査や聞き取りもあまり行われてきていませんでした。やっと戦後70年を経て始まっています。
 本島北部。辺野古基地建設反対運動が続いている名護、オスプレー基地建設反対闘争が展開された東村・・・。大宜味村役場敷地内には沖縄戦を風化させないために17年12月 「九条の碑」 が建立されました。


 「裏の戦争」 について、この4月に川満彰著 『陸軍中野学校と沖縄戦 -知られざる少年兵 「護郷隊」』 (吉川弘文館) が刊行されました。
 10月19日、ある旅行会社が企画した川満さんの講演会がありました。その報告です。

 陸軍中野学校は、1938年に設立された大本営陸軍部 (のち参謀本部) 直轄で特殊任務を実践するための要員養成機関です。特殊任務とは、秘密戦、防諜・諜報・策略・宣伝等を主な任務とし、敵国のなかに潜伏。情報を大本営に知らせ、内部からかく乱・崩壊させることを目的としています。
 創立当時の入校対象者は幹部候補生出身の将校とされていましたが、40年頃は陸軍士官学校出身将校、下士官候補者等へと広がりました。
 1941年10月、つまりは日本がアメリカに宣戦布告する前からマレーシア半島工作のためバンコクに潜入させています。そして12月8日 (実際は7日)、マレーシア・コタバルの石油を奪うため、コタバル上陸を開始します。

 44年、日本軍の後退が続くなか参謀本部は沖縄に、離島をふくめて遊撃戦闘員29名、特務隊13名の中野学校出身者を向かわせます。「第32軍の作戦は本土決戦のための時間稼ぎで、玉砕を前提にしたもの聞かされていた」。
 第32軍は、米軍は一部を除き北 (読谷村) ・中 (嘉手納) 飛行場を奪うため沖縄本島中部西海岸から上陸、第32軍司令部のある南に進攻するとにらんでいました。その米軍の背後から襲うことを目的に、遊撃隊を沖縄本島北部に配置することを決定します。
 44年9月13日、中野学校卒業と同時に村上らは沖縄本島北部の遊撃戦闘員として派遣されます。沖縄本島北部とは、恩納村、金武村から最北の国頭村までを指します。
 第32軍司令官牛島満省中将と長勇参謀長に着任のあいさつを済ませると長勇から 「沖縄が玉砕した後も生き残り、遊撃戦をつづけろ」 と指示され、遊撃隊の編成が命じられます。

 遊撃隊大隊長、実務部隊の基幹である分隊長小隊長は現地で召集された在郷軍人らで、分隊メンバーは集落ごとに集められた少年たちです。少年たちを招集したのは兵士不足のためです。当時の兵役法では満17歳未満については招集できません。15歳から16歳の少年たちは志願という形で召集されます。
 集落単位としたのは 「故郷を自らの手で護る」 という意識を根付かせるためです。遊撃隊の本当の任務は隠されています。

 44年10月23日、名護国民学校に恩納村、金武村、国頭村から700人の少年が集まってきます。教育係は主に同郷の在郷軍人などの分隊長です。「少年兵」 と呼ばれ、軍服をきて帯剣や銃が与えられ、猛特訓続きます。「靴を脱ぎ、足の親指を引き金にあて、銃口を口に加える自決訓練もあった」。自決の選択肢もありました。

 10月26日、第32軍は独立混成第44旅団を2つに分け、主力部隊を南部に移動させ、北部に残った部隊を国頭支隊と位置づけ、第一・第二護郷隊をその指揮下に置きます。
 さらに第32軍は、護郷隊配置を、第一護郷隊を多野岳・名護岳から本部半島タナンガ山302高地へ移動させ、北部三村 (国頭・大宜見・東) の山中に配置予定だった第二護郷隊を多野岳へ配置するよう命じました。北部三村の少年たちにとっては知らない土地でした。そのため戦闘が始まると多くの犠牲者を出します。
 12月10日、第二次招集が本部町、今帰仁村の少年たち150人が本部町の謝花国民学校に集まってきます。45年1月14日、第三次招集として国民学校に集まってきます。


 45年3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸、4月1日には本島・読谷村沿岸に上陸します。
 4月7日、名護湾に上陸した米軍は、読谷村沿岸から陸路を北上してきた部隊と合流、沖縄本島から本部半島を切り離すかのように南北ラインで遮断します。そして多野岳に焦点を当てます。
 攻防戦が始まり、犠牲者が続出します。
 その時の状況を1人の護郷隊が語っています。
「真喜屋、稲峰 (集落) はアメリカが上陸した後、民家や小学校も建物が残っていた。村上隊長の 『焼き払え』 という命令で、我々は夜、多野岳から下りてきて、部落近くで待機、夜明け頃、村上隊長が日本刀を抜いて、『出撃、前へ進め』 の合図で火をつけた」 「私が一番悔しかったのは自分の家を焼かなければいけなかったこと。焼かなければ戦後苦労はしなかった・・・。しかし、命令だからどうしようもない。」

 4月21日、八重岳にいた国頭支隊が撤退して多野岳になだれ込みました。「なかには兵器とか弾薬とか食糧、強引に番をしていた青年 (少年) 兵らを引っ叩いて持ち去って行った。・・・こっちは長期作戦で貯めていた食糧。それを無理やり盗ったり・・・」
 敗残兵となった宇土部隊はいくつかのグループに分かれて北部山中に潜伏しました。その一部の敗残兵グループは。大宜味村渡野喜屋で食糧強奪を目的に、米軍の捕虜となった住人らをスパイ容疑にかけ、男性数名を木に縛りつけたまま虐殺。80名とも90名ともいわれる女子や子供たちは砂浜に並べられて手榴弾を投げられました。生き残った人は15人ほどだったといいます。


 6月23日、南部の摩文仁で牛島司令官と長参謀長が自決、沖縄戦の組織的戦闘は終了します。
 その知らせは北部の護郷隊にも無線で知らされます。そのうえで大本営からは 「全滅してもあと1年、後方かく乱せよ」 の命令を受けます。
 村上は、7月1日をもって米軍への全員決死の総攻撃血行を決断し各隊に準備を命じます。しかし6月30日に至って副官や小隊長らは 「それは護郷隊の任務ではないはず、いま死んでは元も子もない、やめましょう」 と説得し中止させます。
 村上は、「隊本部並に各中隊の一部は指揮連絡の中枢となる為山中に残留潜伏、地元出身隊員は各出身町村に帰り秘密遊撃戦の基盤を作るべし」 と命令を出します。しかし護郷隊に二度と招集されることはありませんでした。
 8月15日に残っていた隊員は8人でした。

 米軍は、村上らに捕虜となった日本兵を使って下山勧告を続けます。
 46年1月、村上らは条件を出し、米軍が了承したので下山します。


 護郷隊のなかにはスパイ容疑をかけられて殺された少年がいました。分隊長の集合命令に遅れてやってきた少年は、分隊長からスパイと決めつけられ、周りの少年たちにカズラで手を縛られ、目かくしをされて山中につれていかれ、分隊長の命令で3、4人の仲間から撃たれます。

 恩納村の三角山の戦闘で重傷を負った少年は野戦病院に運ばれましたが置き去りにされます。撤退で置き去りにされる夜、中隊長から両足に重傷を負ったもう1人と 「2人ここに残ってくれ」 と自決をうながされ手榴弾が渡されます。
 その後、どうにか歩くまで体力が回復したので同行することを許されます。野戦病院を100メートルくらい離れたところであちこちでパンパンと手榴弾が爆発する音がしました。

 第一護郷隊は、名護岳の戦況が悪化すると後退します。しかし同郷の1人が右足を負傷して野戦病院に入っていました。友人たちは連れて逃げようと毛布で作った担架に乗せて下ります。途中小屋につくと食事を作ったりして看病します。
 しかし、友人たちは少年をおいて隠していた食糧をとりに行ってそのまま帰りませんでした。「(あの時は) みんな助からないと思って、どこにどうして埋めようかという話までしていた。」
 置き去りにされた少年は意識を取り戻し、民家や拝所で寝泊まりしながら米軍病院に辿り着き、その後回復して故郷に帰還しました。
 友人たちの1人は後に少年にあったときのことを語ります。
「今、思うと大変なことをやったという思いがあるが、あの時分は・・・。彼が故郷へ帰って来た時はびっくりした。彼とは、その後の細かいことを話したことはないんだ。顔見るのも恥ずかしくてね。・・・戦争をやっていけないというのはそこなんだ。」


 「少年護郷隊之碑」 が名護小学校の隣の旭が丘に建立されています。碑には100人近くの名前が刻まれています。
 恩納村安富祖地区のクガチャ山に 「第二護郷隊之碑」 が建立されています。
 辺野古基地建設反対の抗議行動・座り込みに参加する途中、これらの碑に立ち寄り思いをはせると、地元住民の反対する思いがさらに深く伝わってきます。

 「活動報告」 2017.12.15
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沖縄学徒の悲劇は『ひめゆり』だけじゃない
2018/06/29(Fri)
 6月29日(金)

 記憶が危うくなってきましたが、30年くらい前、平和運動団体の3泊4日の沖縄平和ツアーに参加しました。事前にスケジュール、巡る戦跡、基地などの細かい計画が立てられていて、事前学習も義務付けられていました。
 貸し切りバス4台を連ねて南部戦跡を周っていると、1台のバスのガイドは運転手をせかせます。そしてコースをはずれて国吉にある慰霊碑 「白梅之塔」 を案内しました。白梅は沖縄県立第二高等女学校の校章でした。そこで、ガイドは、メモを取らない、録音しないことを要請してから白梅学徒隊の悲劇を話し始めました。本にもドラマにもない、今も語られていない話です。語り継がれない事実こそ戦争の本質だと実感しました。
 あまり訪れる人は多くないようでした。この時のツアーで一番印象に残ったところでした。いつかあらためてゆっくり訪れようと思いました。

 まもなく、別の沖縄ツアーに誘われました。計画案に 「白梅之塔」 がはいっていたのですぐに申し込みました。その後、毎年6月23日をはさんで予定されるそのツアーの事務局を担い、6月23日午前中には必ず 「白梅之塔」 を訪れることにしました。
 お参りをして帰ろうとする頃、同窓会による慰霊祭の準備が始まります。
 訪れる人はすこしずつ増えているように思えました。
 ひめゆりの塔と比べる必要はありませんが、多くの人が訪れて賑やかな方がいいのか、静かなままがいいのか、碑に刻まれている人たちはどちらを選ぶだろうと思いを巡らせました。それにしても沖縄県立第一高等女学校学徒看護隊のひめゆり部隊と、沖縄県立第二高等女学校学徒看護隊の白梅部隊の 「第一」 と 「第二」 の棒線一本の差は本当に大きなものがあります。

 具体的事実を1つだけあげます。看護隊となった 「第一」 学徒隊は常に教師が引率していました。軍が横暴なことを言ってききたときは盾になります。最後に荒崎海岸で自決する時も一緒です。しかし 「第二」 やそのほかの学徒隊は行動の判断をふくめて自分たちでです。


 沖縄県立第二高等女学校は、那覇市の那覇港近くの松山町、現在の那覇商業高校のところにありました。ブラスバンドなど音楽活動が盛んだったといいます。今は 「白梅の乙女たち」 のプレートが貼られた台座に3人の女学生が躍っている銅像が建てられて当時の面影を残しています。
 しかし、44年10月10日の空襲で市の大半が焼けた時、校舎は灰燼に帰します。
 45年3月になると、米軍艦艇は沖縄諸島への進撃開始を準備します。
 4年生約70人は、45年3月6日、沖縄守備軍司令部の命令で、東風平 (こちんだ) 国民学校に開設された衛生看護教育隊に入隊させられ、補助看護婦としての特別集中教育を受けさせられます。
 配属になる前日の3月23日は卒業式の予定でした。しかし執り行われることなく、3月24日、衛生看護教育は打ち切られ、56人が急遽、東風平村富盛 (ともり) の八重瀬岳中腹に置かれていた第一野戦病院本部に配属されました。
 卒業式が予定されていた夜、みんなで歌をうたいました。『故郷を離るる歌』 です。

  ♪♪ 園の小百合 なでしこ 垣根の千草
    今日は 汝を眺むるる終りの日なり
    思えば涙 胸に落ちる さらばふるさと
     ……        ♪♪

 だれもこれがみんなでうたう最後の歌になるとは想像していませんでした。再会できると確信していました。
 1945年3月25日、米軍は慶良間(けらま) 諸島に上陸、4月1日、沖縄本島中部の読谷・茶谷 (ちゃたん) から上陸を開始します。
 動員された野戦病院が襲撃されるなどして転々とします。
 さらに米軍の攻撃に日本軍が敗退を続けると、6月3日、司令部は病院豪を放棄、国吉に撤退しました。翌4日、衛生看護教育隊に解散命令が出されます。学徒は三々五々南部に逃げていきます。その途中、あちこちで死と直面します。
 解散命令を受け、逃げ迷っていた衛生看護教育隊16人は国吉付近をさ迷っていると、国吉に後退していた第一野戦病院本部に迎えられ、再び勤務に就くことになりました。
 しかし6月21日から22日にかけて国吉地区は米軍の猛攻撃を受けます。
 「国吉下の豪」 は傷病兵の看護場所になっていましたが、21日、米軍の手榴弾、催涙弾、火炎放射を受け、中にいた17人が自決しました。そこには6人の衛生看護教育隊もいました。
 6月9日から22日までに、衛生看護教育隊10人が国吉で戦死しました。
 第二高女の衛生看護教育隊は25人が犠牲になりましたが、その中では一番多くの犠牲者を出したところです。
 17人が自決した翌々日の6月23日、組織的沖縄戦は終わります。

 遺族や学校関係者は 「国吉下の豪」 のすぐ上に碑を建てました。碑は 「白梅之碑」 と彫られ、後に看護隊を 「白梅学徒看護隊」 と呼ぶようになりました。そのあと、現在の碑に建て直され、第二高女の沖縄戦戦没者教職員、同窓生の計147人を追悼しています。

 白梅看護学徒隊だった仲地政子さんは、戦後間もなく歌を詠んでいます。

   ありし日の 友を偲びつ ぬかずきぬ
   みたまめざめよ 共にかたらん

 広島県立第二高等女学校も校章が 『白梅』 です。
 仲地さんが歌を読んだ頃でしょうか、8月6日、広島に原爆が投下されました。


 白梅学徒看護隊の卒業式が、80年6月23日、碑の前でとり行なわれました。
 この後、TBSラジオで1時間のラジオドラマ 「白梅の悲劇」 が放送されました。最後のシーンは卒業式です。ブラスバンドで校歌が流れる中、1人ひとりの名前が読み上げられ 「はい」 と元気な返答が続きました。
 しかし碑の前の卒業式に返答はありません。


 95年、戦前に沖縄県第二高女で教師をしていた方のコンサートにいきました。その方は、白梅学徒看護隊の遺骨収集活動なども行なっていました。
 たくさんの同窓生が集まっていました。その方たちと開演前、休憩時間に話をすることができました。終了後、となりの方は手を差し出して 「しあわせな人生を送ってください」 とおっしゃいました。この言葉の重さがずしりときました。


 2001年、地域で活動している人たちが沖縄ツアーを企画したのに同伴しました。マイクロバスの運転手は、那覇市がお世話してくれた現地の方です。
 第一野戦病院本部などを巡ってから白梅之塔を訪れました。帰ろうとするとき、運転手の方は慰霊碑に刻まれている名前の1人を撫でながら 「これは私の姉です。いろいろ話を聞きますが、実際はどのような亡くなり方をしたのかはわかりません。」 と語り始めました。
「たくさんの方がたの要請にあわせて運転をしていますが、ここを訪れることはほとんどありません。みなさん、訪れてくれましてありがとうございました」


ここまでがイントロです。

 6月26日の琉球新報に 「『白梅学徒隊』 最初に伝えた記者 河内さん、交流38年」 の見出し記事が載りました。全文です。

 沖縄戦から73年の慰霊の日、白梅の慰霊祭に柔らかなまなざしがあった。38年前に全国紙で初めて白梅学徒隊を取材した元新聞記者の河内鏡太郎さん (74) は、白梅同窓会会長の中山きくさん (89) の追悼の言葉を聞いていた。読売新聞大阪本社で43年間記者を務めた河内さんは1980年、白梅学徒隊を取材し報じた。当時、沖縄県外ではひめゆり学徒隊は知られていたが、白梅の名はほとんど知られていなかった。河内さんの記事がきっかけで白梅の名が全国に届くようになった。
 23日、6年ぶりに慰霊祭に参列した河内さんの姿を見るなり、元学徒の女性たちは 「元気ね」 「何年たってもあなたのことはしっかりと覚えてるのよ」 と駆け寄ってきた。武村豊さん (89) は 「河内さんが初めて、白梅のことを世に出してくださった。大変な恩人ですよ。本当にありがとうございます」 とほほ笑んだ。

 河内さんが白梅を取材したきっかけは、戦争中の女性の痛みや苦しみが、戦後35年たっても全く伝わっていなかったからだ。当時の防衛庁がまとめた戦史双書 『沖縄方面陸軍作戦』 では、学徒に関する記述はたった4ページだけだった。そこには、ひめゆり以外の白梅や瑞泉、なごらんの死亡者数が記されていた。河内さんは 「こんなに多くの女学生が亡くなっていたのを、恥ずかしいことだが初めて知った」 と言う。80年5月1日から8月31日までの長期連載で、白梅の悲話を取り上げた。中山さんは 「河内さんの書いた記事は宝物よ」 と話し、今も自宅で保管している。

 河内さんは現在、兵庫県の武庫川女子大学で教壇に立ち、沖縄戦のことを若い学生に語り継いでいる。慰霊祭に同行した3年の今井桃代さん (21) は 「沖縄に行かなければ分からなかったことがある。もっと沖縄の問題を真剣に考えていかないといけない」 と思いを巡らせた。

 この日、河内さんが38年前に取材した元学徒の姿は少なくなっていた。河内さんは 「誰かが戦争を止める努力をしなければいけない。それがたとえ大阪であっても、その努力が必要だと思う。授業を通して彼女たちに引き継いでいく」 と白梅の碑の前で話した。
 河内さんの授業は毎年受講希望者が殺到し、今年は定員の4倍近くの700人が集まった。


 読売新聞大阪版の連載は後に本にまとめられました、読売大阪社会部編 『戦争11 沖縄・白梅の悲話』 (読売新聞社刊) です。当時の社会部長は黒田清さんです。最後の方には、亡くなった25人の最期が顔写真とともに語られています。

「黒田社会部長のOKが出て、三浦 (美佐子) と河内は早速、準備をはじめました。沖縄の女性と戦争――やはり、すぐに浮かぶのは、学徒看護隊 『ひめゆり部隊』 の悲劇です。『ひめゆりからですかねえ』 と、2人は、〈戦争〉 部屋の書棚から防衛庁戦史部編の戦史叢書 『沖縄方面陸軍作戦』 を引っぱり出しました。
 その女子学徒の項には、まず…… 『ひめゆり部隊』 です。続いて県立第二高女、総員65人、死亡者25人、県立第三高女……。学徒に関する記述は男子を含めても、たった4ページ、2人はそんな戦史に改めて驚き、また 『ひめゆり』 だけじゃない、こんなに多くの学校の女学生が散華していたんだと、恥ずかしいことだが初めてしったのでした。
 2人は、その表のなかの、第二高等女学校に何かひかれるものを感じました。」

「河内は早速、沖縄県庁に電話を入れ、同窓会長お名前を聞きましたが、どこで、どう間違ったのか、その電話番号は 『ひめゆり同窓会』 の会長さんのおうちでした。だが、気さくに 『白梅同窓会』 の会長、大嶺勝子さんの名前を教えて下さいました。
 大嶺さんは、こちらの説明を聞くなり 『ぜひいらして下さい。空港までお出迎えにまいりますから』 と実にてきぱきと答えて下さり、2月23日からの沖縄取材が決まりました。」


「『沖縄・白梅の悲話』 の連載を機に、読売新聞大阪本社社会部は、55年8月7日から19日まで大丸・大阪店で開催した 『真夏の戦争記念館――第4回、読売新聞連載 〈戦争〉 展』 のメーンテーマを 『女たちの戦場』 とし、白梅部隊が苦闘の日々を送った第二十四師団第一野戦病院壕を再現した。」

「だれもが、会場のフロントコーナー百平方メートルに、壕を完全再現したときのことを思い描いていた。
 壕の出口には、現地から運ばれた 『白梅之塔』 がある。高さ1メートル。戦後すぐ、生き残った恩師、級友が建てた鎮魂の碑を動かすことは、さすがにためらわれた。だが、2カ月間にわたって考えぬいた三浦さんの申し出に、大嶺勝子同窓会長は、大きくうなずいてくれた。『いいですよ。どうぞ。あの子たちのためですもの』」
 しかし 「壕の中で亡くなった人たちを祀る碑は、やはり遺影、遺品のある壕内に祀った方が」 という意見がでて中に入れられます。

「第四回 〈戦争〉 展の “主役” 旧沖縄県立第二高女の白梅同窓会の人たちが18日午後、会場を訪れ、再現された壕の中の遺品、遺影と対面した。」 「大阪入りした白梅同窓会のメンバーは全部で17人」
「白梅の人たちを会場に案内していく (時) ……野戦病院壕は、そのとき全く無人だった。しばらくの間、白梅の人たちだけが壕内に入った。その日も長い行列ができていたが、人々は黙って待ってくださった。戦争班のスタッフやカメラも入らなかった。戦争班の配慮だった。わたし (河内) は連絡係として壕内に居た。はじめ白梅の人たちは静かだった。こらえていた。やがて、こらえきれないすすり泣きがひろがっていった。」

 展示の最終日です。
「白梅同窓会の17人は、会場に飾られている25人の級友へのプレゼントをひそかに用意していた。それが校歌だった。すべてが終わった後も、まだ去りがたく人波が続く5時すぎ、会場フロントコーナーの壕に勢ぞろいし 『あなたたちも一緒に歌いましょうね』 というように、遺影の前に一輪ずつ白菊をお供えしたあと、歌い始めた。

  ……み空も海もか青なる
     島に名立たる松尾山
     松のみどりのいや深み……

 壕にこだまする歌声がそれぞれの思いとからむのか、肩がふるえ、涙がほおを伝う。だれも涙をふこうとしない。真っすぐ顔をあげている。級友に語りかけるように歌い続けるソプラノの歌声は、さざ波のように会場に広がる。2番、3番、4番、そしてもう一度1番から。いつまでも別れがたく、いつまでも一緒にうたいたいというように繰り返された。」

 白梅同窓会の人たちは沖縄に帰る前、バスで大阪見学をしました。バスのなかでは合唱もしました。『故郷を離るる歌』 も歌いました。


 第二高女の同窓会は、毎年6月23日、碑の前で慰霊祭を行なっています。しかし高齢化が進み、一旦同窓会としての慰霊祭は取りやめになりました。


「わたしたちは、想像することによって、共感することができます。」 (2014年の広島 「平和への誓い」 から抜粋。読み上げたのは原発事故まで福島県いわき市で暮らし、広島市安芸区に避難してきた小学生)


  あの沖縄戦がおわった時
  山はやけ里もやけ
  ぶたも牛も馬も
  陸のものはすべて焼かれた
  食べるものと言えば海からの恵みだったはずだ
  その海への恩返しは
  海を壊すことではないはずだ

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沖縄で米軍からの被害をなくす方法は
2017/12/15(Fri)
 12月15日 (金)

 1960年代末にベトナム戦争反対、日米安保条約に反対する運動が各地で展開されていた時は戦争に反対する歌もたくさん歌われました。

  栄ちゃんの家に ジェット機が落ちたら
  栄ちゃんはきっと 死んでしまうだろう
  栄ちゃんはきっと 後悔するだろう
  安保条約 やめときゃよかったと

 コミカルな曲想の 「栄ちゃんのバラード」 です。栄ちゃんは、当時の総理大臣佐藤栄作です。

 当時、沖縄では米軍支配下で “本土復帰” 運動が展開されていました。沖縄の人たちにとって “復帰” は 「憲法9条のもとへの復帰」 でした。佐藤は 「沖縄の復帰なくして戦後は終わらない」 と発言していました。
 しかし実際の “復帰” は本土の米軍基地と自衛隊基地の沖縄への移転・強化でした。まさに核廃棄物の青森・六ケ所への集中ににています。他の地域の人びとは知らんふりです。
 沖縄は、ベトナム戦争の基地でした。その動向をみているとベトナム戦争の進展がわかるといわれました。

「西側の盟主たる米国は欧州のみならず、アジア太平洋地域においても、米軍占領下にあった沖縄を起点に1954年末から核兵器の実戦配備をひそかに進めた。……
 グアムを含むアジア太平洋地域に持ち込まれた核兵器の総数は最大3200発をこえた。沖縄にはその多くが配備・貯蔵されることになり、ベトナム戦争ピーク時の1967年、沖縄でその数は約1300発に上った。沖縄はベトな区への重要な米軍の出撃拠点であると同時に、アジア最大の 『核弾薬庫』 だったのだ。」 (太田昌克著 『偽装の被爆国 核を捨てられない日本』 岩波書店)
 沖縄には “復帰” 後も核配備が続きます。了承の密約をしたのは 「栄ちゃん」 です。佐藤はこの功績として1974年、ノーベル平和賞を受賞します。
 ベトナム戦争でアメリカが敗北しても、沖縄の基地は縮小されませんでした。


 沖縄にある宜野湾市・普天間基地以外の米軍基地は、戦時中日本軍が建設した基地を日本軍が逃亡した後に占領して居座ったものです。
 普天間基地は、1950年代に米軍がそこに住んでいた住民を銃剣とブルドーザーで追い出して建設しました。反対運動のなかで歌い続けられた 「一坪たりとも渡すまい」 です。

  東シナ海 前に見て
  わし等が生きた 土地がある
  この土地こそ わしらが命
  祖先譲りの 宝物

  わしらはもはや 騙されぬ
  老いたる固き 掌は
  野良の仕事の 傷の痕
  一坪たりとも 渡すまい

  黒い殺人機が今日も
  ベトナムの友を 撃ちに行く
  世界を結ぶ この空を
  ふたたび戦で 汚すまい


 普天間基地は今も居座っています。
 宜野湾市のど真ん中に居座る普天間基地に接した北東に佐喜眞美術館があります。かつては普天間基地でしたが、1994年に粘り強い交渉で返還させた用地に建設されました。
 美術館の外の階段で2階にあがり、さらに階段を6段のぼり、つづけて23段のぼると壁に丸い穴が開いています。沖縄慰霊の日の6月23日にはこの穴の正面に東シナ海に沈む夕日を眺めることができます。
 美術館の中には大きな空間に、丸木位里・俊さんの 「沖縄戦の図」 が展示されています。
 「沖縄戦の図」 には、海を埋め尽くす米軍艦、座間味島、渡嘉敷島での集団自決、激戦地の本島南部での住民虐殺などが画面いっぱいに描かれています。これ以外の作品としては、今年9月に壕が荒らされた読谷村のチビチリガマを描いのもあります。チビチリガマの光景は母親が子供を抱き、もう一方の手には竹槍を持っています。しかしまもなく集団自殺をします。その人たちと同じ数の頭蓋骨が描かれています。
 戦争後の光景の作品もあります。読谷村・残波岬にある巨大なシーサーが描かれています。その近くで若者たちが竹槍をバチに持ち替えて残波太鼓を叩いています。

 佐喜眞美術館のポスターがあります。
 普天間基地を中心にすえた航空写真です。宜野湾市がどのような市なのかが一目でわかります。基地の右下に隣接して沖縄国際大学があります。2004年8月13日、米軍ヘリコプターが墜落し、校舎の一部を破壊して炎上、樹木も燃やしました。ポスターではわからないですが校舎には今も焼跡が残っています。
 滑走路の北端近くに、基地と金網を境界にした普天間第二小学校があります。12月13日午前、校庭に米軍ヘリコプターから90センチ四方ほどの金属製の窓枠が落下しました。校庭では体育の授業が行われていて、男児1人が軽いけがをしました。
 12月7日にも、基地近くの保育園の屋根の上で米軍ヘリの部品が見つかっています。
 戦闘機は毎日すぐ真上を爆音を立てて飛び交います。
 住民はずっとがまんをし続けていますがもう限界です。しかし日本政府は他人事の対応です。


 日常的に危険にさらされている住民は早期に基地を撤去して欲しいと訴え、政府が撤去を約束してから25年が過ぎています。
 何処へ撤去? 
 政府な辺野古基地建設が進まないから移転できないと説明します。
 住民の声です。
 「移転してくれるなら、移転先のことは考えない」
 「政府が移転を約束している」
 「移転して辺野古の人たちが今度は危険な目に合うなら、今のままでいい。自分たちが我慢する」
 「辺野古に移転というけれど、私たちがいらないものは、辺野古の人たちもいらない。基地はいらない」
 意見はさまざまです。

 政府は、被害が発生する危険性を予測できる危険物建設は、場所を選定するとき、人口密度が少ない地区、経済的発展が遅れているところ、反対する住民が少ないところを選びます。それでも反対する住民は札束でほほを殴ります。住民を分断し共同体を破壊して追い出します。
 しかし辺野古の人たちは、沖縄戦のときの記憶を思い出し、伝承しながら粘り強く反対の闘いを続けています。沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」 です。

 普天間基地を辺野古に基地を新設して移転する計画が進んでいます。辺野古基地は日本政府が建設し米軍に提供します。漁民から海を奪おうとしています。
 宜野湾市に住む住民も、人口密度が低い地区で生活する住民も、命の重みは同じです。
 しかし政府は沖縄を差別します。それは本土による沖縄差別でもあります。アメリカの日本差別もあります。そして辺野古地区を差別します。その構造は重層的になっています。
 それに対し、沖縄住民だけでなく、本土の人たちの頭上にも、そして 「栄ちゃんの家にも」 ジェット機を落とさせてはいけない運動を続けています。危険にさらされている住民は泣き寝入りはできません。運動を止めた時はおとなしく殺される時だからです。

 沖縄の人たちは、アメリカに、そして世界に基地の理不尽さを訴えてきました。
 11月26日、ドイツ・ベルリンに本部を置く 「国際平和ビューロー」 (IPB) が平和運動に携わった人や団体に贈る 「ショーン・マクブライド平和賞」 の授賞式がスペイン・バルセロナで行なわれました。今年選ばれたのは、辺野古移設に反対する政党や団体でつくる 「オール沖縄会議」 です。IPBは、市街地に囲まれた普天間飛行場を 「世界で最も危険な軍事基地の一つだ」 と指摘しました。
 政府は、辺野古基地建設を沖縄の一地域の問題ととらえていますが、国際的にその危険性が明らかになり、基地建設に反対する世論が形成されています。
 沖縄の人たちは孤立していません。

 
 2016年12月13日夜、辺野古の海にアメリカ軍の輸送機オスプレイが不時着しました。
 これ以外にも沖縄では米軍による被害が続いています。
 戦争は、敵・味方の兵士を恐怖に落とし込めます。兵士はその恐怖・苛立った心を紛らすため酒を飲み、喧嘩をし、殺傷に及びます。逃避の精神状態は性犯罪の暴力を引き起こします。戦争という暴力が別の暴力を連鎖させます。連鎖は元から断たなければ解決しません。
 沖縄からこれ以上の戦闘機事故、被害・犠牲者を出させないための唯一の解決方法は、すべての基地をなくすことが最も手っ取り早い方法です。

   「活動報告」17.5.26
   「活動報告」17.4.18
   「活動報告」17.2.28
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チビチリガマ  死者は3度殺された
2017/09/15(Fri)
 9月15日 (金)

 沖縄・読谷村波平のチビチリガマが何者かに荒らされました。
 1945年3月26日、米軍は沖縄・慶良間諸島に上陸、4月1日に本島の北谷・読谷に上陸します。住民140人はチビチリガマに避難します。そのうち82人が2日に 「集団自決」 します。47人が子どもたちです。

 1980年代半ば、チビチリガマを初めて訪れました。
 道路から急な階段を降りた谷間の草むらを歩いた先に入口がありました。
 その後に訪れた時はコンクリートで階段が作られていました。入口手前の右わきに彫刻家金城実さんと住民の合作 「世代を結ぶ平和の像」 が設置されていました。87年4月に完成しました。2階造りになっている像には82人の姿が盛り込まれていました。
 上の段に腰を掛けて頭を抱えている姿があります。このモデルになった人がいます。
 戦時中徴兵にとられて読谷を離れていましたが無事に戻ってきます。しかし残っていた妻子4人はチビチリガマでて 「自決」 していました。
 その方は、いつもは気丈夫なのですが集落の催し物などで酒が入ると暴れ出し、みんなから嫌われ、早く帰ることを促されます。あるとき、集落のひとが後をつけていくとチビチリガマに降り、 「なんで自決なんかしたんだ」 と泣きながら語りかけていました。
 遺族は口を閉ざしていましたが、このことを機会にチビチリガマと集団自決が明らかになりました。
 青年団を中心に村で戦時中におきた出来事の掘り起こしが始まります。戦後38年後のことでした。

 沖縄は戦後米軍の支配になります。「復帰」 闘争が続けられますが、72年の 「復帰」 は期待したものにはなりませんでした。そのような中で、人びとはもう一度現実を見つめ直し、米軍基地撤去の闘いと合わせて沖縄戦の捉えかえしを始めます。各地で戦跡の発掘や証言の収録が開始されます。
 チビチリガマと集団自決問題の掘り起こしが始まったのもこのころです。

 像が87年11月に壊されました。壊したのは地元の右翼でした。右翼は戦争の犠牲者を追悼しているものには手をかけることはしません。この右翼は本土の右翼から叱られ解散させられました。ですから今回も、右翼が壊したということは想定できません。
 壊された像は、しばらくはシートで覆われていました。しかし壊されたのも事実といういうことでシートははがされました。3回目に訪れた時見ました。無残としかいい表せません。82人については姿が消えたり、金網や針金の祖型があらわになったものもありました。
 95年、新しい像が設置されました。それが今回壊されました。

 頭を少し屈めながらチビチリガマに入るとすぐに、ベニヤ板に書かれた金城実さんの詩が立てかけてあります。

   チビチリガマの歌
  1、戦世ぬ哀り 物語てたぼり
    イクサユヌアワリ ムヌガタテタボリ
    童御孫世に 語てたぼり
    ワラビンマガユニ カタリテタボリ
  2、波平チビチリや 私達沖縄世ぬ
    ハンザチビチリヤ ワンタウチナユヌ
    心肝痛ち 泣くさ沖縄
    ククルチムヤマム ナチュサウチナ
  3、泣くなチビチリよ 平和世願て
    ナチヌサチビチリヨ ミクルユニガテ
    物知らし所 チビチリよ
    ムヌシラシドコロ チビチリヨ

 今回、荒らした者たちはこれを見ながら奥に入っていきました。
 「戦世ぬ哀り・・・」 とはどういうことかと思いは巡らなかったのでしょうか。

 チビチリガマは大きくありません。
 今は自由に中にはいれませんが、かつてはできました。少し行くと屈まないと奥には進めません。端の方に当時の遺品が集められています。ビン、茶碗、包丁、入れ歯、メガネ・・・。茶色になった骨もあります。地面の土は湿っぽいというよりは油っぽいです。
 鎌を手に取ってみました。この鎌で避難していた住民は家族を殺しました。
 案内してくれた人が語ります。
「集団自決といわれますが1歳や2歳の子供が自分の意思で死ぬことができますか。殺されたのです」

 米軍は住民に出てくることを呼びかけます。しかし聞き入れません。
 竹槍をもって突っ込んでいった2人が銃で虐殺されます。
 家族はなぜ手をかけたのでしょうか。愛するゆえです。
 愛する者が米兵によって辱めを受けないために、虐待されないためにそうしたのです。
 そして教育がありました。「生きて虜囚の辱を受けず」 の戦陣訓がたたき込まれていました。
 看護師がいました。彼女は毒薬注射をそこにいた人たちにうちに打ち始めます。
 石油ランプに火を放って身体の近くで倒したり、近くにある布団などに延焼させます。煙に巻かれて窒息した者もいました。

 中国に派遣されていた従軍看護師がいました、南方から帰って来た兵士がいました。その人たちが自分の体験を話します。日本軍も現地住民にひどいことをした、ましてや米軍は何をするかわからない、死ぬ方が楽だ、と。
 死にきれない人たちがいました。傷つけた身体でガマを出ていきました。

 1995年6月、沖縄・摩文仁の丘に 「平和の礎」 が除幕されました。「平和の礎」 には沖縄戦で亡くなった1人ひとりの名前が刻まれています。
 名前を刻むに際して市町村でもう一度亡くなった方がたの確認をしました。そうしたらチビチリガマでもう1人亡くなっていたことがわかりました。
 今、谷間に建てられている碑には83名と刻まれ、裏側に21世帯、85人の名前が刻まれています。


 毎年4月1日、チビチリガマで遺族会主催の慰霊祭が行われています。
 今年の4月2日の沖縄タイムスの記事です。見出しは 「『うその教育で…』 沖縄戦 『集団自決』 遺族が語る危機感 読谷・チビチリガマで慰霊祭」。
「母方の祖父母ら5人を亡くした遺族会の與那覇徳雄会長 (62) は 『生き残った人は 「あの時、本当のことが分かっていれば」 「 うその教育を押しつけられなければ」 と口々に叫んでいた』 と指摘。『もう一度しっかり足元を見つめ、二度とチビチリガマの悲劇を起こさせてはいけない』 と語った。」
 もう1本の見出しは 「『痛い痛い』 暗闇に響く声、毒の注射器に行列… 8才の少女が目撃したチビチリガマの 『集団自決』」。
「『ここは毒が入った注射を打つための列』 『あそこでは、お母さんに背中を包丁で刺された子どもが痛い痛いと泣いていた』 -。8歳の時にチビチリガマで 『集団自決 (強制集団死)』 を目の当たりにした上原豊子さん (80)。当時のガマの中の状況を語ってくれた。
 避難していた家族は艦砲射撃で負傷した祖父と母、4人きょうだいの計6人。うち祖父が亡くなった。
 4月2日の朝。上半身裸の米兵が投降の呼び掛けに現れた。水も食料もあると言う。だが、周囲からは 『だまされるな』 との声が上がった。その後、次々と自ら命を絶つ惨状が始まった。『痛いよ』 とうめく子どもの声が今も耳にこびり付く。
 子どもに布団をかぶせて火をつける母親、毒が入った注射器を看護師に打ってもらおうと列をつくる住民…。煙が充満する中で、上原さんの母は子ども4人を引き連れて出口に向かった。『真っ暗な中から家族が出たら、光が素晴らしく感じた』 と振り返る。
 ガマの中に設けられた祭壇に、丁寧に手を合わせた上原さん。『天国にいる魂が慰められるよう、平和な世の中になるよう願いました』 と話した。」

 遺族らの願いはかないませんでした。ガマは荒らされました。死者は3度殺されました。


  泣くなチビチリよ 平和世願て
  ナチヌサチビチリヨ ミクルユニガテ

 それでもチビチリガマは語りつづけます。語りつづけなければならないのです。
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