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“人々は対等であるべきで、その実現を目指す過程に幸せがある”
2016/09/06(Tue)
 9月6日 (火)

 農中茂徳の小説 『三池炭鉱宮原社宅の少年』 (石風社) が新聞で紹介されていました。タイトルにひかれて購読しました。
 1946年生まれの作者の自伝です。子どもの頃から上京しての学生生活までが描かれています。60年の三池闘争は14歳、中学3年の時です。
 作者に近い世代ならば懐かしく思い出される時代背景がたくさん登場します。炭鉱住宅という共同体の子ども目線での捉え方は人びとの関係性を豊富化させます。また読者として、描かれている状況を客観的に眺めるとあらためていろいろな捉え方ができて面白いです。

 三池炭坑がある大牟田は三井鉱山の城下町で、炭鉱社宅は会社の福利厚生施設です。
 宮原社宅は、コンクリートの高いブロック塀で囲まれた、巨人の原前監督の父親が野球部の監督をつとめた三池工業高校の東と南側にとなりあっていました。三池工業高は、かつては 「三池集治監」 でした。西側には収容されていた囚徒が宮浦坑や勝立坑、宮原坑で使役される時に出入りしたといわれる門も残っています。

「宮原社宅の中心部には会社の管理事務所があって、入転居の手続きをはじめ、畳替えや煙突掃除、野犬の駆除、家屋の一斉消毒などの世話を行なっていた。家に客があって泊まる場合には、共同風呂の入浴券をここでもらっていた。……
 家庭燃料として使うガラ (コークスのこと) や豆炭、練炭は会社からの配給だった。……
 当時は、『米穀通帳』 というのが一世帯に一冊あった。いわゆる 『食管法』 によって米の配給はきびしく統制されていたが、炭鉱には米の特別配給が行なわれていた。配給をすりぬけて出回る米を 『闇米』 といった。『米穀通帳』 に関係した手続きも、社宅事務所で行なわれていた。社宅の住民の人生全般の把握がここで行なわれていたと言っても過言ではない。」
 かつて職人などは 「怪我と弁当は自分もち」 というようなことが言われましたが、別の意味で炭鉱住宅での生活はそれ以外はほとんど会社が保障してくれました。このような中から 「企業内組合」 三池労組の強化や主婦会を合わせた ”ぐるみ闘争” が発展していきます。

 炭鉱社宅の風呂は共同風呂です。終戦からしばらく水道は共同でした。
「共同風呂の中は、いつも誰かの大きく明るい声が響きわたっていた。しょぼくれた気分で入っても、履物を下駄箱に置いて服を脱ぎ始めるころには、その会話が耳に入るようになる。頭の中に堂々めぐりの物語があったとしても、勝手気ままな会話によって、たちまちのうちにふだんの自分に戻る、おとなたちの抜けたような笑い顔や、気持ちよさそうに目を閉じた顔からは、再生の力が伝わってくる。いつのまにか自分の中にも、力が湧いてくるのだ。」
 社宅の講堂では映画会も開かれました。映画会の案内には三池労組の宣伝カーが回ったりしました。

「だがこうした光景も、昭和34年頃から見られなくなった。講堂での映画会が上映されなくなったのである。三井鉱山の福利厚生の方針や三池労組との関係が大きく変化していたからだと思われる」
 社宅の空気にも亀裂が入り始めます。
「新学期が始まって私は中学2年生になっていた。ストライキとロックアウトの対立はいっそう激しくなり、新聞や映画ニュースは、組合の分裂騒ぎを大きく報じるようになった。毎日通う共同風呂のなかの空気も変化した。それまでの穏やかさや安らぎが消え、ちょっとしたことで言い争いが始まり、喧嘩に発展するようになっていた、
 私も湯壺の中で、いきなり後ろから頭を叩かれるという出来事を体験した。振り返ると、ふだんはおとなしい顔見知りのオダさんが顔を赤くして立っていた。
『(第二組合への) いやがらせか!』
 と怒鳴られた。
 私は手ですくった湯を肩にかけながら、夢中で野球の話をしているところだった。ところが、その湯が、たまたま後ろにいたオダさんにかかってしまったらしい。オダさんは、三池労組を脱退したばかりだった。すぐに叩かれた事情を理解した。自分の不注意だとわかったので、謝ろうとした。しかし私の申し開きより早く、そばにいた年上のモッちゃんの鉄拳がとんだ。モッちゃんなりに私をかばってくれたのだ。
『わざとしたんじゃないとに、くらせんでもよかやったか。こん裏切りもんが!』
 モッちゃんが怒鳴った。そして、湯壺からでたオダさんを洗面器で叩き罵倒した。
 オダさんも負けてはいなかった。
『何が裏切りもんか。おまえたちに、何がわかるとか!』
 幸い、組合の役員をしているタミヤさんが割って入り、おさめてくれた。」

「ストライキへの評価をめぐり商店街も二分した。街に夏がやって来たが、不穏な空気はさらに色濃くなっていた。そうした状況への配慮からだろうか、伝統の 『炭都まつり』 が見送られた。……人々は分断された状況を受け入れつつ、結果としての不便を我慢しながら暮らしていた。
 その頃、学校では小さな出来事が、大きなもめ事に発展しやすくなっていた。『偏向教育』 という言葉が登場した。先生たちはかつての明るさやおおらかさを失い、言動は用心深くなってしまった。暮らしの中にまで分断が生じ、分断は沈黙と差別を生み、毎日がいっそう息苦しくなった。」

 しかし子どもたちはあえてちがう行動をします。
「組合のストライキが多くなり、『賃金カット』 という言葉を、暮らしのなかで頻繁に聞くようになった。組合は 『1万円生活』 を提唱し、そうした事情は子どもたちにも知らされた。
 それでも私たち子どもは元気だった。仲が良く、集団としてのまとまりは続いていた。また、そうあろうと努力していた。宮原社宅の少年野球チームだけは、一緒に続けられるようにと、組合の役員さんや組合を脱退した人の家を訪ね回って頼み込んだ。会費の話が出ると、自分たちの小遣いで何とかするからと、私はおとなたちを説得した。」

 それでも子どもなりの思いはあります。
「三池労組の方針の中に、家族にとって大事なことは 『家族会議』 を開いて話し合うというのがあった。ある日の夜、父がめずらしく 『ちょっと、よかかね』 とあらたまった。何か大切な話だと直感した。
『係り員にならんかね、と誘われた。会社からの肩たたきたい。退職金だけでも150万円くらい違うらしい。返事を待ってもらっとる。どげんしようか』
 父にもやはり 『肩たたき』 があったのだ。……
 穏やかな時代であれば、『どげんしようか』 の話ではない。『よろしく』 ですむ。しかし状況を考えれば、そう簡単ではないのだ。将来、いろんなことが予想される。様々なことを想定しなければならない。だからこそ父は、こうやって家族みんなに相談しているのだ。私はふだんから私なりに考えていた。そのことを正直に、はっきり言った。
『お父さんが係り員になって、給料が上がることは嬉しか。ばってんそれは、三池労組を出るということやろう。ストライキばやめて、会社の首切りはしよんなか、て言うことやろう。それは、いやばい。考えられん。これから先、どげんか生き方ばしたらいいか、わからんごつなる。ぼくもこれからもっとがんばる。だけん今まで通り三池労組におってほしか』
 父は、穏やかな表情で聞いてくれていた。キヨヱさん (母) は、主婦会で一緒にがんばっている人たちの話を添えながら、今のままの暮らしでいくことの方がいいと言った。
 『そのほうがよかごたるね。返事ばしとくたい』 と父が言った。」


「宮原社宅での暮らしの中では、『外 (がい)』 という言葉が日常的に使われていた。遊びの中で、食事をしている時に、通学の途中で、共同風呂の中で。私も何の疑問ももたず普通に使っていた。社宅を囲んでいるブロック塀の外側の地域を総称して 『外』 と呼び、そこに住んでいる人々のことを 『外の人』 と呼んでいた。そこに排除の論理が潜んでいることも気づかずに。」
 しかし 「内 (ない)」 「内 (うち)」 といういい方はなかったといいます。
 このことに社宅を離れて暮らすようになって気づきます。
 大学を卒業する頃、演劇部の先輩から別の大学の演劇部の2歳年上の女性を紹介されます。会話を交わすと田舎が同じどころか住所の番地まで同じでした。しかし社宅の棟の番号がありません。社宅といっても職員住宅でした。
 同じ社宅内でも職員住宅に住んでいる者たちは敷地を通らないで 「外」 にでられるようになっています。そして社宅の子どもたちとは、通う小学校、中学校そして進学する高校が公立であっても線引きされていました。職員住宅に住む職員は、転勤も多く、いずれ戻るのだから大牟田の文化と言葉に染まらないですむような学校に通わせたいという要望を行政が受け入れ分校を開設しました。高校も、実業高校や進学コースを併存する高校と、前身が旧制中学の進学校とに分かれます。

 同じ敷地内での顔を合わせる機会がなかったのは、社宅と職員住宅の構造の違いもあります。
 三池炭鉱史を研究している武松輝男さんの書いた新聞記事が紹介されています。
「三池炭鉱の社宅には違いがあり、雇用された身分によって六階級に分かれていた。
 四級 (係長) までは浴場を備えているが、五級 (係員) には付いていない。一般鉱員用が集団住宅と呼ばれる六級で、平屋と二階建てがあった」
 実は、30年ほど前に三池を訪れた時、武松さんにどこかの社宅を案内してもらったときに同じ説明を聞きました。四級以上の社宅には浴場を備えていますが、さらに級によって煙突の素材や太さが違います。四級はトタン、その上は焼き物です。
 社宅の敷地の中にも、「外」 があったのです。

「社宅の外側の地域を 『外』 と呼ぶ。『外』 という言葉は、際限なく 『外』 を作り出す。物理的には間違っていない表現なのだろう。しかし、暮らしの中では排他的で閉鎖的な意識を醸成する。宮原社宅で日常的に使われていた 『外』 という言葉。私たちは分断され閉鎖された状況を、当たり前のように受け入れながら育ってきていたのだ。『外』 といって内にこもる。疑問を抱くこともない。これでは、何も変わらない。『外』 という表現には、1つの世界観の選択が存在している。
 『外』 は線引きの言葉である。暮らしの場に線引きがなされ、そこに雇用と被雇用の関係が結ばれる。すると人々は、人の命の重みに対する価値観にまで、違いを感じるようになる。そのことは、炭鉱におけるこれまでの事故や事件が示している。」
 「『外』 といって内にこもる。疑問を抱くこともない。これでは、何も変わらない。『外』 という表現には、1つの世界観の選択が存在している。」 これが企業内組合三池労組の妥協を知らない強さともろさを形成しました。そして社宅 「内」 にも三池労組にとっては 第二組合という 「外」、またその逆を作り出しました
 「排他的で閉鎖的な意識」 は 「分断する」 側にも作用します。この認識が “人々は対等であるべきで、その実現を目指す過程に幸せがある” という人生観との出会いになります。
 作者は、三井鉱山で働かされていた、第二次大戦中に朝鮮半島から強制連行されてきた労働者に思いをはせます。明治31年、与論島から移住してきた人たちに思いを課せます。囚人労働を強制させられた人たちに思いをはせます。そして関係する慰霊碑などを探して回ります。


 15年3月6日の 「活動報告」 の再録です。
「60年3月28日に会社が生産を強行再開。その翌日、久保清さんが四山鉱正門前で組合員がピケを張っていた時、三井鉱山の下請土建会社の人夫をしていた暴力団から刺殺されます。
『山代、寺内組 (大牟田、荒尾一帯をナワ張りとする・・・。彼らはふだんは三井鉱山の下請土建会社である三井建設・・・などで人夫をして働いていた) ……暴力団は 『お前の顔は覚えたぞ』 『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』 などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた』 (三池労組発行 『みいけ二十年』)
 会社が雇った暴力団が、警察も黙認したテロで労働者を虐殺したことは絶対に許すことはできません。しかし三池労組員・久保さんを殺したのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者であり、ストで仕事からあぶれていた人夫であった事実があります。彼らは三池の労働組合に組織されることなく、会社に雇われたのです。」
 三池労組は 「外」 の関連会社の労働者に思いをはせることはありませんでした。


 作者は学生になってから坑夫であった作家の上野英信さんの 『日本没落期』 を読みます。その中の 「三池の子どもたち」 の章の冒頭に
 「1960年4月現在、日本の子どもたちのなかでもっとも幸福なのはたれか、と訊ねられれば、私は躊躇なく
 答えよう、それは三井三池労組の子どもたちである」
 とあります。
 作者はその意味を今も考え続けています。いくつかの回答にたどり着きます。
 その1つを、三池労組が中労委のあっせん案を受け入れたことを報告する9月20日のビラに載っていた 『やがて来る日に』 の詩を紹介しながら説明しています。

   やがて来る日に
   歴史が正しく書かれる
   やがて来る日に
   私たちは正しい道を
   進んだといわれよう
   私たちは正しく生きたと
   いわれよう

   私たちの肩は労働でよじれ
   指は貧乏で節くれだっていたが
   そのまなざしは
   まっすぐで美しかったといわれよう
   まっすぐに
   美しい未来をゆるぎなく
   みつめていたといわれよう
   はたらく者のその未来のために
   正しく生きたといわれよう

   日本のはたらく者が怒りにもえ
   たくさんの血が
   三池に流されたのだと
   いわれよう

 回答は
「正しいと思うことでも通らないときがある。そのことを実感せざるをえなくなってから、私は、自分で自分を支えることができる何かを求めていた。そして、掴んだものが 『おとなは学び続ける』 という考え方だった。」
 です。
 
 これ以上詳しく紹介すると本の売り上げの妨げになりますのでやめます。

 大学に進むため大牟田駅から急行 「桜島」 に乗ると29時間かかって東京に着いたといます。帰省して帰る時のお土産のちくわや蒲鉾は、列車の熱さでカビが生える時間でした。
 50年以上も過ぎてしまった三池闘争ですが、それを取り巻く人たちを探っていくとさまざまな新たな発見に出会います。

  「活動報告」 2015.3.6
  「活動報告」 2014.11.26
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「暴動ちゃあ、たいした力のあるもんばい」
2015/07/28(Tue)
 7月28日 (火)

 7月23日は、1918年に富山県魚津町で米騒動が起きた日と言われてきました。
 魚津町は北前船が寄港して栄えましたが、明治に入ってからは北海道や樺太への米の積み出しで栄えました。
 北海道への米の輸送船・伊吹丸が魚津町に寄港した時、米価高騰に苦しんでいた漁師の妻ら数十人が、米の積み出しを行っていた米倉庫前に集まり、県外移出中止と安売りを要求しましたが警官によって解散させられます。
 しかし最近は、7月に入ると魚津町の隣の水橋町ですでに 「女 (陸) 仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」 行動が始まっていたという歴史の発掘が行われています。女性たちの闘いはずっと続いていたのでした。
 富山の米騒動が新聞に報じられると米騒動は全国的に発展します。そして世論は、寺内正毅内閣の退陣を要求し、9月21日に辞表を提出します。
 寺内は第三代朝鮮統監であり、1910年の日韓併合の初代朝鮮総監でした。
 この報を聞いた朝鮮民衆はどれほど歓喜したでしょうか。朝鮮半島では翌年3月1日 「朝鮮独立宣言書」 が撒かれました。
 この頃は、労働者の都市部への流入に伴って農村の労働力は減少し、米の生産量は減少していました。7月以前から米価は高騰を続け、全国的に米が出回らなくなっていて、各地で自然発生的にもストライキが起きていました。

 そしてもう1つ、シベリア出兵が米価を高騰させているといううわさが流れました。
 第一次世界大戦最中の1917年に樹立したソビエト政権は単独でドイツ帝国と講和条約 (ブレスト・リトフスク条約) を結んで戦争から離脱します。その結果ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中して大攻勢をかけます。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図して、ロシア極東のウラジヴォストークに 「チェコ軍捕囚の救出」 を大義名分に出兵します。
 イギリス・フランスには余力がないなか、日本とアメリカに出兵を要請し、日本は8月2日に出兵を宣言します。
 そのことを当て込んだ米商人の思惑買い、売り惜しみが拍車をかけ、高騰していた米価に拍車がかかったといわれています。しかし当時の軍隊は食料を現地調達していて本土で備蓄することはなかったといいます。出兵で米の絶対量が不足するということは冷静に考えればありえないことです。
 商社の思惑はさておき、人びとにとって生活困窮における政府への不満は爆発しました。シベリア出兵・戦争は迷惑なものと受け止めました。


 人びとの戦争を通しての政府に対する思いのかい離は1904-05年の日露戦争から見られます。
 日露戦争は、民衆が納得しない状況の中で講和を締結し、日比谷暴動などを引き起こしました。 (15年1月23日の 「活動報告」 参照) しかし政府の指導者の判断は、国力・戦力が底をつかない、英米諸国の支持を失わないうちに素早く止めようということでした。その結果、西洋先進国に追いついたと説明します。そして朝鮮半島に本格的に侵略していきます。
 工業の発展による人口の流動は社会に地殻変動をもたらしていました。国家は人びとを上から統括する体制を作ろうとしますが、いろいろなところで抵抗、拒否に遭遇する状況が作り出されていました。その爆発が米騒動です。人びとは自分たちの埋もれていた力を発見します。
 その構造は 「内に立憲主義、外には帝国主義」 と言われた大正デモクラシーが終焉した後も国家から自立して存在しつづけます。

 例えば、東北地方では仏教系の民間信仰のもとで 「戦争は飢餓よりもひどいもの」 と伝承されていきます。
 第二次世界大戦においては仏教以外にもキリスト教などが抵抗を続けます。
 戦争に反対し続けたキリスト教宗派の「灯台社」には沢山の朝鮮人がいたといいます。
「戦争の初期に都市下層階級の中にあった厭戦感情は、日蓮宗の仏教運動のひとつの現れとして、牧口常三郎および戸田城聖の指導下にある創価学会を通して表現されました。また都市だけでなく農村の下層階級の反戦感情は、出口王仁三郎の指揮下にあった大本教という神道の宗教運動、御木徳近の指導下にあったひとのみちという神道系の宗教運動、大西愛治郎の指導下にあった天理本道というこれまた神道系の宗教運動にはけ口をもちました。これらの運動中から何人もの逮捕者が出て、獄中で死んだ人たちもおります。」 (鶴見俊輔著 『戦時期日本の精神史 1931-1945年』 岩波書店)
 牧口は戦時下に弾圧を受け、獄中で亡くなりました。


 戦争末期にはひとびとの我慢も限界をむかえていました。
 徴兵も学徒動員や年少兵の「志願」は枯渇状態に近づき、工場においても資源不足とともに労働者不足とともに労働意欲は減退していました。
「特高の報告する 『勤労学徒の動向』 によると、『一部には動員の長期化に伴う疲労感、学徒動員の性格的曖昧性、職場環境並びに学徒自身の時局認識欠如等に基因し、其の不平不満は暫次増こうし、各種紛争も相当発生』 しつつあった。1944年4月から12月までに50件、45年1月から5月までには27件の紛争議を生じた。後者の内訳をみると、集団的暴行を7件、罷怠業をともなうもの4件、集団的交渉をともなうもの4件、一斉引揚げをともなうもの2件、その他10件であった。
また、『勤労学徒の注意すべき思想動向』 として、『実に高学年学徒中には企業の私的正確に対する反発漸次増進しつつあり、加之学徒特有の学的思索と真理追求欲よりして其の態度極めて批判的且懐疑的となり、勤労意欲の希薄化、厭戦的敗戦的感情の萌芽を看取視せられた』 とある。」 (藤原彰編 『占領と民衆運動』 三省堂)

 戦意高揚のために精神科の医師が動員されて精神衛生管理を行います。
「それは主として飛行機や船舶や兵器などの製造工場でであった。戦力補充のため、おびただしい数の若い工員を、ほとんど無選択に徴用していたが、これらは全くの玉石混交で、多くの不良工員のために、職場の協調は乱される、不良製品は出る、無断欠勤などが多くて増産の効果はあがらぬという始末。
 困り果てた企業体は、精神医学の面での協力をわれられに依頼してきたのである。……
 研究は、企業に入り、優良工員の問題、問題工員の問題、災害頻発者の調査、神経症の問題、適性検査など多方面にわたった調査をおこなったが、その結果2つの点が特に印象的あった。……
 第2の点は、だれしも予想通り、不良工員の問題である。……
 そこで、われわれは、あれこれ試みた結果、まず、これらの者を正常工員の職場から離して、その職場の受ける妨害的作用を取り除き、次に、不良工員だけのグループを作って、特別の量で、特別の管理者のもとに、適当のリクレーションを交えた規則正しい生活をおこなわせるようにした。そして独立した工場で、彼らだけの作業に従事させるとともに、このグループの作業成績がすぐれているときには、適当に褒賞するようにしたのである。
 これらの措置は、すこぶる効果を上げたが、これは当然予測できることであった。」 (内村祐之著 『わが歩みし精神医学の道』)

「1942年後半からの労働情勢の悪化のなかで、労働者の事前発生的抵抗は急速に深化した。集団暴行事件と生産設備の破壊事件とが、戦時下特有の労働者の『抵抗』形態であった。集団暴行事件は官憲が把握したものだけでも、41年・3件、42年・17件、43年・19件、44年・39件、45年 (4月末まで) ・9件というように増加していた。『オシャカ闘争』 とよばれる生産設備の破壊事件は、42年11月に警視庁管内で萌芽的発生をみた後、43年・23件、44年・33件、45年 (3月末まで) ・5件と増加傾向にあった。」 (藤原彰編 『占領と民衆運動』 三省堂)
 これが 「聖戦」 の実態でした。
 広島、長崎への原爆投下がなくても、日本は戦争を継続する力量は残っていませんでした。しかし 「国体」 護持が最終目的になっていました。


 米騒動に戻ります。
 米騒動は、米騒動は炭鉱、鉱山などにも波及し、筑豊地方でも8月17日に峰地炭坑で始まり、三菱方城、貝島、三菱鯰田、古河目尾、日鉄二瀬、麻生上三緒炭坑へと広がりました。(13年5月17日の 「活動報告」 参照)
 三池です。
「三池炭鉱でも大正7年8月27日から9月8日にかけて、宮浦・宮原・大浦・万田坑などで坑夫たちが米騒動に立ち上がった。そのなかでも9月4日から8日にかけての万田暴動は、最大の規模をもったものであった。
 万田暴動のきっかけは会社側が発表した9月1日の坑夫の昇給問題であった。坑夫たちの昇給幅がすくないことに不満をもった。それだけでなく、選炭方法が厳重になったために石炭10貫にたいして約4割方の減少がみこまれた。それに、売勘場 (売店) の日用品価格を会社が引き上げたこともある。これらに不満をいだいた坑夫たちは『寄々(よりより)密議を凝しつつ』あったが、ついに4日夜の午後9時40分、丙組採炭夫500余人が甲組500余人と交替しようとするときをとらえて、両者相呼応して暴動に出たのである。……さらに1000余人の坑夫の女房たちも加わって……。これに驚愕した会社は軍隊・警察の出動を要請し、兵隊・警官は参加坑夫をピストルや銃剣で威嚇して鎮圧した。」 (中村政則著 『労働者と農民 ―日本近代をささえた人々-』 小学館)
 しかしその後の会社・係員の坑夫に対する対応はがらりと変わったといいます。当時、万田坑に働いていた坑夫は 「暴動ちゃあ、たいした力のあるもんばい、とつくづく思いました」 (山根房光 『みいけ炭坑夫』) と語ったといいます。

 炭坑夫たちはこのときの経験は1924年の三井傘下の三池製作所の労働者と万田坑の坑夫が中心となって、賃金値上げ、1934年3月に三井鉱山が労働者懐柔のために作った御用組合のような共愛組合の撤廃、公傷者に対する救済資金の増額支給などをかかげた争議で生かします。1、2か月におよぶ統制が取れ闘いで着実な成果をあげました。そして争議の目的を大牟田市民に訴えて、地域社会の商人や農民の支援を受けます
「争議は、けっきょく労働者の敗北に終わったが、それはけっして無駄に闘われたのではなかった。上村辰人が語るように、『争議ガアツテカラ坑内・坑外ノ機械設備ノ改良、従業員ノ福利施設等、一度ニ改善、実現サレ』 た。また、それまで採炭夫は 『良イ切羽ヘ回シテ貰フ為ニ役員宅ヘ賄賂ヲ持ツテ行クト言フ風ナ事ガ甚ダシカッタガ』、『之以来、今マデ係員ノ自由意志ニ任セテヰタ切羽選定ヲ抽選制度ニシテ』、従来、係員と坑夫とのあいだにあった 『情実関係ノ弊風ガ一掃』 された。」 (中村政則著 『労働者と農民 ―日本近代をささえた人々-』)
 この経験は、戦後の三池の闘いに引きつがれていきます。

 1919年9月、米騒動をきっかけに神戸・川崎造船所で争議がおきます。労働者はサボタージュ戦術をとり、労働時間8時間制を獲得します。労働時間は短縮されても賃金は変わりません。争議は9月27日解決に至ります。その結果出勤率が上がり、労働意欲が高まって生産性も向上したといいます。
 日本で最初の8時間労働の実現です。(12年4月27日の 「活動報告」 参照)

 1921年友愛会の日本労働総同盟への改称、翌年の日本農民組合の成立、全国水平社の結成など、既存の組織から脱皮した運動のもと新しい組織が作られていきます。

 世界的に見るなら、1918年のベルサイユ講和会議で国際連盟の創設がうたわれ、翌年1月25日には国際労働法制委員会の設置を決議し、6月28日、講和会議において労働者の代表を交えた労働問題に対応する国際労働機関 (ILO) が創設されます。
 また大戦後、民族自決の運動も高揚します。


 さて、時の権力に抵抗し、戦争に反対した創価学会の今日はどうでしょうか。時の権力の懐にどっぷりつかり、謳歌しています。戦争法案に賛成することに良心は痛まず、恥じらいがありません。
 暑い暑い7月に、米騒動のように全国でまき起こっている戦争法案反対の闘いは正念場です。浜口内閣が辞表を提出した9月21日までに、安倍政権に辞表を提出させなければなりません。

   「活動報告」 2015.1.23
   「活動報告」 2013.5.17

   「活動報告」 2012.4.27
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三池に朝鮮人慰霊碑が建てられたのは戦後50年、閉山2年前
2015/06/17(Wed)
 6月17日 (水)

 「明治日本の産業革命遺産」 の世界遺産への登録をめぐって、韓国政府などから強制連行が行われた施設が含まれていると意見が出されています。(5月12日の 「活動報告」 参照)
 日本政府の戦後補償の曖昧さがまた問題にされています。

 「明治日本の産業革命遺産」 の中の炭坑に関連する施設における 「強制連行」 について、具体的に三井三池炭鉱を中心に検討してみます。
 日本と朝鮮半島との交流はかなり前からあり、お互いの移住も行われています。
 しかし明治維新以降、日本が朝鮮半島への侵略を開始すると、朝鮮半島からの半強制的移住者が増え始めます。
 金賛汀著 『火の慟哭 在日朝鮮人坑夫の生活史』 (田畑書店) から見てみます。
 福岡市田川史のお寺の過去帳から、朝鮮半島から移住してきた労働者について、1898年に三井田川鉱で死亡した2名、1909年に貝島炭鉱で死亡した数名の名前が発見されました。日清韓戦争で日本の侵略が増していった後です。

 日本は1910年の日韓併合以前から、朝鮮半島各地で農民から土地を収奪していきますが、併合と同時に開始した 「土地調査事業」 は農民からの土地収奪と、それに協力した朝鮮人地主の保護をおこない、それによって日本は朝鮮における地税賦課の基礎を確立し、朝鮮支配の財政体系を作りあげました。「土地調査事業」 は1918年に終了しますが、全体の3%にしかならない日本人と朝鮮人地主が、耕作地の約半分を支配する土地所有関係を成立させます。
 このような朝鮮農村と農民の窮乏が、日本の石炭産業が要求する安価な労働力を送り出す基盤となります。

 日本国内に流入する農民について記している大阪市社会部調査課の 『なぜ朝鮮人は渡来するのか』 (1930年8月) からの抜粋です。
「而かも一方、彼等の大多数は例外なく現在よりもはるかに有利な職業を求めて内地への移住を希望しているが、その殆んど大部分は居所を移転する資力さへないため、過剰の状態に於いて土着せざるを得ない羽目に陥って居るし、他方、労働力を需むる雇用側に於いては、なんら能動的競争を要せずして容易に低廉に多量の労働力を購求することが出来るから、けっきょく彼らのある者は1日僅かに20銭内外の賃金で9時間乃至9時間半の労働に従事せねばならぬこととなるわけで、その生活の悲惨なることは、けだし思ひ半ばにすぎるものがある」

 第一次大戦がはじまった1914年から19年にかけて、日本の石炭産業は飛躍的な発展を遂げます。炭鉱労働者の数は29万4000人から46万5000人に急増します。労働力不足は石炭産業だけでなく他産業でも同様です。労働者の供給源は、主として農村の過剰人口でしたが、やがてそれも払底します。
「こうした全般的な労働力不足は、労働条件・労働環境が悪い石炭産業では、坑夫の確保を困難にした。日本国内での労働力確保困難になった石炭産業は、植民地朝鮮に目をつけ、この時期、朝鮮での大量募集が始まっている。
 また、北海道の石炭資本、とくに北海道炭鉱汽船は、大量の朝鮮人坑夫を募集、雇用した。
 1910年代の朝鮮人坑夫の統計は存在しないが、内務省警保局の調査によれば、1917年12月末、北海道在住の朝鮮人労働者は、前年に比し1611人多い1706人である。福岡県のそれも、前年に比し492人多い1386人となっている。これら朝鮮人労働者の多くが炭坑夫だったと思われる。」
「大正の初期から昭和にかけて、朝鮮人坑夫が大量に使用されたのは、日本の石炭産業発展の過程でそれなりの理由があった。
明治後期から大正初期にかけてが筑豊や三池、長崎・佐賀の炭鉱地帯・あるいは宇部や常磐などでの鉱業資本の発展期であったとすれば、大正から昭和初期にかけては、石狩炭田を中心とした北海道石炭産業の発展時代であった。北海道の石狩・釧路においても、三井・三菱・住友など、大資本の鉱山が確立されていった。」


 38年4月、日本国内の物資と労働力を総動員するため 「国家総動員法」 が公布されます。6月、企画院はこれに基づいて労務動員計画を立て、その実施のため39年4月に国民徴用令を発令します。企画院の計画には朝鮮からの労働者の連行が組み込まれ、朝鮮人労働力の重要産業である石炭・金属鉱山への投入が決定されます。
 7月、内務省と厚生省は「朝鮮人労務者内地移住に関する件」を発令、朝鮮各地から朝鮮人労働者8万5千人の 「募集」 を許可します。10月の北炭夕張を皮切りに集団連行が行われます。

 太平洋戦争に拡大すると日本国内での労働力事情はさらに逼迫します。
 企画院は42年度の労務動員計画で朝鮮人労働者の 「供出」 を13万人と計画しますが 「募集方式」 では困難です。42年2月、政府は閣議で 「半島人労務者活用に関する方策」 を決定し、それを受けて朝鮮総督府は 「鮮人内地移入斡旋要綱」 を制定、これまでよりも組織的・強制的な 「官斡旋方式」 にしました。
 労働力不足をさらに厳しくなると、1944年9月、朝鮮に 「徴用令」 を適用します。青紙1枚で朝鮮人を日本国内をはじめ日本の占領し配置へ強制連行することになり、その結果、発令からわずか1年間に40万人以上の朝鮮人が過酷な奴隷労働に従事させられました。
 「強制連行」 の総数については、『第86帝国議会説明資料』 や厚生省労務局の資料、『特高月報』 などがありますが、それぞれ大きな食い違いがあります。
 『朝鮮経済統計要覧』 の統計では、39年からの石炭産業に連行された朝鮮人坑夫は49万人に達するといわれています。

 三井三池においては41年2月、万田坑に朝鮮人労働者の強制連行が初めて行われました。その後43年9月には、宮浦坑に1666人が連行されます。43年に新港朝鮮人収容所と宮山朝鮮人収容所、44年に四ツ山朝鮮人収容所と馬渡朝鮮人収容所、45年に西浜田朝鮮人収容所が開設された。馬渡社宅には140人が収容されていました。
 1990年過ぎ、大牟田だけで1万2千人分の名前が記載された名簿が公開された。

 三井鉱山における強制連行については新藤東洋男著のパンフレット『太平洋戦争下における三井鉱山と中国・朝鮮人労働者 -その強制連行と奴隷労働-』(人権民族問題研究会)があります。その中から炭鉱について具体的に見てみます。
 45年8月現在の 「外国人労働者」 の数は
  事業所   朝鮮人    中国人    俘虜     労働者総数 (7月)
  三 池   2297人   2348人   1409人   23790人
  田 川   2195      623     398     16492
  山 野   1850      581     573      7393
  砂 川   2137      385              7407
  芦 別   2055      440     611      5642
  美 唄   1418      434     430      4948
  新美唄    386                        685
  計     12338    4811    3421      66357
です。かなりの割合を占めます。
 当時、三池鉱山は四ツ山、万田、三川、宮浦の4坑山からなっていました。

 福岡県特別高等課調査に基づく昭和19年 (44年) 1月末現在の 「労務動員計画に依る移入半島人労務者に関する調査表」 (県庁文書)に は、連行朝鮮人の数について、三井三池炭鉱 移入者数2376、逃走者数743、死亡15、電気化学工業大牟田工場 移入者数572、逃走者数234、死亡1と記載されています。

 厚生省勤労局報告書のなかに、三井三池万田坑分の連行者名簿が残されています。官斡旋、徴用分をみると42年306人、43年605人、44年659人、45年113人が連行されていました。
 死亡者については、三井三池鉱山が戦後作成し、朝鮮人団体に提出したものが残されています。74年の朝鮮人強制連行真相調査団の調査では、円福寺に三井三池関連の51体分の位牌が残されていました。


 荒尾市の正法寺には72年4月に 「中国人殉難者慰霊之碑」、同年10月に朝鮮半島出身の犠牲者を弔い南北統一を願う 「不二之塔」 が建立されました。同寺の住職らが托鉢で集めた浄財を基にして建てられまし。その後毎年慰霊祭が行われています。

 三池に強制連行されて亡くなった朝鮮半島出身者を慰霊する碑が1995年に大牟田市の甘木公園に建てられました。毎年、4月の第一日曜日に 「徴用犠牲者慰霊祭」 が行われます。
 徴用犠牲者慰霊碑碑文です。
「愛しき父母、妻子、兄弟と離別を余儀なくされ、この遠い異国の地にて、あらゆる難をへられた英霊達よ。夢寂にも偲んだ故 国山河を遠くし、ここに眠る大韓人孤魂の無情の念、いつはれるやら。第二次世界大戦時、この地に徴用され、過酷な労働の果てに、不帰の人となられ、はや五十星霜。歳月はすぎしとも、死してなおその不運の身上をどうして忘れることができよう。過ぎし日の不幸が再び訪れることの無きよう・・・・。かなしき英霊達よ、安らかに眠り給え 合掌」

 建立に奮闘したのが民団大牟田支部支団長だった禹判根さんです。建立を決意してから関係企業などを説得して実現させるまで15年を要したといいます。ということは決意したのは1980年です。それまで地元では触れないで済ませる、「忘れられていた」ことです。

 隣りに 「馬渡社宅壁書記念碑」 が建っています。
 「遙か異国の地にあって、引き裂かれた恋人や妻に思いを馳せ、自らの不遇を嘆き、懐かしき故国を偲ぶ、切々たる心情が記されている」 と説明されています。
 「馬渡社宅壁書」 とは、三井鉱山馬渡 (まわたし) 社宅51棟の5軒長屋に残っていた押入れの壁書です。漢詩や出身地と思われる 「朝鮮京畿道長湍郡」 などの文字などが書かれています。
 現在、その社宅跡地にも碑が建っています。
「第二次世界大戦中、大牟田の三池炭鉱に朝鮮から数千名の朝鮮人が強制連行され過酷な労働を強いられた。そのうち約200余名の朝鮮人が 『馬渡社宅』 に収容されていた。『馬渡社宅51棟』 の押入れに彼らの望郷の念が込められた壁書が1989年に訪れた強制連行の歴史を学ぶグループにより発見された。
 戦時中とはいえ朝鮮人に多大な犠牲をもたらし、さらに犠牲者の痛みを思うとき、ふたたびこのような行為をくり返してはならない。そこで、この地に『壁書』を復元することによって戦争の悲惨、平和の尊さを次の世代に語り継ぐため、この記念碑を建立するものである。 1997年2月 大牟田市」


 さて、なぜ三池における強制連行の実態の掘り起しが遅れ、しかも不充分だったのでしょうか。
 三池闘争が終わった63年1月、三池鉱山株式会社はそれまでの労使双方の資料などを集めて 『資料 「三池闘争」』 (日本経営者団体連盟発行) を編纂しました。
 そのなかの 「第一篇 当社の労使関係と労働争議 第一章 第一節 1朝鮮人、華人労働者の騒動」 です。三池闘争の前史が語られています。
「20年8月の終戦直後、当社が当面した労働問題は、戦時中大量に雇入れていた朝鮮人、華人労働者の騒動であった。終戦当時当社が使用していた朝鮮人労働者数は、石炭関係7事業所計12.338名、金属関係4.811名、華人は石炭関係は新美唄をのぞく6事業所計4.811名、金属関係は日比製錬所99名であった。この他外人労働者としては俘虜 (石炭山関係3.421名、金属関係1.428名、三池港45名) もいたが、終戦直後各事業で諸物資の略奪、会社幹部、従業員への暴行、脅迫、器物破壊等の挙に出て、日本人従業員を恐怖におとしいれ、難を避けて休業、離山者を続出せしめたのは、朝鮮人と華人労働者とであった。その騒動がいかに激しいものであったかは、第九表の石炭山における終戦時の朝鮮人、華人の暴行による損害調査票によっても、その一端がうかがわれよう。……
 以上は特に華人の暴行、略奪の場合の例であるが比較的長期間作業に従事していた朝鮮人の場合、華人に比して暴行、略奪等の事例は少いが、各所に朝鮮人による暴行事件も発生していることは第九表からも推測できよう。……」

 「強制連行」 ではなく 「戦時中大量に雇入れていた労働者」 という言い方です。
 この言い方は、現在になぞらえると、企業は派遣労働者を必要としていて事業場内で働かせているが、派遣労働者は企業とは雇用契約はないのでなんらの責任はないという主張や使い捨てと同じです。
 「暴動」 があったのは事実です。しかし原因を追究することなくこの時点で被害者と加害者が逆転させています。
 第九表の 「石炭山における終戦時の朝鮮人、華人の暴行による損害」 は 「三井鉱山作成・石炭統制会より大蔵省へ提出」 とあります。
 2015年4月28日の 「活動報告」 に書きました。「『国家補償金』 については、戦時中に強制連行した朝鮮人や中国人を使役したことによよって生じた “損失” について、各企業は政府補償金を獲得していたのである。」なんと強制連行した労働者を使役した企業に、GHQから禁止されるまで補償金が支払われていたのです。
補償金が支払われるということでは課題に記載されたことが予想されます。


 『資料「三池闘争」』に書かれていることと同じような内容が、その前に、三池労組が結成10年を記念して編纂した 『みいけ十年』 の中の 「前史」 編に書かれています。
 しかし後の有名な学者たちが執筆陣に名を連ねている 『みいけ二十年』 では削除されています。まずいと気付いたようです。というよりも今度は強制連行、朝鮮人労働者、中国人労働者、俘虜などについては一文字も登場しません。そして1999年に発行された 『みいけ炭鉱労働組合史』 でも同様です。
 三池労組としての強制連行の歴史的事実の掘り起しはありませんでした。6000人の朝鮮人、中国人、俘虜とされた労働者を切り捨てています。
 これが地元における強制連行の歴史です。

 言葉の解釈や手続き論ではなく、実態として人間の心身を拘束して強制的に労働に従事させたという事実は確実にありました。
 「明治日本の産業革命遺産」 は 「負の遺産」 として、消し去るよりは残した方が後世への教訓になります。


 6月22日、日韓条約が締結されてから50年目をむかえます。


   「活動報告」 2015.5.12
   「活動報告」 2015.4.28
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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三池闘争の教訓
2015/03/06(Fri)
 3月6日 (金)

 2月下旬に、ある地域の労働組合で三池労組が解散に際して記念に製作したビデオ 『みいけ闘争』 の鑑賞会を行ないました。その解説をする羽目になってしまいました。
 三池闘争を語る時、強固な団結で闘った、頑張った云々だけが語られることが多いですがそれでは本当の姿が見えてきません。そこでこれまで 『活動報告』 で書いてきたことを寄せ集め、差別と非正規労働者の問題を中心に報告しました。そのレジュメの抜粋です。


 終戦によって「勤労報国隊」が引き揚げ、強制連行された朝鮮人・中国人、そして俘虜などが解放されると炭鉱の労働力は激減しました。また、資材不足や戦時中の乱掘により坑道は荒廃していました。
 GHQ (連合軍総司令部) と政府は、エネルギーの供給がなければ、経済再建と活性化はないと電力、鉄道、鉄鋼そしてGHQ用の暖房のため石炭の増産政策を打ち出します。46年12月24日の閣議で、経済復興のために生産システムを鉄と石炭に傾斜する「鉄鋼、石炭の超重点的増産の経済危機突破方針」を決定します。いわゆる 「傾斜生産方式」 です。

 12月22日に 「労働組合法」 が公布されます。労働者は生活保障の闘争として公務員は職場ごとに、旧軍関係の輸送、通信などを完全掌握していた事業体はそのままの機構に労働組合を結成していきます。民間は財閥や巨大企業を中心に、内部で自然発生的に企業別組合やその連合体を結成していきます。たとえば三井鉱山、三菱重工、東芝、日立などです。
 三池労組は、終戦直後に戦時中の産業報告会を基盤にして結成されました。
 12月17日、最初の労働組合が三川鉱で結成され、ついで各鉱所で準備会が始まり、46年1月14日の単一組織結成準備会事務局の発足に至ります。職種を越え、末端労働者まで組織した企業別組合です。5月19日には資本別連合として西日本三井炭鉱労働組合連合会が結成され、中立系の全国的単一組織の結成を目指します。
「(45年) 10月15日、三井鉱山本店 (全国本社) の労務課長は委員の改選を基礎とする産報の改組、再編成について指示・通達を各鉱業所に発した。12月1日に結成されたこの労働組合準備会は、改選された産報委員がそのまま横すべりしたものであった。」 (三池労組編『みいけ20年』)
 三池労組は 「三井王国」 内の中立系組織として模範生でした。なおかつ三池炭鉱は三井系列鉱山のなかにあって採炭量は他を抜いていました。
 石炭増産のために、模範的三池の歌としてラジオから流されたのが 『炭坑節』 です。本当は筑豊の歌でした。

   月が出た出た 月が出た
   三池炭坑の うえに出た
   あんまり煙突が 高いので
   さぞやお月さん 煙むたかろ
     サノヨイヨイ

 三池労組は労使協調の企業別組合から出発したが、職場に根を張る活動を続け、力をつけると炭労の他の労組を牽引する位置を占めるようになっていきます。
 朝鮮戦争を通じて、大企業を中心に設備の更新、技術の更新化が進められ、人員整理、賃金ストップが強行されます。52年末頃から不況の影響をうけて設備の近代化が比較的進んだ鉄鋼、石炭などの産業を中心に中小企業の倒産や大企業への系列化が進行し、大量人員整理を行う工場が続出します。
 53年8月7日、三鉱連 (全国三井炭鉱労働組合連合会) は三井鉱山の合理化要綱発表に対して 「請負給制度の撤廃」 「保安法の完全実施」 「人員の充足」 の3目標を掲げ、山元での自主的な闘い、日本炭鉱主婦協議会と連携して職場、地域から大衆闘争を盛り上げ、その力をバックにして中央闘争を強化する戦術を立てます。
 最終的には113日の闘いを経て、三鉱連は 「退職希望者」 「退職勧奨に応じた者」 以外の退職拒否者1841人の解雇者の復職を勝ち取ります。「英雄なき113日の闘い」 「幹部闘争から大衆闘争」 と呼ばれました。

 三池炭坑の歴史を語るとき、囚人労働、強制連行、そして 「ヨーロン」 と呼ばれてさげすまれた与論島出から移住してきた下請労働者群を抜きにしては語れません。下請港湾労働者として、過重労働などという言葉では言い表せない労働を強いられてきました。差別分断支配構造に組み込まれたすさまじい状況におかれていました。
 「その差別をはね返そうと、一致団結して働けば働くほど、標準作業量はひきあげられ、賃金はさらに切り下げられた。」といいます。
「(19) 48年、親方制度は廃止となり、労働者は直傭労働組合に組織された。それは労働組合というよりは、臨時夫の同業者組合といったような性格であったようだ。契約期間は1年間、毎年3月に身体検査をうけ、その結果によって再契約された。病弱者は情容赦もなく切り捨てられた。だから健康なもので、病気を理由に解雇されるのではないか、とまいとしビクビクしながら働いていた。直傭夫のほとんどは高齢者や年少者であり、青年・壮年で体力のあるものは、三井三池の直轄夫として採用された。……
 直傭労働組合の300人が本工になれたのは1955年。三池労組の力によってである。
 53年の 『英雄なき113日間の闘い』 に勝利したのち、三池労組は、供利さん流にいえば 『日の出の勢い』 となったのである。」
 与論島出身者にとって労働組合の解雇撤回闘争は、労働組合の力強さを知るとともに 「人権を回復」 する闘いでもありました。自分らを 「ユンヌンチュー」 と呼び誇りを回復していきます。

 宮浦鉱の高椋龍生さんはさんは貧乏で教育を受ける機会を奪われていました。そして下請労働者を強制されていました。
「幼いとき、貧乏ゆえに、よびすてにされたことがくやしくて、怒りがむしょうにこみあげたことをいまも忘れることができない。
 高等小学校をあげると (1930年) すぐはたらきにでた。
 はじめての給料日、50銭の小遣いを母からもらい、町の書店でほしくてたまらなかった 『字引』 をもとめ、だいじに胸高くだきあげるようにして星空の下をわが家へ跳んで帰ったことを、いまもまざまざと覚えている。」 (『石蕗 (つわ) の花が咲きました 高椋龍生詩文集』 (労大新書)
 高杢さんは三池労組なかで文芸活動を続けます。
 人権闘争の中で三池労組では戦後の民主化闘争の中で、組合員は全員の名前を 「さん」 付で呼び合う運動を展開すします。そのような中で下請労働者の本工化要求を掲げて勝ち取っていきます。
 組合運動を通じて人格・尊厳を獲得した高椋さんは労働組合に強い信頼を寄せました。

 三池労組は 「英雄なき113日の闘い」 に勝利した後も職場闘争を展開し、保安の問題などを追及するなかで、職場単位で労組との交渉権を認める、いわゆる 「現場協議制」 を勝ち取って行きます。労働条件の均一化をすすめ、交渉力、妥結権、スト権を職場に譲ねる 「三権委譲方式」 を獲得しました。職場のヘゲモニーを実質的に労働組合が握りました。
 三井鉱山では労使間の話し合いで、労組から委員を出して坑内の保安点検をする 「安全委員」 制度がつくられました。
 労働組合は、自覚するかしないかにかかわらず企業内組合の限界に挑戦していたのです。会社は57年から労務政策を大きく変更、59年8月で三井鉱山は合理4500人の人員整理を発表しました。9月、石炭産業労使会談で、石炭経営者は63年までに大手18社だけで約11万人の人員整理を明らかにしました。
 この 「自主管理」 の萌芽にもなりかねない労使関係を三井以外の炭鉱経営者や 「総資本」 も資本は容認できず、「総資本対総労働」 の総資本を形成し、59年から攻撃を開始しました。それが三池闘争です。

 59年に 「安全委員」 の中心人物を解雇、そして59年末には三池労組の行為を 「業務阻害」 として見せしめに1492人の大量解雇をかけてきまし。
 「英雄なき113日の闘い」 と職場での保安の闘争を大衆的に展開、牽引してきた阿具根派 (阿具根登三池労組初代組合長・後の参議院副議長の影響をうけた労働者) と、差別と闘い続けてきた 「ヨーロン」 が、労働者が首を切られたということに対して 「本気で怒った」 ことが壮大な闘いとなっていきました。

 三池闘争の最中、労組は分裂しました。しかしこれは会社が画策して分裂させたとだけ捉えることはできません。そうだとしたら、大量の脱退者の動向を掌握できていなかった組合の問題が出てきます。
 新労が結成されましたがその数は当初三池労組の指導部が予測していた数を上回ります。このとき会社は三池労組がどんなに少数になっても与論島出身者は残るだろうと予測していたと言います。それくらい 「ヨーロン」 をいじめたことは自覚していました。

 3月28日に会社が生産を強行再開。その翌日、久保清さんが四山鉱正門前で組合員がピケを張っていた時、三井鉱山の下請土建会社の人夫をしていた暴力団から刺殺されます。
「山代、寺内組 (大牟田、荒尾一帯をナワ張りとする・・・。彼らはふだんは三井鉱山の下請土建会社である三井建設・・・などで人夫をして働いていた) ……暴力団は 『お前の顔は覚えたぞ』 『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』 などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた」 (三池労組発行 『みいけ二十年』)
 会社が雇った暴力団が、警察も黙認したテロで労働者を虐殺したことは絶対に許すことはできません。しかし三池労組員・久保さんを殺したのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者であり、ストで仕事からあぶれていた人夫であった事実があります。彼らは三池の労働組合に組織されることなく、会社に雇われたのです。

 かつての三池労組会館の玄関には組合員が描いた絵や彫刻がたくさん飾ってありました。“ホッパーパイプ” が闘いを蘇らせます。
 ストライキ決行中、三池労組はホッパー (石炭の貯蔵槽) を囲んで石炭の搬出を阻止する戦術をとりました。会社側勢力が襲ってくることに組合員は防御しなければなりません。組合員は長さが1メートル、なかには2メートル直径が20センチもあるパイプを握ってかまえます。パイプは煙草を吸うためのものなので大勢が持っていても凶器準備集合罪の適用にはなりません。材料が木の根っこだったりし、彫ったり、色を塗ったりして出来栄えを競いました。闘争の記念品であり芸術作品です。
 「がんばろう」 の歌は、このような中で生まれました。
 三池労働は文化活動が活発でした。

 60年9月8日に三池労組が闘争終結のためのあっせん案を受け入れ三池闘争は終息しました。9月20日発行の、組合員にその報告をするビラの最後に詩が載っています。

   やがて来る日に
   歴史が正しく書かれる
   やがて来る日に
   私たちは正しい道を
   進んだといわれよう
   私たちは正しく生きたと
   いわれよう

   私たちの肩は労働でよじれ
   指は貧乏で節くれだっていたが
   そのまなざしは
   まっすぐで美しかったといわれよう
   まっすぐに
   美しい未来をゆるぎなく
   みつめていたといわれよう
   はたらく者のその未来のために
   正しく生きたといわれよう

   日本のはたらく者が怒りにもえ
   たくさんの血が
   三池に流されたのだと
   いわれよう

 この詩は高杢さんが作ったと言われています。
 10月28日中労委は斡旋案により調印した協定の中の 「山元提案事項に関する協定書」 は、いわゆる「現場協議制」の団交を実質的に廃止させました。「英雄なき113日」 の闘い以来の職場闘争の諸権利は解体されていきます。

 協定締結後の60年12月1日の一番方から全面就労が再開されます。
 「生産疎外者」とよばれた多くの組合指導部が職場から追放された中で、職場の闘いは困難を極めます。
 三池労組員を高賃金職種から低賃金雑役に配転、第二組合員を低賃金職種から高賃金職種に配転、生産上重要な職場は第二組合でかためて生産第一主義に保安機構の全面改定案を打ち出します。三池労組のストライキを無力にすることを狙ったものです。

 三池闘争が敗北すると、年末から翌年3月にかけて全国の炭坑で合理化提案がおこなわれ、炭労の各支部は、全面的首切り合理化に直面します。しかし炭労は産業別統一闘争を組む体制は崩れていました。各支部は独自の闘いを展開せざるをえませんでした。
 三井の各鉱山においても人員削減が提案され、「余剰人員」 は希望すると、第二組合に忠誠を誓う条件付きで三池に送られてきました。

 炭鉱が閉山すると離職者は、各地に散っていきます。さらに政府は海外移住政策も推進されまし。三池闘争を闘った支援者も海を渡って行きます。しかし三池労組の組合員にはいません。
 演劇 『南回帰線にジャポネースの歌は弾ね』 は、三池闘争から33年後のブラジルでの元三池闘争の勇士たちの物語です。「人間死ぬことだけが、たった1つの平等たい」 と語り 『炭坑節』 を歌います。
 三池労組員でない彼らが、日本を思い出して歌を歌うとき、『炭鉱節』 を歌います。

 『三池炭坑殉職者名簿』 によると61年から63年10月までに47人が死亡しています。内訳は三池労組員が20人、三池新労が25人、下請け組夫が2人。三池労組は団体交渉を申し入れるが会社はきちんと対応しません。そして多くの 「黒い肺」 の塵肺患者が出ています。
 このような状況のなかで63年11月9日、三池炭鉱三川鉱で炭塵爆発事故が起き、458人の死亡者と839人のCO (一酸化炭素) 中毒患者が出します。犠牲者を組織別にみると、三池労組163名、新労242名、職員組合25名、組夫28名。爆発は保安を手抜きした結果起きた人災です。会社は組合分裂後は組合間格差を設けたりしたが決して新労に対しても優しくありません。死者の数からもそうだし、事故への補償においてもそうです。

 事故後、三池労組は遺族とCO中毒患者の補償に取り組みます。しかし事故の原因追及のために告訴をしたが民事訴訟の方針は当初採りませんでした。
 三池労組の闘いはCO中毒患者への補償を要求するCO特別法の制定に移っていきます。

 三池の炭じん爆発事故における会社の責任は、刑事事件では不起訴になりました。
「裏で巨大な力が動いていた。
 まさに国と企業と学会と司法ぐるみの隠蔽でした。
 松尾さんたちCO中毒患者家族会は、不起訴が決まった後、その理由を聞くために福岡地方検察庁におしかけました。次席検事が言いました。
 『労働者1人が会社に対いて行う貢献度よりも、三井鉱山が社会に対して行う貢献度の方が大きいと判断。その貢献度を起訴して潰してしまうことは大きな損失と判断して、不起訴と決定した』」

 水俣で闘っている人たちの支援を受けて組合員が民事訴訟を起こします。その後の73年、三池労組は遺族を含めて集団訴訟を起こします。裁判は、一部の方は継続したが87年に和解となりました。

 この後も三池労組はCO患者の闘い、「黒い肺」 の闘い、そして地域的な運動の中心を担って闘い続けます。
 2005年4月18日、三井三池労働組合の解散式、組合旗を天に返すという儀式の組合旗を燃やす 「返魂式」 が執り行われました。


 本 『むかし原発 いま炭鉱 炭都 [三池] から日本を掘る』 で著者の熊谷博子さんは、福島原発事故と三井・三池の1963年に発生した炭塵爆発事故は似ているといいます。さらに三池鉱山と水俣病の原因を認めなかったチッソの姿勢はそっくりだといいます。そこには 「産 (使)」 ・ 「官 (政)」 ・ 「学 (者)」 の構造に加えて 「労」 の 「産」 防衛という強固な協力があると指摘します。

 最近出た本 『さまよえる町』 で著者の三山喬さん福島県大熊町に住んでいた東電に関係しない住民の発言を紹介しています。
「三笠とか夕張の炭鉱が閉山して、企業城下町が衰退していくのを目の当たりにしましたから。原発も寿命が来たら廃炉になるでしょう。だから大熊もいつかそうなるかもしれないと、という不安があったんです。まさかこんないっぺんに全滅するようなことが起きるとは、想像もしなかったんですけどね」
 
 会社も政府も、労働者と企業を簡単に切り捨てます。
 今後同じことを繰り返させないためにも、政府と東電には現在山積みなっている福島原発の責任をきちんと取らせる闘いが必要です。それが現在における三池闘争の教訓です。
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共同体は無限の潜在的力をもっている
2014/11/26(Wed)
 11月26日 (水)

 11月22日夜10時過ぎ、テレビは地震警戒情報を発信しました。立ち上がったことは覚えていますがその後どうしたかは記憶がありません。
 しかし東京では揺れをまったく感じませんでした。
 震源地は長野県北部で最大震度6弱を観測し、白馬村などで被害がでています。その後の情報でも、重症者も出ていますが死者は出ていません。そして日頃から地域での助け合いの体制が確立していたことが被害を小さくしたとマスコミ等で報道されました。

 毎日新聞の11月26日付の社説は 「長野北部地震 助け合いの精神生きた」 と報じました。
「最大震度6弱の地震が22日夜、長野県北部を襲った。白馬村などで多数の住宅がつぶれ、40人を超える重軽傷者が出たが幸いにも死者や行方不明者はいなかった。同村内の一部地域は、突き上げられるような激しい揺れがあった。
人的犠牲を免れたのは、住民が団結しての救出が繰り広げられたからだ。深夜だったが、重機やチェーンソーなどを使い周辺住民が声を掛け合って建物の下敷きになった人たちの救出に当たり、高齢者や幼児が助け出された。救出が遅れれば、命に直結した可能性もあるだろう。
 災害時、警察や消防などの公助は重要だが、すぐ到着するとは限らない。地域による共助は減災の大きなかぎだ。住民は今回、その大切さをまさに行動で示したといえる。共助が機能したのは、日ごろの備えがあったからだ。中越地震をきっかけに、長野県は独自事業として災害時住民支え合いマップ (地図) の作製を市町村に働きかけてきた。災害時の避難に手助けが必要な高齢者ら要援護者の住まいなどの情報を地図上に書き込み、それを地域住民で共有し、誰が支援するかを含めて事前に準備する試みだ。……
 近隣住民によるきめ細かい支援計画や日常的な訓練により、いざという時に、今回の長野のように迅速な救出が行われることを目指したい。」


 長野県白馬村に似た助け合いの話を、1995年の阪神淡路大震災の時にも聞きました。
 阪神淡路大震災で、部落解放同盟の同盟員は180人以上が犠牲になりました。しかし宝塚市の被差別部落では地震発生の1時間後に班編成が行われて救出活動が開始され、その結果犠牲者はでませんでした。日常的な組織力が被害をより小さく防いだといいます。(部落解放同盟の機関紙 『解放新聞』 より 切り抜き記事は捨ててしまったので記憶です)


 地域の共同体は、為政者か異端者を出さないためにお互いを監視し合う組織として上から作った歴史があります。日本にはそれを許す土壌があります。今、あちこちに取り付けられている監視カメラもその変形でしょうか。
 しかしそうであったとしても、そこに存在する人たちは、それを自分たちで互助組織に作り変えて機能させている場合もあります。
 昔から結、講などが作られていました。

 鉱山や炭坑には古くから職親について一定期間就業し、一定の技能をもつと認定された手掘り坑夫の職能集団組織として 「友子同盟」 がありました。坑夫たちが、労災である「けい肺」、いわゆる「よろけ」になった親方やその家族、仲間の面倒を見、葬式、墓石の建立などもおこなう共済制度でもありました。
 足尾には、旧古河鉱業の精錬所と渡良瀬川をはさんだ山のふもとの龍蔵寺に友子が建てたお墓が残っています。その近くに説明板が立てられています。何度か書き変えられていますが、お寺が立てた古いのを紹介します。
「……毎日馴れぬ坑内で恐ろしくて泣きながら働いた。新しく坑夫になるためには、親分を決め、自分は子分として、親分、子分の盃を取りかわす。これを取り立て式といい、こうして友子組合に加入したのである。親分の下で、自分は新大工として3年3月10日の間坑内作業や友子つき合い (交際) など修業見習期間ののち1人前の坑夫と認められる。友子制度 (友子組合) には全国的なひろがりをもつ坑夫の相互共済の機能があり、現代の共済組合的要素を持っている家族的結び付きであり、戦前 (昭和20年以前)、友子組合の果した役割は大きい。坑夫がいったん病気、負傷などになると、米あるいは金銭による適当な救済が講ぜられ、さらに死亡した場合は墓石の建立、供養・遺族の世話をするなど行きとどいた救いの手が差し伸べられた。また一生治ゆの見込みのない 「けい肺病 (俗にヨロケといわれた。)」 などになった者は奉願帳を持って、全国の鉱山を渡り歩き、一宿一飯の仁義と金銭の救済を受けることが出来た。……」

 近代になり、労働争議が発生すると企業は懐柔のための福利政策として購買組合や共済制度を発足させたりします。
 共同体は歴史的にもさまざま存在し、評価もさまざまです。


 このような使い勝手のある組織を為政者が見過ごすはずがありません。その一端を見てみます。
 第二次世界大戦において、日本は当初から資源や食糧が不足していました。その確保を中国と東南アジアに求めていくなかで泥沼に陥っていきます。
「中国との戦争の初期の段階で、中央政府の官吏は、やがて資源が不足して配給制度が必要となるであろうという見通しをもちました。だがそのお配給制度は、これまで日本では試みられたことがないので、突然に設立するというわけにはいきません。そのためには何らかの教育機関が必要で、それらを通して市民が、配給に馴染んでいくということが望ましいと考えられました。」
 1938年東京市役所の区政課長をしていた谷川昇は、徳川時代の近所付き合いの5人組を復活させて、隣組という新しい名前を与えることを思いつきます。東京市長はこの案を受け入れて、5月19日の東京市の布告に乗せました。
「このとき谷川課長は、徳川時代の5人組という制度だけからではなく、幕末の二宮尊徳の構想した近所の互助組織からも示唆を得ています。ただし、この自発的な相互互助という側面は、谷川課長の意図にはあったとしても、1938年から1947年にかけての隣組制度の歴史においては、実現されませんでした。1947年までというのは、この制度が、占領時代の政府の指令によって廃止されたからです。隣組は、政府によって定められた政策を民衆生活のところまで下げていくというための道具として用いられました。……この組織は、すぐに中央政府高等官僚と陸軍軍人に乗っ取られて、これらの役人と軍人が市民の日常生活を細部に至るまで監督しそれに干渉する機関となりました。」 (鶴見俊輔著 『戦時期に本の精神史 1931-1945年』 岩波書店)
 隣組は工場の中にも組織され浸透していきます。
 そしてそのような職場の中から戦後の労働組合は結成されていきます。多くの労働組合が労使協調路線をとったのは必然です。


 戦時中の隣組の経験を労働者の団結強化に活用したのが 「ぐるみ闘争」 です。
 朝鮮戦争を通じて、大企業を中心に設備の更新、技術の更新化が進められ、人員整理、賃金ストップが強行されます。52年末頃から不況の影響をうけて設備の近代化が比較的進んだ鉄鋼、石炭などの産業を中心に中小企業の倒産や大企業への系列化が進行し、大量人員整理を行う工場が続出します。
 これに対して総評をはじめとする労働組合は、企業別組合の弱点を補うために 「家族ぐるみ・街ぐるみ」 の地域闘争を展開します。
 52年9月11日・12日、各地の炭鉱労働者の主婦77.000人が結集して 「炭婦協」 (日本炭鉱主婦協議会) の結成大会を開催します。大会は 「炭労の要求賃金獲得のためには、炭労と緊密な連携のもとに最後までがんばる」 を決議します。

 53年8月7日、三鉱連 (全国三井炭鉱労働組合連合会) は三井鉱山の合理化要綱発表に対して 「請負給制度の撤廃」 「保安法の完全実施」 「人員の充足」 の3目標を掲げ、山元での自主的な闘い、炭婦協と連携して職場、地域から大衆闘争を盛り上げ、その力をバックにして中央闘争を強化する戦術を立てました。
 そのための組織作りとして、職場には、組合員10人ないし15人ごとに班が設けられ、班の代表者で職場闘争委員会が構成され、班と職場闘争委員会とは、情報の連絡、闘争に関する討論をおこなうと同時に、組合の統制を乱さない範囲で自主的に闘うものとされました。また、社宅地区には、約100世帯余りの町内ごとに地域闘争委員会、10世帯から15世帯ごとに班が設けられました。
 最終的には113日の闘いを経て、三鉱連は 「退職希望者」 「退職勧奨に応じた者」 以外の退職拒否者1841人の解雇者の復職を勝ち取りました。いわゆる 「英雄なき113日の闘い」 「幹部闘争から大衆闘争」 と呼ばれる闘いです。

 54年前半の尼鋼争議では、地元の労働組合や商店をはじめとする各階層の地域共闘が発展しました。しかし系列化が進むと圧力に抗しきれずに、会社の倒産、全員解雇の攻撃がかけられていきます。
 54年後半の日鋼室蘭争議では、900人の解雇攻撃に対して193日間にわたって労働者と主婦会、青年行動隊、地域共闘組織が一体となって 「家族ぐるみ・街ぐるみ」 闘われました。しかし第二組合が発生するなどのなかで、中労委の斡旋を呑み150人の撤回で収束せざるを得ませんでした。


 1960年の三池闘争の敗北で 「生産疎外者」 とよばれた多くの組合指導部が職場から追放された中で、職場の闘いは困難を極めました。
 10月28日中労委は斡旋案により調印した協定の中の 「山元提案事項に関する協定書」 は、いわゆる 「現場協議制」 の団交を実質的に廃止させました。「英雄なき113日」 の闘い以来の職場闘争の諸権利は解体されていきます。
 三池闘争が終了すると年末から翌年3月にかけて全国の炭坑で合理化提案がおこなわれます。
 会社の攻撃に対して三池労組は、61年はじめから組合脱退を防止するための仲間つくりとして、各支部ごとに 「5人組制度」 をつくって抵抗をはじめます。組合員だけでなく家族をまじえた人間関係で対応するという制度です。「5人組制度」 はそのあとさらに 「小さな団結と抵抗の基礎」 と位置付けられ、反合理化の職場抵抗の基本にすえられました。

 三池労組は論議のなかで、「組合の姿勢を変えて、会社の攻撃がゆるむのを期待し、その間、組織を温存することに当面の重点をおくべきだとする 『平和路線』」 (三池労組編 『みいけ炭坑労働組合』) を克服し、「資本の本質を明確にした会社の階級的攻撃は、三池労組の体質改善を図って第二組合と同じ体質をもつまでは次から次へと攻撃をかけてくると考えるべきであって、攻撃を一時的に柔げると考えるのは甘い。現場での実際の攻撃がそのことをはっきりと示しており、全面的に反撃できなくとも一歩でも二歩でも山元のねばりづよい抵抗で闘う以外には、組織の防衛だってできはしない。」 (三池労組編 『みいけ炭坑労働組合』) という認識にいたります。
 1962年の三池労組定期大会で長期抵抗闘争の方針は確立されます。その行動方針は、「要約すると、差別は資本主義が存在する限り存続するし、三池の今日の差別は、資本主義的合理化の一形態にほかならないということである。とすれば、差別に対しては、姿勢を低くして抵抗を放棄するのではなく、合理化攻撃そのものに抵抗する以外に道はないことは明らかであり、差別されて困るという組合員の意識がある限り差別攻撃はなくならないという点を組合員に意識させることの必要性が強調された。そして、資本の体制的合理化に対決する反合理化の闘いは長期展望をもった抵抗、長期抵抗路線しかないことが確認されたのであった。」 (三池労組編 『みいけ炭坑労働組合』)
 そしてこの反合理化長期抵抗路線のなかから 「主体性の強化」 をかちとることが目標とされます。「主体性の強化とは、反独占の立場にたった思想を確立していくことによって、団結をうち固めていくことをさす」 のだといいます。
 しかしこの時の 「5人組制度」 は切り崩しにあわないための監視の組織となっていました。「主体性の強化」 のためには学習会が頻繁に開催されます。反撃に転ずる条件としての大衆の信頼が指導部に集中しているかどうかは上位下達の組織作りで、組合員の独自の行動は団結を乱すものとして許されません。内部固めに集中する組合の姿勢は強がりのポーズを鼓舞しているようにしか映りません。
 このような中で三池労組から第二組合への切り崩しが進み、保安がおろそかになる中で63年11月9日、三池炭鉱三川鉱で炭塵爆発事故が起き、458人の死亡者と839人のCO (一酸化炭素) 中毒患者を出してしまいます。

 この後に労働現場で共同体が強制されたのはQC運動における班編成です。
 最初は共同作業で楽しいものでしたが、後にはノルマの強制と監視組織に変わって行きました。


 横の繋がり、共助・互助はそれぞれが主体的に必要性を実感・確認しなければ監視機関になってしまいます。労働組合においてもそうでした。
 現在では、核家族化が進んでいるなかで、地域の人たちが行政に代って自主的に監視、互助組織を作って信頼関係に基づく福祉政策を進めている場合もあります。そこでは監視組織は飢餓防止を含めてマイナスに働くのではなく、プラスに働きます。個が独立して存在するヨーロッパでの教会の地位・役割を東洋では地域共同体が果たしてきました。
 東洋における福祉政策は国との契約だけではなく、地域共同体にもありました。日本で最初に政策の中に福祉の必要性を提起したのは内務官僚だった柳田國男です。

 共同体・横の繋がりは無限の潜在的力を秘めています。
 共同体・コミュニティは、安心した生活を続けるためには不可欠のものです。自分たちの創意工夫で活用・運用して強化を図っていくと無限の可能性が登場します。


    関連:「活動報告」 2014.10.7
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