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三池闘争・三池炭鉱を語るとき
2017/10/20(Fri)
 10月20日 (金)

 10月7日・8日と、福岡市で第29回コミュニティ・ユニオン全国交流集会が開催されました。福岡へは飛行機を利用しましたが、遠路ですので料金は高額です。それ以上にホテル料金が高く、さらに簡単に探せませんでした。
 しかしせっかくなのでともう一泊し、三井三池炭鉱の遺跡を10人で巡りしました。

    紅葉燃 (も) ゆ  石見銀山  処刑場

 10月12日のテレビ・ 「プレバト」で、特待生の東国原英夫が詠みました。
 石見銀山はユネスコ世界遺産になっていますが、過重労働の中で逃亡しようとした坑夫が捕らえられたり、銀を盗んで処刑された場所は除かれているといいたかったとのことでした。マイナスイメージを与えるからだそうです。
 夏井先生のコメントは、直すところはありませんでした。

 三井三池炭鉱の遺跡のなかにもマイナスイメージを与えると判断されるものは観光案内地図からも消えていたりします。
 コースを決めていましたが予定は未定です。

 三井三池争議は1959年から始まります。当時、三井鉱山の従業員数は約4万人です。鉱山全体で4580人の希望退職募集がおこなわれます。三池では従業員数1万6千人でしたが誰も応じません。1278名が指名解雇され、人員整理反対のストライキ闘争が開始されます。
 3月17日、三池労組は分裂し、第二組合が結成されます。

 三川坑跡に行きました。ホッパー (石炭貯蔵槽) 決戦が闘われたところです。
 少し前までは、空き地にされて塀におおわれ、中に入ることができませんでした。
 しかし、万田坑がユネスコ世界遺産になると他の遺跡も保存が進んでいます。三川坑跡は、現在は土・日・祭日には、かつての正門が開けられ、ガイドの方が待機しています。

 かつては施設工として働いていた三池労組員だった方がガイドをしてくれました。
 ホッパー決戦の時は全国から10万人が集まり、石炭の搬出を阻止しました。その時の写真のコピーを示しながらの説明です。集会の壇上には総評の旗が掲げられています。白黒の写真ですが総評の旗だけは赤く塗られてガイドの方の思いが込められています。1人がそのことを指摘すると、案内人のボルテージが上がりました。

 闘争の集会の最中、三池製作所の組合員であった作曲家の荒木栄は作りがけの歌 『ガンバロー』 を披露し評価をあおぎました。最初の歌詞は 「くろがねの男のこぶしがある 燃え上がる男のこぶしがある」 でした。聞いた組合員が 「女もがんばっている」 というと次の時には 「燃え上がる女のこぶしがある」 に変えられていました。(作詞は森田ヤエ子です)

 闘争敗北後、事故が続発します。
 62年8月28日、四山坑で死者1人、重症8人、軽傷2人。29日1人死亡。30日3人負傷。9月、死亡1人、重症147人、軽傷154人。10月、死亡4人、重症144人、軽傷185人。
 「三池炭坑殉職者名簿」 によると61年から63年10月までに47人が亡くなりました。内訳は三池労組員が20人、三池新労が25人、下請組夫が2人です。新労の方が保安に意見をいえない状況がありました。下請組夫の採用は62年から始まります。
 このような状況のなかで63年11月9日、三川坑で炭塵爆発事故が発生、458人が亡くなり、839人が一酸化炭素 (CO) 中毒患者となります。内訳は、三池労組163名、新労242名、職員組合25名、組夫28名です。
 さらに67年9月28日、三川坑で炭塵爆発事故があり、7人の死者と数百人のガス中毒患者となります。
 三川坑の入り口まで行くことができました。事故の時は地響きの後、ここから黒煙が高く吹きあげました。
 そのほかの施設も見学でき、説明を聞いていたら、ここだけで1時間半も要しました。


 大牟田市に隣接する熊本県荒尾市の成田神社に建つ久保清殉難の碑・三池炭鉱災害犠牲者の碑を訪れました。
 60年3月28日、闘争中に会社は生産を強行再開します。その翌日、三池労組の組合員久保清さんが四山鉱正門前で他の組合員とピケを張っていた時、三井鉱山の下請土建会社の人夫をしていた暴力団から刺殺されます。
 その時のことを書いている三池労組発行 『みいけ二十年』 です。
「山代、寺内組 (大牟田、荒尾一帯をナワ張りとする・・・。彼らはふだんは三井鉱山の下請土建会社である三井建設・・・などで人夫をして働いていた) ……暴力団は 『お前の顔は覚えたぞ』 『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』 などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた」
 久保さんを殺したのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者で、ストで仕事からあぶれていた人夫でした。彼らは三池の労働組合の側に組織されることなく、会社に雇われたのでした。
 三池労組は本工主義で、関連会社の労働者に思いをはせることはありませんでした。
 闘争敗北後、解雇された三池労組員はあっせんを受けながら再就職をしていきます。関連会社の労働者のなかにはブラジルなどの中南米に移民した者もいます。棄民です。しかし三池労組員ではなかった彼らはお盆などには懐かしんで 「炭坑節」 を踊ります。

 60年9月8日に三池労組が闘争終結のためのあっせん案を受け入れた後、組合員にその報告をするビラが配布されました。そこに詩が載っていました。

  やがて来る日に
  歴史が正しく書かれる
  やがて来る日に
  私たちは正しい道を
  進んだといわれよう
  私たちは正しく生きたといわれよう

  私たちの肩は労働でよじれ
  指は貧乏で節くれだっていたが
  そのまなざしは
  まっすぐで美しかったといわれよう
  まっすぐに
  美しい未来をゆるぎなく
  みつめていたといわれよう
  はたらく者のその未来のために
  正しく生きたといわれよう

  日本のはたらく者が怒りにもえ
  たくさんの血が
  三池に流されたのだといわれよう

 かつて、久保さんのお墓は四山坑の近くの山の上にありました。お墓の隣に、この詩を刻んだ碑が建てられていました。三池炭鉱が閉山になると現在地に移設されました。今も墓と並んで碑が建てられています。
 そして、三池炭鉱災害犠牲者の碑が建っています。三池炭鉱で亡くなられた労働者を追悼するもので、かつては三池労組の会館の屋上にありましたが、労組が解散した後は久保さんのお墓の隣に移されました。
 会館は、CO患者の闘い、「黒い肺」 の闘い、そして地域的な運動の拠点でした。


 三池監獄があった三池工業高校の構内に入りました。三池工高は、今も一部がかつての三池監獄のレンガの塀に囲まれています。囚人が朝晩数珠うつなぎにされて出入りした扉も残っています。
 日本で “よろけ” の問題が登場する最古の文献は天保時代の佐渡鉱山を取り上げたものだと思われます。塵肺の問題は明治初期から指摘されていました。
 明治初期、三池炭鉱、幌内炭鉱、別子銅山、横須賀造船所などで囚人を労働力として酷使していました。
 三池炭鉱では明治19年から10年間に700人近くが亡くなっています。事故死以外は呼吸器疾患が多いという統計があります。
熊本医学校 (現熊本大学医学部) は熊本監獄の病囚の遺体を研究材料に利用していました (三池監獄は熊本監獄の支所)。データからは三池炭鉱に労働力として送られた5人の坑夫うち4人までが 「病囚の肺患は真の肺労 (肺結核) にあらずして単に炭粉刺激に原由する慢性肺炎即ちアントラコージス (所謂坑夫肺労) なると判然たり」 (沢田猛著 『黒い肺』) ことがわかっています。
 囚人労働は1930年まで続きます。


 一ノ浦囚人墓地を訪れました。
 大きな墓地の端に高いものでも40センチ位、縦横15センチ位の石に番号だけが掘られた墓が40数基地面に並んでいます。囚人墓地だといわれていますが異説もあります。保存会の人たちが管理しています。
 本当はどのような人たちの墓かはわからなくても、名前ではなく番号が彫られているということ自体異常です。
 では囚人は亡くなったらどのように処理されていたのでしょうか。
 もうひとつ囚人墓地があります。そこでは井戸に放り投げて蓋をしていました。井戸は今も残っています。


 残念ながらここで空港に向かわなければならなくなりました。

 ほかの人たちは世界遺産になった万田坑に行きました。
 四山坑などは影も形もなくなっていますが当時の建物も専用鉄道敷とともに保存されています。
 明治時代からの炭坑ですが関連施設も含めて残っています。ガイド付きの見学も可能です。
 米騒動のときは大騒動が起き、処遇改善をかち取っています。


 これ以外の、当初予定していた遺跡です。
 大牟田市の甘木公園に徴用犠牲者慰霊碑が、戦後50をむかえた95年に建立されました。
 41年2月、三池では最初に万田坑に朝鮮人労働者の強制連行が初めて行われました。43年9月に宮浦坑に1666人が連行されました。
 43年に新港朝鮮人収容所と宮山朝鮮人収容所、44年に四ツ山朝鮮人収容所と馬渡朝鮮人収容所、45年に西浜田朝鮮人収容所が開設されました。馬渡社宅には140人が収容されていました。
 馬渡社宅の解体作業の最中に、押入れ壁に書かれたハングルの墨書が発見されました。その壁の様子が碑になって慰霊碑の隣に建てられています。

 強制連行された数は、調査資料ごとに差があります。
 福岡県特別高等課調査に基づく45年1月末現在の 「労務動員計画に依る移入半島人労務者に関する調査表」 (県庁文書) によると、連行朝鮮人の数について、三井三池炭鉱 移入者数2376、逃走者数743、死亡15、電気化学工業大牟田工場移入者数572、逃走者数234、死亡1とあります。
 新藤東洋男著のパンフレット 『太平洋戦争下における三井鉱山と中国・朝鮮人労働者 -その強制連行と奴隷労働-』 (人権民族問題研究会) では、45年8月現在の三池炭鉱の 「外国人労働者」 の数は、朝鮮人2297人、中国人2348人、俘虜1409人とあります。
 数年前、アメリカ人俘虜だったかたが来日した時、当時の話を聞くことができました。


 交流集会の夜の懇親会では最後にみんなで 「炭坑節」 を踊りました。
 「炭坑節」 のルーツは明治末期の筑豊・田川の三井 「伊田の炭鉱」 が新たに発掘された時の希望の歌だといわれています。ですから元歌の歌詞は 「伊田の炭鉱」、「三井田川坑」 です。
 終戦によって 「勤労報国隊」 が引き揚げ、強制連行された朝鮮人・中国人、そして俘虜などが解放されると炭鉱の労働力は激減します。GHQ (連合軍総司令部) と政府は、エネルギーの供給がなければ、経済再建と活性化はないと電力、鉄道、鉄鋼そしてGHQ用の暖房のため石炭の増産政策を打ち出し、ラジオや新聞などでの石炭増産のキャンペーンを奨励します。そのテーマソングのひとつが歌詞を変えて編曲された 「炭鉱節」 で全国に流されました。おそらく戦後最初に広く歌われた労働歌です。

 このほかに、関係個所に行くことはできませんでしたが、三池炭鉱を語る時、与論島から移住してきた労働者を抜きにはできません。
 三井鉱山は、与論島出身の労働者を 「ヨーロン」 と呼んで差別し、酷使しました。三池闘争は 「ヨーロン」 にとっては労働組合の力強さを知るとともに自分たち 「ヨロンチュー」 の 「人権を回復」 する闘いでもありました。ですから三井鉱山は、三池労組を分裂させたとき、与論島出身者は最後まで残るだろうと判断していました。
 大牟田市では毎年8月に大蛇山祭りが開催され 「炭坑節一万人総踊り」 がおこなわれます。この踊りに 「ヨロンチュー」 は2008年に初めて参加しました。「ヨロンチュー」 が 『炭坑節』 を歌っておどります。三池労組組合員としてではなく大牟田市民としての登場です。先祖が与論島から三池に移住を始めてからちょうど100年目にです。

   「活動報告」 2016.9.6
   「活動報告」 2015.3.6
   「活動報告」 2011.10.7
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“人々は対等であるべきで、その実現を目指す過程に幸せがある”
2016/09/06(Tue)
 9月6日 (火)

 農中茂徳の小説 『三池炭鉱宮原社宅の少年』 (石風社) が新聞で紹介されていました。タイトルにひかれて購読しました。
 1946年生まれの作者の自伝です。子どもの頃から上京しての学生生活までが描かれています。60年の三池闘争は14歳、中学3年の時です。
 作者に近い世代ならば懐かしく思い出される時代背景がたくさん登場します。炭鉱住宅という共同体の子ども目線での捉え方は人びとの関係性を豊富化させます。また読者として、描かれている状況を客観的に眺めるとあらためていろいろな捉え方ができて面白いです。

 三池炭坑がある大牟田は三井鉱山の城下町で、炭鉱社宅は会社の福利厚生施設です。
 宮原社宅は、コンクリートの高いブロック塀で囲まれた、巨人の原前監督の父親が野球部の監督をつとめた三池工業高校の東と南側にとなりあっていました。三池工業高は、かつては 「三池集治監」 でした。西側には収容されていた囚徒が宮浦坑や勝立坑、宮原坑で使役される時に出入りしたといわれる門も残っています。

「宮原社宅の中心部には会社の管理事務所があって、入転居の手続きをはじめ、畳替えや煙突掃除、野犬の駆除、家屋の一斉消毒などの世話を行なっていた。家に客があって泊まる場合には、共同風呂の入浴券をここでもらっていた。……
 家庭燃料として使うガラ (コークスのこと) や豆炭、練炭は会社からの配給だった。……
 当時は、『米穀通帳』 というのが一世帯に一冊あった。いわゆる 『食管法』 によって米の配給はきびしく統制されていたが、炭鉱には米の特別配給が行なわれていた。配給をすりぬけて出回る米を 『闇米』 といった。『米穀通帳』 に関係した手続きも、社宅事務所で行なわれていた。社宅の住民の人生全般の把握がここで行なわれていたと言っても過言ではない。」
 かつて職人などは 「怪我と弁当は自分もち」 というようなことが言われましたが、別の意味で炭鉱住宅での生活はそれ以外はほとんど会社が保障してくれました。このような中から 「企業内組合」 三池労組の強化や主婦会を合わせた ”ぐるみ闘争” が発展していきます。

 炭鉱社宅の風呂は共同風呂です。終戦からしばらく水道は共同でした。
「共同風呂の中は、いつも誰かの大きく明るい声が響きわたっていた。しょぼくれた気分で入っても、履物を下駄箱に置いて服を脱ぎ始めるころには、その会話が耳に入るようになる。頭の中に堂々めぐりの物語があったとしても、勝手気ままな会話によって、たちまちのうちにふだんの自分に戻る、おとなたちの抜けたような笑い顔や、気持ちよさそうに目を閉じた顔からは、再生の力が伝わってくる。いつのまにか自分の中にも、力が湧いてくるのだ。」
 社宅の講堂では映画会も開かれました。映画会の案内には三池労組の宣伝カーが回ったりしました。

「だがこうした光景も、昭和34年頃から見られなくなった。講堂での映画会が上映されなくなったのである。三井鉱山の福利厚生の方針や三池労組との関係が大きく変化していたからだと思われる」
 社宅の空気にも亀裂が入り始めます。
「新学期が始まって私は中学2年生になっていた。ストライキとロックアウトの対立はいっそう激しくなり、新聞や映画ニュースは、組合の分裂騒ぎを大きく報じるようになった。毎日通う共同風呂のなかの空気も変化した。それまでの穏やかさや安らぎが消え、ちょっとしたことで言い争いが始まり、喧嘩に発展するようになっていた、
 私も湯壺の中で、いきなり後ろから頭を叩かれるという出来事を体験した。振り返ると、ふだんはおとなしい顔見知りのオダさんが顔を赤くして立っていた。
『(第二組合への) いやがらせか!』
 と怒鳴られた。
 私は手ですくった湯を肩にかけながら、夢中で野球の話をしているところだった。ところが、その湯が、たまたま後ろにいたオダさんにかかってしまったらしい。オダさんは、三池労組を脱退したばかりだった。すぐに叩かれた事情を理解した。自分の不注意だとわかったので、謝ろうとした。しかし私の申し開きより早く、そばにいた年上のモッちゃんの鉄拳がとんだ。モッちゃんなりに私をかばってくれたのだ。
『わざとしたんじゃないとに、くらせんでもよかやったか。こん裏切りもんが!』
 モッちゃんが怒鳴った。そして、湯壺からでたオダさんを洗面器で叩き罵倒した。
 オダさんも負けてはいなかった。
『何が裏切りもんか。おまえたちに、何がわかるとか!』
 幸い、組合の役員をしているタミヤさんが割って入り、おさめてくれた。」

「ストライキへの評価をめぐり商店街も二分した。街に夏がやって来たが、不穏な空気はさらに色濃くなっていた。そうした状況への配慮からだろうか、伝統の 『炭都まつり』 が見送られた。……人々は分断された状況を受け入れつつ、結果としての不便を我慢しながら暮らしていた。
 その頃、学校では小さな出来事が、大きなもめ事に発展しやすくなっていた。『偏向教育』 という言葉が登場した。先生たちはかつての明るさやおおらかさを失い、言動は用心深くなってしまった。暮らしの中にまで分断が生じ、分断は沈黙と差別を生み、毎日がいっそう息苦しくなった。」

 しかし子どもたちはあえてちがう行動をします。
「組合のストライキが多くなり、『賃金カット』 という言葉を、暮らしのなかで頻繁に聞くようになった。組合は 『1万円生活』 を提唱し、そうした事情は子どもたちにも知らされた。
 それでも私たち子どもは元気だった。仲が良く、集団としてのまとまりは続いていた。また、そうあろうと努力していた。宮原社宅の少年野球チームだけは、一緒に続けられるようにと、組合の役員さんや組合を脱退した人の家を訪ね回って頼み込んだ。会費の話が出ると、自分たちの小遣いで何とかするからと、私はおとなたちを説得した。」

 それでも子どもなりの思いはあります。
「三池労組の方針の中に、家族にとって大事なことは 『家族会議』 を開いて話し合うというのがあった。ある日の夜、父がめずらしく 『ちょっと、よかかね』 とあらたまった。何か大切な話だと直感した。
『係り員にならんかね、と誘われた。会社からの肩たたきたい。退職金だけでも150万円くらい違うらしい。返事を待ってもらっとる。どげんしようか』
 父にもやはり 『肩たたき』 があったのだ。……
 穏やかな時代であれば、『どげんしようか』 の話ではない。『よろしく』 ですむ。しかし状況を考えれば、そう簡単ではないのだ。将来、いろんなことが予想される。様々なことを想定しなければならない。だからこそ父は、こうやって家族みんなに相談しているのだ。私はふだんから私なりに考えていた。そのことを正直に、はっきり言った。
『お父さんが係り員になって、給料が上がることは嬉しか。ばってんそれは、三池労組を出るということやろう。ストライキばやめて、会社の首切りはしよんなか、て言うことやろう。それは、いやばい。考えられん。これから先、どげんか生き方ばしたらいいか、わからんごつなる。ぼくもこれからもっとがんばる。だけん今まで通り三池労組におってほしか』
 父は、穏やかな表情で聞いてくれていた。キヨヱさん (母) は、主婦会で一緒にがんばっている人たちの話を添えながら、今のままの暮らしでいくことの方がいいと言った。
 『そのほうがよかごたるね。返事ばしとくたい』 と父が言った。」


「宮原社宅での暮らしの中では、『外 (がい)』 という言葉が日常的に使われていた。遊びの中で、食事をしている時に、通学の途中で、共同風呂の中で。私も何の疑問ももたず普通に使っていた。社宅を囲んでいるブロック塀の外側の地域を総称して 『外』 と呼び、そこに住んでいる人々のことを 『外の人』 と呼んでいた。そこに排除の論理が潜んでいることも気づかずに。」
 しかし 「内 (ない)」 「内 (うち)」 といういい方はなかったといいます。
 このことに社宅を離れて暮らすようになって気づきます。
 大学を卒業する頃、演劇部の先輩から別の大学の演劇部の2歳年上の女性を紹介されます。会話を交わすと田舎が同じどころか住所の番地まで同じでした。しかし社宅の棟の番号がありません。社宅といっても職員住宅でした。
 同じ社宅内でも職員住宅に住んでいる者たちは敷地を通らないで 「外」 にでられるようになっています。そして社宅の子どもたちとは、通う小学校、中学校そして進学する高校が公立であっても線引きされていました。職員住宅に住む職員は、転勤も多く、いずれ戻るのだから大牟田の文化と言葉に染まらないですむような学校に通わせたいという要望を行政が受け入れ分校を開設しました。高校も、実業高校や進学コースを併存する高校と、前身が旧制中学の進学校とに分かれます。

 同じ敷地内での顔を合わせる機会がなかったのは、社宅と職員住宅の構造の違いもあります。
 三池炭鉱史を研究している武松輝男さんの書いた新聞記事が紹介されています。
「三池炭鉱の社宅には違いがあり、雇用された身分によって六階級に分かれていた。
 四級 (係長) までは浴場を備えているが、五級 (係員) には付いていない。一般鉱員用が集団住宅と呼ばれる六級で、平屋と二階建てがあった」
 実は、30年ほど前に三池を訪れた時、武松さんにどこかの社宅を案内してもらったときに同じ説明を聞きました。四級以上の社宅には浴場を備えていますが、さらに級によって煙突の素材や太さが違います。四級はトタン、その上は焼き物です。
 社宅の敷地の中にも、「外」 があったのです。

「社宅の外側の地域を 『外』 と呼ぶ。『外』 という言葉は、際限なく 『外』 を作り出す。物理的には間違っていない表現なのだろう。しかし、暮らしの中では排他的で閉鎖的な意識を醸成する。宮原社宅で日常的に使われていた 『外』 という言葉。私たちは分断され閉鎖された状況を、当たり前のように受け入れながら育ってきていたのだ。『外』 といって内にこもる。疑問を抱くこともない。これでは、何も変わらない。『外』 という表現には、1つの世界観の選択が存在している。
 『外』 は線引きの言葉である。暮らしの場に線引きがなされ、そこに雇用と被雇用の関係が結ばれる。すると人々は、人の命の重みに対する価値観にまで、違いを感じるようになる。そのことは、炭鉱におけるこれまでの事故や事件が示している。」
 「『外』 といって内にこもる。疑問を抱くこともない。これでは、何も変わらない。『外』 という表現には、1つの世界観の選択が存在している。」 これが企業内組合三池労組の妥協を知らない強さともろさを形成しました。そして社宅 「内」 にも三池労組にとっては 第二組合という 「外」、またその逆を作り出しました
 「排他的で閉鎖的な意識」 は 「分断する」 側にも作用します。この認識が “人々は対等であるべきで、その実現を目指す過程に幸せがある” という人生観との出会いになります。
 作者は、三井鉱山で働かされていた、第二次大戦中に朝鮮半島から強制連行されてきた労働者に思いをはせます。明治31年、与論島から移住してきた人たちに思いを課せます。囚人労働を強制させられた人たちに思いをはせます。そして関係する慰霊碑などを探して回ります。


 15年3月6日の 「活動報告」 の再録です。
「60年3月28日に会社が生産を強行再開。その翌日、久保清さんが四山鉱正門前で組合員がピケを張っていた時、三井鉱山の下請土建会社の人夫をしていた暴力団から刺殺されます。
『山代、寺内組 (大牟田、荒尾一帯をナワ張りとする・・・。彼らはふだんは三井鉱山の下請土建会社である三井建設・・・などで人夫をして働いていた) ……暴力団は 『お前の顔は覚えたぞ』 『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』 などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた』 (三池労組発行 『みいけ二十年』)
 会社が雇った暴力団が、警察も黙認したテロで労働者を虐殺したことは絶対に許すことはできません。しかし三池労組員・久保さんを殺したのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者であり、ストで仕事からあぶれていた人夫であった事実があります。彼らは三池の労働組合に組織されることなく、会社に雇われたのです。」
 三池労組は 「外」 の関連会社の労働者に思いをはせることはありませんでした。


 作者は学生になってから坑夫であった作家の上野英信さんの 『日本没落期』 を読みます。その中の 「三池の子どもたち」 の章の冒頭に
 「1960年4月現在、日本の子どもたちのなかでもっとも幸福なのはたれか、と訊ねられれば、私は躊躇なく
 答えよう、それは三井三池労組の子どもたちである」
 とあります。
 作者はその意味を今も考え続けています。いくつかの回答にたどり着きます。
 その1つを、三池労組が中労委のあっせん案を受け入れたことを報告する9月20日のビラに載っていた 『やがて来る日に』 の詩を紹介しながら説明しています。

   やがて来る日に
   歴史が正しく書かれる
   やがて来る日に
   私たちは正しい道を
   進んだといわれよう
   私たちは正しく生きたと
   いわれよう

   私たちの肩は労働でよじれ
   指は貧乏で節くれだっていたが
   そのまなざしは
   まっすぐで美しかったといわれよう
   まっすぐに
   美しい未来をゆるぎなく
   みつめていたといわれよう
   はたらく者のその未来のために
   正しく生きたといわれよう

   日本のはたらく者が怒りにもえ
   たくさんの血が
   三池に流されたのだと
   いわれよう

 回答は
「正しいと思うことでも通らないときがある。そのことを実感せざるをえなくなってから、私は、自分で自分を支えることができる何かを求めていた。そして、掴んだものが 『おとなは学び続ける』 という考え方だった。」
 です。
 
 これ以上詳しく紹介すると本の売り上げの妨げになりますのでやめます。

 大学に進むため大牟田駅から急行 「桜島」 に乗ると29時間かかって東京に着いたといます。帰省して帰る時のお土産のちくわや蒲鉾は、列車の熱さでカビが生える時間でした。
 50年以上も過ぎてしまった三池闘争ですが、それを取り巻く人たちを探っていくとさまざまな新たな発見に出会います。

  「活動報告」 2015.3.6
  「活動報告」 2014.11.26
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「暴動ちゃあ、たいした力のあるもんばい」
2015/07/28(Tue)
 7月28日 (火)

 7月23日は、1918年に富山県魚津町で米騒動が起きた日と言われてきました。
 魚津町は北前船が寄港して栄えましたが、明治に入ってからは北海道や樺太への米の積み出しで栄えました。
 北海道への米の輸送船・伊吹丸が魚津町に寄港した時、米価高騰に苦しんでいた漁師の妻ら数十人が、米の積み出しを行っていた米倉庫前に集まり、県外移出中止と安売りを要求しましたが警官によって解散させられます。
 しかし最近は、7月に入ると魚津町の隣の水橋町ですでに 「女 (陸) 仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」 行動が始まっていたという歴史の発掘が行われています。女性たちの闘いはずっと続いていたのでした。
 富山の米騒動が新聞に報じられると米騒動は全国的に発展します。そして世論は、寺内正毅内閣の退陣を要求し、9月21日に辞表を提出します。
 寺内は第三代朝鮮統監であり、1910年の日韓併合の初代朝鮮総監でした。
 この報を聞いた朝鮮民衆はどれほど歓喜したでしょうか。朝鮮半島では翌年3月1日 「朝鮮独立宣言書」 が撒かれました。
 この頃は、労働者の都市部への流入に伴って農村の労働力は減少し、米の生産量は減少していました。7月以前から米価は高騰を続け、全国的に米が出回らなくなっていて、各地で自然発生的にもストライキが起きていました。

 そしてもう1つ、シベリア出兵が米価を高騰させているといううわさが流れました。
 第一次世界大戦最中の1917年に樹立したソビエト政権は単独でドイツ帝国と講和条約 (ブレスト・リトフスク条約) を結んで戦争から離脱します。その結果ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中して大攻勢をかけます。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図して、ロシア極東のウラジヴォストークに 「チェコ軍捕囚の救出」 を大義名分に出兵します。
 イギリス・フランスには余力がないなか、日本とアメリカに出兵を要請し、日本は8月2日に出兵を宣言します。
 そのことを当て込んだ米商人の思惑買い、売り惜しみが拍車をかけ、高騰していた米価に拍車がかかったといわれています。しかし当時の軍隊は食料を現地調達していて本土で備蓄することはなかったといいます。出兵で米の絶対量が不足するということは冷静に考えればありえないことです。
 商社の思惑はさておき、人びとにとって生活困窮における政府への不満は爆発しました。シベリア出兵・戦争は迷惑なものと受け止めました。


 人びとの戦争を通しての政府に対する思いのかい離は1904-05年の日露戦争から見られます。
 日露戦争は、民衆が納得しない状況の中で講和を締結し、日比谷暴動などを引き起こしました。 (15年1月23日の 「活動報告」 参照) しかし政府の指導者の判断は、国力・戦力が底をつかない、英米諸国の支持を失わないうちに素早く止めようということでした。その結果、西洋先進国に追いついたと説明します。そして朝鮮半島に本格的に侵略していきます。
 工業の発展による人口の流動は社会に地殻変動をもたらしていました。国家は人びとを上から統括する体制を作ろうとしますが、いろいろなところで抵抗、拒否に遭遇する状況が作り出されていました。その爆発が米騒動です。人びとは自分たちの埋もれていた力を発見します。
 その構造は 「内に立憲主義、外には帝国主義」 と言われた大正デモクラシーが終焉した後も国家から自立して存在しつづけます。

 例えば、東北地方では仏教系の民間信仰のもとで 「戦争は飢餓よりもひどいもの」 と伝承されていきます。
 第二次世界大戦においては仏教以外にもキリスト教などが抵抗を続けます。
 戦争に反対し続けたキリスト教宗派の「灯台社」には沢山の朝鮮人がいたといいます。
「戦争の初期に都市下層階級の中にあった厭戦感情は、日蓮宗の仏教運動のひとつの現れとして、牧口常三郎および戸田城聖の指導下にある創価学会を通して表現されました。また都市だけでなく農村の下層階級の反戦感情は、出口王仁三郎の指揮下にあった大本教という神道の宗教運動、御木徳近の指導下にあったひとのみちという神道系の宗教運動、大西愛治郎の指導下にあった天理本道というこれまた神道系の宗教運動にはけ口をもちました。これらの運動中から何人もの逮捕者が出て、獄中で死んだ人たちもおります。」 (鶴見俊輔著 『戦時期日本の精神史 1931-1945年』 岩波書店)
 牧口は戦時下に弾圧を受け、獄中で亡くなりました。


 戦争末期にはひとびとの我慢も限界をむかえていました。
 徴兵も学徒動員や年少兵の「志願」は枯渇状態に近づき、工場においても資源不足とともに労働者不足とともに労働意欲は減退していました。
「特高の報告する 『勤労学徒の動向』 によると、『一部には動員の長期化に伴う疲労感、学徒動員の性格的曖昧性、職場環境並びに学徒自身の時局認識欠如等に基因し、其の不平不満は暫次増こうし、各種紛争も相当発生』 しつつあった。1944年4月から12月までに50件、45年1月から5月までには27件の紛争議を生じた。後者の内訳をみると、集団的暴行を7件、罷怠業をともなうもの4件、集団的交渉をともなうもの4件、一斉引揚げをともなうもの2件、その他10件であった。
また、『勤労学徒の注意すべき思想動向』 として、『実に高学年学徒中には企業の私的正確に対する反発漸次増進しつつあり、加之学徒特有の学的思索と真理追求欲よりして其の態度極めて批判的且懐疑的となり、勤労意欲の希薄化、厭戦的敗戦的感情の萌芽を看取視せられた』 とある。」 (藤原彰編 『占領と民衆運動』 三省堂)

 戦意高揚のために精神科の医師が動員されて精神衛生管理を行います。
「それは主として飛行機や船舶や兵器などの製造工場でであった。戦力補充のため、おびただしい数の若い工員を、ほとんど無選択に徴用していたが、これらは全くの玉石混交で、多くの不良工員のために、職場の協調は乱される、不良製品は出る、無断欠勤などが多くて増産の効果はあがらぬという始末。
 困り果てた企業体は、精神医学の面での協力をわれられに依頼してきたのである。……
 研究は、企業に入り、優良工員の問題、問題工員の問題、災害頻発者の調査、神経症の問題、適性検査など多方面にわたった調査をおこなったが、その結果2つの点が特に印象的あった。……
 第2の点は、だれしも予想通り、不良工員の問題である。……
 そこで、われわれは、あれこれ試みた結果、まず、これらの者を正常工員の職場から離して、その職場の受ける妨害的作用を取り除き、次に、不良工員だけのグループを作って、特別の量で、特別の管理者のもとに、適当のリクレーションを交えた規則正しい生活をおこなわせるようにした。そして独立した工場で、彼らだけの作業に従事させるとともに、このグループの作業成績がすぐれているときには、適当に褒賞するようにしたのである。
 これらの措置は、すこぶる効果を上げたが、これは当然予測できることであった。」 (内村祐之著 『わが歩みし精神医学の道』)

「1942年後半からの労働情勢の悪化のなかで、労働者の事前発生的抵抗は急速に深化した。集団暴行事件と生産設備の破壊事件とが、戦時下特有の労働者の『抵抗』形態であった。集団暴行事件は官憲が把握したものだけでも、41年・3件、42年・17件、43年・19件、44年・39件、45年 (4月末まで) ・9件というように増加していた。『オシャカ闘争』 とよばれる生産設備の破壊事件は、42年11月に警視庁管内で萌芽的発生をみた後、43年・23件、44年・33件、45年 (3月末まで) ・5件と増加傾向にあった。」 (藤原彰編 『占領と民衆運動』 三省堂)
 これが 「聖戦」 の実態でした。
 広島、長崎への原爆投下がなくても、日本は戦争を継続する力量は残っていませんでした。しかし 「国体」 護持が最終目的になっていました。


 米騒動に戻ります。
 米騒動は、米騒動は炭鉱、鉱山などにも波及し、筑豊地方でも8月17日に峰地炭坑で始まり、三菱方城、貝島、三菱鯰田、古河目尾、日鉄二瀬、麻生上三緒炭坑へと広がりました。(13年5月17日の 「活動報告」 参照)
 三池です。
「三池炭鉱でも大正7年8月27日から9月8日にかけて、宮浦・宮原・大浦・万田坑などで坑夫たちが米騒動に立ち上がった。そのなかでも9月4日から8日にかけての万田暴動は、最大の規模をもったものであった。
 万田暴動のきっかけは会社側が発表した9月1日の坑夫の昇給問題であった。坑夫たちの昇給幅がすくないことに不満をもった。それだけでなく、選炭方法が厳重になったために石炭10貫にたいして約4割方の減少がみこまれた。それに、売勘場 (売店) の日用品価格を会社が引き上げたこともある。これらに不満をいだいた坑夫たちは『寄々(よりより)密議を凝しつつ』あったが、ついに4日夜の午後9時40分、丙組採炭夫500余人が甲組500余人と交替しようとするときをとらえて、両者相呼応して暴動に出たのである。……さらに1000余人の坑夫の女房たちも加わって……。これに驚愕した会社は軍隊・警察の出動を要請し、兵隊・警官は参加坑夫をピストルや銃剣で威嚇して鎮圧した。」 (中村政則著 『労働者と農民 ―日本近代をささえた人々-』 小学館)
 しかしその後の会社・係員の坑夫に対する対応はがらりと変わったといいます。当時、万田坑に働いていた坑夫は 「暴動ちゃあ、たいした力のあるもんばい、とつくづく思いました」 (山根房光 『みいけ炭坑夫』) と語ったといいます。

 炭坑夫たちはこのときの経験は1924年の三井傘下の三池製作所の労働者と万田坑の坑夫が中心となって、賃金値上げ、1934年3月に三井鉱山が労働者懐柔のために作った御用組合のような共愛組合の撤廃、公傷者に対する救済資金の増額支給などをかかげた争議で生かします。1、2か月におよぶ統制が取れ闘いで着実な成果をあげました。そして争議の目的を大牟田市民に訴えて、地域社会の商人や農民の支援を受けます
「争議は、けっきょく労働者の敗北に終わったが、それはけっして無駄に闘われたのではなかった。上村辰人が語るように、『争議ガアツテカラ坑内・坑外ノ機械設備ノ改良、従業員ノ福利施設等、一度ニ改善、実現サレ』 た。また、それまで採炭夫は 『良イ切羽ヘ回シテ貰フ為ニ役員宅ヘ賄賂ヲ持ツテ行クト言フ風ナ事ガ甚ダシカッタガ』、『之以来、今マデ係員ノ自由意志ニ任セテヰタ切羽選定ヲ抽選制度ニシテ』、従来、係員と坑夫とのあいだにあった 『情実関係ノ弊風ガ一掃』 された。」 (中村政則著 『労働者と農民 ―日本近代をささえた人々-』)
 この経験は、戦後の三池の闘いに引きつがれていきます。

 1919年9月、米騒動をきっかけに神戸・川崎造船所で争議がおきます。労働者はサボタージュ戦術をとり、労働時間8時間制を獲得します。労働時間は短縮されても賃金は変わりません。争議は9月27日解決に至ります。その結果出勤率が上がり、労働意欲が高まって生産性も向上したといいます。
 日本で最初の8時間労働の実現です。(12年4月27日の 「活動報告」 参照)

 1921年友愛会の日本労働総同盟への改称、翌年の日本農民組合の成立、全国水平社の結成など、既存の組織から脱皮した運動のもと新しい組織が作られていきます。

 世界的に見るなら、1918年のベルサイユ講和会議で国際連盟の創設がうたわれ、翌年1月25日には国際労働法制委員会の設置を決議し、6月28日、講和会議において労働者の代表を交えた労働問題に対応する国際労働機関 (ILO) が創設されます。
 また大戦後、民族自決の運動も高揚します。


 さて、時の権力に抵抗し、戦争に反対した創価学会の今日はどうでしょうか。時の権力の懐にどっぷりつかり、謳歌しています。戦争法案に賛成することに良心は痛まず、恥じらいがありません。
 暑い暑い7月に、米騒動のように全国でまき起こっている戦争法案反対の闘いは正念場です。浜口内閣が辞表を提出した9月21日までに、安倍政権に辞表を提出させなければなりません。

   「活動報告」 2015.1.23
   「活動報告」 2013.5.17

   「活動報告」 2012.4.27
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三池に朝鮮人慰霊碑が建てられたのは戦後50年、閉山2年前
2015/06/17(Wed)
 6月17日 (水)

 「明治日本の産業革命遺産」 の世界遺産への登録をめぐって、韓国政府などから強制連行が行われた施設が含まれていると意見が出されています。(5月12日の 「活動報告」 参照)
 日本政府の戦後補償の曖昧さがまた問題にされています。

 「明治日本の産業革命遺産」 の中の炭坑に関連する施設における 「強制連行」 について、具体的に三井三池炭鉱を中心に検討してみます。
 日本と朝鮮半島との交流はかなり前からあり、お互いの移住も行われています。
 しかし明治維新以降、日本が朝鮮半島への侵略を開始すると、朝鮮半島からの半強制的移住者が増え始めます。
 金賛汀著 『火の慟哭 在日朝鮮人坑夫の生活史』 (田畑書店) から見てみます。
 福岡市田川史のお寺の過去帳から、朝鮮半島から移住してきた労働者について、1898年に三井田川鉱で死亡した2名、1909年に貝島炭鉱で死亡した数名の名前が発見されました。日清韓戦争で日本の侵略が増していった後です。

 日本は1910年の日韓併合以前から、朝鮮半島各地で農民から土地を収奪していきますが、併合と同時に開始した 「土地調査事業」 は農民からの土地収奪と、それに協力した朝鮮人地主の保護をおこない、それによって日本は朝鮮における地税賦課の基礎を確立し、朝鮮支配の財政体系を作りあげました。「土地調査事業」 は1918年に終了しますが、全体の3%にしかならない日本人と朝鮮人地主が、耕作地の約半分を支配する土地所有関係を成立させます。
 このような朝鮮農村と農民の窮乏が、日本の石炭産業が要求する安価な労働力を送り出す基盤となります。

 日本国内に流入する農民について記している大阪市社会部調査課の 『なぜ朝鮮人は渡来するのか』 (1930年8月) からの抜粋です。
「而かも一方、彼等の大多数は例外なく現在よりもはるかに有利な職業を求めて内地への移住を希望しているが、その殆んど大部分は居所を移転する資力さへないため、過剰の状態に於いて土着せざるを得ない羽目に陥って居るし、他方、労働力を需むる雇用側に於いては、なんら能動的競争を要せずして容易に低廉に多量の労働力を購求することが出来るから、けっきょく彼らのある者は1日僅かに20銭内外の賃金で9時間乃至9時間半の労働に従事せねばならぬこととなるわけで、その生活の悲惨なることは、けだし思ひ半ばにすぎるものがある」

 第一次大戦がはじまった1914年から19年にかけて、日本の石炭産業は飛躍的な発展を遂げます。炭鉱労働者の数は29万4000人から46万5000人に急増します。労働力不足は石炭産業だけでなく他産業でも同様です。労働者の供給源は、主として農村の過剰人口でしたが、やがてそれも払底します。
「こうした全般的な労働力不足は、労働条件・労働環境が悪い石炭産業では、坑夫の確保を困難にした。日本国内での労働力確保困難になった石炭産業は、植民地朝鮮に目をつけ、この時期、朝鮮での大量募集が始まっている。
 また、北海道の石炭資本、とくに北海道炭鉱汽船は、大量の朝鮮人坑夫を募集、雇用した。
 1910年代の朝鮮人坑夫の統計は存在しないが、内務省警保局の調査によれば、1917年12月末、北海道在住の朝鮮人労働者は、前年に比し1611人多い1706人である。福岡県のそれも、前年に比し492人多い1386人となっている。これら朝鮮人労働者の多くが炭坑夫だったと思われる。」
「大正の初期から昭和にかけて、朝鮮人坑夫が大量に使用されたのは、日本の石炭産業発展の過程でそれなりの理由があった。
明治後期から大正初期にかけてが筑豊や三池、長崎・佐賀の炭鉱地帯・あるいは宇部や常磐などでの鉱業資本の発展期であったとすれば、大正から昭和初期にかけては、石狩炭田を中心とした北海道石炭産業の発展時代であった。北海道の石狩・釧路においても、三井・三菱・住友など、大資本の鉱山が確立されていった。」


 38年4月、日本国内の物資と労働力を総動員するため 「国家総動員法」 が公布されます。6月、企画院はこれに基づいて労務動員計画を立て、その実施のため39年4月に国民徴用令を発令します。企画院の計画には朝鮮からの労働者の連行が組み込まれ、朝鮮人労働力の重要産業である石炭・金属鉱山への投入が決定されます。
 7月、内務省と厚生省は「朝鮮人労務者内地移住に関する件」を発令、朝鮮各地から朝鮮人労働者8万5千人の 「募集」 を許可します。10月の北炭夕張を皮切りに集団連行が行われます。

 太平洋戦争に拡大すると日本国内での労働力事情はさらに逼迫します。
 企画院は42年度の労務動員計画で朝鮮人労働者の 「供出」 を13万人と計画しますが 「募集方式」 では困難です。42年2月、政府は閣議で 「半島人労務者活用に関する方策」 を決定し、それを受けて朝鮮総督府は 「鮮人内地移入斡旋要綱」 を制定、これまでよりも組織的・強制的な 「官斡旋方式」 にしました。
 労働力不足をさらに厳しくなると、1944年9月、朝鮮に 「徴用令」 を適用します。青紙1枚で朝鮮人を日本国内をはじめ日本の占領し配置へ強制連行することになり、その結果、発令からわずか1年間に40万人以上の朝鮮人が過酷な奴隷労働に従事させられました。
 「強制連行」 の総数については、『第86帝国議会説明資料』 や厚生省労務局の資料、『特高月報』 などがありますが、それぞれ大きな食い違いがあります。
 『朝鮮経済統計要覧』 の統計では、39年からの石炭産業に連行された朝鮮人坑夫は49万人に達するといわれています。

 三井三池においては41年2月、万田坑に朝鮮人労働者の強制連行が初めて行われました。その後43年9月には、宮浦坑に1666人が連行されます。43年に新港朝鮮人収容所と宮山朝鮮人収容所、44年に四ツ山朝鮮人収容所と馬渡朝鮮人収容所、45年に西浜田朝鮮人収容所が開設された。馬渡社宅には140人が収容されていました。
 1990年過ぎ、大牟田だけで1万2千人分の名前が記載された名簿が公開された。

 三井鉱山における強制連行については新藤東洋男著のパンフレット『太平洋戦争下における三井鉱山と中国・朝鮮人労働者 -その強制連行と奴隷労働-』(人権民族問題研究会)があります。その中から炭鉱について具体的に見てみます。
 45年8月現在の 「外国人労働者」 の数は
  事業所   朝鮮人    中国人    俘虜     労働者総数 (7月)
  三 池   2297人   2348人   1409人   23790人
  田 川   2195      623     398     16492
  山 野   1850      581     573      7393
  砂 川   2137      385              7407
  芦 別   2055      440     611      5642
  美 唄   1418      434     430      4948
  新美唄    386                        685
  計     12338    4811    3421      66357
です。かなりの割合を占めます。
 当時、三池鉱山は四ツ山、万田、三川、宮浦の4坑山からなっていました。

 福岡県特別高等課調査に基づく昭和19年 (44年) 1月末現在の 「労務動員計画に依る移入半島人労務者に関する調査表」 (県庁文書)に は、連行朝鮮人の数について、三井三池炭鉱 移入者数2376、逃走者数743、死亡15、電気化学工業大牟田工場 移入者数572、逃走者数234、死亡1と記載されています。

 厚生省勤労局報告書のなかに、三井三池万田坑分の連行者名簿が残されています。官斡旋、徴用分をみると42年306人、43年605人、44年659人、45年113人が連行されていました。
 死亡者については、三井三池鉱山が戦後作成し、朝鮮人団体に提出したものが残されています。74年の朝鮮人強制連行真相調査団の調査では、円福寺に三井三池関連の51体分の位牌が残されていました。


 荒尾市の正法寺には72年4月に 「中国人殉難者慰霊之碑」、同年10月に朝鮮半島出身の犠牲者を弔い南北統一を願う 「不二之塔」 が建立されました。同寺の住職らが托鉢で集めた浄財を基にして建てられまし。その後毎年慰霊祭が行われています。

 三池に強制連行されて亡くなった朝鮮半島出身者を慰霊する碑が1995年に大牟田市の甘木公園に建てられました。毎年、4月の第一日曜日に 「徴用犠牲者慰霊祭」 が行われます。
 徴用犠牲者慰霊碑碑文です。
「愛しき父母、妻子、兄弟と離別を余儀なくされ、この遠い異国の地にて、あらゆる難をへられた英霊達よ。夢寂にも偲んだ故 国山河を遠くし、ここに眠る大韓人孤魂の無情の念、いつはれるやら。第二次世界大戦時、この地に徴用され、過酷な労働の果てに、不帰の人となられ、はや五十星霜。歳月はすぎしとも、死してなおその不運の身上をどうして忘れることができよう。過ぎし日の不幸が再び訪れることの無きよう・・・・。かなしき英霊達よ、安らかに眠り給え 合掌」

 建立に奮闘したのが民団大牟田支部支団長だった禹判根さんです。建立を決意してから関係企業などを説得して実現させるまで15年を要したといいます。ということは決意したのは1980年です。それまで地元では触れないで済ませる、「忘れられていた」ことです。

 隣りに 「馬渡社宅壁書記念碑」 が建っています。
 「遙か異国の地にあって、引き裂かれた恋人や妻に思いを馳せ、自らの不遇を嘆き、懐かしき故国を偲ぶ、切々たる心情が記されている」 と説明されています。
 「馬渡社宅壁書」 とは、三井鉱山馬渡 (まわたし) 社宅51棟の5軒長屋に残っていた押入れの壁書です。漢詩や出身地と思われる 「朝鮮京畿道長湍郡」 などの文字などが書かれています。
 現在、その社宅跡地にも碑が建っています。
「第二次世界大戦中、大牟田の三池炭鉱に朝鮮から数千名の朝鮮人が強制連行され過酷な労働を強いられた。そのうち約200余名の朝鮮人が 『馬渡社宅』 に収容されていた。『馬渡社宅51棟』 の押入れに彼らの望郷の念が込められた壁書が1989年に訪れた強制連行の歴史を学ぶグループにより発見された。
 戦時中とはいえ朝鮮人に多大な犠牲をもたらし、さらに犠牲者の痛みを思うとき、ふたたびこのような行為をくり返してはならない。そこで、この地に『壁書』を復元することによって戦争の悲惨、平和の尊さを次の世代に語り継ぐため、この記念碑を建立するものである。 1997年2月 大牟田市」


 さて、なぜ三池における強制連行の実態の掘り起しが遅れ、しかも不充分だったのでしょうか。
 三池闘争が終わった63年1月、三池鉱山株式会社はそれまでの労使双方の資料などを集めて 『資料 「三池闘争」』 (日本経営者団体連盟発行) を編纂しました。
 そのなかの 「第一篇 当社の労使関係と労働争議 第一章 第一節 1朝鮮人、華人労働者の騒動」 です。三池闘争の前史が語られています。
「20年8月の終戦直後、当社が当面した労働問題は、戦時中大量に雇入れていた朝鮮人、華人労働者の騒動であった。終戦当時当社が使用していた朝鮮人労働者数は、石炭関係7事業所計12.338名、金属関係4.811名、華人は石炭関係は新美唄をのぞく6事業所計4.811名、金属関係は日比製錬所99名であった。この他外人労働者としては俘虜 (石炭山関係3.421名、金属関係1.428名、三池港45名) もいたが、終戦直後各事業で諸物資の略奪、会社幹部、従業員への暴行、脅迫、器物破壊等の挙に出て、日本人従業員を恐怖におとしいれ、難を避けて休業、離山者を続出せしめたのは、朝鮮人と華人労働者とであった。その騒動がいかに激しいものであったかは、第九表の石炭山における終戦時の朝鮮人、華人の暴行による損害調査票によっても、その一端がうかがわれよう。……
 以上は特に華人の暴行、略奪の場合の例であるが比較的長期間作業に従事していた朝鮮人の場合、華人に比して暴行、略奪等の事例は少いが、各所に朝鮮人による暴行事件も発生していることは第九表からも推測できよう。……」

 「強制連行」 ではなく 「戦時中大量に雇入れていた労働者」 という言い方です。
 この言い方は、現在になぞらえると、企業は派遣労働者を必要としていて事業場内で働かせているが、派遣労働者は企業とは雇用契約はないのでなんらの責任はないという主張や使い捨てと同じです。
 「暴動」 があったのは事実です。しかし原因を追究することなくこの時点で被害者と加害者が逆転させています。
 第九表の 「石炭山における終戦時の朝鮮人、華人の暴行による損害」 は 「三井鉱山作成・石炭統制会より大蔵省へ提出」 とあります。
 2015年4月28日の 「活動報告」 に書きました。「『国家補償金』 については、戦時中に強制連行した朝鮮人や中国人を使役したことによよって生じた “損失” について、各企業は政府補償金を獲得していたのである。」なんと強制連行した労働者を使役した企業に、GHQから禁止されるまで補償金が支払われていたのです。
補償金が支払われるということでは課題に記載されたことが予想されます。


 『資料「三池闘争」』に書かれていることと同じような内容が、その前に、三池労組が結成10年を記念して編纂した 『みいけ十年』 の中の 「前史」 編に書かれています。
 しかし後の有名な学者たちが執筆陣に名を連ねている 『みいけ二十年』 では削除されています。まずいと気付いたようです。というよりも今度は強制連行、朝鮮人労働者、中国人労働者、俘虜などについては一文字も登場しません。そして1999年に発行された 『みいけ炭鉱労働組合史』 でも同様です。
 三池労組としての強制連行の歴史的事実の掘り起しはありませんでした。6000人の朝鮮人、中国人、俘虜とされた労働者を切り捨てています。
 これが地元における強制連行の歴史です。

 言葉の解釈や手続き論ではなく、実態として人間の心身を拘束して強制的に労働に従事させたという事実は確実にありました。
 「明治日本の産業革命遺産」 は 「負の遺産」 として、消し去るよりは残した方が後世への教訓になります。


 6月22日、日韓条約が締結されてから50年目をむかえます。


   「活動報告」 2015.5.12
   「活動報告」 2015.4.28
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三池闘争の教訓
2015/03/06(Fri)
 3月6日 (金)

 2月下旬に、ある地域の労働組合で三池労組が解散に際して記念に製作したビデオ 『みいけ闘争』 の鑑賞会を行ないました。その解説をする羽目になってしまいました。
 三池闘争を語る時、強固な団結で闘った、頑張った云々だけが語られることが多いですがそれでは本当の姿が見えてきません。そこでこれまで 『活動報告』 で書いてきたことを寄せ集め、差別と非正規労働者の問題を中心に報告しました。そのレジュメの抜粋です。


 終戦によって「勤労報国隊」が引き揚げ、強制連行された朝鮮人・中国人、そして俘虜などが解放されると炭鉱の労働力は激減しました。また、資材不足や戦時中の乱掘により坑道は荒廃していました。
 GHQ (連合軍総司令部) と政府は、エネルギーの供給がなければ、経済再建と活性化はないと電力、鉄道、鉄鋼そしてGHQ用の暖房のため石炭の増産政策を打ち出します。46年12月24日の閣議で、経済復興のために生産システムを鉄と石炭に傾斜する「鉄鋼、石炭の超重点的増産の経済危機突破方針」を決定します。いわゆる 「傾斜生産方式」 です。

 12月22日に 「労働組合法」 が公布されます。労働者は生活保障の闘争として公務員は職場ごとに、旧軍関係の輸送、通信などを完全掌握していた事業体はそのままの機構に労働組合を結成していきます。民間は財閥や巨大企業を中心に、内部で自然発生的に企業別組合やその連合体を結成していきます。たとえば三井鉱山、三菱重工、東芝、日立などです。
 三池労組は、終戦直後に戦時中の産業報告会を基盤にして結成されました。
 12月17日、最初の労働組合が三川鉱で結成され、ついで各鉱所で準備会が始まり、46年1月14日の単一組織結成準備会事務局の発足に至ります。職種を越え、末端労働者まで組織した企業別組合です。5月19日には資本別連合として西日本三井炭鉱労働組合連合会が結成され、中立系の全国的単一組織の結成を目指します。
「(45年) 10月15日、三井鉱山本店 (全国本社) の労務課長は委員の改選を基礎とする産報の改組、再編成について指示・通達を各鉱業所に発した。12月1日に結成されたこの労働組合準備会は、改選された産報委員がそのまま横すべりしたものであった。」 (三池労組編『みいけ20年』)
 三池労組は 「三井王国」 内の中立系組織として模範生でした。なおかつ三池炭鉱は三井系列鉱山のなかにあって採炭量は他を抜いていました。
 石炭増産のために、模範的三池の歌としてラジオから流されたのが 『炭坑節』 です。本当は筑豊の歌でした。

   月が出た出た 月が出た
   三池炭坑の うえに出た
   あんまり煙突が 高いので
   さぞやお月さん 煙むたかろ
     サノヨイヨイ

 三池労組は労使協調の企業別組合から出発したが、職場に根を張る活動を続け、力をつけると炭労の他の労組を牽引する位置を占めるようになっていきます。
 朝鮮戦争を通じて、大企業を中心に設備の更新、技術の更新化が進められ、人員整理、賃金ストップが強行されます。52年末頃から不況の影響をうけて設備の近代化が比較的進んだ鉄鋼、石炭などの産業を中心に中小企業の倒産や大企業への系列化が進行し、大量人員整理を行う工場が続出します。
 53年8月7日、三鉱連 (全国三井炭鉱労働組合連合会) は三井鉱山の合理化要綱発表に対して 「請負給制度の撤廃」 「保安法の完全実施」 「人員の充足」 の3目標を掲げ、山元での自主的な闘い、日本炭鉱主婦協議会と連携して職場、地域から大衆闘争を盛り上げ、その力をバックにして中央闘争を強化する戦術を立てます。
 最終的には113日の闘いを経て、三鉱連は 「退職希望者」 「退職勧奨に応じた者」 以外の退職拒否者1841人の解雇者の復職を勝ち取ります。「英雄なき113日の闘い」 「幹部闘争から大衆闘争」 と呼ばれました。

 三池炭坑の歴史を語るとき、囚人労働、強制連行、そして 「ヨーロン」 と呼ばれてさげすまれた与論島出から移住してきた下請労働者群を抜きにしては語れません。下請港湾労働者として、過重労働などという言葉では言い表せない労働を強いられてきました。差別分断支配構造に組み込まれたすさまじい状況におかれていました。
 「その差別をはね返そうと、一致団結して働けば働くほど、標準作業量はひきあげられ、賃金はさらに切り下げられた。」といいます。
「(19) 48年、親方制度は廃止となり、労働者は直傭労働組合に組織された。それは労働組合というよりは、臨時夫の同業者組合といったような性格であったようだ。契約期間は1年間、毎年3月に身体検査をうけ、その結果によって再契約された。病弱者は情容赦もなく切り捨てられた。だから健康なもので、病気を理由に解雇されるのではないか、とまいとしビクビクしながら働いていた。直傭夫のほとんどは高齢者や年少者であり、青年・壮年で体力のあるものは、三井三池の直轄夫として採用された。……
 直傭労働組合の300人が本工になれたのは1955年。三池労組の力によってである。
 53年の 『英雄なき113日間の闘い』 に勝利したのち、三池労組は、供利さん流にいえば 『日の出の勢い』 となったのである。」
 与論島出身者にとって労働組合の解雇撤回闘争は、労働組合の力強さを知るとともに 「人権を回復」 する闘いでもありました。自分らを 「ユンヌンチュー」 と呼び誇りを回復していきます。

 宮浦鉱の高椋龍生さんはさんは貧乏で教育を受ける機会を奪われていました。そして下請労働者を強制されていました。
「幼いとき、貧乏ゆえに、よびすてにされたことがくやしくて、怒りがむしょうにこみあげたことをいまも忘れることができない。
 高等小学校をあげると (1930年) すぐはたらきにでた。
 はじめての給料日、50銭の小遣いを母からもらい、町の書店でほしくてたまらなかった 『字引』 をもとめ、だいじに胸高くだきあげるようにして星空の下をわが家へ跳んで帰ったことを、いまもまざまざと覚えている。」 (『石蕗 (つわ) の花が咲きました 高椋龍生詩文集』 (労大新書)
 高杢さんは三池労組なかで文芸活動を続けます。
 人権闘争の中で三池労組では戦後の民主化闘争の中で、組合員は全員の名前を 「さん」 付で呼び合う運動を展開すします。そのような中で下請労働者の本工化要求を掲げて勝ち取っていきます。
 組合運動を通じて人格・尊厳を獲得した高椋さんは労働組合に強い信頼を寄せました。

 三池労組は 「英雄なき113日の闘い」 に勝利した後も職場闘争を展開し、保安の問題などを追及するなかで、職場単位で労組との交渉権を認める、いわゆる 「現場協議制」 を勝ち取って行きます。労働条件の均一化をすすめ、交渉力、妥結権、スト権を職場に譲ねる 「三権委譲方式」 を獲得しました。職場のヘゲモニーを実質的に労働組合が握りました。
 三井鉱山では労使間の話し合いで、労組から委員を出して坑内の保安点検をする 「安全委員」 制度がつくられました。
 労働組合は、自覚するかしないかにかかわらず企業内組合の限界に挑戦していたのです。会社は57年から労務政策を大きく変更、59年8月で三井鉱山は合理4500人の人員整理を発表しました。9月、石炭産業労使会談で、石炭経営者は63年までに大手18社だけで約11万人の人員整理を明らかにしました。
 この 「自主管理」 の萌芽にもなりかねない労使関係を三井以外の炭鉱経営者や 「総資本」 も資本は容認できず、「総資本対総労働」 の総資本を形成し、59年から攻撃を開始しました。それが三池闘争です。

 59年に 「安全委員」 の中心人物を解雇、そして59年末には三池労組の行為を 「業務阻害」 として見せしめに1492人の大量解雇をかけてきまし。
 「英雄なき113日の闘い」 と職場での保安の闘争を大衆的に展開、牽引してきた阿具根派 (阿具根登三池労組初代組合長・後の参議院副議長の影響をうけた労働者) と、差別と闘い続けてきた 「ヨーロン」 が、労働者が首を切られたということに対して 「本気で怒った」 ことが壮大な闘いとなっていきました。

 三池闘争の最中、労組は分裂しました。しかしこれは会社が画策して分裂させたとだけ捉えることはできません。そうだとしたら、大量の脱退者の動向を掌握できていなかった組合の問題が出てきます。
 新労が結成されましたがその数は当初三池労組の指導部が予測していた数を上回ります。このとき会社は三池労組がどんなに少数になっても与論島出身者は残るだろうと予測していたと言います。それくらい 「ヨーロン」 をいじめたことは自覚していました。

 3月28日に会社が生産を強行再開。その翌日、久保清さんが四山鉱正門前で組合員がピケを張っていた時、三井鉱山の下請土建会社の人夫をしていた暴力団から刺殺されます。
「山代、寺内組 (大牟田、荒尾一帯をナワ張りとする・・・。彼らはふだんは三井鉱山の下請土建会社である三井建設・・・などで人夫をして働いていた) ……暴力団は 『お前の顔は覚えたぞ』 『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』 などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた」 (三池労組発行 『みいけ二十年』)
 会社が雇った暴力団が、警察も黙認したテロで労働者を虐殺したことは絶対に許すことはできません。しかし三池労組員・久保さんを殺したのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者であり、ストで仕事からあぶれていた人夫であった事実があります。彼らは三池の労働組合に組織されることなく、会社に雇われたのです。

 かつての三池労組会館の玄関には組合員が描いた絵や彫刻がたくさん飾ってありました。“ホッパーパイプ” が闘いを蘇らせます。
 ストライキ決行中、三池労組はホッパー (石炭の貯蔵槽) を囲んで石炭の搬出を阻止する戦術をとりました。会社側勢力が襲ってくることに組合員は防御しなければなりません。組合員は長さが1メートル、なかには2メートル直径が20センチもあるパイプを握ってかまえます。パイプは煙草を吸うためのものなので大勢が持っていても凶器準備集合罪の適用にはなりません。材料が木の根っこだったりし、彫ったり、色を塗ったりして出来栄えを競いました。闘争の記念品であり芸術作品です。
 「がんばろう」 の歌は、このような中で生まれました。
 三池労働は文化活動が活発でした。

 60年9月8日に三池労組が闘争終結のためのあっせん案を受け入れ三池闘争は終息しました。9月20日発行の、組合員にその報告をするビラの最後に詩が載っています。

   やがて来る日に
   歴史が正しく書かれる
   やがて来る日に
   私たちは正しい道を
   進んだといわれよう
   私たちは正しく生きたと
   いわれよう

   私たちの肩は労働でよじれ
   指は貧乏で節くれだっていたが
   そのまなざしは
   まっすぐで美しかったといわれよう
   まっすぐに
   美しい未来をゆるぎなく
   みつめていたといわれよう
   はたらく者のその未来のために
   正しく生きたといわれよう

   日本のはたらく者が怒りにもえ
   たくさんの血が
   三池に流されたのだと
   いわれよう

 この詩は高杢さんが作ったと言われています。
 10月28日中労委は斡旋案により調印した協定の中の 「山元提案事項に関する協定書」 は、いわゆる「現場協議制」の団交を実質的に廃止させました。「英雄なき113日」 の闘い以来の職場闘争の諸権利は解体されていきます。

 協定締結後の60年12月1日の一番方から全面就労が再開されます。
 「生産疎外者」とよばれた多くの組合指導部が職場から追放された中で、職場の闘いは困難を極めます。
 三池労組員を高賃金職種から低賃金雑役に配転、第二組合員を低賃金職種から高賃金職種に配転、生産上重要な職場は第二組合でかためて生産第一主義に保安機構の全面改定案を打ち出します。三池労組のストライキを無力にすることを狙ったものです。

 三池闘争が敗北すると、年末から翌年3月にかけて全国の炭坑で合理化提案がおこなわれ、炭労の各支部は、全面的首切り合理化に直面します。しかし炭労は産業別統一闘争を組む体制は崩れていました。各支部は独自の闘いを展開せざるをえませんでした。
 三井の各鉱山においても人員削減が提案され、「余剰人員」 は希望すると、第二組合に忠誠を誓う条件付きで三池に送られてきました。

 炭鉱が閉山すると離職者は、各地に散っていきます。さらに政府は海外移住政策も推進されまし。三池闘争を闘った支援者も海を渡って行きます。しかし三池労組の組合員にはいません。
 演劇 『南回帰線にジャポネースの歌は弾ね』 は、三池闘争から33年後のブラジルでの元三池闘争の勇士たちの物語です。「人間死ぬことだけが、たった1つの平等たい」 と語り 『炭坑節』 を歌います。
 三池労組員でない彼らが、日本を思い出して歌を歌うとき、『炭鉱節』 を歌います。

 『三池炭坑殉職者名簿』 によると61年から63年10月までに47人が死亡しています。内訳は三池労組員が20人、三池新労が25人、下請け組夫が2人。三池労組は団体交渉を申し入れるが会社はきちんと対応しません。そして多くの 「黒い肺」 の塵肺患者が出ています。
 このような状況のなかで63年11月9日、三池炭鉱三川鉱で炭塵爆発事故が起き、458人の死亡者と839人のCO (一酸化炭素) 中毒患者が出します。犠牲者を組織別にみると、三池労組163名、新労242名、職員組合25名、組夫28名。爆発は保安を手抜きした結果起きた人災です。会社は組合分裂後は組合間格差を設けたりしたが決して新労に対しても優しくありません。死者の数からもそうだし、事故への補償においてもそうです。

 事故後、三池労組は遺族とCO中毒患者の補償に取り組みます。しかし事故の原因追及のために告訴をしたが民事訴訟の方針は当初採りませんでした。
 三池労組の闘いはCO中毒患者への補償を要求するCO特別法の制定に移っていきます。

 三池の炭じん爆発事故における会社の責任は、刑事事件では不起訴になりました。
「裏で巨大な力が動いていた。
 まさに国と企業と学会と司法ぐるみの隠蔽でした。
 松尾さんたちCO中毒患者家族会は、不起訴が決まった後、その理由を聞くために福岡地方検察庁におしかけました。次席検事が言いました。
 『労働者1人が会社に対いて行う貢献度よりも、三井鉱山が社会に対して行う貢献度の方が大きいと判断。その貢献度を起訴して潰してしまうことは大きな損失と判断して、不起訴と決定した』」

 水俣で闘っている人たちの支援を受けて組合員が民事訴訟を起こします。その後の73年、三池労組は遺族を含めて集団訴訟を起こします。裁判は、一部の方は継続したが87年に和解となりました。

 この後も三池労組はCO患者の闘い、「黒い肺」 の闘い、そして地域的な運動の中心を担って闘い続けます。
 2005年4月18日、三井三池労働組合の解散式、組合旗を天に返すという儀式の組合旗を燃やす 「返魂式」 が執り行われました。


 本 『むかし原発 いま炭鉱 炭都 [三池] から日本を掘る』 で著者の熊谷博子さんは、福島原発事故と三井・三池の1963年に発生した炭塵爆発事故は似ているといいます。さらに三池鉱山と水俣病の原因を認めなかったチッソの姿勢はそっくりだといいます。そこには 「産 (使)」 ・ 「官 (政)」 ・ 「学 (者)」 の構造に加えて 「労」 の 「産」 防衛という強固な協力があると指摘します。

 最近出た本 『さまよえる町』 で著者の三山喬さん福島県大熊町に住んでいた東電に関係しない住民の発言を紹介しています。
「三笠とか夕張の炭鉱が閉山して、企業城下町が衰退していくのを目の当たりにしましたから。原発も寿命が来たら廃炉になるでしょう。だから大熊もいつかそうなるかもしれないと、という不安があったんです。まさかこんないっぺんに全滅するようなことが起きるとは、想像もしなかったんですけどね」
 
 会社も政府も、労働者と企業を簡単に切り捨てます。
 今後同じことを繰り返させないためにも、政府と東電には現在山積みなっている福島原発の責任をきちんと取らせる闘いが必要です。それが現在における三池闘争の教訓です。
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