2017/09 ≪  2017/10 12345678910111213141516171819202122232425262728293031  ≫ 2017/11
原子力は人類と共存できない
2017/09/26(Tue)
 9月26日 (火)

 昨年、『ほうしゃの雨はもういらない-原水禁署名運動と虚像の原子力平和利用』 (凱風社) が出版されました。先日、著者の丸浜江里子さんの講演会がありました。

 配布されたレジュメの冒頭です。
「ビキニ事件がおこり、核実験 『ノー』 の声が上がり、署名運動が始まり、全国で3200万筆の署名が集まり、翌年、原水禁世界大会が開かれたことは、日本発の輝かしい反核運動の嚆矢である。しかし、この時期、コインの裏側のように核の 『平和利用』 が始まった。なぜ、『禁止』 を求める運動と 『利用』 が同時期に始まったのか。その疑問は3.11を経て実感をもって迫って来た。……
 その答えを出すには、米国の核戦略と日本の核開発の歴史をたどり、広島、長崎、ビキニから福島につながるカラクリを暴く必要がある。」

 1950年3月、平和擁護世界大会委員会がストックホルムで開催され、大会は核兵器廃絶に向けた「ストックホルム・アピール」 を採択します。そこには 「原子爆弾を使用する政府は人類に対する犯罪人として取り扱う」 などの項目がありました。呼びかけに世界から4億8200万人の署名が集まりました。
 日本においてもGHQの支配下、朝鮮戦争のさなかに署名運動が展開されます。645万筆が集まりました。
 中央気象台の気象研究所労組も取り組みました。すると執行部は総務課長から呼び出されて署名は燃やされ、中止せざるを得ませんでした。研究院だった増田義信さんはこのことを機会に、不条理を止めさせようと組合活動に本格的に取り組みます。(16.4.15の 「活動報告」)
 署名を集めていると警察の尾行がつづき、署名するにも決意が必要でした。署名した人が後から消してほしいと申し出てくることもありました。
 しかし、特に在日朝鮮人の人たちは各地で朝鮮戦争に対する抵抗を続けながら必死に集めました。そのことが朝鮮戦争でアメリカが原子爆弾を使用することを阻止しました。

 1951年9月、トルーマン政権の国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスの主導で朝鮮戦争の最中にサンフランシスコ講和条約が調印されます。中国は招かれず、インド、ビルマは参加しません。ソ連、チェコスロバキアは調印しません。沖縄、小笠原、奄美が米軍の支配になります。
 条約交渉のため1月に来日したダレスが語ります。
「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるだろうか」
 条約締結日の夕方、吉田茂首相が日米安保条約を調印し、全土基地方式を受け入れます。そして53年に行政協定を結びます。
 53年7月23日、アメリカが初めて勝てなかった戦争・朝鮮戦争が休戦協定を締結します。アメリカの覇権が揺らぎます。

 8月、ソ連は水爆を開発します。
 ダレスはソ連に対抗する巻き返し戦略としてニュールック戦略 (大量報復戦略) を提案します。内外の米軍基地に大規模な核兵器配備 (8年間で20倍)、同盟国に対して通常兵器の増強を要求しました。日本に対してはMSA協定 (Mutual Security Act 日米相互防衛援助協定) と再軍備、そして米基地に核配備を要求します。MSA協定は54年3月に締結され7月、防衛庁を設け、その統轄下に陸・海・空の三自衛隊が設置されます。

 53年12月8日、イギリス・フランスの合意をえてアメリカ大統領アイゼンハワーは国連総会で 「アトムズ・フォー・ピース演説」 を行います。内容は前半で、「米国の報復能力は侵略者の国土が荒廃するほど大きなものである」 と核戦力を誇示し、後半で 「核の平和利用」 を述べます。「核の平和利用」 の部分は全体の5分の1に満たないものです。
「米国は軍事目的の核物質の単なる削減や廃絶以上のものを求めていく。
 核兵器を兵士たちの手からとり上げることだけでは十分とは言えない。そうした兵器は、核の軍事用の包装を剥ぎ取り、平和のために利用する術を知る人々に託されなければならない。米国は、核による軍備増強という恐るべき流れを全く逆の方向に向かわせることができるならば、この最も破壊的な力が、すべての人類に恩恵をもたらす偉大な恵みとなり得ることを認識している。米国は、核エネルギーの平和利用は、将来の夢ではないと考えている。
 ……原子力の脅威が、人々の、そして東西の国々の政府の脳裏から消え始める日を早くもたらすために、現時点で講ずることができる措置がいくつかある。そこで私は以下の提案を行う。
 主要関係国政府は、慎重な考慮に基づき、許容される範囲内で、標準ウランならびに核分裂物質の各国の備蓄から国際的な原子力機関に対して、それぞれ供出を行い、今後も供出を継続する。そうした国際機関は、国連の支援の下で設立されることが望ましい。」
 心理戦略を駆使し、核の軍事利用と 「平和利用」 の両方を進める宣言でした。
 演説の真の狙いは守勢を後世に転ずるための巻き返しにありました。「核の平和利用」 を打ち出すことで原子爆弾投下国というマイナスイメージを消去し、平和のイメージを広げること、国際的核管理における主導権を獲得すること、西側同盟国に余剰核物質を供給することを通じて米国の覇権を回復するとともに経済的利益を得ることなどでした。
 54年3月初旬、国会に保守三党の共同修正予算案に原子炉築造補助費2億5000万円がもりこまれます。アイゼンハワーの国連演説を受けて “バスに乗り遅れるな” とばかりに中曽根康弘 (改進党) らが中心となり核開発の着手を提案したのもで、ほとんど議論もなく成立します。


 54年3月から5月にかけて、アメリカはソ連に先行された水爆技術開発を目的にビキニ環礁、エニウェトク環礁の二つの環礁で6回の連続核実験 「キャッスル作戦」 が実施されます。
 その第一回目が3月1日にビキニ環礁で行なわれた 「水爆ブラボー」 実験です。マーシャル諸島や第五福竜丸をはじめとする、今わかっているだけで1000隻以上の漁船。商船が放射能被害を受けます。
 6回の実験の威力は、広島型原爆の3200発分以上だといわれます。

 第五福竜丸の乗組員は 「ひょっとしたら原爆実験を見たのかもしれない。無線で知らせれば米国に傍受され、福竜丸の存在を知られてしまう。そうなれば攻撃を受けるかもしれない」 という恐れと闘いながら、3月14日に静岡県焼津に帰港します。
 3月16日の読売新聞は 「法人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」 「23名が原子病」 のみだしでスクープします。他社も追います。これらの報道で、乗組員の被爆問題は一挙に魚の放射能汚染問題・食糧問題、さらに広島・長崎につぐ第三の被爆として広がります。占領下、規制されていた原爆や放射能の報道を取り返すような大報道でした。

 3月17日、築地市場で本マグロが半値に下がり、18日は買い手が付きませんでした。築地市場関係者は東京都・厚生省などに積極的に働きかけ、その結果全国18の魚市場でマグロの放射能検査が始まります。港での検査によって全国で856隻の漁船に積まれた12万9532.5貫の魚が廃棄処分になります。
 4月2日、築地中央市場で魚商530人が集まって原水爆反対の集会がもたれました。
 全国各地でも署名運動、声明、決議が始まります。

 4月16日、杉並区立公民館で杉並婦人団体協議会の例会が開催されていました。講演が終わると1人の女性が立ち上がって発言をします。
「第五福竜丸の事件でマグロが放射能に含まれているということで、魚が売れなくなり、魚屋は困っています。このままでは明日から店を閉めなければなりません。私たち杉並魚商組合で原水爆禁止の署名を取り組んでいます。1人でも多くの方に署名していただきたいのです。」
 講師だった安井郁東大教授は 「この問題は魚屋さんだけの問題ではない、全人類の問題です」 と言葉をそえ、その場で全員が署名に協力します。
 ここから杉並の原水爆禁止署名運動が始まります。そして5月、「全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」 の 「杉並アピール」 が発せられます。

 5月15日、ビキニ海域の総合調査のため水産庁が調査船俊鶴丸を出港させます。調査結果は、放射能汚染がビキニ周辺だけでなく太平洋全域に広がっている実態を明らかにし、新聞は大々的に報道しました。その情報は署名運動の追い風になります。
8月8日、原水禁署名運動全国協議会が発足し、さらに高まりを見せていきます。
 9月23日、第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんが亡くなります。医師団は死因を 「放射線被ばくによる続発症による死亡」 と発表します。署名運動は沸騰します。署名運動は世界へと広まっていきます。12月13日には2000万筆に達します。
 55年1月、全国協議会全国会議は8月6日から広島で原水爆禁止世界大会を開くことを決定します。

 東宝映画のプロデューサー田中友幸は本多猪四郎監督を起用し、特撮怪獣映画『ゴジラ』を制作します。南海の海底に眠っていた恐竜が水爆実験で目を覚まし、口から放射能を吐き出しながら日本を襲うというストーリーです。


 アメリカも黙っていません。54年10月19日秘密のメモを作成します。
「①日本の政府と科学者は、敏感な世論が許す範囲で、核問題での日米協力を望んでおり、米国も協力を望んでいる。
 ②原子力・核エネルギーが根本から破壊的だとする日本人の根強い観念を取り除くことは重要だ。原子力の平和利用を進展させる二国間、多国間の取り組みに日本を早期に参画させるよう努めるべきだ。」
 具体的にどのようなことがおこなわれたのでしょうか。
 1つは、政府の意向に副う科学者を選別した名簿が在日米大使館を通じて国務省に提供され、米国の資金を通じた働きかけが始まります。
 2つ目は、11月15日から19日に 「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」 が開催され、マグロの安全基準が100カウントから500カウントに緩和されます。魚市場で行なわれていたマグロの放射能検査は1954年末で終了になります
 3つ目は、54年9月26日におきた青函連絡船洞爺丸遭難事故、久保山さんの死去の3日以降、ビキニ事件関連の記事は急減します。かわって原子力の平和利用報道が増えます。
 4つ目は、財界人や科学者による原子力調査団の訪米が行なわれます。
 5つ目は、本土に予定していた核配備を比較コンポネーション配備にかえ、54年12月末に、核兵器配備を強行します。

 55年1月4日、ビキニ事件に関して以下のような日米交換公文書が取り交わされます。
 ①米国が日本に見舞金200万ドル (7億2000万円) を支払う。
 ②それを最終的解決とし、すべての請求権を放棄する。
 ③今後一切の補償要求・責任追及をしない。
 ④太平洋での米国の核実験の制約をしない。
 見舞金の配分は日本政府に任され、政府は被災漁民を第五福竜丸にだけ限定し、乗組員に1人平均200万円、久保山さんに550万円を支払います。第五福竜丸以外の被災漁民には見舞金を含めて一切の補償。支払いは行なわれませんでした。
 米国のマーシャル諸島での核実験は58年まで継続されます。
 ビキニ事件の 「決着」 を通じて、日本は 「原子力の平和利用」 政策へと大きく踏み出します。米国の核戦略を丸ごと受け入れ、米国の太平洋地域での核実験に協力し、沖縄への核兵器の配備と本土への核コンポーネント配備を了承し、米国の目下の同盟国として核の 「平和利用」 に追随加担します。
 秘密のメモの 「②原子力・核エネルギーが根本から破壊的だとする日本人の根強い観念を取り除く」 ためのプログラムが開始されます。その旗振りは読売新聞社主の正力松太郎です。53年に日本テレビを開局し、日本テレビジョン放送網株式会社の社長になっていました。裏で後押ししていたのはCIA (米中央情報局) です。
 反共主義を煽り、プロレス中継で力道山がアメリカの選手を降伏させるのは原水爆禁止運動から目をそらさせ、高揚するのを抑えるための手段の1つだったといわれています。
 その姿勢は今も読売新聞と日本テレビでは引き継がれています。
 45年11月から1年半、「原子力平和利用博覧会」 が全国を巡回しキャンペーンを繰り広げます。費用はすべて米大使館もちです。

 55年2月、正力は政界に進出し、4月に主要企業を集めて 「原子力平和利用懇談会」 をつくり、6月に日米原子力協定を仮調印し、11月には原子力担当大臣になります。
 12月に原子力基本法など原子力三法が公布され、56年1月1日に 「原子力委員会」 が発足すると委員長に就任し、1月4日には 「5年以内に実用的な原子力発電を行う」 という声明を発表します。正力は、“アメリカ的平和政策” のため奔走します。原動力は 「現在の冷戦における我々の崇高な使命」 だったのです。

 原子力を容認するためにはさまざまな手法が行使されます。
 1951年から17年間、手塚治虫の長編漫画 「鉄腕アトム」 (当初は 「アトム大使」) が雑誌 「少年」 に連載されます。主人公アトムは、原子融合システムによる10万馬力と七つの威力を使って正義の味方として、代行主義で 「悪」 に立ち向かっていくストーリーです。
 原子融合と正義の味方が合わさった世論が形成されていきます。
 そして冷戦構造の中で、革新と呼ばれる勢力のなかから中ソの核兵器とアメリカの核兵器の 「違い」 が主張され、核兵器が容認されていきます。そこでは 「原子力の平和利用」 も高らかに叫ばれたりします。そして原水爆禁止運動の分裂へと突き進んでいきます。その動きとアメリカの戦略がからみ合います。

「原子力の平和利用」 の捉え返しをさせたのが、東日本大震災における福島原発事故でした。「原子力は人類と共存できない」 ということを再確認させました。
 しかし政府はその後も再稼働をおこない、原子力産業を輸出産業にしようとしています。

 広島、長崎、ビキニ珊礁の第五福竜丸等の被爆、福島原発事故は歴史的負の教訓です。「過ちをくり返さない」 ため、騙されない運動を進めていくことが必要です。

   「活動報告」 2017.8.4
   「活動報告」 2016.4.15
   「活動報告」 2013.9.25
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | ヒロシマ | ▲ top
「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」
2017/08/04(Fri)
 8月4日 (金)

 毎年この季節になると、井上ひさしが書いた朗読劇 「少年口伝隊1945」 の上演がおこなわれます。
 案内チラシです。
「昭和20年8月6日、一発の原子爆弾が広島の上空で炸裂した。
一瞬にして広島は壊滅。このときから、漢字の広島は、カタカナのヒロシマになった。
かろうじて生き延びた英彦・正夫・勝利の3人の少年は、やはり運よく助かった花江の口利きでヒロシマ新聞社に口伝隊として雇われる。
新聞社も原爆で何もかも失ったため、ニュースは口頭で伝えるほかなかったからだ。
3人の少年は、人びとにニュースを伝えながら、大人たちの身勝手な論理とこの世界の矛盾に気がついていく。
やがて敗戦。・・・そこへ戦後最大級の台風が広島を襲う。」

 3人の少年は国民学校6年生で孤児になります。口伝隊の仕事は8月10日から新聞社の臨時雇いとしてです。県知事の 「最後まで戦え」 という布告を伝えます。長崎への新型爆弾投下を伝えます。15日には 「正午にはラジオのあるうちに集まってください」 と伝えます。この日をさかいに大人の態度がガラッと変わります。GHQとアメリカの原爆効果調査団がくることを伝えます。大人の世界はガラガラと変わっていきます。
 9月17日の枕崎台風では戦争で荒れた山が崩壊し、街を高潮が襲います。広島で2012人が亡くなりました。そのとき勝利は水害で命を落とします。そのあと正夫が原爆症で死去。15年後に英彦も原爆症のため亡くなります。


 新聞社の口伝隊については、大佐古一郎著 『広島昭和20年』 (中央公論社) や御田重宝著 『もう一つのヒロシマ』 (中国新聞社) にも出てきます。
 当時、中国新聞は当時38万部を発行していました。輪転機1台と付属設備を郊外の温品に疎開させましたが動力線を引く工事はまだでした。本社は全滅です。6日のうちに軍を経由して他社に相互援助契約による代行印刷を依頼しました。しかし、代行印刷は1か月の期限です。

 7日、特高課長が 「知事布告」 を出したいと要請にきました。
 特高課長の口述を編集局次長が原稿にし、印刷屋を探してタブロイド判の大きさで60枚印刷、市内各所に掲示します。布告は、「我らはあくまでも最後の戦勝を信じあらゆる艱 (かん) 苦 (く) を克服して大皇戦に挺身せん」 と結ばれています。
 この後も 「中国新聞」 と題字をつけたダブロイド版の壁新聞が発行され続けます。飛び込みニュース程度のものを2、3本書き込み、焼け跡の電柱、塀、駅前などに貼りました。
 憲兵が中国軍管区参謀長の命令をもって本社ビルに来ました。「中国新聞社で民心安定のため、口伝隊を組織し、市民に情報を知らせてくれ」 と要請します。編集局次長が断ると、憲兵は 「いや、こんな状況下では、憲兵ではだめだ。民間人でないとうまくいかない」 といいます。軍は火急の場合の広報活動は民間人でないと国民は信頼しないことを知っていたのです。
 新聞社は、生き残った社員でメガホン隊を編成し、焦土の中で市民に情報を伝達していきました。
 整理部長の回想です。
「『万難を排してニュースや諸情勢を伝達し、民心の動揺を防ぐ』 ことを新聞人としての最大任務と心得ていたのである。
 しかし7日には、まだ外部からのニュースは何も入手できないし、墨も紙もない。そこで最大の知恵は古風な口伝隊となって現れた。罹災者の応急救済方針、臨時傷病者の収容所、救援食糧、被害の状況など思いつきを口で伝えるのである」
 最後は 「決して心配はありません」 と結びました。
 比治山、饒津公園、東西練兵場、その他罹災者の集合場所や焼け残った郊外住宅地などに分散して回りました。情報に飢えている被災者には結構喜ばれました。
 しかし内務省の規制は厳しく、戦争が終わるまで原子爆弾の表現は禁止されました。

 大佐古記者の日記です。
「8月12日 (日) 快晴。
 本社焼け跡に行く。三井、佐伯、尾山、八島君らが、鉛筆と紙に代わるメガホンを持って口伝隊員として活躍している。この口伝隊はトラックの上からニュースを流すもので、軍の報道部にいた山本中尉らが、有事の際に憲兵隊を中心に編成することを予定していた。それが制服では信用がなくなったので、新聞社員や放送局員が代わって登場し、軍官の告知事項や重要なニュースを被災市民に伝達しているものである。」


 中国新聞社は疎開先で自力での発行に漕ぎつけますが枕崎台風で水害に遭い不可能になります。新聞発行は再び代行印刷となりますが、鉄道が被害を受けていた運送には困難をきたしました。
 20日から、再びこんにゃく版刷りの壁新聞 「特報第1号」 を発行します。
 大佐古記者の日記です。
「9月29日 (土) 晴れ、のち曇り。
 ここ1週間 『中国新聞特集』 の壁新聞をまた発行する。同盟や県庁だねを中心に数項目ずつをガリ版で刷り、それを販売部員が広島駅、横川、己斐、宇品、向洋など市内の要所に貼り出すほか、社員や県庁員に頼んで鉄道沿線の各駅に掲示してもらうものだが、見出しを長くした程度の内容で果たして何人の市民が見てくれるか。しかしわが社はピカドンにもめげずにまだ生きていることを宣伝するのには役立っている。」

 10月1日から本社移転に漕ぎ着けました。復員した社員、新たに採用した社員を含めて214人でのスタートです。

 8月3日、義勇隊本部から口頭で中国新聞社国民義勇隊に 「4日から8日までの5日間、主水町県庁付近一帯の疎開作業に毎日80人の隊員を出せ」 という出動命令が出ます。
 中国新聞社国民義勇隊には広島に支社をおく他の新聞社員も編入されていました。
 8月6日、中国新聞社員40人と他社員6人合わせて46人が県庁北側にあたる天神町の強制建物疎開作業に出動していました。集合を終え、作業に取り掛かろうとした時、上空で原子爆弾が炸裂しました。爆心地から西南500メートルの距離でした。
 新聞社は一瞬にして113人の社員が奪われました。当時の従業員の3分の1にあたります。助かった社員も熱線を浴び、放射能を浴びていてみな数日後には亡くなっていきました。

 中国新聞労働組合は1985年8月、被爆40周年事業として仲間が動員されて作業をしていた本川のほとりに 「不戦の碑」 を建立します。「碑」 は 「P」 のデザインです。Press、Pen、Peace の頭文字の 「P」 です。原爆で亡くなった新聞労働者を追悼し、二度と戦争のためにペンを執らない、シャッターを押さない、輪転機を回さない 誓いを込めた碑です。


 原子爆弾の被害をうけ、記者は苦闘します。
 大佐古さんの日記です。
「8月24日 (金) 晴れ、のち薄曇り。
 ……そういう新聞人はいったい何だ。反省も贖罪もなしに保身に窮々としている私を含めて……。私は名刺入れの中から日本新聞会が発行した登録記者証を取り出して破り捨てる。
 朝日が 『英霊にわびる』 というシリーズものを連載している。その中の吉川英治が書いた 『慙愧の念で胸さく』 を読み、新聞人の戦争責任についてとつおいつ考えつづけると、布団の上を三転五転して眠れない。」
「8月30日 (木) 曇り、ときどきにわか雨。
 東久邇首相が記者団との会見で 『一億国民はすべて懺悔しなければならない』 と発言したことが戦争責任を国民に分散させ、うやむやに葬り去ろうとするものだとして話題になる。……
『日本人に総懺悔するほどの余裕などあるものか。国民はそれどころか一億総餓死しようとしているのに……。とくに広島の市民は総討死に追い込まれ総ぼけしとる。指揮者が責任を霧消させようとする口実だよ』
 と歌橋君がいうと、佐伯君がそれにつづける。
『われわれを国家総動員法で身動きできないほど縛り上げたうえ、馬のように目隠しをして、一億火の玉になれと号令をかけて一直線に走らせた指揮者はだれだ。その馬に懺悔しろなど、何と虫のいいことをいう指揮者だ。それを批判しないジャーナリストは敗戦の虚脱でふ抜けになってしもうたんじゃないか。英霊にわびるくらいですむ問題じゃあない』
 私も1週間前の県議会議員の打って変った姿を思い出しながら話す。
『われわれが総懺悔論に反発するのもこの間の議員諸公が憤懣を県の理事者へぶっつけたのも、その相手は同じだよ。しかし目標がはっきりしないので、手近なところに対象を見つけて、やりようのない気持を発散させとるんじゃないのかな。ぼくはこの間から戦争責任の問題を深刻に考えとるが、どうも今度の戦争を起こした源流にまでさかのぼって反省し直す必要があるんじゃないかと思う。明治以来の軍閥やそれに加担した政治屋、財閥、官僚が上流で日本という大河を汚染させてしまっていたことをだ……』


 9月21日、GHGは 「日本に与える新聞紙法」 (プレス・コード) を指示します。同法は “自由な新聞の持つ責任とその意味を日本の新聞に教えるためのもの” で新聞以外のあらゆる刊行物にも適用されます。10カ条から成っており “連合軍にたいし破壊的な批判を加えたり同軍に不信もしくは怨恨をまねくようなことこと” “連合軍の動静” “公安を害するようなこと” などの報道を禁じています。

 実際の中国新聞の基本的な論調は 「広島の復興」 で、プレスコードが解除になっても原爆被害の実態や悲惨さを伝える記事は多くありませんでした。
 そのような状況を変えたのが54年3月1日のビキニ環礁での第5福竜丸が死の灰を浴びた事件でした。
 金井利博記者は、原爆を落とされた側の広島が人類に与えることができるのは落とされた現実の報告とそれに基づく忠告であるという視点に立ち紙面づくりを始めます。金井の指導を受けた若い記者も、在韓被爆者問題、沖縄の被爆者問題、被爆小頭症の問題など様々な問題を 「『人間』 の側から核兵器の問題見ていくという視点」 から原爆被害の記事を書き続けました。
 この取り組みはさまざまな集会で呼びかけられます。金井記者は1964年に開催された第10回原水爆禁止世界大会で呼びかけました。分裂含みの大会です。
原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」 「世界に知られているヒロシマ、ナガサキは、原爆の威力についてであり、原爆の被害の人間的悲惨についてでは」 ない。この広島での大会を主催する広島、長崎、静岡の 「三県連絡会議が単なる社会党、総評、親ソ路線に極限された平和運動でなく、もっと広く日本人の大衆的国民運動として幅広く盛り上がるためには、広島、長崎、あるいは焼津の原体験が、はたして十分に世界に知られているかどうか、どういう基礎的事実にもっと注目してよいのではないでしょうか。水爆に比べて、もはや広島型爆弾は威力ではなくなったとされ、その人間的悲惨は国際的に無視され、あるいは忘れられつつあるのではないでしょうか。平和の敵を明らかにする論争のなかで、まず被爆の原体験を国際的に告知する基礎的な努力がなおざりにされてはいないか」、そこで 「今、広島、長崎の被爆者が、その死亡者と生存者とを含めて心から願うことは、その原爆の威力についてではなく、その被災の人間的悲惨について、世界中の人に周知徹底させることである」

「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」
 このあくまで原爆被害を被爆者の立場に立って捉えなおそうという呼びかけは、その後の中国新聞の報道姿勢になっています。

 1995年8月6日、中国新聞労働組合は、原爆投下50年目を検証する8ページの 「ヒロシマ新聞」 を発行しました。
 題字の下には次のように書かれています。
「この新聞は、原爆投下で発行できなかった1945年8月7日付の新聞を、現在の視点で取材、編集したものです。被爆50周年に、一日も早い核兵器廃絶を願って製作、発行しました。」
 社説には訴えます。
惨状を前に、原子爆弾を投下した者に対する憎しみはわき起こる。しかし圧倒的な被害を前にして思う。憎悪による復讐は人類を滅ぼすことにつながるだけだ。この爆弾は、アメリカが日本に落としたものでなく、人類が人類に落とした兵器、そして歴史として刻まれるべきだ。
 私たちは、本日ここで起こっているできごとを多くの人に知らせなければならない。国境を越えて世界のあらゆる人々に知らせなければならない。時を超えて後の世のすべての人々にも広く知らせなければならない。
 死と破壊の惨状と、地獄の町に身を置いている者の体験を永遠に伝え続けていく。」



 日本政府は今年7月の核兵器禁止条約の採択に参加しませんでした。
 悲惨な体験はヒロシマ、ナガサキだけではまだ足りないのでしょうか。
この記事のURL | ヒロシマ | ▲ top
『この世界の片隅に』 生きた人びとの願いは
2016/11/15(Tue)
 11月15日 (火)

 広島は戦前は 「水の都」 そして 「軍都」 でした。呉は一貫して軍港です。
 1944年から45年の広島、呉を舞台にした映画 『この世界の片隅に』 を観てきました。昼からの部を観ようとしたら満席で、予約席を確保できたのは次の次の次の回でした。
 原作者こうの史代の漫画はだいぶ前に読みなした。そこにあった場面が登場するとなつかしさが感じられました。時代は戦時中ですが物語の登場人物がほのぼのとした人たちだからでしょうか。戦闘場面などはあえて避けて戦争の実態を訴えています。


 こうの史代の作品には 『夕凪の街』 もあり映画にもなりました。広島に原爆が投下された後、生き延びて原爆スラムで暮らす主人公の女性の心情を描いたフィクションです。多くの人びとが亡くなったなかで自分は生き延びたことに罪悪感を抱き続けます(2012年7月24日の 「活動報告」 参照)。 『父と暮らせば』 に似ています。


 『この世界の片隅に』 の主人公は広島市内から呉に嫁ぎ、家族と一緒に暮らします。夫は呉の軍に勤めています。
 呉は軍港で軍が駐留していますので米軍の攻撃を頻繁にうけます。そのもとでの人びとの生活が描かれています。
 映画のあらすじを紹介するのではなく、心に残った場面を紹介します。

 冒頭で、主人公が歌う 『悲しくてやりきれない』 が流れます。

   胸にしみる 空のかがやき
   今日も遠くながめ 涙をながす
   悲しくて 悲しくて 
   とれもやりきれない
   このやるせない モヤモヤを
   だれかに告げようか

 オリジナルは1978年にフォーククルセダーズが歌っています。作詞はサトーハチロー、作曲は加藤和彦です。フォーククルセダーズは予定されていた 『イムジン河』 のレコードが発売自粛になります。そのため急きょ 『悲しくてやりきれない』 が作られて発売されました。聞き方によっては抗議の歌にも聞こえます。
 サトーハチローは広島の原爆で弟を亡くしています。平和大通りにサトーハチロー記念碑が建っています。
 映画の主人公とフォーククルセダーズとサトーハチローの心情が重なります。


 1944年当時の広島中心部が映し出され、原爆ドームが元の姿で登場します。戦闘は海外で展開されていました。人びとの生活はまだおだやかでした。
 しかし原爆ドームの元の姿・産業奨励館は、1943年11月1日から内務省中国四国土木出張所が1階と3階の一部を接収、県庁も部分的に移転していました。
 土木出張所は、日本を東西2つに分けて統治しようとした計画の西の第二総軍地下司令部を、現在の広島駅北側に見える二葉山に建設中でしたがそのための事務所でした。地下司令部建設作業には朝鮮半島から80人から100人が強制連行されて働かされていました。強制連行のための事務所が原爆ドームでした。

 日本が敗戦になると呉の軍司令部が軍関係の資料の焼却を命令し、兵士たちはその作業に取りかかるシーンがあります。
 当時、軍はもとより内務省の指示で県知事からも書類等焼却の通達が出されました。実際にGHQが日本に上陸するにはそれなりの時間を要しました。その間のことです。
 現在、強制連行や軍隊慰安婦にされた当事者の謝罪要求や裁判が続いています。日本は事実がない、証拠がないと主張しますが、証人・証言以外の証拠は焼却されたのです。


 軍艦大和が沈没させられたといううわさが伝わります。そして呉の港にも軍艦や船舶が沈められました。

 以前参加したヒロシマ平和ツアーは、尾道まで足を延ばし、向島の旅館に泊まりました。すると坊主頭の青年たちの集団と一緒になりました。何をしに来ているのかと聞くと映画撮影だといいます。何の映画だと聞くと佐藤純彌監督の 『男たちの大和』 だといいます。主役たちはいいホテルに泊まっていますが準主役やエキストラッチです。いわれてみると長期滞在のようで玄関の横にはスケジュール表が貼ってありました。
 話をしながら完成したら絶対観るからと約束をしました。そういいながらも一緒に行った1人が説教をはじめました。「あんたたち、いい戦争、正義の戦争なんてないんだからね。人を殺したり、殺されたりするんだからね。軍隊をかっこいいものなんて思っちゃだめだよ」。青年たちは 「わかりました」 と答えました。そのうちの1人は 「今日僕は殺される役でした」 といって笑いました。
 向島には 『男たちの大和』 のアミューズがあります。
 もちろん封切直後に観にいきました。

 軍艦や船舶が沈められているシーンをみて実感しました。軍艦は沈められるためにある。兵士は殺される。そうわかっていながら軍事予算は組まれる。安全地帯にいるものがもうけます。これが戦争の本質です。
 殺された者の遺族の生活と安全地帯にいてもうけたものの家族の生活の違い、これが戦後の格差社会の始まりです。(2013年10月21日の 「活動報告」 参照)


 呉の街が焼かれます。すると広島の人たちが支援物資をもってかけつけます。
 8月6日の原爆投下の状況は、呉の人たちにとってはあたりが真っ白になって、しばらくしてから爆音が聞こえます。
 広島の街がひどい目にあったということがわかると、呉の人たちは炊き出しをして広島に届けます。

 今年10月21日、鳥取で大地震が起きました。鳥取は1943年にも2回大きな地震が起きまいた。この時に京都の学生が大勢ボランティアに駆けつけたという記録があります。学生はまだ徴兵を免除されていました。
 この恩返しにと、8月6日に広島が大きな被害にあったということを聞くと、鳥取や島根の人たちは炊き出しをしておにぎりをむすび、沢庵や梅干しと一緒に背負って中国山脈を歩いて越えて届けました。この人たちは放射能の恐ろしさを知りませんでした。いわゆる入市被爆者になります。
 人びとは、いつの時代も助け合って生きてきました。

 敗戦を告げられると、人びとはたくさんの人・ものを失いながらも生活を再開します。「この世界の片隅に」 生きていきます。
 東日本大震災、熊本震災で被災した人たちの姿が重なります。

 最後に字幕が流れます。しかし観客はだれも席を立ちませんでした。本当の最後に、さようならと主人公の右手が振られます。

 軍事法制改正、自衛隊の海外出動が進むことへの静かなアンチでした。


   「活動報告」 2013.10.21
   「活動報告」 2012.7.24
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | ヒロシマ | ▲ top
ウルトラマンは “かいじゅう”
2016/08/05(Fri)
 8月5日 (金)

 7月24日のTBSテレビ 「林先生が驚く初耳学!」 で林先生は、1966年から放映が開始された 「ウルトラマン」 は米軍を比喩していると回答しました。
 国語の予備校講師である林先生は、2014年の早稲田大学の入試に中沢新一の 『雪片曲線論』 が取り上げられていたのをチェックしていました。その中に、サンフランシスコ体制のなかで、怪獣はソ連といった東側の脅威、特捜隊は日本、ウルトラマンは米軍を比喩的に表現しているとあったといいます。
 1966年は中国の文化大革命が始まり、ベトナム戦争が激化していきます。それに対応して米軍の韓・日・台・フィリピンを結ぶ防衛ラインが強化されます。日本では沖縄に本土の米軍基地を移動させて強化していきます。「平和を守る」 強い 「正義の味方」 のウルトラマンは対中ソの防衛ラインです。非武装の日本・本土の多くの人びとはウルトラマンを頼もしく思って受け入れます。カラーテレビの普及が進むなかでの放映は、子どもたちを感化するにはもってこいの手法でした。


 今年1月から、〈ヒロシマ・2016 連続講座〉 が開催されています。第9回は、元朝日新聞記者の岩垂弘さんが 「広島の8・6を取材して半世紀」 のタイトルで講演しました。
 岩垂さんは被爆後の71年間をかえりみて7期に分けました。
 第1期は、45年 (原爆投下) から54年 (ビキニ被災事件) までです。米ソの核開発に対し、世界各地で核兵器反対署名運動が展開されました。しかし日本では、広島・長崎はローカルな事件としてあつかわれ、被爆者はほっとかれました。
 第2期は、54年から63年 (原水爆禁止運動の分裂) までです。54年のビキニ被災事件を契機に水爆反対運動が展開されますが、当初はヒロシマ・ナガサキの悲劇と切り離されていました。その後、日本の平和運動は “海外の影響をうけて” 高揚します。翌年8月、第1回原水爆禁止世界大会が広島市と長崎で開かれました。(14年2月28日の 「活動報告」 参照)
 第3期は、63年から77年 (原水禁運動の統一) までです。原水禁だけでなくあらゆる運動団体が分裂していましたが、原水禁運動だけは統一に向かいました。市民が統一を望んでいたのが要因です。
 第4期は、77年から86年 (原水禁運動の再分裂) までです。世界的に反核運動が盛り上がりました。国連軍縮会議にむけた署名運動なども展開され8.000万筆集まりました。しかし日本では労働運動における総評の解散と労戦再編が進む影響をうけて運動に亀裂が生まれました。
 第5期は、86年から91年 (ソ連の消滅=東西対立の終息) までです。新聞の原爆に関する報道は原水禁大会ではなく、平和祈念式典での市長の発言を取り上げるようになります。おもしろいのは、広島市長は 「である」 口調、長崎市長は 「であります」 の違いがありました。
 第6期は、91年から2011年 (福島第一原発の事故) までです。原爆は悪いけど原発はいいの風潮、潮流がありましたが、福島原発以降は原発も悪に転換します。
 そして第7期は、11年以降です。


 それぞれの期をもう少し検討してみます。
 53年8月、ソ連は水爆実験に成功します。(13年9月25日の 「活動報告」)
 12月8日、アメリカ・アイゼンハワー大統領は国連総会で、核技術を独占できなくなった状況をうけて核政策の転換を提案する 「平和のための原子力」 (Atoms for Peace) の演説をおこないました。
「先進4か国による核開発競争が世界平和にとって脅威になっている。この状況を変えるために……アメリカはこの線に沿って原子力の平和利用に関する共同研究と開発を各国とともに進めるため必要な援助を提供する用意がある。そしてこれにはアメリカの民間企業も参加させることにする。さらにこのような提案を実現するために国際機関 (のちの国際原子力機構:IAEA) を設立することも提案する」
 このアメリカの方針に沿って日本で原子力の平和利用を進めようとしたのが、読売新聞社主で日本テレビ放送網社長だった正力松太郎や中曽根康弘です。正力は、“アメリカ的平和政策” 推進のため奔走します。反共主義を煽り、テレビのプロレス中継で力道山がアメリカの選手を降伏するのに熱狂させるのは、原水爆禁止運動から目をそらさせ、高揚するのを抑える手段の1つだったといわれています。その姿勢は今も読売新聞と日本テレビでは引き継がれています。
 57年12月5日、 日本原子力発電株式会社が茨城県東海村を発電所敷地候補地に決定、66年7月25日、東海発電所が営業運転を開始します。日本における原子力の 「平和利用」 の開始です。鉄腕アトムはなんの疑問も持たれずに受け入れられていきます。
 いわゆる革新勢力とよばれた中にも産業復興、技術革新のために原子力は必要、原爆と原子力は違うと主張する者が大勢存在しました。それが平和運動内部においてもアメリカと中ソの核実験の評価の違いとなって表れ、64年の原水爆禁止運動の分裂にいたります。

 「平和のための原子力」 の演説が行なわれた53年、アメリカはUSIA (アメリカ広報・文化交流庁) を設立します。活動目的は 「米国の政策を妨害する敵対的な動きを暴露し、米国政府の政策に対する理解を促進するようなアメリカ人の生活や文化的側面を説明すること」 です。たとえば、「アメリカンセンター」 のような関連する機関を設立してさまざまな工作を進めます。教育者や労働者、メディア関係者、学生たちに接触し、日本の若いリーダーたちを渡米させる役割を担っていきます。
 心理戦略評議会 (PSB) という組織のもとで作られた 「対日心理戦略計画」 は 「日本の中にあった中立主義、共産主義、反米主義を無力化すること」 が目的でした。
 1950年代から80年代まで、アメリカから招待を受けたのは総評系で2000人、同盟系は1500人を上回るといいます。今まで、労働組合以外で招待されて訪米した数は2000人に及ぶといわれています。訪問者は、アメリカ社会の発展と市民の生活にあこがれを持って帰国したといいます。アメリカの戦略は成功しました。
 総評は原水爆禁止、基地撤去などの平和運動を担っていました。しかし距離を置く単産が増えていきます。


 54年3月1日に、アメリカがビキニ珊礁で初めて水爆実験をおこない、第五福竜丸など800隻の漁船が死の灰をあびました。9月23日、無線長だった久保山愛吉さんが 「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」 と言い残して急性放射線障害で亡くなります。
 第五福竜丸の被爆が報じられると 「水爆実験反対」 の署名運動が開始され全国に拡大します。特に第五福竜丸と同じマグロ漁船が寄港する港では 「次は自分かもしれない」 と身近な問題として取り組み、1年間で3千万人を超す署名が集まりました。(14年2月28日の 「活動報告」)
 11月、映画 「ゴジラ」 が公開されます。ゴジラは、水爆実験の衝撃により長い眠りから覚めて、ビキニ環礁の海底から姿を現した太古の怪獣で東京を襲います。水爆実験の恐ろしさをアナロジーさせました。
 この後、日本の平和運動は “海外の影響をうけて” て合流し、高揚します。翌年8月、第1回原水爆禁止世界大会が広島市と長崎で開かれました。

 この時の状況です。
「昭和29年 (1954年) 3月1日米国がビキニ珊礁で初めて水爆実験をおこなったが、それに対してはその前から平和運動者や婦人民主クラブなどによって反対運動がおこなわれていました。4月14日第五福竜丸が焼津に帰港して、死の灰をあびた乗務員たちが重体になり、その水揚げマグロから強度の放射能が検出されたことが新聞に報道されて、大さわぎになりました。死の灰が雨にまじって降るというので、子どもを持つ母親はふるえあがりました。雨にあたれば髪の毛が脱けるとか、皮膚にケロイドが出るとかいう話でもちきりで、仕事も手につかないほどでした。
 杉並では、偶然にも、その直前の1月に、当時杉並公民館長兼図書館長であった安井郁氏 (法政大学教授、国際法学者) の提唱で、杉並区内、自民党系や社会党系や共産党系までの多数の婦人団体をみんないっしょに結集した杉並婦人団体協議会が、新しく生まれたばかりのときでした。その婦団協の3月例会でも、水爆問題が大きく取り上げられて、なんとかしなければと話し合われました。その翌月の婦団協4月例会で、参加者の一主婦が発言して 「他の討論より、この放射能をどうするのか、どうしたら防げるかを先にやって下さい」 と切実に訴えました。後のほうにすわっていた魚屋のおばさんは 「私たち魚屋では放射能のため魚を買いにくる人がなくなりました。私の店だけではない、魚屋はどこでもそうです。昨日魚屋の組合が大会を開いて、水爆反対の署名を取ることにしました。杉並の婦人団体も署名運動をしてください」 と訴えました。中央あたりの席にいた私も発言を求めて 「私も署名運動に賛成ですからみんなでやりましょう」 と述べました。列席していた安井氏も積極的に賛成を述べて、婦人団体が率先して原水爆禁止署名運動にとりくむことになりました。
 4月17日には杉並区議会が水爆実験の禁止を要求する決議をしました。5月9日に杉並黄門館に杉並区民のあらゆる階層や団体を代表する人たちが3、40人集まって原水爆禁止署名運動杉並協議会が発足しました。」 (山内みな著 『山内みな自伝 12歳の紡績女工からの生涯』)

 気をつけて読むと気付きますが、最初は 「水爆反対の署名」 でしたが後になって 「原水爆禁止署名運動」 とあります。これが、第1期の 「日本では広島・長崎はローカルな事件としてあつかわれ、被爆者はほっとかれました」 の状況でした。その後もよく原水禁運動と広島・長崎の被爆者のあいだには温度差があるといわれました。


 55年10月に、2歳の時に被爆したが元気でしたが10歳で白血病が発症し、千羽鶴を折りながら亡くなった佐々木貞子ちゃんが亡くなります。思いを受け継いだ学友たちの呼びかけで像建設運動が開始され、全国から支援を受けて58年5月5日に 「原爆の子の像」 を建立します。(13年9月25日の 「活動報告」) 原水禁運動が燃え上がり、原爆ドーム保存を求める声が高まる中、66年7月11日、広島市議会は原爆ドームの保存を要望する決議を行い、67年から保存工事か始まります。

 では長崎の原爆遺跡はどうするか。広島の状況を見てUSIAから “変化球” が投げられます。
 49年9月、長崎市に市長の諮問機関として 「原爆資料保存委員会」 が発足します。散在していた原爆関係資料をまとめて保存するのが目的でした。浦上天主堂の廃墟も含まれていました。委員会は 「保存すべし」 の答申を出し続けます。
しかし55年、長崎市にアメリカからセントポール市と姉妹都市提携の申し入れがあり懐柔が始まります。市長が招待されて訪米し、1か月間滞在して帰国すると保存に消極的な姿勢を見せ始めます。
 58年3月14日、浦上天主堂は解体が始まります。原爆被害のシンボルが消されました。
 アメリカは原水禁運動の弱体化と原爆被害の実像を消去するのに必死でした。


 64年、原水爆禁止運動が分裂します。
 中国新聞の基本的な論調は 「広島の復興」 でした。(12年2月28日の 「活動報告」) 報道統制が解除になっても原爆被害の実態や悲惨さを伝える記事は多くありませんでした。この状況を変えさせたのが第5福竜丸が死の灰を浴びた事件です。
 金井利博論説委員は、原爆を落とされた側の広島が人類に与えることができるのは、落とされた現実の報告とそれに基づく忠告であるという視点から紙面づくりを始めます。金井論説委員の指導を受けた後輩記者も様々な視点から原爆被害の記事を書き続けます。
 64年に開催された分裂ぶくみの第10回原水爆禁止世界大会で金井論説委員は呼びかけを行います。対立は、ソビエト・中国の核兵器への評価です。絶対悪の主張と、アメリカ帝国主義の核所有に対する抑止力として必要という主張です。
「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。……
 世界に知られているヒロシマ、ナガサキは、原爆の威力についてであり、原爆の被害の人間的悲惨についてではない。……
 平和の敵を明らかにする論争のなかで、まず被爆の原体験を国際的に告知する基礎的な努力がなおざりにされてはいないか……
 今、広島、長崎の被爆者が、その死亡者と生存者とを含めて心から願うことは、その原爆の威力についてではなく、その被災の人間的悲惨について、世界中の人に周知徹底させることである」
 悲痛な訴えは聞き入れられませんでした。しかし中国新聞は今もこの路線を踏襲しています。


 こような中でウルトラマンは怪獣ではなく 「正義の味方」 のふりをして “懐柔” のために入れ代わり立ち代わり登場します。代行主義で 「平和」 と安心を強制し、人びとの意識をアメリカナイズしていきます。日米軍事体制は強化されます。
 ウルトラマンは、ソ連といった東側の脅威だけでなく平和運動勢力とも闘っていました。そして、沖縄はウルトラマン一族に制圧されてつづけています。

 第7期は、原発がなくても電力は維持されることを証明しています。しかしながらまた台頭してきた原子力の平和利用などという論理が核兵器開発と一体のものであり、それで経済活動をする “死の商人” のものであることを明らかにしています。ウルトラマンや鉄腕アトムは “死の商人” のセールスマンです。人びとの敵です。
 核の被害を経験した被爆者と原発に反対する人たちはこの “かいじゅう” に対しても手を携えて対峙していかなければなりません。
 愛媛県の伊方原発再稼働反対の訴訟に、はじめて広島の被爆者団体が参加しました。

  「活動報告」 2014.2.28
  「活動報告」 2013.9.25
  「活動報告」 2012.2.28
 当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | ヒロシマ | ▲ top
たくさんの 「もうひとつのヒロシマ」
2016/04/15(Fri)
 4月15日 (金)

 今年の1月から、トークセッション 「ヒロシマ・2016 連続講座」 が開催されています。これまでに4回開催されていますが、主催する方の努力で貴重な話を伺うことができています。

 1回目は 『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』 (文藝春秋) の著者堀川惠子さんです。
 土饅頭の形の原爆供養塔には、広島平和公園にある原爆で亡くなられたが引き取り手がいない遺骨約7万が納められています。
 原爆投下の翌年、市は散乱する遺骨を市役所と現在の平和公園の原爆投下前にお寺があったところに集めて弔いました。まもなく周辺に平和記念公園兼摂が浮上したので市は公園の中心部に移す計画を立てました。しかし法律で公園内にお墓はだめだと断られます。
 1955年、市民の寄付金で塚が再建されます。
 その塚を原爆当時27歳で、原爆で母親など親族20人以上を奪われた佐伯敏子さんは58年から半世紀近く喪服姿で通い、草取りや清掃を日課として続けました。市から地下室のカギを預かっていた方が佐伯さんに合鍵を渡します。地下室に入ると約2.200人の人名録があるのを発見します。それを書き写し、遺骨の遺族探しが始めました。その姿勢に動かされて市も活動をはじめます。佐伯さんは語り部の活動も続けてきました。
 
 堀川さんは元広島テレビのディレクターで現在はフリーのジャーナリストです。93年に佐伯さんに出会います。その後、再度佐伯さんに会ったときは老人保健施設にいました。
「知った者は歩き続けなければならないのよ。今は伝わらなくても、その人が知りたくなるのを待たないといけんよね。いつか通じあうときがくる」
 堀川さんは12年夏から佐伯さんの意思を受け継いで816人分の名簿から住所が判明している遺骨の遺族を探して全国を回ります。しかし住所が存在しなかったりします。
 19年から、江田島の北部に陸軍秘密基地がおかれ、本土決戦の特高要員として全国の農漁村から集められた特管隊と呼ばれた少年兵が2000人いました。彼らが遺体を焼いたり名簿を作成に動員されたことが分かります。被災者から聞き書きだったりしているときに間違ったりしたものと思われます。少年兵の過半は原爆症の症状で亡くなっていました。
 また遺族を尋ねあてても関係を持ちたくないという遺族もいました。
 名簿には10数人の韓国・朝鮮出身者と思われる 「日本名」 の遺骨があるといます。

 市は、毎年8月6日が近づくと名簿を公表しています。しかし 「それ以上」 は行いません。余計なことをするなというようなことを言われたりもしました。
 佐伯さんが堀川さんに言います。「生きとるもんは、勝手に年を刻んで、死者を過去のものにしてしまう。供養塔の地下に眠る死者はあの日のままなんよ」
 遺骨は 「安らかに眠れて」 いるのでしょうか。


 第2回目は気象学博士の増田義信さんです。1923年生まれですので現在93歳です。
 中央気象台付属気象技術養成所 (現気象大学) を卒業して49年から気象研究所勤務になります。まもなく 「行政整理」 という名の首切りが行われ、さらにレッドパージ攻撃で全気象労働組合は解散せざるを得ませんでした。しかし気象研究所は単独で労働組合を存続させます。組合役員は順番制でした。
 「ストックホルム・アピール」 が出され、原子兵器の無条件使用禁止などを要求する署名活動が開始されます。気象研究所労組も取り組みましたが、執行部は総務課長から呼び出されて署名は燃やされ、署名活動を中止しました。増田さんはこのような不条理を止めさせようと組合活動に本格的に取り組みます。

 1985年の原水禁世界大会に参加し、分科会で、原爆は熱戦、爆風、放射線で多くの人を殺傷するだけでなく、「黒い雨」 を降らせて環境を破壊すると報告しました。
 すると数人後に発言した方が 「先ほど 『黒い雨』 の話をした人がいたが、私たちは 『黒い雨』 の調査結果に迷惑している」という発言をしました。
 「どういう意味ですか」 と尋ねると 「あのような激しい雨が、あんなきれいな卵型で降ると思いますか」 と質問されました。増田さんは自分の不明を詫び、「私の責任で再調査してみましょう」 と約束しました。
 巨大な積乱雲から降る激しい雨は非常に不規則で、きれいな卵型のエリアだけに降ることはありません。黒い雨は原爆の爆発によって生じた火災によって巨大な積乱雲が作られ、その積乱雲から降る強い雨で、火災に伴うススのために色は黒く多量の放射性物資を含んでいました。
 増田さんの再調査は、広島県・市などの報告書や記録集、被爆者の手記集を読んでその中から黒い雨の記事を読みとる方法をとりました。

 卵型のエリアの黒い雨は、宇田道隆博士と当時の広島管区気象台の職員が調査したものです。増田さんはそのオリジナルデータを発見し、手記などのデータと宇田博士のデータを使った新たな暫定的な雨域を日本気象学会で発表しました。マスコミで 「広島の 『黒い雨』 従来より広範囲」 などと取り上げると各地から 「ここでも降った」 という情報が寄せられ、さらに詳しく調べる必要が生まれました。
 聞き取りとアンケート踏査などは島根県境まで及び、最終的に2125個の資料が得られました。それらの資料を各市町村の地区や部落ごとに分類・整理し、それぞれの地区や部落の雨の降り方を、宇田博士の手法を参考に、小雨、中雨、大雨の三段階に分類し、新しい黒い雨の図を完成しました。
 宇田雨域は、少しでも雨の降った小雨域は長径29キロ、短径15キロの卵型の領域で、1時間以上雨が降った大雨域は長径19キロ、短径11キロの同じく卵型の領域でした。
 一方、増田雨域はもっと複雑な形をしています。小雨域は爆心から北北西45キロ、島根県と広島県の検査会付近まで及び、東西方向の最大幅は36キロで、その面積は宇田雨域の約4倍に及びます。
 大きな特徴は、宇田雨域のようなきれいな卵型ではなく、極めて複雑な形をしていて、新しい大雨域は宇田雨域の小雨域に匹敵する広いです。特に特徴があるのは、旧広島市内の雨域で、爆心地付近はほとんど雨が降らず、その周囲を取り囲んで馬蹄形に大雨が降っていることです。

 65年 「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」 (原爆医療法) が制定されます。被爆地域の拡大の問題がでてきますが、76年にやっと宇田雨域が 「みなし被爆地」 になります。
 88年、広島県・市は 「黒い雨に関する専門家会議」 を設立し、91年5月に報告書を発表します。そこでは被爆地域拡大の要求を拒否しました。
 2004年11月、「みなし被爆地」 外にいた人たちが原爆症の認定を求めた裁判で、広島地裁は増田さんの証言を採用し、41人が勝訴しました。
 しかし増田雨域では採用されませんでした。今も広島原爆資料館の黒い雨の展示は宇田雨域だけです。内部被ばくを認めたくないからです。
 15年11月にも、被爆者援護法に基づく国の援護対象地域外にいた64人が、広島地裁に被爆者健康手帳の交付などを求めて訴訟を起こしました。黒い雨をめぐる救済範囲の妥当性を問う初めての訴訟です。

 内部被ばくの問題は福島原発事故でも問題になっています。増田さんは、黒い雨の雨域拡大を認めさせることは内部被ばくの危険性を認めさせることになると福島へも思いを寄せています。
 そして核兵器と原発は双子の悪魔、廃棄以外にないと話をしめくくりました。


 第三回は、『広島第二県女二年西組 原爆で死んだ学友たち』 の著書もある関千枝子さんです。昨年、広島での建物疎開をテーマにして 『ヒロシマの少年少女たち 原爆、靖国、朝鮮半島出身者』 (彩流社) を出版しました。
 広島市では、1944年11月に出された告示により建物疎開が始まります。街を4つに分けようとしました。
 45年8月6日は第6次建物疎開作業の真っ最中で、対象は県庁付近、土橋付近、鶴見橋付近など6か所です。そのうちのこれらの3か所は、現在の平和大通り (100メートル道路) の中にあります。大規模な防火帯を作る計画でしたが軍事用滑走路建設だったともいわれています。地区特設警備隊、地域・職域国民義勇隊、学校報国隊が大規模に動員されていました。

 広島平和祈念資料館は、8月6日に動員されていた地域、学校ごとの死者数などを表にした資料を作成しました。国民学校高等科、中学校、女学校は50校、引率者175人、生徒8222人が動員されていました。そのうち引率者113人、生徒5846人が亡くなっていることが明らかになっています。関さんは 「平和大通りは、子供たちの墓場だった」 と語ります。県庁付近は助かった者はいませんでした。鶴見橋付近はやけどが多かったといいます。

 しかし表を細かく調べると人数が合わなくなります。関さんは朝鮮半島出身の学徒の死ではないかという思いに至ります。
 戦時中の学籍簿が発見されたりしていますが、例えば第三国民学校高等科の名簿には6人の朝鮮出身とわかる名前があります。崇徳中学校は、表では58人が動員されて55人が亡くなっています。学籍簿が残っていますが、その中に朝鮮出身とわかる名前が1人います。
「動員学徒を 『準軍属』 にし、『遺族年金を支給する』 と決まった時、政府は、これを日本人に限ると決めた。これは他の 『恩給』 も同じだが、外国人は支給しないと定め切り捨てられたのである」
 準軍属は靖国に合祀されました。学校は名簿を提出するときに外国人を除外したのです。
「あの炎天下で同じように働き、汗水を垂らし、傷つき無残な死をとげた朝鮮の少年少女たちが消され忘れられたとすると……恐ろしいことではないだろうか」
 具体的には、在日2世の元プロ野球選手の張本勲氏のお姉さんは被爆死しています。しかし在籍していた第一国民学校 (現段原中学校) が1990年に建てた慰霊碑には名前はありません。
 
 関さんは、14年9月29日に、273人が安倍首相による靖国参拝は政教分離を定めた憲法に違反すると主張して起こした裁判の筆頭原告になっています。
 「広島第二県女二年西組 原爆で死んだ学友たち」 も63年に靖国神社に合祀されました。たまたまあの日は学校を休んでいましたが建物疎開作業に動員されていたら犠牲になって合祀されていたかもしれません。いやです。
 関さんは、昨今の状況に対して、裁判を通して警鐘を鳴らしたいと考えています。
「現在の動きは戦前の軍国主義や 『強い日本』 の再現を目指しており、憲法の平和的生存権に違反している。その凝縮が靖国神社だ。私たちは、あの戦争の惨禍から、絶対平和、基本的人権、国民主権の憲法をもった。首相の違憲行為を絶対に許せない」という思いです。

 トークセッション 「ヒロシマ・2016 連続講座」 は、この後もいろいろな企画が組まれています。


  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | ヒロシマ | ▲ top
| メイン | 次ページ