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原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます
2019/08/09(Fri)
 8月9日 (金)

 かなりもかなり前です。
 東京・九段会館で原爆症認定集団訴訟を支援する全国ネットワークが集会を開きました。会場のあちこちに模造紙大の 「焼き場の少年」 の写真ポスターが貼られていました。
 休憩時間に受付にいくと貼られなかったポスターが積んであります。
 「このポスターを分けてもらえないですか」 とそこにいた方にお願いすると売り物ではないですと断られました。するとそばにいたひとが 「どうせ使わないでしまってしまうなら売ってお金にした方がいいでしょう。分けてくださいよ」 と声をあげました。「私も欲しい」 という声が何人からもあがりました。
 「ちょっとお待ちください、主催者に聞いてきす」 といって戻ってくると 「100円でお分けできるそうです」 と答えました。数十枚がすぐに完売しました。

 そのポスターをいまも事務所に貼っています。
 ポスターの左下には写真を撮った占領軍のアメリカ空爆調査団の公式カメラマン、ジョー・オダネルの説明文があります。

  「焼き場の少年」

 1945年9月―佐世保から長崎に入った私は
 小高い丘から下を眺めていました。
 10歳ぐらいの歩いて来る少年が目にとまりました。
 おんぶ紐をたすき掛けにし
 背中に幼子をしょっています。
 この焼き場にやってきた強い意志が感じられました。
 しかも、少年は裸足でした。焼き場のふちに
 分から10分ほど立っていたでしょうか。
 もむろに白いマスクをした男たちが少年に近づき
 ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。この時、
 私は背中の幼子が死んでいるのに気がつきました。
 幼い肉体が火に溶け、ジューッと音がしました。
 まばゆい炎が舞い上がり、直立不動の少年の
 あどけない頬を夕日のように照らしました。
 炎を食い入るように見つめる少年の唇には
 血がにじんでいました。
 あまりにもきつく唇を噛みしめているので、
 唇の血は流れず下唇を赤く染めていました。
 炎が静まると、少年はくるりときびすを返し
 沈黙のまま焼き場を去っていきました。
 背筋が凍るような光景でした。


 集会では、この説明文の朗読のあと、フォークシンガーの横井久美子が峠三吉の詩 『にんげんをかえせ』 を 『アメイジング・グレース』 のメロディーで歌いました。

 ♪♪ ちちをかえせ ははをかえせ
   としよりをかえせ
   こどもをかえせ

   わたしをかえせ わたしにつながる
   にんげんをかえせ

   にんげんの にんげんのよのあるかぎり
   くずれぬへいわを
   へいわをかえせ ♪♪


 8月8日の深夜のテレビで、この 「焼き場の少年」 を探しているドキュメンタリ-番組が放映されました。「少年」 は数年前に亡くなっていました。


 「焼き場の少年」 はむごい光景です。
 オダネルは占領軍調査団のカメラマですが40年以上フィルムは現像しないままでした。しかし 「自分が伝えなければ伝えていく人がいない。持っているものをなんとか活用しなければ意味がないんじゃないか」 という危機感から公表します。


 昨年1月、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は 「焼き場の少年」 をポストカードにし 「戦争がもたらしたもの――」 のメッセージを添えて、世界に配布するよう指示しました。世界中の教会で配布されました。
 もちろんにわか信者となっていただきにいきました。


 ポスター、説明文、『人間をかえせ』 の歌を盛り込んで、原爆被害をうけた広島県第二女学校の状況を関千枝子著 『広島第二県女2年西組』 などの資料を寄せ集めて 寸劇 「ヒロシマ ガイド」 (教師編)― “にんげんをかえせ”―」 をつくり、市民運動や労働組合で発表しました。そこから抜粋です。

 (ガイド)
 長崎においても、広島でも、原爆で殺された親を子供が、子供を親が、兄弟を、家族を、自らの手で焼きました。職場の同僚を焼きました。
 学校でも、教師が同僚を、そして生徒を焼きました。
  ・・・

 (ガイド)
 8月6日、学校を休んでいたために助かった2年西組の関千枝子さんは学校に駆けつけました。
 関さんが、波多先生のことを、『広島第二県女2年西組』 に書いています。

 (朗読 女―4 (関))
 本地文枝の死体が運び出されるのを見送ったあと、私と林綾子は、玄関脇の部屋に入ってみた。この部屋に波多ヤエ子の遺体が置いてあると聞いたからである。……
 逃げ出したかったが、足がすくんでしまい、震えていると、急に、福崎ともう1人誰かが入ってきた。
  (朗読 男―2 (福崎)) 『オッ、ちょうどええ。手伝ってくれ』
 否も応もなかった。私と綾子は担架の足の柄を1つずつ持って、波多の遺体を学校の東隣に運んだ。そこは一面、蓮畑になっていた。
 蓮畑に波多の遺体を置き、そのあたりにあった木を運び、福崎が経を唱え、火をつけた。煙がまっすぐ上った。空は真っ青に晴れあがり、風もなく、強烈な太陽が照り返していた。
  (朗読 男―2 (福崎)) 『煙がまっすぐ上ると極楽へ行けるんじゃ』
 うめくような声で福崎はいった。私は福崎の気持ちがよくわかる。こうでもいわなければ、救いようがない気分だったのだろう。
 だが、その時の私は腹が立ってたまらなかった。福崎にだけではない。誰に対してもくってかかりたかった。
 『極楽へ行ってなんになる。こんなに苦しんで、焼けただれて――。極楽へ行ってなんになる』

    酒あふり 酒あふりて 死骸焼く
     男のまなこ 涙に光る (正田篠枝)

 (ガイド)
 8月12日か13日の朝のことです。
 誰も家の人が来ない生徒の遺体を前夜も焼きました。

 (朗読 女―3 (有田))
  (朗読 女―4 (生徒ⅲ)」 『先生お客様です』
 原爆投下の日以来ずっと被爆生徒の看病その他を手伝ってくれている女専の生徒の1人が私を呼びにきた。……
 初老の婦人が胸に四角い箱のようなものを抱いて1人歩いてきた。
 『有田でございます。あなた様は?』
  (朗読 女―2 (野村)) 『私は野村の母親でございます。娘はどこにおります
     でしょうか』

 小腰をかがめて丁寧に頭を下げた。
 『あっ、野村さんの!』 私は絶句した。この手で前夜野村さんの遺体を焼いたのである。私が手にしているザラ紙は、その野村さんと、もう1人の生徒のお骨上げに持って行こうとしていたものである。
 『あのう、その箱は?』 1分間でも野村さんの死の報らせを延したかった。
  (朗読 女―2 (野村)) 『はーい』
とまるで赤ん坊に乳房を含ませながらその子の頭を抱きしめ、もう一方の手で上を撫でながらその人は言った。
  (朗読 女―2 (野村)) 『はーい、これはあの子の兄の遺骨を、今、市役所から
     もろうて来たたところです、まだ暖かいんですよ。ほら、このように』

と箱を差し出され、私はだまって受け取った、温いように思えた。
『どうぞこちらへ』
  (朗読 女―2 (野村)) 『どこにおるんですか、火傷をしとるんでしょうか』
 ……『さあ、どうぞこちらへ』 と近くの一室に招じた。小さな室だった。誰もいなかった。お茶をすすめた。……
 私は目を閉じ大きな息をして、お母様の前に立った。
『お母様、実は、あのう』
  (朗読 女―2 (野村)) 『昭子はもしや』
 間髪を入れない問いかけであった。『はーい』
  (朗読 女―2 (野村)) 『やっぱり、やっぱりそうでありましたか』
 『私が引率して専売局へ参っておりました。何ともお詫びの申し上げようも』 と後はことばにならなかった。
  (朗読 女―2 (野村)) 『やっぱり死んだんですのう』  
『はい』
 野村さんを生み育てて17年間、優しく素直でお腹の底から優等生だった野村さんの記憶が、一度に蘇ってお母様の全部を占領してしまったのであろうか、どうしようもなく、どうしようもなく泣き崩れておしまいになった。その嗚咽は直かに私の胸を刺し、拳を握っても握っても立っているのがやっとであった。
 ……
 女専の物理教室で昏睡状態のまま4、5日間生き続けた野村さんであったが、どんなにかお母様に会いたかったのであろうか。
  (朗読 女―2 (野村)) 『それでどこに』
 『はい申し訳ございません、遺体は昨夜火葬にいたしました』 私は消え入りたかった。涙がこぼれた。頭が上がらなかった。
  (朗読 女―2 (野村)) 『2人も子供をとられて私はこれから何をたよりに生きて
    行ったらええんでしょうか』

 私は床にすわり、お母様の手をとったまま何も言えず2人で唯々哭いた。
 『野村さんともう1人の生徒のお骨上げに行こうとしている所へ、お母様がいらっして下さったのです。せめて、どうぞお骨拾いを』よろめくような足取りのお母様のお伴をして学校の裏へ出た。
『野村さん、お母様がいらっして下さったわよ、野村さん、お母様よ』
  (朗読 女―2 (野村)) 『昭子っ』
 灰はまだ熱かった。

 (ガイド)
 5年生の野村さんは広島専売局に動員されていました。
 工場の中で作業をしていたのですが、爆風で機械が倒れ、野村さんの頭を直撃しました。
 すぐに共済病院に運ばれましたが、病院は負傷者でごったがえしていて、治療を受けられまま、学校に連れ戻されました。

 学校は43年3月、文芸誌 『かがみ』 を発行しています。その中に野村さんは詩を載せています。

 (朗読 女―1 (野村娘))
   「影」
         野村昭子

 昔とほったこの道で
 私の影は母さんの半分ほどもなかったのに
 今2人でとほったら
 母さんよりも 私の影が長くなった
 私の影よ

 (ガイド)
 お母さんは、自分の背丈を越えるまで育て上げた娘の遺骨を拾いました。


 今年の長崎平和記念式典で長崎市長の 「長崎平和宣言」 はこのようにはじまりました。

 目を閉じて聴いてください。

 幾千の人の手足がふきとび 腸わたが流れ出て 人の体にうじ虫がわいた
 息ある者は肉親をさがしもとめて 死がいを見つけ そして焼いた
 人間を焼く煙が立ちのぼり 罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた
 ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった
 だけど……
 父も母も もういない 兄も妹ももどってはこない
 人は忘れやすく弱いものだから あやまちをくり返す
 だけど……
 このことだけは忘れてはならない
 このことだけはくり返してはならない どんなことがあっても……

 これは、1945年8月9日午前11時2分、17歳の時に原子爆弾により家族を失い、 自らも大けがを負った女性がつづった詩です。自分だけではなく、世界の誰にも、二度とこの経験をさせてはならない、という強い思いが、そこにはあります。
 原爆は 「人の手」 によってつくられ、「人の上」 に落とされました。だからこそ 「人の意志」 によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。
 ・・・


 これまでと比べると、騒がしい8月9日でした。8月8日を忘れさせようとしている、 「人の意志」 を奪おうとする者たちが騒いでいます。
 負けられません。

 「活動報告」 2018.8.7
 「活動報告」 2014.5.13
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“焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる”
2019/08/06(Tue)
 8月6日(火)

 さまざまなことに思いがめぐらされる8月です。そして、あらためて平和について考えさせられる月です。
 4日の 「朝日歌壇」 の、馬場あき子さん選のなかの3首です。

  子供らの戦争ごっこ 何故かくも楽しさうなる 死んだふりして

  原発が 都市生活と産業を人身御供に 稼働続ける

  被害者は語り伝える 加害者は語らず伝えず 忘れてしまう


 8月6日は、アメリカが広島に原爆を投下し、一瞬ににして十数万人を殺してから74年が経つ 「原爆の日」 です。「原爆忌」 と呼ぶとだれが落としたのかが忘れられてしまうような気がします。

 74年は短くない年月です。記憶が薄れかけたり、知らない世代も増えています。しかし8月6日と9日は忘れてはいけない日です。
 そのことを歌で訴えている人たちがいます。メロディーや歌詞が部分的にでも頭の片隅にこびりついていると思い出させてくれます。歌の持つ力です。忘れさせません。そして歌い継がれていきます。


 1936年に広島市で生まれたイラストレーターの山下勇三は広島弁で 「広島の川」 の詞を書きました。それに友人のピアニスト佐藤允彦が曲をつけ、中山千夏がうたって1975年にレコードにしました。
 永六輔は生前、毎年8月になると自分のラジオ番組で流しました。

   広島の川

  広島の街ゃあね
  川だらけじゃけんねェ
  ちょっと歩いたら
  川があるんじゃァ

  一番目の川は太田川
  太い川じゃけん 庚午橋ゃァ長いんじゃァ

  二番目の川は天満川
  古い川じゃけん 溺 (おぼ) れた子も多いんじゃァ

  三番目の川は本川じゃァ
  ふたまたじゃけん 相生橋ゃァ思案橋

  四番目の川は元安川
  ピカドン川じゃけん 盆にゃ涙川

  五番目の川は京橋川
  長い川じゃけん 橋の数ァ十一本

  六番目の川は猿猴川
  けつべたァ抜かれるけん 子どもは泳がんのじゃァ

  朝の満ち潮にゃねェ
  昼の引き潮にゃねェ
  ピカドンの恨みが 流れとるんじゃ~

 大きな声で叫ばなくても、被爆者やその関係者の心情、二度と繰り返させないと誓う者たちの 「忘れてはならない」 という思いが静かに、強く伝わってきます。


 1946年生まれで、小学校の頃からときから大学まで広島で育った吉田拓郎の 「いつも見ていたヒロシマ」 です。作詞は岡本おさみ。
 吉田拓郎は、1960年代後半にストレートな歌詞でプロテストソングをうたったフォークシンガーたちの次の世代として登場しました。しかし 「いつも見ていたヒロシマ」 の歌詞とメロディーに込められている思いはプロテストソングです。そして吉田拓郎世代が共有するものです。

   いつも見ていたヒロシマ

  八月の光がオレを照らし
  コンクリートジャングル 焼けつく暑さが
  オレの心をいらつかせる
  癒せない 満たせない 慰めもない
  深い祈りと 深い悲しみ 渇いた心をかかえて

  オレは何処へ行こう 君は何処へ行く
  時は押し流す 幾千の悲しみを
  時は苦しめる 幾千の思い出を
  焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる

  子供らにオレ達が与えるものはあるか
  安らかに笑う家はいつまであるか
  いつもいつも 遠くから遠くから 見ていたヒロシマ

  八月の神がオレを見つめ
  コンクリートジャングル 逆らう日々が
  オレの心を苛立たせる
  笑えない 落ち着けない 安らぎもない
  歌う敵と 歌う真実 見えない心を抱いて

  オレは何処へ行こう 君は何処へ行く
  時は忘れ去る 幾千のごまかしを
  時は汚してる 幾千のやさしさを
  焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる

  子供らにオレ達が与えるものはあるか
  安らかに笑う家はいつまであるか
  いつもいつも 遠くから遠くから 見ていたヒロシマ

 吉田拓郎からヒロシマはいつも離れませんでした。そして焼けつきたヒロシマは、それでも多くの人に愛をささやき続けています。


 1952年に長崎で生まれたさだまさしは中学生の時上京、大学生の時。しかし身体を壊して長崎に帰り、そこで音楽活動を始めます。
 長崎に住む親族の体験を盛り込んだ、そして自分の思いを秘めた歌を作ります。広島でのコンサートでも歌われました。

   広島の空

  その日の朝が来ると 僕はまずカーテンを開き
  既に焼けつくような陽射しを 部屋に迎える
  港を行き交う船と 手前を横切る路面電車
  稲佐山の向こうの入道雲と 抜けるような青空

  In August nine 1945 この町が燃え尽きたあの日
  叔母は舞い降りる悪魔の姿をみていた
  気付いた時炎の海に独りさまよい乍ら
  やはり振り返ったら稲佐の山が見えた

  もううらんでいないと彼女は言った
  武器だけを憎んでも仕方がないと
  むしろ悪魔を産みだす自分の
  心をうらむべきだから どうか
  くり返さないで 繰り返さないで
  広島の空に向かって唄おうと
  決めたのは その時だった

  今年のその日の朝も 僕はまずカーテンを開き
  コーヒーカップ片手に 晴れた空を見上げ乍ら
  観光客に混じって 同じ傷口をみつめた
  あの日のヒロシマの蒼い蒼い空を思い出していた

  In August nine 1945 あの町が燃え尽きたその日
  彼は仲間たちと蝉を追いかけていた
  ふいに裏山の向こうが 光ったかと思うと
  すぐに生温かい風が 彼を追いかけてきた

  蝉は鳴き続けていたと彼は言った
  あんな日に蝉はまだ泣き続けていたと
  短い命 惜しむように
  惜しむように泣き続けていたと どうか
  くり返さないで くり返さないで
  広島の空に向かって唄っている
  広島の空も 晴れているだろうか

  くり返さないで くり返さないで
  広島の空に向かって唄っている
  広島の空も 晴れているだろうか

 原爆被害を受けても蝉は鳴き続けていたといいます。多くの被爆者が泣き叫びながらさまよい続けたのは人間の叫び、生へ希求です。その思いを蝉に重ねているのでしょうか。
 長崎から広島に思いを馳せます。思いを分かり合える人たちです。恨んでも憎んでも平和はこないとさとります。
 さだまさしは 「長崎の空」 も作っています。


 どれも威勢のいい曲ではありませんが、戦争を憎み、そのおもいはなにものにも屈しないという強さがあります。
 8月6日の 「朝日川柳」 です。

  原爆ドーム 言いたいことを たんと持ち

  「活動報告」 2018.10.2
  「活動報告」 2018.8.28
  「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」 ホームページ・ご相談はこちらから
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「たくさんの被爆者が今もつらい思いをしていることを考えてみる必要があります」 吉永小百合
2018/10/02(Tue)
 10月2日 (火)

 9月26日、「核兵器の全面的廃絶のための国際デー」 記念イベントとして、明治大学を会場に、核兵器廃絶日本NGO連絡会主催の 「核兵器なき世界へ向けて ~被爆国の役割を考える~」 集会が開催されました。
 核兵器の全面的廃絶のための国際デーは、2013年の国連総会で制定されました。「核兵器が人類に及ぼす脅威と核兵器の全面的廃絶の必要性に関する社会の認識を高め、教育を充実させるために国際デーを記念し、普及させる」 ことを目的とします。毎年、国連事務総長がメッセージを発表し、記念したイベントが実施されます。
 今年の国連事務総長アントニオ・グテーレス氏のメッセージ・軍縮アジェンダのタイトルは 「共通の未来のために」 です。

 会場を提供した明治大学副学長のあいさつです。「明治大学は全国の大学に先駆けて戦争に協力する研究に関与することを拒否する宣言を発表しました。」
 多くの方が発言に立ちました。
 日本原水爆被害者団体協議会代表委員は核兵器禁止条約の批准状況を報告しました。核条約の前文には 「ヒバクシャの苦しみに留意する」 と盛り込まれています。9月26日段階で14カ国です。しかし見通しは決して暗いものではありません。

 発言で注目を浴びたのが吉永小百合さんとICAN国際運営委員の川崎哲さんによるトークです。
 吉永さんは、まず、政府は核兵器禁止条約にたいしてアプローチが違うと批准していませんが、何とか平和な社会を作っていけたらと思っていますと話しをはじめました。
 ICANのキャンペーン会議で発言したカナダ在住の被爆者のサーロー節子は 「日本にいるあなたたちはどう考えていますか」 と質問してきました。思いは 「核兵器はいらない、核の傘はいらない」 ということです。
 朗読活動をしています。聞いた子供たちも、同じことが起きないためにはどうしたらいいかと質問してきます。
 オーストリアにいきました。風車がたくさんありました。1986年にチェルノブイリ原発事故までは電力を原発に頼っていました。しかし事故後原発を続けるかどうかを国民投票にかけました。結果は 「ノー」 でした。政府はそれを実行しました。さらにその後も国民投票でどうするかを問いました。やはり 「ノー」 でした。
 ヒロシマ、ナガサキを経験し、さらにフクシマを体験した日本政府は見習うべき対応です。たくさんの被爆者が今もつらい思いをしていることを考えてみる必要があります。
 これまで原爆をテーマにした3本の映画に出演しました。
 1本は、大江健三郎の 『ヒロシマノート』 に数行出てくる若い被爆者を主人公にした66年の作品 『愛と死の記録』 です。主人公は4歳の時に被爆しますが青年になってから白血病で亡くなります。その恋人役です。これが被爆者とのかかわり、原爆を考えるきっかけとなりました。2本目は、体内被曝した女性を演じた81年の 『夢千代日記』 です。そして被爆死した医大生とその母の思いをテーマにした15年の 『母と暮らせば』 です。医大生のモデルは元長崎大学学長の土山秀夫さんです。
 今の思いは、「核兵器のことをもっと考えましょう」 ということです。

 川崎さんの発言です。
 被爆者の声は 「核兵器は非人道的」 です。
 オーストリア政府が原発を止めたとき市民は政府を応援しました。核兵器廃止は無理の声はずっとありましたが原発被害は核兵器と同じです。核兵器禁止条約にはためらうことなく批准しました。その姿勢は政府の判断ではなく、国民が政府を後押ししました。せっかく出来たのだからと政府に働きかけました。
 大事なことは発言を封じ込めることをしないで世論を作り上げることです。


 しかし発言に立った外務省の軍備管理軍縮課長は、核兵器禁止条約ではなく国連に核兵器廃絶決議案を提出し、核兵器を持つ国と持たない国の橋渡しをして核兵器廃止を働きかけていくと改めて政府の立場を表明しました。それが 「被爆国の役割」 だといいます。
 理由は、核兵器を持つ国には理由があり、核兵器禁止条約に参加できない。安全保障の問題で対応しなければならない面もあるといいます。
 結局は、日本政府はアメリカの傘に守られて安全保障を維持するということです。(2月9日の 「活動報告」 参照)


 高校生平和大使の代表が発言しました。
 今年は20人の高校生平和大使が、高校生1万人署名活動実行委員会がこの1年で集めた10万8476筆の署名を軍縮会議が開催される国連欧州本部に提出しました。
 国連欧州本部には高校生1万人署名活動実行委員会の署名を永久保存するとともに専用のスペースが設けられて展示されていたとのことでした。(8月28日の 「活動報告」 参照)


 メッセージを発表した国際連合事務総長アントニオ・グテーレス氏は、今年、長崎平和祈念式典出席しました。長崎の被爆者に寄り添っているメッセージのほうを紹介します。

 「長崎の皆様、こんにちは。」
 「皆様にお目にかかれて、光栄です。」
 本日、この平和式典において、ご参列の皆様とともに、1945年8月9日に、ここ長崎で原子爆弾の攻撃で亡くなられたすべての方々の御霊に謹んで哀悼の意を捧げられることを光栄に思います。
 今日ここにご参列の皆様、ならびに原爆のすべての犠牲者と生存者の皆様に対し、最も深い尊敬の念を表明します。
 ここ長崎を訪問できましたことは、私自身にとっても大変な喜びです。5世紀近くにわたり、私の国、ポルトガルは、この街と深い政治的、文化的、宗教的なつながりがあります。
 しかし、長崎は、長い魅力的な歴史を持つ国際都市というだけではありません。より安全で安定した世界を希求する世界のすべて人にとっての、インスピレーションでもあります。
 この皆さま方の街は、強さと希望の光であり、人々の不屈の精神の象徴です。
 爆発の直後、そしてその後何年、何十年にもわたって十数万もの人々の命を奪い、人身を傷つけてきた原爆も、あなたがたの精神を打ち砕くことはできませんでした。
 広島と長崎の原爆を生き延びた被爆者の方々は、ここ日本のみならず、世界中で、平和と軍縮の指導者となってきました。彼らが体現しているのは、破壊された都市ではなく、彼らが築こうとしている平和な世界です。
 原爆という大惨事の焼け跡から、被爆者の方は人類全体のために自らの声を上げてくれました。私たちは、その声に耳を傾けなければなりません。
 決して広島の悲劇を繰り返してはなりません。長崎の悲劇を繰り返してはなりません。一人たりとも新たな被爆者を出してはなりません。
 
 ご来賓の方々、ご列席の皆様、児童・生徒の皆さん
 悲しいことに、被爆から73年経った今も、私たちは核戦争の恐怖とともに生きています。ここ日本を含め何百万人もの人々が、想像もできない殺戮の恐怖の影の下で生きています。
 核保有国は、核兵器の近代化に巨額の資金をつぎ込んでいます。2017年には、1兆7000億ドル以上のお金が、武器や軍隊のために使われました。これは冷戦終了後、最高の水準です。世界中の人道援助に必要な金額のおよそ80倍にあたります。
 その一方で、核軍縮プロセスが失速し、ほぼ停止しています。
 多くの国が、昨年、核兵器禁止条約を採択したことで、これに対する不満を示しました。
 また、核兵器以外にも、日々、人々を執拗に殺傷する様々な兵器の危険も認識せねばなりません。
 化学兵器や生物兵器などの大量破壊兵器や、サイバー戦争のために開発されている兵器は、深刻な脅威を呈しています。
 そして、通常兵器で戦われる紛争は、ますます長期化し、一般市民への被害はより大きくなっています。
 あらゆる種類の兵器について緊急に軍縮を進める必要性がありますが、特に核兵器の軍縮はもっとも重要で緊急の課題です。
 このような背景の下、今年5月に私はグローバルな軍縮イニシアティブを発表しました。
 軍縮は、国際平和と安全保障を維持するための原動力です。国家の安全保障を確保するための手段です。軍縮は、人道的原則を堅持し、持続可能な開発を促進し、市民を保護するのを助けます。
 私の軍縮アジェンダは、核兵器による人類滅亡のリスクを減らし、あらゆる紛争を予防し、武器の拡散や使用が一般市民にもたらす苦痛を削減するために、現在の世界で実現可能な様々な具体的な行動を打ち出すものです。
 このアジェンダは、核兵器が、世界の安全保障、国家の安全保障、そして人間の安全保障の基盤を損なうことを明らかにしています。核兵器の完全廃絶は、国連の最も重要な軍縮の優先課題なのです。
 ここ長崎で、私は、すべての国に対し、核軍縮に全力でとり組み、緊急の問題として目に見える進歩を遂げるよう呼びかけます。核保有国には、核軍縮をリードする特別の責任があります。
 長崎と広島から、私たちは、日々平和を第一に考え、紛争の予防と解決、和解と対話に努力し、そして紛争と暴力の根源に取り組む必要性を、今一度思い出そうではありませんか。
 平和とは、抽象的な概念ではなく、偶然に実現するものでもありません。平和は人々が日々具体的に感じるものであり、努力と連帯、思いやりや尊敬によって築かれるものです。
 原爆の恐怖を繰り返し想起することから、私たちは、お互いの間の分かちがたい責任の絆をより深く理解することができます。
 私たちみんなで、この長崎を核兵器による惨害で苦しんだ地球最後の場所にするよう決意しましょう。
 その目的のため、私は、皆さま方と共に全力を尽くしてまいります。
 「ありがとうございます。」
                        国際連合事務総長 アントニオ・グテーレス


 核兵器禁止を求める声はもはや 「微力」 ではありません。核兵器禁止は 「I CAN」 です。

 「活動報告」 2018.8.28
 「活動報告」 2018.7.6
 「活動報告」 2018.2.9
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“微力だけども無力じゃない”
2018/08/28(Tue)
 8月28日 (火)

 8月25日、ナガサキから 「核廃絶」 を訴える高校生平和大使が国連に向かって出発したというニュースがありまいた。14都道府県の平和大使18人と福岡で合流し、高校生1万人署名活動実行委員会がこの1年で集めた10万8476筆 (そのうち海外で集められた署名1,523筆) の署名を28日にジュネーブの国連欧州本部に提出します。
 ジュネーブでは軍縮会議を傍聴、日本政府代表部主催のレセプションに出席、昨年のノーベル平和賞受賞団体 「核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN)」 の事務局なども訪問して31日に帰国します。

 高校生平和大使は1998年5月のインドおよびパキスタンによる核実験を契機に長崎の声を国連に届けるために派遣されました。それ以降も毎年国連に派遣されています。2001年からは世代をバトンタッチしながら高校生が集めた核兵器廃絶を求める署名を夏の国連軍縮会議にあわせて国連に代表が届けています。今年で18回です。
国連欧州本部に提出しています。
  署名を始めた当時は力になるのかの声もききました。しかし継続しました。その時のみんなの思いが “微力だけども無力じゃない” です。今は平和活動を行うときの合言葉となっています。原爆の恐ろしさと核兵器の廃絶をもう一度考えなおすきっかけづくりにもなっています。さらに県外の高校生の仲間も生まれました。大人たちを突き動かしています。
 これまでに集まった署名累計数は、1.785.688筆となりました。国連に展示されている唯一の署名として影響を与えています。
 “微力だけども無力じゃない” のフレーズは、8月9日の平和記念式典での長崎市長の平和宣言でも何度か引用されてます。核廃絶が実現するまでの長崎の合言葉になるようです。

 4月20日、高校生平和大使は、ノルウエーのノーベル委員会から、2018年のノーベル平和賞の候補に登録されたとの連絡がありました。330の候補があります。受賞者の発表は10月5日です。


 長崎に原爆が投下された8月9日早朝、長崎市松山町の爆心地公園では、「原爆落下中心地碑」 を高校生らが手をつないで囲む 「人間の鎖」 を作り、核兵器廃絶への決意を固めました。
 平和記念式典での長崎市長の平和宣言です。
「平和な世界の実現に向け、私たち1人ひとりに出来ることはたくさんあります。
 被爆地を訪れ、核兵器のおそろしさと歴史を知ることはその一つです。自分のまちの戦争体験を聴くことも大切なことです。体験は共有できなくても、平和への思いは共有できます。
 長崎で生まれた核兵器廃絶一万人署名活動は、高校生の発案で始まりました。若い世代の発想と行動力は新しい活動を生み出す力を持っています。
 折り鶴を折って爆心地に送り続けている人もいます。文化や風習の異なる国の人たちと交流することで、相互理解を深めることも平和につながります。自分の好きな音楽やスポーツを通して平和への思いを表現することもできます。市民社会こそ平和を生む基盤です。『戦争の文化』 ではなく 『平和の文化』 を、市民社会の力で世界中に広げていきましょう。」


 「核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN)」 については7月6日と1月20日の 「活動報告」 で触れました。
 昨年7月7日、国連で核兵器禁止条約が採択されました。しかし6月15日から続いた交渉会議にはアメリカ、ロシア、フランス、中国、そして日本の代表は欠席しました。
 参加していた松井広島市長の提案で、これらの国の机に持参してきた平和首長会議の関係者が折った折り鶴が置かれました。松井市長は日本の席には置きませんでした。すると出席していた広島県北広島町から参加していた被爆者のかたが 「市長が置かないなら私が」 と置きました。町役場の職員から預かってきた千羽鶴の一部です。折り鶴は無言の抗議をしています。
 条約は、国連参加国のうち122カ国の賛同を得て採択されました。
 それぞれの政府を突き動かすなどの原動力になったのがICANの運動です。
 ICANは昨年ノーベル賞受賞を受賞しました。核兵器禁止条約の採択とあわせて核を所有する各国政府に対峙して、「核兵器廃絶」 の市民の声が実現できるという新たな希望を与えてくれました。


 核兵器禁止条約に欠席した日本政府は10月、国連総会に核兵器廃絶決議案・ 「核兵器の全面的廃絶に向けた新たな決意の下での共同行動決議案」 を提出しました。1994年から毎年提出しています。
 一昨年は167カ国の賛成を得ました。しかし昨年は144カ国に減りました。一昨年賛成した国のうち14カ国が危険にまわり、危険だったイギリス、フランスが賛成に回りました。
 核兵器禁止条約をめぐって、条約を支持する非核保有国と、反対する核兵器保有国や核の傘に頼る同盟国との対立が強まったのが原因といわれます。

 アメリカ、イギリス、フランスが賛成する核兵器廃絶決議案とはどのようなものなのでしょうか。
 「核兵器なき世界の実現に向けたさまざまなアプローチに留意する」 の表現を新たに盛り込みましたが、核兵器禁止条約については明記しませんでした。また、北朝鮮による核実験や大陸間弾道ミサイル (ICBM) 発射に言及することで 「安全保障上の懸念に向き合わずに核軍縮だけを進めるのは非現実的」 と主張する核保有国や同盟国に配慮します。
 さらに昨年の決議にあった 「核兵器のあらゆる使用」 が壊滅的な人道上の結末をもたらすと明記していた文言から今年は 「あらゆる」 を削除しました。核兵器の非人道性の表現を弱めたことなどから、核保有国である米英仏の支持を得られました。
 核実験全面禁止条約 (CTBT) 発効の障害となっている米国など8カ国の未批准国に批准を要請する文言も表現が弱められ、核保有国に核軍縮の責務を課す核拡散防止条約 (NPT) 第6条への言及も削除されました。
 被爆国として核廃絶を訴えながらも、核禁条約に賛同しない日本の核政策は、整合性がありません。


 もう一度長崎市長の平和宣言です。
「1946年、創設されたばかりの国際連合は、核兵器など大量破壊兵器の廃絶を国連総会決議第1号としました。同じ年に公布された日本国憲法は、平和主義を揺るぎない柱の一つに据えました。広島・長崎が体験した原爆の惨禍とそれをもたらした戦争を、二度と繰り返さないという強い決意を示し、その実現を未来に託したのです。
 昨年、この決意を実現しようと訴え続けた国々と被爆者をはじめとする多くの人々の努 力が実り、国連で核兵器禁止条約が採択されました。そして、条約の採択に大きな貢献をした核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN) がノーベル平和賞を受賞しました。この二つの出来事は、地球上の多くの人々が、核兵器のない世界の実現を求め続けている証です。
 しかし、第二次世界大戦終結から73年がたった今も、世界には14450発の核弾頭が存在しています。しかも、核兵器は必要だと平然と主張し、核兵器を使って軍事力を強化しようとする動きが再び強まっていることに、被爆地は強い懸念を持っています。
 核兵器を持つ国々と核の傘に依存している国々のリーダーに訴えます。国連総会決議第 1号で核兵器の廃絶を目標とした決意を忘れないでください。そして50年前に核不拡散条 約 (NPT) で交わした「核軍縮に誠実に取り組む」という世界との約束を果たしてください。人類がもう一度被爆者を生む過ちを犯してしまう前に、核兵器に頼らない安全保障政策に転換することを強く求めます。
 そして世界の皆さん、核兵器禁止条約が一日も早く発効するよう、自分の国の政府と国 会に条約の署名と批准を求めてください。日本政府は、核兵器禁止条約に署名しない立場をとっています。それに対して今、300を超える地方議会が条約の署名と批准を求める声を上げています。日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます。」

 日本政府は、悲惨な体験はヒロシマ、ナガサキそしてフクシマだけではまだ足りないというのでしょうか。
高校生平和大使、ICANは若者たちが中心です。
「わたしたちは、想像することによって、共感することができます。」
 被爆者を証言をきき、その悲劇を繰り返さないための活動を続けています。
 今年の秋こそは、核兵器廃絶の運動がさらに進んで核兵器禁止条約が締結され、高校生平和大使がノーベル平和賞を受賞する吉報を待ちたいと思います。

 「活動報告」 2018.7.6
 「活動報告」 2018.1.20
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天を撃つな 戦雲を射て  人を撃つな 戦禍を射て
2018/08/07(Tue)
 8月7日(火)

 8月6日の毎日新聞に 「広島原爆の日 父の悲しみ、語り継ぐ 『伸ちゃんの三輪車』」 の見出し記事が載りました。
 原爆資料館に展示されているあの 「伸ちゃんの三輪車」 です。
「被爆2世として決意
 毎朝小さな地蔵に手を合わせる父の背中が、日常の風景だった。広島市中区の原爆資料館で多くの来館者の心を揺さぶる 『伸 (しん) ちゃんの三輪車』。被爆死した我が子を三輪車とともに自宅の庭に埋めた故・鉄谷信男さんの深い愛情と悲しみを伝える代表的な遺品だ。戦後生まれた三男の敏則さん (69) は、多くを語らなかった信男さんが地蔵の前で毎日つらい記憶と向き合っていたと後に気付いた。『被爆2世として父を語り継ぐ』。73回目の夏、新たな決意をした。
 信男さんはあの日、爆心地から1.5キロの薬局を営んでいた自宅で家族と被爆。3人の子供を失った。自宅前で三輪車で遊んでいた長男、伸一ちゃん (当時3歳) はやけどで顔がはれあがり、『水、水』 とうめきながらその夜に死亡。翌日には焼け跡から長女路子 (みちこ) さん (同7歳)、次女洋子ちゃん (同1歳) の遺骨が見つかった。信男さんは伸一ちゃんを火葬する気になれず、一緒に遊んでいて亡くなった近所の女の子と手をつながせ、大好きだった三輪車と一緒に庭に埋めた。そこに 『伸一に似ている』 という小さな地蔵を置いて、毎朝線香を立てて手を合わせるようになった。
 被爆から40年の1985年7月、信男さんは自宅の建て替えを機に伸一ちゃんを掘り起こそうと決め、親戚や一緒に埋葬した女の子の母親ら十数人が庭に集まった。敏則さんらが50センチぐらい掘ると、三輪車のハンドルが見つかり、さらに掘ると、白い骨が出てきた。丁寧に土を払っていくと、手を重ねたままの2人の姿があった。小さな指先、頭蓋骨 (ずがいこつ) もほぼ残っていた。敏則さんは驚いたが、『父は取り乱すことなく静かに見ていた』。遺骨は墓に移し、三輪車は原爆資料館に寄贈した。
 信男さんは三輪車の展示を機にメディアの取材も受けるようになったが、敏則さんら家族に被爆当時や伸一ちゃんについて語ることは一貫してなかった。幼い敏則さんが伸一ちゃんを埋めた場所のそばを走り回っても怒らず、地蔵に拝めとも言わなかった。強く印象に残っているのは朝食前、庭先で地蔵に静かに向かい合う父の姿だ。遺骨を掘り起こした後もやめず、98年に亡くなるまで続けた。
 『あまりに当たり前の風景だったので、何となく始めた』 とその後は敏則さんが引き継いだ。毎日手を合わせるうちに、気付いた。『毎日地蔵の前に行くことは、毎日子供を失ったあの時を思い出すということ。私なら耐えられないが、どんなにつらくても忘れたくなかったのだろう』
 70歳が近づき、メディアなどを通してしか知らなかった父の体験や思いを自分でたどりたいと考え、書き残したものや記録を探し始めた。6日朝もいつものように手を合わせた敏則さんは 『それぞれの家庭に被爆体験の伝え方がある。うちは父が背中で、ごく自然に忘れてはいけないと教えてくれた』。父の姿を子や孫たちに伝えることが、自分の役割だと思っている。」


 2012年8月3日の 「活動報告」 の再録です。
 1996年8月6日、広島市主催の原爆慰霊祈念式典のあと、国鉄労働組合が建立した 「国鉄原爆慰霊の碑」 が建つ東白島公園に向かいました。10時半から国労主催の慰霊式典が開催されます。
 碑文です。

  天を撃つな
  戦雲を射て
  人を撃つな
  戦禍を射て
   原爆広島に眠る
   無名の霊よ
   国鉄の魂よ
   霊の目はみつめ
   魂の手はつかむ
   平和と未来を

 なっぱ服を着た青年労働者たちが 『機関車のうた』 を合唱しました。

 1.朝日を浴び 夕日を受けて
   地平線を切り開き走る
   ほどばしる汗の中に
   親父の顔がのぞく
   青い旗 赤い旗
   油まみれの黒い旗
   長い歴史を刻み込んで走り続けた
   *あの日 焼け跡の中から
    一番列車を走らせた俺たち
    それは使命 それは愛
    俺たちは機関車 俺たちは機関車
 2.星空の夜も 夜明けに向けて
   暮らし運ぶ 機関車走る
   ほどばしる汗の中の
   おふくろの顔がのぞく
   こみあげるこの思い
   悲しみこらえ 走らせる
   ふるさと愛する心で 走り続けた
   * (くりかえし)
 
   鉄路は誰のもの ふるさとは誰のもの
   涙を怒りに変えよう
   涙を怒りに変えよう
   友よ闘おう 友よ闘おう
   町から町 海から山 国中の大地から
   ひたむきに走れ機関車
   号笛よ響け 鉄路よ歌え あー

 1945年8月6日午前8時15分、爆心地から北東に約1.5キロ離れている東白島公園の北側、京橋川にかかる饒津鉄橋を通過していた貨物車両は脱線、枕木は燃えました。しかし鉄道に従事するものたちの使命感で2日後の15時30分に復旧させ、汽笛を鳴らしなら被災者を乗せた客車を郊外に走らせました。
 「復旧1号列車」 の汽笛は広島の人達に、廃墟の中から立ち上がる勇気をあたえました。まさしく出発の合図です。その汽笛を聞いた、後に全逓信労働組合の結成に参加する山下寛治さんが短歌に詠んでいます。
   けんせつの 一歩の汽笛 なるなべに
     鉄道建設義勇戦闘隊あり
 東白島公園は川から引き揚げた遺体の焼き場となっていました。
 饒津鉄橋を走るとき、荼毘の煙りに、列車の煙りが混ざり合い、天に昇っていきました。

 『機関車のうた』 は、国労横浜・鶴見車掌区分会で、職場の被爆者の先輩からそのときの状況と体験談を聞いた青年労働者が作ったものです。先輩は 「お前らは絶対に弾丸を運ぶなよ」 と涙を流しながら訴えたといいます。その意志をうけつぎました。

 夕方、原爆資料館に行きました。
 「信ちゃんの三輪車」 の前で、婦人がかがみ込んで泣いていました。手に 「東白島町内会盆踊りまつり」 と印刷されたうちわを持っています。信ちゃんも東白島町に住んでいたということは知っていましたが東白島町内会というのも気になり話しかけました。婦人は信ちゃんの家の隣に住んでいる方でした。お母さんは三輪車を見たくないと資料館には一度も足を運ばないといいます。隣の老夫婦はお母さんには黙って命日には三輪車に会いにきていました。
 ・・・
 「東白島町内会って国鉄原爆慰霊の碑があるところですよね」 というと連れ合いの方は 「午前中、おれは式典に出席した」 と答えました。「僕も出席しました」。しばらく会話を交わした後 「またいつか、もっと詳しく話を聞かせてください」 とお願いすると 「いいよ」 といって住所と名前を教えてくれました。
 帰りぎわ婦人は、「広島は暑いから使って」 とうちわをくれました。今も大事に飾っています。
 東白島町内会の盆踊りは、町内で原爆の犠牲者になった方だけでなく、川から引き揚げられた人たち、そして鉄道に従事していて犠牲になった人たちをも弔っているとのことでした。

 その後、機会を作って広島に行き、老夫婦の家を2回ほど訪問しました。そしてたくさん話を聞きかせてもらいました。
 被爆25年目に、国労は慰霊碑を建立することを決定します。しかし平和公園や方々から断られました。その中で北側を一番列車が走った東白島公園の案がうかび、町内会にお願いしたら快く了承されました。町内会はその後は、公園の清掃と一緒に碑の掃除、碑を囲むように国労の各地方本部が植樹をした樹木の手入れを定期的にしてくれています。
 「どうしてそこまですることになったんですか」。ぶしつけにうかがいました。「国鉄の皆さんにお世話になったから」 ということでした。
 町内会のひとたちは、公園の掃除の時には鉄道の保線係の人たちと顔を合わせて親しくなりました。公園の掃除用具やお祭り用の太鼓など町内会の所有物を個人宅で管理していました。
 ある時 「掃除用具などの管理が不便だ」 ともらすと、保線係がコンテナを持ってきて設置してくれたといいます。町内会は助かりました。それから関係は深まりました。
 「信ちゃんのお父さんは町内会のまとめ役で、平和運動にも積極的な方でした」。もしかしたら碑を建立したいとお願いした時に、承諾する方向で町内会をまとめたのはお父さんだったのかも知れません。
 台風で碑の周りの樹木が折れて三角錐の碑のてっぺんを傷ついたことがありました。発見した町内会の方が広島鉄道局に報告し、鉄道局が国労に連絡して修理が行われたということもあったといいます。

 鉄道労働者と町内会、労働組合と住民の交流がありました。
 しかし、「鉄道が高いところを走るようになると鉄道と鉄道労働者は住民を置き去りにして高いところに移った」 と笑っていました。


 広島の惨事を聞いて、県内だけでなく周辺の県からも応援部隊がかけつけ復旧作業、被災者の運送に従事しました。鉄道に従事した者たちの使命感が、生き延びたたくさんの人たちの命を救いました。
 残留放射能をあびていました。今でこそ放射能の影響は知られていますが、当時は想像もできないことでした。

 「国鉄原爆慰霊の碑」 には300人近くの犠牲者が眠っています。
 そのなかの鉄道教習所の生徒たちはいずれも20歳以下、その多くは15歳から17歳の少年たちでした。生徒たちは、昼夜をわかたず救助活動、復旧活動に専心しました。
 その仲間たちに生き残った労働者が誓いました。

  『芽だち』21

    峡 草夫 

  3人写っている中で
  真中に威張っているのが 生きている俺
  右と左にかわいらしいくるくる頭で立っているのが
  死んだ2人の友
  まだ20前の俺を挟んで
  懸命にすましこんでいる
  俺より4つ年下の2人の友
  1945年春の写真。
  その1945年に2人は死んだ
  1人は8月9日に
  1人は10日後に。
  8月9日に死んだ1人を
  10日後に死んだ1人が
  泣きながらかついで来た8月9日。

  親もとにいて徴用されるよりましだろうと
  まだのびきっていない柔らかな手を
  懸命に力ませながら
  機関車の掃除をしていた2人。
  300キロもはなれた親もとに
  毎日手紙を書いていた
  まだ数え年16歳だった彼ら。
  弾丸と兵隊ばかりを牽いて
  地ひびきを立てて走っていた機関車
  徴用がこわいばっかりに その機関車を磨いていた
  かわいらしいくるくる坊主頭の2人。

  8月9日に死んだ1人を
  10日後に死んだ1人と俺が
  呆うけたようにうろうろと
  運んで焼いた屍の街
  そして
  10日後に死んだ1人を 俺1人が
  よろよろと運んで焼いた
  灰色の街。
  1945年の写真。
  1945年に死んだ 俺より4つ年下の写真。
  彼らを俺が焼いた 屍の街の灰色の記憶
  俺が焼いた 彼らの骨の色のような
  灰色の記憶。
  しかし さようなら 俺より4つ年下の
  写真の中の2人
  俺はお前たちに
  俺の「決心」をおくろう
  それは
  お前たちを殺した灰色のような
  その記憶をくり返さぬためにする
  俺の唯一つの決心。
  さようなら
  2人の俺の友だち
      (1954・8)

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