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「長崎・浦上天主堂はなぜ壊されたか?」
2018/02/15(Thu)
 2月15日 (木)

 ヒロシマ連続講座の 「長崎・浦上天主堂はなぜ壊されたか?」 に参加しました。
 報告は高瀬毅さん。『ナガサキ 消えたもう一つの 「原爆ドーム」』 (平凡社刊) の著者です。本については13年9月25日の 「活動報告」 で紹介しました。それとダブらないように報告内容を紹介します。
 長崎市は、坂の町といわれますが、浦上川の両側から山にかけて町が細長くつくられました。市の中心部は諏訪神社を中心とした文化圏で、その北側に天主堂中心の浦上が位置しています。原爆は浦上地区に落とされました。
 浦上天主堂の解体については、諏訪神社の文化圏の人たちは関心が薄く、市議会内では議論がありましたが、市全体の議論にはならなかったということがありました。
 そしてさまざまな複合的構造もあります。

 キリスト教の影響です。
 有名ですが、長崎医科大学の医師でクリスチャンの永井隆の原子爆弾合同葬での弔辞があります。
「米軍の飛行士は浦上をねらったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点に持ち来らされたものと解釈されないこともありますまい。終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き羔 (こひつじ) として選ばれたのではないでしょうか?
 戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたのであります。
 主与え給い、主取り給う。主の御名は賛美されよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。」
 原爆投下は、神の摂理で浦上が選ばれ、その結果平和が再来したと説きました。

 映画 『この子を残して』 のこのシーンでは、集まっていた信徒たちから 「意義あり」 の声がおこります。
 しかしキリスト教徒以外も広島、長崎の原爆が終戦を速め、平和をもたらしたという説がおきます。アメリカの戦略とも一致するこの主張は浸透します。その結果、アメリカの原爆投下は免罪されます。

 この弔辞は著書 『長崎の鐘』 にも載りました。GHQは原爆を扱った出版物は発禁にしましたが1949年に出版が許可されます。ただし日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である 『マニラの悲劇』 との合本とすることが条件でした。当時としては空前の売れ行きだったといわれます。


 もうひとつ浦上地区には複雑な問題がありました。浦上地区に浦上町がありました。
 江戸時代の1612年のキリスト教禁教令発布後、宣教師は国外追放され、信徒は地下に潜伏して信仰を続けます。「潜伏キリシタン」 と呼ばれ表向きは仏教徒となります。明治になっても弾圧は続き、海外から人権批判が行われて1873年に禁教が解かれます。
 市の中心部からみて浦上天主堂の手前に位置する浦上町に被差別部落の人たちが移住させられました。キリシタン弾圧、弾圧の手先、密偵の役割としての配置です。浦上では1790年から1867年まで4度の弾圧事件 (「崩れ」) が起きています。
 実は被差別部落の人たちのなかにもキリシタンはいました。しかし双方はいがみ合う関係性が作られました。

 浦上天主堂は明治時代から大正時代に30年かけて建設されました。
 原爆が投下された時、被差別部落の人たちが住んでいた 「浦上町戸数229戸。1300人。原爆によって全戸全焼、430人が死亡」 (『長崎市制65年史』 長崎市役所編) でした。
 借地・借家が多く存在しました。原爆投下で焼け出された後は、戻ってみると立ち入り禁止のロープが張られ、バラックを立てる権利もありませんでした。県内各地や県外に縁故を頼って離散して避難していき、とどまったのは21世帯でした。
「戦災復興土地区画整理事業が決定されたのは、1946年。1949年には長崎国際文化都市建設法が施行され、被爆地域の復興が始まった。
 長崎の被差別部落は、戦後の復興計画のなかでもう一度ふみにじられていく。行政は積極的に部落の壊滅を取り入れ、それをよしとする差別行政が進められていった。
 戦後復興都市計画道路31路線のうち、まず最初に、一本の道路が部落のど真ん中を貫いて走った。全長500メートル、幅10~15メートル。部落を分断する道路は、唯一焼け残った新地共同墓地まで無残に破壊した。」 (『ふるさとは一瞬に消えた 長崎・浦上町の被爆といま』 長崎県部落史研究所編 解放出版社)
 その結果、1971年の長崎市の全国同和地区基礎調査への報告は 「該当なし」 でした。翌年の再調査でもそう報告しました。浦上町の地名も変えられました。
「原爆は、部落から住民から住む土地を奪い、職を奪っただけでなく、部落の存在自体を消し去り、ふるさとの地名すら奪った。それは部落の人びとの被爆の苦しみにも匹敵する精神的支柱の解体であった。」 (『ふるさとは一瞬に消えた 長崎・浦上町の被爆といま』)


 1970年、長崎市が 「長崎港開港四百年」 記念事業で出版した 『長崎市の歴史』、『長崎図録』 に江戸時代の古地図が印刷されて市販されました。古地図には被差別部落の所在地を示す呼称が記されていました。
 当時、長崎地区労働組合議長の磯本恒信氏はこの報に接すると市役所にむかいます。市長応接室の壁にも貼っていました。
「『これがなんだかわかりますよね。この江戸時代の古地図には、穢多村、非人村と出ている。市はこれを図版にして本に載せておられますな。しかしこれは明らかに未解放不落が長崎のどこに存在したかの特定につながる。ただちに回収して、市販を中止してもらいたい』
 ……
『いやいや、これは江戸時代の地図でありまして、いまはこの地図に出ている村はございませんので・・・』
 と、総務課長は両手をまえで組んで、笑みを浮かべた。
『いくら古い地図だからといって、地図にちゃんと名前が出とうじゃないか。ここに住んどう人たちは、自分が未解放部落の人間だと特定されてしまう可能性が出てくるわけでしょう』
『しかしこれはあくまで江戸時代の地図でありまして、歴史的資料でもあるわけですからね』
『では、この地図にある未解放部落は、いまのどこにあたるか言ってください』
『・・・』
『穢多、非人と書かれている部落、地名、町というのは、いまのどこにあるんだい?』
『そういう未解放部落というものは、長崎にはございません。そういう地名のあるところはございません』
 ……
 平行線のまま3時間ばかり過ぎたとき、……
『部落はない・・・と?』
『はい、ございません』
『原爆でなくなったと?』
『はい・・・』
 恒信は両手をテーブルにたたきつけ、立ちあがった。
『私がそこの出身なんだ。浦上町の出身者だ。おいが、その部落民なんだ。それでも部落民はいないというのか!』
 ……
『浦上に部落はいまもあるんだぞ。原爆でみな離散していったというても、四分の三近くの部落民がいまも生活しとるんだ。こんな古地図を売りもんにしたりして、あんたたちは人の心の痛みというものがわからんのか!』
 応接室の空気は、凍りついた。」 (高山文彦著 『生き抜け、その日のために 長崎の被差別部落とキリシタン』 解放出版社)

 これを機会に1972年部落解放同盟長崎県連、そして76年長崎支部が結成されます。そして被差別の体験、部落の歴史、そして被爆の体験が語られ始めます。
 いま、長崎県連の書記長は29歳の青年です。

 キリシタン、被差別部落の人たちが一堂に会してお互いの立場を理解し合えたのは、昨年NHKのドキュメントでも放映されましたが、なんと2016年夏のことでした。

 さまざまな、複雑な差別、いがみ合いの隙をぬって浦上天主堂は解体されてしまいました。


 長崎の被爆者・美輪明宏の 『ヨイトマケの唄』 です。 話は美輪明宏自身の体験ではありませんが実話です。

  子どもの頃に 小学校で
  ヨイトマケの子供 きたない子供と
  いじめぬかれて はやされて
  くやし涙に くれながら
  泣いて帰った 道すがら
  母ちゃんの働く とこを見た
  母ちゃんの働く とこを見た

  姉さんかむりで 泥にまみれて
  日に灼けながら 汗を流して
  男にまじって 綱を引き
  天にむかって 声をあげて
  力の限りに うたってた
  母ちゃんの働く とこを見た
  母ちゃんの働く とこを見た

  慰めてもらおう 抱いてもらおうと
  息をはずませ 帰ってきたが
  母ちゃんの姿 見たときに
  泣いた涙も 忘れはて
  帰っていったよ 学校へ
  勉強するよと 云いながら
  勉強するよと 云いながら


 連続講座の最後に、長崎に原爆が投下された時5歳だった方が発言をしました。
「母は祖母の家の近くに6畳1部屋を借りました。そして米や野菜を農家から仕入れて来て街の道路や近所で売っていました。芋をふかしたものや、タバコの葉っぱをまいたもの、新聞紙の袋に入れたピーナツなどを売っていました。
 ……
 あれはたしか小学校高学年の時です。学校から街の映画館へ映画鑑賞に行くことになりました。その頃は1年に1回か2回そういうことがありました。
 団体で約3キロばかりの道を歩いて行く途中、橋の上で5、6人の女の人が座って物を売っていました。なんとそこに母が居たのです。
 母は私の学校じゃないかと眼を見開いて私を探している表情でした。私は自分の母親が道路に座って物売りしているのを友達に見られるのがとても辛く悲しかったので、見つからないようにみんなの陰に隠れて通り過ごしました。母親から声をかけられるのがとても怖かったのです。
 その夜、家に帰っても母には何も話しませんでした。
 親の前を、見つからないように通り過ぎる。ほんとに母に済まないことをしたと、それ以来今までずっと心の中で謝り続けています。」

 話を聞きながら、「ヨイトマケの唄」 が浮かんできました。

 原爆は生き残った者たちに 「はらからの 絶え間なく 労働に築きあく 富と幸 いまはすべて費え去らん」 からの生活を強制しました。生活不安、健康不安等のなかで並大抵の苦労ではありませんでした。


 6月9日 (土) の第49回講座は、ノンフィクション作家大塚茂樹さんの講演、広島の 「原爆と部落差別に立ち向かった人びと」 です。

   「活動報告」 2018.1.19
   「活動報告」 2013.9.25
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「核の非人道性」 を声高に
2018/02/09(Fri)
 2月9日 (金)

 2月2日、トランプ米政権の国防省は、オバマ前政権の方針を転換する新たな核政策、戦略、能力、戦力態勢を定めた報告書 「核戦略体制の見直し」 (NPR Nuclear Posture Review) を公表しました。新たな措置として爆発力を低下させた小型核を潜水艦発射弾道ミサイル (SLBM) に導入すると提言しています。
 2010年のNPRで 「核なき世界」 を目指し、核兵器の数と役割の縮小を掲げたオバマ前政権の理想主義的な核軍縮方針から決別し、「安全で確実、効果的な核抑止力」 を確保することに重きを置くとしています。
 NPRの公表は1994年、2002年、2010年に次いで4回目、です。
 オバマは前年の09年4月5日のプラハ演説で 「核兵器のない世界の平和と安全を追及する」 と語りました。そして2010年に公表されたNPRは、究極的な核廃絶という理想を高らかに表明しました。

 日本政府は3日、このトランプの転換を 「高く評価する」 と歓迎する河野太郎外相談話を発表しました。新戦略について 「米国による抑止力の実効性の確保と我が国を含む同盟国に対する拡大抑止へのコミットメントを明確にしている」 と評価します。
 日本は、専守防衛をうたい、非核三原則を堅持する方針を明確にしています。だから北朝鮮の核への抑止を米国の核兵器に依存することが必要と説明します。

 河野外相に対し、6日の衆院予算委員会で菅直人元首相が質問に立ちました。
 1962年のキューバ危機のとき 「危機の後に米ソは、先制攻撃をしても双方だめになるという 『相互核破壊』 の考え方に落ち着いた。(NPRは) 先制攻撃を認める方向に進み、核戦争の可能性が拡大するのではないか」 と追及しました。
 河野外相は、「前回の2010年のNPRでも米国は先制不使用をうたっておらず、米国の方針が転換したと考えていない」 と答弁しました。


 キューバ危機についてです。
「1962年と言えば、ソ連が同じ共産主義独裁のキューバに核ミサイルを秘密裏に搬入し、これを探知した米国のジョン・F・ケネディ政権がキューバへの空爆と軍事進攻を検討、核戦争をも覚悟したキューバ危機が10月に勃発している。ケネディは最終的に、『キューバ不可侵』 の確約に加え、いずれ退役させるつもりだったトルコ配備のミサイルの撤去を決めてソ連の要望に応えることで、ソ連にキューバから核ミサイルを引き揚げさせるディール (取引) に成功、『核戦争の手前まで行った』 とよく評された危機を収束させた。
 だが、平和裏の解決を見たキューバ危機は、西ドイツなど米国の同盟国には逆に、そこはかとない疑念と懸念を抱かせることになったのではないか。なぜなら、米国本土が核攻撃の危険にさらされる究極の事態となれば、米国は同盟国の意など介さずに、さっさとソ連と手を握ってディールをまとめてしまう恐れを想起させたからだ。NATOメンバー国のトルコからミサイル撤去が公表されなかったのも、同盟国の動揺回避を狙ったケネディ政権の対外広報戦略の一環だった。
 いずれにせよ、『万が一の場合、米国は真に頼りにできるのか』 『米国の 『核』 頼みで本当に欧州の安全は保てるのか』 『やはり自前の核兵器が必要ではないのか』 との疑念がキューバ危機のあった1962年頃から、西ドイツ政府内で渦巻き始める。」 (太田昌克著 『偽装の被爆国 核を捨てられない日本』 岩波書店)
 「大国がいかなるコストを払ってでも同盟国を守ると信じることには、計算できないリスクが伴う」 という意見が西ドイツ政府内にくすぶり続けていたといいます。
 米軍基地が米国外に散在するのは、米国本土が襲撃されることを回避するためでもあります。
 ベトナム戦争ピークの1967年、沖縄に配備・貯蔵されていた核兵器の総数は1300発に上りました。仮に今、北朝鮮がアメリカを攻撃しようとするときに最初のターゲットは沖縄基地です。

 河野外相は評価の理由について、「同盟国に対して核抑止を明確にコミット (約束) している」 と改めて強調。「オバマ政権も友好国に対して核抑止のコミットをしてきた」 と指摘されると、「ご質問の意図が全く分からない」 と声を荒らげる一幕もありました。実際はどの時点でのオバマ評価かということもあります。

 オバマは、広島訪問後、NPRの見直し作業をおこない、そこでは 「核の先制攻撃」 から、相手が使用する前には使用しないという 「核の先制不使用」 を含ませていたことが明らかになっています。
 なぜ公表されなかったのでしょうか。「核の傘」 にいる同盟国から反発を受けることを懸念したからです。例えば、日本は独自の核開発をいいだす危険性がでてきます。原発問題とも絡みますが不可能ではありません。
 
 この “緊張関係” は日米の間にはずっと存在します。核所有国が増えることはアメリカにとっては望むことではありません。
 そのため、アメリカは、日本と 「密約」 を結んでいます。ドイツもそうです。
「日本の場合、1960年の日米安全保障条約改定に際し、首相の岸信介、外相の藤山愛一郎、駐日米大使のダグラス・マッカーサー二世が中心となって、米軍核搭載艦船の日本寄港を米日間の 『事前協議』 対象から除外し、米側に核寄港のフリーハンドを与える 『核持ち込み密約 (核密約)』 を交わしていた。
 また、1972年に実現した 『核抜き本土並み』 の沖縄返還に当たり、首相の佐藤栄作は69年に米大統領のリチャード・ニクソンと密約議事録を作成し、有事における沖縄への核再配備を認める 『沖縄核密約』 で合意している。」 ( 『偽装の被爆国 核を捨てられない日本』 )

 1970年、核拡散防止条約 (NPT) が締結されました。条約作りを主導したのはアメリカ、ソ連などの核所有国で、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の5大国以外の核保有を禁止します。逆にいうと5大国が独占します。ターゲットは日本とドイツでした。
 日本は1970年にNPTに署名しながら5年間批准、加盟の手続きをしませんでした。理由は、「日本の核武装のオプションが閉ざされる」 からです。アメリカは 「核抑止力」 の 「核の傘」 の実行性を確認させて批准を強制しました。

 これが 「非核三原則」 を堅持しているという日本の実情です。
 アメリカの核は有事の時に行使し、「日本を守る」 だけでなく、日本の核武装に対する 「抑止力」 の役割も持っていたといえます。
 そしてアメリカ本土の被害を小さくするための基地の散在は、日本にとっては 「本土」 への被害を免れるための沖縄基地ではないでしょうか。歴史は繰り返されます。


 昨年12月、ノーベル平和賞は、核兵器を法的に禁止する 「核兵器禁止条約」 を実現するために設立された 「核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN)」 が受賞し、10日にはノルウェー・オスロで授賞式がありました。そこには広島、長崎の被爆者も出席しました。
 2013年から14年にかけて、ノルウエ―のオセロ、メキシコのナヤリッド、オーストリアのウィーンで開かれた核の非人道的結末を論じる国際会議を通じ徐々に核兵器の開発や製造、実験、保有、使用、または使用の威嚇を全面的に禁じるという共通認識が醸成されていきました。
 その成果は16年秋の国連総会決議に反映され、法的禁止の具体的措置をめぐる交渉会議開催へと結びつき、17年3月、国連で 「核兵器禁止条約」 の成立・締結を目指した外交交渉が開始されました。
 ICANは101カ国・468の非政府組織 (NGO) がパートナー組織になっています。各国の政府に任せておくだけではなかなか解決しない世界共通の重要課題に対して、市民社会に根付いたNGOが積極的な役割を果たすことで現実を動かし、未来を変えていこうという活動です。被爆者の証言を現実の外交と結びつけるなどの活動を続け、昨年7月に国連での採択にさいしては主導的役割を果たしたと評価されました。加盟団体のNGOは自国政府への働きかけを行いました。その結果、市民の力が決して小さいものではなく、政府を動かすことができることも示しました。

 核兵器禁止条約の前文には 「ヒバクシャの苦しみに留意する」 と盛り込まれ、核兵器は 「いかなる場合の使用も違法」 と 「核の非人道性」 が明記されています。核兵器で核を封じ込めるのではなく、核を禁止することが必要だという主張です。

 NPTと核兵器禁止条約は矛盾するものです。核所有国にとって核兵器禁止条約はあいいれないものです。
 では、核兵器禁止条約への被爆国である日本の立ち位置はどうだったのでしょうか。
 参加しませんでした。理由は、①核保有国が参加する見込みがなく核廃絶につながりそうにない、➁北朝鮮の核ミサイル開発で悪化する安全保障環境を考えると 「核の傘」 は不可欠である、③条約に反対する核保有国と推進派の非核保有国の分断が一層深まる、と説明します。
 日本政府は毎年、国連に核兵器廃絶決議案を提出していますが本気ではありません。昨年は見透かされて賛成国が減っています。


 広島、長崎、ビキニ珊礁の被害を受け、福島原発事故の経験を持つ日本こそ、原爆、核兵器、原発の恐怖、危険性をごまかすことなく、もっと声高に語り続ける責務を負っているはずです。

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「焼き場の少年」 と 「にんげんをかえせ」
2018/01/20(Sat)
 1月19日 (金)

 フランシスコ・ローマ法王は15日、南米訪問に向かう専用機内で記者団に原爆投下後の長崎で撮影された 「焼き場の少年」 の写真を印刷したカードを示し 「これを見た時、とても心をかき乱された。『戦争の結果』 という言葉しか思い浮かばなかった」と語ったという報道がありました。

 「焼き場の少年」 のタテ80センチ、60センチのポスターを事務所に貼っています。左下には、撮影したジョー・オダネルのメモも載っています。
 10年以上前に原爆症認定集団訴訟を支援する全国ネットワークが主催した集会で入手しました。
 ポスターが会場のあちこちに貼ってあり、残部がテーブルに置いてありました。「これは分けてもらえないんですか」 尋ねると断られました。すると周囲の人たちも 「私も欲しいから売ってよ、残しておいて捨てるよりもいくらでもお金にした方がいいじゃない」 と粘ります。担当者は関係者に相談し、「では気持ちだけ頂くことにして」 と分けてくれました。すると瞬く間になくなってしまいました。
 数枚購入して帰ると欲しいという人が何人もいました。

 集会では歌手・横井久美子のCD 「にんげんをかえせ」 が販売されました。峠三吉の詩をアメ-ジング・グレースのメロディーに乗せています。ジャケットは 「焼き場に立つ少年」 の写真です。
 横井久美子も歌いました。歌の前に朗読がはいります。

 「焼き場の少年」
 
 1945年9月―佐世保から長崎に入った私は
 小高い丘から下を眺めていました。
 10歳ぐらいの歩いて来る少年が目にとまりました。
 おんぶ紐をたすき掛けにし
 背中に幼子をしょっています。
 この焼き場にやってきた強い意志が感じられました。
 しかも、少年は裸足でした。焼き場のふちに
 5分から10分ほど立っていたでしょうか。
 おもむろに白いマスクをした男たちが少年に近づき
 ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。この時、
 私は背中の幼子が死んでいるのに気がつきました。
 幼い肉体が火に溶け、ジューッと音がしました。
 まばゆい炎が舞い上がり、直立不動の少年の
 あどけない頬を夕日のように照らしました。
 炎を食い入るように見つめる少年の唇には
 血がにじんでいました。
 あまりにもきつく唇を噛みしめているので、
 唇の血は流れず下唇を赤く染めていました。
 炎が静まると、少年はくるりときびすを返し
 沈黙のまま焼き場を去っていきました。
 背筋が凍るような光景でした。

    占領軍のアメリカ空爆調査団の公式カメラマン、ジョー・オダネル

 歌・横井久美子 「にんげんをかえせ」

 ちちをかえせ ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ

 わたしをかえせ わたしにつながる
 にんげんをかえせ

 にんげんの にんげんのよのあるかぎり
 くずれぬへいわを
 へいわをかえせ


 ポスターとCDを採り入れ、関千枝子著 『広島第二県女2年西組』 と広島第二県女の同窓会誌 『しらうめ』 をもとに朗読劇 『「ヒロシマ ガイド」 (教師編) ―“にんげんをかえせ”―』 のシナリオをつくり市民運動団体の例会で発表しました。「焼き場」 の箇所の抜粋です。

(ガイド)
 長崎においても、広島でも、原爆で殺された親を子が、子を親が、兄弟を、家族を、自らの手で焼きました。職場の同僚を焼きました。
 学校でも、教師が同僚を、そして生徒を焼きました。
  ……
(朗読 教師・有田) 
 「波多先生っ、波多先生っ」 と、私は大きく叫んでその身体に取り縋っていた。旧女専の1室である。両腕に生徒を抱きかかえたまま、千田町の日赤病院の庭で亡くなっていらっしたというその遺体が3日目にやっと学校へ帰ってきた。……
 白い肌は無残に焼け爛れ、そのお顔は3倍位にも膨れ上がっていた。
 焼けた手首が茶色に膨れて白いブラウスの袖が食い込んでいた。「痛いでしょう」 私はそっとボタンを外して差し上げた。熱線だけは透らず真白い先生の皮膚がそこにあった。「死者に涙をかけてはならない」 ということを思い出した時、私は大変な努力をしなければならなかった。「先生お苦しかったでしょう、どんなにか、どんなにか」 額に焼きついているお髪の1条、1条を掻き揚げた。眉毛も睫毛も皆、皆焼け縮れていた。「熱かったでしょう、痛かったでしょう」 私はせめてもと冷水で絞ったタオルをお顔の上にのせた。……
 でも私が先生のお傍にいて上げられたのはほんの僅かな時間でしかなかった。身体がいくつあっても足りない程の忙しさの中の僅かな時間であった。昼も夜もなかった。……

(ガイド)
 8月6日、学校を休んでいたために助かった2年西組の関千枝子さんは学校に駆けつけました。
(朗読 関)
 本地文枝の死体が運び出されるのを見送ったあと、私と林綾子は、玄関脇の部屋に入ってみた。この部屋に波多ヤエ子の遺体が置いてあると聞いたからである。……
 逃げ出したかったが、足がすくんでしまい、震えていると、急に、福崎教師ともう1人誰かが入ってきた。
(朗読 教師・福崎)
 「オッ、ちょうどええ。手伝ってくれ」
(朗読 関)
 否も応もなかった。私と綾子は担架の足の柄を1つずつ持って、波多の遺体を学校の東隣に運んだ。そこは一面、蓮畑になっていた。
 蓮畑に波多の遺体を置き、そのあたりにあった木を運び、福崎が経を唱え、火をつけた。煙がまっすぐ上った。空は真っ青に晴れあがり、風もなく、強烈な太陽が照り返していた。
(朗読 教師・福崎)
 「煙がまっすぐ上ると極楽へ行けるんじゃ」
(朗読 関)
 うめくような声で福崎はいった。私は福崎の気持ちがよくわかる。こうでもいわなければ、救いようがない気分だったのだろう。
だが、その時の私は腹が立ってたまらなかった。福崎にだけではない。誰に対してもくってかかりたかった。
 「極楽へ行ってなんになる。こんなに苦しんで、焼けただれて――。極楽へ行ってなんになる」

  (朗読 正田))
    酒あふり 酒あふりて 死骸焼く
      男のまなこ 涙に光る (正田篠枝)

(朗読 教師・有田) 
 翌朝ザラ紙にお骨を拾い上げた。8月9日の朝だったと思う。
  ……

(ガイド)
 学校の裏は川が流れていて、土手は桜並木が続いていました。
 その土手にたくさんの穴を堀り、有田先生たちは、たくさんの遺体を焼きました。1か月ほど、煙の絶えたことはありませんでした。
 8月12日か13日の朝のことです。
 誰も家の人が来ない生徒の遺体を前夜も焼きました。

(朗読 生徒)
 「先生お客様です」
(朗読 教師・有田)
 原爆投下の日以来ずっと被爆生徒の看病その他を手伝ってくれている女専の生徒の1人が私を呼びにきた。……
 初老の婦人が胸に四角い箱のようなものを抱いて1人歩いてきた。
 「有田でございます。あなた様は?」
(朗読 野村の母親)
 「私は野村の母親でございます。娘はどこにおりますでしょうか」
(朗読 教師・有田)
 小腰をかがめて丁寧に頭を下げた。「あっ、野村さんの!」 私は絶句した。この手で前夜野村さんの遺体を焼いたのである。私が手にしているザラ紙は、その野村さんと、もう1人の生徒のお骨上げに持って行こうとしていたものである。
 「あのう、その箱は?」 1分間でも野村さんの死の報らせを延したかった。
(朗読 野村の母親)
 「はーい」
(朗読 教師・有田)
 とまるで赤ん坊に乳房を含ませながらその子の頭を抱きしめ、もう一方の手で上を撫でながらその人は言った。
(朗読 野村の母親)
 「はーい、これはあの子の兄の遺骨を、今、市役所からもろうて来たたところです、まだ暖かいんですよ。ほら、このように」
(朗読 教師・有田)
 と箱を差し出され、私だまって受け取った、温いように思えた。
 「どうぞこちらへ」
(朗読 野村の母親)
 「どこにおるんですか、火傷をしとるんでしょうか」
(朗読 教師・有田)
 ……「さあ、どうぞこちらへ」 と近くの一室に招じた。小さな室だった。誰もいなかった。お茶をすすめた。……
 私は目を閉じ大きな息をして、お母様の前に立った。
 「お母様、実は、あのう」
(朗読 野村の母親)
 「昭子はもしや」
(朗読 教師・有田)
 間髪を入れない問いかけであった。「はーい」
(朗読 野村の母親)
 「やっぱり、やっぱりそうでありましたか」
(朗読 教師・有田)
 「私が引率して専売局へ参っておりました。何ともお詫びの申し上げようも」 と後はことばにならなかった。
(朗読 野村の母親)
 「やっぱり死んだんですのう」
(朗読 教師・有田)
 「はい」
 野村さんを生み育てて17年間、優しく素直でお腹の底から優等生だった野村さんの記憶が、一度に蘇ってお母様の全部を占領してしまったのであろうか、どうしようもなく、どうしようもなく泣き崩れておしまいになった。その嗚咽は直かに私の胸を刺し、拳を握っても握っても立っているのがやっとであった。
  ……
 女専の物理教室で昏睡状態のまま4、5日間生き続けた野村さんであったが、どんなにかお母様に会いたかったのであろうか。
(朗読 野村の母親)
 「それでどこに」
(朗読 教師・有田)
 「はい申し訳ございません、遺体は昨夜火葬にいたしました」
  私は消え入りたかった。涙がこぼれた。頭が上がらなかった。
(朗読 野村の母親)
 「2人も子供をとられて私はこれから何をたよりに生きて行ったらええんでしょうか」
(朗読 教師・有田)
 私は床にすわり、お母様の手をとったまま何も言えず2人で唯々哭いた。
 「野村さんともう1人の生徒のお骨上げに行こうとしている所へ、お母様がいらっして下さったのです。せめて、どうぞお骨拾いを」

 よろめくような足取りのお母様のお伴をして学校の裏へ出た。
 「野村さん、お母様がいらっして下さったわよ、野村さん、お母様よ」
(朗読 野村の母親)
 「昭子っ」
(朗読 教師・有田)
 灰はまだ熱かった。

(ガイド)
 学校は43年3月、文芸誌 『かがみ』 を発行しています。その中に野村昭子さんは詩を載せています。 

(朗読 野村昭子))
  「影」
          野村昭子
 
  昔とほったこの道で
  私の影は母さんの半分ほどもなかったのに
  今2人でとほったら
  母さんよりも 私の影が長くなった
  私の影よ

(ガイド)
 お母さんは、自分の背丈を越えるまでに育て上げた娘の遺骨を拾いました。
  ……

 1971年8月4日、広島平和公園の南側緑地帯の西端に、女性教師が子供をすくい上げているブロンズ像が建立されました。市内の国民学校で犠牲になった教師と児童の慰霊碑、「原爆犠牲国民学校教師と子供の碑」 です。
 像の姿は、波多先生に似ています。
 像の裏側に、正田篠枝さんのうたが刻まれています。

  (朗読 正田)
    太き骨は 先生ならん
      そのそばに 小さき頭の骨 集まれり

  (バックミュージック 『にんげんをかえせ』 に合わせて、みんなで合唱)
  ちちをかえせ ははをかえせ
  としよりをかえせ
  こどもをかえせ

  わたしをかえせ わたしにつながる
  にんげんをかえせ

  にんげんの にんげんのよのあるかぎり
  くずれぬへいわを
  へいわをかえせ

                    (了)

 昨年は、長崎で被爆体験を語りながら核兵器廃絶を訴え続けてきた林京子さん、谷口稜曄さんら多くの被爆者が志半ばにして亡くなられました。
 しかしその思いをしっかりと受け止める長崎の高校生は 「微力だけれど無力ではない」 を合言葉に核兵器反対の署名運動を続けて国連に届け続けています。

 17年12月のノーベル平和賞受賞は 「核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN=アイキャン)」 が受賞しました。若者が中心となって活動している団体です。授賞式には広島・長崎の被爆者も出席しました。

 1月8日の 「朝日歌壇」 です。

   被爆国 口を閉ざすも
    被爆者は 世界に向けて口を開きぬ

   「活動報告」 2017.8.4
   「活動報告」 2016.11.15
   「活動報告」 2016.4.15
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原子力は人類と共存できない
2017/09/26(Tue)
 9月26日 (火)

 昨年、『ほうしゃの雨はもういらない-原水禁署名運動と虚像の原子力平和利用』 (凱風社) が出版されました。先日、著者の丸浜江里子さんの講演会がありました。

 配布されたレジュメの冒頭です。
「ビキニ事件がおこり、核実験 『ノー』 の声が上がり、署名運動が始まり、全国で3200万筆の署名が集まり、翌年、原水禁世界大会が開かれたことは、日本発の輝かしい反核運動の嚆矢である。しかし、この時期、コインの裏側のように核の 『平和利用』 が始まった。なぜ、『禁止』 を求める運動と 『利用』 が同時期に始まったのか。その疑問は3.11を経て実感をもって迫って来た。……
 その答えを出すには、米国の核戦略と日本の核開発の歴史をたどり、広島、長崎、ビキニから福島につながるカラクリを暴く必要がある。」

 1950年3月、平和擁護世界大会委員会がストックホルムで開催され、大会は核兵器廃絶に向けた「ストックホルム・アピール」 を採択します。そこには 「原子爆弾を使用する政府は人類に対する犯罪人として取り扱う」 などの項目がありました。呼びかけに世界から4億8200万人の署名が集まりました。
 日本においてもGHQの支配下、朝鮮戦争のさなかに署名運動が展開されます。645万筆が集まりました。
 中央気象台の気象研究所労組も取り組みました。すると執行部は総務課長から呼び出されて署名は燃やされ、中止せざるを得ませんでした。研究院だった増田義信さんはこのことを機会に、不条理を止めさせようと組合活動に本格的に取り組みます。(16.4.15の 「活動報告」)
 署名を集めていると警察の尾行がつづき、署名するにも決意が必要でした。署名した人が後から消してほしいと申し出てくることもありました。
 しかし、特に在日朝鮮人の人たちは各地で朝鮮戦争に対する抵抗を続けながら必死に集めました。そのことが朝鮮戦争でアメリカが原子爆弾を使用することを阻止しました。

 1951年9月、トルーマン政権の国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスの主導で朝鮮戦争の最中にサンフランシスコ講和条約が調印されます。中国は招かれず、インド、ビルマは参加しません。ソ連、チェコスロバキアは調印しません。沖縄、小笠原、奄美が米軍の支配になります。
 条約交渉のため1月に来日したダレスが語ります。
「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるだろうか」
 条約締結日の夕方、吉田茂首相が日米安保条約を調印し、全土基地方式を受け入れます。そして53年に行政協定を結びます。
 53年7月23日、アメリカが初めて勝てなかった戦争・朝鮮戦争が休戦協定を締結します。アメリカの覇権が揺らぎます。

 8月、ソ連は水爆を開発します。
 ダレスはソ連に対抗する巻き返し戦略としてニュールック戦略 (大量報復戦略) を提案します。内外の米軍基地に大規模な核兵器配備 (8年間で20倍)、同盟国に対して通常兵器の増強を要求しました。日本に対してはMSA協定 (Mutual Security Act 日米相互防衛援助協定) と再軍備、そして米基地に核配備を要求します。MSA協定は54年3月に締結され7月、防衛庁を設け、その統轄下に陸・海・空の三自衛隊が設置されます。

 53年12月8日、イギリス・フランスの合意をえてアメリカ大統領アイゼンハワーは国連総会で 「アトムズ・フォー・ピース演説」 を行います。内容は前半で、「米国の報復能力は侵略者の国土が荒廃するほど大きなものである」 と核戦力を誇示し、後半で 「核の平和利用」 を述べます。「核の平和利用」 の部分は全体の5分の1に満たないものです。
「米国は軍事目的の核物質の単なる削減や廃絶以上のものを求めていく。
 核兵器を兵士たちの手からとり上げることだけでは十分とは言えない。そうした兵器は、核の軍事用の包装を剥ぎ取り、平和のために利用する術を知る人々に託されなければならない。米国は、核による軍備増強という恐るべき流れを全く逆の方向に向かわせることができるならば、この最も破壊的な力が、すべての人類に恩恵をもたらす偉大な恵みとなり得ることを認識している。米国は、核エネルギーの平和利用は、将来の夢ではないと考えている。
 ……原子力の脅威が、人々の、そして東西の国々の政府の脳裏から消え始める日を早くもたらすために、現時点で講ずることができる措置がいくつかある。そこで私は以下の提案を行う。
 主要関係国政府は、慎重な考慮に基づき、許容される範囲内で、標準ウランならびに核分裂物質の各国の備蓄から国際的な原子力機関に対して、それぞれ供出を行い、今後も供出を継続する。そうした国際機関は、国連の支援の下で設立されることが望ましい。」
 心理戦略を駆使し、核の軍事利用と 「平和利用」 の両方を進める宣言でした。
 演説の真の狙いは守勢を後世に転ずるための巻き返しにありました。「核の平和利用」 を打ち出すことで原子爆弾投下国というマイナスイメージを消去し、平和のイメージを広げること、国際的核管理における主導権を獲得すること、西側同盟国に余剰核物質を供給することを通じて米国の覇権を回復するとともに経済的利益を得ることなどでした。
 54年3月初旬、国会に保守三党の共同修正予算案に原子炉築造補助費2億5000万円がもりこまれます。アイゼンハワーの国連演説を受けて “バスに乗り遅れるな” とばかりに中曽根康弘 (改進党) らが中心となり核開発の着手を提案したのもで、ほとんど議論もなく成立します。


 54年3月から5月にかけて、アメリカはソ連に先行された水爆技術開発を目的にビキニ環礁、エニウェトク環礁の二つの環礁で6回の連続核実験 「キャッスル作戦」 が実施されます。
 その第一回目が3月1日にビキニ環礁で行なわれた 「水爆ブラボー」 実験です。マーシャル諸島や第五福竜丸をはじめとする、今わかっているだけで1000隻以上の漁船。商船が放射能被害を受けます。
 6回の実験の威力は、広島型原爆の3200発分以上だといわれます。

 第五福竜丸の乗組員は 「ひょっとしたら原爆実験を見たのかもしれない。無線で知らせれば米国に傍受され、福竜丸の存在を知られてしまう。そうなれば攻撃を受けるかもしれない」 という恐れと闘いながら、3月14日に静岡県焼津に帰港します。
 3月16日の読売新聞は 「法人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」 「23名が原子病」 のみだしでスクープします。他社も追います。これらの報道で、乗組員の被爆問題は一挙に魚の放射能汚染問題・食糧問題、さらに広島・長崎につぐ第三の被爆として広がります。占領下、規制されていた原爆や放射能の報道を取り返すような大報道でした。

 3月17日、築地市場で本マグロが半値に下がり、18日は買い手が付きませんでした。築地市場関係者は東京都・厚生省などに積極的に働きかけ、その結果全国18の魚市場でマグロの放射能検査が始まります。港での検査によって全国で856隻の漁船に積まれた12万9532.5貫の魚が廃棄処分になります。
 4月2日、築地中央市場で魚商530人が集まって原水爆反対の集会がもたれました。
 全国各地でも署名運動、声明、決議が始まります。

 4月16日、杉並区立公民館で杉並婦人団体協議会の例会が開催されていました。講演が終わると1人の女性が立ち上がって発言をします。
「第五福竜丸の事件でマグロが放射能に含まれているということで、魚が売れなくなり、魚屋は困っています。このままでは明日から店を閉めなければなりません。私たち杉並魚商組合で原水爆禁止の署名を取り組んでいます。1人でも多くの方に署名していただきたいのです。」
 講師だった安井郁東大教授は 「この問題は魚屋さんだけの問題ではない、全人類の問題です」 と言葉をそえ、その場で全員が署名に協力します。
 ここから杉並の原水爆禁止署名運動が始まります。そして5月、「全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」 の 「杉並アピール」 が発せられます。

 5月15日、ビキニ海域の総合調査のため水産庁が調査船俊鶴丸を出港させます。調査結果は、放射能汚染がビキニ周辺だけでなく太平洋全域に広がっている実態を明らかにし、新聞は大々的に報道しました。その情報は署名運動の追い風になります。
8月8日、原水禁署名運動全国協議会が発足し、さらに高まりを見せていきます。
 9月23日、第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんが亡くなります。医師団は死因を 「放射線被ばくによる続発症による死亡」 と発表します。署名運動は沸騰します。署名運動は世界へと広まっていきます。12月13日には2000万筆に達します。
 55年1月、全国協議会全国会議は8月6日から広島で原水爆禁止世界大会を開くことを決定します。

 東宝映画のプロデューサー田中友幸は本多猪四郎監督を起用し、特撮怪獣映画『ゴジラ』を制作します。南海の海底に眠っていた恐竜が水爆実験で目を覚まし、口から放射能を吐き出しながら日本を襲うというストーリーです。


 アメリカも黙っていません。54年10月19日秘密のメモを作成します。
「①日本の政府と科学者は、敏感な世論が許す範囲で、核問題での日米協力を望んでおり、米国も協力を望んでいる。
 ②原子力・核エネルギーが根本から破壊的だとする日本人の根強い観念を取り除くことは重要だ。原子力の平和利用を進展させる二国間、多国間の取り組みに日本を早期に参画させるよう努めるべきだ。」
 具体的にどのようなことがおこなわれたのでしょうか。
 1つは、政府の意向に副う科学者を選別した名簿が在日米大使館を通じて国務省に提供され、米国の資金を通じた働きかけが始まります。
 2つ目は、11月15日から19日に 「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」 が開催され、マグロの安全基準が100カウントから500カウントに緩和されます。魚市場で行なわれていたマグロの放射能検査は1954年末で終了になります
 3つ目は、54年9月26日におきた青函連絡船洞爺丸遭難事故、久保山さんの死去の3日以降、ビキニ事件関連の記事は急減します。かわって原子力の平和利用報道が増えます。
 4つ目は、財界人や科学者による原子力調査団の訪米が行なわれます。
 5つ目は、本土に予定していた核配備を比較コンポネーション配備にかえ、54年12月末に、核兵器配備を強行します。

 55年1月4日、ビキニ事件に関して以下のような日米交換公文書が取り交わされます。
 ①米国が日本に見舞金200万ドル (7億2000万円) を支払う。
 ②それを最終的解決とし、すべての請求権を放棄する。
 ③今後一切の補償要求・責任追及をしない。
 ④太平洋での米国の核実験の制約をしない。
 見舞金の配分は日本政府に任され、政府は被災漁民を第五福竜丸にだけ限定し、乗組員に1人平均200万円、久保山さんに550万円を支払います。第五福竜丸以外の被災漁民には見舞金を含めて一切の補償。支払いは行なわれませんでした。
 米国のマーシャル諸島での核実験は58年まで継続されます。
 ビキニ事件の 「決着」 を通じて、日本は 「原子力の平和利用」 政策へと大きく踏み出します。米国の核戦略を丸ごと受け入れ、米国の太平洋地域での核実験に協力し、沖縄への核兵器の配備と本土への核コンポーネント配備を了承し、米国の目下の同盟国として核の 「平和利用」 に追随加担します。
 秘密のメモの 「②原子力・核エネルギーが根本から破壊的だとする日本人の根強い観念を取り除く」 ためのプログラムが開始されます。その旗振りは読売新聞社主の正力松太郎です。53年に日本テレビを開局し、日本テレビジョン放送網株式会社の社長になっていました。裏で後押ししていたのはCIA (米中央情報局) です。
 反共主義を煽り、プロレス中継で力道山がアメリカの選手を降伏させるのは原水爆禁止運動から目をそらさせ、高揚するのを抑えるための手段の1つだったといわれています。
 その姿勢は今も読売新聞と日本テレビでは引き継がれています。
 45年11月から1年半、「原子力平和利用博覧会」 が全国を巡回しキャンペーンを繰り広げます。費用はすべて米大使館もちです。

 55年2月、正力は政界に進出し、4月に主要企業を集めて 「原子力平和利用懇談会」 をつくり、6月に日米原子力協定を仮調印し、11月には原子力担当大臣になります。
 12月に原子力基本法など原子力三法が公布され、56年1月1日に 「原子力委員会」 が発足すると委員長に就任し、1月4日には 「5年以内に実用的な原子力発電を行う」 という声明を発表します。正力は、“アメリカ的平和政策” のため奔走します。原動力は 「現在の冷戦における我々の崇高な使命」 だったのです。

 原子力を容認するためにはさまざまな手法が行使されます。
 1951年から17年間、手塚治虫の長編漫画 「鉄腕アトム」 (当初は 「アトム大使」) が雑誌 「少年」 に連載されます。主人公アトムは、原子融合システムによる10万馬力と七つの威力を使って正義の味方として、代行主義で 「悪」 に立ち向かっていくストーリーです。
 原子融合と正義の味方が合わさった世論が形成されていきます。
 そして冷戦構造の中で、革新と呼ばれる勢力のなかから中ソの核兵器とアメリカの核兵器の 「違い」 が主張され、核兵器が容認されていきます。そこでは 「原子力の平和利用」 も高らかに叫ばれたりします。そして原水爆禁止運動の分裂へと突き進んでいきます。その動きとアメリカの戦略がからみ合います。

「原子力の平和利用」 の捉え返しをさせたのが、東日本大震災における福島原発事故でした。「原子力は人類と共存できない」 ということを再確認させました。
 しかし政府はその後も再稼働をおこない、原子力産業を輸出産業にしようとしています。

 広島、長崎、ビキニ珊礁の第五福竜丸等の被爆、福島原発事故は歴史的負の教訓です。「過ちをくり返さない」 ため、騙されない運動を進めていくことが必要です。

   「活動報告」 2017.8.4
   「活動報告」 2016.4.15
   「活動報告」 2013.9.25
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「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」
2017/08/04(Fri)
 8月4日 (金)

 毎年この季節になると、井上ひさしが書いた朗読劇 「少年口伝隊1945」 の上演がおこなわれます。
 案内チラシです。
「昭和20年8月6日、一発の原子爆弾が広島の上空で炸裂した。
一瞬にして広島は壊滅。このときから、漢字の広島は、カタカナのヒロシマになった。
かろうじて生き延びた英彦・正夫・勝利の3人の少年は、やはり運よく助かった花江の口利きでヒロシマ新聞社に口伝隊として雇われる。
新聞社も原爆で何もかも失ったため、ニュースは口頭で伝えるほかなかったからだ。
3人の少年は、人びとにニュースを伝えながら、大人たちの身勝手な論理とこの世界の矛盾に気がついていく。
やがて敗戦。・・・そこへ戦後最大級の台風が広島を襲う。」

 3人の少年は国民学校6年生で孤児になります。口伝隊の仕事は8月10日から新聞社の臨時雇いとしてです。県知事の 「最後まで戦え」 という布告を伝えます。長崎への新型爆弾投下を伝えます。15日には 「正午にはラジオのあるうちに集まってください」 と伝えます。この日をさかいに大人の態度がガラッと変わります。GHQとアメリカの原爆効果調査団がくることを伝えます。大人の世界はガラガラと変わっていきます。
 9月17日の枕崎台風では戦争で荒れた山が崩壊し、街を高潮が襲います。広島で2012人が亡くなりました。そのとき勝利は水害で命を落とします。そのあと正夫が原爆症で死去。15年後に英彦も原爆症のため亡くなります。


 新聞社の口伝隊については、大佐古一郎著 『広島昭和20年』 (中央公論社) や御田重宝著 『もう一つのヒロシマ』 (中国新聞社) にも出てきます。
 当時、中国新聞は当時38万部を発行していました。輪転機1台と付属設備を郊外の温品に疎開させましたが動力線を引く工事はまだでした。本社は全滅です。6日のうちに軍を経由して他社に相互援助契約による代行印刷を依頼しました。しかし、代行印刷は1か月の期限です。

 7日、特高課長が 「知事布告」 を出したいと要請にきました。
 特高課長の口述を編集局次長が原稿にし、印刷屋を探してタブロイド判の大きさで60枚印刷、市内各所に掲示します。布告は、「我らはあくまでも最後の戦勝を信じあらゆる艱 (かん) 苦 (く) を克服して大皇戦に挺身せん」 と結ばれています。
 この後も 「中国新聞」 と題字をつけたダブロイド版の壁新聞が発行され続けます。飛び込みニュース程度のものを2、3本書き込み、焼け跡の電柱、塀、駅前などに貼りました。
 憲兵が中国軍管区参謀長の命令をもって本社ビルに来ました。「中国新聞社で民心安定のため、口伝隊を組織し、市民に情報を知らせてくれ」 と要請します。編集局次長が断ると、憲兵は 「いや、こんな状況下では、憲兵ではだめだ。民間人でないとうまくいかない」 といいます。軍は火急の場合の広報活動は民間人でないと国民は信頼しないことを知っていたのです。
 新聞社は、生き残った社員でメガホン隊を編成し、焦土の中で市民に情報を伝達していきました。
 整理部長の回想です。
「『万難を排してニュースや諸情勢を伝達し、民心の動揺を防ぐ』 ことを新聞人としての最大任務と心得ていたのである。
 しかし7日には、まだ外部からのニュースは何も入手できないし、墨も紙もない。そこで最大の知恵は古風な口伝隊となって現れた。罹災者の応急救済方針、臨時傷病者の収容所、救援食糧、被害の状況など思いつきを口で伝えるのである」
 最後は 「決して心配はありません」 と結びました。
 比治山、饒津公園、東西練兵場、その他罹災者の集合場所や焼け残った郊外住宅地などに分散して回りました。情報に飢えている被災者には結構喜ばれました。
 しかし内務省の規制は厳しく、戦争が終わるまで原子爆弾の表現は禁止されました。

 大佐古記者の日記です。
「8月12日 (日) 快晴。
 本社焼け跡に行く。三井、佐伯、尾山、八島君らが、鉛筆と紙に代わるメガホンを持って口伝隊員として活躍している。この口伝隊はトラックの上からニュースを流すもので、軍の報道部にいた山本中尉らが、有事の際に憲兵隊を中心に編成することを予定していた。それが制服では信用がなくなったので、新聞社員や放送局員が代わって登場し、軍官の告知事項や重要なニュースを被災市民に伝達しているものである。」


 中国新聞社は疎開先で自力での発行に漕ぎつけますが枕崎台風で水害に遭い不可能になります。新聞発行は再び代行印刷となりますが、鉄道が被害を受けていた運送には困難をきたしました。
 20日から、再びこんにゃく版刷りの壁新聞 「特報第1号」 を発行します。
 大佐古記者の日記です。
「9月29日 (土) 晴れ、のち曇り。
 ここ1週間 『中国新聞特集』 の壁新聞をまた発行する。同盟や県庁だねを中心に数項目ずつをガリ版で刷り、それを販売部員が広島駅、横川、己斐、宇品、向洋など市内の要所に貼り出すほか、社員や県庁員に頼んで鉄道沿線の各駅に掲示してもらうものだが、見出しを長くした程度の内容で果たして何人の市民が見てくれるか。しかしわが社はピカドンにもめげずにまだ生きていることを宣伝するのには役立っている。」

 10月1日から本社移転に漕ぎ着けました。復員した社員、新たに採用した社員を含めて214人でのスタートです。

 8月3日、義勇隊本部から口頭で中国新聞社国民義勇隊に 「4日から8日までの5日間、主水町県庁付近一帯の疎開作業に毎日80人の隊員を出せ」 という出動命令が出ます。
 中国新聞社国民義勇隊には広島に支社をおく他の新聞社員も編入されていました。
 8月6日、中国新聞社員40人と他社員6人合わせて46人が県庁北側にあたる天神町の強制建物疎開作業に出動していました。集合を終え、作業に取り掛かろうとした時、上空で原子爆弾が炸裂しました。爆心地から西南500メートルの距離でした。
 新聞社は一瞬にして113人の社員が奪われました。当時の従業員の3分の1にあたります。助かった社員も熱線を浴び、放射能を浴びていてみな数日後には亡くなっていきました。

 中国新聞労働組合は1985年8月、被爆40周年事業として仲間が動員されて作業をしていた本川のほとりに 「不戦の碑」 を建立します。「碑」 は 「P」 のデザインです。Press、Pen、Peace の頭文字の 「P」 です。原爆で亡くなった新聞労働者を追悼し、二度と戦争のためにペンを執らない、シャッターを押さない、輪転機を回さない 誓いを込めた碑です。


 原子爆弾の被害をうけ、記者は苦闘します。
 大佐古さんの日記です。
「8月24日 (金) 晴れ、のち薄曇り。
 ……そういう新聞人はいったい何だ。反省も贖罪もなしに保身に窮々としている私を含めて……。私は名刺入れの中から日本新聞会が発行した登録記者証を取り出して破り捨てる。
 朝日が 『英霊にわびる』 というシリーズものを連載している。その中の吉川英治が書いた 『慙愧の念で胸さく』 を読み、新聞人の戦争責任についてとつおいつ考えつづけると、布団の上を三転五転して眠れない。」
「8月30日 (木) 曇り、ときどきにわか雨。
 東久邇首相が記者団との会見で 『一億国民はすべて懺悔しなければならない』 と発言したことが戦争責任を国民に分散させ、うやむやに葬り去ろうとするものだとして話題になる。……
『日本人に総懺悔するほどの余裕などあるものか。国民はそれどころか一億総餓死しようとしているのに……。とくに広島の市民は総討死に追い込まれ総ぼけしとる。指揮者が責任を霧消させようとする口実だよ』
 と歌橋君がいうと、佐伯君がそれにつづける。
『われわれを国家総動員法で身動きできないほど縛り上げたうえ、馬のように目隠しをして、一億火の玉になれと号令をかけて一直線に走らせた指揮者はだれだ。その馬に懺悔しろなど、何と虫のいいことをいう指揮者だ。それを批判しないジャーナリストは敗戦の虚脱でふ抜けになってしもうたんじゃないか。英霊にわびるくらいですむ問題じゃあない』
 私も1週間前の県議会議員の打って変った姿を思い出しながら話す。
『われわれが総懺悔論に反発するのもこの間の議員諸公が憤懣を県の理事者へぶっつけたのも、その相手は同じだよ。しかし目標がはっきりしないので、手近なところに対象を見つけて、やりようのない気持を発散させとるんじゃないのかな。ぼくはこの間から戦争責任の問題を深刻に考えとるが、どうも今度の戦争を起こした源流にまでさかのぼって反省し直す必要があるんじゃないかと思う。明治以来の軍閥やそれに加担した政治屋、財閥、官僚が上流で日本という大河を汚染させてしまっていたことをだ……』


 9月21日、GHGは 「日本に与える新聞紙法」 (プレス・コード) を指示します。同法は “自由な新聞の持つ責任とその意味を日本の新聞に教えるためのもの” で新聞以外のあらゆる刊行物にも適用されます。10カ条から成っており “連合軍にたいし破壊的な批判を加えたり同軍に不信もしくは怨恨をまねくようなことこと” “連合軍の動静” “公安を害するようなこと” などの報道を禁じています。

 実際の中国新聞の基本的な論調は 「広島の復興」 で、プレスコードが解除になっても原爆被害の実態や悲惨さを伝える記事は多くありませんでした。
 そのような状況を変えたのが54年3月1日のビキニ環礁での第5福竜丸が死の灰を浴びた事件でした。
 金井利博記者は、原爆を落とされた側の広島が人類に与えることができるのは落とされた現実の報告とそれに基づく忠告であるという視点に立ち紙面づくりを始めます。金井の指導を受けた若い記者も、在韓被爆者問題、沖縄の被爆者問題、被爆小頭症の問題など様々な問題を 「『人間』 の側から核兵器の問題見ていくという視点」 から原爆被害の記事を書き続けました。
 この取り組みはさまざまな集会で呼びかけられます。金井記者は1964年に開催された第10回原水爆禁止世界大会で呼びかけました。分裂含みの大会です。
原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」 「世界に知られているヒロシマ、ナガサキは、原爆の威力についてであり、原爆の被害の人間的悲惨についてでは」 ない。この広島での大会を主催する広島、長崎、静岡の 「三県連絡会議が単なる社会党、総評、親ソ路線に極限された平和運動でなく、もっと広く日本人の大衆的国民運動として幅広く盛り上がるためには、広島、長崎、あるいは焼津の原体験が、はたして十分に世界に知られているかどうか、どういう基礎的事実にもっと注目してよいのではないでしょうか。水爆に比べて、もはや広島型爆弾は威力ではなくなったとされ、その人間的悲惨は国際的に無視され、あるいは忘れられつつあるのではないでしょうか。平和の敵を明らかにする論争のなかで、まず被爆の原体験を国際的に告知する基礎的な努力がなおざりにされてはいないか」、そこで 「今、広島、長崎の被爆者が、その死亡者と生存者とを含めて心から願うことは、その原爆の威力についてではなく、その被災の人間的悲惨について、世界中の人に周知徹底させることである」

「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」
 このあくまで原爆被害を被爆者の立場に立って捉えなおそうという呼びかけは、その後の中国新聞の報道姿勢になっています。

 1995年8月6日、中国新聞労働組合は、原爆投下50年目を検証する8ページの 「ヒロシマ新聞」 を発行しました。
 題字の下には次のように書かれています。
「この新聞は、原爆投下で発行できなかった1945年8月7日付の新聞を、現在の視点で取材、編集したものです。被爆50周年に、一日も早い核兵器廃絶を願って製作、発行しました。」
 社説には訴えます。
惨状を前に、原子爆弾を投下した者に対する憎しみはわき起こる。しかし圧倒的な被害を前にして思う。憎悪による復讐は人類を滅ぼすことにつながるだけだ。この爆弾は、アメリカが日本に落としたものでなく、人類が人類に落とした兵器、そして歴史として刻まれるべきだ。
 私たちは、本日ここで起こっているできごとを多くの人に知らせなければならない。国境を越えて世界のあらゆる人々に知らせなければならない。時を超えて後の世のすべての人々にも広く知らせなければならない。
 死と破壊の惨状と、地獄の町に身を置いている者の体験を永遠に伝え続けていく。」



 日本政府は今年7月の核兵器禁止条約の採択に参加しませんでした。
 悲惨な体験はヒロシマ、ナガサキだけではまだ足りないのでしょうか。
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