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震災の 「2次的要因」 に具体的対応を
2017/06/13(Tue)
 6月13日 (火)

 6月11日で、東日本大震災から6年と3か月です。
 被災地の状況は日々変化していきます。被災者の 「心」 もそうです。6年という年月は決して短い時間ではありません。風化が進んでいくのは必然です。しかし忘れてはいけないことにはこだわりつづけて伝承していく必要があります。
 震災の後の状況は 「そこ退け、そこ退け防災が通る」 という言い方があるのだそうです。防災という名のもとに被災者の意見は無視され、上からの計画が押し付けられます。目に見える復興が急がれますが被災者の 「心」 にはなかなか関心が向きません。
 被災者は地域的つながりが崩れ、個々を取り巻く経済的状況は大きな 「格差」 が生まれます。それにともなう “人間関係” にも大きな変化が起きています。新たな出会いもありますが、一方では、想像がつかないところで崩れていきます。そしてその具体的姿は学校にも表れ、“いじめ” も起きてきます。“いじめ” の問題をそれだけで限定して議論をしても解決には至りません。

 1995年3月17日に発生した阪神淡路大震災の時はどういう状況が生まれたでしょうか。
 貴重な資料を眠らせたままにしないで今こそ活かしていくことがなか必要です。15年12月11日の 「活動報告」 の再録です。
 阪神淡路大震災発生後10年間、兵庫県の関連機関は毎年 『阪神・淡路大震災復興誌』 を刊行しました。その最終版・第10巻の第6章 教育から、学校の状態、児童・生徒の心理状況はどうだったのか、それに教職員はどう対応していたのか拾ってみます。実際に教職員がどのような活動をしていたのかを検討する中から、教職員への対応策が探れるからです。

「被災児童・生徒の心のケアといえば、教育復興担当教員があげられ、学級担任が対応しきれない 『心のケア』 に、担任教諭、保護者、養護教論、スクールカウンセラー、関係機関の間に立って、コーディネータ一役を果たした。被災児童・生徒一人ひとりの症状を把謹し、『個に応じた心のケア』 を進め、家庭訪問をくり返し、教室に入れない児童・生徒に相談室で個別指導を行った。」
「心に大震災の傷を負った被災児章・生徒の教育的配慮に取り組む 『教育復興担当教員』 は2004年度に55人配置と、大幅減となった。要配慮児童・生徒の減少、震災から10年経過などによるもので、配置市町は、1998年度から変わらず、6市2町。……
教育復興担当教員は国の加配措量による配置で、1995年度に128人、1996年度から2000年度まで207人、2001年度180人、2002年度130人、2003年度65人と、要配慮児童・生徒の減少に伴って削減された。2004年度は当初、文部科学省が全廃方針を打ち出したが、兵庫県教委の強い要望で55人体制で継続された。
 2005年度からは教育復興担当教員としては廃止され、『阪神・淡路大震災に係る心のケア担当教員』 に名称変更して、神戸、西宮、芦屋、宝塚の4市に、計36人 (前年より19人減) が配置された。」

「カウンセラーが行う心のケアの分野で、教育援興担当教員は大きな役割を果たした。教師ならではの方法で成功した。担任ではないが、個別的な児童・生徒へのかかわりが活動の中核になった。学校とは集団の論理で運営されるが、個の論理を置き、個別指導を中心に置く活動だった。
 『声かけ・励まし・日記指導』 など教師の常のスタイルが80% 。加えて 『生活指導・学習指導で自信を持たせる』 支援を続けた。教師の技法というより自然的なかかわりで、相談活動も 『日常会話の中で』 が突出した。家庭、保護者との連携、相談にも積極的だった。1998年9月の台湾地震後、現地の日本人学校へ文部省が兵庫の教育復興担当教員を派遣したことは取り組みの成果を高く評価したからだ。」


「しかし、被災から10年たっても児童・生徒が負った心の傷は今も残されている。大震災からの援興が広い分野で進んだ中で、いまだに解決、解消の道が遠い課題でもある。大震災から学んだ教訓だ。
 兵庫県教委は、被災直後の1996年から、震災による教育的配慮を必要とする児童・生徒数の調査を続けている。1998年度の4,106人をピークに、1997年度から3年間は4,000人の大台を超え、2000年度から減少傾向となった要因別に見ると、被災から5年を境に、事情が変わってくる。前期は 『震災の恐怖によるストレス、住宅環境の変化、通学状況の変化』 などが主な要因。後半は 『家族・友人関係の変化』 や 『経済環境の変化』 などが漸増傾向を見せるようになる。これを県教委は 『二次的要因』 と位置づけている
 要因はどうあれ、要配慮児童・生徒は、10年後の2004年度1,337人、2005年度808人にのぼる。県教委をはじめとして教育現場では、初体験の 『心のケア』 に取り組んできた。その成果が要配慮児童・生徒数の減少である。その中心的役割を果たしたとして評価されるのが 『教育復興担当教員』。略称 『復興担』 は被災後、国の教員加配措置で配置され、『心のケア』 と 『防災教育の推進』 に努めた。」


「大震災で子どもが負った心の傷を調べる 『教育的配慮を要する児童・生徒の実態調査』 は兵庫県教委が1996年度から7月1日現在で続けている。
 2001年度までは県内すべての公立小・中学生を調査対象にしたが、2002年度から震災後に出生した子どもを除くことにし、2004年度は小学1 、2 、3 年生が調査対象外となった。
 2004年の調査対象は小学校828校1分校、15万9,697人。中学校359校3分校 (芦屋国際中等教育学校を含む)、14万9,117人。合計1,187校4分校、30万8,814人。
 調査結果によると、配慮が必要な小学生556人 (前年比420人減)、中学生781人 (同151人減)、合計上1,337人 (同571人減)。毎年減少となっているが、被災9年後に新たな発症が74人もいた。」

「要配慮児童・生徒の2004年度要因 (複数回答) は 『住宅環境の変化』 が43.5% (前年40.1% 、前々年40.0%)。『経済環境の変化』 が37.1% (34.7%、33.1%)。『家族・友人関係の変化』 が36.9% (39.0%、41.0%)。『震災の恐怖によるストレス』 が29.9% (35.3%、36.8%) で、これら4項目が要因の大半を占める。4項目以外では 『学校環境の変化』 4.9% (6.9%、8.6%)、『通学状況の変化』 4.3% (4.7%、5.5%) など。
 トップの 『住宅環境の変化』 は前年と変わらないが、『経済環境の変化』 が2位 (前年4位、前々年4位) につけた。『家族・友人関係の変化』 は3位 (前年2位、前々年1位)。「震災の恐怖によるストレス」 は4位 (前年3位、前々年3位)。要因別順位は2位以下にかなりの変動が見られた。『震災の恐怖』 が大きくポイントを下げたのに対し、『経済環境』 は毎年ポイントを上げ、最近の二次的要因の特徴を2004年度も見せた。
 9年間の調査結果の流れを見ると、1996年度から1999年度までは 『震災の恐怖』 の割合が最も高かった。『住宅環境』 は1996年度、1997年度は40%を超える高い割合を占め、その後、一時減少したが、2002年度以降、再び、40%を超え、2004年度は最も高い。
 生活基盤を揺るがす災害は、直接の衝撃だけでなく、その後の生活の不安定さなどの二次的ストレスが、心理的に大きな影響をもたらし続けることが指摘されている。この調査でも1995年度から2001年度まで 『家族・友人関係の変化』 が増加し、その後やや減少したとはいえ、2004年度でも36.9%を占めている。
 また、『経済環境の変化』 は1995年度以降、一貫して、その割合が増加し、2004年は37.1%、第2位となった。このような二次的ストレスが、震災の恐怖などのストレス体験を呼び起こすことも指摘されており、今後の取り組みは、調査結果の流れ、傾向を踏まえて進める必要がある。
 『震災の恐怖ストレス』 は倒壊家屋の下敷きになるなどの体験により、再び地震があることへの極度の緊張感を持ったり、地震の夢を見て泣き出すなど。
 『住宅環境の変化』 は避難所での苦しい生活や住民移転の影響など。
 『家族・友人関係の変化』 は震災による家族や身近な人の死、保護者の別居、離婚、友人との別れなど。『経済環境の変化』 は震災の恐怖体験をしたうえ、家庭が経済的に悪化したり、保護者が失業。自宅の再建や転居費用がかさんだりするなど。」


「震災で心に傷を負った児童について、兵庫県教委は毎年行う調査で、震災後生まれを対象から外している。2004年度の調査では小学3年生以下が除かれ、4年生以上を調査対象とした。
 兵庫県教職員組合と兵庫教育文化研究所は、2004年7月、教育復興担当教員が配置されている神戸、西宮、芦屋、宝塚各市と北淡町の19小学校で、教育復興担当教員から開き取り調査を行った。その結果、小学1-3年生の中でも、約4%にあたる242人に心のケアが必要なことがわかったと発表した。
 242人には 『怖い夢を見る』 『乳幼児のような言動が現れる』 『集中力に欠ける』 『落ち着きがない』 『いらいらしやすい』 『攻撃的』 『音や振動に過敏』 などの症状が見られたという。
 これらは要ケアの判断基準になっている症状で、理由について、兵教組は 『家族・友人関係の変化』 『住宅・経済環境の変化』 など2次的要因によるものと分析している。
 家族が震災で死亡したり、失職や離婚など、乳幼児期に家庭環境の急変を経験して、ストレスが出ている。不安定な生活の中で子育てが、子どもの心の成長に影響を与えていると主張している。」

 時間の流れとともに要因は変化していきます。10年たっても問題は深刻です。
 このような事態は東日本大震災の被災地においても今後同じような状況が生まれることが予想されます。


 東日本大震災での被災地の子どもたちにも問題は確実に生まれています。
 15年12月1日の 「毎日新聞」 は、「被災地、教育に貧困影響 『父が非正規・無職』 倍増」 の見出し記事を載せました。
 東日本大震災で被災した子どもたちの学習を支援している公益社団法人 「チャンス・フォー・チルドレン」 (本部・兵庫県西宮市) は、11月30日、同法人が支援に関わるなどした被災家庭2338世帯を対象に2014年5〜9月に実施した、被災地の子どもの貧困や教育格差の実態調査 「被災地・子ども教育白書」 を発表しました。
 白書によると、父親が契約社員などの非正規労働か無職の割合は13.1%で、震災前の6.3%に比べ約2倍になりました。逆に正規労働は9.4ポイント減の78.5%に落ち込みました。世帯所得が250万円未満の割合は36.9%で、震災前に比べ8.5ポイント増えました。
 理想とする進路を中学3年生に尋ねたところ、56.2%が 「大学以上 (大学、大学院)」 と回答。しかし 「現実的には、どの学校まで行くことになると思うか」 との質問に 「大学以上」 と答えた割合は44.3%にとどまり、11.9ポイントの開きがありました。その理由に 「経済的な余裕がない」 を挙げたのは13.4%。国が全国の親子を対象に11年度に実施した同種の意識調査で、現実的な進路を選ぶ理由に 「経済的理由」 を 挙げた割合は4.3%しかなく、被災地の子どもたちが自分の希望に反し、経済的理由から現実的な進路選択を迫られる割合が高まりました。
 一方、不登校の経験がある中高生を世帯の所得別でみると、年収100万円未満世帯が最も高い17.9%で、低所得世帯ほど高くなっています。「安心して過ごせる居場所がないと感じたことがある」 「自殺をしようと思ったことがある」 と回答した割合も、低所得世帯ほど高い傾向がみられました。
 同法人の今井悠介代表理事は 「震災の影響は学習面だけでなく生活のさまざまな面に及び、要因も家庭の経済状況や人間関係など複数が絡み合っている。給付型奨学金の充実や子ども専門のソーシャルワーカーの制度化など、国や自治体、地域が連携した支援が必要だ」 と指摘しています。
 しかし現実は 「心」 を無視した防災教育だけが叫ばれています。
 その中で、自分たちの体験を踏まえてこの問題に取り組んでいるあしなが育英会の地道な活動には本当に脱帽します。


 このような児童・生徒に対応しているのが教職員です。
 しかし、阪神淡路大震災の時は、教職員や公務員の 「心のケア」 についてはさほど問題になりませんでした。実際は深刻でした。5年後、10年後に 「バーンアウト」 「PTSD」 が発症しています。
 東日本大震災でも 「二次的要因」 が表れ始めています。教職員は初体験の 「心のケア」 にも対応していかなければなりません。

 兵庫県における震災から2年後の教職員の調査を行った兵庫庫県精神保健協会 こころのケアセンターの岩井圭司医師による 『教職員のメンタルヘルス調査 報告』 (兵庫県精神保健協会こころのケアセンター 1998年3月) を紹介します。

 調査から見えてきたことを [考察と提言] としてまとめています。
 ①震災の被害の大きかった地域に勤務する公立学校教職員ほど評価尺度上の得点が高い傾向が
  あった。
 ②非被災地域の学校に勤務する教職員の評価尺度得点も、一般人口中のそれに比べて著しく高く、
  学校教職員は平時から強いストレスにさらされていることがうかがわれた。
 ③震災時の個人的被災状況が深刻であった者および震災後の業務内容が過酷であった者ほど、
  調査時点での精神健康が低下していた。
 ④震災時の個人的被災状況が深刻であった者および震災後の業務内容が過酷であった者では、
  その後の生活においてもより甚大なストレス状況にさらされやすい傾向を認めた。
 ⑤長期的な精神健康の低下をもたらす予測因子としては、震災後の業務内容よりも個人的被災状況
  の方が重要であると考えられた。
 ⑥勤務先の学校が避難所になったかどうかにかかわらず被災地にある学校に勤務する者は、調査時点
  においても震災の影響を精神健康面でこうむり続けていた。
 ⑦被災状況・業務内容が同程度であった場合には、女性の方が男性に比して評価尺度上高得点をしめ
  す傾向があった。

 これらのことを踏まえて対策を考察しています。
災害をはじめとする心的外傷事件 traumatic event による精神健康の低下においては、その予後ないし全般的な重症度は、急性期の重症度としてよりも回復の遷延というかたちで出現することがこれまでの研究でしられている。また、被害の軽重は、急性期のある時点における横断的な重症度よりも慢性期の重症度と相関することが多い。
 そしてこのことこそが、本調査を意義づけるものであるといえる。学校教職員は災害後も長期にわたって学校という場所に恒常的にとどまり続ける者であり、長期的な展望と対策を必要とするからである。
 学校は教育機関であり、児童・生徒に広い意味での “援助” を与える場である。そして、学校教職員はトレーニングを受けたプロの救助者・災害援助者ではない。したがって、被災した児童・生徒に適切な教育的援助を提供することが優先されるべきであって、教職員たちが本来の学校教育以外の責任や業務を担うことは最小限にとどめるべきであろう。」

「大災害後の被災した児童・生徒のケアにあたっては、精神保健専門家 (精神科医、臨床心理士、精神科ソーシャルワーカー等) の関与が望ましい。しかし、子どもたちの現在の状態を災害前からの生活史の中に位置づけてとらえることに関しては、専門相談機関や専門家よりも学校教職員の果たす役割が大きい。特に、災害で保護者をなくしたり、保護者と離れて暮らすようになった児童・生徒を、生活状況・家庭状況の変化を考慮しつつよりトータルな援助者として見守り続けていくことができるのは、担任教師を措いて他にはない。つまり、被災した生徒・児童に対しては、教職員にしかできない援助というものがある。それゆえ、援助者としての教職員に求められるのは “簡便な” 精神保健知識ではなく、あくまでも教育者としての専門技能の延長上に位置づけられるべきものとしてのアドヴォカシー (擁護的・保護的援助) を提供する能力であり、その一環としての精神保健知識であるといえる。学校教職員にとって最小限の災害心理学の知識は、学校避難所に避難してくる被災者のためにではなく、教職員自身と子どもの精神健康の維持のために必要である。」

 阪神淡路大震災における貴重な体験を活かしていかなければなりません。
 教職員に対する “心のケア” と “ゆとり” が必要です。
「被災した生徒・児童に対しては、教職員にしかできない援助というものがある。」
 児童生徒の心理状態は、体験だけでなくその後の生活変化、社会の変化にも大きく影響されています。1人ひとりに目が届くだけの教師の人的配置体制が必要です。
 兵庫県のような “心のケア” ができる 「教育復興担当教員」 の配置は、教員同士で “ゆとり” を作り出すこともできます。安易なカウンセラーの導入はかえって学校現場を混乱させます。
 「痛みある心」 は児童・生徒も教職員も持っています。それを癒すのは 「痛みある心の裡」 をも共有している人たちとの人間関係です。


 学校の “いじめ” 問題の責任を教師だけに押し付けても解決しません。
 5月29日の朝日新聞 フォーラム 「いじめをなくすために」 に評論家の荻上チキさんがコメントを寄せています。
「多くのいじめは休み時間に教室で起きています。……ストレスがたまりにくい環境を学校がつくっていく必要があります。
 ただ、今でも多忙な教師だけに負担を押し付けるのは問題です。常に2人以上の大人が教室にいるよう、人員を増やすべきでしょう。
 いじめに遭うと1人で抱え込んで何も考えられなくなり、選択肢が狭まってしまう。だからSOSを出しやすくしてあげることが大事です。いじめた側は 「チクった」 と言うかもしれないけど、それは相手を悪者にして自分を正当化しようとする卑怯な言い分。『もしまた何か言われたら先生が対応するから、どんどんチクりましょう』。子どもたちにそう伝えるのです。……」


 問題が発生することが予測できたら、意識しながら、行動しながら事前にさまざまな対策を検討していくことが二次被害の “減災” につながります。

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「東北でよかった」
2017/04/28(Fri)
 4月28日 (金)

 4月25日、今村復興大臣が自民党二階派の政治資金パーティーの講演で 「東北でよかった」 という趣旨の発言をして辞任に追い込まれました。
 大臣はパワーポイントを使用して20分講演しました。ということは、説明・発言内容を事前に準備をしていたということです。思ってもいないことがぽろっと漏れたのではありません。発言内容です。
「(東日本大震災は) 死者が1万5893人、行方不明者2585人、計1万8478人。この方が一瞬にして命を失ったわけで。社会資本の棄損も、いろんな勘定の仕方がございますが25兆円という数字もあります。これは、まだ東北で、あっちのほうだったからよかった。これがもっと首都圏に近かったりすると、ばく大なですね、甚大な被害があったというふうにおもっております。」
 数字にしか関心がありません。大臣の発言は 「あっちのほう」 です。ここに本心があります。


 「東北でよかった」
 どこかで聞いたことがあると思ったら、思い出しました。直木賞作家の高橋克彦が東北大震災後の2013年に出した 『東北・蝦夷 (えみし) の魂』 (現代書館) の序幕にありました。
「リーダーの条件とは何だろうか? ……
 東日本大震災を経験したことで見えてきた、新たなリーダー像もあるのではないか。頭脳とか行動力といった理由からではなく、何故か自然と和の中心にいる人――なんだか頼りない奴だけど、でも、あいつがいるといいよね――そんな人が、これからのリーダーになっていくのではと思っている。……」
 東日本大震災を経験して東北の人たちはたくさんのことを学びました。多くの人から支援を受け、本当に大切なものは何かを発見しました。「国の姿」 ・政治家の姿勢も見てきました。
 リーダーといわれるにふさわしいのは、政治家においても 「頭脳とか行動力といった理由からではなく、何故か自然と和の中心にいる人――なんだか頼りない奴だけど、でも、あいつがいるといいよね」 といわれる人です。寄り添う人です。
 「東北でよかった」 と平気で言えるような人は、「あいつがいると迷惑だよね」 の存在です。不愉快・ムカツキました。悔し涙がでてきました。

「東北は朝廷など中央政権に負け続けている。
 阿弖流為が坂上田村麻呂に、阿部貞任が源頼義に、平泉の藤原泰衡が源頼朝に、九戸政実が豊臣秀吉に、そして欧州列藩同盟は明治政府により賊軍とされた。」
「東北の民は朝廷軍など中央の権力と何度も戦い、すべて敗北した。負けた側は歴史を消されてしまう。勝った側は当然のように自分たちの正当性を主張する。自分たちは正義の戦いをした、抗った連中は野蛮で文化もなく殺したって構わない奴らだ、と決めつけたのだ。
 東北は……たびたび大規模な戦に巻き込まれたため、歴史をズダズダに書き換えられ、棄てられてしまっている。それでも東北の人たちは逞しく生きてきた。その事実を子供時代に知ることが、どれほど大切か。特に中学・高校生の頃、故郷への思いや誇りを胸に刻み込んでほしい。それが必ず心の支えになっていく。……
 阿弖流為も安倍貞任も九戸政実も、逆賊どころか故郷を守ろうとしたヒーローなのだと正当な評価が広がり、『自分は東北に生まれてよかった』 と思える子供時代を過ごせば、きっと壁を超える力を得られるだろう。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)


 阿弖流為の戦いです。
 785年、朝廷と蝦夷は支配権の均衡が崩れます。あちこちで戦いが始まります。
 蝦夷の中心にいたのが胆沢の長・阿弖流為です。その後28年間戦いが続きます。
 しかし 『続日本紀』 などの歴史書にはほとんど記述がありません。朝廷は5万の軍を送りますが、負け続けている歴史は記録しません。
 蝦夷を 「平定」 した時の記述は蝦夷の首級200に対して朝廷の戦死者は800とあります。実際は、戦って死んだ者25人、矢にあたって死んだ者245人、川に身を投じて溺死した者1036人でした。
 799年、桓武天皇は坂上田村麿を征夷大将軍に任命します。
 802年、田村麻呂は胆沢に進出、阿弖流為は500の手勢を引き連れて本拠地を明け渡します。しかしこの間の資料もありません。
 なぜ阿弖流為は降伏したのでしょうか。蝦夷の疲弊が極に達していたからと推測されます。どうしたら蝦夷に未来が残せるかの苦闘がありました。
 高橋克彦は阿弖流為を描いた小説 『火怨』 で、「リーダーとは共に戦う兵士たちに郷土に対する思いをきちんと伝えられる人間だ」 といっています。
 やはり復興大臣とは違います。


 1198年に平泉の藤原泰衡が、朝廷の命を受けた源頼朝によって攻撃を受け後退したことについては、11年9月1日の 「活動報告」 でふれました。
「戦わずして負けたのは、弱腰だったからではない。入り込んできた20数万の敵兵と戦えば、平泉や奧6郡が灰になってしまうのを恐れたからだ。それよりは、自分たちが立ち去ることで、国と民を守ろうという判断をしたのだろう。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)


 九戸政実については15年8月18日の 「活動報告」 で書きました。
 1591年、豊臣秀吉の軍勢15万が屁理屈をつけて九戸政実の九戸城に攻め入ります。攻防が続きますが最終的に政実は降伏します。
 城下の住民の被害が拡大することを避けるためにも、南部藩に自分ら四兄弟の首を差し出すことを条件にした和議を申し出ます。奥州勢も秀吉の野望に気づき、奥州の共同体を守る方向に転換して和議を成立させます。双方の被害は最小限でくい止められました。そのために 「降伏」 したのです。そして秀吉の野望は頓挫しました。
 政実の思いは、「山の王国」 ・蝦夷を含めて奥州の共同体を守る、農民たちを苦しめない、鉄砲の性能を高める良質の硫黄の山は渡さない、そのためには自分の首を差し出すことも辞さないというものでした。硫黄の山は秀吉に渡ることはありませんでした。現在の松尾鉱山です。
 秀吉はすでに朝鮮への出兵を計画していました。そのため奥州からも人足を集めようとします。朝鮮出兵のためには、寒さに強い兵士が必要でした。
 福島龍太郎の小説 『冬を待つ城』 (新潮社) は秀吉の朝鮮出兵、日本でいうところの1592年からはじまった 「文禄の役」 の場面から始まります。計画通りにはいかなくて苦戦します。
 政実と奧州勢の策略は、秀吉の朝鮮出兵による朝鮮の人びとの被害を小さくしました。今でいうなら 「日朝連帯」 でした。


「中央政権が攻め込んできた時には、東北から奪い取りたいものがかならず中央の側にあった。阿弖流為との戦いでは黄金であり、前九年・後三年の役では武士勢力の源氏が、軍馬や鉄など軍事資源を狙った。源頼朝による平泉制圧はそれら軍事資源に加えて、より高度な軍事技術、すなわち軍馬の育成であり、刀や鎧などの武具製造技術であり、公家政治とは異なる平泉の政治制度をも欲しかった。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)
 九戸城への攻撃をふくめてまさしく植民地そのものでした。


 戊辰戦争で官軍が東北に大量に入り込みます。その後に薩長土肥の新政府によっていわれ始めたのが 「白河以北一山百文 (しらかわいほくひとやまひゃくもん)」 です。「白河の関所より北の土地は、一山で百文にしかならない荒れ地ばかり」 という意味です。
 明治維新後、官軍側の役人が赴任し、急速に東北は差別され虐げられます。武士たちは北海道改開拓移民などに応じて移住します。他の者も明治政府が進めた富国強兵政策のもと軍隊に入っていきます。日露戦争の時、激戦地の203号地で最前線に立たされたのは東北の兵です。新たな差別が始まります。「新植民地」 です。
 戊辰戦争で生活の糧を荒らされ、東北での生活がむずかしくなった人たちは東京などの大都市に職を求めます。明治10年頃の東京の 「下男」 ・ 「下女」 はほとんどが東北出身者で、東北弁を話します。いまも東北弁を使うと笑われたり差別されます。「下男」 ・ 「下女」 が話す言葉だったからです。
 「新植民地」 の典型が、電力供給地、そして危険なものを押し付けた福島原発につながっていきます。沖縄に米軍基地を集注させている発想にそっくりです。


「東北の民、蝦夷と呼ばれる人々に共通しているのは、自分たちから攻めていくことは決してないという点だ。自分たちから攻めないのは、我慢ができるからだ。反対に、いざ戦うとなったら、我慢を重ねた分の重みがあるから、命を賭して立ち向かうことになる。……
 弱いのではなく、遥か遠くまで見ているような意識とでも言おうか。自分という存在は、決して中心にいるのでもなければ、自分だけで生きている世界でもないという認識を東北人の誰もが持っている気がする。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)

 「東北でよかった」 の発言が報道されると、その晩のうちに東北の素晴らしいところを紹介したインターネット 「東北でよかった」 が次々と発信されました。大臣の発言にたいして直接的には攻めてはいませんが真正面からの戦いです。それは東日本大震災という災害に命を賭して戦っているなかで発見した自分たちの確信での対峙です。


「東北の民、蝦夷と呼ばれる人々に共通しているのは、自分たちから攻めていくことは決してない」
 長州出身の、自分たちから攻めていくことを画策する首相に、平和を希求する東北の魂で反対の意思を表明して攻めを続け、重ねて 「東北でよかった」 といえるようにしたいと思います。


   「活動報告」 2015.8.18
   「活動報告」 2011.9.1
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住宅は安全に、安心して暮らすためのもの
2017/04/14(Fri)
 4月14日 (金)

「地震が多い日本では、大きな地震が起こると、ただちに為政者は救済を行ったという記録が残されています。奈良時代、地震などの災害に対する救済施策の根本的な思想は、天譴論にもとづいたものでした。
 天譴論は、もともと古代中国の孔子・孟子らの儒教にもとづく思想であり、日本にはすでに奈良時代からあったと言われています。天譴論の原義は、地震、風水害、火山噴火などの事前災害を、『王道に背いた為政者に対する天の警告』 とみなす考え方です。
 王道は、天の意思にもとづいておこなわれなければならない。この天の意思とは、公平無私な仁徳に満ちた政治を行うことであって、政治をつかさどる天子 (天皇) はこのような意志に従って国を治めなければならない。これに背いた場合には、ただちに天子としての責任を負わなければならない。
 つまり、自然災害は、『天子の不徳から発生する』 という考えです。しかし、災害に遭遇したとき、実際にその災厄を受けるのは、もちろん人民全体です。このことは、天子が、自分の不徳によって引き起こした災いを人民にかぶせることを意味します。これは、天子としては大きな恥であり、したがって、天子は、善政を行い、同時に、災害の犠牲者に対して手厚い救済処置をとらねばならず、それが天子の唯一絶対の道であるというものです。

 奈良・平安時代の自然災害の記録を調べてみると、地震災害に対する具体的な救済の方法が3つあります。
 その1つは 『検地震使』 の派遣です。地震災害発生の報が入ると、直ちに朝廷から派遣され、王道の欠陥から生まれた人民の困窮・苦痛を慰問し、また被災地の行政官と共に震災対策を講じるのです。例えば、869年 (貞観11年) 5月には、大地震によって東北地方の三陸沿岸に津波が発生し、1000人以上の死者を出しましたが、その際には9月に、京の都から 『検陸奥国地震使』 が派遣されています。
 2つ目は、賑恤 (しんじゅつ) です。賑恤とは、被災者、困窮者の救済で、食料や衣服などの供与、家屋の補修あるいは死者の埋葬などがその内容です。……
 3つ目は、この時代に国民に課せられた納税および労役義務である租・庸・調を免除する 『免租庸調』 です。」(伊藤政雄著 『歴史の中のろうあ者』 近代出版)


 4月11日で東日本大震災から6年と1か月、熊本大震災から1年が経ちました。
 東日本大震災から6年目が近づくと、復興事業の進捗度についての報道が目立ちました。
 具体的数字です。
 除染作業は帰還困難指定区域以外はほぼ終了といわれています(総事業費4.0兆円)。 しかし帰還区域の1つの敷地内においても、放射線量が高いとことが残っている指摘されたりしています。
 住宅についてです。
 被災した住居の対策は、高台や内陸への 「集団移転」、浸水した市街地の 「かさ上げ」 による宅地造成と、返済ができない等の理由で自宅建設ができない被災者にむけて自治体が建設する 「災害公営住宅」 があります。
 これらの進捗状況です。
 高台移転は333地区、48764戸が完了しています。進捗度は84%です (5900億円)。
 災害公営住宅は3万108戸のうち70%が工事完成しています (9600億円)。被災3県の計画は、岩手県5700戸、宮城県1万6000戸、福島県8000戸です。
 土地区画整理 (かさ上げ) は、50地区、1万130戸のうち25%が完了しています (3400億円)。
 
 これが6年過ぎた被災地の状況ですが、あらたな問題が発生しています。
 「かさ上げ」 が待ちきれなくて移転した被災者も多くいます。特に商業を営んでいた自営業の人たちは切実で、我慢の限界にきて諦めざるをえませんでした。人口の減少が続く中で、営業してもこの先あまり期待ができません。空き地のままのところも出てきています。
 災害公営住宅を希望した人のなかにも、待ちきれなくて辞退した人が出てきています。また入居者後に引っ越しをした人もいます。また入居者・入居予定者は小家族の高齢者が多くいます。死亡や施設への入居者も出てきています。将来、空室が大量に出てくることが予想されています。
 被災者が個人で住宅を立てた造成地のなかにはインフラ整備が進んでいなくて、市町村役所などが遠いだけでなく、病院やスーパーも遠く、不便を感じている人たちも出てきています。被災者が個人で住宅を立て直そうとしても造成が進んでいない宅地もあります。
 震災直後は同じ地域に住んでいた人たちと一緒に “街づくり” をした地区でも、ぼつりぽつりと人が減っていき、予定を変更したり、可能に陥っている地区も出てきています。

 その一方、被災3県で、2月末段階で、3万3854人がまだプレハブ仮設住宅に暮らしています。911カ所あった仮設団地は、空室も目立つようになりましたが746カ所残っています。
 県別では、岩手県1万383人、宮城県1万1616人、福島県1万1855人です。
 石巻市は、19年9月末までの仮設住宅解消を目指しています。あと2年以上存在することになります。

 福島県の放射線量が高いということでの避難者についてです。
 原発事故直後の避難指示者は8万1000人でした。現在の住民登録者数は7万6000人です。そのうちすでに解除済みになっていたのは1万9000人です。今年4月1に避難解除されたのは3万2000人で、解除のめどが立っていない人が2万4000人です。
 避難指示区域以外からの自主避難者もいます。合わせると2012年5月時点での避難者は16万4000人でした。県内10万2000人、県外6万2000人です。

 しかしすでに避難指示解除された区域でも、実際に戻った住民の割合は平均13.5%です。戻った住民は高齢者が中心で、子どもがいる世帯は戻っていません。3世代家族では子供の親子は避難先や新たに決めた住居に住み、祖父母だけが戻っています。祖父母は子どもたちに危険だから里帰りや墓参りにも来なくていいと告げています。原発事故は家族をバラバラにしました。
 家業である農業を再開するのも、荒れ果てた田畑を元に戻すには10年かかるといわれます。政府は安易にとらえています。祖父母の世代が今からそれに挑戦します。
 人口が減少したところでは、商業は成り立ちません。新たな産業を誘致するにも働き手がいません。
 自主避難者は、県内に3万9000人、県外に4万人います。3月31日からは仮設住宅の提供や家賃などの国からの支援が打ち切られています。支援打ち切りということでの帰還の強制は人権を無視しています。
 安全と安心は違います。安全にしても基準がまちです。国が示す基準が本当に安全だとはいえません。住宅は住むためだけでなく、安心して暮らすためのものです。
 原発は町を、地域を、共同体を、家族を破壊しました。「天子の不徳から発生」 した人災に対して政府が今進めている政策は棄民です。


 防潮堤は677海岸のうち25%が完了しています (1.4兆円)。
 3月23日の毎日新聞・記者の目はタイトルが 「東日本大震災6年 防潮堤を考える」 でした。
「防潮堤事業は青森県から千葉県までの太平洋沿岸の計677カ所で進む。うち9割近い591カ所が岩手、宮城、福島の3県に集中し、震災前は延長約165キロだった高さ5メートル以上の3県の防潮堤は倍近い約300キロに増える。土地の用途によって所管が国土交通省、農林水産省などに分かれており……。
 防潮堤計画は、震災を受けて政府の中央防災会議が2011年にまとめた津波対策が基になっている。数十年から百数十年に1度起きる津波を 「L1」、1000年に1度とされる最大クラスを 「L2」 に分類し、L1を防潮堤で守ることを基本とした。これを基に国交省や農水省などが高さについての通知を出し、シミュレーションをしたうえで各県が地域ごとにL1を防げるよう、高さを決めた。
 その後、全677カ所のうち、約200カ所は当初計画より高さを下げたり、位置が変更されたりした。集落が高台移転したため当初計画の高さが必要ないと判断されたケースが多く、ほとんどは震災前と同じ高さに落ち着いている。」

 現在の建設状況です。
「東日本大震災から6年が過ぎた被災地で、津波から街を守る防潮堤の建設が進んでいる。津波から街を守る有効な手段であることは否定しないが、高い防潮堤は海とともにあった古里の景観を激変させてしまうのも確かだ。建設には住民の合意が必要と思うが、行政が見切り発車と言われても仕方がない形で着工した例もある。これでは、防潮堤が地域を分断する構造物になりかねない。禍根を残さないよう、自治体は住民と十分協議すべきだ。」
 陸と海を分断してしまう、海の変化が見えずかえって危険になるとの声も根強くあります。一方、「議論がまとまらないと、他の復興が遅れる」 と工事を強行している自治体もあります。
 現在、677カ所のうち、6カ所は住民が合意しておらず、工事が始まっていません。
 防災のために必要なのは強固な建造物だけではありません。共同体の人たちの共通認識と備えと助け合いです。それが壊されたら防災は機能しません。


 地震と津波は天災ですが、「減災」 を考えていなかった社会で生じた被害は 『天子の不徳から発生』 したものです。減災は形あるものだけが対象ではありません。「災害の犠牲者に対して手厚い救済処置をとらねばならず、それが天子の唯一絶対の道で」 す。
 ましてや原発事故は為政者による人災です。「天子としての責任を負わなければな」りません。

 熊本でも多くの被災者が仮設住宅に住んでいます。震災から1年が過ぎますが、東北と同じ轍は踏まないようにしなければなりません。
 復興工事の遅れは、人手不足、資材の高騰などによります。2020年予定のオリンピックがそうさせています。
 「復興五輪」 といわれました。しかし実際は 「復興 VS. 五輪」 の構造になっています。政府はオリンピックを利用して復興を忘れさせようとしています。

   「活動報告」 2017.1.24
   「活動報告」 2017.1.6
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原発で働く労働者が安全に働き続けられるために
2017/03/17(Fri)
 3月17日(金)

 よこはまシティユニオンは、東日本大震災の後、毎月11日に横浜市内で反原発のビラを配布しています。72回目になる3月11日に配布したビラを紹介します。
 表面です。

  原発は、いらない! 今すぐ廃炉に!
  あの日から6年。 今、 共に考えよう!

 故長尾さんの闘いを胸に

 よこはまシティユニオンの組合員だった故長尾光明さんは、福島第一原発で働き、被ばくが原因で退職後に多発性骨髄腫 (血液のガン) を発症し、労災認定されました。
 損害賠償を求めて東京電力を相手に裁判を起こしましたが、東電は、労災認定はおろか病名すら否定。裁判所も長尾さんの請求を棄却しました (最高裁2010年4月)。

 原発で働く労働者と共に
 原発は、電力会社を元請とし4〜8次にわたる下請会社の労働者により稼働しています。3・11以降、多くの労働者が福島第一原発の収束作業に関わり、被ばくを余儀なくされています。また、うつや不眠症など精神的負荷も大きくなっています。ユニオンは、被曝労働従事者やその家族に向けメッセージを発信し、ともに闘いを進めていきます。

 東電と国の責任を追及します
 よこはまシティユニオンは、11年4月以降、東京電力に対し、団体交渉や情報公開・賠償・脱原発などを求め、45回にわたり要求書を提出しています。東電からはその都度、文書で回答はありますが、肝心な点はいつも曖昧です (ホームページ参照)。ユニオンは、東電と国の責任を追及し、今後も粘り強く話し合いの場を求めます。

 職場の問題、いつでもご相談を
 私たちは、この6年間、毎月11日に街頭宣伝活動を行ってきました。3・11大震災や原発事故を忘れないためです。
そして、何ができるのかを一緒に考えたいと思います。「福島どころじゃない」 「自分の仕事と生活が大変」 という方もいるでしょう。そんなあなたこそ、あきらめる前に一度ぜひ職場の問題をユニオンに寄せてください。一緒に解決しましょう!


 裏面です。各執行委員がコメントを寄せています。

  私たちはユニオンの組合員です。原発のない、安心・安全に働ける社会を一緒に作っていきましょう!

台湾は脱原発を決めた。東電は自己で補償責任すら果さず、廃炉費用の一部は、私たちの税金と電気料金で加算して集めると言う。ふざけるんじゃあない!自分でばらまいた害毒は自分で始末すべき。子供すら知ってる!原発利権で儲けた人から財産没収して始末するべきではないでしょうか。

福島から横浜に避難してきた中学生が死ぬほどのいじめを受けていたことが明らかになりました。また、この3月で住宅支援費が打ち切られることで、福島の避難者の苦しみが増します。廃棄物の処理もできない、一たび事故が起きれば人々に不幸をもたらす原発は、絶対止めるべきです。

福島原発事故は終わってない。毎日、放射能を海、山、大気中に撒いている。原発は厳重に隔離して管理する。知りながら6年経っても再稼動! 8000Bq 以下は公共事業で日本国中に散布? 命を紡ぐ土を汚染するな!

直接の被害者でないと、事故の記憶は、どんどん衰えます。脱原発に向けた、あるいは後退する様々な 「事実」 に一喜一憂せず、きちんと認識することを怠ってはならないと思います。月1 回のビラまきは、多くの人への宣伝ですが、同時に自らを戒めるための取組みでもあります。

3.11から3年後、いわき市に住む被災者の短歌です。
「あの日からガマンガマンの石の上 たかが3年 されど3年」。それから3年。石の上で 「されど6年」 です。ガマンは限界です。もっともっと声をあげることが必要です。
MAKERUNA KUMAMOTO

原発は、造る側にとっても、動かす側にとっても、経済的にも環境的 (核のゴミ) にも割りの合うものではありません。今すぐ、全ての原発を廃炉に!

無関心ではありませんか、原発の後始末は一生、国民が負担することに。安全・廉価をうたった原発の電気料として、子・孫・ひ孫・玄孫以降も放射能消滅まであと何年かかるのでしょうか。今すぐ原発は廃止させましょう!

新規制基準に合格した原発は12基で、2基は運転中で、数基は年内再稼働に向け準備中とのこと。新基準は地震や津波の想定をより厳しくしているみたいですが、原発本体には問題はなかったのでしょうか。40年超運転となる原発も将来再稼働もあり。6年前には考えられなかった事です。

当時、被災した中学生が成人になって自分たちに何ができるかと自問している姿や、故郷に帰還できない人の苦しい生活の様子をテレビで見ると、私が今、できることはやらなくてはと思う。今年も満開になる準備をしている夜ノ森の桜がそう言っているような気がします。

毎日7000人近い労働者の被ばく労働抜きに原発の廃炉作業は進まないのが現実です。原発で働き、白血病を発症し、労災認定された 「あらかぶさん」 の損害賠償訴訟が2月に東京地裁で始まりました。東京電力の責任を糺す重要な闘いです。あの日から6年。やっと端緒に就いたばかりです。

私たちの望むものは、
「今さえ良ければそれでいい」 ではなく、
「今を変えて、未来へつなぐ」 です。
脱原発! 福島に学ぶ。
経済より、いのちを!

例えば嫌なことがあった時、うんと小さい頃は、ただ黙って涙を流した。少し大きくなると、神様に祈った。「嫌です」 と言葉にできるようになったのは、学校を卒業してから。すっかりおばさんになった今、自分の考えを表現できる幸せと責任を思いながら毎月ビラをまいてます。


 東日本大震災から6年目が近づくと各地でいろいろなイベントが催されました。
 そのなかの、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故により被災した福島県浪江町請戸地区で、捜索活動に当たった消防団の苦悩を描いたアニメーション映画 「浪江町消防団物語 『無念』」 を観ました。
 沿岸の請戸地区は2011年3月11日、津波で多くの家屋が流され、消防団が懸命の捜索を始めました。しかし翌日、福島第1原発が爆発。がれきの下で多くの人が助けを待っていると知りながら、捜索を断念せざるを得ませんでした。
 製作に携わった人たちは、反原発を訴える映画ではないがあるがままを知ってほしいとの思いから作ったといいます。
 映画の一シーンに、避難命令がでて原発近くの住民があわてて避難をするなかで、逆に原発事故対応に向かう東電社員が描かれていました。東電社員だけでなく下請・関連企業の労働者、そして救援に駆けつけた部隊は沈静させるために必死でした。


 昨年12月16日、福島労働局富岡基準監督署は、東京電力福島第1原発事故の収束作業に従事し甲状腺がんを発症した40代の東電の男性社員を労災と認定し医療費の支給を決定したことを発表しました。放射線被曝による甲状腺がんに労災が認められるのは初めてです。
 男性は1992年4月に東電に入社し、一貫して原発部門の仕事に従事。2011年3月の福島第1原発の1、3号機の水素爆発に屋外で遭遇し、直後から12年4月まで、第1原発原子炉の水位計や圧力計の確認や燃料ポンプの給油などを行っていました。被曝量は20年1カ月間で計149.6ミリシーベルトでしたが、このうち福島原発事故後の緊急作業での被曝は139.12ミリシーベルトでした。健康診断をきっかけに、14年4月に甲状腺がんと診断されました。
 福島原発事故に絡み、作業後にがんになり労災を申請した人は今回を含めて11人いますが、すでに白血病の2人が労災認定されています。白血病については認定の基準がありますが、甲状腺がんについては基準がないため、専門家が15日、論文などを参考に認定の目安を検討し、厚労省は 「医学的な因果関係の証明はできていないが、専門家から示された目安を総合的に勘案し、労災を認めた」 といいます。


 原発事故の収束に対応しているすべての労働者に敬意を表するとともに、健康に充分に留意することを期待します。東電は同じような事態が繰り返されないよう下請会社・関連会社を含めてすべての労働者の安全と健康に充分に配慮・管理をしていく必要があります。


   「消防士の惨事ストレス」
   「活動報告」 2013.3.5
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大川小学校  児童遺族も教員遺族も遺族
2017/03/14(Tue)
 3月14日 (火)

 東日本大震災から6年が過ぎました。
 6年間、故郷でもある被災地を見て回ってきましたが、どうしても足が向かないところがありました。
 児童74人と教職員10人が亡くなった大川小学校です。地域としてはもっとたくさんの方が亡くなりました (高校時代、同じクラスだった者も亡くなっています)。
 しかし、いつのまにか児童74人が亡くなったところといわれますが、教職員については語られなかったり、教師の判断が不充分だったために児童が亡くなったという雰囲気が生まれていました。「児童遺族」 と 「教員遺族」 を分かつ 「壁」 がうまれました。犠牲者を加害者と被害者に分ける壁でもありました。一部の犠牲者が “排除” される雰囲気の場所に足は向きませんでした。
 教師を加害者とはどうしても思えません。追悼は犠牲者全員におこないたいと思います。


 3月5日の毎日新聞に、父親が大川小学校の教師で震災で亡くなった、今、教育系大学に通う学生と、大川小学校で亡くなった児童の父親との交流の記事が載りました。
 学生は、その前に大川小学校で娘を亡くした、震災の時に女川第一中学校の教師で今退職している方に会います。
 元教師がいいます。
「先生たちも一生懸命だった。でも使命を果たせなかった。彼らは津波を見て、『子どもらを守れない』 と分かった時、どんな気持ちだったか想像してほしい。彼らの後悔を無駄にしないためにも、あの日から目を背けてはいけない」
 学生が答えます。
「自分は生かされた命だと思う。この場所で何があったのか真剣に向き合い、一緒にできることをして生きたい」


 この元教師は国語を担当していました。
 女川第一中学校は生徒数205人でした。1人が死亡、1人が行方不明です。震災後の5月と11月に全校あげて国語の授業で俳句づくりをしました。朝日新聞社の記者はその作品を先生から見せられ、生徒たちを取材して小冊子 『女川一中生の句 あの日から』 (小野智美編 はとり文庫) として出版しました。
 5月と11月の句が並べて紹介されています。(2012年10月26日の 「活動報告」 参照)
 句の背景には、家族や親せきを失った、家を失った、両方失った、両方無事だったなど、それぞれの事情があります。それぞれが他者を思いやって感情を表に出しません。しかし俳句では個人の思いを表現しています。
 5月には震災の悲惨さには直接触れようとしない 「前向き」 の作品が多くありましたが、11月になると感情が出てきます。

 3年生の作品とその思いです。
「    ただいまと 聞きたい声が 聞こえない

 あの日、中学校から近くの総合体育館に避難した。
 同級生が座り込んで泣き始めた。
 『どうしたの?』 聞くと 『お姉ちゃんがいないんだ』。
 かける言葉が見つからない。かたわらに座って、一緒に泣いた。
 自分の家族は無事だった。だが、級友には母を亡くした子もいる。父を亡くした子もいる。5月、友達の心中に思いをはせて詠もうかと考えた。本当のつらさを経験していない私に書けるのか。迷ううちに50分が過ぎた。
 先生は言った。『家で書いてきてもいいよ。明日、提出して』。
 帰宅後、外で働く母が帰ってくる光景を思い浮かべて、書き上げた。朝の何げない 『行ってきます』 を聞いたのが、最後になるなんて。
 仕上げた後、また迷った。この句を提出したら、先生を余計に苦しめるか。先生も震災で娘を亡くしていた。でも、この悲しみを日本中のみんなに伝えたい。もう二度と繰り返してほしくないから。翌日、提出した。
 先生は今もこの句をそらんじている。」 ( 『女川一中生の句 あの日から』)

「俳句づくりは、財団法人 『日本宇宙フォーラム』 からの提案だった。2012年の夏に句集を国際宇宙ステーションへうちあげるという。
 校長が引き受け、教務主任でもある国語教諭に託した。教諭は、子どもたちの重荷にならないか不安だった。だが 『気持ちにふたをするだけではだめだ』 と授業に臨んだ。2011年5月と11月の2回、俳句の授業を行った。最初、震災を題材にした句は限られていたが、11月には多くの生徒が震災と向き合っていた。『前より重くなっている悲しみもある。でも、向き合うから、希望も生まれるのだと思う』。
 震災で教諭は小学校6年の次女を亡くした。『未完成なんですけど』 と11月の思いを詠んだ。

   胸の奥 しみこむ記憶 八カ月     」 ( 『女川一中生の句 あの日から』)


 毎日新聞にもどります。
 学生が児童の父親にメールを送ります。父親は遺族が県と市を訴えた訴訟原告団の中心でした。
「言い出しにくいですが、私も “遺族” になります。大切なお子様を亡くされたご遺族の皆様の事を考えますと、簡単には言い出せません」。
 返事がきました。
「あれから5年が過ぎ、最初は先生たちのことも恨みました。でも色々と分かり始めて先生達も同じ被害者だと思えるようになりました」。

 2人は対面します。
「厳しいことを言うけど、子どもたちの命はお父さんたちが守るべきだった。守るべき立場の先生と、守られる子供の立場は違う。乗り物でいえば、ハンドルを握っていたのは先生で、乗せられていた子はしたがうしかなかった」
「父を思うと残念ですが、自分も先生が子どもを守るべき立場だと思っています」
「後ろめたいと思わず、大川小学校であったことをしっかりと語っていってほしい」
 
 学生は知人の学生を被災校舎に案内し、児童の父親に語り部を依頼します。
「父もきっと無念だったと思うし、その瞬間を考えたら苦しいですが、子どもたちの小さな命が失われた事実とつらくても向き合わないといけないと思い、ここまで来ました」


 一昨年の夏は、学生の亡くなった父親の還暦祝いを児童の遺族ら保護者が開いてくれました。出席した学生は、父の先生としての顔を知り、笑顔の父を思い浮かべられるようになったといいます。


 昨年10月26日、仙台地裁で児童の遺族たちが起こした裁判の判決が言い渡されました。
 裁判所に向かう遺族が持った横断幕には 「先生の言うことを聞いていたのに!!」 とありました。前日、遺族が何と書いたらいいか迷っていると弁護士がアドバイスをして決めたといいます。
 判決後に遺族が掲げた横断幕は 「勝訴」 「学校・先生を断罪」 です。(2016年11月11日の 「活動報告」 参照)
 児童生徒の命を大切にしようと思わない教師がいるでしょうか。横断幕は、震災のもたらした悲劇を部分的にしか見ようとしないで法廷戦術に走った弁護士の利害が産み出しました。
 県と市は教師が浮かばれないと控訴しました。


 学生は、判決を広く教育現場に立つ先生たちに向けられたものだと理解し、冷静に受け止めたといいます。
「判決を聞いて、やはり司法 も 『学校、先生は子どもたちを守る責任がある』 と認めたんだ。受け止めなきゃと思いました」

 ここに至るまで5年、6年の月日が必要でしたが、人びとはそれぞれ、しがらみよりも大きな教訓を受け止めています。何よりの供養です。
 高裁では、 「弁護士の言うことを聞いていたのに!!」 ではなく、法廷内だけでない和解を期待したいと思います。

 学生は語り部を続けるといいます。
 今年の3月11日は伺えませんでしたが、新聞を読んで、近いうちに大川小学校を伺おうと思います。

   「活動報告」 2016.11.11
   「活動報告」 2012.10.26
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