2018/01 ≪  2018/02 12345678910111213141516171819202122232425262728  ≫ 2018/03
災害に 〈攻め〉 の姿勢を
2018/01/26(Fri)
 1月26日 (金)

 1月17日、阪神淡路大震から23年を迎えました。
 関東のテレビ各局の現地の追悼集会中継は5時46分を前後してせいぜい2~3分でした。遠い過去の出来事になってしまったのでしょうか。

 1月17日付の神戸新聞を送ってもらいました。1面トップはま 「県の復興借金4386億円」 です。内容を紹介します。
「県は震災半年後の1995年7月、10年間の復旧・復興計画 『兵庫フェンイックス計画』 を策定 『創造的復興』 を掲げてインフラや福祉、防災など多岐にわたる事業を展開し、県の負担は2兆3前億円に上った。うち1兆3千億円を県債発行 (借金) で賄ったが、公債費 (借金返済額) が膨らみ、歳出が歳入を上回る 『収入不足』 を基金 (貯金) や新たな借金で穴埋めした。
 収入不足が1120億円に達した2008年からは、職員の給与や定数削減など11年間の行財政構造改革 (行改) に着手。18年度には、震災後初めて収支不足を解消する見通しだが、震災関連の借金残高は4386億円 (16年度決算)。」
 これが23年たった実情です。

 東日本大震災では、国は11~15年度を東日本の集中復興期間と位置づけ、復旧・復興事業の地元負担を実質ゼロにしました。阪神淡路大震災で被災自治体の財政がひっ迫した教訓が生かされたともいえますが、震災の借金に対する措置を今も求めている兵庫県に国が応える様子はないといいます。

 自民党政権が推し進めた行政改革によって全国の自治体の一般行政職員の総数は、1995年度の約117万人から2017年度には約91万人に減少しています。兵庫県はそのうえに2008年から行政改革を進めています。しかし東日本大震災が発生すると、被災地・被災者の痛みに共感できる分、人と物の支援を他の自治体以上に続けています。
 その状況を総務省が発表している 「東日本大震災に係る地方公務員の派遣状況調査の概要」 から見てみます。
 2017年4月1日時点で全国の自治体から派遣されている職員数は1782人です。内訳は、44都道府県から975人、20指定都市から195人、341の市区町村から612人です。
 さらに都道府県975人の内訳は、兵庫県は82人で、被災県から被災地市町村への派遣を除くとトップです。続いて、神奈川県79人、東京都22人の順です。
 指定都市195人の内訳は、神戸市6人です。
 市区町村612人の内訳です。兵庫県は25市区町村から42人です。東京都の107人、愛知県の60人に続きます。

 2016年に熊本地震が発生し、16年9月1日から17年3月31日までの間に、都道府県から319人、指定都市から120人、市区町村から1027人、合計1466人が派遣されています。しかし細かい内訳は不明です。

 東日本大震災の被災地に対する兵庫県の思いがあらわれています。この傾向は東日本大震災が発生後ずっとそうです。県独自の行革がつづく中にあっても無理をしながら支援を続けています。自分たちの経験を役立てることや、二次被害を最小限にとどめようという思いからでもあります。勝手な行動ではありません。
 職員派遣は総務省が全国の自治体に要請したものでもあり、全国からの派遣状況を見たなら兵庫県は震災関連の借金残高を抱えながらも無理をしている状況は明らかです。国は今からでも何らかの支援を検討してもいいと思われます。

 阪神淡路大震災、東日本大震災の教訓は被災地・被災者だけにとどめずに全国で活かし、第二次被害も含めて 「減災」 を目指していく必要があります。そしてその対策は、被災者だけでなく、救援活動、支援活動に携わる人たちへのフォロー、アフターフォローを含めてです。


 大阪府富田林保健所職員の男性職員は、2011年4月に続けて5月12~16日の予定で岩手県宮古市に派遣され、避難所を巡回する保健師らを車で移送する業務に従事していました。その最中の14日、宿泊先のホテルで頭痛を訴え、くも膜下出血で死亡しました。
 妻は公務災害を地方公務員災害補償基金に申請しましたが 「公務外」 と認定されませんでした。大阪地裁に訴訟しましたが地裁は過酷な勤務とは認めがたいと請求を棄却しました。
 その控訴審判決が17年12月26日、大阪高裁でありました。業務との因果関係を認め、原告側の1審大阪地裁判決を取り消し、公務災害と認定しました。運転業務に従事した時間自体は比較的短いとしながら、余震や津波への恐怖を感じる被災地で 「普段と比較にならないほどの強い精神的緊張を強いられる状況」 と指摘し、男性に高度な負荷がかかっていたとして死亡との因果関係を認めました。

 地方公務員災害補償基金や裁判所は、被災地で被る 「普段と比較にならないほどの強い精神的緊張を強いられる状況」 の精神的負荷を軽視し、労働時間の長短で判断しました。
 被災地で被る精神的負荷を軽視する対応では救援活動、支援活動の二次被害を防ぐことはできません。


 被災地の自治体職員はまだまだ過重労働のなかで頑張っています。
 17年11月8日の河北新報は、「<石巻市> 膨大な復興事業で疲弊 市職員の健康チェック強化」 の見出し記事を載せました。
 宮城県石巻市は、これまでも産業医や臨床心理士の面談で職員をフォローしてきましたが、精神疾患が原因の病気休暇取得者は全職員約2160人のうち2011~16年度に年間32~50人で推移。新たに発症する職員も後を絶たず、労働環境の改善には長時間労働の現状把握の徹底が必要と判断しました。
 時間外の超過時間の目安は、厚生労働省の資料を参考に健康へのリスクが高まる時間を設定。昨年度は時間外が月平均80時間を超えた職員が24人に上り、最長は月113時間でした。16年9月に再開した市立病院や、同年12月に新築移転した夜間急患センターの関係部署など復興事業に携わる職員が目立ちます。
 そのため9月から膨大な復興事業に追われる職員の働き方改革に取り組んでいます。過度な仕事量やストレスから体調を崩す職員が多く、健康状態をチェックする態勢を強化しました。担当者は 「適切な働き方ができるように各職場の意識を高めたい」 と話しています。
 長時間労働をした職員の所属長に報告を求める態勢を構築。時間外勤務が月100時間か2カ月の月平均が80時間を超えた職員が対象で、所属長が 「過度の疲労感」 「睡眠不良」 「精神的なプレッシャー」 の有無など体調や仕事量に関するチェック項目を確認して人事課に提出します。すると全職員のうち9月は16人、10月は13人が該当しました。
 人事課の冨沢成久課長は 「復興事業に関する過度なストレスや、仕事が進まない焦りで休むケースがある。長時間勤務者の体調管理を職場で徹底したい」 と話しています。

 被災地の他の自治体も同じような状況にあるとおもいます。


 もう一度1月17日付の神戸新聞です。神戸新聞社は15年、阪神淡路大震災の教訓と経験を次世代と国内外に発信する 「6つの提言」 を発表しました。災害への備えを 〈守り〉 と捉えず、社会の在り方を見直し、暮らし、生き方を創造する 〈攻め〉 の契機としようとする内容です。6つは、
  市民主体の復興の仕組みを確立する
  防災省の創設
  「防災」 を必修科目に
  住宅の耐震改修義務化を
  地域経済を支える多彩なメニューを
  BOSAIの知恵を世界と共有しよう
です。提言に基づき、被災地の現状と課題を検証しています。その中の 「市民主体の復興の仕組みを確立する」 です。

 ■市民主体の復興の仕組みを確立する
 ボランティア重要性増す
 被災地の復興は市民が主体となって手掛けていくべきだ。この考え方は阪神・淡路大震災後の東日本大震災や熊本地震の被災地でも主流となっている。
 阪神・淡路では、早く市民生活を再建するため、行政主導の再開発やまちづくりが進められた。だが、住民との意思疎通が十分とは言えない状況も生まれた。
 議論を重ねてきたが、23年を経て今なお課題は形を変え、残る。少子高齢化や東京一極集中など新たな課題も加わり、解決への道のりは容易ではない。
 復興の目標は日常を早く取り戻すことだけでなく、より豊かな暮らしを目指し、模索できる環境を整え、実現させていくことだ。
 それには被災者に寄り添う人たちの力が欠かせない。2013年には改正された災害対策基本法に国や自治体とボランティアとの連携推進が記されるようになり、地域で多彩な活動を展開するNPO法人やボランティアグループの存在は、重要性を増している。
 内閣府によると、全国で認証されているNPO法人は約5万2千団体 (昨年11月末時点)。都道府県別では、兵庫県は東京都、神奈川県、大阪府に次いで4番目の数を誇る。阪神・淡路をきっかけに設立された団体が多い一方で、震災から20年以上がたち解散も目立つようになってきた。
 代わりに、台頭しているのが一般社団法人だ。08年以降、NPO法人に比べて設立や報告の手続きが簡単なため急増。最大の課題だった資金集めについても、自由度の高い事業ができるため、活用する市民グループが相次ぎ、現在では1500以上が県内で活動しているといわれる。
 高まる市民力をどう復興に生かしていくのか。官が示した復興の道筋を、民がただたどる時代ではない。市民の声、意見を復興の基軸に。市民主体の復興の理念を根付かせよう。


 災害はいつ襲ってくるかわかりません。全国で災害を 〈守り〉 から 〈攻め〉 へと捉え返し、1次被害も2次被害も減災を目指していく必要があります。

   「活動報告」18.1.16
   「活動報告」17.10.11
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 東日本大震災 | ▲ top
共同体・海・山を壊す防潮堤
2017/10/11(Wed)
 10月11日 (水)

 東日本大震災から6年7カ月がたちました。復興はどれくらい進んだといえるのでしょうか。仮設住宅にはまだ1万8000人が住んでいます。やむを得ないことなのでしょうか。
 時間が経過するとともに、被災地では当初とは違う問題が発生しています。
 震災直後の2011年6月に政府の中央防災会議がまとめた津波対策に基づいて防潮堤計画が発表されます。数十年から百数十年に1度起きる津波を 「L1」、1000年に1度とされる最大クラスを 「L2」 に分類し、L1を防潮堤で守ることを基本とします。これを基に国交省や農水省などが高さについての通知を出し、シミュレーションをしたうえで各県が地域ごとにL1を防げるよう、高さを決めました。
 防潮堤事業は青森県から千葉県までの太平洋沿岸の計677カ所です。591カ所が岩手、宮城、福島の3県に集中し、高さ5メートル以上の防潮堤は約300キロです。土地の用途によって所管が国土交通省、農林水産省などに分かれ、総事業費は約1・4兆円です。
 工事は住民の意見を聞いて合意が必要ですが、行政が見切り発車の形で着工した例もあります。
 全677カ所のうち、約200カ所は当初計画より高さを下げたり、位置が変更されたりしました。

 15年12月11日の 「活動報告」 の再録です。
 震災後の状況について語る時、「そこ退け、そこ退け防災が通る」 といういい方があるのだそうです。防災という名のもとに住民の意見は無視され、上からの計画が押し付けられます。東日本大震災の場合には防潮堤がそうです。箱モノ、公共事業で建設・土建業界は好景気です。
 防潮堤は、高さの3倍の幅の土地が利用不能となります。例えば、高さが20メートルの防潮堤では、両側で60メートルの範囲内の土地は使用不可となります。高い防潮堤は海の様子が見えなくなり、遮断されてしまうといわれています。さらに海に行くには回り道をしなければならなくなります。生活上だけでなく、精神的にも物理的にも遠くなります。
 宮城県女川町では、国土交通省と県が高さ30メートルの防潮堤を築こうとしました。地元で頑張る被災者と町民は止めさせました。そして海から逃げないで共存しようと 「津波に弱い町づくり」 を続けています。危険と思ったらすぐ避難できる防災対策を進めています。津波の大きさは予測できません。
 中学生たちは、東日本大震災の時に津波が到達した高さに碑を建てました。今度津波が予想されるときはこれ以上高いところに避難しようという標識です。

 3月23日の毎日新聞の 「記者の目」 です。
 「陸と海を分断」 損なわれる景観
 例えば岩手県大槌町の赤浜地区。住民は高台移転を決めたものの県は高さ14.5メートルの計画にこだわった。住民には高い防潮堤によって景観が損なわれるほか、海の変化が見えずかえって危険になるとの声が根強く、県は結局震災前と同じ6.4メートルに変更した。
 震災前よりは高い防潮堤計画になったが、それでも行政が計画より高さを下げた例が宮城県塩釜市の浦戸諸島だ。高さ3.3メートルの計画に一部島民が 「海が見えず、生活にも支障が出る」 と訴えた。過去の津波の痕跡などから、部分的に2.1メートルに引き下げた。
 住民の賛否が割れる中、行政が見切り発車するような形で建設に踏み切ったのが宮城県石巻市雄勝町 (おがつちょう) の防潮堤だ。
 雄勝町の中心部約600世帯は津波に流された。約4カ月後、住民らでつくる 「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」 は、「高い堤防を築かない」 ことなどを盛り込んだ要望書を石巻市長に提出していた。高い防潮堤が 「陸と海を分断してしまう」 が理由だった。一方、市と県は12年3月までに、震災前の4.1メートルの倍以上になる高さ9.7メートルの防潮堤建設を住民に提示。中心部の高台移転は11年秋に住民に示していた。
 住民の意見は割れた。市と県の説明会では 「町に戻りたいけど、防潮堤がないと怖くて戻れない」 と泣いて訴える女性もいたし、「住宅は高台に移転する。いったい何を守るために造るのか」 「海が見えなくなったら、もう古里ではなくなってしまう」 といった反対意見も出た。
 「L1」 対策巡り、行政と識者ずれ
 高い防潮堤には一部住民の根強い反対はあったものの、市側は 「議論がまとまらないと、他の復興が遅れる」 と主張。県は14年6月に 「住民合意は取れた」 と判断し、計画を決定。昨年夏に着工した。
 宮城県の担当者は 「L1は防ぐとの方針がある以上、県民を守るために最大値を想定するのが我々の務め」 と話す。中央防災会議の決定は重いというわけだ。ところが、当の中央防災会議で地震・津波対策に関する専門調査会の座長を務めた関西大の河田恵昭教授 (防災学) は 「L1すべてを防ぐ要塞 (ようさい) を造れとは言っていない。避難路を整備することなどでリスクは軽減できる。地域に合った計画を作れる余地を残した」 と主張する。行政と専門家の間にボタンの掛け違えのようなずれがある。
 かけがえのない家族を亡くしたり、自宅を失ったりした被災者にとっては今も生活の再建こそが最優先課題で、行政も復興を急いでいることはわかる。その意味で防潮堤を巡る議論は必ずしも優先順位は高くないかもしれない。しかし、雄勝町をはじめ各地で住民の反対運動が起きたことを軽視すべきではない。
 677カ所のうち、6カ所は住民が合意しておらず、工事が始まっていない。見切り発車せず、住民と十分に協議して計画を練るよう望みたい。


 防潮堤建設は被災地住民を分断しました。
 9月13日の河北新報、見出し記事 「復興の虚実 (1) 防潮堤 [上] 隔絶された海 賛否が対立、浜を分断」 です。
 東日本大震災の被災地に、復興の理想と現実が交錯する。発生から6年半、崩壊した風景の再建は進んだが、住まいやなりわいの足元は固まっていない。宮城県知事選 (10月5日告示、22日投開票) は、復興完遂に向けた道筋が争点となる。「フッコウ」 の掛け声が響く中、沿岸には被災者の苦しい息遣いとやり場のない嘆きが漂う。
 <「誰も語らない」>
 住民の命を守るはずの防壁が地域を分断し、浜に暗い影を落とす。
 海抜14.7メートル、長さ800メートル、最大幅90メートル。既に表面の大半がコンクリートで覆われた巨大建造物の上を、ショベルカーや巨大クレーンが慌ただしく動く。
 気仙沼市本吉町小泉地区の海岸に、宮城県内で最も高い防潮堤が姿を現しつつある。県は本年度中の完成を目指し、整備を進める。
 「今、小泉で防潮堤の話をするのはタブー。もめたくないから誰も語らない」。建設反対を訴え続けた男性 (50) が打ち明ける。職場の上司から 「防潮堤の話はするな」 とくぎを刺され、男性も外部への発言を極力控えるようになった。
 <しこりは消えず>
 計画が示されたのは2012年7月。「命が大事」 と早期建設を求める賛成派と、環境などへの配慮を求める反対派が対立した。
賛成派で、地域の意見集約に奔走した地元の市議 (55) は 「生々しい津波の記憶が残る中、悩んだ末に出した結論だった」 と振り返る。約20回の説明会を経て県は 「了承を得た」 と判断したが、賛否で生じた地域のしこりは今も消えない。
 国の中央防災会議専門調査会が11年6月に示した提言に基づき、県は数十年から百数十年に1度の津波に対応できる堤防の高さを決めた。「津波から命を守る」 を旗印に建設に突き進む県の姿勢は、しばしば被災地の反発を招いた。
 県が同市本吉町の日門漁港に計画する海抜9.8メートルの防潮堤は、地域住民の反対で着工のめどが立たない。長さ280メートルの防潮堤を築くと、国道から海や港が見えなくなる。
 今年5月に地元の公民館であった説明会。県は2メートル間隔で壁に小窓を設ける修正案を示したが、住民は納得しなかった。地元の漁師 (69) は 「景観は宝。小さな窓では海の様子は分からない。県はわざと騒ぎの種をつくるのか」 と憤る。
 「選択肢がない状況で、住民に是非を迫るのは問題だ」。大谷里海づくり検討委員会事務局長の三浦友幸さん (37) は、県が一方的に計画案を示すやり方に疑問を感じている。
 <歩み寄りに時間>
 三浦さんらは大谷海岸に防潮堤を築く県の計画に反対した。砂浜を守るため、建設位置を内陸に移して国道との 「兼用堤」 とする対案を出し、粘り強い交渉で実現させた。意見集約から交渉まで5年。三浦さんは 「行政と住民が歩み寄り、信頼を築くには時間も必要だ」 と訴える。
 防潮堤に守られる住民から批判を浴び、時に浜の分断を生みながら、県は淡々と整備方針を貫く。各地の浜に出現し始めた巨大な壁が、異論をはね返す。
 気仙沼市議の今川悟さん (42) は 「県にとっては単なる土木事業の一つだが、住民にとって防潮堤は街づくりの一つ。浜ごとの思いをくみ取ってほしかった」 と批判を強める。

 最も強固な防災は共同体の日常的運営です。しかし防災のための防潮堤がそれを崩しています。
 防潮堤に2メートル間隔で壁に小窓を設けるとは滑稽な話です。これで漁民は日和、風向き、波の音、匂いをかいでその日の作業の判断をすることができるでしょうか。しかしすでに作っているところもあります。


 防潮堤建設はこれだけではない問題があります。
「海岸に接する森林は、漁業にとって重要な役割を果たしていた。樹影が付近の水域を暗くすることによって、小魚類には格好の休息の場となり、また敵から逃れる便を与えた。
 樹木の枝葉が落ちて植物質を水面にもたらすため、その腐蝕に伴い魚類の好む水中微生物が増殖した。また、森林中に生活する昆虫類が風雨などで常に海面に落下し、魚類の餌となった。さらに、森林の繫茂は水温を調節し、アルカリ塩類の含有量を増して、海藻類を繁茂させた。そのため、森のそばには魚が集まり、絶好の漁場となったのである (魚附林)。
 樹林に海鳥が棲息・繁殖し、群れをなして魚群の来遊を知らせるため、漁民が森林とともに海鳥を保護している所もあった。また付近の河川からの汚濁した淡水の流入が海水魚を駆逐するのを防ぐために、上流の水源地での森林育成に努めている事例は各地にみられる。このように、海岸近くの森林の存在は漁業の盛衰を左右したのである。
 海岸近くの森林の利用は林業あるいは農業も面からのみ考えるべきではなく、漁業とも深い関係をもっていた。そして、漁業のためには、むしろ農林業的な土地利用を抑制して、森林を保全することが必要なのであった。江戸時代には、漁業と漁民がそれを行なってきたのである。」 (渡辺尚志著 『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』 草思社)

 このことは東日本大震災が証明しました。
 被災地で震災後に収穫した近海ワカメは従来よりいい品質、ホタテの発育もよかったといいます。海底がかき回され海水がきれいになったのと、津波が引いた時に陸から流れ出たプランクトンや栄養素が原因ではないかといわれています。海水だけでは海藻は育ちません。
 陸と海が共存しないと豊漁にならないのです。「森は海の恋人」 です。高い防潮堤は恋人を引き裂きます。

 災害は防ぐことはできません。ですから海と共存しながら 「減災」 をみんなで考えて行く必要があります。

   「活動報告」 2017.6.13
   「活動報告」 2017.4.28
   「活動報告」 2017.4.14
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 東日本大震災 | ▲ top
震災の 「2次的要因」 に具体的対応を
2017/06/13(Tue)
 6月13日 (火)

 6月11日で、東日本大震災から6年と3か月です。
 被災地の状況は日々変化していきます。被災者の 「心」 もそうです。6年という年月は決して短い時間ではありません。風化が進んでいくのは必然です。しかし忘れてはいけないことにはこだわりつづけて伝承していく必要があります。
 震災の後の状況は 「そこ退け、そこ退け防災が通る」 という言い方があるのだそうです。防災という名のもとに被災者の意見は無視され、上からの計画が押し付けられます。目に見える復興が急がれますが被災者の 「心」 にはなかなか関心が向きません。
 被災者は地域的つながりが崩れ、個々を取り巻く経済的状況は大きな 「格差」 が生まれます。それにともなう “人間関係” にも大きな変化が起きています。新たな出会いもありますが、一方では、想像がつかないところで崩れていきます。そしてその具体的姿は学校にも表れ、“いじめ” も起きてきます。“いじめ” の問題をそれだけで限定して議論をしても解決には至りません。

 1995年3月17日に発生した阪神淡路大震災の時はどういう状況が生まれたでしょうか。
 貴重な資料を眠らせたままにしないで今こそ活かしていくことがなか必要です。15年12月11日の 「活動報告」 の再録です。
 阪神淡路大震災発生後10年間、兵庫県の関連機関は毎年 『阪神・淡路大震災復興誌』 を刊行しました。その最終版・第10巻の第6章 教育から、学校の状態、児童・生徒の心理状況はどうだったのか、それに教職員はどう対応していたのか拾ってみます。実際に教職員がどのような活動をしていたのかを検討する中から、教職員への対応策が探れるからです。

「被災児童・生徒の心のケアといえば、教育復興担当教員があげられ、学級担任が対応しきれない 『心のケア』 に、担任教諭、保護者、養護教論、スクールカウンセラー、関係機関の間に立って、コーディネータ一役を果たした。被災児童・生徒一人ひとりの症状を把謹し、『個に応じた心のケア』 を進め、家庭訪問をくり返し、教室に入れない児童・生徒に相談室で個別指導を行った。」
「心に大震災の傷を負った被災児章・生徒の教育的配慮に取り組む 『教育復興担当教員』 は2004年度に55人配置と、大幅減となった。要配慮児童・生徒の減少、震災から10年経過などによるもので、配置市町は、1998年度から変わらず、6市2町。……
教育復興担当教員は国の加配措量による配置で、1995年度に128人、1996年度から2000年度まで207人、2001年度180人、2002年度130人、2003年度65人と、要配慮児童・生徒の減少に伴って削減された。2004年度は当初、文部科学省が全廃方針を打ち出したが、兵庫県教委の強い要望で55人体制で継続された。
 2005年度からは教育復興担当教員としては廃止され、『阪神・淡路大震災に係る心のケア担当教員』 に名称変更して、神戸、西宮、芦屋、宝塚の4市に、計36人 (前年より19人減) が配置された。」

「カウンセラーが行う心のケアの分野で、教育援興担当教員は大きな役割を果たした。教師ならではの方法で成功した。担任ではないが、個別的な児童・生徒へのかかわりが活動の中核になった。学校とは集団の論理で運営されるが、個の論理を置き、個別指導を中心に置く活動だった。
 『声かけ・励まし・日記指導』 など教師の常のスタイルが80% 。加えて 『生活指導・学習指導で自信を持たせる』 支援を続けた。教師の技法というより自然的なかかわりで、相談活動も 『日常会話の中で』 が突出した。家庭、保護者との連携、相談にも積極的だった。1998年9月の台湾地震後、現地の日本人学校へ文部省が兵庫の教育復興担当教員を派遣したことは取り組みの成果を高く評価したからだ。」


「しかし、被災から10年たっても児童・生徒が負った心の傷は今も残されている。大震災からの援興が広い分野で進んだ中で、いまだに解決、解消の道が遠い課題でもある。大震災から学んだ教訓だ。
 兵庫県教委は、被災直後の1996年から、震災による教育的配慮を必要とする児童・生徒数の調査を続けている。1998年度の4,106人をピークに、1997年度から3年間は4,000人の大台を超え、2000年度から減少傾向となった要因別に見ると、被災から5年を境に、事情が変わってくる。前期は 『震災の恐怖によるストレス、住宅環境の変化、通学状況の変化』 などが主な要因。後半は 『家族・友人関係の変化』 や 『経済環境の変化』 などが漸増傾向を見せるようになる。これを県教委は 『二次的要因』 と位置づけている
 要因はどうあれ、要配慮児童・生徒は、10年後の2004年度1,337人、2005年度808人にのぼる。県教委をはじめとして教育現場では、初体験の 『心のケア』 に取り組んできた。その成果が要配慮児童・生徒数の減少である。その中心的役割を果たしたとして評価されるのが 『教育復興担当教員』。略称 『復興担』 は被災後、国の教員加配措置で配置され、『心のケア』 と 『防災教育の推進』 に努めた。」


「大震災で子どもが負った心の傷を調べる 『教育的配慮を要する児童・生徒の実態調査』 は兵庫県教委が1996年度から7月1日現在で続けている。
 2001年度までは県内すべての公立小・中学生を調査対象にしたが、2002年度から震災後に出生した子どもを除くことにし、2004年度は小学1 、2 、3 年生が調査対象外となった。
 2004年の調査対象は小学校828校1分校、15万9,697人。中学校359校3分校 (芦屋国際中等教育学校を含む)、14万9,117人。合計1,187校4分校、30万8,814人。
 調査結果によると、配慮が必要な小学生556人 (前年比420人減)、中学生781人 (同151人減)、合計上1,337人 (同571人減)。毎年減少となっているが、被災9年後に新たな発症が74人もいた。」

「要配慮児童・生徒の2004年度要因 (複数回答) は 『住宅環境の変化』 が43.5% (前年40.1% 、前々年40.0%)。『経済環境の変化』 が37.1% (34.7%、33.1%)。『家族・友人関係の変化』 が36.9% (39.0%、41.0%)。『震災の恐怖によるストレス』 が29.9% (35.3%、36.8%) で、これら4項目が要因の大半を占める。4項目以外では 『学校環境の変化』 4.9% (6.9%、8.6%)、『通学状況の変化』 4.3% (4.7%、5.5%) など。
 トップの 『住宅環境の変化』 は前年と変わらないが、『経済環境の変化』 が2位 (前年4位、前々年4位) につけた。『家族・友人関係の変化』 は3位 (前年2位、前々年1位)。「震災の恐怖によるストレス」 は4位 (前年3位、前々年3位)。要因別順位は2位以下にかなりの変動が見られた。『震災の恐怖』 が大きくポイントを下げたのに対し、『経済環境』 は毎年ポイントを上げ、最近の二次的要因の特徴を2004年度も見せた。
 9年間の調査結果の流れを見ると、1996年度から1999年度までは 『震災の恐怖』 の割合が最も高かった。『住宅環境』 は1996年度、1997年度は40%を超える高い割合を占め、その後、一時減少したが、2002年度以降、再び、40%を超え、2004年度は最も高い。
 生活基盤を揺るがす災害は、直接の衝撃だけでなく、その後の生活の不安定さなどの二次的ストレスが、心理的に大きな影響をもたらし続けることが指摘されている。この調査でも1995年度から2001年度まで 『家族・友人関係の変化』 が増加し、その後やや減少したとはいえ、2004年度でも36.9%を占めている。
 また、『経済環境の変化』 は1995年度以降、一貫して、その割合が増加し、2004年は37.1%、第2位となった。このような二次的ストレスが、震災の恐怖などのストレス体験を呼び起こすことも指摘されており、今後の取り組みは、調査結果の流れ、傾向を踏まえて進める必要がある。
 『震災の恐怖ストレス』 は倒壊家屋の下敷きになるなどの体験により、再び地震があることへの極度の緊張感を持ったり、地震の夢を見て泣き出すなど。
 『住宅環境の変化』 は避難所での苦しい生活や住民移転の影響など。
 『家族・友人関係の変化』 は震災による家族や身近な人の死、保護者の別居、離婚、友人との別れなど。『経済環境の変化』 は震災の恐怖体験をしたうえ、家庭が経済的に悪化したり、保護者が失業。自宅の再建や転居費用がかさんだりするなど。」


「震災で心に傷を負った児童について、兵庫県教委は毎年行う調査で、震災後生まれを対象から外している。2004年度の調査では小学3年生以下が除かれ、4年生以上を調査対象とした。
 兵庫県教職員組合と兵庫教育文化研究所は、2004年7月、教育復興担当教員が配置されている神戸、西宮、芦屋、宝塚各市と北淡町の19小学校で、教育復興担当教員から開き取り調査を行った。その結果、小学1-3年生の中でも、約4%にあたる242人に心のケアが必要なことがわかったと発表した。
 242人には 『怖い夢を見る』 『乳幼児のような言動が現れる』 『集中力に欠ける』 『落ち着きがない』 『いらいらしやすい』 『攻撃的』 『音や振動に過敏』 などの症状が見られたという。
 これらは要ケアの判断基準になっている症状で、理由について、兵教組は 『家族・友人関係の変化』 『住宅・経済環境の変化』 など2次的要因によるものと分析している。
 家族が震災で死亡したり、失職や離婚など、乳幼児期に家庭環境の急変を経験して、ストレスが出ている。不安定な生活の中で子育てが、子どもの心の成長に影響を与えていると主張している。」

 時間の流れとともに要因は変化していきます。10年たっても問題は深刻です。
 このような事態は東日本大震災の被災地においても今後同じような状況が生まれることが予想されます。


 東日本大震災での被災地の子どもたちにも問題は確実に生まれています。
 15年12月1日の 「毎日新聞」 は、「被災地、教育に貧困影響 『父が非正規・無職』 倍増」 の見出し記事を載せました。
 東日本大震災で被災した子どもたちの学習を支援している公益社団法人 「チャンス・フォー・チルドレン」 (本部・兵庫県西宮市) は、11月30日、同法人が支援に関わるなどした被災家庭2338世帯を対象に2014年5〜9月に実施した、被災地の子どもの貧困や教育格差の実態調査 「被災地・子ども教育白書」 を発表しました。
 白書によると、父親が契約社員などの非正規労働か無職の割合は13.1%で、震災前の6.3%に比べ約2倍になりました。逆に正規労働は9.4ポイント減の78.5%に落ち込みました。世帯所得が250万円未満の割合は36.9%で、震災前に比べ8.5ポイント増えました。
 理想とする進路を中学3年生に尋ねたところ、56.2%が 「大学以上 (大学、大学院)」 と回答。しかし 「現実的には、どの学校まで行くことになると思うか」 との質問に 「大学以上」 と答えた割合は44.3%にとどまり、11.9ポイントの開きがありました。その理由に 「経済的な余裕がない」 を挙げたのは13.4%。国が全国の親子を対象に11年度に実施した同種の意識調査で、現実的な進路を選ぶ理由に 「経済的理由」 を 挙げた割合は4.3%しかなく、被災地の子どもたちが自分の希望に反し、経済的理由から現実的な進路選択を迫られる割合が高まりました。
 一方、不登校の経験がある中高生を世帯の所得別でみると、年収100万円未満世帯が最も高い17.9%で、低所得世帯ほど高くなっています。「安心して過ごせる居場所がないと感じたことがある」 「自殺をしようと思ったことがある」 と回答した割合も、低所得世帯ほど高い傾向がみられました。
 同法人の今井悠介代表理事は 「震災の影響は学習面だけでなく生活のさまざまな面に及び、要因も家庭の経済状況や人間関係など複数が絡み合っている。給付型奨学金の充実や子ども専門のソーシャルワーカーの制度化など、国や自治体、地域が連携した支援が必要だ」 と指摘しています。
 しかし現実は 「心」 を無視した防災教育だけが叫ばれています。
 その中で、自分たちの体験を踏まえてこの問題に取り組んでいるあしなが育英会の地道な活動には本当に脱帽します。


 このような児童・生徒に対応しているのが教職員です。
 しかし、阪神淡路大震災の時は、教職員や公務員の 「心のケア」 についてはさほど問題になりませんでした。実際は深刻でした。5年後、10年後に 「バーンアウト」 「PTSD」 が発症しています。
 東日本大震災でも 「二次的要因」 が表れ始めています。教職員は初体験の 「心のケア」 にも対応していかなければなりません。

 兵庫県における震災から2年後の教職員の調査を行った兵庫庫県精神保健協会 こころのケアセンターの岩井圭司医師による 『教職員のメンタルヘルス調査 報告』 (兵庫県精神保健協会こころのケアセンター 1998年3月) を紹介します。

 調査から見えてきたことを [考察と提言] としてまとめています。
 ①震災の被害の大きかった地域に勤務する公立学校教職員ほど評価尺度上の得点が高い傾向が
  あった。
 ②非被災地域の学校に勤務する教職員の評価尺度得点も、一般人口中のそれに比べて著しく高く、
  学校教職員は平時から強いストレスにさらされていることがうかがわれた。
 ③震災時の個人的被災状況が深刻であった者および震災後の業務内容が過酷であった者ほど、
  調査時点での精神健康が低下していた。
 ④震災時の個人的被災状況が深刻であった者および震災後の業務内容が過酷であった者では、
  その後の生活においてもより甚大なストレス状況にさらされやすい傾向を認めた。
 ⑤長期的な精神健康の低下をもたらす予測因子としては、震災後の業務内容よりも個人的被災状況
  の方が重要であると考えられた。
 ⑥勤務先の学校が避難所になったかどうかにかかわらず被災地にある学校に勤務する者は、調査時点
  においても震災の影響を精神健康面でこうむり続けていた。
 ⑦被災状況・業務内容が同程度であった場合には、女性の方が男性に比して評価尺度上高得点をしめ
  す傾向があった。

 これらのことを踏まえて対策を考察しています。
災害をはじめとする心的外傷事件 traumatic event による精神健康の低下においては、その予後ないし全般的な重症度は、急性期の重症度としてよりも回復の遷延というかたちで出現することがこれまでの研究でしられている。また、被害の軽重は、急性期のある時点における横断的な重症度よりも慢性期の重症度と相関することが多い。
 そしてこのことこそが、本調査を意義づけるものであるといえる。学校教職員は災害後も長期にわたって学校という場所に恒常的にとどまり続ける者であり、長期的な展望と対策を必要とするからである。
 学校は教育機関であり、児童・生徒に広い意味での “援助” を与える場である。そして、学校教職員はトレーニングを受けたプロの救助者・災害援助者ではない。したがって、被災した児童・生徒に適切な教育的援助を提供することが優先されるべきであって、教職員たちが本来の学校教育以外の責任や業務を担うことは最小限にとどめるべきであろう。」

「大災害後の被災した児童・生徒のケアにあたっては、精神保健専門家 (精神科医、臨床心理士、精神科ソーシャルワーカー等) の関与が望ましい。しかし、子どもたちの現在の状態を災害前からの生活史の中に位置づけてとらえることに関しては、専門相談機関や専門家よりも学校教職員の果たす役割が大きい。特に、災害で保護者をなくしたり、保護者と離れて暮らすようになった児童・生徒を、生活状況・家庭状況の変化を考慮しつつよりトータルな援助者として見守り続けていくことができるのは、担任教師を措いて他にはない。つまり、被災した生徒・児童に対しては、教職員にしかできない援助というものがある。それゆえ、援助者としての教職員に求められるのは “簡便な” 精神保健知識ではなく、あくまでも教育者としての専門技能の延長上に位置づけられるべきものとしてのアドヴォカシー (擁護的・保護的援助) を提供する能力であり、その一環としての精神保健知識であるといえる。学校教職員にとって最小限の災害心理学の知識は、学校避難所に避難してくる被災者のためにではなく、教職員自身と子どもの精神健康の維持のために必要である。」

 阪神淡路大震災における貴重な体験を活かしていかなければなりません。
 教職員に対する “心のケア” と “ゆとり” が必要です。
「被災した生徒・児童に対しては、教職員にしかできない援助というものがある。」
 児童生徒の心理状態は、体験だけでなくその後の生活変化、社会の変化にも大きく影響されています。1人ひとりに目が届くだけの教師の人的配置体制が必要です。
 兵庫県のような “心のケア” ができる 「教育復興担当教員」 の配置は、教員同士で “ゆとり” を作り出すこともできます。安易なカウンセラーの導入はかえって学校現場を混乱させます。
 「痛みある心」 は児童・生徒も教職員も持っています。それを癒すのは 「痛みある心の裡」 をも共有している人たちとの人間関係です。


 学校の “いじめ” 問題の責任を教師だけに押し付けても解決しません。
 5月29日の朝日新聞 フォーラム 「いじめをなくすために」 に評論家の荻上チキさんがコメントを寄せています。
「多くのいじめは休み時間に教室で起きています。……ストレスがたまりにくい環境を学校がつくっていく必要があります。
 ただ、今でも多忙な教師だけに負担を押し付けるのは問題です。常に2人以上の大人が教室にいるよう、人員を増やすべきでしょう。
 いじめに遭うと1人で抱え込んで何も考えられなくなり、選択肢が狭まってしまう。だからSOSを出しやすくしてあげることが大事です。いじめた側は 「チクった」 と言うかもしれないけど、それは相手を悪者にして自分を正当化しようとする卑怯な言い分。『もしまた何か言われたら先生が対応するから、どんどんチクりましょう』。子どもたちにそう伝えるのです。……」


 問題が発生することが予測できたら、意識しながら、行動しながら事前にさまざまな対策を検討していくことが二次被害の “減災” につながります。

  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 東日本大震災 | ▲ top
「東北でよかった」
2017/04/28(Fri)
 4月28日 (金)

 4月25日、今村復興大臣が自民党二階派の政治資金パーティーの講演で 「東北でよかった」 という趣旨の発言をして辞任に追い込まれました。
 大臣はパワーポイントを使用して20分講演しました。ということは、説明・発言内容を事前に準備をしていたということです。思ってもいないことがぽろっと漏れたのではありません。発言内容です。
「(東日本大震災は) 死者が1万5893人、行方不明者2585人、計1万8478人。この方が一瞬にして命を失ったわけで。社会資本の棄損も、いろんな勘定の仕方がございますが25兆円という数字もあります。これは、まだ東北で、あっちのほうだったからよかった。これがもっと首都圏に近かったりすると、ばく大なですね、甚大な被害があったというふうにおもっております。」
 数字にしか関心がありません。大臣の発言は 「あっちのほう」 です。ここに本心があります。


 「東北でよかった」
 どこかで聞いたことがあると思ったら、思い出しました。直木賞作家の高橋克彦が東北大震災後の2013年に出した 『東北・蝦夷 (えみし) の魂』 (現代書館) の序幕にありました。
「リーダーの条件とは何だろうか? ……
 東日本大震災を経験したことで見えてきた、新たなリーダー像もあるのではないか。頭脳とか行動力といった理由からではなく、何故か自然と和の中心にいる人――なんだか頼りない奴だけど、でも、あいつがいるといいよね――そんな人が、これからのリーダーになっていくのではと思っている。……」
 東日本大震災を経験して東北の人たちはたくさんのことを学びました。多くの人から支援を受け、本当に大切なものは何かを発見しました。「国の姿」 ・政治家の姿勢も見てきました。
 リーダーといわれるにふさわしいのは、政治家においても 「頭脳とか行動力といった理由からではなく、何故か自然と和の中心にいる人――なんだか頼りない奴だけど、でも、あいつがいるといいよね」 といわれる人です。寄り添う人です。
 「東北でよかった」 と平気で言えるような人は、「あいつがいると迷惑だよね」 の存在です。不愉快・ムカツキました。悔し涙がでてきました。

「東北は朝廷など中央政権に負け続けている。
 阿弖流為が坂上田村麻呂に、阿部貞任が源頼義に、平泉の藤原泰衡が源頼朝に、九戸政実が豊臣秀吉に、そして欧州列藩同盟は明治政府により賊軍とされた。」
「東北の民は朝廷軍など中央の権力と何度も戦い、すべて敗北した。負けた側は歴史を消されてしまう。勝った側は当然のように自分たちの正当性を主張する。自分たちは正義の戦いをした、抗った連中は野蛮で文化もなく殺したって構わない奴らだ、と決めつけたのだ。
 東北は……たびたび大規模な戦に巻き込まれたため、歴史をズダズダに書き換えられ、棄てられてしまっている。それでも東北の人たちは逞しく生きてきた。その事実を子供時代に知ることが、どれほど大切か。特に中学・高校生の頃、故郷への思いや誇りを胸に刻み込んでほしい。それが必ず心の支えになっていく。……
 阿弖流為も安倍貞任も九戸政実も、逆賊どころか故郷を守ろうとしたヒーローなのだと正当な評価が広がり、『自分は東北に生まれてよかった』 と思える子供時代を過ごせば、きっと壁を超える力を得られるだろう。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)


 阿弖流為の戦いです。
 785年、朝廷と蝦夷は支配権の均衡が崩れます。あちこちで戦いが始まります。
 蝦夷の中心にいたのが胆沢の長・阿弖流為です。その後28年間戦いが続きます。
 しかし 『続日本紀』 などの歴史書にはほとんど記述がありません。朝廷は5万の軍を送りますが、負け続けている歴史は記録しません。
 蝦夷を 「平定」 した時の記述は蝦夷の首級200に対して朝廷の戦死者は800とあります。実際は、戦って死んだ者25人、矢にあたって死んだ者245人、川に身を投じて溺死した者1036人でした。
 799年、桓武天皇は坂上田村麿を征夷大将軍に任命します。
 802年、田村麻呂は胆沢に進出、阿弖流為は500の手勢を引き連れて本拠地を明け渡します。しかしこの間の資料もありません。
 なぜ阿弖流為は降伏したのでしょうか。蝦夷の疲弊が極に達していたからと推測されます。どうしたら蝦夷に未来が残せるかの苦闘がありました。
 高橋克彦は阿弖流為を描いた小説 『火怨』 で、「リーダーとは共に戦う兵士たちに郷土に対する思いをきちんと伝えられる人間だ」 といっています。
 やはり復興大臣とは違います。


 1198年に平泉の藤原泰衡が、朝廷の命を受けた源頼朝によって攻撃を受け後退したことについては、11年9月1日の 「活動報告」 でふれました。
「戦わずして負けたのは、弱腰だったからではない。入り込んできた20数万の敵兵と戦えば、平泉や奧6郡が灰になってしまうのを恐れたからだ。それよりは、自分たちが立ち去ることで、国と民を守ろうという判断をしたのだろう。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)


 九戸政実については15年8月18日の 「活動報告」 で書きました。
 1591年、豊臣秀吉の軍勢15万が屁理屈をつけて九戸政実の九戸城に攻め入ります。攻防が続きますが最終的に政実は降伏します。
 城下の住民の被害が拡大することを避けるためにも、南部藩に自分ら四兄弟の首を差し出すことを条件にした和議を申し出ます。奥州勢も秀吉の野望に気づき、奥州の共同体を守る方向に転換して和議を成立させます。双方の被害は最小限でくい止められました。そのために 「降伏」 したのです。そして秀吉の野望は頓挫しました。
 政実の思いは、「山の王国」 ・蝦夷を含めて奥州の共同体を守る、農民たちを苦しめない、鉄砲の性能を高める良質の硫黄の山は渡さない、そのためには自分の首を差し出すことも辞さないというものでした。硫黄の山は秀吉に渡ることはありませんでした。現在の松尾鉱山です。
 秀吉はすでに朝鮮への出兵を計画していました。そのため奥州からも人足を集めようとします。朝鮮出兵のためには、寒さに強い兵士が必要でした。
 福島龍太郎の小説 『冬を待つ城』 (新潮社) は秀吉の朝鮮出兵、日本でいうところの1592年からはじまった 「文禄の役」 の場面から始まります。計画通りにはいかなくて苦戦します。
 政実と奧州勢の策略は、秀吉の朝鮮出兵による朝鮮の人びとの被害を小さくしました。今でいうなら 「日朝連帯」 でした。


「中央政権が攻め込んできた時には、東北から奪い取りたいものがかならず中央の側にあった。阿弖流為との戦いでは黄金であり、前九年・後三年の役では武士勢力の源氏が、軍馬や鉄など軍事資源を狙った。源頼朝による平泉制圧はそれら軍事資源に加えて、より高度な軍事技術、すなわち軍馬の育成であり、刀や鎧などの武具製造技術であり、公家政治とは異なる平泉の政治制度をも欲しかった。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)
 九戸城への攻撃をふくめてまさしく植民地そのものでした。


 戊辰戦争で官軍が東北に大量に入り込みます。その後に薩長土肥の新政府によっていわれ始めたのが 「白河以北一山百文 (しらかわいほくひとやまひゃくもん)」 です。「白河の関所より北の土地は、一山で百文にしかならない荒れ地ばかり」 という意味です。
 明治維新後、官軍側の役人が赴任し、急速に東北は差別され虐げられます。武士たちは北海道改開拓移民などに応じて移住します。他の者も明治政府が進めた富国強兵政策のもと軍隊に入っていきます。日露戦争の時、激戦地の203号地で最前線に立たされたのは東北の兵です。新たな差別が始まります。「新植民地」 です。
 戊辰戦争で生活の糧を荒らされ、東北での生活がむずかしくなった人たちは東京などの大都市に職を求めます。明治10年頃の東京の 「下男」 ・ 「下女」 はほとんどが東北出身者で、東北弁を話します。いまも東北弁を使うと笑われたり差別されます。「下男」 ・ 「下女」 が話す言葉だったからです。
 「新植民地」 の典型が、電力供給地、そして危険なものを押し付けた福島原発につながっていきます。沖縄に米軍基地を集注させている発想にそっくりです。


「東北の民、蝦夷と呼ばれる人々に共通しているのは、自分たちから攻めていくことは決してないという点だ。自分たちから攻めないのは、我慢ができるからだ。反対に、いざ戦うとなったら、我慢を重ねた分の重みがあるから、命を賭して立ち向かうことになる。……
 弱いのではなく、遥か遠くまで見ているような意識とでも言おうか。自分という存在は、決して中心にいるのでもなければ、自分だけで生きている世界でもないという認識を東北人の誰もが持っている気がする。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)

 「東北でよかった」 の発言が報道されると、その晩のうちに東北の素晴らしいところを紹介したインターネット 「東北でよかった」 が次々と発信されました。大臣の発言にたいして直接的には攻めてはいませんが真正面からの戦いです。それは東日本大震災という災害に命を賭して戦っているなかで発見した自分たちの確信での対峙です。


「東北の民、蝦夷と呼ばれる人々に共通しているのは、自分たちから攻めていくことは決してない」
 長州出身の、自分たちから攻めていくことを画策する首相に、平和を希求する東北の魂で反対の意思を表明して攻めを続け、重ねて 「東北でよかった」 といえるようにしたいと思います。


   「活動報告」 2015.8.18
   「活動報告」 2011.9.1
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 東日本大震災 | ▲ top
住宅は安全に、安心して暮らすためのもの
2017/04/14(Fri)
 4月14日 (金)

「地震が多い日本では、大きな地震が起こると、ただちに為政者は救済を行ったという記録が残されています。奈良時代、地震などの災害に対する救済施策の根本的な思想は、天譴論にもとづいたものでした。
 天譴論は、もともと古代中国の孔子・孟子らの儒教にもとづく思想であり、日本にはすでに奈良時代からあったと言われています。天譴論の原義は、地震、風水害、火山噴火などの事前災害を、『王道に背いた為政者に対する天の警告』 とみなす考え方です。
 王道は、天の意思にもとづいておこなわれなければならない。この天の意思とは、公平無私な仁徳に満ちた政治を行うことであって、政治をつかさどる天子 (天皇) はこのような意志に従って国を治めなければならない。これに背いた場合には、ただちに天子としての責任を負わなければならない。
 つまり、自然災害は、『天子の不徳から発生する』 という考えです。しかし、災害に遭遇したとき、実際にその災厄を受けるのは、もちろん人民全体です。このことは、天子が、自分の不徳によって引き起こした災いを人民にかぶせることを意味します。これは、天子としては大きな恥であり、したがって、天子は、善政を行い、同時に、災害の犠牲者に対して手厚い救済処置をとらねばならず、それが天子の唯一絶対の道であるというものです。

 奈良・平安時代の自然災害の記録を調べてみると、地震災害に対する具体的な救済の方法が3つあります。
 その1つは 『検地震使』 の派遣です。地震災害発生の報が入ると、直ちに朝廷から派遣され、王道の欠陥から生まれた人民の困窮・苦痛を慰問し、また被災地の行政官と共に震災対策を講じるのです。例えば、869年 (貞観11年) 5月には、大地震によって東北地方の三陸沿岸に津波が発生し、1000人以上の死者を出しましたが、その際には9月に、京の都から 『検陸奥国地震使』 が派遣されています。
 2つ目は、賑恤 (しんじゅつ) です。賑恤とは、被災者、困窮者の救済で、食料や衣服などの供与、家屋の補修あるいは死者の埋葬などがその内容です。……
 3つ目は、この時代に国民に課せられた納税および労役義務である租・庸・調を免除する 『免租庸調』 です。」(伊藤政雄著 『歴史の中のろうあ者』 近代出版)


 4月11日で東日本大震災から6年と1か月、熊本大震災から1年が経ちました。
 東日本大震災から6年目が近づくと、復興事業の進捗度についての報道が目立ちました。
 具体的数字です。
 除染作業は帰還困難指定区域以外はほぼ終了といわれています(総事業費4.0兆円)。 しかし帰還区域の1つの敷地内においても、放射線量が高いとことが残っている指摘されたりしています。
 住宅についてです。
 被災した住居の対策は、高台や内陸への 「集団移転」、浸水した市街地の 「かさ上げ」 による宅地造成と、返済ができない等の理由で自宅建設ができない被災者にむけて自治体が建設する 「災害公営住宅」 があります。
 これらの進捗状況です。
 高台移転は333地区、48764戸が完了しています。進捗度は84%です (5900億円)。
 災害公営住宅は3万108戸のうち70%が工事完成しています (9600億円)。被災3県の計画は、岩手県5700戸、宮城県1万6000戸、福島県8000戸です。
 土地区画整理 (かさ上げ) は、50地区、1万130戸のうち25%が完了しています (3400億円)。
 
 これが6年過ぎた被災地の状況ですが、あらたな問題が発生しています。
 「かさ上げ」 が待ちきれなくて移転した被災者も多くいます。特に商業を営んでいた自営業の人たちは切実で、我慢の限界にきて諦めざるをえませんでした。人口の減少が続く中で、営業してもこの先あまり期待ができません。空き地のままのところも出てきています。
 災害公営住宅を希望した人のなかにも、待ちきれなくて辞退した人が出てきています。また入居者後に引っ越しをした人もいます。また入居者・入居予定者は小家族の高齢者が多くいます。死亡や施設への入居者も出てきています。将来、空室が大量に出てくることが予想されています。
 被災者が個人で住宅を立てた造成地のなかにはインフラ整備が進んでいなくて、市町村役所などが遠いだけでなく、病院やスーパーも遠く、不便を感じている人たちも出てきています。被災者が個人で住宅を立て直そうとしても造成が進んでいない宅地もあります。
 震災直後は同じ地域に住んでいた人たちと一緒に “街づくり” をした地区でも、ぼつりぽつりと人が減っていき、予定を変更したり、可能に陥っている地区も出てきています。

 その一方、被災3県で、2月末段階で、3万3854人がまだプレハブ仮設住宅に暮らしています。911カ所あった仮設団地は、空室も目立つようになりましたが746カ所残っています。
 県別では、岩手県1万383人、宮城県1万1616人、福島県1万1855人です。
 石巻市は、19年9月末までの仮設住宅解消を目指しています。あと2年以上存在することになります。

 福島県の放射線量が高いということでの避難者についてです。
 原発事故直後の避難指示者は8万1000人でした。現在の住民登録者数は7万6000人です。そのうちすでに解除済みになっていたのは1万9000人です。今年4月1に避難解除されたのは3万2000人で、解除のめどが立っていない人が2万4000人です。
 避難指示区域以外からの自主避難者もいます。合わせると2012年5月時点での避難者は16万4000人でした。県内10万2000人、県外6万2000人です。

 しかしすでに避難指示解除された区域でも、実際に戻った住民の割合は平均13.5%です。戻った住民は高齢者が中心で、子どもがいる世帯は戻っていません。3世代家族では子供の親子は避難先や新たに決めた住居に住み、祖父母だけが戻っています。祖父母は子どもたちに危険だから里帰りや墓参りにも来なくていいと告げています。原発事故は家族をバラバラにしました。
 家業である農業を再開するのも、荒れ果てた田畑を元に戻すには10年かかるといわれます。政府は安易にとらえています。祖父母の世代が今からそれに挑戦します。
 人口が減少したところでは、商業は成り立ちません。新たな産業を誘致するにも働き手がいません。
 自主避難者は、県内に3万9000人、県外に4万人います。3月31日からは仮設住宅の提供や家賃などの国からの支援が打ち切られています。支援打ち切りということでの帰還の強制は人権を無視しています。
 安全と安心は違います。安全にしても基準がまちです。国が示す基準が本当に安全だとはいえません。住宅は住むためだけでなく、安心して暮らすためのものです。
 原発は町を、地域を、共同体を、家族を破壊しました。「天子の不徳から発生」 した人災に対して政府が今進めている政策は棄民です。


 防潮堤は677海岸のうち25%が完了しています (1.4兆円)。
 3月23日の毎日新聞・記者の目はタイトルが 「東日本大震災6年 防潮堤を考える」 でした。
「防潮堤事業は青森県から千葉県までの太平洋沿岸の計677カ所で進む。うち9割近い591カ所が岩手、宮城、福島の3県に集中し、震災前は延長約165キロだった高さ5メートル以上の3県の防潮堤は倍近い約300キロに増える。土地の用途によって所管が国土交通省、農林水産省などに分かれており……。
 防潮堤計画は、震災を受けて政府の中央防災会議が2011年にまとめた津波対策が基になっている。数十年から百数十年に1度起きる津波を 「L1」、1000年に1度とされる最大クラスを 「L2」 に分類し、L1を防潮堤で守ることを基本とした。これを基に国交省や農水省などが高さについての通知を出し、シミュレーションをしたうえで各県が地域ごとにL1を防げるよう、高さを決めた。
 その後、全677カ所のうち、約200カ所は当初計画より高さを下げたり、位置が変更されたりした。集落が高台移転したため当初計画の高さが必要ないと判断されたケースが多く、ほとんどは震災前と同じ高さに落ち着いている。」

 現在の建設状況です。
「東日本大震災から6年が過ぎた被災地で、津波から街を守る防潮堤の建設が進んでいる。津波から街を守る有効な手段であることは否定しないが、高い防潮堤は海とともにあった古里の景観を激変させてしまうのも確かだ。建設には住民の合意が必要と思うが、行政が見切り発車と言われても仕方がない形で着工した例もある。これでは、防潮堤が地域を分断する構造物になりかねない。禍根を残さないよう、自治体は住民と十分協議すべきだ。」
 陸と海を分断してしまう、海の変化が見えずかえって危険になるとの声も根強くあります。一方、「議論がまとまらないと、他の復興が遅れる」 と工事を強行している自治体もあります。
 現在、677カ所のうち、6カ所は住民が合意しておらず、工事が始まっていません。
 防災のために必要なのは強固な建造物だけではありません。共同体の人たちの共通認識と備えと助け合いです。それが壊されたら防災は機能しません。


 地震と津波は天災ですが、「減災」 を考えていなかった社会で生じた被害は 『天子の不徳から発生』 したものです。減災は形あるものだけが対象ではありません。「災害の犠牲者に対して手厚い救済処置をとらねばならず、それが天子の唯一絶対の道で」 す。
 ましてや原発事故は為政者による人災です。「天子としての責任を負わなければな」りません。

 熊本でも多くの被災者が仮設住宅に住んでいます。震災から1年が過ぎますが、東北と同じ轍は踏まないようにしなければなりません。
 復興工事の遅れは、人手不足、資材の高騰などによります。2020年予定のオリンピックがそうさせています。
 「復興五輪」 といわれました。しかし実際は 「復興 VS. 五輪」 の構造になっています。政府はオリンピックを利用して復興を忘れさせようとしています。

   「活動報告」 2017.1.24
   「活動報告」 2017.1.6
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 東日本大震災 | ▲ top
| メイン | 次ページ