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「今後も漁業を続けたい意思のある者は、                            1人たりとも置き去りにする事はあいならん!」
2018/05/11(Fri)
 5月11日 (金)

 3月11日に石巻を訪れた時、自主出版本・佐藤清吾著 『津波のあとの十三浜 -復興の道のり-』 をいただきました。これまで手にした被災者の手記のなかで、震災がもたらした課題を被災者の立場からもっとも本質的に抉り出していると思われました。
 十三浜は、北上川は2つに分かれて流れていますが、北側を流れる方の河口の北岸から太平洋沿岸あたりをいい、13の海浜集落から構成されています。
 この辺は、山を背負って太平洋に面していますので冬でもそう寒くありません。山は杉の産地です。平地では田んぼ、畑が作られ、春には山で蕨やフキなどの山菜取り、夏は河口でシジミ・アサリ、秋には果物が実ります。山から流れでる真水と海が混じった沿岸はプランクトンが豊富でたくさんの海藻が育ち、それを収穫するのは女たちの仕事です。男たちは船で黒潮・親潮が交流する海に漁に出かけます。
 これ以上住みやすいところはありません。
 河口から5キロ上流にいくと大川小学校がありました。


 震災からの復興に立ち上がっている海の女衆の話が 『いしのまき浜物語』 (三陸河北新報社) に載りました。
 石巻市北上町十三浜大室は震災前から養殖ワカメと天然の岩のり、マツモ、フノリなど海藻類の宝庫でした。しかし震災は海岸を1メートル近く沈下させてしまい浜は狭くなってしましました。
「岩ノリなどに少し遅れて、ヒジキが開口になる。個人ではなく、集落の女 (おなご) 契約に開口され、女性たちが主になって採る共同作業。契約 (あるいは契約講) は、集落でつくられる相互互助の自治組織だ。
 ヒジキは集落で販売まで手掛けている人が買い取り、ゆでてあくを抜き、干して商品化する。女契約の収入は、集落と個人の双方を潤す。
 これまで最も印象に残っている漁業は1965年だという。
『ヒジキの売り上げが500万円以上になった。私は女契約の会計をしていた。当時、大室女契約の42人にそれぞれの名義で3万7000円だったかな。貯金口座を作った』
 地域の資源を生かし、合意の下で地域の経済を回していく。みんなで生きる女性たちの協同の力は震災を経ても健在だ。
『何年か時間はかかるだろうが、今まで付いていなかった岩に、新しく海藻が付くと思う』
 持ち前の明るさでカラッと笑う佐藤さん。浜の女衆はしなやかで、粘り強い。」


 本の著者の佐藤さんは1941年生まれです。震災前は地元の文化協会の会長、公衆衛生組合会長、まちづくり委員長、そして震災3年前までは十三浜漁協代表などの役職を努めていました。
 大室集落の海から30メートルとないところに奥さんと娘さん、孫と4人暮らしでした。震災で妻と孫が行方不明になります。大室集落は50戸中48戸が全壊流出し、親戚等にお世話になることができない家族は公共施設の避難所で暮らすことになります。17人が亡くなりました。
 北上町の総合支所や消防署、小学校、公民館などが集まっている街の中心地域だった月浜集落は、6メートルの高さがあった支所は完全に水没し、避難した地域住民や支所職員57名中54名が犠牲となりました。

 佐藤さんは3日目、安否確認のため塩釜に住む弟宅に車で向かいます。その時の光景です。
「途中、新潟から駆け付けた消防車の隊列が数十台も赤色灯を付けて北上していく。運転しながら涙が溢れて来た。有難う、皆さん、どうか助けてください、と擦れ違う車列にお礼をいいながら。
 救援物資を山の様に積み込み走る車、車、自衛隊の車、車。涙で視界が悪くなる。」
 家を離れている子供たちや兄弟、その家族の無事を確認します。

 4日目、娘さんと一緒に妻と孫を探し回ります。
「母かたの従兄夫婦が同じ場所に並べられ、息子が遺体に取り縋り号泣している姿を見て、自分達も一日も早く収容されて欲しいと思った。一方で、妻だけが見つかり孫が見つからなかった時の娘の心情を想うと、どうせ見つからないのなら二人共、見つかるなら二人一緒の思いは、当時も今も全く変わらない。」

「それにしても行方知れぬ家族の事を考えれば、自分の置かれた立場だけが悲しい、寂しいのではない。この震災は何百万人もの人々が身内や親戚、友人を亡くして悲嘆に暮れているのだ、と思い直し、自分達だけが悲惨なのでは無いと思う事で、この先の生活の再建に尽力する気を起こしていた。
 避難生活は国や全国からの食糧支援の配分で日々の糊口を凌ぐ。……
 お互いに助け合ってこの急場を乗り切ることが最重要であるが、人の心とは自分の置かれた環境に大きく左右されるものだという事をしみじみ感じる機会もあった。救援物資を受け付ける窓口の責任者が、被災民と我が身の差別を公然と公言していたのだ。……
 おなじ集落の被災民は納得がいかず、それを行政に訴えた事から行政側から指導が入った。すると責任者側がその告発者探しを始めるという事態になったのである。……
 人間とは所詮こういうものだ、と云う。半面、こんな時こそ各々の身勝手を慎み、助け合わねばならないと、一貫して公正な対応で仮設住宅に移行した避難所もあった。それもリーダーの人間性に有るように思える。」


 震災後、佐藤さんのところに漁民たちが連日詰めかけて漁協の十三浜支所の運営委員長として戻ってくれと要請します。固辞すると1人が訴えます。「この惨状から逃げないでくれ!」
 この一言で震災復興に尽力することになります。

 十三浜を支援したいという話が舞い込みます。ます末日聖徒イエスキリスト教会からです。
 秋になると十三浜被災漁民全員に、漁業資材のアワビ業に必要なグラスファイバーの竿、箱眼鏡、櫂とバンジョー2個 (大型) が配布されました。100戸の養殖業者には、1戸当たりワカメ塩蔵用大型タンク1個とバンジョー籠各50個が配布され、春からのワカメの収穫に備えができました。
 漁民は、今期の漁業収入はゼロで、国からの支援を受けていましたが翌年も収入ゼロなら耐えられません。翌年の春には必ずワカメだけでも収穫することが復興のスタートだとの思いを共有して活動が始まりました。
 千葉県我孫子市の 「なかむら歯科」 の方々は漁業復興のために 「チーム仲村」 として十三浜のワカメを復興する資金集めを開始しました。「チーム仲村」 の肝いりで 「十三浜わかめ復活支援サポート募集」 が開始されます。(この自主出版本を出す支援もこの方々の支援によるものです)
 この他にも 「鵜の助」 サポータ-制度の申し出などがありました。
 この後に漁協が立ちあがります。そうすると、事業を個人がグループで行なうか、皆でスタートする組合かで意見が分かれます。そのような時、震災前からこの地域の人びとの暮らしや地域の産業の変遷等の調査をしていた北海道大学の宮内教授などの助言などを受けて漁協にまとまります。

「今回の被害の程度には大きな差があり、家も船も、作業所、冷凍冷蔵庫、倉庫、車輌、リフトを総て流出した漁民と、船は沖出しで助け、家も施設も助かり漁場の筏の流出のみで済んだ漁業者もいた。又、各々の家によって経済的な格差が有り、漁民達はこぞって各々で復興作業をやりたいと言い出したのだ。その上、被災支援をいち早く発信して復興資金を手にした人達は、私の求める共同での同時スタートに賛同せず個別でやる事を主張する個人グループがいて、そうした者達の説得に苦慮した時期だけに、鵜の助グループと大津さんの申し出はタイミング的にも漁民一丸の理念からも時宜を得たものだった。」
経済力を持つ者も無一文になった者も、今後も漁業を続けたい意思のある者は、1人たりとも置き去りにする事はあいならん!
 この大災害時こそ協同精神で共に生きる道を進むべきだと支所運営委員会で決議した
ことは、今でも間違いない決め事だったと考えている。」


「秋頃には、十三浜支所の養殖業者によって来期用の漁場の整備が急ピッチで行なわれていた。
 整備は県から許可された養殖漁場である区画漁場の瓦礫撤去から始まった。しかし、海岸沿いの瓦礫撤去労働者には国から賃金が1万2100円が支払われたが、会場の漁場造成の為の整備はその対象外であったから、漁民が海岸の瓦礫撤去作業を優先して漁場整備に行きたがらない傾向が有った。
 だがそれでは来期の養殖再開の目途が立たないから、十三浜支所が独自の財源を捻出して、養殖漁場の瓦礫撤去から養殖筏の敷設に取りかかる様に号令を出したのである。
 しかし養殖筏の敷設に使用する船が圧倒的に不足していた。十三浜支所の若布昆布の養殖漁家は約110戸程。沖出しで助かった船は40隻だった。
 被害を受けた経済的に余裕の無い者も漁業再開を同じスタートラインに立たせたい。私はそれを第一に考え、残った船を全船漁協が借り上げ、その船に全養殖漁民が乗り込み、筏敷設、種付け終了までを共同作業とした。漁業継続の意思の有る者を1人も取り残す事の無い様、徹底したのである。
 その結果、来期用の養殖筏の敷設は震災前の70%まで、復旧出来たのである。
 この共同作業方式は、震災の年末に行われた鮑の開口でも適用した。震災による船の絶対数不足で、鮑漁の300名の漁業権者のうち、この年に船を持てたのは、流出や破損を免れたのが1割程、震災後に発注して出来上がり引き渡された船を加えても3割程であった。
 この船に出漁の意思の有る者が乗り込み、全船の水揚げ量を全員のプール分けにした。」

 船の共有と収穫のプール分けは南三陸町の漁協などでもありました。
 ワカメは、津波が海中をかき混ぜ、また陸から流れでた土砂等はプランクトンなどが豊富で豊漁でした。


 しかし新たな難題が出てきます。
「必要な船数の30%で漁場の新規造成は困難を極めた。
 1個約2屯以上のアンカーブロックが皆無の状態。通常このアンカーブロックは、生コンクリートの残処理に大きな費用負担を嫌う生コン業者が残った生コンを型枠に流し混んでおけば、漁民が養殖用にアンカーに使用する際に格安で購入出来て、漁民の生産コストを下げるのに大いに貢献していたが、震災で需要が激増した処に大量発注が重なり、価格は一挙に倍になった。……
 国が被災地の復興支援として誘致したオリンピックは完全に裏目に出て、被災民を苦しめ続ける愚策であった。漁港の復旧事業の資材高騰、人件費の暴騰、ひいては自力再建の費用負担増として。漁場造成の資材不足と作業船の絶対数不足は、次第に漁期に間に合わなくなる焦りで漁民を駆り立て、トラブルにまで発展した。……
 3県に股がる被害は、広範囲の漁場復興為に漁業用資材の需給バランスが崩れ、資材の調達は困難を極めた。」


 大室には伝統芸能の 「大室南部神楽」 があります。市の教育委員会から伝統芸能の復活の意思があるなら是非してほしい、大室だけで神楽衆の確保が難しければ、相川、大室、長塩屋で1つの団体を構成して復活させてほしいという連絡がきました。
「被災地の人達は日々の糊口を凌ぐ暮らしの維持や、将来に対する不安に耐えるのが精一杯であったが、神楽は大室の若者や離散した住民の心の拠り所となり、震災以前のコミュニティの維持にも大きな期待になるだろうとの思いから、復活の機運が一気に盛り上がったのだ。……
 そして震災2年後の5月4日、澄み渡る青空に大漁旗をなびかせ、大室の作業テントを会場にして見事に復活祭を果たした。」
「震災で各地に散らばる事を余儀なくされた人々が、故郷の伝統芸能を介して、再び同じ時間の中でコミュニティが蘇る事は、非常に大きな意義がある。神楽とは単に伝統の復活というだけでなく、故郷、先祖、そして人々の繋がりを肌身で感じる体験の積み重ねだ。舞台という一時だけでなく作り上げていく長い時間を通して心の繋がりが深まっていく。
 復活祭の後、皆が涙を流して喜び合った光景は、日常の状況は変わらなくとも明日を生きる意欲と自信が繋がった瞬間だと思い出される
。」


 震災は、巨額の復興予算がつぎ込まれました。しかしその予算の13%強が被災地以外で使われました。復興予算は全国のゼネコン、土建会社の“復興”のためのものでもありました。
「震災後、大変税金の無駄使いと思われる事業が多い。その一つが被災三県の沿岸に造られている巨大堤防である。被災地住民の主張を斥けて強硬に進められている。もし再び東日本大震災級の津波が来ても殆ど役に立たない。却って波の引く時の妨げになる様に思える。……
 堤防はコンクリートだから耐用年数はせいぜい百年は持たない。そのメンテナンスは造成された自治体がする規定である事を考えれば、大震災が千年に一度なら十回は作る事になるだろう。千年に一回だったら海水に洗われた方がどれだけ良いか明らかだ。……
 知事の屁理屈の後ろには、大手ゼネコンが控えている。献金と云う名の賄賂が、国の財政を悪くしても巨大事業を止められない政財の癒着の仕組みである。」
 地元の方が吐いた言葉です。
「村井知事は自衛隊出身だから、住民を守るのではなく、国土を守ることしか考えない」
 それに建設業者が便乗しています。

 防潮堤建設はこれだけではない問題があります。
「海岸に接する森林は、漁業にとって重要な役割を果たしていた。樹影が付近の水域を暗くすることによって、小魚類には格好の休息の場となり、また敵から逃れる便を与えた。
 樹木の枝葉が落ちて植物質を水面にもたらすため、その腐蝕に伴い魚類の好む水中微生物が増殖した。また、森林中に生活する昆虫類が風雨などで常に海面に落下し、魚類の餌となった。さらに、森林の繫茂は水温を調節し、アルカリ塩類の含有量を増して、海藻類を繁茂させた。そのため、森のそばには魚が集まり、絶好の漁場となったのである (魚附林)。
 樹林に海鳥が棲息・繁殖し、群れをなして魚群の来遊を知らせるため、漁民が森林とともに海鳥を保護している所もあった。また付近の河川からの汚濁した淡水の流入が海水魚を駆逐するのを防ぐために、上流の水源地での森林育成に努めている事例は各地にみられる。このように、海岸近くの森林の存在は漁業の盛衰を左右したのである。
 海岸近くの森林の利用は林業あるいは農業も面からのみ考えるべきではなく、漁業とも深い関係をもっていた。そして、漁業のためには、むしろ農林業的な土地利用を抑制して、森林を保全することが必要なのであった。江戸時代には、漁業と漁民がそれを行なってきたのである。」 (渡辺尚志著 『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』 草思社)

 JR石巻線は震災で切断されました。全線開通したのは15年3月20日です。
 終点の女川町は、人口が当時の半分になってしまいました。鉄道の復旧の遅れはその地域から人びとの流出を加速させました。それでも地元に残った人たちは踏ん張っています。
 震災直後、商工会議所の人たちは 「小さいけど ピカピカ光る女川をつくろう」 と町づくりを始めました。
 今は 「津波に弱い街づくり」 をしています。津波の大きさは予測できません。その方針を掲げて防潮堤は作らせません。海から逃げないで共存しようとしています。危険と思ったらすぐ避難する防災対策を進めます。
 自然の力は恐ろしいです。人の言うことを聞きません。


「宮城県の村井知事が震災後、5月10日の復興構想会議で突如、漁民に何の相談も無くコンセンサスの無いまま 『水産業復興特区』 なる構想を打ち出した。
 漁業権の更新時期を直前にして起きた大災害に乗じて、許認可権を持つ知事が、既存の漁業権所持者と劣後しないで新規参入希望者に漁業権を付与する等、漁業者の権利の割譲を迫る制度改革である。……
 被災三県の中で宮城県にだけ復興特区が必要不可欠であると云う論理こそ、索強付会な身勝手極まる理論である。……
 しかし企業が何故この様な辺地の漁業権を求めるのかを考えてみれば、先ず企業が求める物は何か?と云う事だ。企業が地域の人々の暮らしを一体となって守る等は、偽善の最たる建前論なのである。
 企業進出の目的は利益である。漁民には震災再起が難しいだろうと云う一方的な思考も腹立たしいが、その為に民間の資本を導入して復興を早めろと云う、いかにも善意の押し付けである。……
漁民は零細だが、喜んで家族全員が生産に携わっている。家内労働では爺さん婆さんも労働者で収入を得る。だが企業にとって 働き手は総てコストである。すると浜に進出した企業が欲しい労働力は一家の柱だけだから、必然的に一家の収入は減少する。そこが企業と家内工業の根本的な違いである。」

 「水産業復興特区」 は企業の漁協への参加を認めるものです。漁協は1つをのぞいて反対していますがプランは進められました。
 漁民の生活はどうなるのでしょうか。1か月19万円のサラリーマンになりました。
 漁はいい時も悪い時もあります。漁民はそれを承知しています。しかし参入した企業は 「悪い時」 も残るでしょうか。数年後、サラリーマン漁民は漁場を荒らした企業から 「解雇」 されるのが目に見えています。


「一組合員の立場では、幾ら吠えてもまさに蟷螂の斧である。私が十三浜漁協代表理事に就いて、青森県六ケ所村の再処理工場の本格稼働が三陸の豊穣の海を死の海にしてしまう危険を、組合に講師を招き組合員に周知させた処、組合員から我々の水産物の生産現場が放射能で汚染される事は許せる事ではなく『原発は反対する』との決議がなされている。
 宮城県の意向は推進である。今回の東日本大震災の原発事故の直後でも、女川原発が問題無かった事を取り上げ、視察後の記者会見で知事が『被害は軽微であるから再稼働をする』との話であった。
 女川原発は幸運にも過酷事故に至らなかっただけの事であり、もう少しで福島同様の大惨事になっていた。五系統の冷却電源の内4つが死んだのだ。たった1つの電源で命拾いをした事を思えば、再稼働等有り得ない愚行であろう。」
「我々の生業である水産業は、地元の海が生産現場であり、この三陸の海が放射能で汚染される事になれば、漁業の存続は不可能であろう。」
「原発事故の後遺症は今も深刻だ。震災の翌年から始めたホヤの養殖は、4年で成熟して収穫しないと棚から落下してしまう。昨年の生産量1万8千屯が、放射能の風評被害で生産量の7割の輸入国、韓国から拒否されてやむなく廃棄処分となってしまった。生産者があの過酷な状況のなかで4年後の収穫を夢見て生産活動を始めた事を思うと、実にやり切れない思いだ。
 三陸の海はこの様なことさえ起らなければ漁民を裏切らない。」


 5月11日は、東日本大震災から7年と2か月を迎えました。
 被災民は、行政などからの妨害をうけながらも、全国からさまざまな支援をうけて道半ばですが復興にむけて頑張っています。
 道半ば・・・復興は数字では表わせませんが、あえて表すとしたらしたら何割に辿り着いたのでしょうか。

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“災害は忘れたからやってくる”
2018/03/16(Fri)
 3月16日 (金)

 3月11日午後2時46分は、石巻市門脇に立つ 「がんばろう石巻」 の看板の周囲にいました。地元の人たちや、そのあと行われるキャンドルライトによるイベントのボランティアなど、何人集まってきていたでしょうか。遺構はないし慰霊碑が建っているわけでもありません。
 海に近いこの一帯は震災の時、地震と津波と津波火災で大きな被害が出ました。かつての住まいは土台しか残りませんでした。しかしその一角に、地元の若者が 「がんばろう石巻」 の看板を立てると、この地域で家族を亡くした人、かつて住んでいた人たちが自然に集まる場所になりました。毎年3月11日にはキャンドルライトによるイベントが開催されるようになりました。震災後にボランティアとして被災地に駆けつけた人たちのなかにはここにくるのが恒例になっている人もいます。

 2時46分が近づくと防災放送塔から流されるサイレンを合図にみんなで黙とうをしました。
 3色の風船が配られました。白は追悼、青は過去・思い出、緑は未来です。それぞれの思いをこめていっせいに離すと風に乗って内陸の方に青空高く飛んでいき、見えなくなってしまいました。近くの子供が 「とどくかなぁ」 と母親に語りかけていました。家族の誰かを失ったのでしょうか。
 あの日は午後からみぞれが降り、寒かったのですが、今年は上着もいらない陽気でした。
 夕方には3600個の灯篭に灯がともされます。
 夜のテレビニュースでは色とりどりの灯篭で 「3.11」 と描かれていました。

 一帯は防潮堤を兼ねた公園となる計画が立てられています。しかし、何年たっても工事が進んでいるようには思われません。前に看板が立っている一角が工事着工といことで移動させられましたが、着工されていません。
 7年経っても慰霊塔を建てることができない地域です。
 少し離れたところに5階建ての復興住宅が建ちました。しかし入居が進んでいるようには見えません。


 海と 「がんばろう石巻」 の看板が一望できる日和山に登りました。海は穏やかです。
 あの日は、住民は慌てて石の階段をのぼり、ふるさとが津波に飲み込まれるのを目の当たりにしました。
 近くのパルプ工場の太い煙突からは、ものすごい勢いで煙が噴き出ています。以前なら公害云々という議論が沸き起こりますが、震災後は復興のシンボルになっています。
 これ以外には復興を語れる材料が見当たりません。かつては20メートルの高さにおよんだ瓦礫の堆積場は何年前から空き地のままです。かつての魚町・水産加工の街からは磯の香りがしません。鷗が飛んでいません
 街を歩いていても、日曜日なのに人影も多くはありません。震災後何とかして営業を再開した店もシャッターを下ろしています。


 プレハブ仮設住宅はまだあちこちに残っています。生活している気配があります。震災から7年経っても新たな住居に移れないのは、被災者の責任なのでしょうか。2020年のオリンピックのため、復興工事では人材、資材の不足が続いています。忍耐の限界に達し、地元を離れて生活を開始したひともたくさんいます。
 未曽有の災害に遭遇しても住宅を含めて自己責任を強いられる国は日本以外にあるでしょうか。
 仮設住宅の入居期間は1年ごとの延長が認められてきましたが、今は2020年までに延期されています。居住者は常にいつ追い出されるか不安な状況におかれています。あたかも非正規の契約労働者が毎年更新をびくびくしながら迎える心情と似ています。
 石巻市は復興住宅の完成率は90%です。宮城県内には、まだ1900世帯が仮設住宅で生活し、入居率は17.3%です。


 被災地の各地で防潮堤建設が続いています。
 石巻市の表浜港での防潮堤建設についてです。約170世帯が住んでいるところに海抜6メートル、総延長708メートルの防潮堤を2020年度末まで完成させるという計画があります。
 県は住民の意向を調査して決定するといって説明会を開催しました。ほとんどの住民は反対です。調査や説明会は形式で最初から 「建設ありき」 です。それがわかっていたので説明会には12人しか参加しませんでした。不参加が住民の意思表明です。
 参加者も反対の声が多く上がりました。しかし県は計画を強行する意向です。
 東日本大震災における防潮堤の教訓は、高い防潮堤を築いていたところは被害が大きく、なかったところは被害が小さかったということです。防潮堤を超えた波が引かないと被害は拡大します。
 防衛庁出身の県知事にとっての防災対策とは国土の要塞化でしかありません。

 防潮堤は陸と海を遮断します。漁民は日和ができなくなります。
 震災後、被災地の近海では良質の海産物が豊作でした。海底がかき回されたのと、内陸の森などから大量のプランクトンが流れ込んだからです。「海は森の恋人」 といわれます。
 しかし、防潮堤の基礎が深く食い込んで遮断し、恋人同士の海と森を引き裂いてしまいます。湾での養殖も壊滅します。

 女川に行きました。街の90%が被災しました。町全体としては人口は激減しています。
 街のかさ上げ工事が進んでいます。昔の面影は残っていません。
 新しいJR駅前には広場と商店街が作られました。商店会の若い世代を中心に工夫した街づくりが進められています。
 防潮堤は結局作らせませんでした。生活を豊かにしてくれる海と共存することを選択しました。津波がきたらどうするか。 「逃げる」 が基本です。そのために避難通路と避難先を確保しておきます。中学生は、震災を記憶するために各地の津波の到達点に石碑を立てています。日々災害を意識しておくことが一番の防災です。
 “災害は忘れたからやってくる” です。

 災害というのなら、東日本大震災の最大の教訓は、原発事故は起きたら制御はできず、甚大な被害をもたらすということです。避難することすらままなりません。
 その教訓を活かすというのなら、女川での真っ先におこなわなければならない防災対策は女川原発を廃炉にすることです。


 JR仙石線の旧野蒜駅 (東松島市) に行きました。
 仙石線は松島湾の海岸を走っています。電車に乗って山側の座席に座って海を眺めると、電車に乗っているのか船に乗っているのかわからなくなることがありました。しかし今は、海側には景色が見えない高さの壁が作られています。
 野蒜駅は、昔は 「東北須磨」 の駅名でした。須磨は神戸の須磨です。2つとも海水浴で有名でした。松島の絶景は奥松島といわれます。その奥松島への入り口が野蒜駅でした。
 3.11では駅前一帯は壊滅といえる状況でした。1年後は瓦礫置き場でした。
 住民は、ここでの生活再建は不可能と集団移転を希望しました。かつての駅の背中に位置する山を整地して宅地・団地を作りました。そして路線を変更し、新しい駅を作りました。この一年でやっと移転が本格化しています。今年の3.11を巡る報道では多くがこの団地の航空写真を取り上げました。

 かつての野蒜駅は、震災遺構になっています。懐かしい駅が再現されています。その隣には東松島市の震災メモリアル震災記念館が建てられました。
 パネルには 「く」 の字に脱線した電車や、避難所だった体育館で津波が渦を巻き、多くの犠牲者を出した野蒜小学校が展示されています。
 地元の観光パンフレットと一緒に、震災復興支援のために全国から駆けつけた市町村の観光パンフレットが常設されています。熊本、広島、岡山、津、瀬戸、川崎・・・。支援を忘れない、そして今できる恩返しです。
 被災地では今も自治体労働者が全国各地からの支援者と一緒に奮闘しています。
 東松島市は、熊本震災、鳥取震災の時は、災害救助を経験した職員を派遣し、支援の恩返しをしています。


 風化は確実に進んでいます。止められません。
 しかし繰り返しますが “災害は忘れたからやってくる” です。「忘れきらない」 ように思い出して語り継いでいかなければなりません。
 東日本大震災を機に防災は 「自助」 「共助」 「公助」 から 「自助」 「自助・共助」 「自助・公助」 がいわれるようになりました。「とにかく自分の身を守る。自分を守らなければ、人は助けられない」 です。
 そのうえで、政府が被災者に “棄民”政策を続けるなかにあって 「自助・共助」 で本物の復興を作っていこうとしています。


   「活動報告」 2017.10.11
   「活動報告」 2017.6.13
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雨でも、風でも、日照りでも・・・
2018/03/13(Tue)
 3月13日 (火)

 よこはまシティユニオンは2011年3月11日に東日本大震災が発生し、福島原発が爆発して大きな被害を出して以降、毎月11日は横浜市内で原発反対のチラシまきを続けています。今年の3.11で84回目になります。毎回3月11日には各執行委員が自分の思いを書きます。
 今年のチラシです。

 「フクシマを忘れない 7 年目 私たちの想い」
   2018.3.11 全造船関東地協労働組合 よこはまシティユニオン

<組合員からの一言>
・「汚染水はコントロールできている」 と世界に大ウソを振りまいた安倍首相。原発事故から7年経過し、裁判では東電の損害賠償責任が認められて来ている。各地の裁判所で30件の裁判が取り組まれている。事故への対処をした米軍兵士157名も被ばくによる体調悪化で裁判も行う事態となっている。世界も原発から再生エネルギーに転換している中で 「原発再稼働と福島への帰還強要」 を冷たく叫ぶ安倍政権を許さない。【お】

・一般公衆の放射線量の限度は、今でも年間1ミリシーベルトです。にも関わらず、福島第一原発事故による 「避難区域」 は、20ミリシーベルトが基準になっています。どういうことでしょうか。【あ】

・日本列島に原発54期。福島事故は収束していない。米国のお先棒担いで戦争するの? 老朽化した東海第二原発を再稼働? 高濃度の廃棄物はどんどん溜まる。事故が起きたら日本列島はどうなるか? 想像してごらん。【ち】

・京都北部出身で100歳近くまで長生きした祖父は健脚で、よく散歩に連れて行ってくれました。住宅街を抜けて小さな林を歩きながら 「年取るとな、故郷に帰りたくなる。それでこういう所を歩きたくなるんや。今の子供はコンクリートだらけの街で、故郷がなくなってかわいそうやな」 と中学生の僕に話したものです。事故から7年が経ち、浪江町などの小中学校の再開状況が報道されていました。故郷で遊ぶことは叶いません。偉そうに反原発のビラまきを始めた1986年以来、2011年の事故が起きるまで、「故郷を徹底的に破壊する原発」 を止められなかったことは本当に悔やまれて仕方ありません。【ひ】

・私の故郷は宮城県です。東日本大震災の被災地の復興は進んでいません。蝦夷地だからです。沖縄への差別と同じです。防潮堤建設で国土を守るという思考は、沖縄での新たな軍事基地と同じです。蝦夷地と沖縄は一緒に 「ヤマト」 から独立するしか道はありません。【し】

・安倍首相は原発の安全性を強調して再稼働を進める一方、北朝鮮の核開発・ミサイルの恐怖を煽り 「国難」 と言うが、原発が海岸に立ち並ぶ現状は 「国難」 ではないの? ウソと甘言、恐怖で操る為政者を許すまじ。【り】

・7年が経ち、原子力発電所がどのようなシロモノなのか十二分に分かったはずです。「再稼働」 「新増設」 「リプレース」 など大それたことはしないで下さい。即時、全面停止あるのみです!【あ】

・地震によって原発事故が起こるとは、東電は原発を襲う津波が低くなるなるように試算依頼をしたと新聞に出ていた。安全を軽視する事は、人命軽視と同じ。【か】

・朝日新聞に 「3%の声こそ拾うべき」 と題して次のような記事があった。「東日本大震災の復旧は、国道99%、鉄道97%と完了に近づいている。しかし、鉄道が復旧していない3%の地域の人々の不便は何ら解消していない」 と。毎月11日にビラまきをしても、原発の収束・廃炉作業に従事し急性白血病になった労働者の損害賠償を求める裁判を傍聴しても、テレビでプレハブの仮設住宅の現状を見ても、やはり私の中の震災の記憶は日に日に薄れていく。そんな日常の記憶に抗い、ビラまきをして、裁判を傍聴して、故郷に帰りたくても帰れない人のことを想い、3%の人の気持ちとともに歩んでいきたいと思う。【み】

・嘘だとわかったのに、まだやろうとする。処理できないごみを、また作ろうとする。そして責任は先送り。国のすることじゃないよね。【い】

・毎月11日は駅頭ビラまき。たった1時間なのに、やれ暑いだの寒いだの雨は嫌だの風が強すぎるだの言い合いながら。たった1時間だから、7年間も続いているのかな。たった1時間だけど、言いたいことを言い、動ける自由を私はありがたいと思います。これからもよろしくお願いします。【ぽ】

・7年目を迎えたが、故郷を追われた人々の苦しみや悲しみは今なお癒されていない。東京電力の事故と賠償責任を認める判決が、前橋・千葉・福島の各地裁で相次いだ。「想定外の巨大津波が全電源喪失の原因」 という東電の主張がウソであることを明かにしたのだ。広島高裁の伊方原発差し止め訴訟では、阿蘇火山の火砕流の危険が大きいとして運転を中止させた。地震や火山に囲まれた日本では、どの原発でも苛酷事故を起こす可能性があることを明らかにした。規制委員会はこうした事実を知りながら、「審査基準に合格している」 として電力各社の再稼働申請を全て容認してきた。次の世代につけを回して恥じない理不尽な原発行政と国家権力。「すべての原発廃炉」 の方針を明確にし、被曝による医療・治療対策、廃炉に向けた作業員の被曝・安全対策、技術開発に舵を切るべきだ。【よ】


よこはまシティユニオンは、2011年4月以降、東京電力に対し、団体交渉や情報公開・賠償・脱原発などを求め、48回にわたり要求書を提出しています。東電からはその都度、文書で回答はありますが、肝心な点はいつも曖昧です (ホームページ参照)。
ユニオンは、東電と国の責任を追及し、今後も粘り強く話し合いの場を求めます。
 私たちはこの7年間、毎月11日に街頭宣伝活動を行っています。東日本大震災や原発事故を忘れないためです。そして、何ができるのかを一緒に考えたいと思います。
 「福島どころじゃない」 「自分の仕事と生活が大変」 という方もいるでしょう。そんなあなたこそ、あきらめる前にぜひ職場の問題をユニオンに相談してください。一緒に解決しましょう!
       横浜市鶴見区豊岡町20-9-505 TEL&FAX 045-575-1948 ホームページ
        http://yuniyoko.sakura.ne.jp
       全造船関東地協労働組合  よこはまシティユニオン
                                                              【2018 年3 月11 日】


 いつまで続けるのかと問う前に、政府はいつになったら原発廃止を掲げるのでしょうか。

  「活動報告」 2017.3.17
  「活動報告」 2016.3.12
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災害に 〈攻め〉 の姿勢を
2018/01/26(Fri)
 1月26日 (金)

 1月17日、阪神淡路大震から23年を迎えました。
 関東のテレビ各局の現地の追悼集会中継は5時46分を前後してせいぜい2~3分でした。遠い過去の出来事になってしまったのでしょうか。

 1月17日付の神戸新聞を送ってもらいました。1面トップはま 「県の復興借金4386億円」 です。内容を紹介します。
「県は震災半年後の1995年7月、10年間の復旧・復興計画 『兵庫フェンイックス計画』 を策定 『創造的復興』 を掲げてインフラや福祉、防災など多岐にわたる事業を展開し、県の負担は2兆3前億円に上った。うち1兆3千億円を県債発行 (借金) で賄ったが、公債費 (借金返済額) が膨らみ、歳出が歳入を上回る 『収入不足』 を基金 (貯金) や新たな借金で穴埋めした。
 収入不足が1120億円に達した2008年からは、職員の給与や定数削減など11年間の行財政構造改革 (行改) に着手。18年度には、震災後初めて収支不足を解消する見通しだが、震災関連の借金残高は4386億円 (16年度決算)。」
 これが23年たった実情です。

 東日本大震災では、国は11~15年度を東日本の集中復興期間と位置づけ、復旧・復興事業の地元負担を実質ゼロにしました。阪神淡路大震災で被災自治体の財政がひっ迫した教訓が生かされたともいえますが、震災の借金に対する措置を今も求めている兵庫県に国が応える様子はないといいます。

 自民党政権が推し進めた行政改革によって全国の自治体の一般行政職員の総数は、1995年度の約117万人から2017年度には約91万人に減少しています。兵庫県はそのうえに2008年から行政改革を進めています。しかし東日本大震災が発生すると、被災地・被災者の痛みに共感できる分、人と物の支援を他の自治体以上に続けています。
 その状況を総務省が発表している 「東日本大震災に係る地方公務員の派遣状況調査の概要」 から見てみます。
 2017年4月1日時点で全国の自治体から派遣されている職員数は1782人です。内訳は、44都道府県から975人、20指定都市から195人、341の市区町村から612人です。
 さらに都道府県975人の内訳は、兵庫県は82人で、被災県から被災地市町村への派遣を除くとトップです。続いて、神奈川県79人、東京都22人の順です。
 指定都市195人の内訳は、神戸市6人です。
 市区町村612人の内訳です。兵庫県は25市区町村から42人です。東京都の107人、愛知県の60人に続きます。

 2016年に熊本地震が発生し、16年9月1日から17年3月31日までの間に、都道府県から319人、指定都市から120人、市区町村から1027人、合計1466人が派遣されています。しかし細かい内訳は不明です。

 東日本大震災の被災地に対する兵庫県の思いがあらわれています。この傾向は東日本大震災が発生後ずっとそうです。県独自の行革がつづく中にあっても無理をしながら支援を続けています。自分たちの経験を役立てることや、二次被害を最小限にとどめようという思いからでもあります。勝手な行動ではありません。
 職員派遣は総務省が全国の自治体に要請したものでもあり、全国からの派遣状況を見たなら兵庫県は震災関連の借金残高を抱えながらも無理をしている状況は明らかです。国は今からでも何らかの支援を検討してもいいと思われます。

 阪神淡路大震災、東日本大震災の教訓は被災地・被災者だけにとどめずに全国で活かし、第二次被害も含めて 「減災」 を目指していく必要があります。そしてその対策は、被災者だけでなく、救援活動、支援活動に携わる人たちへのフォロー、アフターフォローを含めてです。


 大阪府富田林保健所職員の男性職員は、2011年4月に続けて5月12~16日の予定で岩手県宮古市に派遣され、避難所を巡回する保健師らを車で移送する業務に従事していました。その最中の14日、宿泊先のホテルで頭痛を訴え、くも膜下出血で死亡しました。
 妻は公務災害を地方公務員災害補償基金に申請しましたが 「公務外」 と認定されませんでした。大阪地裁に訴訟しましたが地裁は過酷な勤務とは認めがたいと請求を棄却しました。
 その控訴審判決が17年12月26日、大阪高裁でありました。業務との因果関係を認め、原告側の1審大阪地裁判決を取り消し、公務災害と認定しました。運転業務に従事した時間自体は比較的短いとしながら、余震や津波への恐怖を感じる被災地で 「普段と比較にならないほどの強い精神的緊張を強いられる状況」 と指摘し、男性に高度な負荷がかかっていたとして死亡との因果関係を認めました。

 地方公務員災害補償基金や裁判所は、被災地で被る 「普段と比較にならないほどの強い精神的緊張を強いられる状況」 の精神的負荷を軽視し、労働時間の長短で判断しました。
 被災地で被る精神的負荷を軽視する対応では救援活動、支援活動の二次被害を防ぐことはできません。


 被災地の自治体職員はまだまだ過重労働のなかで頑張っています。
 17年11月8日の河北新報は、「<石巻市> 膨大な復興事業で疲弊 市職員の健康チェック強化」 の見出し記事を載せました。
 宮城県石巻市は、これまでも産業医や臨床心理士の面談で職員をフォローしてきましたが、精神疾患が原因の病気休暇取得者は全職員約2160人のうち2011~16年度に年間32~50人で推移。新たに発症する職員も後を絶たず、労働環境の改善には長時間労働の現状把握の徹底が必要と判断しました。
 時間外の超過時間の目安は、厚生労働省の資料を参考に健康へのリスクが高まる時間を設定。昨年度は時間外が月平均80時間を超えた職員が24人に上り、最長は月113時間でした。16年9月に再開した市立病院や、同年12月に新築移転した夜間急患センターの関係部署など復興事業に携わる職員が目立ちます。
 そのため9月から膨大な復興事業に追われる職員の働き方改革に取り組んでいます。過度な仕事量やストレスから体調を崩す職員が多く、健康状態をチェックする態勢を強化しました。担当者は 「適切な働き方ができるように各職場の意識を高めたい」 と話しています。
 長時間労働をした職員の所属長に報告を求める態勢を構築。時間外勤務が月100時間か2カ月の月平均が80時間を超えた職員が対象で、所属長が 「過度の疲労感」 「睡眠不良」 「精神的なプレッシャー」 の有無など体調や仕事量に関するチェック項目を確認して人事課に提出します。すると全職員のうち9月は16人、10月は13人が該当しました。
 人事課の冨沢成久課長は 「復興事業に関する過度なストレスや、仕事が進まない焦りで休むケースがある。長時間勤務者の体調管理を職場で徹底したい」 と話しています。

 被災地の他の自治体も同じような状況にあるとおもいます。


 もう一度1月17日付の神戸新聞です。神戸新聞社は15年、阪神淡路大震災の教訓と経験を次世代と国内外に発信する 「6つの提言」 を発表しました。災害への備えを 〈守り〉 と捉えず、社会の在り方を見直し、暮らし、生き方を創造する 〈攻め〉 の契機としようとする内容です。6つは、
  市民主体の復興の仕組みを確立する
  防災省の創設
  「防災」 を必修科目に
  住宅の耐震改修義務化を
  地域経済を支える多彩なメニューを
  BOSAIの知恵を世界と共有しよう
です。提言に基づき、被災地の現状と課題を検証しています。その中の 「市民主体の復興の仕組みを確立する」 です。

 ■市民主体の復興の仕組みを確立する
 ボランティア重要性増す
 被災地の復興は市民が主体となって手掛けていくべきだ。この考え方は阪神・淡路大震災後の東日本大震災や熊本地震の被災地でも主流となっている。
 阪神・淡路では、早く市民生活を再建するため、行政主導の再開発やまちづくりが進められた。だが、住民との意思疎通が十分とは言えない状況も生まれた。
 議論を重ねてきたが、23年を経て今なお課題は形を変え、残る。少子高齢化や東京一極集中など新たな課題も加わり、解決への道のりは容易ではない。
 復興の目標は日常を早く取り戻すことだけでなく、より豊かな暮らしを目指し、模索できる環境を整え、実現させていくことだ。
 それには被災者に寄り添う人たちの力が欠かせない。2013年には改正された災害対策基本法に国や自治体とボランティアとの連携推進が記されるようになり、地域で多彩な活動を展開するNPO法人やボランティアグループの存在は、重要性を増している。
 内閣府によると、全国で認証されているNPO法人は約5万2千団体 (昨年11月末時点)。都道府県別では、兵庫県は東京都、神奈川県、大阪府に次いで4番目の数を誇る。阪神・淡路をきっかけに設立された団体が多い一方で、震災から20年以上がたち解散も目立つようになってきた。
 代わりに、台頭しているのが一般社団法人だ。08年以降、NPO法人に比べて設立や報告の手続きが簡単なため急増。最大の課題だった資金集めについても、自由度の高い事業ができるため、活用する市民グループが相次ぎ、現在では1500以上が県内で活動しているといわれる。
 高まる市民力をどう復興に生かしていくのか。官が示した復興の道筋を、民がただたどる時代ではない。市民の声、意見を復興の基軸に。市民主体の復興の理念を根付かせよう。


 災害はいつ襲ってくるかわかりません。全国で災害を 〈守り〉 から 〈攻め〉 へと捉え返し、1次被害も2次被害も減災を目指していく必要があります。

   「活動報告」18.1.16
   「活動報告」17.10.11
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共同体・海・山を壊す防潮堤
2017/10/11(Wed)
 10月11日 (水)

 東日本大震災から6年7カ月がたちました。復興はどれくらい進んだといえるのでしょうか。仮設住宅にはまだ1万8000人が住んでいます。やむを得ないことなのでしょうか。
 時間が経過するとともに、被災地では当初とは違う問題が発生しています。
 震災直後の2011年6月に政府の中央防災会議がまとめた津波対策に基づいて防潮堤計画が発表されます。数十年から百数十年に1度起きる津波を 「L1」、1000年に1度とされる最大クラスを 「L2」 に分類し、L1を防潮堤で守ることを基本とします。これを基に国交省や農水省などが高さについての通知を出し、シミュレーションをしたうえで各県が地域ごとにL1を防げるよう、高さを決めました。
 防潮堤事業は青森県から千葉県までの太平洋沿岸の計677カ所です。591カ所が岩手、宮城、福島の3県に集中し、高さ5メートル以上の防潮堤は約300キロです。土地の用途によって所管が国土交通省、農林水産省などに分かれ、総事業費は約1・4兆円です。
 工事は住民の意見を聞いて合意が必要ですが、行政が見切り発車の形で着工した例もあります。
 全677カ所のうち、約200カ所は当初計画より高さを下げたり、位置が変更されたりしました。

 15年12月11日の 「活動報告」 の再録です。
 震災後の状況について語る時、「そこ退け、そこ退け防災が通る」 といういい方があるのだそうです。防災という名のもとに住民の意見は無視され、上からの計画が押し付けられます。東日本大震災の場合には防潮堤がそうです。箱モノ、公共事業で建設・土建業界は好景気です。
 防潮堤は、高さの3倍の幅の土地が利用不能となります。例えば、高さが20メートルの防潮堤では、両側で60メートルの範囲内の土地は使用不可となります。高い防潮堤は海の様子が見えなくなり、遮断されてしまうといわれています。さらに海に行くには回り道をしなければならなくなります。生活上だけでなく、精神的にも物理的にも遠くなります。
 宮城県女川町では、国土交通省と県が高さ30メートルの防潮堤を築こうとしました。地元で頑張る被災者と町民は止めさせました。そして海から逃げないで共存しようと 「津波に弱い町づくり」 を続けています。危険と思ったらすぐ避難できる防災対策を進めています。津波の大きさは予測できません。
 中学生たちは、東日本大震災の時に津波が到達した高さに碑を建てました。今度津波が予想されるときはこれ以上高いところに避難しようという標識です。

 3月23日の毎日新聞の 「記者の目」 です。
 「陸と海を分断」 損なわれる景観
 例えば岩手県大槌町の赤浜地区。住民は高台移転を決めたものの県は高さ14.5メートルの計画にこだわった。住民には高い防潮堤によって景観が損なわれるほか、海の変化が見えずかえって危険になるとの声が根強く、県は結局震災前と同じ6.4メートルに変更した。
 震災前よりは高い防潮堤計画になったが、それでも行政が計画より高さを下げた例が宮城県塩釜市の浦戸諸島だ。高さ3.3メートルの計画に一部島民が 「海が見えず、生活にも支障が出る」 と訴えた。過去の津波の痕跡などから、部分的に2.1メートルに引き下げた。
 住民の賛否が割れる中、行政が見切り発車するような形で建設に踏み切ったのが宮城県石巻市雄勝町 (おがつちょう) の防潮堤だ。
 雄勝町の中心部約600世帯は津波に流された。約4カ月後、住民らでつくる 「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」 は、「高い堤防を築かない」 ことなどを盛り込んだ要望書を石巻市長に提出していた。高い防潮堤が 「陸と海を分断してしまう」 が理由だった。一方、市と県は12年3月までに、震災前の4.1メートルの倍以上になる高さ9.7メートルの防潮堤建設を住民に提示。中心部の高台移転は11年秋に住民に示していた。
 住民の意見は割れた。市と県の説明会では 「町に戻りたいけど、防潮堤がないと怖くて戻れない」 と泣いて訴える女性もいたし、「住宅は高台に移転する。いったい何を守るために造るのか」 「海が見えなくなったら、もう古里ではなくなってしまう」 といった反対意見も出た。
 「L1」 対策巡り、行政と識者ずれ
 高い防潮堤には一部住民の根強い反対はあったものの、市側は 「議論がまとまらないと、他の復興が遅れる」 と主張。県は14年6月に 「住民合意は取れた」 と判断し、計画を決定。昨年夏に着工した。
 宮城県の担当者は 「L1は防ぐとの方針がある以上、県民を守るために最大値を想定するのが我々の務め」 と話す。中央防災会議の決定は重いというわけだ。ところが、当の中央防災会議で地震・津波対策に関する専門調査会の座長を務めた関西大の河田恵昭教授 (防災学) は 「L1すべてを防ぐ要塞 (ようさい) を造れとは言っていない。避難路を整備することなどでリスクは軽減できる。地域に合った計画を作れる余地を残した」 と主張する。行政と専門家の間にボタンの掛け違えのようなずれがある。
 かけがえのない家族を亡くしたり、自宅を失ったりした被災者にとっては今も生活の再建こそが最優先課題で、行政も復興を急いでいることはわかる。その意味で防潮堤を巡る議論は必ずしも優先順位は高くないかもしれない。しかし、雄勝町をはじめ各地で住民の反対運動が起きたことを軽視すべきではない。
 677カ所のうち、6カ所は住民が合意しておらず、工事が始まっていない。見切り発車せず、住民と十分に協議して計画を練るよう望みたい。


 防潮堤建設は被災地住民を分断しました。
 9月13日の河北新報、見出し記事 「復興の虚実 (1) 防潮堤 [上] 隔絶された海 賛否が対立、浜を分断」 です。
 東日本大震災の被災地に、復興の理想と現実が交錯する。発生から6年半、崩壊した風景の再建は進んだが、住まいやなりわいの足元は固まっていない。宮城県知事選 (10月5日告示、22日投開票) は、復興完遂に向けた道筋が争点となる。「フッコウ」 の掛け声が響く中、沿岸には被災者の苦しい息遣いとやり場のない嘆きが漂う。
 <「誰も語らない」>
 住民の命を守るはずの防壁が地域を分断し、浜に暗い影を落とす。
 海抜14.7メートル、長さ800メートル、最大幅90メートル。既に表面の大半がコンクリートで覆われた巨大建造物の上を、ショベルカーや巨大クレーンが慌ただしく動く。
 気仙沼市本吉町小泉地区の海岸に、宮城県内で最も高い防潮堤が姿を現しつつある。県は本年度中の完成を目指し、整備を進める。
 「今、小泉で防潮堤の話をするのはタブー。もめたくないから誰も語らない」。建設反対を訴え続けた男性 (50) が打ち明ける。職場の上司から 「防潮堤の話はするな」 とくぎを刺され、男性も外部への発言を極力控えるようになった。
 <しこりは消えず>
 計画が示されたのは2012年7月。「命が大事」 と早期建設を求める賛成派と、環境などへの配慮を求める反対派が対立した。
賛成派で、地域の意見集約に奔走した地元の市議 (55) は 「生々しい津波の記憶が残る中、悩んだ末に出した結論だった」 と振り返る。約20回の説明会を経て県は 「了承を得た」 と判断したが、賛否で生じた地域のしこりは今も消えない。
 国の中央防災会議専門調査会が11年6月に示した提言に基づき、県は数十年から百数十年に1度の津波に対応できる堤防の高さを決めた。「津波から命を守る」 を旗印に建設に突き進む県の姿勢は、しばしば被災地の反発を招いた。
 県が同市本吉町の日門漁港に計画する海抜9.8メートルの防潮堤は、地域住民の反対で着工のめどが立たない。長さ280メートルの防潮堤を築くと、国道から海や港が見えなくなる。
 今年5月に地元の公民館であった説明会。県は2メートル間隔で壁に小窓を設ける修正案を示したが、住民は納得しなかった。地元の漁師 (69) は 「景観は宝。小さな窓では海の様子は分からない。県はわざと騒ぎの種をつくるのか」 と憤る。
 「選択肢がない状況で、住民に是非を迫るのは問題だ」。大谷里海づくり検討委員会事務局長の三浦友幸さん (37) は、県が一方的に計画案を示すやり方に疑問を感じている。
 <歩み寄りに時間>
 三浦さんらは大谷海岸に防潮堤を築く県の計画に反対した。砂浜を守るため、建設位置を内陸に移して国道との 「兼用堤」 とする対案を出し、粘り強い交渉で実現させた。意見集約から交渉まで5年。三浦さんは 「行政と住民が歩み寄り、信頼を築くには時間も必要だ」 と訴える。
 防潮堤に守られる住民から批判を浴び、時に浜の分断を生みながら、県は淡々と整備方針を貫く。各地の浜に出現し始めた巨大な壁が、異論をはね返す。
 気仙沼市議の今川悟さん (42) は 「県にとっては単なる土木事業の一つだが、住民にとって防潮堤は街づくりの一つ。浜ごとの思いをくみ取ってほしかった」 と批判を強める。

 最も強固な防災は共同体の日常的運営です。しかし防災のための防潮堤がそれを崩しています。
 防潮堤に2メートル間隔で壁に小窓を設けるとは滑稽な話です。これで漁民は日和、風向き、波の音、匂いをかいでその日の作業の判断をすることができるでしょうか。しかしすでに作っているところもあります。


 防潮堤建設はこれだけではない問題があります。
「海岸に接する森林は、漁業にとって重要な役割を果たしていた。樹影が付近の水域を暗くすることによって、小魚類には格好の休息の場となり、また敵から逃れる便を与えた。
 樹木の枝葉が落ちて植物質を水面にもたらすため、その腐蝕に伴い魚類の好む水中微生物が増殖した。また、森林中に生活する昆虫類が風雨などで常に海面に落下し、魚類の餌となった。さらに、森林の繫茂は水温を調節し、アルカリ塩類の含有量を増して、海藻類を繁茂させた。そのため、森のそばには魚が集まり、絶好の漁場となったのである (魚附林)。
 樹林に海鳥が棲息・繁殖し、群れをなして魚群の来遊を知らせるため、漁民が森林とともに海鳥を保護している所もあった。また付近の河川からの汚濁した淡水の流入が海水魚を駆逐するのを防ぐために、上流の水源地での森林育成に努めている事例は各地にみられる。このように、海岸近くの森林の存在は漁業の盛衰を左右したのである。
 海岸近くの森林の利用は林業あるいは農業も面からのみ考えるべきではなく、漁業とも深い関係をもっていた。そして、漁業のためには、むしろ農林業的な土地利用を抑制して、森林を保全することが必要なのであった。江戸時代には、漁業と漁民がそれを行なってきたのである。」 (渡辺尚志著 『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』 草思社)

 このことは東日本大震災が証明しました。
 被災地で震災後に収穫した近海ワカメは従来よりいい品質、ホタテの発育もよかったといいます。海底がかき回され海水がきれいになったのと、津波が引いた時に陸から流れ出たプランクトンや栄養素が原因ではないかといわれています。海水だけでは海藻は育ちません。
 陸と海が共存しないと豊漁にならないのです。「森は海の恋人」 です。高い防潮堤は恋人を引き裂きます。

 災害は防ぐことはできません。ですから海と共存しながら 「減災」 をみんなで考えて行く必要があります。

   「活動報告」 2017.6.13
   「活動報告」 2017.4.28
   「活動報告」 2017.4.14
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