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新聞記者の震災取材
2018/01/16(Tue)
 1月16日 (火)

 1月17日は、阪神淡路大震災から23年を迎えます。
 朝5時47分に発生した地震は東京でもはっきりと揺れを感じました。しかし震源地の情報は入りません。関西地方というだけです。はっきりするまではかなりの時間を要しました。被害の情報も同じです。正午過ぎに死者が100人を超えたというニュースが流れました。

 1月下旬、神戸に向かいました。鉄道は芦屋から先は不通です。芦屋の駅前にはがれきが背丈以上に積み上げられ、その間に作られた通路を人びとは行き来します。
 バスに乗って三ノ宮に向かい、廃校になった小学校の避難所に行きました。

 避難所で被災者の人たちとがれきを燃やした焚火にあたっていました。そこに若い新聞記者が取材に寄っていました。ここに被災者は何人いるのか、地震発生の様子はどうだったか・・・。根掘り葉掘り聞きます。
 「私はボランティアなので、私ではなく被災者の方に聞いてみてはどうですか」。それでも質問してきます。記者は怖くて被災者に話しかけられないのです。結局、被災者がいる教室の写真を外から撮っただけで帰ってしまいました。


 真山仁の小説 『雨に泣いている』 (幻冬舎 2015年刊) を読みました。真山仁は小説を書く前は読売新聞社の記者でした。阪神淡路大震災の頃はフリーライターです。
 東日本大震災後を題材にした小説としては、ほかに学校の児童たちを取り上げた 『そして、星の輝く夜が来る』 (14年3月19日の 「活動報告」 参照) と 『海は見えるか』 (幻冬舎) (16年3月9日の 「活動報告」 参照) があります。『海は見えるか』 では自衛隊員の惨事ストレスも取り上げています。

 『雨に泣いている』 の中から新聞記者の任務と惨事ストレスに関する個所を抜き出してみます。

 主人公・大嶽は、阪神淡路大震災の時は若手の新聞記者です。今は東京本社で、東日本大震災が発生すると特別取材班に半分志願して宮城県の被災地の取材に向かいます。

 主人公は阪神淡路大震災の17日、手当たり次第にカメラにおさめながら歩いていると老婦人が 「孫が生き埋めになっているんです!」 と悲壮な声で叫んでいます。何人かが集まって必死にがれきを取り除こうとしていたのでカメラを構えて “助け合う市民の姿” を撮ります。
 「おい、おまえ、何撮ってんねん!」 がれきを撤去していた若者にいきなり掴みかかられ、名乗ると拳で殴られました。呆気に取られていると目の前にショベルがつきだされます。「取材も大事やろうけど、その前に救出ちゃうんか」
 がれきに埋もれた小学校4年生の少女を地域の人たちと一緒になって救助作業を続けて6時間後に救出します。少女はかすり傷を負った程度で大きなけがはしていませんでした。それを取り上げた記事は、翌日の朝刊に写真と共に載ります。
 しかし少女は後頭部を強打したことによる脳内出血で急死します。翌日、掲載紙を渡そうと避難所に行くと伝えられます。
 3日後に少女がなくなったことを記事にします。
 その日から主人公は記事の恐ろしさに耐えられなくなります。
 「その場限りの軽はずみな “美談” を作り上げるから、悲劇をおおきくするのだ」
 震災で被災者に迎え合えなくなり、ついには取材という行為そのものが怖くなってしまいます。

 その後の記者の行動です。
「阪神・淡路大震災を取材する中で一時期、遺体安置所の前に立ち、行き交う人たちに謝り続けたことがある。
 そうしなければならないという強迫観念に追い立てられて、遺族らに気味悪がられても、市の職員に追い払われても同じ行動をくり返した。
 それをからかった先輩記者との大立ち回りの後、私は千葉の実家に強制送還された。結局、神戸支局には戻れず、岡山県の通信局に異動になったのだ。
 その後、岡山支局で県警担当となった頃、阪神淡路大震災の時に遺体安置所だった場所を訪ねた。だが、すでにまったく別の公共施設が建てられていた。
 それでも当時の名残を求めて、一時間ほどさまよい、遺体安置所があったと記された小さな石碑を施設の中庭の片隅に見つけた。
 持参した花を供えて両手を合わせ、二度と同じ過ちを繰り返さないと固く誓った。ただ、それで禊が終わったとは思わなかった。もし、また同じような大震災が起きた時、自分はためらわず被災地に出かける、とも誓った——。」
 
 この界隈はボランティアでいった避難所の近くです。

 主人公が東日本大震災の被災地で他社の記者と言い争いになった時に答えます。
「記者の仕事は、被災者に同情することじゃない。どれほど相手が悲しみに暮れていても、何が起きたかを聞きださなければこの惨状は伝えられない。安っぽいヒューニズムなど不要だ」
 15日に書いた記事です。
「・・・ありのままを記事にすることは不可能だ。
 ただ一つ、記者がこの地でくじけそうになる時に心の中で繰り返す言葉がある。
 言葉を失ってはいけない。とにかく目に映るもの、聞こえる音、声、匂い、そして何より、それでも生き続ける被災者の息遣いを伝えるのだ。・・・」


 主人公と一緒に東京本社から東日本大震災の被災地の支社に入った若い記者・遠藤がいます。乳飲み子の子供がいて、出かける準備のために自宅に戻ると妻に反対されますが振り切って被災地に向かいました。
 宿舎の主人公の部屋にアルコールをかかえて訪ねてきます。2人の会話です。

「実は我ながら情けないんですが、今日、荒浜に立ち寄ってから何を取材すべきなの分からなくなって・・・」
「こんな場所に来たら誰だってそうなるさ」
「そういうレベルじゃないんです。どんな状況であっても、伝えるべき筋を整理して出稿するのが記者の本分だと思うんです。でも、僕は器用じゃないんで」
 それは私だって同じだ。何を伝えるべきなのか。記者である限りずっと悩み続けると思う。
「見て感じたままを字にすればいいだろう。大震災を前にして、いい記事を書こうなんて思わないことだ」
 自戒を込めて言った。
「実は、ここに来ることになった時に、良いことだけを記事にしよう、って決めたんです。でも良いことなんか見つかりそうもなくて。こんな絶望を日本国内で目の当たりにする事態なんて、まったく考えたこともなかったんです。なのに良いことを探そうなんて能天気な自分が情けなくて」
「いいじゃないか、それで。どうせ皆、鵜の目鷹の目で悲惨話を貧るんだ。最初からいい話だけ追いかける奴がいるのは素晴らしい。それが遠藤らしくていいよ」
 からかっているつもりはない。震災が起きたからといって、無残だ、悲惨だのと連呼する必要はない。……
「良い話を書くのは、きれい事じゃないだろう。歯を食いしばって生きようとする被災者の姿を伝えるのは、俺たちの使命の一つだ」
遠藤だってそれくらいは理解しているはずだ。それでも、圧倒的な破壊を前にして、途方に暮れてしまったのだろう。
「おれは使命感を持たないことにしている」
「どういうことです」
「目の前で起きていることを伝える。結果として、それはバッドニュースかもしれないしグッドニュースかもしれない。だがそれを判断するのは俺の仕事じゃない。余すところなく被災地の現状を伝える。それ以上は考えない」

 主人公と若い記者は別の班で行動します。
 後日、主人公が支社のデスクに問います。
「遠藤はどうしています?」
「東京に返した」
 耳を疑った。
「何かあったんですか?」
「俺が訊きたいよ。2日目の朝に、ホテルの部屋から出てこなくなってね。もう取材ができないって泣くんだよ。それで支局長と相談して帰したんだ」

 この若い記者は東京に戻って、被災地にあった特ダネを追跡する任務に就かされます。被災地から意識を離すことが許されません。

 主人公はもう1人の若い記者・細川と一緒の行動をします。
 かつて町があった場所まで来ると、誰もが黙り込んでしまった。……
 遺体を乗せた担架が横を通り過ぎた。来た方向を見遣ると、うずたかい瓦礫の山がある。自衛隊に礼を言って、そちらに向かった。
「記者さん、危険です」
 だが、足を止めなかった。あるものを瓦礫の間に見つけた気がしたからだ。……
 人体の一部だ。
 「二体あります!」 と自衛隊が声を張り上げると、他の自衛官が集まってきて、がれきを丁寧に脇に払う。やがて、人の形をした泥の固まりが現れた。
 さすがにカメラを構える時に一瞬躊躇したが、結局はシャッターを切った。
 二体目は子どものようだ。しかも、損傷の程度が尋常ではない。作業する自衛官の動きも止まっている。現場にいる自衛官は皆若い。平常心を保つのが辛い作業だった。
  ……
 地獄――軽はずみには口にできない言葉が浮かんだ。それは取材する者が使ってはいけない禁句だ。
 何も考えず手当たり次第シャッターを切った。我に返ると、足取りが重くなったのを感じた。
 タクシーに戻ると、細川が車の横で呆然と立ち尽くしている。
「何をしている」
「すみません、足が動きません」
 軽く彼の背中を押した。よろめくように細川が数歩動いた。
「遺体確認をしている住民から話を聞いてこい」
 怯えたように細川が激しく首を左右に振った。
「無理です。そんなこと、僕には無理です」
「ここに何しに来ている。おまえがここでやることは、聞く、撮る、書くことだけだ。それが嫌なら、仙台に戻れ」
 細川は泣きそうな顔になった。

 この記者は被災地に留まって取材を続けさせられます。


 3人の記者とも、“地獄” を見て体調不調におちいりました。これらは実際にあったことを題材にしていると思われます。
 しかし作家は、記者らは現場に戻って・留まって取材をするなかから自信を回復するという展開をさせます。“言葉で伝える”記者魂を現場で鍛え直すという手法です。
 はたして、作者がモデルにした新聞社のこのような対応は正しいといえるでしょうか。根性主義では逆に隠れた体調不良者が続出しているはずです。さらに体調は悪化し、退職者も続出します。記者がかわいそうです。
 “弱い”からこそ心がこもった記事が書けるのではないでしょうか。
 あえて小説に異議を申し立てたくなりました。
 東日本大震災で新聞記者もストレスを感じたり体調不良に陥ったという体験をたくさん聞きました。新聞社によって対応は違っていました。

 震災の教訓は、被災者だけでなく、救援者・支援者を含めて被害を小さくすることです。
 体調不良は、異常事態における正常な反応です。

   「報道陣の惨事ストレス対策」
   「活動報告」15.3.20
  「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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東日本大震災で自治体労働者がおかれた状況 (惨事ストレス)
2017/11/28(Tue)
 11月28日 (火)

 第21回ワンコイン講座は、「災害時における自治体労働者が被るストレスへの対策は」 のテーマで東京医科歯科大学大学院保健衛生学研究科博士課程の菅原千賀子さんから調査・研究を報告してもらいました。
 菅原さんは、宮城県気仙沼市出身で、2011年3月11日の東日本大震災の時は、テレビをつけたら自分の生家が津波で流されているシーンが映りだされたといいます。
 大学3年生のときで、すぐに気仙沼市に個人として医療支援に駆けつけます。周囲には 「大丈夫? 何かやるなら応援するよ!」 という仲間が気づけばたくさんいて、その声に押されてできることをやってみよう! という思いだったといいます。2トントラックに準備敷材と仲間が寄せてくれた支援物資が入った段ボールと一緒に荷台に乗って出発しました。段ボールにはたくさんのメッセージが書かれていました。
 水産業と観光で栄えていた気仙沼は、地震・津波・津波火災で大きな被害を受けていました。被災家屋は26.105棟 (全体の40.9%)、被災世帯数9.500世帯、死者数1.033人、行方不明者数215人、17年6月30日現在の震災関連死は108人です。

 市役所に設置されたDMAT (災害急性期に活動できる機動性を持ったトレーニングを受けた医療チーム) に登録し、1つのグループとして活動を開始します。
 市役所にも診療所が開設されました。市役所職員が訪れます。汚泥が埃になって目がやられていました。
 活動は避難所を回りましたが診察すると血圧が200を超える避難者もいました。

 診療所には女性は来ますが男性は近くにあっても来ません。
 3月27日から、市役所職員の健康調査を健康診断問診票を作成し、巡回して開始、31日まで続けました。
 その後も何度も訪問しました。

 12月にも市役所職員 (20代~60代) 219人について、調査者が各部署を訪問し、調査票を配布し、同意を得られた職員が質問紙に記載を終えた後、血圧を測定しました。調査票の項目は、1.性別、年齢、2.血圧薬内服状況、3.個人の被災状況、4.気分障害の有無、5.就労状況 (3月/12月)、6.睡眠状況 (3月/12月)、7.3月の体調変化の有無と対処状況、8.血圧測定です。血圧は、緊急事態に遭遇しても6か月で戻ります。初動支援のあり方について示唆を得るために実施しました。震災直後は多くの職員が高い状況でした。

 対象者の属性・被災状況です。
 男性153人 (69.9%)、女性66人 (30.1%)です。年齢は、10代から20代9.2%、30代43.7%、40代25.6%、50代から60代30.6%です。
 自宅被害あり52.1%、避難所生活の経験あり26.9%、住居変更あり25.6%、近親者を亡くした人的喪失あり73.5%です。

 3月/12月の震災対応・夜勤業務と睡眠の比較です。
 災害対応業務の状況は、半々以上が3月92.7%、12月46.6%です。夜勤業務ありは、半々以上が3月74.0%、12月46.6%です。睡眠状況は、眠れるが3月24.7%、12月76.3%です。
 2週間の休日・超過勤務の状況です。
 超過勤務20時間以上54.3%、休日取得は2日以上56.6%です。

 気分障害の有無についてです。
 うつ病・不安障害のスクリーニング調査を使用して、絶望感や憂鬱感等など6項目について0点から4点までの5段階から選択します。0点から24点の合計点が高いほど気分・不安障害が高くなります。中央値は7点でした。
 0~4点31人、5~9点35人、10~14点23人、15~19点8人、20~24点3人でした。
 7点以上との関連については、・人的喪失、・3月、12月の災害対応業務あり、・3月、12月の不眠あり、・12月の深夜業務あり、・20時間以上の超過勤務あり、震災時の体調変化あり、があげられます。

 調査対象者の血圧分布です。
 06年の国民栄養調査の分布は、正常者40.3%、正常高値者14.5%、高血圧者22.6%、高血圧内服者22.5%です。これとの比較です。
 3月は、正常者38.7%、正常高値者20%、高血圧者33%、高血圧内服者8.3%です。
 12月は、正常者27.9%、正常高値者18.3%、高血圧者42.5%、高血圧内服者11.4%です。
 3月と12月共に測定した職員は143人いました。その傾向は、3月の正常者が高血圧者や正常高値者に移行しています

 3月における体調の変化と受診行動です。
 体調変化はあった64.8%、なかった35%ですが、なかったについての理由は、それどころでなかったなどです。時間がないなどで機会がつくれませんでした。体調の変化があった職員の中で、受診行動については受診した27%、受診しなかった38%です。受診した医療機関は仮設診療所が圧倒的に多く、他は市立病院、その他の医療機関です。

 調査から見えてき血圧変化についての結論です。
 ・災害急性期は適切な健康行為が困難になるため、自治体職員を対象にした仮設
  診療所を設置し、健康相談・スクリーニング等の支援を行うことが有効である。
 ・被災地の自治体職員は、災害直後よりも9カ月経過した時点の方が血圧値が上昇
  していた。特に、中高年男性に上昇者が多く、災害対策業務が継続している特性を
  踏まえ、看護職者が職場に出向き長期的な支援を行う必要がある。


 東日本大震災以降~2016年にかけての新聞記事の見出しを追ってみました。
 2011年9月19日の朝日新聞です。「被災地市町村職員の病休増」 「過労でストレス」
 2013年3月8日の朝日新聞です。「被災42市町村 休職400人超す」 「新年度600人足りない見込み」
 2014年7月27日の毎日新聞です。「被災47市町村 震災理由に106人退職 本社調査 心身の疲弊深刻」
 2016年3月4日の神戸新聞です。「精神疾患の休職1.6倍 39市町村 復興、原発事故で疲弊」
 時間が経過しても深刻さは続いています。
 被災地自治体職員の健康問題による影響は、職員不足を深刻化させ、被災地の復旧・復興を妨げるだけでなく、被災地に暮らすすべての人々に影響を及ぼしています。
 これまでの研究でも、災害発生後、被災地自治体職員の健診データの変化においても、心血管系イベント発症を懸念する結果が表れています。
 メンタルヘルスへの影響についても、発災後、抑うつ・PTSDや精神的ストレスが上昇しています。


 被災地が生活圏である職員は自らも被災しながら災害対策事業に従事し続けなければならず、その状況が長期に及ぶことは心身に大きな影響を及ぼします。
 東日本大震災において災害関連業務に従事した被災地自治体職員に体験を語ってもらいました。
 インタビューの内容は、①当時の担当部署、役割 ②発災後の行動 ③発災後の業務内容とその期間 ④発災後、つらかったこと ⑤当時の自宅や家族状況 ⑥体調の変化の有無 ⑦うれしかったこと、 救われたこと ⑧他の自治体職員に伝えたいこと です。

 その中の40代の防災担当課職員の体験談の要旨です。
「(発災時すぐ) これは遂に想定されていた宮城県沖地震きちゃったなと。これは長くなるなということで、あと覚悟を決めて、やることだけ淡々とやっていくか……と。」
 同僚たちが現実離れした光景を目の当たりにして驚いている様子を横目に、覚悟を決めて災害本部設営に奔走しました。一方で刻々と変化する想定以上の浸水にとんでもない被害を予感し、恐怖をおぼえます。
 妻の安否に関して、気にする余裕さえなく、津波に流された実父が偶然助かったことを知るが、実際両親と会ったのは2、3カ月後のことでした。両親が自分が生きていることに涙を流して喜んでくれた際、気を配れる精神状態になかった自分を振り返り、“マシーン” と称しました。
「妻のことを言ったら怒られそうだけど、´大丈夫だろう。ダメだったらダメだろうし`くらい……。叔父が千葉からガソリンもって来てくれて…ここ (職場) にきて 『良かった…』 って泣きながら顔見てくれましたけど… 『はいはいはい。今忙しいから…また後でね』 って (笑) せっかく来てくれたのにひどいね。こっちに追われて、あんまり家族まで気にしなかった…。」
 日々明らかになる死者数に、防災教育に従事していた者として不甲斐なさを抱きつつ、業務に従事していました。地域住民と共にきめた避難場所に住民が避難したがために90人がなくなったことを後日知ります。上司はその被害に茫然自失となり1年後辞職しました。
「こいず防災担当もっと…なんか出来ることあったんじゃないかな…っていうのが、つらかったですかね…。」

「(半年後、異動を命じられた際は) 感情的には、がぐーって感じでしたね。まだやることはいっぱいあるのにって。……(振り返ると異動は) 良かった…のかもしれません。」
 今振り返ると異動により苦情を請け負う機会が減少し、心身の健康が保たれたと考えています。異動後の業務は災害対応よりハードであったが、同様の業務をこなす上司を間近かに懸命に従事しています。
 健診を受診したのは震災後3年経過し、´時間がとれる` と自覚してからでした。それまでは全部A判定だったのですが初めて肝臓がE判定でいた。1回病院に行って 「まあ、まだ大丈夫でしょう」 と言われて継続受診はしていません。震災後、1日3本栄養剤を飲んでいたことが原因と考えました。体力を保つため過剰摂取はだめと知りつつ飲んでいました。
「(遺体処理を) 職員に頼んでしまったけれども、それが心に引っかかったり残ったりしていなければいいな…と思いながら。……今、結構いるんですよ。役所で入院している人。そうなってもおかしくないのかな…って思いますね。」
 自分自身は市民から直接叱責を受ける立場にはなかったことを考え、今なお復興計画に従事している職員はまだ心苦しい状況が続いていることを、推し量っています。

「(全滅した地区の) 自治会長さんが何か月かして会った時に 『Aさんと課長と一緒に防災取り組みやってくれたおかげで、うちの地区でも助かった人いっぱいいたんだよ』 なんて言うのを聞いて…そういうんで報われた。心助けられたんだかもしれないですね。」
 震災前の地震の活動を肯定されたような思いに至ります。また様々な支援者・慰問者の前向きな提案に感動し、それだけで労が和らぎました。また、支援者の活動により子どもが活気づき、笑っている市民の笑顔に自身も癒されました。
「うちは本当に日本中、世界中からお世話になっているんで、せめてそういうのをお伝えして、防災対策に本気になって役立ててもらうための、一助になれば…それが被災自治体としての責任かなと。失敗事例もいっぱいありますから。」
 自治体の人びとに伝えたいことは、災害対策業務に従事するために、心身ともに健康で信念を持ち、前を向き続ける力がひつようであること、貯えの大切さです。


 体験から得られた示唆です。
 発災後、自治体職員は自身の生活を顧みることもままならないなか、その使命感から住民対応を優先し、職務に従事し続けていました。いっぽうで被災者や同僚と自身の被災状況を比べ、職務中に自身の感情を吐露することをさけ、家族と共に過ごすことができない境遇に対し負い目を感じていました。
 そのような中で被災者や市民、時にはマスコミから非難された経験を有し、やるせなさや疲弊感を感じていました。
 これらのことから、被災自治体職員の心理的影響は遅発性となりやすく、被災ストレスの遷延化を生じやすいと考えられます。また職務の尊厳を喪失する可能性も有すると考えられます。

 震災関連業務と通常業務が統合することにより被災地自治体職員の業務負荷は急激に増大し、加えて職員の被災や転居、病欠等により、慢性的で深刻な職員不足の状況が5年以上継続しました。
 終わりの見えない業務過多のなか、震災関連業務に従事し続けることで、定期検診を受診する機会を容易に逃したり、健診結果に問題が生じても適切な受診行為に繋げられていないことが考えられます。

 一方で、過酷な災害関連業務に従事しながらも自治体職員としてのキャリア形成を遂げていたことを語った職員もいました。
 その過酷さを支えたものとして
 ・自治体職員としての気構え
 ・協働した同僚の存在
 ・他者からの容認
 ・被災者の自立と復興・未来を信じる
などの要素がありました。


 まもなく震災から7年を迎えます。
 震災からの教訓は忘れることなく活かし伝承していかなければなりません。
 災害は防ぐことはできませんが、被害は減らすことができます。

   「自治体労働者の惨事ストレス対策」
   「活動報告」 2017.8.1
   「活動報告」 2017.3.10
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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米軍は米兵を殺し、傷つけている
2017/09/12(Tue)
 9月12日 (火)

 9月11日で、東日本大震災から6年半を迎えました。
 被災地の復興は道半ばです。

 そして、9月11日は、2001年の米国同時多発テロから16年目です。
 9.11以降、米軍はアフガニスタンやイラクで対テロ戦を展開しましたが6900人以上の米兵側死者を出しています。
 2016年8月、米退役軍人省は、元兵士たちの自殺に関する調査結果を発表しました。2014年は一日平均で20人で、自殺率は一般市民より21%高い数字です。そのうち65%が50歳以上で、大半はベトナム戦争に従軍していました。若い時には何とか心の傷を抑え込んでいても、高齢化によって友だちを亡くしたり、仕事を失ったりすると、精神的にも肉体的にも耐えきれなくなるといいます。死に至らずとも、心に深刻な傷を負った元兵士がたくさん出ています。

 9月6日のYahooニュースはフリージャーナリストの大矢英代さんの 「『対テロ戦』 に参加の元米兵 “心の戦争” 終わらず」 を掲載しました。9.11以降、精神を破壊された元兵士たちの 「心の戦争」 を追っています。

 元海兵隊員マット・ホーさん (44) は、イラクに2004年と2006年の2回、アフガニスタンに1回、計3回派遣されました。その頃は想像もしていなかった悪夢が現実になります。最後のアフガンから帰国して8年、今も心から戦争を追い出せないでいます。
 戦場ではホーさんは何百人もの “敵” を殺しました。「考えるとおかしくなりそうだと」 といいます。
 そして今、夢にうなされ、夜中に大声をあげて飛び起きます。睡眠不足が続き、まともな日常生活も送れず、治療薬を手放せません。
「誰かが殺されるのを止められない。僕の体が動かない。ライフルを持っているのに、発射できない。引き金を引こうとしても動かないんだ。そしてもう一つ。僕が誰かを殺している。素手で殺す。時々は、僕が知っている人を、だ」
 「戦争は、精神も感情も魂も粉々に破壊する」 といいます。

 ホーさんは24歳の1998年、国の役に立つことをしたいと海兵隊士官学校に入隊、軍人としてエリートも道を歩みます。
「(士官学校では) 上官への返事が 『イエッサー (Yes,sir)』 じゃないんだ。『食堂に行け』 と命令されると、僕らは 『Kill! (殺せ!)』 と叫ぶ。『食べろ』 と命令された時も 『Kill!』、食事が終わって 『片付けろ』 にも 『Kill!』。人を殺す訓練を徹底的に受けるんだ」
 13週間の初年兵訓練を終えて尉官になり、その後、海外任地につきます。2000年から3年間、沖縄県名護市辺野古の海兵隊基地キャンプ・シュワブに所属します。そのころは 「米軍は世界一だ」 と思っていました。
「あの頃は毎日忙しく仕事して、毎日忙しく遊んでいた。それでうまくいっていた。ただ命令に従っていたんだ。物事を深く考えなかった。まだ何も失っていなかったし、まだ何も見ていなかったんだよ」

 9.11が起きます。
 ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機2機が突っ込み、超高層ビル2棟が崩壊されました。国防総省 (ペンタゴン) にも旅客機が突っ込みました。国内は急速に 「報復」 「対テロ戦争」 に包まれていきます。
 当時のブッシュ政権は国際テロ組織 「アルカイダ」 によるテロと断定し、テロ組織の温床になっているとして、イスラム組織 「タリバン」 が政権を握るアフガニスタンに侵攻します。2003年には 「大量破壊兵器を保持している」 としてイラクにも侵攻します。
 ホーさんは振り返ります。
「悪のタリバンを倒して、民主的な政治を築く。(イスラムの) 女の子たちが教育を受けられる……すばらしい、単純な筋書きだった。多くの米国市民は、9.11にイラク人が関わっている、と信じていたしね。当時の米国はとにかく、興奮していた。恐怖とリベンジと興奮だよ」

 イラク戦争が始まった2003年3月、ホーさんはペンタゴンで内勤でした。戦死した兵士たちの遺族に 「お悔やみ」 の手紙を書く仕事をしていました。オフィスのテレビが戦場を映しています。彼はその時、焦った、といいます。フセイン像が倒れる様子も見ました。
「(その場にいなかったことが) 悔しくて、失望して、イライラして。このままじゃ戦場に行けない、って。焦って。他の同僚たちも同じさ。だからすぐ、戦闘部隊の交代要員に応募したんだ」
 希望が通り、彼は2004年と2006年の2回、イラクへ行きます。「本当の戦争」 を知ったのは、2回目のイラク行きでした。所属はエンジニア部隊です。任務は道路や建物などに仕掛けられ爆弾の発見と処理でした。
「道路や建物などに仕掛けられたIED (手作り小型爆弾) や爆発物、それらの処理が僕の任務だった。何しろ、IEDに引っ掛かったら一瞬だ。大爆発。閃光、爆音、粉塵。周囲の全員に衝撃が走って、しばらくすると、やっと、誰が殺されたのかが分かるんだよ。戦友が死んでいるんだ、血を流して。ヘマをすれば仲間が死ぬ、自分も殺される」
「自分がしくじれば、友達が死ぬ、自分が死ぬかもしれないという恐怖、それ以上に怖いのは自分のせいで誰かが死ぬことだった

 イラクで米軍は各所にチェックポイントを設けました。街との出入り口にあり、車は一定の低速で走らなければなりません。敵の移動や武器輸送、不正な資金移動などを阻止するためで疑わしい車両は捜索対象になります。
「僕らは……(そこで) 何百人も何百人も殺したんだ。何百人も、何百人も、何百人も殺した。考えただけでおかしくなりそうだ……。家族と一緒に自宅に帰ろうとしていた人、友だちのところに行こうとしていた人が (米兵によって) 命を奪われたんだ。なぜ、あんなことが起きたのか? ただただ単純な理由だった。なぜなら……止まるべき地点で止まらなかったり、ゆっくり走っていなかったり、と。(彼らが攻撃してくるんじゃないかと) 米兵自身が怖くなったんだ。あるいは、単なる誤解だった。海兵隊員はアラビア語が分からない。イラク人は英語が分からない……そして戦争だ。僕らが2003年イラクに攻め込んでいた」

 2007年9月、ホーさんは2度目のイラク派兵から帰国します。変調はここから始まったといいます。海を見た時、突然、イラクで溺れ死んだ友人の映像がフラッシュバックして現れたといいます。「彼を助けられなかった。ひどい罪悪感があるんだ。それが蘇ったんだ」
 それから心の中の戦争が始まります。自分の中には悪魔がいるといいます。ふさがっていたはずの傷口が一気に開いたのかもしれません。
 殺されたイラク人、殺されるかもしれない、仲間が死ぬかもしれないという恐怖。次から次に 「死」 が出てきます。「あれから元に戻れない。人生が変わったんだ。酒、自殺願望。状況は良くならず、もう 『戦争と縁を切るしかない』 と」

 軍隊を辞めても、心の中での戦いは終わりませんでした。常に周囲を警戒し、人と目を合わすことができません。室内では 「入り口から武装した人が入ってくるのではないか」 という恐怖を感じ、脱出用の出口をいつも探します。
 アルコール中毒になり、自殺を図ったこともある。その後、専門的なセラピーを受け、投薬治療が始まりました。今も中枢神経への注射を定期的に続けています。


 ホーさんのような苦しみは、実は多くの元兵士たちに共通しています。
 今年8月中旬、元兵士たちでつくる 「ベテランズ・フォー・ピース (VFP)」 (平和のための元軍人の会) の年次総会がシカゴで開催されました。団体は1985年に設立され30年以上の歴史を持ちます。今年は国内外の120支部からメンバーが集まり、過去の経験に苦しむ男性も参加していました。
 シカゴ出身で、9.11をきっかけに入隊したという元陸軍兵、ローリー・ファニングさん (40) は 「僕は次の911を止めたくて入隊したのに、実際には戦場で一般人を犠牲にしてしまった。その結果、次のテロリストを生み出したんだ」 と訴えました。
 元米海軍士官のファビアン・ビオチレッテさん (36) は 「全ての元兵士たちはPTSD (心的外傷後ストレス障害) を抱えている。簡単には治らない」 と語ります。2003年から第7艦隊の横須賀海軍基地に所属し、2004年にイラク戦争に参戦。しかしこの戦争に正義はない、ビジネスのための戦争だと感じ、自ら除隊したといいます。
「僕も未だに軍艦の夢を見る。再入隊させられる夢も見ます。時に強烈なものもある。自分だけじゃない。みんな、幻覚や妄想に苦しんでいるんだ。いつも周りを警戒してきょろきょろしたり、危険なものはないかを確かめたり。リラックスなんか、できません。いつも緊張状態にある。あの戦争を経験した元兵士たちは、背後が怖い。だから椅子に座るときには、壁に背中をくっつける。そうしないと安心できないんです」

 VFPのPTSD専門チーム、サム・コールマン主任によると、これら戦争のトラウマ体験に基づくPTSDに加えて、元兵士たちは 「モラル・インジャリー (良心の傷)」 に苦しんでいるといいます。
「間違いを犯したという罪悪感。人間は、互いに信頼し合い、互いに守り合う社会的な動物です。共感、同情、協力という能力があります。戦場にはそれがないから本能で苦しむ。また、『この家に敵がいる、襲撃しろ』 と命令されたのに、実際には一般家庭だったとか、そういう状態が続くと、絶望感が生まれます」

 ビオチレッテさんは社会の無関心も元兵士を追い込んでいくといいます。
「軍隊を辞めて、リアル・ワールドに帰ってきたら、もう誰も戦争になど関心を持っていませんでした。多くの税金は軍事に使われるのに、誰も気にしていない。だから、多くの元兵士が胸に秘めているのは、怒り。怒りだと思います」


 米当局によると、9.11の実行犯の大半はサウジアラビア出身者で、アフガンとは無関係でした。イラク戦争の開戦理由だった 「大量破壊兵器」 は見つかりませんでした。後になって知ったそれらの事実に、ホーさんは苦しんできまし。いったい、何のためにイラクの市民、米軍の仲間は殺されたのか。何のための戦争だったのか。
 2007年PTSDを発症し、アルコール中毒になり、自殺未遂をします。
 2016年2月、彼はトラウマ性の脳障害と診断され現在も投薬治療を続けています。
「正義の戦争は全て嘘だった。僕は豊かな道徳心があると思っていたし、自分でいい人間だとも思っていた。けれど、僕は間違ったことをしたんだ。道徳的な人間になろうとしても、いい人間になろうとしても、もうなれないんだ」
「死んでから何日も放置されている子どもも見たよ。海兵隊員が撃たれるのも見た。うめき声、白目……。ある時、イラクの街中を歩いていると、女性が僕を見ているんだ。その目に映っていたのは……憎しみだ。あんな憎しみの顔、僕は見たことがなかった。心から僕を憎んでいた。たぶん、僕らが彼女の子どもを殺したんだと思う。それが戦争なんだ。でも、それを支え続けることは間違っている」

 テロとの闘いの開戦から16年、戦争の終わりはまだ見えていません。
 アーリントンの国立墓地には40万人の兵士が眠っているといわれますが、緑の墓地の用地がまだまだ広く広がっています。米国はさらに自国の兵士を殺し続けるつもりなのでしょうか。


 平和のための元軍人の会は2015年12月に沖縄を訪れました。辺野古を訪れ、新基地に反対する座り込みにも参加しました。現役米軍兵士たちに向けてプラカードを掲げました。
君たち米軍はぼくの民主主義を殺している (Your Military is Killing My Democracy)


 1965年に沖縄からベトナム戦争に出兵し、PTSDにり患して帰国したアレン・ネルソンは、その後反戦運動を続けます。(2014年1月7日の 「活動報告」)
 日本にもなんどもきて平和活動への参加、講演を行っています。
 1998年2月、大分・日出生台での海兵隊の実弾演習に対して、早朝、地元のメンバーとゲート前で抗議行動をおこないました。その時、ハンドマイクを握り、自衛隊演習場内にいる若い海兵隊員に向かって、アレンさんは、静かに呼びかけました。
あなた方は人を殺してはならない。そして、あなた方も死んではならない。武器を置いて家族のいる祖国へ帰ろう」。

   「軍隊の惨事ストレス」
   「活動報告」 2016.7.5
   「活動報告」 2015.10.9
   「活動報告」 2015.7.3
   「活動報告」 2014.1.7
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まず自分を守ること
2017/08/01(Tue)
 8月1日 (火)

 地球の温暖化のせいなのかはわかりませんが異常気象がつづいています。
 7月5日、福岡、大分県を襲った九州北部豪雨は土砂崩れも発生し36人の死者をだしました。追い打ちをかけるように台風が襲いました。
 6日、大分県日田市では警戒活動に従事していた消防団員が土砂崩れに遭いました。地域を回って周囲に避難を呼び掛け高齢者を避難所に運ぶなどの活動をしていました。いったんは公民館に避難しましたが被害の状況を確認しようとして出かけました。

 5月4日、横浜市で、消防団員のあり方を考えるシンポジウムが開催されました。東日本大震災のときに岩手県宮古市田老地区での救援活動で指揮をとった2人の消防団員が報告をしました。
 教訓として 「逃げることは恥ずかしくはない。生き抜くことがいかに大切か」 「津波のときにはとにかく自分の身を守るということが大前提。自分を守らなければ、人は助けられない」 と語りました。
 そして心身の疲弊を懸念し、交代で休みを取れるよう特別な部隊編成に見直すとともに、臨床心理の専門家によるストレスチェックを受けられるよう消防署と掛け合ったことも披瀝しました。
 東日本大震災では、地震が発生すると消防団員は水門を閉めに海のほうに走った、地域住民に避難をよびかけてまわった、1人では避難できない住民と一緒に避難をして波に巻き込まれたなどの話をたくさん聞きます。250人の消防団員が亡くなっています。

 東日本大震災のあと消防団のあり方の議論が進んでいます。そして消防団員だけでなく防災の議論も進んでいます。
 15年3月20日の 「活動報告」 の再録です。
「『階上中学校といえば 「防災教育」 といわれ 内外から高く評価され 十分な訓練もしていた私たちでした。』
 しかし東日本大震災で3人の卒業予定者を亡くしてしまいました。
 階上中学校では震災前は3年間の間に 『自助』 『共助』 『公助』 のサイクルで防災訓練を行ってきたといいます。
 震災を経て防災教育の見直しをしました。何よりも自分の命を確実に守ること、それが多くの人の命を守ることになるという確認をしました。その結果、『自助』 『自助・共助』 『自助・公助』 のサイクルで、『自助』 を基盤にした防災学習に変えました。
 「とにかく自分の身を守る。自分を守らなければ、人は助けられない」 です。

 東日本大震災のとき、消防団員は震災後も避難所の運営などにたずさわりました。
 全国から駆け付けた救援部隊による捜索活動には地元の地理と状況を知っているということで水先案内もおこないました。捜索活動は知っている方の遺体にもであいました。しかしたずさわっている任務が優先です。個人的行動は後回しです。
 このようなことは今回の災害においてもそうだったと思われます。しかし救援活動にたずさわる人たちもくれぐれも 『自助』 『自助・共助』 『自助・公助』 を心にとめてほしいと思います。


 朝日新聞は 「てんでんこ 皇室と震災」 を連載しました。その6月6日の記事です。
「陸上自衛隊東北方面総監の君塚栄治さん (15年死去) は宮城県東松島市の松島基地で両陛下を迎えた。
 かつて君塚さんに取材したとき、印象深かった話がある。『遺体の扱い』 だ。3月14日に被災地の陸海軍の統合任務部隊指揮官に任命された際、当時の北沢俊美防衛相 (79) に 『ご遺体は生きている人と同じように、丁寧に扱ってください』 と言われたという。
 君塚さんは大臣の言葉を部下に伝えるにあたり 『自分の家族と同じように』 と言い換えた。『被災地の現場に行くのは18歳から20歳の若者。身近に死体を見る経験もない隊員たちにもわかるように説明する必要があった』」

 防衛相の発言は間違いで危険です。
 この発言のテレビニュースを消防団員の方と一緒に見ていました。
 彼は間髪を容れずに 「この対応は間違い」 と叫びました。「ご遺体は生きている人と同じように、丁寧に扱ってください」 の対応をしていたら、救援者は持ちません。
 防衛相は背広組ですから実際の対応方法がわからないこともあります。しかし制服組の幹部も同じ発言をするとは驚きです。消防団では周知されていることを自衛隊では幹部が知りません。

 11年4月22日の 「活動報告」 の再録です。
「米軍の制服組を養成する学校には遺体を扱うときの留意事項が列挙されたマニュアルがあります。『遺体が救援者に引き起こす気持ちの変化:救援者向けパンフレット』 として防衛医科大学の医師が翻訳しています。日本でも消防庁では活用されています。(加藤寛著『消防士を救え!』 東京法令出版刊)
 しかし、自衛隊では救援活動は本来の任務でないということからかあまり活用されていないのでしょうか。軍としての 「殺す」 という任務は側面で 「殺される」 ということも覚悟していると思われますが。
 パンフレットを紹介します。
 【基本的な心構え】
 ・業務の目的を忘れないでください。そして、それを見失わないようにして下さい。
 ・業務前に「心の準備」をすることは簡単ではありません。そのため、業務内容で何が求められ
  ているのか、可能な限り事前に知ることが大切です。また、同じような経験をした同僚から話
  を聞くことも大切です。
 ・休息をこまめにとり、衛生を保ち、食事と水分をしっかり摂って下さい。
 ・業務外の時間では、心身ともに休んでください。
 【遺体への接し方】
 ・遺体に接する時間は必要最小限にして下さい。そして、ほかの人にも必要以上に見せないように、
  敷居、カーテン、パーティーション、カバー、袋などを用いて下さい。
  業務中は、防御服・手袋を着用し、二次感染の危険性を減らしてください。
 ・特定の遺体に集中しすぎないようにして下さい。自分が強い気持ちを抱きやすい遺体には、
  特に注意が必要です。
 ・遺体はあくまでの遺体であって、もう生きてはいないことを、自分の中で言い聞かせてみるのも
  一法です。これは、必要以上に気持ちが流されないためなので、業務終了後、そのような距離感を
  取ったことに対して、決して自分自身を責めないでください。
 ・遺体の近くにある遺留品は、身元確認のために重要であり、遺族にとって大切な所持品です。扱い
  には注意を払ってください。しかし遺留品への必要以上な執着は、あなたの気持ちを必要以上に
  つらくしますので、注意が必要です。
 ・臭いを消すための香水や香料は、業務体験とともに後々の記憶に (悪い形で) 残してしまうことが
  ありますので、使用にあたっては注意が必要です。」
 自衛隊では 「まず自分の身を守ること。自分を守れてはじめて他の人も助けられる」 の 「まず自分を守ること」 が組織的に行なわれていません。

 そして今回の朝日新聞の記事を見て思うのは、このような記事を何のためらいもなく載せるということは、救援活動ではなくても現場に駆けつけることがある新聞記者自身と新聞社においても 「まず自分を守ること」 の必要性が理解・周知されていないことがうかがわれることです。いつか新聞社そのものが深刻な事態に陥る危険性があります。


 雑誌 「トラウマティック・ストレス」 の13年12月号に東日本大震災の経験について防衛大学の医師らが共同で 「自衛隊における惨事ストレス対策―東日本大震災における災害派遣の経験から―」 を寄稿しています。
「東日本大震災では、自衛隊史上最大の災害派遣規模に加え、遺体関連業務や被爆関連業務が多くの隊員が関わることになったため、発災当初、『メンタルヘルスの問題を抱える隊員が大量に生じるのでは?』 と懸念されたのが正直なところである。しかし、これまでのところ、そうした事象は確認されていない。
 PTSDの症状は心的外傷性体験した多くの隊員で観察されたが、それは一時的なもので、多くは数日、残りのほとんども数週間で自然消退した。PTSDの診断基準を満たす症状を有し、それが1か月以上続き、診断に至った隊員も若干名いたが、数カ月の治療で軽快、寛解しており、精神障害として重症化した事例は現時点では認められていない。……
 長期フォローアップのスクリーニングについても、カットオフポイント以上を示した隊員は数%のみであり、そのほとんどが上司との面談、心理職によるカウンセリングにより改善もしくは経過観察となっており、医療機関に受診となった例はわずかであった。結果的に、2011年の自衛隊全体の精神科受診患者数は、例年と変わらない数に留まっている。
 今回の災害派遣では、任務の中に隊員に心的外傷をもたらす体験があったことは間違いないと思われるが、幸い私たちが懸念していたような事態には至らなかった。」

 誤った指示をうけても大きな影響が出ていません。信じられない報告です。結論先にありきの報告なのかもしれません。教訓をくんで生かそうとしていません。このような報告を信じて対処していたら次には大変な事態が発生します。
 自衛隊員の対応は正直に答えたら不利益が生まれるなどの何らかのバイアスがかかっていると思われます。それは自衛隊が持つ体質からきています。東日本大震災の直後、派遣された部隊から逃亡した自衛隊員がいました。派遣を回避するため事件を起こした自衛隊員がいました。彼はその後どうなったのでしょうか。派遣後に自殺した隊員もいます。(16年3月9日の 「活動報告」)
 「とにかく自分の身を守ること」 を周知しないで 「他の人も助けられる」 任務を遂行できません。
 自衛隊は隊員を大事にしていません。

 自衛隊にとっては自衛隊法に救援活動は任務と謳ってあるといっても本来の任務ではありません。不得手な部隊に押し付けると無理・無駄が生まれます。国としては早期に専門の 「災害救助隊」 のような組織を創設すべきです。

   「軍隊の惨事ストレス対策」
   「心のケア」
   「活動報告」 2016.3.9
   「活動報告」 2015.3.20
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南スーダンの自衛隊員20人がPTSD発症
2017/03/28(Tue)
 3月28日 (火)

 国会で、事実上2013年から内戦状態に突入している南スーダンの情勢をめぐって、戦闘地域である・ないの議論が続きました。戦闘と武力衝突は違うのだそうです。判断は、実態か政府の見解かの違いです。「日報」 は隠されたままです。黒を白という政府の見解は、かつての大本営のようです。
 そのような中で3月10日、突然、自衛隊施設部隊が5月末をめどに撤退することが発表されました。政府は、活動に一定の区切りがついたためで、現地の治安情勢の悪化によるものではないと説明します。これもまたかつての大本営に似ています。


 3月11日付の毎日新聞は 「自衛隊員 全隊員1割にPTSD、うつ 防衛省調査」 の見出し記事を載せました。
 防衛相が、2013~15年度の各年度に実施した全隊員へのアンケートの結果で、うつ傾向の隊員は13年度2万1223人 (回答者の10.0%)、14年度1万6478人 (同7.8%)、15年度1万3684人 (同7.1%) に達しています。PTSD傾向の隊員は13年度1976人 (1.8%)、14年度1275人 (1.4%)、15年度1013人 (1.4%)です。減少は、東日本大震災からの時間の経過と救援体験者が除隊したことなどがあると思われます。
 アンケートでは遺体に接した経験の有無や人間関係を尋ね、うつやPTSDの傾向があれば上司と面談し、症状が重い場合は精神科の受診を促されます。受診対象者は各年500人前後で推移しています。
 同省は 「うつは自衛隊で特に割合が高いとは言えず、PTSDも海外派遣で顕著な傾向はない」 といいます。だが、軍隊の精神的ケアに詳しい福浦厚子・滋賀大教授 (文化人類学) は 「自衛隊は心身の強さに最大の価値を置く特殊な世界。心の悩みを隠さず書くことで不利益を心配する隊員もいるだろう。ケア充実には本当のことを話せる仕組みが必要だ」 と話しています。

 小見出し 「『20隊員 PTSDケア必要』 防衛省関係者証言 惨状目撃で」 の記事が続きます。現在、首都ジュバに約350名の隊員が派遣されています。
 南スーダンで昨年7月、政府軍と反政府勢力の衝突が起きた。部隊の日報は 「戦闘」 と表現しました。同11日の日報に 「TK射撃含む激しい銃撃」 「宿営地南方向距離200トルコビル付近に砲撃落下」 とあります。「TK」 は戦車、「200」 は200メートルとみられます。防衛省が開示した日報は黒塗りが多いが、さらに生々しい記述がある可能性もあります。
 同省関係者によると部隊の宿営地の近くでは殺傷を伴う衝突があり、宿営地外を監視する複数の隊員が惨状を目撃しました。同省は 「派遣隊員に過度の精神的負荷がかかったとの報告はない」 とします。だが、実際には約20人がPTSD発症へのケアを必要としたといいます。

 毎日新聞は、派遣部隊に事前に実施したメンタルヘルス教育に関する内部文書を情報公開請求で入手。それによると、派遣先で疲労やストレスがたまると組織全体に影響が出るとし、「特定の人をスケープゴート (いけにえ) にすることで集団の安定を図ろうとする動き」 が内部で出ることを最も警戒すべきだ――と指摘しています。
 また、帰国前の教育に関する文書は、任務を終え帰国する隊員と留守を守った家族との間で感情の溝が生じ、ストレスになることにも注意を促しています。
 同省は2年前に隊員向けの 「メンタルヘルスケアガイドブック」 を初めて作成。「こころの問題は現場の士気や団結力に悪影響を及ぼす可能性がある」 として、対策を最重要課題の一つとする。南スーダンPKOでも、互いに思い出を語り合ったり緊張を和らげたりする取り組みや、医官らによるカウンセリングが行われてきました。
 隊員の心のケアを支援する民間組織 「海外派遣自衛官と家族の健康を考える会」 もできました。共同代表で精神科の蟻塚亮二医師は 「夜中に何度も起きたり、店のレジに並んでじっとしていられなかったりするなどの症状があったら相談してほしい」 と話します。


 防衛省・自衛隊の、南スーダンへの自衛隊の派遣についての公報です。
Q8.自衛隊員の現地での健康管理はどのように行われているのでしょうか。
A8. 南スーダンに派遣される隊員は、日本隊宿営地において、日本国内の駐屯地とほぼ変わ
 らない日課で、日々の規則正しい生活と自炊による日本食を中心とした食事を心がけ、日々
 スポーツに参加して健康的な生活を営むことで疾病を予防することに努めています。
  そして、アフリカ大陸に特有な感染症を予防するための衛生教育を受けるとともに、必要な
 予防接種やマラリア予防薬の服用を実施しています。また、派遣部隊には医師などの衛生科
 隊員も含まれており、彼らが医務室を運営し、隊員の診療を行っています。
  派遣期間の半ば頃には、医務室において臨時の健康診断を行い、隊員の健康状態をチェック
 しています。さらに、定期的に精神科医師を現地に派遣し、隊員の心の健康もサポートしています。


 戦闘を武力衝突と言い換えようが、兵士はPTSDを発症します。
 1930年代からの日本軍の満州侵略における実態が、上笙一郎著 『満蒙開拓青少年義勇軍』 (中央公論社刊) でふれています。

 1932年8月、満州移民計画が議会を通過し、10月から送り出します。
 第一次農業移民団423人はソビエトとの国境付近に近くの自称弥栄村、33年夏に第二次移民455人が千振村に入植します。これらは武装移民で軍編成がおこなわれ、日本刀、拳銃、小銃、迫撃砲、機関銃などを備えています。ソビエトに対する第一線兵力の扶植の軍事的役割を負わせられました。
 中国農民たちによる民族独立運動組織・反満抗日パルチザンなどの抵抗・襲をうけ生活と生命の危険にあいます。
 1934年2月、1万人の農兵が土龍山を根拠地として十数日間蜂起する事件が起き、関東軍の連隊長以下20人を殺害します。
 団からは 「だまされた」 とさまざまな不満が爆発します。第一次移民団からは百数十人の退団・帰国者が出ます。第二次移民団からも数十人の落伍者がでます。
 開拓団は意気を沮喪してしまいます。
 のちに 「屯墾病」 とよばれたストレス、ホームシック、集団的ノイローゼ―の症状が現れました。
 関東軍はこれらを農村に生まれながら学問がある者、内地で裕福な生活をしていた者、いわゆるハイカラ男たちの 「薄志弱行者」 と呼びました。
 逆に勇敢で適しているのは、国民高等学校出身者、貧困者、純真な青少年といい、その後の移民の対象者にしました。

 1938年、日本軍は兵士不足を補うため 「満蒙開拓青少年義勇軍」 を組織し送り出します。
 そこでも 「屯墾病」 の発症者が現れます。
「それでは、屯墾病とは具体的にどのような兆候を示すのかというと、それは大別してふたつの種類があった。義勇軍をはじめ満州開拓関係者が普通に屯懇病と見なしているのが、その第一類であって、ひとくちにいえば 〈自閉症〉 ――精神的に自分の内部へ閉じこもってしまう傾向のものである。
 訓練所での毎日の生活が味気なく、農作業も軍事訓練もする気にならず、体の具合が悪いといっては1日じゅう宿舎に寝ており、故郷と父母兄弟を思っては落涙している。食欲もめっきりおとろえ、夜もうつらうつらして熟眠することができなくなり、その心配した友人たちが言葉をかけて励ましても、はかばかしい反応を示さなくなってしまうのだ。
 このような自閉型屯懇病にかかるのは、どちらかといえば性格的におとなしい少年に多かった。そしてその症状は、……時として悲劇を招くことも皆無ではなかった。……
 以上のような第一類の 〈自閉症〉 に対して、屯懇病の第二種は、〈攻撃型〉 といえば適当であるかもしれない。義勇軍生活への忿懣を自分の心のうちに鬱積させ、自閉的になってしまうかわりに、忿懣を外部世界へ向けて攻撃的になってゆくのである。
 その場合、忿懣の捌け口として、当初は自然およびその一部としての動物などが選ばれた。少年たちは、理由のわからない怒りが心にみなぎって来ると、木刀を外へ持ち出して草や作物を薙ぎ倒し、野原に火をつけてどこまでも燃えてゆくのをみて快哉を叫び、またそこらに遊んでいる犬や猫を叩き殺し、豚の尻にナイフを突き刺したりするのだ。
 しかし少年たちの荒れ果てた気持ちは、ものいわぬ自然を痛めつけることでは満たされず、次には、人間を攻撃することに向かっていった。むろんこのようなとき、その攻撃の対象となるのは自分より弱い者に限られるわけで、まずさしあたっては、同じ訓練所の後輩が恰好な対象として選ばれた。……
 しかしながら、義勇軍の過酷な生活から来る屯懇病の攻撃型の矛先は、同じ義勇軍の後輩たちに向けられただけでは済まず、訓練所の周辺に住む中国人にも向けられたのである。……
 こうした盗みについで多かったのは、女性への凌辱をふくむ身体的暴行であった。盗みを働いている現場を中国人に発見されれば、かえって高圧的に出て腕を振り上げたりしたほか、相手の顔が気に入らないとか、先輩になぐられたのが癪にさわるとかいった無茶な理由で、殴打したり蹴飛ばしたりしたのである。
 ただ、さすがに女性に対する凌辱に関しては、たくさん出ている義勇軍中隊史のいずれもが、申し合わせたように口を閉ざしてただの1行も言及していない。たが、誰ひとり語らないからといって凌辱事件がなかったのではない。わたしは、義勇軍の少年たちを窮極的には被害者と見ているので、心情的には書きたくないのだが、しかし真実を伝えるために敢えて書かなければならないと思う――中国女性への凌辱は、殴打と同じくらいの頻度でおこなわれていた、と。……
 少年たちの悪戯というべき段階を越えて、明白に犯罪と見なければならぬこれらの行為に対して、満州警察と日本軍とは見て見ぬふりをしていたといえよう。」(『満蒙開拓青少年義勇軍』)
 満蒙開拓青少年義勇軍の中隊と中隊が衝突し銃で撃ち合い、3人が死傷する事件も起きています。昌図事件と呼ばれます。

 屯懇病は今でいうならPTSDです。

 日本軍・自衛隊は貴重な教訓をもっていますが活かそうとしません。
 PTSDり患から見られることは、軍隊は自国の兵士を殺すということです。アメリカでも日本でもそうです
 それとともに人びとも大きな教訓をもっています。
 軍隊は民衆を守らないということです。沖縄でも満州でも民衆が軍の盾になりました。

   「軍隊の惨事ストレス対策」
   「活動報告」 2016.9.13
   「活動報告」 2015.8.28
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