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パワハラ防止条約批准に向けた法整備を急げ
2019/08/20(Tue)
 8月20日 (火)

 全国労働安全センター連絡会議は毎年厚労省と交渉を行なっています。そこで積み残しとなった問題となったいじめ問題や精神衛生問題等については再度メンタルヘルス・ハラスメント対策局で交渉を行います。
 今年は、メンタルヘルス・ハラスメント対策局が独自の要望書を作成し、7月30日に厚労省と交渉を行いました。
 事前に提出した 「要望書」 のなかのILO総会についてです。


Ⅰ ILO総会について
1.ILOの第108回総会が、6月10日から21日に開催された。
 それに先立ちILOは、「仕事の世界における暴力とハラスメント条約 (案)」 について各国
 に、もっとも代表的な使用者・労働者組織と協議のうえ、意見を提出することを要求していた。
 日本政府は、今年の総会に向けてどのような意見書を提出し、総会ではどのような報告を
 したのかをすべてホームページで公表し掲載すること。
2.昨年のILO総会につて、厚労省のホームページには、議題は掲載されているが、日本政
 府が討論の中でどのような主張をしたのかをすべてホームページで公表すること。
3.「仕事の世界における暴力とハラスメント条約」 が非本政府の賛成をふくめて採択された
 ことをふまえ、この後日本政府は批准の手続きを開始しなければならない。
  批准に際しては 「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律等の一部を改正する
 法律」 は改正が必要となる。その手続きを早急に開始すること。
  改正にあたっては以下の点を批准の条件を満たすようにする必要がある。
 (1) ハラスメントの定義に人権保護、被害者救済の観点から 「あらゆるハラスメントを認め
  ない」 を盛り込むこと
 (2) 現状をふまえるならば措置義務では効果はないことは明かである。さらに国連の女性
  差別撤廃委員会から禁止規定を創設するよう長年勧告を受けている。
   禁止項目と罰則規定をきちんと設けること。
 (3) 範囲に 「第三者からの暴力」 の禁止を盛り込むこと
4.今後、どのような法整備等を計画しているか明らかにすること。


 「要請書」 に対する厚労省の回答です。
1、については、ホームページに掲載することは考えていなません。
 実際に総会でどのようは報告をしたのかについてはILOのホームページにそのことが記載された報告書が出ています。厚労省のホームページにでは国民への情報提供として周知広報の観点から必要な範囲の情報を掲載しています。
2、につきましては、昨年のILO総会での議論についてもILOのホームページに記載されていますので厚労省のホームページに掲載することは考えていません。
3、と4、については、日本政府は批准の手続きを開始しなければならないということですが、5月末にパワハラ防止法等で措置義務が新設されて防止強化された改正法が成立しています。これに基づいてハラスメント防止に向けた職場づくりの取り組みを積極的に進めているところである。そのなかで条約の批准との関係では国内法制との整合性を今後さらに検討する必要があります。条約の趣旨をふまえながら施行にむけて指針作成等に取り組んでいきます。
 ハラスメンと禁止につきましては、法改正にあたっての審議会の建議で、現状でも悪質なハラスメントは民法の不法行為で損害賠償訴訟の対象になり得るとありますので、新たな禁止規定を設けると他法令との整理ということで中長期的検討を要するので今後の課題として検討していきたいと思っています。


 この後質疑応答に入りました。
Q 1、の報告書は公表を前提にしないということですが、日本政府が出した公的意見書です。
 公表できない理由があるのでしょうか。
A ホームページですべてのことを公表していない、必要な範囲で公表しているということです。
 提出文書は1つだけです。公表が必要かどうかは厚労省の判断です。ILOで討議資料を作る
 ためのもので、採択もされていますので必要ないと思います。
Q 去年は出されました。ホームページに載せるかどうかは別として、基本的には開示請求す
 れば公開されるし、そうでなくても行政サービスとして出ることもあります。
A 個別に必要ということであれば、持ち帰って検討させてもらいます。
Q 昨年も同じような議論をしました。その時は、ホームページということは出なかったのです
 が。昨年もらった時の回答は、「公開がだめだということではない」 ということが前提でし
 た。必要なら出しますということでは、積極的に応じてもいいのではと思います。
  ホームページで必要なことは公表しているといいますが、例えば、去年のILO総会の報告
 は、メインテーマが 「職場のハラスメント」 ですが報告はタイトルと討論したという一行です。
 これでは議論を公開したことにはならないです。日本政府が賛成したのか反対したのか誰
 も知らないです。
  ILOは政労使の三者構成です。その報告を多くの労働者に対して英文で見てくださいとい
 うのは不親切です。
A 今年の総会についての内容はまだ公開していませんので、どの範囲で公開するかは検討
 したいと思います。
Q 条約の日本語訳仮でも作っていないのですか。
A 仮訳が作成されるのは、他省との精査も必要になりますので来年の通常国会 (春頃) に間
 に合うようになると思います。

Q 条約は、今回の改正法でも条件を満たしていないということですね。
A そうです。国内法の整備は充分ではないということです。
Q 満たしていない主な点はどういうことととらえていますか。
A 「禁止」 になっていない。ILO条約でもどういうハラスメントを禁止するかは各国の裁量で、
 禁止と罰則は必ずしもセットではないという意見もありますが、現状は禁止しているとはいえ
 ません。罰則もありません。改正法は防止の措置義務をとるということですので。
  あと 「第三者からの暴力」 です。改正法は労働環境を整えるの義務で終わっています。
 今後の課題になってきます。
  批准する水準には至っていません。中長期的検討が必要です。

Q 日本政府が採択に賛成したということは批准を目指すポジションということでいいですか。
A 今後それに向けて検討していかなければいけないということです。
  措置義務を新設したことは一歩前進です。
Q ILOではハラスメント防止対策はかなり前から問題として取り上げられています。昨年、
 二回議論の第一回目議論がおこなわれ、今年第二回議論と採択がおこなわれる間に日
 本では批准に不十分な改正法案が出され、成立させたということは採択に賛成しても批
 准は遅らせるという姿勢にしか見えません。法案は、国会審議を一回延期すれは、採択
 後に審議できたはずです。


 後日、総会に向けて日本政府が提出した見解が提出されました。条約案全体に対する見解の部分だけ紹介します。

「ILO事務局レポートV (1) の 「仕事の世界における暴力及びハラスメント」 に関する条約・勧告案についての日本政府見解
                                        2018年12月18日

Ⅱ 条約及び勧告案へのコメント
1 全体的意見
 仕事の世界における暴力及びハラスメントは、個人の尊厳や人格を傷つける許されない行為であるとともに、職場環境を悪化させ、職場全体の生産性や意欲の低下にもつながる重大な問題であり、日本政府としては、これを防止することは大変重要であると認識している。
 この問題の重要性に鑑み、新たな条約・勧告はできるだけ多くの加盟国に対し、仕事の世界における暴力とハラスメントの防止のための努力を促すものとすることが重要であり、したがって、各国がそれぞれの実情に応じて取組を行えるよう、新たな基準は、柔軟性を備えた規定を持つものとすることが適当である。」


 日本政府は、昨年の総会で条約に態度保留を表明しました。
 提出された見解に沿うならば今年の条約採択では反対の意思表示をすると思われました。しかし今年は、条約採択の直前まで態度を表明していませんでした。最終的に条約に賛成の判断をしました。
 しかし日本政府の姿勢は、パワハラ防止法等が成立したばかりだから少し様子をみようと不批准にむけた取り組みを放置することが予想されます。
 この後にパワハラ防止法等改正法の指針作りの労政審が予定されますが、この労政審をを、批准のための法改正案の審議をするものに変更したら早期批准を進めることができます。

 「活動報告」 2019.6.23
 「活動報告」 2019.6.11
 「活動報告」 2018..10.16
 「活動報告」 2018.6.5
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原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます
2019/08/09(Fri)
 8月9日 (金)

 かなりもかなり前です。
 東京・九段会館で原爆症認定集団訴訟を支援する全国ネットワークが集会を開きました。会場のあちこちに模造紙大の 「焼き場の少年」 の写真ポスターが貼られていました。
 休憩時間に受付にいくと貼られなかったポスターが積んであります。
 「このポスターを分けてもらえないですか」 とそこにいた方にお願いすると売り物ではないですと断られました。するとそばにいたひとが 「どうせ使わないでしまってしまうなら売ってお金にした方がいいでしょう。分けてくださいよ」 と声をあげました。「私も欲しい」 という声が何人からもあがりました。
 「ちょっとお待ちください、主催者に聞いてきす」 といって戻ってくると 「100円でお分けできるそうです」 と答えました。数十枚がすぐに完売しました。

 そのポスターをいまも事務所に貼っています。
 ポスターの左下には写真を撮った占領軍のアメリカ空爆調査団の公式カメラマン、ジョー・オダネルの説明文があります。

  「焼き場の少年」

 1945年9月―佐世保から長崎に入った私は
 小高い丘から下を眺めていました。
 10歳ぐらいの歩いて来る少年が目にとまりました。
 おんぶ紐をたすき掛けにし
 背中に幼子をしょっています。
 この焼き場にやってきた強い意志が感じられました。
 しかも、少年は裸足でした。焼き場のふちに
 分から10分ほど立っていたでしょうか。
 もむろに白いマスクをした男たちが少年に近づき
 ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。この時、
 私は背中の幼子が死んでいるのに気がつきました。
 幼い肉体が火に溶け、ジューッと音がしました。
 まばゆい炎が舞い上がり、直立不動の少年の
 あどけない頬を夕日のように照らしました。
 炎を食い入るように見つめる少年の唇には
 血がにじんでいました。
 あまりにもきつく唇を噛みしめているので、
 唇の血は流れず下唇を赤く染めていました。
 炎が静まると、少年はくるりときびすを返し
 沈黙のまま焼き場を去っていきました。
 背筋が凍るような光景でした。


 集会では、この説明文の朗読のあと、フォークシンガーの横井久美子が峠三吉の詩 『にんげんをかえせ』 を 『アメイジング・グレース』 のメロディーで歌いました。

 ♪♪ ちちをかえせ ははをかえせ
   としよりをかえせ
   こどもをかえせ

   わたしをかえせ わたしにつながる
   にんげんをかえせ

   にんげんの にんげんのよのあるかぎり
   くずれぬへいわを
   へいわをかえせ ♪♪


 8月8日の深夜のテレビで、この 「焼き場の少年」 を探しているドキュメンタリ-番組が放映されました。「少年」 は数年前に亡くなっていました。


 「焼き場の少年」 はむごい光景です。
 オダネルは占領軍調査団のカメラマですが40年以上フィルムは現像しないままでした。しかし 「自分が伝えなければ伝えていく人がいない。持っているものをなんとか活用しなければ意味がないんじゃないか」 という危機感から公表します。


 昨年1月、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は 「焼き場の少年」 をポストカードにし 「戦争がもたらしたもの――」 のメッセージを添えて、世界に配布するよう指示しました。世界中の教会で配布されました。
 もちろんにわか信者となっていただきにいきました。


 ポスター、説明文、『人間をかえせ』 の歌を盛り込んで、原爆被害をうけた広島県第二女学校の状況を関千枝子著 『広島第二県女2年西組』 などの資料を寄せ集めて 寸劇 「ヒロシマ ガイド」 (教師編)― “にんげんをかえせ”―」 をつくり、市民運動や労働組合で発表しました。そこから抜粋です。

 (ガイド)
 長崎においても、広島でも、原爆で殺された親を子供が、子供を親が、兄弟を、家族を、自らの手で焼きました。職場の同僚を焼きました。
 学校でも、教師が同僚を、そして生徒を焼きました。
  ・・・

 (ガイド)
 8月6日、学校を休んでいたために助かった2年西組の関千枝子さんは学校に駆けつけました。
 関さんが、波多先生のことを、『広島第二県女2年西組』 に書いています。

 (朗読 女―4 (関))
 本地文枝の死体が運び出されるのを見送ったあと、私と林綾子は、玄関脇の部屋に入ってみた。この部屋に波多ヤエ子の遺体が置いてあると聞いたからである。……
 逃げ出したかったが、足がすくんでしまい、震えていると、急に、福崎ともう1人誰かが入ってきた。
  (朗読 男―2 (福崎)) 『オッ、ちょうどええ。手伝ってくれ』
 否も応もなかった。私と綾子は担架の足の柄を1つずつ持って、波多の遺体を学校の東隣に運んだ。そこは一面、蓮畑になっていた。
 蓮畑に波多の遺体を置き、そのあたりにあった木を運び、福崎が経を唱え、火をつけた。煙がまっすぐ上った。空は真っ青に晴れあがり、風もなく、強烈な太陽が照り返していた。
  (朗読 男―2 (福崎)) 『煙がまっすぐ上ると極楽へ行けるんじゃ』
 うめくような声で福崎はいった。私は福崎の気持ちがよくわかる。こうでもいわなければ、救いようがない気分だったのだろう。
 だが、その時の私は腹が立ってたまらなかった。福崎にだけではない。誰に対してもくってかかりたかった。
 『極楽へ行ってなんになる。こんなに苦しんで、焼けただれて――。極楽へ行ってなんになる』

    酒あふり 酒あふりて 死骸焼く
     男のまなこ 涙に光る (正田篠枝)

 (ガイド)
 8月12日か13日の朝のことです。
 誰も家の人が来ない生徒の遺体を前夜も焼きました。

 (朗読 女―3 (有田))
  (朗読 女―4 (生徒ⅲ)」 『先生お客様です』
 原爆投下の日以来ずっと被爆生徒の看病その他を手伝ってくれている女専の生徒の1人が私を呼びにきた。……
 初老の婦人が胸に四角い箱のようなものを抱いて1人歩いてきた。
 『有田でございます。あなた様は?』
  (朗読 女―2 (野村)) 『私は野村の母親でございます。娘はどこにおります
     でしょうか』

 小腰をかがめて丁寧に頭を下げた。
 『あっ、野村さんの!』 私は絶句した。この手で前夜野村さんの遺体を焼いたのである。私が手にしているザラ紙は、その野村さんと、もう1人の生徒のお骨上げに持って行こうとしていたものである。
 『あのう、その箱は?』 1分間でも野村さんの死の報らせを延したかった。
  (朗読 女―2 (野村)) 『はーい』
とまるで赤ん坊に乳房を含ませながらその子の頭を抱きしめ、もう一方の手で上を撫でながらその人は言った。
  (朗読 女―2 (野村)) 『はーい、これはあの子の兄の遺骨を、今、市役所から
     もろうて来たたところです、まだ暖かいんですよ。ほら、このように』

と箱を差し出され、私はだまって受け取った、温いように思えた。
『どうぞこちらへ』
  (朗読 女―2 (野村)) 『どこにおるんですか、火傷をしとるんでしょうか』
 ……『さあ、どうぞこちらへ』 と近くの一室に招じた。小さな室だった。誰もいなかった。お茶をすすめた。……
 私は目を閉じ大きな息をして、お母様の前に立った。
『お母様、実は、あのう』
  (朗読 女―2 (野村)) 『昭子はもしや』
 間髪を入れない問いかけであった。『はーい』
  (朗読 女―2 (野村)) 『やっぱり、やっぱりそうでありましたか』
 『私が引率して専売局へ参っておりました。何ともお詫びの申し上げようも』 と後はことばにならなかった。
  (朗読 女―2 (野村)) 『やっぱり死んだんですのう』  
『はい』
 野村さんを生み育てて17年間、優しく素直でお腹の底から優等生だった野村さんの記憶が、一度に蘇ってお母様の全部を占領してしまったのであろうか、どうしようもなく、どうしようもなく泣き崩れておしまいになった。その嗚咽は直かに私の胸を刺し、拳を握っても握っても立っているのがやっとであった。
 ……
 女専の物理教室で昏睡状態のまま4、5日間生き続けた野村さんであったが、どんなにかお母様に会いたかったのであろうか。
  (朗読 女―2 (野村)) 『それでどこに』
 『はい申し訳ございません、遺体は昨夜火葬にいたしました』 私は消え入りたかった。涙がこぼれた。頭が上がらなかった。
  (朗読 女―2 (野村)) 『2人も子供をとられて私はこれから何をたよりに生きて
    行ったらええんでしょうか』

 私は床にすわり、お母様の手をとったまま何も言えず2人で唯々哭いた。
 『野村さんともう1人の生徒のお骨上げに行こうとしている所へ、お母様がいらっして下さったのです。せめて、どうぞお骨拾いを』よろめくような足取りのお母様のお伴をして学校の裏へ出た。
『野村さん、お母様がいらっして下さったわよ、野村さん、お母様よ』
  (朗読 女―2 (野村)) 『昭子っ』
 灰はまだ熱かった。

 (ガイド)
 5年生の野村さんは広島専売局に動員されていました。
 工場の中で作業をしていたのですが、爆風で機械が倒れ、野村さんの頭を直撃しました。
 すぐに共済病院に運ばれましたが、病院は負傷者でごったがえしていて、治療を受けられまま、学校に連れ戻されました。

 学校は43年3月、文芸誌 『かがみ』 を発行しています。その中に野村さんは詩を載せています。

 (朗読 女―1 (野村娘))
   「影」
         野村昭子

 昔とほったこの道で
 私の影は母さんの半分ほどもなかったのに
 今2人でとほったら
 母さんよりも 私の影が長くなった
 私の影よ

 (ガイド)
 お母さんは、自分の背丈を越えるまで育て上げた娘の遺骨を拾いました。


 今年の長崎平和記念式典で長崎市長の 「長崎平和宣言」 はこのようにはじまりました。

 目を閉じて聴いてください。

 幾千の人の手足がふきとび 腸わたが流れ出て 人の体にうじ虫がわいた
 息ある者は肉親をさがしもとめて 死がいを見つけ そして焼いた
 人間を焼く煙が立ちのぼり 罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた
 ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった
 だけど……
 父も母も もういない 兄も妹ももどってはこない
 人は忘れやすく弱いものだから あやまちをくり返す
 だけど……
 このことだけは忘れてはならない
 このことだけはくり返してはならない どんなことがあっても……

 これは、1945年8月9日午前11時2分、17歳の時に原子爆弾により家族を失い、 自らも大けがを負った女性がつづった詩です。自分だけではなく、世界の誰にも、二度とこの経験をさせてはならない、という強い思いが、そこにはあります。
 原爆は 「人の手」 によってつくられ、「人の上」 に落とされました。だからこそ 「人の意志」 によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。
 ・・・


 これまでと比べると、騒がしい8月9日でした。8月8日を忘れさせようとしている、 「人の意志」 を奪おうとする者たちが騒いでいます。
 負けられません。

 「活動報告」 2018.8.7
 「活動報告」 2014.5.13
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“焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる”
2019/08/06(Tue)
 8月6日(火)

 さまざまなことに思いがめぐらされる8月です。そして、あらためて平和について考えさせられる月です。
 4日の 「朝日歌壇」 の、馬場あき子さん選のなかの3首です。

  子供らの戦争ごっこ 何故かくも楽しさうなる 死んだふりして

  原発が 都市生活と産業を人身御供に 稼働続ける

  被害者は語り伝える 加害者は語らず伝えず 忘れてしまう


 8月6日は、アメリカが広島に原爆を投下し、一瞬ににして十数万人を殺してから74年が経つ 「原爆の日」 です。「原爆忌」 と呼ぶとだれが落としたのかが忘れられてしまうような気がします。

 74年は短くない年月です。記憶が薄れかけたり、知らない世代も増えています。しかし8月6日と9日は忘れてはいけない日です。
 そのことを歌で訴えている人たちがいます。メロディーや歌詞が部分的にでも頭の片隅にこびりついていると思い出させてくれます。歌の持つ力です。忘れさせません。そして歌い継がれていきます。


 1936年に広島市で生まれたイラストレーターの山下勇三は広島弁で 「広島の川」 の詞を書きました。それに友人のピアニスト佐藤允彦が曲をつけ、中山千夏がうたって1975年にレコードにしました。
 永六輔は生前、毎年8月になると自分のラジオ番組で流しました。

   広島の川

  広島の街ゃあね
  川だらけじゃけんねェ
  ちょっと歩いたら
  川があるんじゃァ

  一番目の川は太田川
  太い川じゃけん 庚午橋ゃァ長いんじゃァ

  二番目の川は天満川
  古い川じゃけん 溺 (おぼ) れた子も多いんじゃァ

  三番目の川は本川じゃァ
  ふたまたじゃけん 相生橋ゃァ思案橋

  四番目の川は元安川
  ピカドン川じゃけん 盆にゃ涙川

  五番目の川は京橋川
  長い川じゃけん 橋の数ァ十一本

  六番目の川は猿猴川
  けつべたァ抜かれるけん 子どもは泳がんのじゃァ

  朝の満ち潮にゃねェ
  昼の引き潮にゃねェ
  ピカドンの恨みが 流れとるんじゃ~

 大きな声で叫ばなくても、被爆者やその関係者の心情、二度と繰り返させないと誓う者たちの 「忘れてはならない」 という思いが静かに、強く伝わってきます。


 1946年生まれで、小学校の頃からときから大学まで広島で育った吉田拓郎の 「いつも見ていたヒロシマ」 です。作詞は岡本おさみ。
 吉田拓郎は、1960年代後半にストレートな歌詞でプロテストソングをうたったフォークシンガーたちの次の世代として登場しました。しかし 「いつも見ていたヒロシマ」 の歌詞とメロディーに込められている思いはプロテストソングです。そして吉田拓郎世代が共有するものです。

   いつも見ていたヒロシマ

  八月の光がオレを照らし
  コンクリートジャングル 焼けつく暑さが
  オレの心をいらつかせる
  癒せない 満たせない 慰めもない
  深い祈りと 深い悲しみ 渇いた心をかかえて

  オレは何処へ行こう 君は何処へ行く
  時は押し流す 幾千の悲しみを
  時は苦しめる 幾千の思い出を
  焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる

  子供らにオレ達が与えるものはあるか
  安らかに笑う家はいつまであるか
  いつもいつも 遠くから遠くから 見ていたヒロシマ

  八月の神がオレを見つめ
  コンクリートジャングル 逆らう日々が
  オレの心を苛立たせる
  笑えない 落ち着けない 安らぎもない
  歌う敵と 歌う真実 見えない心を抱いて

  オレは何処へ行こう 君は何処へ行く
  時は忘れ去る 幾千のごまかしを
  時は汚してる 幾千のやさしさを
  焼けつきた都市から 確かな愛が聞こえる

  子供らにオレ達が与えるものはあるか
  安らかに笑う家はいつまであるか
  いつもいつも 遠くから遠くから 見ていたヒロシマ

 吉田拓郎からヒロシマはいつも離れませんでした。そして焼けつきたヒロシマは、それでも多くの人に愛をささやき続けています。


 1952年に長崎で生まれたさだまさしは中学生の時上京、大学生の時。しかし身体を壊して長崎に帰り、そこで音楽活動を始めます。
 長崎に住む親族の体験を盛り込んだ、そして自分の思いを秘めた歌を作ります。広島でのコンサートでも歌われました。

   広島の空

  その日の朝が来ると 僕はまずカーテンを開き
  既に焼けつくような陽射しを 部屋に迎える
  港を行き交う船と 手前を横切る路面電車
  稲佐山の向こうの入道雲と 抜けるような青空

  In August nine 1945 この町が燃え尽きたあの日
  叔母は舞い降りる悪魔の姿をみていた
  気付いた時炎の海に独りさまよい乍ら
  やはり振り返ったら稲佐の山が見えた

  もううらんでいないと彼女は言った
  武器だけを憎んでも仕方がないと
  むしろ悪魔を産みだす自分の
  心をうらむべきだから どうか
  くり返さないで 繰り返さないで
  広島の空に向かって唄おうと
  決めたのは その時だった

  今年のその日の朝も 僕はまずカーテンを開き
  コーヒーカップ片手に 晴れた空を見上げ乍ら
  観光客に混じって 同じ傷口をみつめた
  あの日のヒロシマの蒼い蒼い空を思い出していた

  In August nine 1945 あの町が燃え尽きたその日
  彼は仲間たちと蝉を追いかけていた
  ふいに裏山の向こうが 光ったかと思うと
  すぐに生温かい風が 彼を追いかけてきた

  蝉は鳴き続けていたと彼は言った
  あんな日に蝉はまだ泣き続けていたと
  短い命 惜しむように
  惜しむように泣き続けていたと どうか
  くり返さないで くり返さないで
  広島の空に向かって唄っている
  広島の空も 晴れているだろうか

  くり返さないで くり返さないで
  広島の空に向かって唄っている
  広島の空も 晴れているだろうか

 原爆被害を受けても蝉は鳴き続けていたといいます。多くの被爆者が泣き叫びながらさまよい続けたのは人間の叫び、生へ希求です。その思いを蝉に重ねているのでしょうか。
 長崎から広島に思いを馳せます。思いを分かり合える人たちです。恨んでも憎んでも平和はこないとさとります。
 さだまさしは 「長崎の空」 も作っています。


 どれも威勢のいい曲ではありませんが、戦争を憎み、そのおもいはなにものにも屈しないという強さがあります。
 8月6日の 「朝日川柳」 です。

  原爆ドーム 言いたいことを たんと持ち

  「活動報告」 2018.10.2
  「活動報告」 2018.8.28
  「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」 ホームページ・ご相談はこちらから
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京アニ放火事件の救助活動に従事され方がた ご自愛を
2019/08/02(Fri)
 8月2日 (金)

 7月18日午前10時半ごろ、京都アニメーション第1スタジオに男が侵入し、建物1階や従業員などにガソリンをかけてライターで着火し、火災、爆発が発生する事件が発生しました。3階建ての建物は全焼し、35人が死者し多数の被害者が出ました。屋上につながる階段には20人の遺体が折り重なっていたといいます。

 京都消防局は10時35分に火災を覚知、消防車・救急車49台、約190人を出動させ消火・救急活動を行いました。20時間後の翌19日6時20分頃に鎮火しました。
 発見された遺体は京都府警察学校に安置されました。
 突然の事故に遭われた被害者のみなさまの無念の思いに心から哀悼の意を表します。
 同時に、救援活動に従事された消防、警察、医療機関等々の方がたは言葉では言いあらわせない惨状を目の当たりにするなかで職務に専念しました。現場を離れたあとはゆっくりと “心の傷” を癒され、休養されることを願いします。


 7月26日、京都市消防局から現場に最も早く駆けつけた2人の署員が報道各社の取材に応じて話した状況です。
 消防への通報は18日午前10時35分にあり、取材に応じた指揮隊長と副指揮隊長らが現場に向かう途中から黒煙が激しく立ち上るのが見えました。5分後に現場に到着しましたが、その時は3階建てスタジオすべての窓から炎と黒煙が噴き出していました。防火衣を着ていても、消火しながらでないと中に入れません。指揮隊長は 「昼間の火災であれだけの規模は、経験したことがない」 と振り返りました。
 「何とか (建物の中に) 入ろうとしたができなかった」 と言葉を詰まらせました。中に残された人数すらつかめませんでした。すぐに応援を要請します。
 現場では、救急隊員約50人に加え、医師らも駆けつけて救助や負傷者の治療の優先順位を決めるトリアージを行い、医師と連携して病院に搬送しました。
 指揮隊長は涙を浮かべながら、「隊員全員が1人でも多く命を救おうと懸命に活動したが、結果的に34人が亡くなり大変残念で、やりきれない思いがある」 と話しました。


 市消防局は同日、総務省消防庁に心理ケア要員の派遣を要請し、現場活動に当たった隊員たちの 「惨事ストレス」 対策を強化する方針を示しました。過酷な現場で隊員も精神的ショックを受けた可能性があり、心のケアに努めるといいます。
 救援部隊は 「要救助者が不安になるので苦しい顔を一切するな」 が心構えになっています。感情を殺します。惨事ストレスは、自然災害よりは人的災害のときの方が症状は大きいといわれます。納得できないからです。
 もっと何とかならなかったかは、救援活動に従事する者が常に抱く思いです。


 松崎俊道著 『近代消防ブックレットNo.13』 (近代消防社) です。
「アメリカの臨床心理学者ボブ・ベイカー博士が『惨事ストレス』についての講演の会場で次のような発言を残しています。
『日本文化は一般的にみて、感情を表出しない文化であるように思います。本当は自らの悩みや不安を他の人に話さなければならないのに、そのようにはしない傾向があるように思います。その結果、感情が抑圧され、身体的症状、例えば、頭痛や胃潰瘍などの症状が、日本人には出やすいように思えます。』
  ……
 消防庁の調査によると消防職員の惨事ストレスの最も大きな原因は、1位 『死体を見た、あるいは死体に触れた』、2位 『死体が凄惨、あるいは衝撃的な災害であった』 です。(有効回答数880)。以下、『ふだんの災害より過度に体力を消耗した』、『死傷者がいるところで長時間作業をした』、『遺体が哀れであった』 などと続きます。しかし、この1位、2位のデータがダントツに多い。  ……
 英語で特定の任務を終えた人から報告を受けることをデフリーフ (debrief) と言います。そこからデフリーフィング (debriefing) は、米空軍用語として 「帰還報告」 の意味になりました。
 そして、消防など災害にかかわる人々の間ではとくにこのデフリーフィングは 『災害対策報告会』 の意として活用されるようになりました。」


 消防職員・消防団員の惨事ストレス対策が問題になったのは1995年の阪神大震災からです。
 兵庫県精神保健教会こころのケアセンターの 『災害救援者の心理的影響に関する調査研究報告書』 からです。
「平成11年 (1999年) 8月に神戸市消防局職員を対象に、阪神淡路大震災による心理的影響についてアンケート調査を行った。
 有効回答は1211件で、その主な結果は、次のような点である。
①震災から4年半の時点で、PTSD (外傷後ストレス障害) の症状を強く有すると判断され
 る者は、全体の11.7%であった。震災時の業務活動における非常事態ストレス (CIS)
 の強さで分類すると、CISに強く暴露された者 (高暴露群) では16.3%と最も多くついで
 現場活動に従事しなかった者 (待機群) 4.1%の順であった。また、震災時消防職員で
 なかった者では、5.8%であった。」

 その後、消防隊員の惨事ストレスが取り上げられたのは2001年9月1日に東京都新宿区歌舞伎町の雑居ビルで起きた歌舞伎町ビル火災で44名が死亡したときからです。
 しばらくしてから体調不良に陥った隊員が続出しました。
 その時の東京消防庁の経験を、東京消防庁人事部健康管理室主任が消防関係者のための月刊誌 『近代消防』 2001.12号に、『新宿歌舞伎町ビル火災と東京消防庁の惨事ストレス対策』 のタイトルで載せています。
「われわれ消防の世界では、災害現場で悲惨な体験をしたり恐怖を味わったりしても、自分自身で乗り越えてきました。
 特に、むごたらしい死体を見て気持悪くなったり、匂いを嗅いで吐き気がしたりしても、それはどちらかというと 『恥』 と捉えやすく、周りにはあまり大きい声では言えなかったこともあったと思われます。そのような感情を乗り越えてこそ1人前の消防官というように見なす空気が土壌にあったことも事実です。
 しかし、『基本的にストレスを受けない者はいない』 と一般的に言われていますが、ストレスをストレスと認識できないのが現状で、『風邪という症状をしらない人間は医者に行かない』 と言うことと同様で、本人がそのことに気づかなければ何ら解消に繋がらないということになります。
 今私達に必要なことはストレスをストレスと正しく認識して、早期にストレスを解消し、後に引きずらないようにしていくことが大切なのです。」

 2003年4月に 「緊急時メンタルサポートチーム」 が発足します。
 東京消防庁は、消防士の健康管理のため、消防署ごとに精神科の医師やカウンセラーを派遣しています。悲惨な事故現場に出動した消防士には、ストレス障害などに関する相談を義務づけています。
「緊急時メンタルサポートチームが要請を受けて消防本部に赴いて、消防職員の心のケアに当たるという活動を今も継続してや っております。私もその一員ですので、緊急時 メンタルサポートチームの活動について、具体的にお話させていただきます。
 緊急時メンタルサポートチームとは、『惨事ストレスの発生が危惧される大規模災害、特殊災害、または多数の死傷者を生じた災害等が発生した場合、現地からの要請等に基づき、消防庁があらかじめ登録した精神科医、臨床心理士等を消防本部等に派遣し、消防職員および消防団員の惨事ストレス対策を実施するもの』 とあります。活動実績としては、平成25年 (2013年) 6月時点で、これまで53件の消防本部等へ派遣され、2.266名のケアを実施しております。私自身は、東日本大震災から緊急時メンタルサポートチームとして活動を開始しております。2011年5月から岩手県、宮城県、大阪、それか ら福島県にも派遣されました。」

 東京消防庁の取り組みについては11年9月30日の 「活動報告」 で紹介しました。
 東日本大震災での福島原発事故に対する東京消防庁の放水活動において、上司は最も危険な持ち場に立って隊員を指揮していました。これで部下は恐怖を安心感と信頼感で克服して作業を続けることが出来ました。そして達成感をもって任務から離れることができました。
 震災の6か月後に開催された救助活動の報告会で体験談を語ってくれた消防士に終了後に 「ストレスを感じませんでしたか」 と遠回しに質問しました。「ああ、惨事ストレスのことですね」 と即座に受け止められ 「東京消防庁はきちっと対応しています」 と回答が返ってきました。
 被災地から帰った隊員にはちゃんと専門家が体験したことを語らせ、体験交流をしてストレスを解消させているということでした。隊員1人ひとりに心情を 「ちゃんと吐かせます」 と語っていました。
 派遣された3000人以上の隊員から体調不良者は出ていないということでした。
 話を聞いて改めて安心できました。頼もしく感じました。
 

 緊急時メンタルサポートチームについてです。
 消防庁消防・救急課は大きな台風など災害が発生するたびに関係都県消防防災主管課に 「惨事ストレス対策について」 の 「事務連絡」 を出しています。
「……場合によっては、今後、活動にあたった消防職団員の惨事ストレスが危惧されるところですので、各消防本部等におかれましては、今回の災害において現場活動に従事した消防職団員の身体的・精神的ケアについて、十分留意していただくようお願いいたします。
 惨事ストレスに関する資料及び消防庁緊急時メンタルサポートチームに関する資料を添付しますので、参考にしていただければと存じます。
 また、消防庁緊急時メンタルサポートチームに関する相談・要請等がある場合には、下記までご連絡ください。」
 そしてA4で11ページの 「惨事ストレスに関する参考資料」 が添付され、まず惨事ストレスの説明があります。
「人間は何らかの外的要因により引退と同様に心にもさまざまな傷を負うことがあります。この心身に不快をもたらす要因をストレッサーと呼び、それが非常に強い場合には、心的な交渉を残すことがあり、これを心的外傷 (トラウマ) と呼びます。……
 消防職員などの災害救援者は、凄惨な災害現場活動に従事することで、被災者と同様の強い精神的ショックを強いられる他、職業的責任により忌避できない立場や身の危険が脅かされることがあるなど、一般の被害者とは異なる心理的影響を受けます。こうした状況下での心理的負荷を 『惨事ストレス』 (CIS) と呼んでいます。」
 そして、管理職の役割や個人診断のための 「惨事ストレスによるPTSD予防チェックリスト」 も含まれています。さらに具体的症状と対策をわかりやすく解説しています。

 「事務連絡」 の効果は大きいです。
 トップがこのような連絡を出すということは、隊員の体調を心配している、体調不良を隠したり、我慢して無理をするなというメッセージです。そうすると隊員は組織を信頼し、安心して任務を遂行することができます。これは災害支援や危険な状況での対応では特に大切なことです。
 惨事ストレスは誰にでも起こり得ることと明言しています。自分のわがままで他の隊員に迷惑をかけるのは申し訳ないという意識に陥ることを防ぎます。早期対応ができます。逆に無理をして重傷に陥る隊員が続出することが組織にとっては最大のリスクで、他の隊員にも不安が生まれてしまいます。
 組織トップが心身を大切に守れと呼びかけ、隊全体にそのような雰囲気が浸透すると安心感とゆとりが生まれ、周囲の隊員たちへの気遣い、気配りも可能になります。お互いに体調を守り合うことになっていきます。そして仲間との信頼関係を築きます。


 京都アニメーション放火事件の犠牲者並びにご家族の方々に繰り返し哀悼の意を表するとともに、救援活動に従事された消防、警察、医療機関等々の方がたに感謝とお礼を申し上げます。

 「消防士の惨事ストレス対策」
 「活動報告」 2016.2.10
 「活動報告」 2013.4.2
 「活動報告」 2011.9.20
 「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」 ホームページ・ご相談はこちらから
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誰のための高校野球
2019/07/30(Tue)
 7月30日 (火)

 7月25日に開催された夏の高校野球岩手県大会決勝戦で、大船渡高校の佐々木投手が監督の判断で出場を回避したことに賛否さまざまな意見が寄せられています。
 佐々木投手は前日の試合にも登板し129球を投げています。監督は 「投げられる状態であったかもしれないが、私が判断した。理由としては故障を防ぐこと」 と説明。佐々木投手は投げられる状態だったが、「監督の判断なのでしょうがないです」 と話しました。
 このなかには、高校野球、高校野球全国大会、スポーツ界をめぐる問題、教育界を巡る問題などさまざまな問題が含まれています。

 高校野球です。
 クラブ活動は、就職のための面接手段ではありません。だれかに見せる・見てもらうことを目的にしません。高校生活のなかで好きなこと、得意なことを仲間と力を合わせて発揮したり鍛える活動です。試合をするからには勝つことを目指して奮闘しますが、結果は負けることもあります。
 勝つことで学校の名声が高まるのは名誉です。しかしそれは結果であって、学校のために勝つことを目指すのは本末転倒です。
高校かぎりで野球生活を辞めると決めているなら、いま多少無理をすることもできるでしょう。しかしこの後大学やプロ野球で選手生活を続けることを希望するのなら今無理をするのは危険です。危険を予知しながら投げさせるのは無責任で、指導者のやるべきことではありません。大船渡高校野球部監督の判断こそはまさしく選手の側に立った、将来をも見据えた判断です。

 各地の高校は全国からさまざまな条件を提示して選手を勧誘します。
 ある年の夏大会で優勝した沖縄の高校に、親元を離れて寮生活を送る兵庫県出身の選手がいました。甲子園大会出場は帰省のようなものでした。優勝旗を掲げての沖縄への凱旋は故郷をあとにすることでした。
 ある年の夏大会で準優勝した北海道の高校の選手たちのなかには北海道出身の選手はほとんどいませんでした。
 高校にとってはテレビ、新聞などに名前がでると、部員以外の生徒も集まり、学校経営は潤います。生徒は有名校に在籍していることを名誉に感じています。
 箱根駅伝出場の常連校のある大学は優勝候補に名を連ねるようになったら受験生が万単位で増えました。今、大学入試の受験料は2万5千円です。膨大な収入増となります。部や選手をどのように優遇してもおつりがきます。部活動が学校経営の手段となっています。

 では選手はどうでしょうか。
 高校生の身体は成長期です。大学生もそうです。
 期待されてプロ野球に進んでも活躍できなかった選手がたくさんいます。なにが原因だったのでしょうか。それについては検証されたことがありません。 成績を上げられなかったときにいわれるのは身体管理、健康管理は自己責任、それを怠った、です。
 ではいつ怠ったのでしょうか。プロ野球入団前のことは問題視しません。
 検証されないこととエビデンスがないことは別の問題です。検証しないのはエビデンスを作らないためです。
 実際は高校時代に身体管理、健康管理を怠ったのではないでしょうか。そこには関係者それぞれ無責任体制があります。

 日本以外では経験的にもエビデンスが存在します。
 新潟県高校野球連盟は、昨年12月22日、19年の春季県大会限定で、投手の投球数を1試合につき1人100球までにする 「球数制限」 を導入することを全国で初めて明らかにしました。しかし日本高野連は了承しませんでした。エビデンスがないからです。


 無理をしても投げろという世論、圧力は大きいです。
 チームメイトのために、学校の名誉のために、郷土のために、ファンのために・・・
 選手はたとえチームであっても他者のために犠牲にならなければならないのでしょうか。チームメイトのためにというとき、なにがそういう思いにさせたのでしょうか。学校、名誉、郷土、ファンは選手あってのもので、その逆ではありません。
 この問題を考えるとき、戦時中の 「出征兵士」 を連想します。お国のために・・・、「死んで帰れ」 です。この無責任な連呼のために多くの人たちが亡くなりました。そして今、まさしく身体を壊すことがわかっていても 「〇〇のために」 が連呼されます。無責任です。そして怖いです。


 休養日を設定すればいいという意見があります。地区大会なら可能かもしれません。
 しかし、年に全国でいくつもの大会が組まれているなかにあってはスケジュール調整に難しい問題があります。
 3月26日の 「活動報告」 でも書きましたが、全国大会の地元校以外は選手の移動費、滞在費の工面が大変です。ベンチ入りする選手以外にも顧問、コーチ、マネージャーなどが同行しますが本人負担ではありません。地元では学校の奨学会、PTA、同窓会、後援会などが資金作りに奔走します。
 さらに試合当日は大勢の応援団が駆けつけます。生徒の応援団は学校負担になりますが、保護者等は自己負担です。応援団は経費削減のため、遠路からでもバスでの移動、睡眠になります。勝ち続いた時はいったん帰省してまた出かけてきます。体力維持は大変です。
 選手たちが頑張っているときに金のことをつべこべいうなという反論が出ます。そういう人たちはお金を出しません。
 そして教師の長時間労働がおきます。いま、教師の長時間労働の原因の一つとしてクラブ活動に裂かれる時間が問題になっていますがまさしく直撃します。しかしそのときにも 「生徒が頑張っているのだから」 と押し切られてしまいます。

 甲子園大会は年2回も開催する必要があるのでしょうか。しかも誰のためにでしょうか。しかもその1回は真夏です。
 学校が休みの期間に開催しているという意見がありますが、だとしたら国体での高校生の競技・球技はなくすべきです。そもそも年間に大会と名の付く競技・球技が多すぎます。むしろ全国大会は、会場にこだわらずに、国体だけにした方がいいのではないでしょうか。


 もう一度3月26日の 「活動報告」 です。
 内田良著 『学校ハラスメント 暴力・セクハラ・部活動―なぜ教育は 「行き過ぎる」』 (朝日新書) が刊行されました。
 著者は、甲子園大会に “疑問” を投げかけています。
「『体罰』 問題の検討に入る前にまず、指導者を含む大人全体が、スポーツ活動時の生徒の身体を侵害しうるというところから出発したい。具体的には、高校野球の甲子園大会を例にとって考えていきたい。
 夏の甲子園 暑いからこそ感動する?!
 ・・・
 夏の甲子園大会は、日本のアマチュアスポーツ最大のイベントである。都道府県を代表する高校球児が、『深紅の大優勝旗』 を目指して闘いを繰り広げる。
 その姿を見て、例年のように話題になるのが、甲子園球場の 『暑さ』 である。『そこまで暑い中でやらなくても・・・』 と心配しる声も聞かれる。
 しかし高校野球においては、『青い空、白い雲。照りつける夏の日差し。日本の夏は甲子園が似合う』 と言われるほどに、『「暑い夏」 と 「甲子園」 は欠かせぬ “舞台装置” である』。『暑い夏』 に、選手が必死にプレイする姿に、私たち観客や視聴者は、甲子園固有の魅力を感じる。
 熱中症に気をつけねばならないほど暑いからこそ、甲子園は盛り上がる。高校野球を、空調の利いたドーム型球場で開催するなど、ありえないというわけだ。
 暑さが高校野球を盛り上げる重要な装置だとしても、それはつねに熱中症という負の側面と紙一重である。暑さは、甲子園大会を引き立たせる魅力であると同時に、選手においては健康面での重大なリスクファクターでもある。
 現時点では、球場としてもまたチームとしても諸々の熱中症対策がなされているものの、『なぜあの炎天下でスポーツをしなければならないのか』 という根本的な訴えは、ほとんど放置されている。」

「暑さの問題を考えるとき、もう一つ目を向けるべきところがある。アルプススタンドだ。高校野球では、私たちはつい、選手の活躍ばかりに見入ってしまう。だが、もしかして選手以上にしんどい思いをしているかもしれないのが、アルプススタンドの高校生たちである。
 あまり知られていないことだが、じつは甲子園のベンチには、エアコンが備え付けられている。ベンチの背面の壁とイスの間から冷風が出てくるという。したがって、選手はベンチにいるときは、日陰のもと比較的涼しい環境にいる。
 他方で、アルプススタンドにいる応援団はどうだろう。とくに、私が 『文化系運動部』 と呼んでいる吹奏楽部は、チームの攻撃中、そこで吹奏、いや運動をつづけなければならない。相手チームの攻撃時は、いちおう休みをとることができるが、そうはいっても、選手がいるベンチとはちがって、日陰もなければエアコンもない。」

 学友を応援するということで教育の一環と位置付けられて強制される応援は、戦時中の出征兵士を送る故郷の儀式に似ています。そのことをさらに強く感じさせるのが、高校野球だけではないですが、多くの競技・球技が 「国歌斉唱」 「国旗掲揚」 ではじまり、終了するということです。
 競技・球技が国家のためと一体となる (させられる) ことと、チームメイトのために、学校の名誉のために、郷土のために、ファンのためにと強制される一体感は選手としての ”自己を殺されます”。
 社会からのさまざまな圧力に抗して自立した個を確立した選手が集まったチームは勝つことの本当の意味を確信できます。

 スポーツは、誰のためではない、自分のためにやっているということを選手たちが自覚して楽しむことを取り戻す時が来ているのではないでしょうか。だれからも、どのような強制もうけないものにしなければなりません。
 生徒も教師ももっともっとゆとりを持って本業の教育に打ち込めるようにしていかなければなりません。
 そうするとファンはもっと楽しんで応援できます。

 「活動報告」 2019.7.12
 「活動報告」 2019.3.26
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