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韓国の郵便労働者 年平均労働時間3364.8時間 (13年)
2017/11/07(Tue)
 11月7日 (火)

 9月12日のレイバーネットは韓国の過労死に関する記事を載せました。
 見出しは 「『月火水木金金金』 による自殺と過労死はOUT 30団体が集まり共同対策委を構成・・・懸案闘争と法制度改善活動を開始」 です。韓国でも過労死に対する対策が始まりました。記事を抜粋します。

 民主労総、過労死予防センター、健康権実現のための保健医療団体連合など、約30の社会団体が結合した 「過労死OUT共同対策委」 は9月12日、ソウル市中区貞洞フランチェスコ会館で発足式を開き、事業目標と活動計画などを明らかにした。
 対策委は 「月火水木金金金の労働を強要され、九老デジタル団地で、映画放送の製作現場で、郵便物の配達をしながら、運転しながら、過労で死んでいく労働者の行進が続いている」 とし 「OECD最長の労働時間、自殺率を記録する韓国の現実は 本当に絶望的でみじめだ」 とした。
 また 「週40時間という法定労働時間は、労働部の行政解釈と無制限労働を強要する労働時間特例、包括賃金制など各種の労働悪法で紙切れになって久しい」 とし 「法定公休日でも有給が認められない中小零細事業所の労働者たちは休むことができず、蔓延する包括賃金制によって低賃金長時間労働に苦しむ労働者は無償の労働まで強要されている」 と批判した。
 対策委は 「夕べがある人生」、「仕事と家庭が両立する人生」、「全国民の平等な休息権を保障する人生」 への大転換のために、四種類を要求した。△長時間低賃金労働即刻中断、△労働時間特例、包括賃金制など長時間労働を強要する労働悪法に対する国会次元の廃棄、△法定公休日・有給休日の法制化および労働時間二極化解消法案即刻通過、△週労働時間に対する行政解 釈廃棄と過労死に対する監督処罰強化だ。
 共同代表になった民主労総のイ・サンジン副委員長は 「これ以上くやしい死を放っておけず、労働者と市民社会が一つになって今日、さまざまな改革目標を確定した」 とし 「今日の出帆式は、これからの懸案闘争と制度改善闘争を含み、 積極的に元気良く活動することを決意する場」 と明らかにした。
 今後、対策委は 「過労死予防センター」 を中心として過労死、過労自殺に対する法律、医学相談支援体系疎通網を拡大強化する一方、労働時間短縮と予防補償のための法の制度改善を進める計画だ。過労死多発企業を選定し、定時退勤文化祭、言論寄稿など大衆キャンペーンも行う予定だ。

 韓国で過労死問題はマスコミで頻繁に取り上げられています。
 「月月火水木金金」 は日本の海軍の軍歌の歌詞です。そして長時間労働を容認する制度は日本とそっくりです。
 経済協力開発機構 (OECD) の16年8月発表では、韓国の就業者1人当たりの平均勤労時間は年2.113時間でOECD加盟国のうちで2位です。
 日本は、OECDに報告する厚労省の調査と総務省調査には大きな差があります。総務省調査では、一般労働者の年間総労働時間は2000時間を超えています。また産業別で大きな開きがありますが放置されています。


 韓国の郵便配達の労働者についての実態です。
 7月24日のハンギョレ新聞に 「郵政労組『配達人は機械ではない』 ・・・過労死根絶対策を求める」の見出し記事が載りました。記事を紹介します。
 全国郵政労働組合 (郵政労組) は22日、ソウル中区 (チュング) のソウル広場で 「全国郵政労働者総決起大会」 を開いた。全国8カ所の地方本部、248カ所の市郡単位の支部から1万3.000人余り (警察推算8.000人) の配達員が集まり 「過労死や突然死防止のための特段の対策を直ちに用意せよ」 と政府に求めた。配達員労働者たちは 「配達人は休みたい、労働時間を短縮せよ」 書かれたプラカードを持って 「配達人は機械ではない、不足人材を補充せよ」 と叫んだ。
 最近、配達員が過労死したり、自ら命を絶つ事件が相次ぎ、配達員の勤務環境を改善しなければならないという声が高まっている。郵政労組の主張によると、宅配量が増加し1人世帯が急増したことで、1日の配達の走行距離が80~100キロメートル以上の配達員が600人以上に達している。しかし人手不足のために大多数の配達員労働者は早朝5時に出勤して9時過ぎに退社する 「長時間重労働」 に苦しんでいる。
 状況がこうであるため、突然死・交通事故・自殺などの配達員の人命事故も相次いでいる。6日、京畿道安養市 (アニャンシ) 安養郵便局付近で同郵便局の集配員のW氏 (47) が自ら体に火をつけて命を絶った。郵政労組によると、今年だけで12人の郵政労組の組合員が過労死・突然死や焼身自殺で亡くなった。この5年間、長時間労働やストレスによって配達員70人余りが死亡しており、このうち15人は自殺だった。キム・ミョンファン郵政労組委員長は 「これまで私たち郵政労働者はこの仕事が天職だと思って死ぬほど仕事ばかりしてきた。しかし、死ぬほど仕事ばかりしたために我々の同僚たちが相次いで死んだ。過度な業務による過労やストレスが主な原因だが、郵政事業本部は死の行列の前で実効性ある対策を出せていない」 と批判した。
 郵政労組はこの日、「郵政事業本部糾弾決議文」 を通じて、未来創造科学部長官や郵政事業本部長は人材の補充など大統領の約束を履行し▽倒れる配達員を救い労働時間を短縮するため3600人余りの労働者を直ちに増員するよう要求した。また▽雇用労働部は配達員の過労死の根絶のための郵便局の特別労働監督を即時施行せよと決意した。
 配達員労働者たちは 「過労死」、「突然死」 と一文字ずつ書かれた氷を叩き壊すパフォーマンスを行った後、市庁駅から光化門 (クァンファムン) 広場など光化門通りを街頭行進した。


 「この5年間、長時間労働やストレスによって配達員70人余りが死亡しており、このうち15人は自殺だった」 に関する他の記事です。
 13年12月2日のハンギョレ新聞です。
 先月 (13年11月)、1か月に郵政本部所属の労働者3人が相次いで死亡したのだ。
 全国郵政労働組合 (郵政労組) と <集配人の長時間・重労働をなくす運動本部> (運動本部) はこれら労働者の死亡原因として、長時間労働から来る過労を指摘した。
 <社会進歩連帯> 付設の労働者研究所が2日に公開した 「集配労働者の労働災害や職業病の実態と健康権の確保策に関する報告書」はこのような主張を裏付ける。報告書は去る3~4月の1ヵ月間、正規職と非正規職の郵便配達労働者246人の労働実態を標本調査した内容を盛り込んでいる。調査の結果、郵便配達労働者は他の労働者に比べてはるかに長時間勤務をしながらも賃金は逆に少ない。 業務中に負傷する被災率も労働者の平均を上回っている。
 正規職郵便配達員の年平均労働時間は3364.8時間に達し、正規職労働者全体の平均労働時間 (2013年3月基準2226.5時間) より1138.3時間長かった。非正規職集配員の年間労働時間も正規職の郵便配達員と同じく3364.8時間だったが、これは非正規労働者全体の2127.4時間より1237.4時間も長い。物量が集中するお盆・正月などには一日の労働時間は15.3時間に及んだ。
 一方、賃金は逆に少なかった。年平均賃金を年平均労働時間で割った単位時間当たり平均賃金は、正規職郵便配達員の場合は9543.5ウォン、非正規職集配員の場合は6144.7ウォンだった。これは正規職全体の62%、非正規職全体の78%水準だ。
このような長時間・低賃金の労働環境は、集配員労働者たちの健康を蝕む結果を生んだ。調査の結果、筋骨格系疾患の症状を訴える集配員が74.6%に達した。10人中7人以上が症状を持っているという話だ。すぐに医学的な治療が必要な疾患が疑われる者も43.3%に及んだ。
 業務終了後の脱力経験を数値化した脱力点数も48.2%に達した。報告書は 「1日平均の配達物量である2.000通を実際の配達時間の6時間で割ると、11秒に1通ずつ配達しなければならない。郵便配達労働者が脱力に苦しめられるのは当然だ」 と指摘した。
 全国民主労働組合総連盟 (民主労総) のチェ・ミョンソン労働安全局長は 「配達員たちに最も多く見られる筋骨格系疾患の主要原因は、長時間労働だ。人員の増員と業務量調節を通して、休憩時間を確保するなどの努力が必要だ」 と述べた。


 15年8月20日の毎日労働ニュースです。
 郵政労組と新政治民主連合の国会議員は19日、国会で 『郵政労働者の重労働の実態と郵便収支の赤字構造対案摸索討論会』 を行った。提案者のソン・ポファ・良い政策リサーチ研究所長は 「郵政本部が経営収支の悪化によって人員を削減し、労働者が災害に遭っている」。「長時間労働で発生する労災事故を減らすためには、人員を補充しなければならない」 と提案した。
 国会・未来創造科学放送通信委員会のムン・ビョンホ・新政治民主連合議員が郵政本部から提出させた、郵政職・集配員の災害率と死亡率の内訳によれば、2010年から2014年までに郵政職公務員1.308人、集配員1.546人が業務上災害に遭った。郵政職公務員に含まれている集配員の人員を勘案すれば、5年間に1801人が災害に遭ったことになる。同じ期間に郵政職公務員24人、集配員26人が事故で亡くなった。郵政職公務員では事故よりも心臓まひ・脳出血などの疾患で亡くなったケースが多かった。集配員は同期間に交通事故で13人が死亡し、疾患による死亡事例 (9人) よりも多いことが分かった
 ソン所長は郵政業務従事者の労災頻度が高い理由として、長時間労働を挙げた。韓国労働研究院が2013年7月から11月までに職員5237人を対象にアンケート調査と深層面接を実施した結果、郵政労働者は法定労働時間より2.2時間多い11.03時間働いていることが明らかになった。回答者のうち47.2%が「1か月に3週以上は12時間以上の延長労働をする」と答えた。筋肉痛を経験した回答者は89.2%、腰痛を経験した回答者は24.2%に達し、長時間労働による疲労度が高く現れた。
 ソン所長は 「郵政労働者が長時間労働と過度な業務に苦しめられる問題を解決するためには、人員を補充しなければならない」 と主張した。郵政本部は郵便の物量と売上額が減ると直ぐに人員削減を実施した。郵政本部は情報通信の発達によって下落傾向が続くと予想して、リストラを実施した。
 昨年、郵政本部は正規職職員1.019人を削減した。OECDの主要国対比の郵政人員比較資料によれば、郵政本部の人員は絶対不足の状態だ。ドイツは郵政従事者1人当りに国民195人、オーストラリアは1人当りに724人を担当するのに対して、我が国は1人当り1163人を担当する。このような状況で郵政本部がリストラを実施し、郵政労働者の業務量が急激に増えた。
 ムン・ビョンホ議員は 「長時間労働は労災に繋がり、個人と家庭に致命的な被害を与える」 とし、「郵政本部はリストラで経営効率を図るよりも、すべての労働者の人間らしい暮らしを保障しなければならない」 と強調した。

 韓国の郵便事業は政府が運営しています。慢性的な赤字状況にあり、それを克服するために頻繁に人員削減が行なわれ、現場の集配員は土曜勤務や繁忙期の徹夜勤務を強いられています。
 業務量も増え続けています。昨今の日本のヤマトなど宅配便業界の状況と似ています。
 労働組合だけでなく市民団体も、例えば氷点下7度以下の時には配達を中止するなど郵政事業の労働者の立場に立った要請書を郵政本部に提出しています。


 韓国はなぜこのような長時間労働が許されているのでしょうか。
 1月12日の日経産業新聞で、策研究大学院大学の魏茶仁准教授は理由を3つ挙げています。
 1つ目は労働者に交渉力がない点。魏氏は 「企業の権限が強すぎて、契約社員は雇用主に何も要求できない」 と指摘します。2つ目は長時間労働に陥りやすい賃金構造。賃金が非常に低いため 「収入を増やすには残業するしかない。(長時間働いている人の) 多くは契約社員だ」。3つ目は上司が長時間労働を当然と考える企業文化にあります。こうした環境では、部下は職場に長時間いなくてはならないという圧力を感じます。
 長時間労働を受け入れる風潮では社会が持ちません。
 14年の韓国の合計特殊出生率は1.2とOECD加盟国の中で最も低く、日本の1.4をやや下回っています。13年の韓国の自殺率は人口10万人あたり28.7人で、OECD加盟国の中で最も高くなっています。残業は人々の生活満足度に負の影響をもたらすことが各種調査で示されています。


 エスニックジョークです。様々な民族の人が乗った豪華客船が沈没しそうになったとき、それぞれの乗客を海に飛び込ませるには、どのように声をかければいいか。
 日本人には 「みなさん飛び込んでいますよ」 と呼びかけます。
 韓国人には 「日本人はもう飛び込んでいますよ」 と呼びかけます。

 日本の労働者と労働組合は、みんなも残業をしているという意識を打破し、韓国の労働者に 「日本では長時間労働はすでに解消されていますよ」 といえる状況作りを急がなければなりません。
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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「STOP THE KILLING!」
2017/11/01(Wed)
 11月1日 (水)

 10月28日、講演会 「“愛国的脱走兵” が語る非戦- 『イントレピットの4人』 から50年-」 が開催されました。
 ベトナム戦争最中の1967年10月23日、横須賀基地に停泊中の米空母イントレピッド号から4人の米兵が脱走しました。20歳が1人と19歳が3人です。
 脱走を支援し、4人をかくまったのはベ平連 (ベトナムに平和を! 市民連合) です。記者会見を行って 「イントレピッドの4人の愛国脱走兵」 の共同声明文を公表します。

 講演会では、その共同声明を執筆したクレイグ・アンダーソンさんが講演をおこないました。
 ベトナムに向かうに際して、自分の役目はなんだろかと考えました。ベトナムについては何の情報もありませんでした。
  脱走は臆病者がすることと思っていましたが、政府が間違ったことをしたら立ち上がろうとも思っていました。だから 「愛国的脱走兵」 と呼んでいます。
 67年10月23日、横須賀基地に停留中、自分の良心を裏切るのをやめて、3人と一緒にその夜は艦に戻らないことを決めました。「これからは、誰も殺さないし、無辜なベトナム人を殺したくない」
 当時、日本は戦後22年経っていましたが日本人は幸せには見えませんでした。アメリカが原爆を落としたからです。そういうこともあって、脱走後は公園で寝たりしました。

 ベトナムで米兵は5万8千人が死んだと発表しています。しかしベトナム人を150万人虐殺しています。トンキン湾事件などは報道がなければ知りえません。メディアはフィルターをかけて報道していました。政府にコントロールされていました。
 世界中に米軍基地は今も173あります。アメリカの歴史はこれらを使いながら帝国を築いてきました。

 ベトナム戦争に反対しているものは敵か。そうではありません。ジェンフォンダは反戦運動に参加していました。
 キング牧師は67年4月に反戦演説 「ベトナムを超えて」 をおこないます。
「沈黙が裏切りになる時があります。今その時が訪れました。ベトナムとの関係において・・・」 「我々は今、黒人と白人の若者が一緒に殺人を犯し死んで行くという残酷な皮肉に直面しています。現在戦われている戦争を無視してアメリカの誠実さを語ることはできないのです。」

 4月末にボクシングのヘビー級チャンピョンのカシアス・クレイ (モハメッド・アリ) が徴兵に応じることを拒否して記者の質問に答えます。
「おれは自分の良心に従い、おれの兄弟や肌の黒い人、泥の中に暮らす貧しくて飢えた人を、でっかくて強いアメリカのために決して撃たない。いったいなんのために彼らを撃つんだ。彼らはおれをニガーと呼んだことはないし、リンチしたこともない。おれに犬をけしかけたこともない。おれの国籍を奪ったこともない。おれの母親と父親を強姦しても殺してもいないんだ」

 日本からスウェーデンに渡り、カナダ経由でアメリカに帰ります。72年、FBIに逮捕され軍法会議にかけられますが、懲戒除隊処分をうけて釈放されます。アメリカは、ベトナム戦争を開始するのに議会を通していませんでした。宣戦布告もしていません。このことを訴えました。
 アメリカは、ベトナム戦争後は後ろを振り返ってばかりいます。


 当時、脱走を支援し、脱走兵をかくまったのがベ平連です。かつてのべ平連の人たちも参加していて、講演の後、さまざまなエピソードを披露しました。
 ベ平連は、それ以前からベトナム戦争反対の運動を展開していました。1965年11月16日のニューヨークタイムス紙にカンパを集めて 「STOP THE KILLING! STOP THE VIETNAM WAR!」 の意見広告を載せます。カンパは止みません。知識人たちも数寄屋橋公園に立ってカンパを呼びかけ、67年にもう一度載せます。

 ベ平連とは何か。当日配布された資料に簡単な説明文が載っていました。
「反戦・平和が日本において主要な争点だったのは、それだけ戦争体験が影を落としていましたが、戦争体験のない若者も自発的に参加していました。若者たちは、戦争体験もないのに、かた直接に被害を受けている体験もないのに、ベトナム戦争に反対の声を次々にあげるようになりました。その中心のひとつが、『ベ平連』 (ベトナムに平和を!市民連合)」 でした。『べ平連』 は、アメリカの新聞への反戦広告掲載、国際反戦集会の開催、脱走兵支援、定例デモの継続、大阪万博への反対、反戦喫茶の開設など、斬新な企画を次から次へと実現してきました。そしてベトナム戦争に反対する人びとは自分たちを 『べ平連』 であると名乗り、ベトナム戦争に反対の声をあげたのは、なぜなのでしょうか」
「地域べ平連は発足当時から、地域とベトナム戦争との具体的なつながりを明確に意識していたわけではなく、運動の中で 『地域の中のベトナム戦争』 を発見していったことです。また、反戦運動から派生した地域の多様な諸課題も発見されていきます。たとえば、千葉べ平連の 『三里塚は 『ベトナムより遠い』 ものであった』 の証言は、ベトナム反戦運動が三里塚闘争への参加の回路を開いていったことを物語っています」


 非核市民宣言運動・ヨコスカ/平和船団の新倉さんが横須賀の運動を紹介しました。
 横須賀でも68年にべ平連が発足します。その後、運動は 「ヨコスカ市民グループ」 に発展していきますが、一貫して米兵、自衛隊へのさまざまな働きかけを続けています。今年の10月で毎月1回行っている定例デモは500回を数えました。
 2015年8月、横須賀市内の1334戸の自衛隊官舎にアンケートのお願いを返信用封筒を添えて投函しました。12月30日までに22通の返信がありました。13通が自衛隊、9通が家族です。
 質問は5項目です。
1、安保法制の審議で、自衛官や家族の気持ちや現場の事情が考慮されていると思いますか。
 ①考慮されている 自衛官本人4、家族1
 ②十分に考慮されているとはいえない 自衛官本人6、家族2
 ③まったく考慮されていない 自衛官本人1、家族4
 ④その他 自衛官本人1、家族2 「しかたがない」 「国防優先」 「考慮に必要ない」 です。

2、新たな安保法制では、自衛隊の任務が拡大されます。あなたが自衛隊に入った時、日本の防衛
 ではなく、外国の軍隊の支援で海外に行くことを想定していましたか。(自衛官のみの回答)
 ①想定していた 6
 ②想定していない 6
 ③その他 1

3、あなたが自衛官になった目的は何ですか。(複数回答可)
 入隊目的はひとつだけという方は少数でした。「国土防衛」 7件、「国民を守る」 と 「やりがいを
 求めて」 が6件、「国際協力」 5件、「災害救援」 4件、「たまたま」 と 「社会的安定」 が1件でした。

4、「自民党改憲草案」 には、自衛隊を国防軍にするとあります。あなたは自衛隊が国防軍になることを望みますか。
 ①望む 自衛官本人7、家族2
 ②望まない 自衛官本人4、家族4
 ③どちらともいえない 自衛官本人1、家族3

5、憲法9条が自衛官の命を守っていると思いますか。
 ①思う 自衛官本人2、家族3
 ②思わない 自衛官本人7、家族4
 ③いわれてみればそうかもしれない 自衛官本人0、家族2
 ④わからない 自衛官本人2、家族0
 設問者は 「思わない」 の理由が 「自衛官を守る必要がない」 ということなのか、9条に
 「守る力がない」 ということなのか判断が難しいと、後でコメントしています。

 自衛官から返信が届くということだけでも驚きです。長年の運動が信頼関係を獲得しています。

 アンダーソンさんは来日する前のインタビューで、過去への郷愁ではなく現代への問いかけをしています。
「ベトナム戦争は終わったが、あの戦争を支えた軍事の構造や日米の共犯関係は現在も存在しつづけている。かつてベトナム戦争に立ち上がった日本人が今何を考えているのか知りたいし、今後どうすればいいのか、特に若い世代と議論をしたい」
 韓国からは良心的徴兵拒否運動の若者5人が挨拶をしました。
 安保関連法が軒並み成立し、自衛隊の海外派兵も進んでいます。自衛隊は強化されています。それはその分危険に曝されているということでもあります。
 戦争反対と叫ぶとき、平和とは何かと考える時、現に存在する自衛隊・自衛官を抜きにすることはできません。
 自衛官に人を殺させてはいけません。人を殺してはいけないと語りかける必要があります。その時に、ベ平連運動やヨコスカの経験を共有し、どう力にしていくかが課題になっていきます。
 憲法に自衛隊を盛り込む策動に対しては、あらゆる手段を行使して止めさせなければなりません。

   「活動報告」 2017.9.12
   「活動報告」 2017.1.12
   「活動報告」 2014.171
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あらためて 「働きかた改革」 反対
2017/10/24(Tue)
 10月24日 (火)

 衆議院選挙の最終日の夕方、新宿バスタ前の立憲民主党の街頭演説会に行きました。
 枝野代表と福山幹事長が演説をするということで、主催者発表で8000人が集まりました。実数は半分、3分の1としてもすごい数です。雨の中、みな自主的に傘を畳んでいます。
 演説者の姿は終始まったく見えませんでした。それでも演説をしていると思われる方を向いて静かに聞き入り、拍手をします。よくある 「○○!」 コールもたまに起こりますが唱和されません。集まっている人たちは経験がないようです。国会前などとはまた違う人たちが集まっているようです。年齢層も10歳くらい若いように思えました。
 この現象は何なのでしょうか。
 安保法制の国会審議の時は国会前に大勢の人びとが駆けつけました。憲法が壊される、軍備が強化されるという危機感です。
 今回の選挙に人びとを駆り出させたのは閉塞感から解放されたいと脱出口を探していたのではないかと思われました。安保法制の強行採決などだけからではなく、この間の生活実感はずっとそうだったのでしょう。そのなかで、自分の思いが共有できる、期待できそうな候補者がやっと登場したという思いなのだと受け止めました。演説者の 「草の根の立憲主義」 は説得力をもって受け止められました。
 選挙結果は、希望の党は人を騙す、ひどすぎたということではありません。
 人びとの意識に変化が見られます。このことを見過ごすし、足し算・引き算で議論を進めるとこの先も見誤ります。

 希望の党の選挙公約には、その後言い変えられましたが、当初「生産性を向上させるため働きかた改革を推し進める」の項目がありました。希望の党は、安全保障の問題だけでなく、自民党と違いがありません。


 先日、使用者側が主催する「働きかた改革実行計画」の講演会に参加しました。講師はこの計画作成に深く携わった方です。講師は 「希望の党が登場した時には、このあと国会で働きかた改革法案を審議する時にさほどの混乱もなく通過すると安心しました」 とストレートに発言しました。しかし立憲民主党の登場でどうなるかどうなるかわからなくなりました。
 講演内容は 「働きかた改革実行計画」 ・働きかた改革法案の解説です。しかしその方向性に注視しなければなりません。
 労基法第三十二条は時間外労働です。
「使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。
 2 使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。」
と謳っています。時間外労働は例外規定です。
 政府は、実行計画で現行の限度基準告示を法律に格上げし罰則によって強制力を持たせ長時間労働に歯止めをかけたと繰り返し主張しています。しかし実際のトーンは、逆に 「ここまで残業させても違法にはならない」 です。
 時間外労働の限度時間の月45時間、年300時間が通常となり、そのうえで特例が年間720時間、さらに一時的に事務量が増加する場合について、上回ることができない上限を設けています。上限は、2か月から6か月の平均で、いずれも休日労働を含んで80時間以内、単月では100時間未満で、特例は年半分を上まわらないようにするということです。
 上限を設けたという説明の中で労使協定の締結では下限が引き上げられる雰囲気がつくられていきます。
 企業は時間管理が複雑になります。これに対して政府は制度制定にコンサルタントを依頼するときは補助金を出すことを予算化しています。そしてソフト会社は制度を受け入れるソフトを開発して売り込みを開始しています。
 労働者を外部や器機に依拠してしか管理できない複雑な制度は、そもそも労働者保護の視点が欠落しています。

 月45時間は、厚労省の 「過重労働による健康障害を防ぐために」 の対策の中で 「健康障害のリスク」 が高くなるラインです。しかし改革といいながらそのラインを越えた、「月100時間未満」 以外はこれまでの通達等の内容を踏襲しています。健康障害を防止するものにはなりません。100時間未満にしても、精神障害の労災認定基準に照らして 「休日労働も含んで」 といういい回しになったということです。結局は労働者が労災申請をした時に認定されにくい限度を法律に盛り込んだだけです。
 そして、連合は、長時間労働に歯止めをかけたと主張しますが、政府が連合の要求を受け入れたのは当初の案の 「上限100時間」 に 「未満」 を加えさせただけです。

 働きかた改革実現会議は、当初は長時間労働を是正してワーク・ライフ・バランスを実現すると主張していました。しかし公表された 「働きかた改革実行計画」 には冒頭の 「働く人の視点に立った働きかた改革の意義」 のなかで 「長時間労働を是正すれば、ワーク・ライフ・バランスが改善し女性や高齢者も仕事に就きやすくなり、労働参加率の向上に結び付く」 と触れているだけでそれ以外には登場しません。
 働きかた改革は、ワーク・ライフ・バランスと相反します。長時間労働の是正の方向には向かっていません。
 さらに 「高度プロフェッショナル制度」 はまさしく過労死促進法です。「高度プロフェッショナル制度」 については反対意見が強まっています。


 しかし使用者が今回の改革で本気で狙っているのは拡大した裁量労働制の導入だといわれています。解説書やリーフレットにはわざとだと思われますが簡単にしか触れられていません。
 13年10月、厚生労働省労働基準局は 『平成25年度労働時間等総合実態調査結果』 を発表しました。時間外労働及び休日労働の実態、割増賃金率の状況、裁量労働制の実態調査を把握することを目的にしたといいます。調査対象事業場は都道府県労働局が無作為に選定しましたが、裁量労働制に係る事業場数を一定数確保するため、専門業務型裁量労働制導入事業場及び企画業型裁量労働制導入事業場を優先的に選定したといいます。11,575事業場を対象に、労働基準監督官が訪問する方法で、4月1日時点の実態を使用者から調査しました。
 裁量労働制についての調査結果です。
 専門業務型裁量労働制で労働時間の状況として把握した時間の1日の平均時間は、最長の者12時間38分、平均的な者9時間20分です。「法定休日労働あり」 の割合は、最多の者39%、平均的な者は21.9%です。4人に1人以上が法定休日に仕事をしています。年間、最多の者で8.5日、平均的な者で4.0日労働しています。
 企画業務型裁量労働制では11時間42分と9時間16分です。「法定休日労働あり」 の割合は、最多の者29.2%、平均的な者は17.2%です。年間、最多の者で5.8日、平均的な者で3.1日労働しています。
 かつて裁量労働制の導入に際して労働省は、みなし労働時間を定め、その分の賃金が支払われ、業務が早期に終了した時は労働者は労働時間を自由に使用することができ、その分生活にゆとりができると説明しました。実態は異なります。ザービス残業が放置されています。さらに現在は労働時間が長くなっています。
 裁量労働制が導入される時のうたい文句からはかけ離れた、労働者側が危険性を指摘した実態になっています。

 調査を踏まえて労政審で 「高度プロフェッショナル労働制」 と裁量労働制の審議が行われ答申がだされました。働きかた方改革では2つは一体のものです。
 企画業務型裁量労働制の対象業務が追加されました。例えば、「法人である顧客の事業の運営に関する事項についての企画、立案、調査及び分析を主として行うとともに、これらの成果を活用し、当該顧客に対して販売又は提供する商品又は役割を専ら当該顧客のために開発し、当該顧客に提案する業務」 は、つまりは営業です。
 かつて、派遣労働が開始された時、職種は限定されていました。しかしその後何度も法改正がおこなわれ、現在では禁止されている職種の方が極めて少なくなっています。企画業務型裁量労働制も同じ轍を踏む危険性があります。

 今年3月に制度が違法だと指摘された損保ジャパン日本興亜は、嘱託などを除く18.000人の職員のうち、入社4年目以上の総合系、専門系、技術調査系職員6.000人以上に企画業務型裁量労働制を導入していることが明らかになりました。対象外であるはずの一般の営業職にまで適用されています。
 一般の営業マンのノルマ達成のための残業を 「みなし労働制」 と扱い無償においやります。たんなる残業代の抑制でしかありません。違法性を指摘されて損保ジャパン日本興亜は廃止を決定しました。
 損保ジャパン日本興亜は働きかた改革を法案を先取りしたのではありません。このような “働かせ方改革” を企業は熱望しているのです。
 改革法案が通ると、このようなことが合法になりかねません。

 8月25日の 「活動報告」 でトヨタの改革を報告しました。
 トヨタ自動車は現在、企画・専門業務の係長クラス (主任級) 約1700人に裁量労働制を導入していますが、“自由な働き方” を認める裁量労働の対象を拡大する新制度を発表しました。7月末に労働組合に提示し、12月の実施を目指します。
 事務職や研究開発に携わる主に30代の係長クラスの総合職約7800人のうち一定以上の自己管理・業務遂行能力を持ち、本人が希望し、所属長、人事部門の承認がある者が対象です。非管理職全体の半数を占めることになります。
 残業時間に関係なく毎月17万円 (45時間分の残業代に相当) を支給し、さらに一般的に残業代を追加支給しない裁量労働制とは違い、勤務実績を把握して月45時間を超えた分の残業代も支払います。これまでの残業代支給額は月10万円程度でした。そのための原資は、以前すすめた人事・賃金制度の改革で浮いた分を充てるといいます。16年1月から、全社員約6万8000人のうち生産現場で働く約4万人の労働者の賃金体系を見しました。
 まさしく、月45時間の時間外労働を違法でないと居直り、労働者の自己責任として常態化します。

 さらに働きかた改革は個人事業主を増やして時間管理の放棄と人件費・「残業代の抑制」 をはかろうとしています。


 総選挙の最中の10月13日、小泉進次郎・自民党筆頭副幹事長の福島市での街頭演説です。
「本来、賃上げ交渉を拳を振り上げてやるのは労働組合のはずですよね。しかしそれを今、国をあげてやっているんです。だとしたら何で労働組合は自民党を応援しないで野党を応援したままなのか。そして労働組合は連合が束ねていますが、本当に労働者の代表は連合ですか。
 私は違うと思いますよ。なぜなら連合の組織率は17%。何で17%の人たちが代表なんですか。今までそうだったから慣例的に代表としてやっているだけで、今の世の中の多くの労働者の代表だとは、とても言えるもんじゃないと思います。」

 小泉氏の演説は半分は正しいです。政府は労働者と労働組合を取りこもうとしています。 「100時間未満」 を受け入れたり、幹部が 「高度プロフェッショナル制度」 をボス交で勝手に了承する連合はすでに取りこまれています。
 政府は長時間労働を合法化するだけの働きかた改革を、政府主導で労働時間の短縮をやったと主張してきます。

 突然の解散で、働きかた改革の法案提出は遅れています。働きかた改革法律案要綱はアメとムチが混ざっています。
 しかし 「高度プロフェッショナル制度」 の了解を全国の労働者と労働組合が撤回させたように “ムチ” の箇所については絶対に認めない闘いを進め、労働者にとっての本物のワーク・ライフ・バランスを対峙し、人間らしい労働を追及していくことが必要です


   「活動報告」 2017.8.25
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三池闘争・三池炭鉱を語るとき
2017/10/20(Fri)
 10月20日 (金)

 10月7日・8日と、福岡市で第29回コミュニティ・ユニオン全国交流集会が開催されました。福岡へは飛行機を利用しましたが、遠路ですので料金は高額です。それ以上にホテル料金が高く、さらに簡単に探せませんでした。
 しかしせっかくなのでともう一泊し、三井三池炭鉱の遺跡を10人で巡りしました。

    紅葉燃 (も) ゆ  石見銀山  処刑場

 10月12日のテレビ・ 「プレバト」で、特待生の東国原英夫が詠みました。
 石見銀山はユネスコ世界遺産になっていますが、過重労働の中で逃亡しようとした坑夫が捕らえられたり、銀を盗んで処刑された場所は除かれているといいたかったとのことでした。マイナスイメージを与えるからだそうです。夏井先生のコメントは、直すところはありませんでした。

 三井三池炭鉱の遺跡のなかにもマイナスイメージを与えると判断されるものは観光案内地図からも消えていたりします。
 コースを決めていましたが予定は未定です。

 三井三池争議は1959年から始まります。当時、三井鉱山の従業員数は約4万人です。鉱山全体で4580人の希望退職募集がおこなわれます。三池では従業員数1万6千人でしたが誰も応じません。1278名が指名解雇され、人員整理反対のストライキ闘争が開始されます。
 3月17日、三池労組は分裂し、第二組合が結成されます。

 三川坑跡に行きました。ホッパー (石炭貯蔵槽) 決戦が闘われたところです。
 少し前までは、空き地にされて塀におおわれ、中に入ることができませんでした。
 しかし、万田坑がユネスコ世界遺産になると他の遺跡も保存が進んでいます。三川坑跡は、現在は土・日・祭日には、かつての正門が開けられ、ガイドの方が待機しています。

 かつては施設工として働いていた三池労組員だった方がガイドをしてくれました。
 ホッパー決戦の時は全国から10万人が集まり、石炭の搬出を阻止しました。その時の写真のコピーを示しながらの説明です。集会の壇上には総評の旗が掲げられています。白黒の写真ですが総評の旗だけは赤く塗られてガイドの方の思いが込められています。1人がそのことを指摘すると、案内人のボルテージが上がりました。

 闘争の集会の最中、三池製作所の組合員であった作曲家の荒木栄は作りがけの歌 『ガンバロー』 を披露し評価をあおぎました。最初の歌詞は 「くろがねの男のこぶしがある 燃え上がる男のこぶしがある」 でした。聞いた組合員が 「女もがんばっている」 というと次の時には 「燃え上がる女のこぶしがある」 に変えられていました。(作詞は森田ヤエ子です)

 闘争敗北後、事故が続発します。
 62年8月28日、四山坑で死者1人、重症8人、軽傷2人。29日1人死亡。30日3人負傷。9月、死亡1人、重症147人、軽傷154人。10月、死亡4人、重症144人、軽傷185人。
 「三池炭坑殉職者名簿」 によると61年から63年10月までに47人が亡くなりました。内訳は三池労組員が20人、三池新労が25人、下請組夫が2人です。新労の方が保安に意見をいえない状況がありました。下請組夫の採用は62年から始まります。
 このような状況のなかで63年11月9日、三川坑で炭塵爆発事故が発生、458人が亡くなり、839人が一酸化炭素 (CO) 中毒患者となります。内訳は、三池労組163名、新労242名、職員組合25名、組夫28名です。
 さらに67年9月28日、三川坑で炭塵爆発事故があり、7人の死者と数百人のガス中毒患者となります。
 三川坑の入り口まで行くことができました。事故の時は地響きの後、ここから黒煙が高く吹きあげました。
 そのほかの施設も見学でき、説明を聞いていたら、ここだけで1時間半も要しました。


 大牟田市に隣接する熊本県荒尾市の成田神社に建つ久保清殉難の碑・三池炭鉱災害犠牲者の碑を訪れました。
 60年3月28日、闘争中に会社は生産を強行再開します。その翌日、三池労組の組合員久保清さんが四山鉱正門前で他の組合員とピケを張っていた時、三井鉱山の下請土建会社の人夫をしていた暴力団から刺殺されます。
 その時のことを書いている三池労組発行 『みいけ二十年』 です。
「山代、寺内組 (大牟田、荒尾一帯をナワ張りとする・・・。彼らはふだんは三井鉱山の下請土建会社である三井建設・・・などで人夫をして働いていた) ……暴力団は 『お前の顔は覚えたぞ』 『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』 などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた」
 久保さんを殺したのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者で、ストで仕事からあぶれていた人夫でした。彼らは三池の労働組合の側に組織されることなく、会社に雇われたのでした。
 三池労組は本工主義で、関連会社の労働者に思いをはせることはありませんでした。
 闘争敗北後、解雇された三池労組員はあっせんを受けながら再就職をしていきます。関連会社の労働者のなかにはブラジルなどの中南米に移民した者もいます。棄民です。しかし三池労組員ではなかった彼らはお盆などには懐かしんで 「炭坑節」 を踊ります。

 60年9月8日に三池労組が闘争終結のためのあっせん案を受け入れた後、組合員にその報告をするビラが配布されました。そこに詩が載っていました。

  やがて来る日に
  歴史が正しく書かれる
  やがて来る日に
  私たちは正しい道を
  進んだといわれよう
  私たちは正しく生きたといわれよう

  私たちの肩は労働でよじれ
  指は貧乏で節くれだっていたが
  そのまなざしは
  まっすぐで美しかったといわれよう
  まっすぐに
  美しい未来をゆるぎなく
  みつめていたといわれよう
  はたらく者のその未来のために
  正しく生きたといわれよう

  日本のはたらく者が怒りにもえ
  たくさんの血が
  三池に流されたのだといわれよう

 かつて、久保さんのお墓は四山坑の近くの山の上にありました。お墓の隣に、この詩を刻んだ碑が建てられていました。三池炭鉱が閉山になると現在地に移設されました。今も墓と並んで碑が建てられています。
 そして、三池炭鉱災害犠牲者の碑が建っています。三池炭鉱で亡くなられた労働者を追悼するもので、かつては三池労組の会館の屋上にありましたが、労組が解散した後は久保さんのお墓の隣に移されました。
 会館は、CO患者の闘い、「黒い肺」 の闘い、そして地域的な運動の拠点でした。


 三池監獄があった三池工業高校の構内に入りました。三池工高は、今も一部がかつての三池監獄のレンガの塀に囲まれています。囚人が朝晩数珠うつなぎにされて出入りした扉も残っています。
 日本で “よろけ” の問題が登場する最古の文献は天保時代の佐渡鉱山を取り上げたものだと思われます。塵肺の問題は明治初期から指摘されていました。
 明治初期、三池炭鉱、幌内炭鉱、別子銅山、横須賀造船所などで囚人を労働力として酷使していました。
 三池炭鉱では明治19年から10年間に700人近くが亡くなっています。事故死以外は呼吸器疾患が多いという統計があります。
熊本医学校 (現熊本大学医学部) は熊本監獄の病囚の遺体を研究材料に利用していました (三池監獄は熊本監獄の支所)。データからは三池炭鉱に労働力として送られた5人の坑夫うち4人までが 「病囚の肺患は真の肺労 (肺結核) にあらずして単に炭粉刺激に原由する慢性肺炎即ちアントラコージス (所謂坑夫肺労) なると判然たり」 (沢田猛著 『黒い肺』) ことがわかっています。
 囚人労働は1930年まで続きます。


 一ノ浦囚人墓地を訪れました。
 大きな墓地の端に高いものでも40センチ位、縦横15センチ位の石に番号だけが掘られた墓が40数基地面に並んでいます。囚人墓地だといわれていますが異説もあります。保存会の人たちが管理しています。
 本当はどのような人たちの墓かはわからなくても、名前ではなく番号が彫られているということ自体異常です。
 では囚人は亡くなったらどのように処理されていたのでしょうか。
 もうひとつ囚人墓地があります。そこでは井戸に放り投げて蓋をしていました。井戸は今も残っています。


 残念ながらここで空港に向かわなければならなくなりました。

 ほかの人たちは世界遺産になった万田坑に行きました。
 四山坑などは影も形もなくなっていますが当時の建物も専用鉄道敷とともに保存されています。
 明治時代からの炭坑ですが関連施設も含めて残っています。ガイド付きの見学も可能です。
 米騒動のときは大騒動が起き、処遇改善をかち取っています。


 これ以外の、当初予定していた遺跡です。
 大牟田市の甘木公園に徴用犠牲者慰霊碑が、戦後50をむかえた95年に建立されました。
 41年2月、三池では最初に万田坑に朝鮮人労働者の強制連行が初めて行われました。43年9月に宮浦坑に1666人が連行されました。
 43年に新港朝鮮人収容所と宮山朝鮮人収容所、44年に四ツ山朝鮮人収容所と馬渡朝鮮人収容所、45年に西浜田朝鮮人収容所が開設されました。馬渡社宅には140人が収容されていました。
 馬渡社宅の解体作業の最中に、押入れ壁に書かれたハングルの墨書が発見されました。その壁の様子が碑になって慰霊碑の隣に建てられています。

 強制連行された数は、調査資料ごとに差があります。
 福岡県特別高等課調査に基づく45年1月末現在の 「労務動員計画に依る移入半島人労務者に関する調査表」 (県庁文書) によると、連行朝鮮人の数について、三井三池炭鉱 移入者数2376、逃走者数743、死亡15、電気化学工業大牟田工場移入者数572、逃走者数234、死亡1とあります。
 新藤東洋男著のパンフレット 『太平洋戦争下における三井鉱山と中国・朝鮮人労働者 -その強制連行と奴隷労働-』 (人権民族問題研究会) では、45年8月現在の三池炭鉱の 「外国人労働者」 の数は、朝鮮人2297人、中国人2348人、俘虜1409人とあります。
 数年前、アメリカ人俘虜だったかたが来日した時、当時の話を聞くことができました。


 交流集会の夜の懇親会では最後にみんなで 「炭坑節」 を踊りました。
 「炭坑節」 のルーツは明治末期の筑豊・田川の三井 「伊田の炭鉱」 が新たに発掘された時の希望の歌だといわれています。ですから元歌の歌詞は 「伊田の炭鉱」、「三井田川坑」 です。
 終戦によって 「勤労報国隊」 が引き揚げ、強制連行された朝鮮人・中国人、そして俘虜などが解放されると炭鉱の労働力は激減します。GHQ (連合軍総司令部) と政府は、エネルギーの供給がなければ、経済再建と活性化はないと電力、鉄道、鉄鋼そしてGHQ用の暖房のため石炭の増産政策を打ち出し、ラジオや新聞などでの石炭増産のキャンペーンを奨励します。そのテーマソングのひとつが歌詞を変えて編曲された 「炭鉱節」 で全国に流されました。おそらく戦後最初に広く歌われた労働歌です。

 このほかに、関係個所に行くことはできませんでしたが、三池炭鉱を語る時、与論島から移住してきた労働者を抜きにはできません。
 三井鉱山は、与論島出身の労働者を 「ヨーロン」 と呼んで差別し、酷使しました。三池闘争は 「ヨーロン」 にとっては労働組合の力強さを知るとともに自分たち 「ヨロンチュー」 の 「人権を回復」 する闘いでもありました。ですから三井鉱山は、三池労組を分裂させたとき、与論島出身者は最後まで残るだろうと判断していました。
 大牟田市では毎年8月に大蛇山祭りが開催され 「炭坑節一万人総踊り」 がおこなわれます。この踊りに 「ヨロンチュー」 は2008年に初めて参加しました。「ヨロンチュー」 が 『炭坑節』 を歌っておどります。三池労組組合員としてではなく大牟田市民としての登場です。先祖が与論島から三池に移住を始めてからちょうど100年目にです。

   「活動報告」 2016.9.6
   「活動報告」 2015.3.6
   「活動報告」 2011.10.7
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「平和なくして男女平等なし 男女平等なくして平和なし」
2017/10/17(Tue)
 10月17日 (火)

 10月7日と8日、福岡市で第29回コミュニティ・ユニオン全国交流会 in ふくおかが全国から450人の参加で開催されました。
 1日目におこなわれたパネルディスカッション 「混迷する今、確かな一歩で未来を拓く」 に、中野麻美弁護士がパネリストとして登壇しました。
 「安保法制違憲訴訟・女の会と一票で買える女たちの会」 のビラを示しながら 「平和なくして人権なし 人権なくして平和なし」 の視点で問題提起をしました。
 ビラの見出しは 「平和って何だろう ~私たちが実現したいのはコレです~」 で、思いが書かれています。
 「おなかがすいたらごはんが食べられる。」
 「どんな思想や信条や宗教をもっても、誰かに怒られたりいじめられたりしない」
 「本を読んだり、映画を見たり、できる」
 「お金のことを心配しないで学校で勉強できる」
 「悪いことをしたときには 『ごめんなさい』 って謝ることができる」
 「思いっきり遊んだり、唱を歌ったり、絵をかいたりできる」
 「誰かの顔色をみないで嫌なことはイヤだって、意見が言える」
 「たった一つの大切ないのちだから絶対殺し殺されない」
 「だれとどういう生活をするか自分で決められる」
 「みんなと手をつなげるっていうこと。」
 「わたしが生れてよかったっていうこと。あなたが生れたことをよかったと思える。」
 裏面です。
 私たちは
 ・憲法9条 「改正」 で 「戦争できる国」 にするのはごめんです。
 ・差別と暴力のないほんとうの平和を求めます。
 ・女性の権利の否定は許しません。
 ・憲法を侵し、強行採決 (2015年9月19日) された安保法制の廃止を求めます。
 なぜなら
 ◇日本国憲法は、戦争はしないと約束した世界に誇る宝です。国際的にも戦争は違法です。
 ◇戦争は、人を戦争の道具にする、極めつけの差別と暴力そのものです。平和な世界は貧困と差別、
  暴力をなくし、武力紛争による被害の回復に力を注ぐことから生まれます。
 ◇暴力は暴力の連鎖を生み出します。軍事も同じです。私たちは 「軍事による平和」 はありえない
  ことを確信します。
 ◇戦争への道は女性の権利を否定します。結婚するかしないか、子どもを産むか生まないか、どのよ
  うな家族をつくるか、それは1人ひとりの自由です。このような権利を大切にすることが平和の基盤
  です。
 ◇安全保障法制は、国際紛争を解決する手段として武力を行使しないという憲法に違反しています。
  世論を無視した強行採決は、民主主義の基本理念を侵害しました。
 ◇安全保障法制は、女性の権利、男女平等に反します。男女共同参画社会基本法や国連の安保理
  決議を無視して成立した安保法制は許しません。

 中野弁護士は、さらに市川房江の 「平和なくして男女平等なし 男女平等なくして平和なし」 の言葉を紹介し、暴力の体験を記憶して過去のものにしようと訴えました。


 市川房江はどのような人物でしょうか。『市川房江自伝』 (新宿書房) から探ってみます。
 1912年に鈴木文治によって創設された友愛会は男性だけの組織で女性は準会員でした。女性を含めて組織が拡大する中で16年に婦人部を設立します。
 19年8月の第7回大会で大日本労働総同盟と改称されます。大会には13人の婦人代議員が出席しました。機関紙 「労働婦人」 の発行と婦人の常任委員の設置を決定し、婦人部から山内みなと野村つちの2人の理事が参加します。このことで山内は勤務先の東京モスリン亀戸工場を首になります。
 この時に市川房江は大日本労働総同盟友愛会婦人部の書記として機関紙の編集の仕事につく誘いを受け、承諾します。後に、首になった山内は市川のところに同居します。

 1919年に創設された国際労働会議 (ILO) は、婦人問題に関する議論には各国に女性代表の参加を要請します。日本からも女性の政府代表顧問を送ることを決定します。代表には随員をつけますが、市川は人選を引き受け、労働現場を知っている山内に相談します。女性の政府代表顧問も希望します。市川は国際会議で初めて日本の婦人労働者の待遇改善の討議がおこなわれ、いくらかでも改善されればいいと思っていました。
 一方、政府は労働者の代表を三重県鳥羽造船所の技師長桝本卯吉を任命します。これに友愛会は抗議行動を展開していました。そして大日本労働総同盟は山内が政府代表顧問の随員としていくのなら友愛会をやめて行けと待ったをかけます。結局、山内の随員は実現しませんでした。
 市川は、随員がだめになるなら、政府代表顧問を呼んで直接労働現場の実態を知ってもらおうと婦人労働者大会を開催します。大会は政府代表顧問に感激を与えます。
 市川はこの混乱の責任をとって3カ月で辞任します。

 ワシントンで開催されたILO大会で、日本の政府代表顧問は婦人の深夜労働の禁止、産前産後の休養などの問題で尽力します。日本の政府代表や使用者代表も賛成して、婦人の深夜労働禁止に関する条約、出産前後における婦人使傭に関する条約は採択されました。

 市川は友愛会を辞めた後、2年半渡米し、労働運動や婦人運動の現場にでかけて多くの人たちと交流します。
 アメリカは、第一次世界大戦中に婦選獲得の運動が盛り上がり、1920年8月全州で婦人が参政権を獲得します。さらに参政権以外の法律上の男女平等を獲得するための憲法改正運動に着手していました。
 滞在中の24年1月にILO東京支局ができるのでそこの職員になってほしいという手紙を受け取り、帰国します。
 支局での仕事はILOの宣伝、や日本の労働事情の報告などでした。機関紙として 『世界の労働』 を発行することになりその担当になります。

 25年3月、東京支局はILOで採択された条約の批准を促進するため国際労働協会を結成します。さらに15年1月に開催された一般委員会で婦人労働の実態を行なうことを決め、婦人委員会および婦人の臨時委員会がそれに当たることにします。
 最初の調査は 「炭坑における婦人の坑内労働」 です。常磐炭坑をおとずれ、地下にも下ります。そして一般委員会で 「婦人の坑内労働禁止に関する決議」 を採択します。
 各地の紡績工場を視察し、「紡績業における徹夜作業禁止に関する決議」 も可決します。
 その傍ら婦人参政権運動などにも関与していました。
 ILOには丸4年間勤務しましたが1927年末に婦人参政権運動に専念することを決意し辞任します。
 友愛会、ILOでの経験はその後の活動でも役に立ったと語っています。

 市川は他者のことを悪くいうことはありませんでした。そこで 『十二歳の紡績女工からの生涯山内みな自伝』 (新宿書房) からもう1人の市川を見てみます。
 山内みなは1913年、東京モスリンに入社します。12時間労働で、休憩時間は午前に15分、昼食時間30分、午後3時に15分で夜勤もありました。社員は食堂がありましたが、原料を運ぶ人夫の臨時工の昼食は弁当を持ってきて食堂の外の広場で立って食べている状況を目撃します。
 14年、賃上げを要求してストライキが行なわれます。しばらくたってから機械の修理工の青年が来て 「俺は首にならなかった。首になった人たちは、会社が交渉に応じないので、友愛会に頼んで交渉中だ。やっぱり友愛会でなければだめだ。みんなで会員になろう」 「みなちゃん、あんたはいちばん若いから、長くこの会社で働くようになるだろうから先に入れ」 ということで入会します。
 会社は指導者を解雇しますが、彼らは金銭を受け取って復職しないで退職します。「友愛会でなければ会社は相手にして話を聞いてくれない、友愛会は自分たちの味方なんだな」 と感じます。
 友愛会は会員も増えて、工場のなかが少しづつ変わっていきます。

 首切りに反対を闘っていた山内は、19年12月、友愛会本部から呼びだしを受けます。鈴木会長と松岡駒吉主事から、会社と交渉をして山内を友愛会が引き取ることにしたと告げられます。
 荷物をもって本部に行くと松岡は山内を自分の家に引き取ることになったと話します。そして 「どうせ知れることだからこの際話しておくと、実は鈴木会長は女癖が悪くて、いたるところ問題を起こし、いま奥さんも恩師の夫人であったのだ。みなちゃんは清純な娘だから、万一のことがあっては気の毒だし、友愛会も責任があるから、私のところで保護する」 といいました。
 松岡の家で3か月過ごしました。
 しかし不安の中で、20年3月、講演会のときに知り合った市川の住所を探して訪ねます。

 山内の訴えを腕を組んで聞いていた市川は 「フン」 と笑い、「私は総同盟の中でどれほど男女の差別が遺されているかを、いやというほど見せつけられてきた。私としては婦人の労働運動をする前に男女平等の婦人運動をせねばならないという結論をだした」 といいます。共同生活が始まります。
 市川は平塚らいてうらと新婦人協会創立準備に打ち込んでいました。


 19年、日本初の婦人団体 「新婦人協会」 を設立し、女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開します。
 24年、「婦人参政権獲得期成同盟会」 を結成し、議会に婦人参政権を求める運動を続けました。
 40年、婦選獲得同盟を解消し 「婦人時局研究会」 へ統合します。
 42年に婦人団体は 「大日本婦人会」 に統合されます。大政翼賛会を中心とした翼賛体制に組み込まれ、市川は大日本言論報国会理事に就任します。市川は、組織が大きくなれば婦人をめぐる問題で発言力が増し、地位は向上すると期待していたと思われます。
 しかしそうではなく、敗戦を迎えます。

 このような体験から到達した思いが 「平和なくして男女平等なし 男女平等なくして平和なし」 だったのでしょう。戦争は男女の役割強化。差別を強化しました。
 市川のその思いを引き継いでいるのが 「平和なくして人権なし 人権なくして平和なし」 です。

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