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「選手たちに英雄心を与えず、商品化せず、政治道具化しないことを強く願います」
2020/09/18(Fri)
 9月18日 (金)

 2013年の 「第25回コミュニティ・ユニオン全国交流集会」 は山形みちのく・上山で開催されました。当時、東日本大震災の避難者は全国に28万人。山形県おきたま地区には3.000人以上が生活していました。
 夜の交流会で創作・朗読劇 『あたりまえの毎日が』 が上演されました。
 ストーリーは、福島・相馬市で “あたりまえの毎日” を過ごしていた女子サッカーに打ち込む高校生たちが、原発事故が起きて避難を余儀なくされるところから始まります。
 家族や友人がばらばらにされていきます。しかし避難先でもそれぞれサッカーを続けながら希望を探し続けます。“あたりまえの毎日” を取り戻すことに挑戦しています。みんなの共通の夢は、2016年にリオデジャネイロで開催されるオリンピックの代表選手に選ばれて、「フクシマの悲劇を繰り返すな」 と書いた横断幕を掲げて競技場を一周することだと語りあいます。
 原作を書いた方は、福島からの避難者の人たちの悩みや苦しみ、葛藤を1人でも多くの人たちに知ってもらいたい、フクシマを風化させてはならないという思いを込めたといいます。
 オリンピックにはまったく関心がありませんが、この時にはリオデジャネイロ大会にこの生徒たちは出場選手として選ばれて欲しいと期待しました。


 オリンピックと政治は関係がないといわれます。しかしその前にスポーツや選手が政治に利用されています。
 1964年の東京オリンピックの記憶が3つだけあります。
 開会式当日は、地方では学校は午後の授業が中止で、家に帰ってテレビで観覧です。
 晴天です。開会式会場の国立競技場に、入場行進の最後に日本選手団はそろいのユニフォームで整然と入ってきます。軍隊です。映画ニュースで観た戦時中の43年10月に行われた学徒出陣と重なりました。会場も同じです。放送のアナウンサーのトーンも同じ。ただ、天気は土砂降り、制服はカーキ色でした。観ていて、いまでいうなら “引いて” しまいました。
 この後、聖火リレー最終ランナーが入場します。1945年8月6日に広島県三次市で生まれた酒井義則選手です。酒井選手のことはニュースで知っていました。聖火台への階段を昇って点火しますが失敗しないか、ハラハラして見守っていました。翌日の新聞にロイター電は 「原爆の子が灯をともした」 という見出しで記事を発信したという小さな記事が載りました。日本では騒がれませんでしたが、海外ではヒロシマは意識されていました。
 そして上空に自衛隊機がカラーの五輪を描きました。憲法違反の自衛隊をこんな風に登場させて売り込むのかと不快感を抱きました。自衛隊の政治利用です。

 あとはニュースで取り上げられたことしか知りません。
 何かの競技の表彰式でベートーヴェンの交響曲第9番 「歓喜の歌」 が流れたのを覚えています。当時、東西に分かれていたドイツは東西統一ドイツ選手団を結成し、「国歌」 は 「歓喜の歌」 でした。オリンピックはこういうことができるんだと思いました。
 しばらくたってからマラソンで3位になった円谷選手が自殺したというニュースが流れました。優勝できなかったことを 「申し訳ない」 と思っていたといわれました。理解できません。個人的には、今風にいうなら 「3位ではダメなんですか」、「オリンピックの精神は勝つことではなく参加することではなかったんですか」 と思っていました。しかし世間はそうではなかったようです。この時からさらに関心を失ってしまいました。

 68年4月4日、アメリカで黒人解放運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・Jr.牧師が遊説先で銃殺されます。
 10月、メキシコでオリンピックが開催されます。
 男子200メートル競争を世界記録で優勝したトミー・スミス選手と3位に輝いたジョン・カーロス選手が、アメリカ合衆国国歌が流れて星条旗が掲揚される間、壇上で首を垂れ、黒い手袋をはめた拳を空へと突き上げた姿がニュースは鮮明に覚えています。
 このような行動をとらなければならない状況の中で行われるオリンピックに何の意味があるのだろうかと思いました。

   https://www.imishin.jp/peter-norman/

 その後、オリンピックは政治だと実感したのが1980年のモスクワオリンピックです。
 79年12月、当時のソ連によるアフガニスタンへの軍事侵攻に対して、アメリカはモスクワオリンピックへのボイコットを西側諸国に呼び掛けます。しかしイギリスやフランス、イタリア、スペイン、オーストリアなどは参加します。日本政府は、日本オリンピック委員会に公然と介入してアメリカの呼びかけに応じました。
 ソ連のアフガニスタンへの軍事侵攻は民族の自主・自立に対する武力弾圧ですが、日本政府の介入も自主・自立への弾圧でいた。
 4年後のロサンゼルス夏季オリンピックには、ソ連と東ドイツ、チェコスロバキア、ポーランド大部分の選手は不参加でした。

 今は、開催は商業的要素に大きく左右されて、選手は利用されています。
 「お・も・て・な・し」、「う・ら・が・あ・り」 です。


 金誠著 『孫基禎――帝国日本の朝鮮人メダリスト』 (中公新社刊) が刊行されました。
 孫基禎 (ソンキジョン) は、1936年、ヒトラー政権下でのベルリンオリンピックにマラソンの日本代表として出場し金メダルを獲得した朝鮮半島出身の選手です。

 1932年3月1日、中国東北部に満州国が作られます。中国は強く抗議し、満州国は国際連盟をはじめ国際社会から承認を必要とする状態でした。
 この時、関東軍はスポーツを利用します。
 4月、国際連盟調査委員会 (リットン調査団) は、31年9月に勃発した満州事変のきっかけとなった満鉄の線路が爆破された事件を調査するため満州を訪れます。関東軍と満州国にとってリットン調査団の訪問は満州国建国の正当性をアピールするチャンスでした。
 関東軍参謀部宣伝課は、リットン調査団の来満に合わせて、満鉄沿線の各都市をはじめ満州全土の都市で建国記念連合大運動会を開催します。リットン調査団が立ち寄る可能氏がある都市では、滞在のタイミングを見計らって開催を目論みました。運動会で日本と満州の人びとの融和をリットン調査団にプロパガンダしようとしました。

 孫基禎選手が代表となる経緯です。
 1932年、19歳の時、京城にある陸上競技の名門養正高等普通学校に入学します。
 4月、養正陸上競技部は、第3回京仁駅伝競技大会に出場して大会最高記録を出して優勝します。その2週間後、東京―横浜間を走る第13回全国中等学校駅伝大会で孫基禎選手は5区を走って区間新記録を出し、チームは優勝します
 35年3月、全国マラソン連盟主催神宮新コースマラソン大会に出場して優勝します。このあとも各種の大会で好成績をおさめます。
 11月に開催された第8回明治神宮大会はオリンピック第二次予選も兼ねていました。ここで世界最高記録をマークしてゴールします。
 このときの思いを綴っています。
「・・・こうした予想外に記録を打ち立てて元の場所に戻ってきたとき、私の目の前には多くの新聞社の記者たちが来て、感想を話してくれとか、ある人たちはサインを受け取りに行くとか、またカメラを回してもいました。あらゆる周囲の人たちの歓呼は私にはこの上ない栄光であり、喜び以外の何物でもありませんでした。しかし、その多くの群衆のなかで、私は1人も朝鮮語を話す人に接することはありませんでした。私はここで悲しい気持ちになってきたのです。」 (『三千里』 第8巻1号、1936年)
 36年5月、明治神宮競技場でマラソン最終選考が行われ、参加選手21人中2位となります。
 この頃、朝鮮民族を代表する選手たちには自らの立場を肯定的にとらえ、朝鮮人スポーツ選手の活躍に民族の優秀性が現れると考えていました。


 8月1日、ベルリンオリンピックは開催されます。マラソンは8月9日に行われました。
 孫基禎は足袋型シューズを履いて制します。3位も朝鮮出身の南昇龍選手でした。スタジアムには君が代が流れ、日の丸が上がります。
 この後に事件が起きます。
 8月25日、『東亜日報』 夕刊に孫基禎選手の写真が掲載されました。しかし胸にあるはずの日章旗がぼけて判明できません。新聞刷りが始まると一版は朝鮮総督府の事前検査を受けますがその時ははっきりと映っていました。
 東亜日報社の社員が数名呼び出しを受け取り調べを受け、「民族的意識に基づく計画的不逞行為」 であると新聞紙法21条が適用されます
 写真の修整を調査部所属本報専属画家の記者に依頼した李吉用体育部記者の供述です。
「吾が東亜日報紙は朝鮮民族を対象として創刊、今日に及べるものにして、朝鮮民族の意思に反する記事編集は之を差控えざるべからざる使命を有するものと信ずるが故に、日章旗を該写真に表出するが如きは、朝鮮民族たる読者が之を歓迎せざるのみならず、吾が社内に在りても、此の空気あることを察知し、斯の挙に出たるものなりと。
 尚、今回のオリンピック大会に孫基禎が世界記録を破って優勝したる事実に対し、彼らは孫基禎は朝鮮人なるに不拘、朝鮮民族の代表者としてオリンピックに出場優勝したりと世界に発表することが出来ず、日本が優勝したりと発表せざるを得ざるは吾々朝鮮人としては甚だ慨嘆に堪えざる事にして、吾が社に於いても大多数の社員がこの肯を語り居れりと供述したり。」 (「東亜日報ノ発行停止ニ関スル件」、『警察情報』)

 8月29日付をもって東亜日報社は、廃刊は免れたものの発行停止処分になります。
 植民地社会の支配―被支配の対立が顕在化します。その対立の解消のため孫基禎選手を内鮮融和の象徴として朝鮮の人びとに押し付けざるをえなくなります。

 一方、孫基禎選手らはそのようなことを知らずに8月16日のオリンピック閉幕後、19日に帰路の船に乗ります。9月7日に神戸に着く旅程でした。
 10月3日、日比谷大音楽堂で大日本体育協会主催の代表団歓迎報告会が開催されます。日本代表団の団長がその所感を報告しました。日本人選手が活躍した種目と選手名をそれぞれ上げますが、マラソンに関しては優勝に対する評価はしつつも孫基禎選手らの名前は一切出しませんでした。
 孫基禎選手はその後、常に警戒されることになります。
 38年7月、日本政府は日中戦争の長期化のために40年の東京オリンピックの中止を返上します。
 その一方で、40年 (皇紀2600年) 6月に、オリンピック返上に替わる国際的なスポーツイベントとして第1回東亜競技大会が開催されます。東亜諸民族の精神的統合をはかろうとするもので、満州、中華民国、フィリピンの選手が参加しました。
 11月には明治神宮大会も開催され、開会式で孫基禎は聖火をともす聖火団の1人として参加します。


 43年10月、朝鮮、台湾では陸軍特別志願兵臨時採用規則が公布・施行され、植民地からも学徒志願兵が駆りだされます。朝鮮人学生たちは兵役を否定的にみていました。そのため強いプロパガンダと人脈による強制力が必用でした。
 44年1月、孫基禎は威鏡北道で学徒先輩中堅団の一員として朝鮮人学徒志願兵の募集を呼びかけていました。勧誘中の孫基禎が住民から言われた話です。
「私は、そりゃ無学文盲の百姓かもしれないが、息子たちは大学を卒業し、私などよりは頭がいい。日本人たちが話しているように、学徒兵がそれほど国家のためになるのなら、なぜ自分たちが進んで志願しないんだね」 (『ああ月桂冠に涙―孫基禎自伝』)
 孫基禎は自責の念に駆られます。
 晩年には 「映画 『ホタル』 のなかで、特攻で死んでいった金山少尉を生んだのは、私の責任である」 と述べ、深く後悔していたといいます。映画 『ホタル』 は鹿児島県知覧から神風特別攻撃隊が飛び立つ実話です。威鏡北道出身の金山少尉は出撃前夜、軍用の富谷食堂を訪れて 「アリラン」 を歌います。翌日、朝鮮人学徒志願兵で最初に戦死します。


 1948年7月、ロンドンオリンピックが開催されます。朝鮮代表は太極旗を掲げて初めてオリンピックに参加します。孫基禎は陸上競技のトレーナーとして参加します。日本、ドイツは参加を認められませんでした。
 50年4月、孫基禎はボストンマラソンに監督・コーチとして挑戦し、表彰台を韓国勢が独占します。6月4日、大統領も参席して歓迎会が催されました。孫基禎は応援してくれた人たちへの感謝を述べたあと続けます。
「最後にお願いですが、選手たちに英雄心を与えず、選手たちを商品化せず、選手たちを政治道具化しないことを強く願います。」

 64年9月、産経新聞は 「マラソンは日本が勝て」 の見出しで孫基禎のインタビューを歪曲した記事を載せます。孫基禎は産経新聞に抗議し、新聞社も謝罪しますが記事内容の撤回には至りませんでした。
 70年8月15日、ベルリンを訪れた韓国の国会議員は夜中にオリンピックスタジアムに忍び込み、石壁に刻まれた孫基禎選手の国籍 「JAPAN」 を削り 「KOREA」 と刻みなおしました。その後、西ドイツは 「KOREA」 を 「JAPAN」 に戻しました。
 のちに孫基禎はコメントしています。
「・・・これは私につけられた日本という国名がすでに歴史的なものになっているからだ。われわれにとっては日本とあるのが、逆に “国なし時代” を思い出させる教訓とはいえぬか。」 (「朝日新聞」 72.7.6)
 さらに1か月後です。
「復元 (「JAPAN」) は国際オリンピック委員会が決めることなのでやむを得ないと思う。しかしあのとき私は心のなかでは、日本のためではなく、韓国のために走った。日本の人はしらないかもしれないが、韓国では今でも 『国無し時代の孫が優勝した』 といっている。私も同じ気持ちだよ。」 (「朝日新聞」 72.8.26)


 80年代は民主化が高揚していた時で、民主化闘争を闘っていた人たちにとってオリンピックは 「貴方がた (政府側) の祭典」 でした。
 88年9月、ソウルオリンピックが開催されます。開会式でファンファーレとともに姿を現わした聖火ランナーは孫基禎でした。10数秒でしたが走り、聖火を次世代の若者につなぎました。

 「活動報告」 2018.8.23
 「活動報告」 2014.2.21
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帰還兵士の生活は自己責任
2020/09/11(Fri)
 9月11日 (金)

 9月10日の朝日新聞・天声人語のテーマは国勢調査です。
「100年前の秋、国中がお祭り騒ぎに包まれた。『国勢調査は文明国の鏡』 『調査に漏れては国民の恥』。そんな標語が街に貼られ、初めての国勢調査を迎える。10月1日当日、人々は家で調査員を待ち構え、繁華街は静まりかえった▼佐藤正広著 『国勢調査 日本社会の百年』 によれば、当時は日露戦争と第1次大戦を終え、愛国の気分が高まったころ。国民も 『一等国と肩を並べるには欠かせない調査』 とうけとめたようだ▼・・・質問項目には時代が映る。戦後すぐは引き上げ経験の有無を、平成に入ると通勤時間を訪ねた。初婚かどうかを問うた年もあり、思わず赤面した▼・・・」
 天声人語は “よいしょ” し過ぎです。
 今年は国勢調査の年で、まもなく始まります。


 まず、日露戦争とはどういう戦争だったのでしょうか。
 藤井忠俊著 『在郷軍人会 良兵良民から赤紙・玉砕へ』 (岩波書店 2009年) です。
「戦場で戦ったものはただの帰還兵ではなかった。日露戦争では10万の死者を出した後の凱旋であり・・・。
 日露戦後の帰還兵たちにも、社会に適応できないでいる実態がある。1945年戦後直後の “特攻がえり” や、復員軍人の有様に通じるところがないではない。
 日露戦争が生んだ大きな変化は、戦争の激しさとそこで見た死の境界、その体験のトラウマが消えていない帰還兵が町や村に堆積したことであった。・・・
 日露戦争の異常さは振幅をひろげて、社会問題になったことはもちろんである。帰還兵のトラウマには二重の問題が伏在していた。その時、彼らにとっては戦場から帰還した人間としての共同体社会への復帰のあり方が当面の課題となる。だが、その伏線として、自分たちがどうして選ばれて戦場へ行かなければならなかったのか、という問いである。それは選ばれた彼らが言葉によって提起したわけではない。しかし共同体の人々はよく知っている事態であって、共同体内でも何らかの救済があってもよいという共通の意識をもっていた。
 徴兵制の開始以来、・・・選ばれた青年にとって不平等感はぬぐいようがなかったのである。
  ・・・
 やがて、戦場で戦った者には、勲章が贈られて、国家の栄誉が与えられ、金鵄勲章には年金が添えられた。にもかかわらず、1年後には犯罪を犯していったん受章した勲章を剥奪 (褫奪 (ちだつ) という) される帰還兵士の例が少なからず見られた。・・・論功行賞があって1年間に帯勲者の犯罪による勲章を褫奪された者の数は594人としている。
 この社会問題も町村内では野放しにするわけにもいかず、帰還在郷軍人を集団にまとめて教化する必要を感じさせた。また、軍としても、統制された在郷軍人の組織化を促す要素となる。
   ・・・
 1907年、陸軍の特命検閲使から全国町村に送られた在郷軍人についても調査事項がある。前述の諸問題はすでに陸軍の最上層部においてはトップレベルの問題として捉えられていた。その調査事項は、①在郷軍人の素行、➁同じく禁固以上の刑に処せられた者の数、③在郷軍人団設置の有無と活動概略、➃在郷軍人の恩賜金保管の状態、➄勲章、従軍記章を褫奪せられた者の数、⑥在郷軍人の職業従事、または職業厭忌、⑦帰郷軍人の郷里の人民に対する行動と地方人民の感情、⑧傷痍疾病に罹り兵役免除となった者の健康状態、⑨その生活状態、である。帰還兵の現状が、すでに軍の最高レベルで無視できない問題として捉えられていることがわかる。」
 この頃から、兵士の戦争ストレス問題は医学的には証明されなくても提起されていました。社会状況は構造的にも流動化していきます。
 帝国在郷軍人会は1910年11月3日に発足します。


 18年に起きた米騒動における在郷軍人の動向です。
「在郷軍人会本部は、騒動参加者に在郷軍人が多かったことに驚愕します。・・・
 事件後、騒擾罪で検事処分を受けた人は8.157人に及んでいるが、そのうち在郷軍人は990人 (22.1%) という多さである。参加人数は全国で70万人以上と推定されているので、この比率からみると在郷軍人の参加者は8万人を超えることになる。
  ・・・
 大都市の例をあげれば、・・・
 これらほとんどの都市で検事処分を受けた者の中に10%近くの在郷軍人がいた。なかでも、名古屋の556人中80人、が最も多く、広島でも560人中69人、岡山でも517人中69人と在郷軍人の比率が高かった。炭鉱地帯でも、たとえば佐賀では検事処分者298人中75人の在郷軍人がいる。参加者の推計としてはこの100倍近いのだから、少なからぬ在郷軍人が米騒動に参加したことがうかがわれる。
  ・・・
 多くの在郷軍人が騒動に参加したとしても、彼らが同じ地域での数日間の行動に連日参加したという持続性は何も証明されていない。騒動はかなり一過性であり、地域から地域に飛び火していく性格を持っていた。そういう意味で、前日騒動に参加した在郷軍人が、後日、分会の警戒出動に動員されていたとしても不思議なことではない。」
 在郷軍人は政府、軍の思い通りに行動しませんでした。生活実態が行動に駆り立てます。社会は変動期のなかで多くの不安定要素を抱えていました。
 政府はその実態、原因追及を探る必要が出てきます。


 11年10月17日の 「活動報告」 の再録です。
「京都の米騒動は部落にはじまり、部落を中心に拡大したのが特徴である。そして、その主体となったのは、部落の貧困層であり、彼らをひっぱったのは、おもに 『入り人』 つまり流入部落民であった。……それまでの共同体秩序にしばられない流入者がひっぱり、貧困層がその秩序を乗りこえたのだ。差別を重層的に組み込んだ分散共同体の秩序は、こうして風穴が空けられた。米騒動が部落解放の曙になったといわれる由縁である。」 (宮崎学著 『現代の奈落』)
 米騒動での起訴者は7.776名に及びます。そのうち予審を経由せずに公判もしくは略式命令の請求手続きが取られた者が1.536名。5.985名が公判に付されます。
 起訴者のうち878人が被差別部落出身者で、大審院で死刑が確定し、執行された2人もそうです。政府は扇動者がいたと事件の本質から矛先をそらすことに懸命でした。

 松山巌著 『群衆』 (中公文庫) に面白いデータが紹介されています。
 米騒動後、司法省は全国の控訴院検事長と各地方裁判所検事正に、被告たちの年齢、職業、教育程度、生活程度に関する調査を命じ、報告させました。
 活調査は、7.013名を対象に5段階に分けました。
  1、安全なるもの          150名
  2、稍(やや)裕(ゆたか)なるもの 559名
  3、余裕なきもの         2.482名
  4、窮迫なるもの         3.243名
  5、極端なるもの          579名
 それなりの収入があった階層が急激に生活のゆとりを失って参加したと分析されました。
 8月11日から16日まで大阪府下で検挙、検束された1.795名を職業別にみると、職工397名、無職348名、仲仕117名、日雇83名、農業80名、土方77名、鍛冶職69名などの順になっています。
 賃金が下がったり失業した労働者、日雇労働者、利益の薄い職業が大半を占めています。

 職を失った民衆は都市に押し寄せました。18年の東京の人口は14.5%急増し、その後も増加を続けます。急増の理由は第一次大戦による成金景気です。その後も増加が続きますが生活困窮者の都市流入です。
 20年、米騒動後の民心の動向を把握するため国勢調査が実施されました。その結果、東京市人口217万余人のうち、市内で生まれた者は92万余人、外から移入してきた者125万余人という実態が明らかになりました。労働力の流動が加速し、地域や組織の共同体の解体が進んでいました。

 25年、国勢調査と一緒に失業統計調査が実施されます。その後は毎年失業統計調査が実施されます。調査は労働者を、給料生活者 (雇用関係が形成されている事務職労働者)、日雇労働者、その他の労働者と3区分します。

 この頃はこれ以外にもたくさんの調査が行われています。


 では、第1回調査委ではどのようなことが行われたのでしょうか。
 15年10月18日の毎日新聞に 「第1回国勢調査の資料公開 石巻の男性保管」 の見出し記事が載りました。
「各世帯が記入する申告書 (A3サイズ) をはじめ、内閣から調査員への委嘱状や調査員必携、調査員へ贈られた記念章とメダルなど資料は10点ある。京都府山科村 (現在の京都市山科区) で調査員を務めた人物が所持していたとみられる。・・・
 調査項目は氏名、世帯での地位、性別、生年月日、配偶関係、職業と地位、出生地、国籍の八つ。申告書には 『誕生の年も明ならぬ者は、見込の年齢を凡 (およそ) 何歳と書き入れること』 などと注意書きがある。
 (所有者の) 佐々木さんは 『国の初めての本格的な調査。内閣が主導し、メダルまで贈られたことからも国の力の入れようが分かる』 とみる。」
 家族の実態と、それ以外では職業と地位、出生地、国籍の動向が知りたかったようです。


 調査内容はその都度少しづつ違います。
 戦後、作家の大江健三郎は 『ヒロシマノート』 で、国勢調査に被爆者の状況調査の項目を加えろと提案しました。しかしおこなわれませんでした。被爆者についての政府によるちゃんとした調査は今までありません。存在を過少にしか認めたくないのです。
被爆者認定をめぐる訴訟は今も続いています。


 今回の国勢調査は外国人も含め、日本に住むすべての人を、世帯を対象に実施されます。世帯員の就業形態、持ち家か賃貸住宅かといった 「住居の種類」 などの質問があります。しかし 「世帯主との続き柄」 を選択する際、同性同士のカップルは 「配偶者」 と認められません。管轄する総務省の見解は 「他の親族」 に集計されます。その一方、異性の事実婚のカップルの場合は法律婚と同様に集計されることになるのだそうです。
 今回の国勢調査には、当事者や識者からは 「実態が正確に把握されず、国勢調査の意味をなさない」 と批判の声が上がっています。LGBTの団体はカップルも世帯として認めろと要請しました。

 コロナ禍における給付金においても申請は家族単位で振り込は世帯主にたいして行なわれました。政府にとっては 「家制度」 が期待する姿、理想のようです。
 家族単位での「自己防衛・自己責任」の強制が政府の政策です。遺産相続は 「家制度」 でのみ認められます。
政府は、データづくりが目的です。コロナ禍において数値の動向を眺めていたのと同じです。人びとが何に不安や恐怖をいだいていたのかについては関心がありません。
 国勢調査のデータは ”支配管理” のためのもので、人びとの関与できないところで使用されます。

 「活動報告」 2020.9.1
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トヨタの人事制度は“恫喝”
2020/09/04(Fri)
 9月4日 (金)
 トヨタ自動車のコマーシャルをテレビで見ていると怖くなります。俳優・歌舞伎役者の香川照之を起用していますが、「トヨタは休みません・・・」 トヨタは労働者を人間と見ていません。ゆとり、休息が与えられません。それでも人間はたえず進歩する、会社は労働生産性を向上させることができているといいます。機械でいうなら油をさす時間も止まりません。それで本当に生産性は向上しているのでしょうか。
 仕事中ゆとりがないということは、研究、思考は仕事以外の時間にしろということです (かつては 「QCサークル運動」 が問題になり、過労死も発生しました)。心身が26時間会社に拘束されます。会社人間を超えてロボットにされています。
 それがあたかも素晴らしいことのように感化されてしまいます。
 会社は、賃金制度で個々人に対する成果主義の方向を示しました。最近は、評価項目として 「行動」 「貢献度」 に 「役割」 を加えた制度も 「成果主義」 と呼んだりしていますのでまだその内容はわかりません。
 労働者にとって成果主義は 「短期の成果ばかりが評価される」 「評価基準が曖昧」 と映ります。仕事のやりがいや動機づけを失わせてしまいました。
 香川は、ドラマ 「半沢直樹」 での役は、他者を利用して最後は蹴落とし 「成果」 を独り占めして出世しようと暗躍します。しかしそれが発覚しても追放にはなりません。舞台となっている銀行は土台が腐っています。


 8月27日、マスコミは 「トヨタ 一律定昇見直し 成果主義賃金へ」 と報道しました。会社は2021年に導入したい考えで、労組は9月30日に予定している定期大会で、経営側の提案を受け入れる方向です。
 方向性は今年の春闘交渉でが明らかにされていたので驚くことではありませんが、会社のコマーシャルはそのための地ならしでもあったのでしょう。財力がある会社と、会社に刃を抜かれた労働組合相手にして、労働者は立ち向かうすべが見つかりません。


 1月10日の 「活動報告」 の再録です。
 トヨタ自動車グループの労働組合でつくる全トヨタ労働組合連合会は1月10日、中央委員会を開催して2020年春闘の方針を決定しました。
 昨年に続き、定期昇給も含めた賃金の総額を重視し、ベースアップについては実質3千円以上を目安にします。一時金 (ボーナス) は5カ月以上を要求します。また、人手不足が問題となっているなかで非正規雇用の組合員の賃上げを本格的に要求します。
 総額を重視とは、具体的には、基本給の底上げのためにあててきた原資を個人の評価に応じて5段階にわけて配分する新たな賃上げ制度です。「改善分 (ベア) で全員一律に賃金を引き上げる必要性はよく考えていかないといけない」 という経営側の発言をくみとり、横並びの賃上げ手法について見直すことにしたといいます。
 労組によると、これまでも5段階の人事評価に基づいてベアに差が出る仕組みではありました。その人事評価に応じてベアの幅に差をつけて配分する案が有力です。会社は 「頑張った人に報いるべく、さらにメリハリを付けるような制度の検討をしている」 (幹部) と説明しています。その結果、中堅クラスで人事評価が低い社員だと、ベアがゼロになる可能性もあるといいます。別の幹部は 「ベアゼロを作りたいわけではなく、メリハリを付けた結果、そうなるかもしれない」 と話します。
 ベアは、社員の職務や勤続年数で決めている賃金表を書き換えて賃金水準を一律に引き上げる制度で、年功序列や横並びを前提として極端な差をつけません。
 しかし全トヨタ労組は今春闘において労働組合の方から格差を拡大する方向性を了解しました。賃金という労働者の生活基盤を不安定にする危険性がある制度を簡単に受け入れる労組は、労働組合をどう捉え、誰のための労働組合と位置付けているのでしょうか。「御用組合」 と言われて久しいですがその労働組合の役割も失っています。
 戦時中、労働者は国策に応じて大日本産業報国会に組織されました。低賃金でも耐え抜けたのは、誤解を恐れずにいうならば、「貧しさの ”平等”」 があったからです。それが戦後には職務に関係ない賃金アップ要求につながっていきます。一部の企業では成果主義が導入されましたが、それで 「国力 (戦力)」 は強化されませんでした。


 労使ともに、前からこのような制度を目論んでいる徴候はありました。
 会社は勤続年数などに応じた全員一律の賃上げの必要性に否定的な考えを示していました。昨年の春闘では妥結したベアの平均額を公表しませんでした。
 労組は、賃金の総額を重視する方針に転換しました。平均1万2千円の賃上げを要求しましたが会社と歩調を合わせてベアの平均額を一般組合員にも公表しませんでした。それまでの組合員1人ひとりの 「カイゼン」 に取り組む姿勢を評価し、賃上げの総額重視の色合いを強めるためと説明しました。
 春闘交渉の最終局面で豊田章男社長は 「今回ほど距離感を感じたことはない」 と危機感を煽り、変わらなければならないと力説しました。自動車業界は変革期を迎え、電動化や自動運転など次世代技術の競争が激しいなかで、賃金にメリハリを付けることで競争力向上につなげるのが狙いだといいます。社内の労働者同士の競争が世界での競争力向上につながるということです。
 また、経営側はこれまでの一時金の年間妥結を拒否し、冬分については10月の秋交渉での決定に持ち越しました。
 労組は経営側と危機感の共有に応じました。
 グループ企業などにトヨタのベアにとらわれない議論を促したいとも説明しました。


 8月28日の日経新聞です。
「トヨタ自動車は定期昇給について、一律分をなくし評価に応じて昇給幅を決める方向で労働組合と最終調整に入った。9月30日に予定している定期大会で、労組が受け入れるか正式に決定する。同意が得られればトヨタは2021年から新制度を導入する。日本の製造業の代表格であるトヨタが成果主義へのシフトを加速し、同様の動きが広がりそうだ。
 トヨタ社員の基本給は大きく分けて、職位に基づき一律の 「職能基準給」 と、個人の評価に基づく 「職能個人給」 で構成される。新制度では考課による反映額を拡大するため、一律的な昇給分をなくし、評価に基づく 「職能給」 に一本化する。
 人事評価は4~6段階とし、低い評価を受けると定期昇給が0になる可能性もある。従来は年齢や勤続年数によって資格が上がる傾向が強く、今回、一律的な昇給を廃止することで社員のやる気を喚起する狙いがある。
 会社側は制度設計や昇給水準の詳細を検討するため、今年の春季労使交渉以降、労使専門委員会を複数回開いて労組側と議論。労組も組合員に説明し、理解を得てきた。」
 これまでは賃金に占める 「職能基準給」 は約5割を占め、評価で決まる 「職能個人給」 が約3割から5割でした。これを今後は 「職能個人給」 1本にするという提案です。


 トヨタのやり方は計画的で巧妙です。
 2020春闘では、ベアは7年ぶりにゼロゼロ回答でした (賃上げは平均8600円)。「官製春闘」 が始まった14年以降はベアを続けていましたが政府の働きかけがなくなったらゼロです。いかにも政府の指導は迷惑だった、今後は独自路線を貫徹するという表明です。経団連の意向も無視し、日本のトヨタではなく、「世界のトヨタ」 という意思表示です。
 この時点で新型コロナウイルスの感染拡大はまだ問題にはなってなくて、業績は20年3月期の純利益予想は2兆3.500億円で、過去最高の18年3月期 (2兆4.939億円) に次ぐ高水準でした。

 会社はベアゼロとする理由を2つ挙げました。
 「激しい競争や厳しい経営環境のなか、いかに雇用と処遇を守るか悩んだ結果」 (河合満副社長) だといいます。しかし激しい競争や厳しい経営環境は経営陣の常套文句です。今だけではありません。
 もうひとつが 「高い水準にある賃金を上げ続けると競争力を失う」 です。労働者は高い賃金に安住すると働く意欲を失う、危機意識を持たせると働かざるをえなくなるという考えです。
 いずれも方向性は違いますが、労働者に危機意識をうえつけることが目的で、共通するのが精神論を叩きこむ恫喝です。


 しかしこの露骨な成果主義の導入はうまくいくでしょうか。
 そもそも、製造業の現場労働者にとって個人ごとの成果主義とはどういうことをいうのでしょうか。
 労働者は職務、職場、工程のなかでの担当を選べません。職務はマニュアルに規定されています。トヨタでは作業における足の位置まで指定されています。そのような中でどのように成果を発揮するのでしょうか。
 かつてのQCサークル運動は、文字通りのサークルというグループごとの成果を競い合いました。グループ内ではお互いに監視し合いプレッシャーをかけます。そして、サークル活動は業務ではないということで時間外手当は支払われないサービス残業の強制でした。
 今回導入の成果主義は、サークルと個人の違いはあっても本質は同じです。むしろ個々人がバラバラにされて管理・監視されます。
 評価基準は 「貢献 (度)」 です。貢献は 「どう気に入られるか」 です。その競争です。
 「貢献 (度)」 の評価はだれがするのでしょうか。直属の上司もライバルです。所属している部署の成果は上司のものです。ライバルである部下の評価を上げることは自分の 「成果」 への評価に結びつきません。部下と上司の成果の奪い合いが生まれます。コミュニケーションは生まれません。
 ぎくしゃくした職場では本物の成果、生産性が大きく向上することはありません。本来の会社の目的は達成しません。

 日々の労働者の力量に大きな差はありません。あるのは生まれ持つ体力と年齢によるその減少です。そのような中で1人ひとりの 「生産性 (量) を高める」 のがサービス残業です。トヨタでは、残業をしなくても月45時間分の時間外手当がつきますが、逆な言い方をすると45時間を超える残業が恒常化していて、それを超えた場合、請求は憚れるということです。時間が長いだけでは本物の生産性は上がりません。
 しかし時間を無視した生産性の向上は、さらにハードルを高くした目標が設定されます。さらにサービス残業が増えます。

 年功序列賃金は、労働者は経験を積むごとに技能・技術は熟練にむかい本物の生産性が向上するから定着していました。そして役割も増し、部下への指導・伝達も惜しむことなくできます。
 しかし、自動化・マニュアル化が進む中では一部の部署・部門以外では熟練技術は重視されません。それよりも必要なのはスピードです。年齢による体力の減少があっても許されません。はっきり表れて来た時には戦力外通告です。その時に会社が持ち出す理由が 「若い層からの不満」 「頑張っているものを評価する」 です。この思考は、「今」 の業績を大切にしますが労働者の将来は “自己責任” を強制します。
 年功序列賃金は、若年労働者のときは低賃金で我慢した分、高齢者になったらその見返りを受けとれるという制度でもありました。しかし戦力外通報・排除は、いわばその途中での使い捨てです。

 成果主義は、導入した企業では何度も問題が発生し、修正が繰り返されてきました。しかしうまくいっているためしがありません。
 理由は、個人主義をはびこらせ、一部の抜きでたもの登場させてもコミュニケーションが成立しなくなり総合力を発揮させることを阻む要因になるからです。生産性は高まりません。
 経営者は、労働者を管理しやすくなるといいますが、労働者は“生身の人間”であることを無視して危機感を煽って精神論をぶちます。
 そしてその失敗は、経営者ではなく、労働者の “やる気のなさ” のせいにします。
 労働組合は、もう一度、労働者の長期の安定した生活保障に目を向けるべきです。

 「活動報告」 2020.1.10
 「活動報告」 2019.10.18
 「活動報告」 2019.4.12
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追悼は過ちを繰り返さないという現在・未来への誓い
2020/09/01(Tue)
 9月1日 (火))

 毎年、9・1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典実行委員会は、東京・横網町公園で追悼式典を開催しています。
 しかし昨年12月、東京都は、今年の追悼集会開催の申請に際して 「公園管理上支障となる行為は行わない」 「(拡声器は) 当該参加者に聞こえるための必要最小限の音量とする」、守られない場合は中止を含む都の指示に従う、次年度以降、許可されなくても 「異存ありません」 などの条件遵守を求める 「誓約書」 の提出を要求してきました。
 理由は、長年問題もなく続けている追悼式典のすぐ近くで、2017年から虐殺を否定する団体が同時刻に集会を開催するからです。都が、妨害する団体が集会を開催することを理由に双方に 「誓約書」 の提出を要求するのは、この団体と一緒になって集会を妨害し、これを契機に式典を縮小・中止させようとする意図が見え見えです。
 しかし抗議の声が高まり、7月末、「誓約書」 の要求を取り下げ公園占有許可を出さざるを得ませんでした。

 また、歴代の都知事は追悼集会に追悼文を送ってきましたが、2017年から小池都知事は取りやめました。
 その理由を担当する都建設局は、都慰霊協会の主催で関東大震災の犠牲者全体を追悼する行事があり、知事が追悼の辞を寄せていると説明しています。しかし虐殺された朝鮮人、中国人は関東大震災の災害で亡くなったのではありません。デマに煽られた軍隊、警察官や自警団などによって虐殺されたのです。虐殺された人たちへの追悼は、同じ歴史をくり返さないという自戒の誓いを込めたものですが、小池都知事はそれを拒否したのです。サイレンスのヘイトスピーチです。


 追悼式典の主催者側は 「虚偽の主張とヘイトスピーチを叫び、妨害されている」 などと訴えてきました。
 都の 「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」 は、ヘイトスピーチが行われる蓋然性の高い集会が行われる場合、公園の使用制限に関する基準を設けています。
 8月3日、条例の審査会は、情報提供された昨年のこの団体の集会について3つの文言をヘイトスピーチに認定し、表現活動の概要等を公表しました。
 その全文です。
「条例」第14条の規定により設置する審査会 (以下 「審査会」 という。) の意見を踏まえ、以下のとおり条例第12条の規定に基づき表現活動の概要等を公表する。
 1 表現活動の内容
  令和元年9月1日、東京都墨田区内の集会における以下の言動
  「犯人は不逞朝鮮人、朝鮮人コリアンだったのです。」
  「不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦
  された多くの日本人たち」
  「その中にあって日本政府は、不逞朝鮮人ではない鮮人の保護を」
 2 都の対応
   上記1.について、条例第12条第2項の規定に基づく申出を受け、これらの表現は、不逞
  朝鮮人という言葉を用いながら、本邦外出身者を著しく侮蔑し、地域社会から排除することを
  煽動する目的を持っていたものと考えられる。
   また、当該発言がなされた日時、場所、その他の態様等に照らせば、別の集会に対して挑発
  的意図をもって発せられたものであって、その表現内容も朝鮮人を貶め、傷つける差別的表現
  であることから、本邦外出身者に対する不当な差別的言動に該当すると認められるため、適切
  な措置をとるべきとの審査会の意見を聴取した。
   条例第13条第1項の規定に基づき、審査会の意見を踏まえ、都としては、上記1.の表現
  は、条例第8条に規定する本邦外出身者に対する不当な差別的言動に該当する表現活動で
  あると判断した。
   都は、条例第12条第1項の規定に基づき、本件公表を行い、このような本邦外出身者に対
  する不当な差別的言動はあってはならないものとして、その解消を推進していく。


 1923年9月1日、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の大地震・関東大震災が発生しました。ちょうど昼食の準備で火を使っている時間帯だったため、あちらこちらで火災が発生し首都圏に大きな被害をもたらしました。死者・行方不明者は10万人、罹災者は340万人におよびました。
 関東大震災が発生すると1日の午後には 「不逞鮮人」 への流言飛語が飛び交い始めます。そして朝鮮人への虐殺が始まります。
 2日、山本内閣は戒厳令を出します。
 3日、内務省警保局長が各地方長官あて、「朝鮮人暴動に対する厳重な警戒を要する」 と指示します。各地に自警団が結成されます。
「9月5日、山本権兵衛内閣は一転して事態の収拾を図るべく、朝鮮人への迫害を諫める告諭を発した。取り締まりは軍隊・警察が行うため、『民衆水から濫に鮮人に迫害を加ふるが如きこと』 を戒める内容だった (『現代史資料』 6)。告諭中に 『諸外国に報ぜられて決して好ましきことに非ず』 とあるように、海外からの批判を回避することを視野に入れた方針転換であった。告諭と同時に、地方長官に対して流言を流布する新聞記事の差し止め・指し押さえを命じた。」
 虐殺者の数は6000人にのぼるといわれています。実態はわかりません。遺体は焼かれたり埋められたりして、殺害の証拠が隠蔽されています。
 しかし 「朝鮮人が暴動をおこす」 という流言は実態のない想像上の産物でした。


 なぜ朝鮮人の虐殺が起こったのでしょうか。最近刊行された藤野裕子著 『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』 (中央公論新社刊) を参考に探ってみます。
「これまでの研究では、日本国内での朝鮮人に関する報道が、3.1運動を機に変わったことを指摘している。
 3・1運動をきっかけに、あるべきでない反抗的な行動を表す 『不逞』 という語が 『鮮人』 の語と結びつき、『不逞鮮人』 というフレーズが普及したのである。1918年以前には新聞記事の見出しに 『不逞鮮人』 の語は使われていなかったが、1919年4月から関東大震災までの間に約120件に増加したことが指摘されている (金富子 『関東大震災の 「レイピスト神話」 と朝鮮人虐殺』)。これにより、よからぬことを企んでいるイメージ、現代風にいえば 『テロリスト』 のイメージが、朝鮮人と結びつけられた。」

「関東大震災に治安維持を担うトップにあった人物は、3・1運動直後に朝鮮統治にのぞんだ当事者であり、朝鮮人の反乱を強烈に意識した統治経験があった」
 10年の日韓併合は日本による朝鮮の植民地化です。土地調査により所有者が不明な土地は没収すると称して土地を奪い、人びとを路頭に惑わせました。その人たちが日本に渡って各地に住み着いていました。
 18年、全国で米騒動が起きます。シベリア出兵という国策が打ち出されていた時に、全国規模で群衆が国策に異議を打ち出した行動でした。
 19年3月1日、日韓併合に反対して朝鮮全土で独立運動が起きました。運動を鎮圧するために日本政府は残虐な行為を繰り返しました。当時の朝鮮総督府政務総監が水野錬太郎、3・1運動後の朝鮮総督府の警務局長が赤池濃、朝鮮の一九師団の師団長が石光真臣でした。
 大震災の時、戒厳令を施行する決定をした内務大臣が水野、警視総監が赤池、第一師団長が石光でした。
 だから震災が起きると、この機を利用して日韓併合に不満を持ち、3・1の鎮圧に抗議する朝鮮人が暴動をおこすだろうと勝手に連想したのです。政府も軍隊も自分らが行った行為が反撃を受けると恐怖に襲われていたのです。そのため異分子を先に抹殺することでしか自分らの安心を保障できないのです。
 そして民衆の政府に対する不満と不安のはけ口を朝鮮の人たちに向けさせたのです。

 虐殺事件に対する裁判において、公権力による殺害は不問に付されます。
 朝鮮人を殺害した罪で被告になったのは自警団などの民間人だけです。10月になると東京で自警団の一斉検挙が始まります。ただし、実際に殺害に携わった人数は多かったにもかかわらず、裁判にかけられたのはごく一部でした。さらに判決では懲役2、3年のものが多く、執行猶予がつく場合も多くありました。

 しかし、朝鮮人と間違えられて日本人が殺された福田村事件の裁判では懲役10年の実刑が言い渡されました。
 9月6日、千葉県東葛郡福田村 (現野田市) では、香川県三富郡の被差別部落から行商に来ていた一行15人が利根川を渡って茨城県に行くため渡し船に乗ろうとしていて船頭と言い合いになりました。船頭が 「どうもお前たちの言葉づかいが日本人でないように思うが、朝鮮人と違うか」 と言い出しました。半鐘が鳴らされ、自警団が押し寄せると 「君が代を歌え」 「15銭50銭と言ってみろ」 と迫ったりします。このような中で9人が虐殺されます。
 襲った側は8人が逮捕されました。福田村では各戸から弁護費用のための金を集めます。結局は昭和天皇の即位で恩赦になります。さらにその後、中心人物は後に村長になります。
 一連の騒動においても、朝鮮人を虐殺したら軍隊・警察は放免、民間自警団は懲役2、3年で執行猶予付き、日本人を虐殺したら懲役10年です。
 この事件は隠され続けました。事件現場近くの円福寺・大利根霊園内に慰霊碑が建立されたのは2003年9月6日です。


 埼玉県南部に住んでいた朝鮮人は中山道沿いに警察に保護検束されて県北に連行されます。その途中、各地で虐殺が行われました。今、事件の掘り起こしが続いています。
 掘り起こされた記録を丁寧に読んでいくと、これまで気付かなかったことが浮かび上がってきます。4日に熊谷で大量虐殺が行われるまで虐殺は起きていません。
 4日、本庄では群衆が朝鮮人を保護していた警察署を襲います。署員は群衆と “対峙” して保護しようとしますが最終的に逃げ出します。88人が虐殺され、署は焼打ち寸前のところを軍隊の力を借りて防ぐことができました。藤岡では自警団が藤岡署を襲撃し、保護されていた16人を虐殺しました。
 6日、寄居町では警察が保護した1人を群衆が襲いました。駅前近くのお寺に墓石が建てられていますが、今も命日には警察関係者お参りをするといいます。児玉町でも1人が虐殺されました。後に 「児玉警察署員一同」 で供養塔が建てられました。
 深谷でも1人が虐殺されました。地元の住職によって丁寧に葬られています。
 自警団・群衆から警察署が襲われています。そして虐殺された朝鮮人の慰霊碑を警察官が建立したり、お参りをしています。ここにはまだまだ “隠されている事実” があります。


 では自警団・民衆はなぜ朝鮮人虐殺に及んだのでしょうか。
 日韓併合で土地を奪われた朝鮮の人たちは日本に渡ります。日本人の労働者階層には、安価で雇われる朝鮮人労働者に仕事を奪われているという敵愾心が生まれていたといいます。
 軍体、警察はデマを流したうえに自警団が殺害を行うことを許可します。自警団・民衆は自分たちで危険から守ろうという思いになります。そして徹底した虐殺は報復の不安を防ぎます。
 一方、民衆は朝鮮人に矛先を向けるよう扇動されますが、政府、警察官に対して大きな不満を抱いていました。それが公然と警察署を襲う行為になったのです。民衆は国家権力に対して信頼を寄せていませんでした。その具体的状況が埼玉では起きました。


 虐殺はいたるところであったわけではありません。千葉県船橋市丸山では地域が一体となって朝鮮人をかくまい引き渡しませんでした。東京都南多摩郡日野町・七尾村では起きませんでした。神奈川警察署鶴見分署長は、自警団や群衆から殺害されるおそれのあった朝鮮人・中国人らを署に保護し、1000人以上の自警団らの前に立ちはだかり説得します。


 18年、全国で米騒動が起きます。京都に波及した米騒動はその後の全国的な高揚の口火を切ります。
「京都の米騒動は部落にはじまり、部落を中心に拡大したのが特徴である。そして、その主体となったのは、部落の貧困層であり、彼らをひっぱったのは、おもに 『入り人』 つまり流入部落民であった。……それまでの共同体秩序にしばられない流入者がひっぱり、貧困層がその秩序を乗りこえたのだ。差別を重層的に組み込んだ分散共同体の秩序は、こうして風穴が空けられた。米騒動が部落解放の曙になったといわれる由縁である。」 (宮崎学著 『現代の奈落』)
 米騒動での起訴者は7.776名に及びます。そのうち予審を経由せずに公判もしくは略式命令の請求手続きが取られた者が1.536名。5.985名が公判に付されます。起訴者の内878人が被差別部落出身者で、大審院で死刑が確定し、執行された2人もそうです。政府は扇動者がいたと事件の本質から矛先をそらすことに懸命でした。

 捜査、取り調べ、裁判判決は、国籍、官民、身分でここまで違えられます。

 1920年、民心の動向を把握するため日本ではじめて国勢調査が実施されました。米騒動の後、検察は警察と一体となるべき民間組織を作り上げていきます。この頃から互助組織の社会が破壊され、縦型の組織に再編されていきます。自警団はまさにそのような組織です。


 今、各地で起きているヘイトスピーチの根底にあるものと似ています。
 閉鎖社会、分断社会における自己責任は脱出口を見つけることが大変です。解決策にはならないと知っていても不安を弱者に向けていきます。そして暴力に走ります。
 同じようなことがアメリカ社会でも起きています。
 9・1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼は、追悼は忘れることなく過ちを繰り返さないという現在・未来への誓いです。事実の発掘は未来への警鐘です。

 「活動報告」 2017.8.29
 「活動報告」 2013.9.3
 「活動報告」 2011.9.6
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「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大切だ)」
2020/08/29(Sat)
 8月29日 (金)

 8月23日、アメリカ中西部ウィスコンシン州ケノーシャで、車に乗り込もうとした黒人男性ジェイコブ・ブレークさんが背後から7回にわたり警官の発砲を受けて重体となる事件が発生しました。命に別状はないが、再び歩けるようになるのは難しいといます。後部座席には男性の子どもが座っていました。
 5月25日に中西部ミネソタ州で、黒人男性ジョージ・フロイドさんは白人警官に8分以上にわたって膝で首を押さえつけられて死亡しました。ブレークさんの事件は、この虐殺事件に対する抗議運動がおさまっていないなかでおきました。
 ふたたび全国で、さまざまな人々による抗議行動が続いています。


 日経新聞から5月以降の状況をみてみます。
 抗議デモは事件から1か月過ぎても続き、50州の2000都市以上に広がりました。200都市以上で夜間外出禁止令が出され、1968年に起きたキング牧師の暗殺事件以来の規模となっているといいます。

 現在の状況が60年代の公民権運動に重なるとみる人は多くいます。
 6月2日、リンカーン記念堂の周囲で、デモの参加者たちはその場に立って抗議しようとするのを州兵 (ナショナルガード) が阻止しました。それならばと参加者はその場に座ります。「キング牧師なら、正義が水のごとく流れ、大義が奔流になるときまで (続けよう)、と言うだろう」 と。
 ホワイトハウス前にも大勢の人が集まり、夕方には身動きが取れないほどでした。デモ隊の中には 「トランプ (大統領) とペンス (副大統領) は去れ」 と書かれたステッカーを服に貼った人が目立ち、「トランプ大統領よ、いいかげんにしてくれ」 といったプラカードを掲げる人もいました。

 6月5日、プロアメリカンフットボールリーグ (NFL) のコミッショナーのロジャー・グッデル氏は、Twitterに投稿した動画で 「私たちNFLは、人種差別と黒人に対する組織的な抑圧を強く非難します」 と声明を発表しました。そして 「私たちNFLは、NFL選手たちの言葉に耳を傾けなかったことが間違っていたと認めます。そして全ての選手が抗議の声をあげ、平和的に抗議することに賛同します」 「私たちは Black Lives Matter を信じています」 と述べました。
「私たちは耳を傾けます。NFLファミリーがもっと良くなり団結するためにはどうしたらいいのか、どうすれば我々がもっと良くなり前に進めるのか、私は声をあげた選手や他の選手の声を聞きたい」
 グッデル氏の投稿の前日に、複数のNFLの選手たちがNFLに対し、リーグとして人種差別と警察の暴力にはっきりと抗議するよう求めていました。「一体何度、選手の声に耳を傾けてと言わなければならないのでしょうか」 「我々の一人が、警察に殺されなければいけませんか?」 と、選手たちは動画で訴えました。

 16年、サンフランシスコ49ersのコリン・キャパニック選手は人種差別と黒人に対する警察官の暴力に抗議するため、試合前の国歌斉唱中にひざまずきます。この抗議は賛否両論を呼びますが、多くの選手がキャパニック氏のひざまずく抗議に続きました。
しかしNFLは選手たちの抗議活動を支持せず、18年には国歌斉唱の際にひざまずくことを禁止。違反した場合には処罰を課すとした。
 キャパニック氏は、フロイドさんの死に対する抗議活動に支持を表明しています。

 6月6日、抗議デモは首都ワシントンで一段と大規模化しました。繰り返す黒人差別による悲劇を非難し、人種による米社会の分断をいとわないトランプ大統領に怒りの声をあげました。抗議の声は格差の解消などにも広がっています。経済不安が人々の不満を増幅させています。
 底流には、富裕層への富の集中などもあります。カリフォルニア大バークレー校の研究によると、米国の全所得に占める上位1%の超富裕層の割合は年々上昇し、約2割にも上ります。一方で、下位50%の割合は低下し、全体の1割強にとどまっています。

 大規模デモには2つの特徴があります。一つは白人の参加です。
 メリーランド大学のダナ・フィッシャー教授らは、6月6日の首都ワシントンでの抗議デモ参加者のうち白人は65%を占め、黒人 (15%) を大きく上回ったと分析します。ニューヨークやロサンゼルス、英ロンドンでも同様の傾向が見られました。
 2014年に起きた白人警官による黒人青年の銃殺事件などを受け、リベラルな白人が人種問題に意識を高めていたといわれます。トランプ大統領への反発もあり、デモへの参加が増えたとみられています。
  スタンフォード大学のダグラス・マクアダム教授は、60年代の公民権運動で白人は主に資金支援の役割を担ったと指摘し 「実際のデモへの参加は極めて少なかった」 と語ります。63年のワシントン大行進は8割程度の参加者が黒人でした。マクアダム氏は、14年8月9日のマイケル・ブラウン銃殺事件後のデモも 「参加者は主に黒人だった」 と指摘します。
 18歳の黒人青年マイケル・ブラウンは、ミズーリ州ファーガソンのコンビニで白人警察官が発射した10発の銃弾で射殺されました。翌日から抗議行動が断続的につづきました。警官に対しては非公開審理が行われ、11月24日、大陪審は不起訴を決定します。

 もう一つの特徴が若者の参加です。米ピュー・リサーチ・センターによると、18~29歳の13%がデモに参加。30~49歳 (7%) や50~64歳 (4%) を上回っています。フィッシャー教授の調査でもデモ参加者の平均年齢は、ワシントンで30歳、4人に1人が23歳以下だったといいます。SNS (交流サイト) も利用して参加が一気に増えました。
 人種や世代を超えて差別根絶に向けた機運が急速に高まっています。
 SNSの活用が参加者を増大させています。

 政界では、議会で与野党がそれぞれ独自の警察改革法案を提出しました。民主党は警官を訴訟から守る免責の範囲を狭める条項を設けましたが共和党は反対しました。首締め行為についても、民主党が全面禁止を盛り込むのに対し、共和党は禁止しない州に補助金を減らす制度の創設にとどまっています。事件が起きたミネソタ州の議会でも与野党が折り合えず、警察改革は棚上げになった。
 トランプは抗議デモを 「極左」 の行動とレッテルを貼り続けています。その一方で、平和的な抗議デモ参加者全員の味方だと主張しています。
 しかし、大統領自身の脅しや行動が暴力をあおっているとの批判があります。
 軍国化を進め、報道機関を標的にし、合衆国憲法修正第1条 (言論や平和的な集会の自由、苦情対応を政府に申し立てる権利を保証する) を脅かしているとも批判されています。


 8月の事件で黒人差別に抗議するデモは再び熱を帯び始めています。
 「トランプは今すぐ出て行け」 「トランプは反逆者だ」。8月27日夜、トランプ大統領の演説が行われたホワイトハウスの周辺で人種差別に反対するデモ隊が集結し声をあげました。トランプ氏に人種差別的と受け取られかねない言動が目立つことに反発する人々です。「Black Lives Matter」 のスローガンを連呼し、駆けつけた警官隊とにらみ合いました。
 事件の様子がSNSで拡散すると、ケノーシャでは警官の暴力に抗議するデモが発生し、施設の破壊や放火も起きました。デモ隊や市民が自らを守るために武装しているのが目立ち、治安が悪化しているといいます。
 25日には2人が死亡、1人が負傷する銃撃が起き、警察は17歳の少年を逮捕しました。ウィスコンシン州は非常事態宣言を出し、混乱収拾に向けて州兵を動員しています。
 抗議デモは現地から離れたニューヨークやロサンゼルスにも広がりました。

 黒人男性への発砲事件を受けて、米スポーツ界でも反発や抗議の波が広がっています。27日、事件への抗議の意を示すため大リーグの7試合が中止となりました。黒人選手が多いプロバスケットボールNBAもプレーオフの試合の延期が続き、プロフットボールNFLでは練習を中止するチームが相次ぎました。

 抗議行動を受け、人種や警察改革を巡る問題が大統領選の大きな焦点に浮上しています。
 民主党の副大統領候補、ハリス上院議員は27日、ケノーシャの発砲事件に触れて 「見るに堪えない。(悲劇を) 終わらせなければならない」 と訴えました。
 民主党は首絞め行為の禁止をはじめ、警察の実力行使を規制する厳格な全米基準を構築すると公約しています。
 一方、トランプは27日の演説で黒人差別への反対デモの一部が暴徒化していることを非難し、「常に法と秩序が必要だ」 と訴えました。警官の数を増やし、警官に対する暴力行為を行った人物への罰則を厳しくする方針を打ち出しています。
 トランプは 「ジョー・バイデンが権力を持てば極左勢力が警察予算を減らす」 とも主張しています。


 63年8月28日、公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師はリンカーン記念堂で25万人の平和的な聴衆を前に演説をしました。
私には夢がある。いつの日かジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが兄弟として同じテーブルに着くという夢だ

 8月28日、キング牧師が黒人差別根絶を訴えた歴史的演説から57年を迎えました。ワシントンではリンカーン記念堂を演説会場に大規模な抗議デモが行われました。この日の行進は、黒人活動家アル・シャープトン師と、キング牧師の長男、マーティン・ルーサー・キング3世さんが主催しました。
 行進は、「決意の行進:我々の首からその膝を外せ」 と名づけられました。警官がジョージ・フロイドさんの首を膝で8分46秒間抑え続けて死亡させたことに言及したものです。
 デモ参加者は5万人規模に膨れ上がったといわれています。

 集会で、フロイドさんの妹、ブリジット・フロイドさんは 「私の兄は今日、声を上げられません。代わりに私たちがその声になり、変化を推進しなくてはなりません」 と呼びかけました。
 行進にはフロイドさんの家族以外のも、警察によって死亡もしくは負傷した黒人の家族が複数参加。キング牧師が演説したのと同じ場所から口々に人種平等の実現を求めました。

 キング3世さんは、「私の父が 『良心の連立』 と呼んだものが現代によみがえった」 と述べ、「目的と情熱をもって前進すれば、1960年代にあれだけ勇敢に始まった運動を、我々が完成させられる」 と訴えました。
 参加した出版社に勤めるリサ・ムーアさんは党派や世代を超えて差別根絶の必要性が浸透したと指摘。「I have a dreamではなくWe have a dream(私たちには夢がある)になった」 と強調し、公民権運動以降の進歩を語りました。

 「活動報告」 2020.6.5
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